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竹取翁と万葉集のお勉強

楽しく自由に万葉集を楽しんでいるブログです。
初めてのお人でも、それなりのお人でも、楽しめると思います。

万葉雑記 色眼鏡 三一二 今週のみそひと歌を振り返る その一三二

2019年03月30日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 三一二 今週のみそひと歌を振り返る その一三二

 今週もまだまだ巻十四 東歌の鑑賞です。鑑賞した歌の中では東国で採歌されたものですが、中央の柿本人麻呂歌集に関係する歌があります。ないお、今回は歌自体の鑑賞ではなく、歌につけられた左注に注目しています。
 最初に集歌3470の歌を見てみますが、万葉集の左注に「柿本朝臣人麿歌集出也」とありますが、その類型歌の由来となる巻十一に載る集歌2539の歌は柿本朝臣人麿歌集の歌ではなく、無名の人の作品となっています。ここに巻十四での編集と巻十一との編集に矛盾があります。つまり、巻十四を担当した編集者は巻十一に載る集歌2539の歌を人麻呂歌集の歌と考えたようですが、巻十一を担当した人物はそうではなく、柿本朝臣人麿歌集に載る歌とは認めていません。
 なお、集歌3470の歌や集歌2539の歌が詠うテーマと類型していて人麻呂歌集に載る歌を探しますと集歌2381の歌がありますが、本歌取りや類型歌の句分からしますと、やや遠い感があります。雰囲気として集歌2381の歌があり、ここから集歌2539の歌が生まれ、集歌3470の歌はその集歌2539の歌を手本として歌を学んでいた時の紛れの関係でしょうか。それとも、奈良時代後期では集歌2539の歌は人麻呂歌集の歌と云う伝承があったのでしょうか。ここは不明です。

集歌3470 安比見弖波 千等世夜伊奴流 伊奈乎加毛 安礼也思加毛布 伎美末知我弖尓
訓読 相見ては千年(ちとせ)や去(ゐ)ぬる否(いな)をかも吾(あれ)や然(しか)思(も)ふ君待ちがてに
私訳 貴方に抱かれてから、もう、千年も経ったのでしょうか。違うのでしょう。でも、私はそのように感じます。貴方を待ちかねて。
左注 柿本朝臣人麿歌集出也
注訓 柿本朝臣人麿の歌集に出るなり

参考歌 その一
集歌2539 相見者 千歳八去流 否乎鴨 我哉然念 待公難尓
訓読 相見ては千歳(ちとせ)や去(い)ぬる否(いな)をかも我(われ)や然(しか)念(も)ふ公(きみ)待ちかてに

参考歌 その二
集歌2381 公目 見欲 是二夜 千歳如 吾戀哉
訓読 公(きみ)が目を見まく欲(ほ)りしてこの二夜(ふたよ)千歳(ちとせ)の如く吾(わ)は恋ふるかも
私訳 貴方の姿を直接にお目にしたいと思って、お逢いするまでのこの二夜がまるで千年のようです。でも今、私は貴方と恋と云う「愛の営み」をしています。

 次に鑑賞する集歌3481の歌とその参考歌となる集歌503の歌においても、先の集歌3470の歌とその参考歌となる集歌2539の歌と似た関係があります。ただし、ここでの参考歌となる集歌503の歌は確実に人麻呂歌集に載る歌ですので歌の左注に示す注意書きは正しいものとなっています。なお、東国で集歌3481の歌を採歌した時、既に中央で詠われたときのものに比べると、変化が見られます。中央と東国での語調が違うのか、歌が詠われた時代と歌が採歌された時代では20~30年の時の流れがあったと思われますので、時代における語調の変化かは不明です。なお、上代特殊仮名遣いの時代における変化と云う研究からしますと、時代における言葉と語調の変化の可能性を捨てることはできません。
 ここで個人的な感想ですが、集歌503の歌は弊ブログ的には詠いで言葉を省略すると非常に口調の良い和歌と思っています。それに対して集歌3481の歌は原歌表記通りに音読しますと、ややもたもたした口調に感じられます。

集歌3481 安利伎奴乃 佐恵々々之豆美 伊敝能伊母尓 毛乃伊波受伎尓弖 於毛比具流之母
訓読 あり衣(きぬ)のさゑさゑしづみ家の妹に物言はず来(き)にて思ひ苦しも
私訳 美しい衣を藍染めで藍瓶に沈めるように心が沈み、私の妻である貴女を後に置いたまま声も掛けずに出立して来て、後悔しています。
左注 柿本朝臣人麿歌集中出 見上已説也
注訓 柿本朝臣人麿の歌集の中に出(い)ず 見ること上にすでに説きぬ

参考歌
集歌503 珠衣乃 狭藍左謂沉 家妹尓 物不語来而 思金津裳
訓読 玉衣(たまきぬ)のさゐさゐしづみ家(いへ)し妹(も)に物言はず来(き)に思ひかねつも
私訳 美しい衣を藍染めで藍瓶に沈めるように心が沈み、私の妻である貴女を後に置いたまま声を掛けずに出立して来て、後悔しています。

 さらに集歌3490の歌を鑑賞します。この歌は左注に「柿本朝臣人麿歌集出也」と紹介しますが、万葉集には類型歌を含め当該の歌はありません。さらに平安時代中期に成立したと思われる柿本集や柿本人麻呂の歌を積極的に紹介する拾遺和歌集までに捜索の範囲を広げましても、類型の歌を見つけることができませんでした。歌の引用としては江戸時代の「浪華帖仮名巻下 無名氏」の中に見るばかりです。逆に考えますと古筆の手本である江戸期の「浪華帖仮名巻」に採用されていることから見ますと歌が歴代の歌人たちからまったくに無視されたものではないようです。
 一つのわずかな可能性として、歌本来の評価として「つまらない・おさない」とのする意見がありますから、東国の歌人の創作ですが、権威を持たせるために人麻呂の名を使ったかもしれません。

集歌3490 安都左由美 須恵波余里祢牟 麻左可許曽 比等目乎於保美 奈乎波思尓於家礼
訓読 梓弓(あづさゆみ)末(すゑ)は寄り寝む現在(まさか)こそ人目を多み汝(な)を間(はし)に置けれ
私訳 梓弓の末のように末には寄り添って寝よう。ただ今は、人目が多いのでお前を知り合いと恋人の間の中途半端にしているけど。
左注 柿本朝臣人麿歌集出也
注訓 柿本朝臣人麿の歌集に出るなり

 今回は巻十四の中で「柿本朝臣人麿歌集出也」と注意書きを持つ歌を鑑賞しましたが、集歌3481の歌には「見上已説也」とさらに注意書きが与えられ、その注意書きが示すように万葉集中に同じ歌が集歌503の歌の形で載せられています。一方、集歌3470の歌は柿本朝臣人麿歌集の歌ではありませんが、無名歌人の歌として集歌2539の歌が載せられていますから集歌3470の歌と集歌3481の歌とでは扱いに矛盾があります。集歌3481の歌を採歌し、万葉集に載せた人物は他の巻の編集状況を把握していますが、集歌3470の歌を載せた人は他の巻や人麻呂集を十分に把握していない雰囲気があります。
 一方、集歌3490の歌に対しては判定が不能です。現在、柿本朝臣人麻呂歌集の完本は伝わっていません。そのため、集歌3490の歌が柿本朝臣人麻呂歌集に載っていたかどうかは判定が不能です。ただ、平安時代中期には成立していた柿本集には載らない歌ですから集歌3490の歌が柿本朝臣人麻呂歌集に載っていたとしますと、柿本朝臣人麻呂歌集の散逸は相当に早い時期のことになると思われます。
 ここで、弊ブログでは奈良時代に成った原万葉集を骨格とする二十巻本万葉集の成立は古今和歌集の編纂直前頃と考えていますから、紀貫之時代の人たちは集歌3490の歌に付けられた奈良時代の伝承となる「柿本朝臣人麿歌集出也」を十分に認識していたと考えます。また、古今和歌集で採歌した古歌の左注に「ある人のいはく、かきのもとの人まろのうた」と伝承を入れるものがありますから、古今和歌集が持つ勅撰和歌集の性格からしますとある程度の根拠を持たせたと思われますから可能性として平安時代初期までは伝承を裏付ける何らかの柿本朝臣人麻呂歌集が伝わっていたと考えます。
 参考として、紀貫之は葛城の柿本寺(影現寺)に関係する柿本真済僧正の親戚本家筋ですから、紀貫之自身が柿本朝臣人麻呂歌集を持っていた可能は否定できません。ただ、万葉集前期を代表する歌人柿本人麻呂は高市皇子に深く関係する臣下と思われ、弘法大師を継いだ柿本真済僧正は文徳天皇の近臣補佐人の地位にあった人です。このため、政府中枢の藤原氏からしますと、この二人はそれぞれの時代で非常に目障りな有能な人たちでした。柿本真済僧正の死後、彼の直弟子記録が抹殺されたように、柿本人麻呂もまた表舞台から歴史の闇の中へと消されたのでしょう。

 取り止めのない話となっていますが、奈良時代には朝廷に記録として残された柿本朝臣人麻呂の歌、柿本人麻呂自身又は彼の死後に関係者が編んだ柿本朝臣人麻呂歌集、さらに柿本朝臣人麻呂歌集には載せないが柿本人麻呂の歌として知られていた歌や関係者の家に残されていた歌の三つの区分で柿本人麻呂の歌が世に知られていた可能性があります。
そうした時、柿本朝臣人麻呂歌集は私歌集ですから、写本などで伝わる内に載せる歌に増減・異同が生じたと推定します。結果、万葉集編纂過程での柿本朝臣人麻呂歌集による認定漏れや伝本の相違が生まれたのではないでしょうか。
 また、柿本朝臣人麻呂歌集でも集歌503の歌と集歌3481の歌との関係の様に、伝わる間に語調や言葉が時代に合わせるように変化したでしょう。ちょうど古今和歌集の歌が紀貫之時代と藤原定家時代とで違うように、現代の校本万葉集とその訓読み万葉集が近現代の歌人の感性に沿うように変化しているのと同様なことが起きたと思います。原歌表記をそれぞれの時代の「その時代の現代語へ翻訳・読解する時」、言葉において変化・変質は避けられないと考えます。

 与太話の上に取り止めのない方向での馬鹿話になりましたが、柿本朝臣人麻呂歌集と柿本集、それと万葉集との関係を思うとこのようなものとなりました。
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万葉雑記 色眼鏡 三一一 今週のみそひと歌を振り返る その一三一

2019年03月23日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 三一一 今週のみそひと歌を振り返る その一三一

 今週も巻十四 東歌の鑑賞です。
 最初に言いがかりの鑑賞を紹介します。集歌3446の歌の四句目「安志等比等其等」の「其等」は標準訓では「こと」と音読し「言」の漢字を得ます。対して幣ブログでは「そと」と音読する関係から、ままに「そと」とし、「それは」のような意味合いを得ています。そのため、歌の鑑賞は若干変わってきます。

集歌3446 伊毛奈呂我 都可布河泊豆乃 佐左良乎疑 安志等比等其等 加多理与良斯毛
訓読 妹なろが使ふ川津(かわつ)のささら荻(をぎ)葦と人(ひと)そと語りよらしも
私訳 かわいいあの娘が使う川の入り江に生えるささら荻。それを葦と人が呼ぶように、よくも確かめずに間違えて悪(あし=悪い子)と噂しているようだよ。

中西進氏の鑑賞
原文 伊毛奈呂我 都可布河泊豆乃 佐左良乎疑 安志等比登其等 加多理与良斯毛
訓読 妹なろが使ふ川津(かわつ)のささら荻(をぎ)あしと人(ひと)言(こと)語りよらしも
意訳 あの子が使う船着き場の小さな荻葦、悪いと人々は語り合っているらしいよ。

伊藤博氏の鑑賞
訓読 妹なろが付(つ)かふ川津(かわつ)のささら荻(をぎ)葦と人(ひと)言(こと)語りよらしも
意訳 あの子がいつも居ついている川の渡し場に茂る、気持ちのよいささら荻、そんなすばらしいささら荻(共寝の床)なのに、世間の連中は、それは葦・・・悪い草だと調子に乗って話し合っているんだよな。

 ここで、伊藤博氏の解釈は集歌3446の歌と集歌3445の歌が関連を持っているとしているために歌の「妹」は港の遊行女婦と想定していますし、ささら荻をそのような港の遊行女婦が男との関係を持つ場所を作る屋外の草床と想像していることにあります。従いまして、集歌3446の歌の背景として男たちが港の遊行女婦たちの品定めをしていることがあり、それに対して自分の馴染みの遊行女婦は、それほど悪口を言うほどでもないという思いを詠っているということでしょうか。
 一方、弊ブログは里娘に対する評判で、荻と葦を良く確かめもしないで間違えるように、その里娘のことを知りもしないで、悪口を言っていると解釈しますから、相当に歌の背景が違います。
 なお、「其等」を隋唐音で音読しますと「gi + tɑ̆i」となりますから、「そと」と云う発音にはなりません。漢文訓読でのものとなります。

 次に集歌3450の歌は色々と解釈が分かれます。

集歌3450 乎久佐乎等 乎具佐受家乎等 斯抱布祢乃 那良敝弖美礼婆 乎具佐可利馬利
訓読 乎久佐(をくさ)壮子(を)と乎具佐(をぐさ)つけ壮士と潮舟(しほふね)の並べて見れば乎具佐かりめり
私訳 乎久佐に住む男と小草を腰に着けた男とを岸辺に並ぶ潮舟のように比べてみると、邪気を払うと云う小草を付けた男に利がある。

中西進氏の鑑賞
原文 乎久佐乎等 乎具佐受家乎等 斯抱布祢乃 那良敝弖美礼婆 乎具佐可利馬利
訓読 乎久佐(をくさ)壮子(を)と乎具佐(をぐさ)助(ずけ)男(を)と潮舟(しほふね)の並べて見れば乎具佐勝ちめり
意訳 乎久佐の男と乎具佐の助男とを潮舟のように並べて見ると、乎久佐の方がすぐれているように思える。

伊藤博氏の鑑賞
訓読 乎久佐(をくさ)男(を)と乎具佐(をぐさ)受助(ずけ)男(を)と潮舟(しほふね)の並べて見れば乎具佐勝ちめり
意訳 乎久佐男と乎具佐受助男とを、潮舟のように二人並べて見ると、やっぱり乎具佐受助男の方がまさっているようだ。

 最初に中西進氏のものは解釈で乎具佐と乎久佐とで錯誤があります。原歌からしますと優れているのは「乎具佐」の方です。
 次にこの集歌3450の歌は伊藤氏が解説するように『代匠記』の解釈である二句目「乎具佐受家乎」の「受家乎」を「すけを」と音読し「助男」と解釈し、律令時代の庶民男性の世代毎区分である、「次丁」の意味合いとして解釈しています。すると、その解釈しますと、乎久佐男とは乎久佐と云う村の正丁の男であり、乎具佐受助男とは乎具佐と云う村の次丁の男となります。
 当然、このように解釈しますと、25歳から60歳までの正丁と60歳から65歳の老人や軽度の不具、疾病の男の比較で、次丁の方が優れていると云う背景を説明する必要が出て来ます。そのため、当時の律令制度や平均寿命などを勘案しますと、古くからその解説は非常に困難になります。伊藤博氏のように60歳を超えても体力・経験・技量で壮年男子よりも優れた人がいるから、そのような意味合いであろうとします。
 幣ブログでは集歌3450の歌を万葉集ではよく見られる言葉の響きに遊んだ歌と解釈していますので、解釈の方向性が全くに違います。乎久佐は地名ですが、乎具佐は小草とする解釈です。そこから、菖蒲などを身に付ける五月の節句祭りと想像しています。

 次いで、集歌3459の歌も歌中の表記に注目すると、歌の風景が大きく変わります。

集歌3459 伊祢都氣波 可加流安我乎乎 許余比毛可 等能乃和久胡我 等里弖奈氣可武
試訓 稲(いね)搗(つ)けば皹(かか)る吾(あ)が緒を今夜(こよひ)もか殿の若子(わくこ)が取りて嘆かむ
試訳 稲を搗くと手足がざらざらになる私、その私の下着の紐の緒を、今夜もでしょう、殿の若殿が取り解き、私の体の荒れようを見て嘆くでしょう。

中西進氏の鑑賞
原文 伊祢都氣波 可加流安我手乎 許余比毛可 等能乃和久胡我 等里弖奈氣可武
訓読 稲(いね)搗(つ)けば皹(かか)る吾(あ)が手を今夜(こよひ)もか殿の若子(わくこ)が取りて嘆かむ
意訳 稲を舂くとあかぎれが切れる私の手を、今夜も若殿さまは手にとって、嘆かれるだろうか

伊藤博氏の鑑賞
訓読 稲(いね)搗(つ)けばかかる我(あ)が手を今夜(こよひ)もか殿の若子(わくこ)が取りて嘆かむ
意訳 稲を搗いてひび割れした手、この私の手を、今夜もまた、お屋敷の若様が手に取ってかわいそうにかわいそうにとおっしゃることだろうか。

 文学的には「皹(かか)る」のは手ですから、原歌の二句目「可加流安我乎乎」の「乎乎」は「手乎」の誤記でなければいけません。そのため、校本万葉集では「可加流安我手乎」と校訂し、稲搗き、籾を得る農作業で手が荒れた若い娘のその手と解釈します。
 一方、弊ブログは西本願寺本万葉集の原歌表記を変更しないと云う縛りで歌を鑑賞しますから「可加流安我乎乎」はそのままに音読し「皹(かか)る吾(あ)が緒を」としています。そこから、手が荒れた私の着物の緒と云う解釈を得ています。風景としては、貴族階級の若殿が秋の収穫期に荘園にやって来て農作業を指揮していますが、その若殿は風習に従い夜には若殿の世話をする女性とともに寝所で休みます。その姿は里の若い娘たちは見聞きしていますし、場合によってはその若殿の世話をする女性は里から選抜された器量の良い娘かもしれません。
 幣ブログはそのような風習の中で、玉の輿を夢見た里女たちの歌と考えています。その時代、庶民の女性が人生を大きく変える可能性がある希望は、有力者に見染められその子供を宿すことや、力自慢で役所の女武者になることぐらいです。都へ出向く采女は郡司クラス以上の子女であることが規定ですから、庶民の娘では可能性はありません。ここで詠うように夜毎、若殿に着物の紐緒を解いて貰えるような関係が、目の前のありそうな夢です。手を握ってもらうだけではダメなのです。

 今回も、ばかばかしい与太話での鑑賞を展開しました。標準的なものは示しました中西進氏や伊藤博氏のものにあります。
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万葉雑記 色眼鏡 三一〇 今週のみそひと歌を振り返る その一三〇

2019年03月16日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 三一〇 今週のみそひと歌を振り返る その一三〇

 今週も巻十四 東歌の鑑賞です。
 さて、今週は東歌での推定の発音で遊んでみたいと思います。ただし、日本国内の研究者の主流が推定する古語発音と諸外国での中国語古音発音研究から推定する古語発音は違います。中国語古音研究において諸外国では広韻から隋唐音(前期中古音)を推定しますが、日本では韻書から漢音(中国語前期中古音)を推定します。
 標準的に中国や欧州では秦・漢時代の中国語発音を上古音(古漢音)、隋・漢時代のものを前期中古音(隋唐音)、中期唐・五代時代を後期中古音、宋・元時代を近古音(宋音)と区分します。他方、日本では平安時代から鎌倉時代の留学僧が区分したものから中国語発音を区分します。そのため、日本では宋・元時代の近古音(宋音)を唐音と称したため、それ以前の中国語を漢音と区分せざるを得なくなりました。それで、中世語である宋音が日本では唐音、隋唐音が日本では漢音、秦・漢音が日本では古音と区別するようです。なお、続日本紀の改訂に影響を与えた百済・高句麗系の帰化知識階級は伝統的に漢・魏・東晋王朝を正統と考え、隋・唐は北方民族出身の王朝を理由に正統とはみなしていません。このため、中国大陸をすべて漢帝国のような表現を使用した可能性があります。この場合、隋・唐朝廷であっても言葉は漢語と云うことになり、唐音を正音とは認めたくないという心理が現れます。なお、高句麗を経由してもたらされた三国時代の呉から東晋時代のものを日本では呉音と称します。
 一方、奈良時代の大和系貴族は遣唐使で唐に赴いたとき、高級官僚の職に就いたものや宮廷で優美に振舞ったと伝わる人物がいますから、隋唐音で流ちょうな会話は成立していたと考えられます。また、この時代、音韻書として切韻や唐韻は大和にもたらされていましたから朝廷の人々は隋唐音を理解していたと考えられます。

 馬鹿話はさておき、現在、中国語前期中古音を解説する『切韻』や『唐韻』は失われた書籍となっており、その『切韻』や『唐韻』の流れを汲む『広韻』が伝わるだけです。そのため、この広韻が中国語前期中古音を研究する時のバイブルとなっています。ただし、問題は『切韻』、『唐韻』、『広韻』は漢字の発音比較で成り立っていますから中国語中央語を日常的に会話に使用している人でなければテキストとして使用できません。また、そもそもの『広韻』は唐音で漢詩(唐詩)を作詩するという伝統文化において唐詩が要求する押韻ルールでの正しい漢字の韻を規定し、科挙試験や宮中での公式な場面で詠われる唐詩の韻(発声)が民族や地域差による異なる発音でなされるのを正し混乱を防ぐものです。つまり、宋の時代、唐音に対し複数の発音やそれぞれに正統性議論があったと云うことが背景にありますから、どの発音が唐音として伝統で正統かと云う議論に対し宋と云う国家としての集大成が『広韻』です。当然、あれこれと別な書物を引っ張り出して、宋時代に立ち戻り、発音の議論を提起することは可能ですが、どの時代でも言葉は厳密に一つに集約しませんから研究者の可能性での遊びにしかなりえません
 一方、日本では諸般の事情で鎌倉時代以降の伝統として『唐韻』や『広韻』を唐詩押韻研究には使用しないことになっています。音韻を五十音図のような方法で示したものを使い、その代表的な図解が『韻鏡』です。なお、『韻鏡』は『広韻』よりも古い時代に編まれたことになっていますが後の時代の『広韻』の影響を受けた内容があると評価されていることと、示すものが前期中古音だろうとは思いますが、それがいつの時代のどの民族で、また、個人単独なのか、公式な中央語なのかは不明です。そこが『広韻』は国家が定めた中央語の前期中古音を示すものとの違いがあります。
 こうした事情を踏まえて、酔論を展開します。
 江戸時代中期以降に万葉仮名で「努」、「怒」の文字をどのように訓じるか、また「野」の文字はどうなのかと云う問題があり、「努」、「怒」の文字は「ぬ」であって「の」ではないと云うのが標準的な解釈です。山上憶良は遣唐使の書記(通訳)を務めたと推定され前期中古音である隋唐音を十分に理解していたと考えられています。一方、和歌発音で「の」となるべきところに万葉仮名の「努」や「怒」を使う表記スタイルから日本紀と同様な仮名文字での独特な使用方法があったと解説します。この議論のベースは江戸時代から昭和中期と云う時代性から『韻鏡』による中古音の復元です。『広韻』からの中古音ではありません。
 ところが、『広韻』にその音韻を探りますと、「努」、「怒」の文字の発音はnuoやnoであって、「野」はʑi̯woやziです。『広韻』が隋唐音を示し、同時に奈良時代の人たちが漢字に借音をするときに隋唐音に従っていますと、奈良時代人と平安時代最末期・鎌倉時代人とで理解する万葉仮名の発音が違う可能性があります。同じように奈良時代人とそのような議論に参加した昭和中期までの人とで訓じが違う可能性があります。
 このような与太話を踏まえて今週の歌を訓じたものが、次の集歌3423と集歌3425の歌と集歌3424の歌です。特に集歌3424の歌の初句の「野」に「ゾ」の訓じがあるとしますと、歌の雰囲気は大きく変わる可能性があります。

集歌3423 可美都氣努 伊可抱乃祢呂尓 布路与伎能 遊吉須宜可提奴 伊毛賀伊敝乃安多里
訓読 上野(かみつけ)の伊香保(いかほ)の嶺(ね)ろに降(ふ)ろ雪(よき)の行き過ぎかてぬ妹が家のあたり
私訳 上野の伊香保の嶺に降る雪がなかなか流れ行かないように、通り過ぎていくのが難しい。愛しい貴女の家のあたりは。

集歌3425 志母都家努 安素乃河泊良欲 伊之布麻受 蘇良由登伎奴与 奈我己許呂能礼
訓読 下野(しもつけ)の安蘇(あそ)の川原よ石踏まず空ゆと来(き)ぬよ汝(な)が心告(の)れ
私訳 下野の安蘇にある川原の石を踏むことなく空を飛ぶようにやって来た。さあ、お前の気持ちを云ってくれ。

集歌3424 之母都家野 美可母乃夜麻能 許奈良能須 麻具波思兒呂波 多賀家可母多牟
訓読 下野(しもつけ)ぞ三毳(みかも)の山の小楢(こなら)のす真妙(まぐは)し子ろは誰が笥(け)か持たむ
私訳 ここは下野ぞ、その下野にある三毳の山に生える小楢のように、かわいいあの娘は、将来、誰の食事の世話をするのだろうか。

 加えて歌は今週のものだけではありませんが、次の三首の「之」の文字の訓じを見てください。すべて、万葉仮名の訓じである「し」であって、平安最末期から鎌倉時代以降の漢文訓読法からの慣用訓「の」のような訓じではありません。なお、鎌倉時代になると万葉集の歌を正しく訓じるよりもその時代の和歌として美しく詠うことを優先にしていますから、正確に訓じ意味を解釈するのは野暮かもしれません。

集歌3544 阿須可河泊 之多尓其礼留乎 之良受思天 勢奈那登布多理 左宿而久也思母
訓読 安須可(あすか)川下(した)濁(にご)れるを知らずして背ななと二人さ寝に悔(くや)しも

集歌 3578 武庫能浦乃 伊里江能渚鳥 羽具久毛流 伎美乎波奈礼弖 古非尓之奴倍之
訓読 武庫の浦の入江の渚鳥(すどり)羽(は)ぐくもる君を離(はな)れて恋に死ぬべし

集歌 3617 伊波婆之流 多伎毛登杼呂尓 鳴蝉乃 許恵乎之伎氣婆 京師之於毛保由
訓読 石(いは)走る瀧(たき)もとどろに鳴く蝉の声をし聞けば京し思ほゆ

 従来の万葉集での万葉仮名の発音根拠は主に『韻鏡』からのものでしたが、平成の時代になってから国際的に研究が進んだ『広韻』を基準にする人も増えてきたようです。ご存知のように弊ブログは『広韻』を基準にしている分、従来の訓じと違う場合がありますし、読解も順じて変わります。ネットなどに公表されているものからしますとHP「漢典」経由で『広韻』にアクセスするのが使い勝手上、非常に簡便です。それに『広韻』を使って西本願寺本万葉集を鑑賞しますと、すべてが読解可能で難訓歌は消滅します。
 今週も与太と馬鹿話に終始しました。反省です。
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万葉雑記 色眼鏡 三〇九 今週のみそひと歌を振り返る その一二九

2019年03月09日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 三〇九 今週のみそひと歌を振り返る その一二九

 今週は巻十四 東歌の鑑賞に入っています。
 正統な教育を受けていませんと、弊ブログの初期の鑑賞のように集歌3404の歌を二句目で切ることなく三句目切れとして歌を鑑賞してしまいます。当然、それでは歌の意は変わります。歌は本来、二句目で切れ、譬喩として鑑賞するのが正統です。それが以下の私訳で示すものです。

集歌3404 可美都氣努 安蘇能麻素武良 可伎武太伎 奴礼杼安加奴乎 安杼加安我世牟
訓読 上野(かみつけ)ぬ安蘇(あそ)の真麻群(まそむら)かき抱(むだ)き寝(ぬ)れど飽(あ)かぬを何(あ)どか吾(あ)がせむ
私訳 上野の安蘇の立派な麻束その麻束を力を込めて抱き抜くようにお前を抱きかかえて寝るけど、それでも満足できないのを、私はどうしたら良いだろうか。

 同じように集歌3407の歌も二句目で一呼吸を入れるか、三句目で一呼吸を入れるかで歌の鑑賞は変わります。

集歌3407 可美都氣努 麻具波思麻度尓 安佐日左指 麻伎良波之母奈 安利都追見礼婆
試訓 髪(かみ)付(つ)けぬ目交(まぐ)はし間門(まと)に朝日さしまきらはしもなありつつ見れば
試訳 私の黒髪を貴方に添える、その貴方に抱かれた部屋の入口に朝日が射し、お顔がきらきらとまぶしい。こうして貴方に抱かれていると。

 日々の鑑賞での注記として、次のように歌の鑑賞を紹介しました。

 原文の「可美都氣努麻具波思麻度尓」を「髪付けぬ目交はし間門に」と歌の裏の意図を想定して試みに訓んでみました。一般には「上野(かみつけ)ぬ真妙(まくは)し円(まと)に」と訓み「上野国にある円」と云う地名と解釈します。

 標準訓のように集歌3407の歌を二句目で一呼吸を入れますと、初句は国名である上野国としますと、二句目も地名としますと郷名であろうと考え、円の郡(こうほり)か郷と推定します。ただ、古地名で円郡と云う記述が古文書に見つかりませんから、円の郷ではないかとし、その位置は未詳とするのが一般です。
 ここで、三句目で一呼吸を入れますと、三句目の解釈「朝日が射す」に注目しますと二句目の「麻度」は地名ではないと解釈するのが自然となります。そこで萬葉集釋注では『仙覚抄』を引いて「目妙し窓」と解釈し「目にもきわやかな窓」と訳します。解釈の背景は家の中に朝日が射し込む状況を推定しています。
 一方、弊ブログは家の中に朝日が射し込む状況は同じですが、言葉の解釈で「麻具波思麻度尓」を「目交わし間戸に」と風流もなく剥き付けに解釈します。それに合わせて初句の可美都氣努を髪付けぬとも解釈します。当然、前後に配置された歌々に国名が織り込まれているのに、なぜ、歌に国名が織り込められていないのかという批判は必然です。しかしながら、初句に掛詞があるとしますと、無理に「上野の言葉の響きではないが、髪付けの・・・」と意訳する方が野暮ではないでしょうか。萬葉集釋注では「うぶな男の美人に接する心」として歌を解釈しますが、弊ブログでは、当時の風習と経済社会情勢から、男は立派な邸宅で娘への妻問ひのための独立した部屋にうら若い娘を妻問っていると解釈します。およそ、男と娘の母親たちとは合意の下での妻問ひです。その分、男が帰って行く時間帯が遅くなり日の出の後です。場合によっては、妻問ひ三日目の朝かもしれません。その朝には正式の夫として、娘は男とともに家の人が集う中、夫婦の朝食を取ります。そのような状況下と疑っています。
 解釈で、萬葉集釋注は『全訳注』をも引いて、祝婚の女性賛美歌としますが、弊ブログは祝婚歌でも娘の初々しい気持ちを詠ったものとします。
 一字一音の万葉仮名歌ですが、歌での一呼吸を入れる場所、字音からの言葉の推理で斯様に歌の鑑賞は変わります。

萬葉集釋注
訓読 上つ毛野まぐはしまとに朝日さしまきらはしもなあるつつ見れば
意訳 上野の目にもきわやかな窓に朝日がさしこんでまばゆいように、何ともまばゆくてならぬ。こうしてずっと向かいあったままでいると。

万葉集全訳注原文付
訓読 上野まぐはし円に朝日さしまぎらはしもなありつつ見れば
意訳 上野のりっぱな円に朝日がさすように。きらきらとまぶしいよ。見つづけていると。

 今週は集歌3407の歌一首を取り上げて、歌の解釈について酔論を展開し、訳者によって同じ字音配列であっても歌の解釈が相当に違うことを紹介しました。短歌での三十一音の字音、すべてが判明している歌であっても、斯様に歌の解釈に幅がありますし、その正誤の判定は難しいものがあります。
 このような万葉集の歌の鑑賞の世界ですから、漢詩のような詩体歌や、その詩体歌にわずかに万葉仮名で「てにをは」が付く非詩体歌の鑑賞が必ずしも定訓歌ズバリとはならないのではないでしょうか。ただし、原歌表記を示さない訓読み万葉集の世界は訓じでの正誤の問題提起を一切許さない・見せない定訓歌ズバリの世界です。
 最後に文字数稼ぎをしました。反省の次第です。
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万葉雑記 色眼鏡 番外編 聖徳太子はやはり聖徳太子

2019年03月02日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 番外編 聖徳太子はやはり聖徳太子

 万葉集の歌々は後年の勅撰和歌集とは違い、社会情勢などを背景とした歌も扱います。このため、万葉集の鑑賞ではその時代と和歌とは分離できないと考えています。この万葉集に対する思いにおいて、弊ブログの考える飛鳥時代から奈良時代の統治体制に関わるため、以下の話題について遊んでいます。

 近々の話題で「聖徳太子は実存しなかった」と云う空想論があります。その議論をリードしたのが大山氏であり、氏のその論旨の骨格を成すものが同時代書で大陸の正史となる『隋書倭国伝』に『日本書紀』に示される推古天皇と聖徳太子の姿がないことにあります。大山氏は大陸の正史である『隋書』からすれば『日本書紀』に載る推古天皇と聖徳太子とは虚構だとします。つまり、日本歴史は『日本書紀』が捧呈される前の歴史は如何様にも『日本書紀』の中で創作が可能であり、信頼性がないとします。当然、氏の基準からしますと、中国の正史などに裏打ちされない日本の歴史はすべて虚構としなければ学説として成立しませんが、そこまでの主張はしないようです。ある種、受け狙いの空想をもっともらしく紹介しているのでしょう。なお、半島の確実に伝存する歴史書は『古事記』や『日本書紀』を遡りませんから、歴史参照資料は大陸のものに限られることになります。およそ、進歩的学者が『三国史記』に載る記事を参照することもあるようですが、この『三国史記』の成立は十二世紀のことですし、引用する資料がすべて伝存しない状況からその正誤の判定は出来ません。つまり、『古事記』や『日本書紀』に載る記事が虚構とする態度なら『三国史記』に載る列島に関わる奈良時代以前の記事もすべて虚構を前提としなければいけなくなります。

参考資料:大山誠一による聖徳太子虚構説
(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
1999年、大山誠一『「聖徳太子」の誕生』が発表された。大山は「厩戸王の事蹟と言われるもののうち冠位十二階と遣隋使の二つ以外は全くの虚構」と主張。さらにこれら二つにしても、『隋書』に記載されてはいるが、その『隋書』には推古天皇も厩戸王も登場しないと大山は考えた、そうすると推古天皇の皇太子・厩戸王(聖徳太子)は文献批判上では何も残らなくなり、痕跡は斑鳩宮と斑鳩寺の遺構のみということになる。また、聖徳太子についての史料を『日本書紀』の「十七条憲法」と法隆寺の「法隆寺薬師像光背銘文、法隆寺釈迦三尊像光背銘文、天寿国繍帳、三経義疏」の二系統に分類し、すべて厩戸皇子よりかなり後の時代に作成されたとする。
説において「有力な王族厩戸王は実在した。信仰の対象とされてきた聖徳太子の実在を示す史料は皆無であり、聖徳太子は架空の人物である。『日本書紀』(養老4年、720年成立)に最初に聖徳太子の人物像が登場する。その人物像の形成に関係したのは藤原不比等、長屋王、僧 道慈らである。十七条憲法は『日本書紀』編纂の際に創作された。藤原不比等の死亡、長屋王の変の後、光明皇后らは『三経義疏』、法隆寺薬師像光背銘文、法隆寺釈迦三尊像光背銘文、天寿国繍帳の銘文等の法隆寺系史料と救世観音を本尊とする夢殿、法隆寺を舞台とする聖徳太子信仰を創出した」とする。

 ここで紹介しました論拠の前提において、古代の倭の統治体制が大陸や半島と同様なものだったかと云う点を確認する必要があります。大山氏たちの論拠の背景に、暗黙の裡に倭の統治制度は専制的な王による統治が確立していたと考えていると思います。この前提条件が成り立ちませんと、統治者の特定において『隋書』と『日本書紀』との間で一対一の関係は成立しません。
 もう一つ、重要なことに『日本書紀』では隋使裴淸を唐使裴世清とした上で、大和側の出席者の中に推古天皇がいたかどうかを明記していません。確認できる出席者は「皇子・諸王・諸臣」だけですので、推古天皇が隋使裴淸の親書捧呈の場に出席していない場合は、隋使側は皇太子を倭の治政の王と考えたと推定することが正当になります。
 もしここで、古代の大和王朝が神と人とを仲立ちして為す神道と云う祀事(まつりごと)と人々を治める政(まつりごと)とを分離した宗政二元統治体制としますと、大山氏やその支持者の三浦氏たちの立場は危ういものになります。弊ブログの立場では祀事は巫女が執り、政は大王が執るとする立場ですから、隋使である裴淸と対面・応接するのは政を執る大王が担当することになります。つまり、隋使裴淸が対面した男子の大王が『隋書倭国伝』に記す倭王となります。他方、『日本書紀』からしますと、当時の指導体制は王族の推古天皇と聖徳太子に臣下の蘇我馬子の三人で執っていたとします。すると、対外交渉や治政は王族である聖徳太子を代表として集団合議で執ったとしますと、外国使節団から見ますと聖徳太子が倭王となります。ここに『隋書』と『日本書紀』との間で表記の差が現れます。

<隋書倭国伝より部分を引用:>
明年上遣文林郎裴淸使於倭国。度百濟行至竹島、南望耽羅國經都斯麻國逈在大海中、又東至一支國、又至竹斯國、又東至秦王國、其人同於華夏以為夷洲疑不能明也。又經十餘國達於海岸、自竹斯國以東皆附庸於倭。
倭王遣小徳阿輩臺従數百人設儀仗鳴皷角來迎、後十日又遣大禮哥多毗従二百餘騎郊勞、既至彼都。
其王與淸相見大悦曰我聞海西有大隋禮義之國故遣朝貢。我夷人僻在海隅不聞禮義。是以稽留境内不即相見。今故淸道飾館以待大使、冀聞大國維新之化、淸答曰皇帝徳並二儀澤流四海 以王慕化故遣行人來此宣諭、既而引淸就館。
其後淸遣人謂其王曰、朝命既達請即戒塗、於是設宴享以遣淸、復令使者随淸來貢方物。此後遂絶。

引用先 HP:隋書倭国伝 (http://www.eonet.ne.jp/~temb/16/zuisyo/zuisyo_wa.htm)
HP「隋書倭国伝」には現代語訳がありますから、必要に応じて参照してください。

<日本書紀の対応する記事を抜粋:>
推古天皇十六年(六〇八)八月壬子(十二)
壬子。召唐客於朝庭、令奏使旨。時阿倍鳥臣・物部依網連抱、二人為客之導者也。於是、大唐之国信物置於庭中。時使主裴世清親持書。両度再拝、言上使旨而立之。其書曰、皇帝問倭皇。使人大礼蘇因高等至具懐。朕欽承宝命、臨仰区宇。思弘徳化、覃被含霊。愛育之情、無隔遐邇。知皇介居表、撫寧民庶。境内安楽。風俗融和。深気至誠。達脩朝貢。丹款之美。朕有嘉焉。稍暄。比如常也。故遣鴻臚寺掌客裴世清等。稍宣徃意、并送物如別。時阿倍臣出庭、以受其書而進行。大伴齧連迎出承書、置於大門前机上而奏之。事畢而退焉。是時、皇子・諸王・諸臣、悉以金髻華著頭、亦衣服皆用錦・紫・繍・織及五色綾羅。

 ここで、大山氏やその支持者の三浦氏たちが唱える「聖徳太子虚構説」は、深く認識していませんが、それは持統天皇・文武天皇虚構説に転ずることになります。『日本書紀』で任意に虚構を創作できるものとしますと、その論法からは明確な統治事績が残らない持統天皇や文武天皇の人物像もまた虚構となります。「聖徳太子虚構説」では『万葉集』や『懷風藻』に載る聖徳太子の記事は『日本書紀』の創作記事を由来としますから、同じように『懷風藻』に載る葛野王の爵里の記事を下に持統天皇と文武天皇との関係を論じることも出来なくなります。それに葛野王の爵里の記事に示す爵位は同時代性が無い後年の爵位体制を基準としたいかがわしい作為が為されていますから、本来ですと持統天皇の葛野王の爵里から推測される事績自体には信頼性はありません。およそ、正史に載る律令公布の歴史が正しいとしますと、律令体制からすると明確にいかがわしい爵位記事を下にした持統天皇の人物像については議論せずに、選択的に聖徳太子虚構説だけを大きく取り上げるのも不思議です。紹介しましたように彼らの論理や態度において歴史を体系として扱うことができないと云う欠点があるとしますと、ここに有名な万葉集難訓歌だけを切り取って述べる万葉集は古語朝鮮語により創作されたトンデモ説と同様な本を売りがたいがための受け狙いの思い付きの疑いが生じます。それは学問じゃありません。

 話題を聖徳太子に戻しまして、参考資料として以下に弊ブログの守備範囲である奈良時代中期までには成立していたであろう『万葉集』や『懷風藻』の記事を紹介します。そこでは『古事記』や『日本書紀』で「上宮之厩戸豊聰耳命」、「上宮廐戸豊聡耳太子」と紹介する人物を「上宮聖徳皇子」や「聖德太子」と案内します。解説では「聖德太子」の名称が現れるのは、『日本書紀』の敏達天皇五年に載る「其一曰菟道貝鮹皇女、是嫁於東宮聖徳」の記事を除きますと、『懷風藻』の序文を最初のものとします。

資料 一
上宮聖徳皇子出遊竹原井之時、見龍田山死人悲傷御作謌一首
標訓 上宮聖徳皇子の竹原井に出遊(いでま)しし時に、龍田山に死(みまか)りし人を見て悲傷(かな)しみて御作(つくりま)しし謌一首
集歌415 家有者 妹之手将纒 草枕 客尓臥有 此旅人可怜 (可は忄+可)
訓読 家(へ)にあらば妹し手(た)纏(ま)かむ草枕旅に臥(こ)やせるこの旅人(たびひと)あはれ
私訳 故郷の家に居たら愛しい妻の手を抱き巻くだろうに、草を枕にするような辛い旅で身を地に臥せている。この旅人は、かわいそうだ。
<この歌の背景を示す日本書紀の記事:>
推古天皇二一年(六一三)十二月辛未(二)
辛未。皇太子遣使令視飢者。使者還来之曰、飢者既死。爰皇太子大悲之。則因以葬埋於当処、墓固封也。数日之後、皇太子召近習先者、謂之曰、先日臥于道飢者、其非凡人、為必真人也。遣使令視。於是、使者還来之曰、到於墓所而視之、封埋勿動、乃開以見、屍骨既空。唯衣服畳置棺上。於是、皇太子復返使者、令取其衣、如常且服矣。時人大異之曰、聖之知聖、其実哉。逾惶。

資料 二
懷風藻序より抜粋
逖聽前修、遐觀載籍      逖に前修を聽き、遐く載籍を觀るに
襲山降蹕之世、橿原建邦之時  襲山に蹕を降す世、橿原に邦を建てし時に
天造艸創、人文未作      天造艸創、人文を未だ作らず
至於神后征坎品帝乘乾     神后坎を征し品帝乾に乘ずるに至りて
百濟入朝啓於龍編於馬厩    百濟入朝して龍編を馬厩に啓き
高麗上表圖烏冊於鳥文     高麗上表して烏冊を鳥文に図しき
王仁始導蒙於輕島、      王仁始めて蒙を輕島に導き
辰爾終敷教於譯田       辰爾終に教へを譯田に敷く
遂使俗漸洙泗之風、      遂に使して俗をして洙泗の風に漸み
人趨齊魯之學         人をして齊魯の學に趨かしむ
逮乎聖德太子、        聖德太子に逮みて
設爵分官、肇制禮義      爵を設け官を分ち、肇めて禮義を制す
然而、專崇釋教、未遑篇章   然れども、專ら釋教を崇めて、未だ篇章に遑あらず


 聖徳太子虚構説において、場合により大山氏やその支持者の三浦氏たちの思想の背景に彼らが理想とする天皇統治論があるのかもしれません。古代の天皇が専制君主のような絶対権力を持っていたかと云うと違うでしょう。天皇はその地域の神事を取り仕切る巫女の立場であり、大王は武装武力で人民を切り従えていた支配者としての治政者と考えます。
 古代、列島は倭を始めとして大和の国々は女系社会であったとします。そしてそれぞれの地域の神事は巫女によって行われ、巫女の地位は血族で代々受け継がれたのではないでしょうか。ある種、邪馬台国の卑弥呼と台与との関係性です。祀事と政治との距離が近かった時代、必然、神の神託を人々へと繋ぐ為政者の地位は巫女に近い男子が執ったでしょうから、祀事と政治とのペアで巫女と王との組み合わせが生まれ、支配地域が拡大するにつれそれが天皇と大王へと育ったと考えます。
巫女と王とのペア例:
神武天皇の東征の時の「菟狭国造の祖となる菟狭津彦と菟狭津媛」の組み合わせ
仲哀天皇の洞海湾への進撃の時の「男神の大倉主と女神の菟夫羅媛」の組み合わせ

 ただし、これは古代の列島の古風です。律令体制での規定ではありません。大陸文化を基盤とする律令体制では天皇と大王との二元統治はありえない事態ですし、天皇制の基盤は倭を中心とする神道ですから仏教・道教・儒教とは相性が悪いことになります。
 ここで、倭の統治体制を紹介するものとして『隋書』に次のような文章があります。

開皇二十年、倭王姓阿毎字多利思北孤、號阿輩雞彌遣使詣闕。上令所司訪其風俗。使者言、倭王以天為兄以日為弟。天未明時出聽政跏趺坐、日出便停理務、云委我弟。高祖曰此大無義理、於是訓令改之。

 この文章で問題なのは「兄」が意味するものが古語での「エ」なのか、「セ」なのかです。古語日本語で「兄(エ)」には性別指示はありません。兄弟・姉妹関係での年上を示すだけですから、次の『日本書紀』の記事が示すように『隋書』の文中「兄」が示すものは大和言葉からの姉かもしれません。古語日本語を基準としたとき、漢文が示すものは可能性として姉である巫女が深夜早暁に神事を行い、夜が明けると巫女の弟(オト)である年下の男弟が治政を行ったとの解釈も可能です。これは天皇と大王との二元統治となりますから、大陸的な統治基準からするとありえないことになります。もし、大山氏たちがこの文章を推古天皇と厩戸皇子との関係においてその姿が見えないとする根拠の一つとするなら、漢文読解時での日本語への想像力が不足しています。

<日本書紀;景行天皇四年二月>
天皇聞、美濃国造名神骨之女兄名兄遠子・弟名弟遠子並有国色。

 補足して、唐初時代の漢文解釈では動詞「為」は「治也、又使也」、動詞「以」は「使也、又令也」ともしますから、漢文「倭王以天為兄以日為弟」は「倭王令天使兄、令日使弟」と書き換えても本来の意味は保たれることになります。つまり、「倭王は天に兄を使わしめ、日に弟を使わしめる」との解釈が可能です。加えて、国風・風俗を聞かれた遣隋使がその国風を表す時に、地域概念となる「倭国」と云う言葉概念を持っていませんと「倭国」と云う言葉の代わりに「倭王」と云う言葉で「倭の国では」と云う日本語を中国語で示すことになります。つまり、ここでの「倭王」の「王」とは「天下所帰往也」と云うことから特定の人物を示すものにはなりません。
 為にする紹介ですが、このわずか十文字で構成された漢文でも斯様に定訓は定まっていません。ご承知の標準的な訳「倭王は天を以て兄となし、日を以て弟となす」を下に「天未明時出聽政跏趺坐、日出便停理務、云委我弟」の文章を眺めますと、倭王、兄、弟の三人の人物が登場し、その解釈が示す推古天皇時代の倭の執務体制が不思議とならざるを得ないのです。そこで多くの歴史学者が登場し「天」と「日」の解釈などを陳べますが、結果、合理的な解釈は不能だから、その原因となる『日本書紀』の推古天皇も厩戸皇子もいなかったことにしようとします。ただ、出発点となる『隋書』の漢文読解が正しいかどうかという基礎となる問題点に立ち返ることはないようです。

 戻りまして、
 ただこのような二元統治制度の可能性だけでなく、世界的に宗教感覚では特異性を持つ大和人は神道神主を執り、同時に仏教得度も行うと云う宗教上でのアクロバット的な融合を遂げてしまいます。そのため、宗教と統治が近い時代の政治体制の解釈に対しそれを世界基準から眺めますと非常に複雑怪奇なこととなります。
 他方、大和という国の中で大陸由来の律令体制と云う枠組みを守りつつ天皇と大王との二元統治の折り合いを付け、それを律令的に表現するならば天皇と太政大臣と云う関係でしょうか。これを古代倭の風習の中で例えますと、大航海での持衰と船長の関係に近いと考えます。航海における役割分担では持衰は航海に関わるすべての人々の航海安全・無事の願いを精進潔斎して神との仲立ちを行い、船長は航海と云う操船実務を執ります。この古代の風習を拡大すると巫女と王との関係につながると考えます。
 大和の歴史を眺める時、この神道と天皇との関係の解釈がキーになるのでしょう。天智天皇の時代までは倭の豪族が連合体を組成し、この連合体が列島各地の豪族を支配する形で大和と云う国を形成していたと考えます。その時、この倭の豪族の連合体は畿内と云う狭い地域に根づく人々が信じる伝統の祭祀・風習により同じ仲間と云う精神的な結束をしていたと考えます。これを仕切ったのが太古からの血が繋がる天皇家の巫女です。豪族の連合体での象徴としての組長は不在でも談合組織が保たれていればかまいませんが、伝統の祭祀は毎年折々の時期に倭地域全体を取り纏める形で執り行う必要がありますから天皇家の巫女の不在はありえないことになります。そのため、『日本書紀』で云う「天皇」または「中皇命」と云う巫女が亡くなった時、新たな巫女が任命され、同時に伝統として新たな巫女のパートナーが「王」と云う立場に立ったのでしょう。天智天皇は間人中皇命が亡くなられ埋葬されたのを契機として倭皇后のパートナーの立場で倭の巫女と王として選任されたと考えます。ただまだ、この段階では畿内地域の倭の豪族たちの連合体の組長と祭祀を行う巫女のペアのような立場です。
 この倭の豪族連合体の組長の立場が変わるのが天武天皇の時代からです。天武天皇は列島各地におかれた倭の豪族連合体の植民地である屯倉を拠点とし、その屯倉の現地利益代表である天皇家に繋がる王族たちを糾合してそれぞれの地域での連合体を組成し、その列島各地の地域連合体をもって倭の豪族たちの連合体と対決・勝利することで、天武天皇は列島と云う大和の豪族・王族の連合体の組長へと変質します。この変質から祭祀は倭地域と云う狭い範囲から列島全体を単位とする大和と云う広い範囲に広がり、結果、神事祭祀の神主が地域の巫女から列島全体の精神体の代表として大王へと変わり、その大王が国家の祭祀に適う新たな儀礼を創作して執り行うようになったと考えます。ここに列島全体の精神体となる国家神道と云う新たな概念と所作が生まれ、それを具現化するものが伊勢皇大神宮や官幣社であり、藤原京での祈年祭などの神事と考えます。
 ただ、巫女は狭い地域での、同じ方言言語を使い、同じ伝統の祭祀・風習により同じ仲間と云う精神的な結束の下に成り立つでしょうが、国家神道は違う成り立ちで集合体を形成したと考えます。これが弊ブログで指摘しますように鉄製農機具や優良水稲種の配布、さらに織機や製陶などの先進技術導入への支援などの実利だったと考えます。これらは祈年祭などの折々の神事に参加するものだけに配布・支援されるものであり、それに加え中央の神事に参加する地域の豪族は「祝(はふり)」と云う神主の立場で地域の支配権を認めたと考えます。このような仕組みで天武天皇以降の大王制による全国統治が進んでいったと考えます。なおそれでも畿内では伝統の天皇家の巫女による神事が求められ斎宮や中皇命のような立場の女性が求められたと考えます。
 しかしながら、この変化はさらに仏教の普及と云うもので変化が起き、聖武天皇や孝謙天皇の時代に国家神道の色合いが薄れて行ったと考えます。

 このような歴史と統治の変転の中、聖徳太子と云う人物像が形成されたと思います。一方、壬申の乱以降の日本国と云う統一国家は天武天皇・高市皇子の親子の強力なリーダーシップがなければ成立しなかったでしょうし、同じように厩戸皇子がいなければ法治による国家体制への転換も進まなかったのではないでしょうか。
 少なくとも隋使裴淸が朝鮮海峡を渡って対馬・壱岐に入ったとき、それ以降の倭支配の各地では一定の爵位制度に従った統治体制は成立していました。つまり、厩戸皇子の時代には何らかの「冠位十二階」は規定されていましたし、各地の豪族に倭支配の統治を委託する時の刑事や行政の執務規程として何らかの「十七条憲法」は存在していたでしょう。もし、学界大勢として日本最初の王都である藤原京建設を太政大臣高市皇子の業績とは言わず持統天皇の業績と言うのだから、推古天皇の時代のすべての業績は厩戸皇子や蘇我馬子の名前を挙げるのはおかしいと主張するなら確かにそうです。ただ、そのような主張をするなら、内臣と云う天皇家秘書官だった藤原鎌足や藤原不比等もまた歴史から名前を消す必要があります。
 結果、大山氏やその支持者の三浦氏たちが唱える聖徳太子虚構説は、社会や人々の知識の集積により統治体制は変化するということを認めない固定的であるべきと云う古い世代の立場からのものでしょうし、昭和中期に流行った『古事記』や『日本書紀』などに示す日本史は後年の創作であると云う「意図した流説」の残滓なのかもしれません。論を立てるにおいて都合の良い部分を切り取り、他を隠してそこだけで議論を進めるのは、縦横の情報が即座に入手可能なインターネット時代では背景が見え見えですので難しいと考えます。あと、政府の論文公表ルールにより子弟以外の学際も人々も眺めていますから、内輪議論も難しいものがあります。

 幣ブログは、万葉集の鑑賞の時、斯様な歴史感と天皇・大王制度解釈で行っています。そのため、その影響が大きい藤原京から前期平城京(特に神亀年間まで)の時代と政体解釈が一般的なものと違います。そのため、聖徳太子虚構説を鼻先で笑うような不遜な態度を取ります。
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