竹取翁と万葉集のお勉強

楽しく自由に万葉集を楽しんでいるブログです。
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万葉雑記 色眼鏡 百六三 万葉集に見る仏教の影響

2016年03月26日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 百六三 万葉集に見る仏教の影響

 今回もまた、生半可な知識からの与太話です。まず、眉に唾ですし、千無い話としてお踏み置き下さい。
 さて、現代では昭和初期以前とは違い万葉集の鑑賞をするときに仏教や道教の影響を取り除いて万葉歌を鑑賞できないことは共通の認識になっていると思います。例えば柿本人麻呂歌集でも火葬の場面を詠った歌、また、満中陰の七七の日(現代の四十九日法要)に人は成仏するという仏教観を持った歌を見ることが出来ます。さらに大伴旅人や山上憶良の歌を鑑賞するとき維摩経や法華経の道徳観や人生観から遊離することはできません。
 例として次に紹介します人麻呂歌集の歌は訓読み万葉集からでは判りづらいでしょうが、原歌表現における「念西」、「五十日」、「應忌鬼尾」などの選択された漢字文字からは、歌は本来の仏教教義を下にした葬送儀礼や満中陰の成仏思想が存在すると推定されます。およそ、すでに万葉集最初期に位置するとされる柿本人麻呂歌集の段階で仏教的思想が歌に現れていると考えることが出来ます。他方、万葉集中期に位置する大伴旅人や山上憶良の歌には仏教思想が色濃く存在しますから仏教的思想やその教義を排除して万葉集を鑑賞することは困難ではないでしょうか。

集歌2947 念西 餘西鹿齒 為便乎無美 吾者五十日手寸 應忌鬼尾
訓読 想ふにし余りにしかばすべを無みわれは言ひてき忌むべきものを
私訳 心に亡くなった貴女を想い、恋焦がれるのをあまりにどうしようもなく、私は何度も何日も貴女の名前を口に出してしまった。慎むべきなのに。

 このような状況を踏まえまして、少し古いものですが1999年3月の岩波月報から引用した岩波書店による『萬葉集索引』の紹介文の中に万葉集に見る仏教の影響を次のように説明します。

近代の万葉観について
近代の万葉集研究は、近世の国学と正岡子規の万葉観が中核になっています。 万葉人の純粋無垢の心情を称えることが優先して、万葉集が圧倒的な大陸文化の影響の下にあることを重要視しませんでした。 中国文学が万葉集に与えた影響の大きさと深さの実測は、敗戦後、小島憲之氏によって切り開かれ、以後、研究者たちに受け継がれて来ました。 その一方で、万葉集と仏教思想の関係は殆ど顧慮されることがありませんでした。 山上憶良・大伴旅人の作品、巻十六の戯笑歌など一部を除いて、万葉集と仏教との関係は深くはないという先入観が強かったようで。 たしかに中世の歌集に詠まれたような形で、仏教は万葉集に影を投じてはいません。 しかし、「世の中」を「世間」と書く表記が仏教に由来するものであることは言うまでもありません。 内容的に仏教と関係のない歌でも、「わたつみ」を「方便海」(1216)と書いたりもします。 「方便海」は『華厳経』に頻出する文字です。 この歌の書き手の仏教的教養を窺わせる一例でしょう。 「常ならぬ」(1345)という言葉が「人」の枕詞として使用された背後には、勿論、仏教の無常観があったでしょう。 「むろの木」を「天木香樹」(446)・「天木香」(3830)などと書くことも、経典から学んだものでしょう。 歌に直接反映したものは少なくても、仏教の知識は万葉集の随所にその跡を留めています。


 紹介しました文章は1999年ですから、さすがに古い認識です。まだまだ、万葉歌を原歌から真剣に鑑賞するのではなく、伝統の翻訳された訓読み万葉集をテキストとして採用することが出来るとする時代です。およそ、原歌の漢字表記一字一句まで検討をしたものではありません。そのため「歌に直接反映したものは少なくても、仏教の知識は万葉集の随所にその跡を留めています」と云う表現になったと思われます。また、奈良時代の仏教はある種の哲学である本来の仏教を対象にしていたという認識があったかどうかも不明です。末法思想や念仏思想が見えないから、仏教の影響が薄かったとするのは間違いではないでしょうか。
 例としまして、戦前までの大伴旅人が詠う讃酒謌十三首は酒を楽しむ享楽の歌として鑑賞していましたが、現在では仏教観を踏まえた人生の悲嘆を詠う歌群として鑑賞します。このように伝統的な訓読み万葉集鑑賞と現代の原歌からの鑑賞とは相当にその受け止め方が違います。

集歌349 生者 遂毛死 物尓有者 今生在間者 樂乎有名
訓読 生(い)ける者遂にも死ぬるものにあればこの世なる間(ま)は楽しくをあらな
私訳 生きている者は最後には死ぬものであるならば、この世に居る間は楽しくこそあってほしい。

集歌350 黙然居而 賢良為者 飲酒而 酔泣為尓 尚不如来
訓読 黙然(もだ)居(を)りて賢(さか)しらするは酒飲みて酔ひ泣きするになほ若(し)かずけり
私訳 ただ沈黙して賢ぶっているよりは、酒を飲んで酔い泣きすることにどうして及びましょう。

 こうした時、人の死の葬送儀礼に宗教観があるとしますと、高価で新規の火葬と云う葬儀は確実に仏教の影響です。それは神道でも儒教でもありません。そうした時、柿本人麻呂歌集には火葬を詠う場面の歌が多く載せられています。歌に示す肉体から離れた精神が煙となり、(西方浄土へと)棚引いていく姿は、旧来の穢れとして野に屍を捨てるというものとは違います。確かに天武天皇以降の国体神道は旧来の原始的な自然神信仰に墨子・道教・仏教などの思想が取り込まれ、新しい論理や思想の組み立てを持った近代性をもったものとなったとします。従いまして、一見、万葉歌には神道思想が見えるとしますが、さて、どうでしょうか。それに今も昔も普段の人を死して神と祀る風習は神道にはありません。なお、明治の文明開化と身分制度廃止などを背景に近代以降の庶民の宗教行事などは大きく変わって来ています。ただこれは話題としています万葉集の世界とは関係ありませんので、そのようなものからの評論はしないことにします。

<人麻呂歌集に見る火葬の場面>
土形娘子火葬泊瀬山時、柿本朝臣人麿作歌一首
標訓 土形娘子を泊瀬山に火葬(ほうむ)りし時に、柿本朝臣人麿の作れる歌一首
集歌428 隠口能 泊瀬山之 山際尓 伊佐夜歴雲者 妹鴨有牟
訓読 隠口(こもくり)の泊瀬(はつせ)し山し山し際(ま)にいさよふ雲は妹にかもあらむ
私訳 人の隠れる隠口の泊瀬の山よ、その山際にただよっている雲は貴女なのでしょうか。

溺死出雲娘子葬吉野時、柿本朝臣人麿作歌二首
標訓 溺れ死(みまか)りし出雲娘子を吉野に火葬(ほうむ)りし時に、柿本朝臣人麿の作れる歌二首
集歌429 山際従 出雲兒等者 霧有哉 吉野山 嶺霏微
訓読 山し際(ま)ゆ出雲し子らは霧なれや吉野し山し嶺(みね)にたなびく
私訳 山際から、出雲一族の幼い貴女は、今は霧なのでしょうか、吉野の山の峰に棚引いている。

 さらに、インターネットに万葉集に見る仏教の影響を尋ねますと次のような文章を見つけることが出来ます。

万葉集の詠まれた時代は、飛鳥、白鳳、天平にあたる。仏教文化が風靡した時代である。当然、そのような環境下に生まれた万葉集には仏教思想が刻まれていてもおかしくない。
しかし、万葉集を読むと、叙景を含め仏教的要素が少ないという印象は否めない。それは津田左右吉氏の、次のような言葉からもうかがえる。
「万葉には仏教もしくは仏教思想に関係があると思われる歌は極めて少なく、ここに挙げたのがその過半である。当時、仏教が一般世人の思想を動かしていなかったことはこれでもわかる。挽歌の如き、仏教思想の混入し易い性質のものですら、そういう形跡は甚だ少ない」
これに異論を唱えるのは、上田正昭氏(現、京都大学名誉教授)である。
「『万葉集』のなかにも、仏教的要素は出て来るんです。憶良にしても、旅人にしても、あるいは家持にしても、儒教的な要素とともに仏教の影響がある。道教的な色彩の歌もある。万葉が純粋に日本文化的なものだと考えることは『万葉集』のなかみとはずれた議論になる。万葉をささえている精神構造のなかにも、仏教、儒教、道教などがミックスされている」
それをさらに推し進めて、万葉研究の第一人者として知られる中西進氏は、「万葉の時代と風土」のなかで次のように述べている。
「そもそも、万葉集の歌を出発せしめたものが、古代朝鮮からの衝撃力であった。…あの白村江の戦がなければ万葉集もなかったかもしれない。…(百済王朝の滅亡に)よって百済の政府高官たちは倭に亡命。その結果、百済の文化を倭がひきつぐという形で、歴史が流れていった。その中で誕生したのが万葉集である。もちろん、文学の生成なるものは徐々に行われるもので、突然変異的なものではない。すでに先立って、和歌は歌謡からの自立をしはじめていたが、その自然発生的な進展に対して、これを飛躍的に生長させたものが、天智朝のできごとであった」

 文章が紹介しますように万葉歌には仏教観を抜きに鑑賞が出来ない歌は多く存在します。例として以下に二首を紹介しますが、これらは仏教観なしでは鑑賞できないことに同意いただけると確信します。歌の歌い手とその歌を受ける人には共通した「世間と云うものへの無常観」があります。

沙弥満誓謌一首
標訓 沙弥満誓の謌一首
集歌351 世間乎 何物尓将譬 且開 榜去師船之 跡無如
訓読 世間(よのなか)を何に譬(たと)へむ且(そ)は開(ひら)き榜(こ)ぎ去(い)にし船し跡なきごとし
私訳 この世を何に譬えましょう。それは、(実際に船は航海をしても)帆を開き帆走して去っていった船の跡が残らないのと同じようなものです。
注意 原文の「且開」の「且」は、一般に「旦」の誤記として「旦開」とし「朝開き」と訓みます。歌意は大幅に変わります。

悲傷膳部王謌一首
標訓 膳部王を悲傷(かな)しむ謌一首
集歌442 世間者 空物跡 将有登曽 此照月者 満闕為家流
訓読 世間(よのなか)は虚しきものとあらむとぞこの照る月は満ち闕(か)けしける
私訳 人が生きる世界は何と虚しいものであろうか。貴方が亡くなられたのに、この大地を照らす月は、ただ、何もなかったかのように満ち欠けをする。


 もう少しインターネットで遊びますと、次の文章に出合います。

<参考資料 一>
1.仏教における浄土への転生
(1)六道輪廻 -仏教における死後の世界
仏教における世界は、無色界、色界、欲界の「三界」で構成されており、その最下層の欲界は六段階で構成されている。その六つの段階は、天・人・修羅・畜生・餓鬼・地獄からなり、これを「六道」という。そして人間の魂は、この六道の中を輪廻転生(りんねてんしょう)すると考える。したがって死とは、魂が次の世界へ転生することであった。
この思想は、インドにおいて古来行われてきたものであるが、仏教思想を通して伝来する中で、中国、日本においては人の生を無限の過去から未来へと開く、新しい思想として受容された。すでに、古く万葉集の中でも、

この世には人言しげし来む世にも逢はむわがせこ今ならずとも (高田女王)
この世にし楽しくあらば来む世には虫に鳥にも我はなりなむ (大伴旅人)

などと、輪廻転生の思想がうたわれている例を見る。

<参考資料 二>
人麻呂歌集所出の『万葉集』巻第七-一二六九番歌の「徃水之 三名沫如 世人吾等者」の表現に仏教の無常観の影響があるか否かは議論が別れる。仏典の影響を考える立場からは『維摩経』の十喩とこれに基づく謝霊運の詩の影響が指摘されている。本稿ではさらに天武・持統の時代は『金光明経』が重んじられ、薩・太子の説話の受容も想定されるので、人麻呂はその無常の認識と表現の影響も受けた可能性が高い。


 紹介しました<参考資料>に示す例歌として原歌表記に「三輪」と云う地名に対して歌の要請から「三和」と云う仏教用語を使用したと思われるものを以下に紹介します。当然、これらのものは原歌表記に立ち返って初めて判明するものであって、鎌倉時代からの伝統である原歌を翻訳した成果である訓読み万葉集をテキストにするものでは見えてこない世界です。

<「三輪」ではなく「三和」の表記を使う歌>
集歌1119 往川之 過去人之 手不折者 裏觸立 三和之檜原者
試訓 往(ゆ)く川し過ぎにし人し手折(たを)らねばうらぶれ立てり三輪し檜原は
試訳 流れいく川のように過ぎて去ってしまった人が、もう、手を合わせて祈ることがないので寂しそうに立っている三輪の檜原の木々は。
注意 ここでは試訓として、仏教の外縛印で合掌をする風景を想像して解釈してみました。なお、人麻呂時代から明治初期までは三輪は大三輪寺を中心とする仏教寺院が立ち並ぶ仏教の聖地です。その仏教聖地に関係するためか、原文は三輪ではなく唯識論の「三和」です。


 ご存知のように飛鳥浄御原宮、藤原京、前期平城京時代の仏教は、まだまだ、念仏仏教でも葬儀仏教でもありません。その時代の仏教僧侶は世界最先端の科学者であり哲学者ですし、国家公務員です。また、万葉集歌を詠う貴族階級はそのような時代の最先端を行く仏教僧侶を指導し、時に対等に思想問答を行うだけの教養を持つ知識人たちです。そこが平安時代以降の念仏仏教と信者との関係などとの違いがあり、それゆえに万葉集には仏教の色が見えないという頓珍漢な感想文が流布した背景なのでしょう。

 今回は表面をなぞる形で万葉集に見る仏教の影響を紹介しましたが、本質的には奈良時代の神道と仏教の関係、神道と墨子・道教の関係(伊勢皇大神宮の儀礼や延喜式祝詞に墨子・道教の影響がみられる)、仏教と道教の関係(経典にクロスオーバーしている事例がある)をも視野に入れるべきものです。ただそれは日給月給の建設作業員には非常に荷の重い話です。そのような考察は若い皆さんに期待致します。
 万葉集の歌々は当時の人々の生活を詠いますから、紹介しました神道、仏教、墨子、道教などの精神世界の影響を無視して歌は鑑賞が出来ないと思います。つまり、「大和心の素直な神道的な面」と云う特別な思想から万葉集を鑑賞するのは誤ったものですし、万葉集を十分に理解できていない証でもあります。もう、江戸期でも明治期でもありません。まして、昭和でもありません。色眼鏡なく素直に万葉集歌を楽しんでいただければと考えます。
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万葉雑記 色眼鏡 百六二 読書感想文「万葉集をどう読むか 神野志隆光」

2016年03月19日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 百六二 読書感想文「万葉集をどう読むか 神野志隆光」

 今回は、本の紹介をします。
 少し古い本になりますが、2013年9月に東京大学出版会から出された「万葉集をどう読むかー歌の『発見』と漢字世界」(神野志隆光)と云う書籍があります。
 この本の著者である神野志隆光氏は本末に示す著者紹介と主要著書が示すように万葉集の専門家と云うより「古事記」や「日本書紀」の専門家です。この本はそのような「古事記」や「日本書紀」に載る記紀歌謡をも研究した立場から近年の万葉集研究状況を俯瞰して概説を述べられたものとなっています。このような背景がありますので、多くの万葉集研究者のような標準的な仲間内で通じる理論や伝統を採用していない分、新奇性や独特な視点からの指摘や論説が述べられています。
 例えば、「全体として見れば、七世紀段階のみならず、八世紀段階においても木簡に歌を記すことは一字一音の仮名書記によるのが通常であったといえます」(13頁)と指摘されています。これを前提としますと、万葉集の書記スタイルは当時の通常ではない、特別な書記スタイルとなります。すると、実作された年代の判る万葉集歌では最初期に当たる柿本人麻呂の作歌が漢詩体や非漢詩体で書記されたのは、なぜなのかと云う問題に対面します。神野志氏はこれを問題とし、それで著書の副題に「歌の『発見』と漢字世界」と付けられたのであろうと推測します。ただし、「あとがき」に紹介するように、この本は東京大学学生に対して行った一般教養授業で使用したプリント(「方法基礎・テクスト分析」の講義ノート)が由来です。つまり、あまり古典文学に馴染みのない学生向けに概論として万葉集と云うものを紹介し、その紹介のさわりとして近年の万葉集研究状況を俯瞰して概説を述べたものです。そのため、近代の周辺研究の進歩から見た時、従来の万葉集学に対する不満や問題点の提起をしますが、そこまでで終わっています。先の人麻呂の漢詩体や非漢詩体による書記スタイルと一字一音による仮名書記によるのが通常であったというギャップ、つまり、飛鳥浄御原宮から藤原京時代の人びとの詠う歌の書記スタイルが通常の書記スタイルでなかったというのはなぜかの答えはありません。
 講義ノートではそのような疑問を提議したまま、先に走ります。

 他方、この本の特徴は万葉集研究者ではなく、「古事記」や「日本書紀」の専門家として漢文・漢字文字を正確に読み解いていた研究者の立場から、万葉集と云う作品をその原歌表記から正確に読み解けと主張していることにあります。伝統だからこのように読む、先達がこのように読んだのだからそれを踏襲する。そのような安易な態度を否定しています。(氏はこのような態度を「読書感想文」と切って捨てます。) 神野志氏はその訓じた根拠は何かを確認します。
 改めて、この本は東京大学の学生向けの一般教養講義で使用した講義ノートがベースです。つまり、これから研究者へ赴く若い学生に、教育者として学問研究の態度を明確に示し、若き人々を導く必要があります。それが「その訓じた根拠は何かを確認する」と云う態度に現れて来ます。引用、また、引用での研究ではなく、きちんと正確なテキストを使い基礎から研究しなさいと示し、読書感想文のような研究は止めろとされています。
 その講義ノートでは人麻呂歌集の「玉垣入風所見」での「風」を「ほのかに」と訓じる根拠を問い、また、「心哀」や「惻隠」と云う漢語表記を「ねもころ」と訓じる根拠を問うています。他方、万葉集研究者であっても、これらは表語文字である使う漢字の意味と訓じた日本語の言葉とがただちには結びつかないような関係として「非対応訓」と云う術語を創ることで伝統の訓じとして処理されていることを認めます。つまり、根拠の無いが、ただ、それは伝統の訓じであることを認識しています。一方、本来の万葉集の原歌表記からすれば「漢字の意味とことばとがただちには結びつかないような関係」と認めていることからして、その解釈はまったくに採用されないものであることは明白です。その状況を神野志氏は「表記は表記として表現性を持つと見ておくべき」との山崎福之氏の言葉を借りて批判しています。
 結局、神野志氏は万葉集を信頼できるテキストを下に原歌表記から扱っているのですが、一般の万葉集研究者は古本万葉集からの訓読み万葉集を以って原歌の代表としていることに由来しているのではないでしょうか。「あとがき」に記す「学的方法としてテキスト分析を学ぶことをめざすものである」と云う主張に帰結するのでしょう。


 以下、内容の紹介は端折りますが、一般の万葉集初心者にとって面白い本ですし、万葉集入門の次に位置する本であります。また、これから研究者へ赴く若い学生への講義と云う性質から、使う資料は近代の万葉集研究を俯瞰できるものを本で紹介しています。ただ、まだ、残念ながらアマゾンでも安価となる古本は出回っていません。そのため、3000円+税金と云う非常に高価な新刊本を購入する必要があります。さはありますが、機会があれば、ぜひ、手にして頂きたい本と思います。
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万葉雑記 色眼鏡 百六一 宋本廣韻と万葉集

2016年03月12日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 百六一 宋本廣韻と万葉集

 ご存知のように万葉集の和歌は漢語と万葉仮名と称される音を示す漢字だけで表記された作品です。そのため、万葉集の和歌を歌として鑑賞するには、その当時の発音を想像する必要があります。
 古くからご来場の方はご承知のことと思いますが、弊ブログは歌の解釈に行き詰りますとHP「漢典」を参考にし、その「漢典」で紹介する『康煕字典』、『説文解字』や『宋本廣韻』を引用します。例として「娉」と云う漢字を上げますと、「娉」は儀礼に適う訪問を表現したもので、「聘」は訪問儀礼を簡素化した訪問を意味します。つまり、遣唐使大使に代表される国際語に堪能な奈良貴族たちの理解と平安後期以降の和製漢語(解釈)を常用する平安貴族との理解は大きく違う可能性があります。

例:「娉」と云う漢字の原義
康煕字典:《說文》娉,問也。聘,訪也。雖女耳分部,義通。
説文解字:(娉) 問也。凡娉女及聘問之禮古皆用此字。娉者、專詞也。聘者、氾詞也。
宋本廣韻:高本漢 pʰi̯ɛŋ、王力 pʰiɛŋ

 漢字の原義からしますと、高貴相手に対しての改まった訪問を「娉」と云う漢字で表しますから、男女の秘められた密会と云う意味合いはないでしょう。つまり、何らかの宴会での戯れの相聞歌を記録し、それを公式に扱えばそれぞれの「身分」と云うものが表に現れて来るのでしょう。それで「郎女」と云う三位以上の身分を持つ子女への敬語となったとみなす必要があるのでしょう。

大伴宿祢娉巨勢郎女時謌一首
大伴宿祢、諱曰安麻呂也。難波朝右大臣大紫大伴長徳卿之第六子。平城朝任大納言兼大将軍薨也
標訓 大伴宿祢の巨勢郎女を娉(よば)ひし時の歌一首
追訓 大伴宿祢、諱(いみな)を曰はく「安麻呂」といへり。難波の朝(みかど)の右大臣大紫大伴長徳卿の第六子なり。平城の朝(みかど)に大納言兼(あはせて)大将軍に任けられ薨(みまか)れり。
集歌101 玉葛 實不成樹尓波 千磐破 神曽著常云 不成樹別尓
訓読 玉(たま)葛(かづら)実(み)成(な)らぬ木にはちはやぶる神ぞ着(つ)くといふならぬ樹ごとに
私訳 美しい藤蔓の花の実の成らない木には恐ろしい神が取り付いていると言いますよ。実の成らない木にはどれも。それと同じように、貴女を抱きたいと云う私の思いを成就させないと貴女に恐ろしい神が取り付きますよ。

巨勢郎女報贈謌一首 即近江朝大納言巨勢人卿之女也
標訓 巨勢郎女の報(こた)へ贈りたる歌一首
追訓 即ち近江朝の大納言巨勢(こせの)人(ひとの)卿(まへつきみ)の女(むすめ)なり
集歌102 玉葛 花耳開而 不成有者 誰戀尓有目 吾孤悲念乎
訓読 玉(たま)葛(かづら)花のみ咲きて成らざるは誰が恋にあらめ吾(わ)が恋ひ念(も)ふを
私訳 美しい藤蔓の花のような言葉の花だけがたくさんに咲くだけで、実際に恋の実が実らなかったのは誰の恋心でしょうか。私は貴方の私への恋心を感じていましたが。


 ここまでは前置きです。
 今回は、個人的な覚書を補完するために記事にしており、あまり、面白い話ではありません。弊ブログでは、従来の解釈と原歌表記とのギャップがあるとき、歌の解釈に行き詰まるとHP「漢典」を利用して『説文解字』や『宋本廣韻』を利用していますと紹介しましたが、これは標準的な万葉集の鑑賞からしますと一般的ではありません。
 標準では『宋本廣韻』ではなく、『韻鏡』というものを使い、万葉集時代の音韻を探ります。この状況を岐阜女子大学の住谷芳幸氏は「広韻・韻鏡データベース」と云う報告書で次のように報告します。

中国中古音を知るための基礎的な資料は陸法言の『切韻』(601年)であろう。しかし,『切韻』は現存せず,そのため切韻系韻書の最終的な増補改訂版である『大宗重修広韻』(1008年,以下では『広韻』とする)が利用されることが多い。韻書である『広韻』では,漢字の音は反切により示される。この反切を系聯することで,中国中古音の枠組みを知ることができる。ただし,反切系聯法によって知ることのできる音の枠組みは,漢字相互の相対的な関係であり,具体的な音ではない。具体的な音を知るために『韻鏡』などの韻図が利用される。(広韻・韻鏡データベース:住谷芳幸、岐阜女子大学 2005年)

 このように説明されています。
 確かに元々の『広韻(宋本廣韻)』は中国語を母語とする人向けに同音字となる漢字相互の相対的な関係を示すだけですので、中国語を理解できない外国人には使い勝手の悪いものです。しかしながら、近代中国では伝存していた『切韻指掌図』や再発見された『宋本廣韻』、はたまた、唐漢詩の押韻問題などから急速に自国の中古言語の研究が進み、HP「漢典」に載せる『宋本廣韻』には中国中古音の復元案が、複数、載せられています。逆にこれらは近代言語学からの成果であるがため、南宋時代の研究書と思われる『韻鏡』よりも使い勝手のよいものになっています。
 他方、幣ブログは日給月給の建設作業員が開くものであって、正規の教育を受けていません。そのため、住谷氏の研究や橋本進吉氏の上代特殊仮名遣いの研究には全くに疎いところがあります。あくまで、馬鹿の一つ覚えでの『説文解字』であり、『宋本廣韻』です。このような背景がありますから、HP「漢典」に載せる『宋本廣韻』の中国中古音復元案と日本で提案する『韻鏡』からの中古音復元案との相互関係は判りません。また、どちらがより唐代の音韻に迫っているのかも判りません。
 参考としまして、上代特殊仮名遣いにおける<き>について、甲音に「吉」が含まれていますが、HP「漢典」に載せる『宋本廣韻』からの中国中古音復元案では、伎(giex/gyee)、岐(gje/gie)、祁(gjii/gi)、妓(giex/gyee)と吉(kjit/kit)では発声が違うようです。同じく、乙音に「騎」が含まれるとしますが、奇(kie/kye)、紀(kix/kiio)、貴(kyoih/kvoy)と騎(gie/gye)では発声が違うようです。どちらかと云うと吉(kjit/kit)は乙音に属した方が、逆に騎(gie/gye)は甲音に属した方が発声は近いと思われます。このように『宋本廣韻』からの中国中古音復元案と日本で提案する『韻鏡』などからの中国中古音復元案では、素人考えを下にしますと相違するものがあります。なかなか、一筋縄ではいかないような領域のようです。
 このように『宋本廣韻』からの中国中古音復元案と日本で提案する『韻鏡』などからの中古音復元案では音字発声が違う可能性があります。このため、伝統として処理されて来た和歌の詠いについて原歌の漢語・漢字表記に立ち戻り、その発声を考えますと、可能性として歌が従来のものと違ってくることも有り得ることになります。暴論・酔論と思うか、面白いと思うかはお任せしますが、このような可能性はご承知いただければ幸いです。


 ここで、取り上げています書物の解説を以下に照会します。その方が、ここまでの訳の判らない素人の酔論や暴論を目にするより、万葉集読解における中国中古音復元案に対する問題点への理解が進むのではないでしょうか。


『宋本廣韻』
北宋の陳彭年らが敕命によって編纂した韻書。北宋の真宗のとき、従来の韻書に誤りが多く、科挙の標準として差し支えがあったため、勅命によって『廣韻』が作られた。正式には『大宋重修廣韻』といい26194字を206韻に分類して収める。六朝から唐代の中古漢語を知るためには不可欠な資料である。唐代の詩人は、本書のもとになった『切韻』を作詩の基準としたが、『切韻』の原本はなくなってしまったため、『廣韻』の存在は重要である。
『廣韻』は明代には忘れ去られていたが、顧炎武が再発見してその重要性が注目されるようになった。しかし顧炎武が発見した明内府本は節略本であり、顧炎武の没後の清朝に本来の『廣韻』が再発見された。
普通使用するには、周祖謨の校勘による『宋本廣韻』(藝文印書館)がいいが、より詳細なものとしては、林尹『新校正切宋本廣韻』(黎明文化事業公司)、余迺永『互註校正宋本廣韻』(聯貫出版社)、さらにそれを増補した『新校互註宋本廣韻』(中文大學出版社)がある。(ウキィペディア)


『韻鏡』
韻鏡(いんきょう)とは等韻図の一つ。現存する最古の韻図である。『切韻』系韻書の音韻体系を巧みに図式化しており、中古音の復元に際して参考とされることが多い。(ウキィペディア)
中国の韻図。作者,成立年代未詳。張麟之 (ちょうりんし) の序文のついた 1161年,1197年,1203年の各版があったが,その後中国では失われてしまい,鎌倉時代初期に伝わった日本で,中国音韻学の研究に利用された。(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)
南宋の鄭樵『通志』七音略に引用する「七音韻鑑」は実質的に『韻鏡』と同内容だったが、北宋の司馬光の作とされていた『切韻指掌図』の方が古いと思われていたため、あまり重視されなかった。 清末に中国で失われた本を日本で収集した黎庶昌・楊守敬らによって出版された『古逸叢書』に『韻鏡』が含まれ、これによって中国でも存在が知られるようになった。(用例.JP)
漢字音は支那語でありますから、支那語の発音がわかれば、それで写した日本語の発音も大体見当がつく訳ですが、しかしこれは現代の支那語でなく古代の支那語ですから、その音を知るのはなかなか困難であります。 けれども、古くから日本に用いられている『韻鏡』という書物がありまして、これは古代の支那語の音を、日本の五十音図と同じ原理で、最初の子音の同じものは同じ行に、終の音の同じものは同じ段に並べて図にしたものですから、これによっても、古代支那語の音は或る程度まで知られるのであります。(橋本進吉『古代国語の音韻に就いて』用例.JP )


『字音仮字用格』
安永4年(1775)の須賀直見と自序がある。翌5年1月刊行。刊行書肆、江戸須原屋茂兵衛、松坂田丸屋正蔵、柏屋兵助、京都菊屋七郎兵衛、正本屋九兵衛、銭屋利兵衛。
内容は、漢字音を仮名で書く場合の同音の書き分けを、古代の用法に則して正し、仮名遣いを定めたもの。まず、ア・ヤ・ワの3行の音の違いについて「喉音三行弁」、「おを所属弁」で論じ、五十音図で「お」は「ア行」に、「を」は「ワ行」に所属することを明らかにした。
次に「字音仮名総論」の項において中国の音韻書『韻鏡』と仮名遣いの関係を説き、イ・ヰ、エ・ヱ、オ・ヲ、及びこれを含むもの、ウ、フと書かれて紛れやすいものについて項目を立てその下にその仮名で書く漢字を列挙し、『韻鏡』と古文献の用例によって説明を与え、漢音、呉音の別も指摘する。字音仮名遣いについては、それまでも研究があったが、本書はそれを本格的に取り上げ、その説明に『韻鏡』と万葉仮名を結びつけたのは本書が最初である。(本居宣長記念館)


『上代特殊仮名遣い』
上代特殊仮名遣いとは、上代日本語における『古事記』・『日本書紀』・『万葉集』など上代(奈良時代頃)の万葉仮名文献に用いられた、古典期以降には存在しない仮名の使いわけのことである。
上代特殊仮名遣はまず本居宣長によって研究の端緒が開かれた。石塚は万葉仮名においてはエ・キ・ケ・コ・ソ・ト・ヌ・ヒ・ヘ・ミ・メ・ヨ・ロ・チ・モの15種について用字に使い分けがあると結論づけた。宣長・石塚によるこの研究は長く評価されずに埋もれていたが橋本進吉によって再発見され、1917年、「帝国文学」に発表された論文「国語仮名遣研究史の一発見――石塚龍麿の仮名遣奥山路について――」以降、近代日本の国語学界でさかんに論じられるようになった。橋本は音価の推定にはきわめて慎重で、断定的なことは述べなかった。


 以上、資料を紹介しましたが、資料が語るように六朝から唐代の中国中古音の復元は非常に若い学術分野です。それも『宋本廣韻』については中国の出版社からのものに頼るような姿です。ここから推測するに、万葉集の和歌は平安末期から鎌倉初期の伝統を重んじていますが、学術的には遣唐使の大陸での状況から人々が漢字発音では六朝から唐代の中国中古音に従ったと思われる奈良時代から平安時代初期に詠われていた万葉集和歌の姿と一致するかは保証されないのです。
 逆に眺めてみますと、現在の訓読み万葉集の読みは平安末期から鎌倉初期の京都の貴族たちは「このように和歌を楽しんでいたであろう」というものです。従いまして、老人からしますと今の若い研究者によって、『宋本廣韻』などから復元された六朝から唐代の中国中古音に従った「万葉集の読解」が進むことを期待したいと思います。IAの時代、西本願寺本に準拠した原歌の電子データは存在します。そこから漢字文字を抽出し、文字に中国中古音を割り当て、発声のデータベース化を行うことは難しくはないでしょう。
 奈良貴族たちが楽しんだであろう、本当の和歌を聞いてみたい好奇心があります。誰か、奇特なお方、貴方の卒論のテーマとして取り上げて見ませんか。お願いします。
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万葉雑記 色眼鏡 百六十 太宰府海路は南海道なのか

2016年03月05日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 百六十 太宰府海路は南海道なのか

 インターネット百科事典であるWikipediaには律令体制での税金である租庸調について「調・庸・調副物は京に納入された。納入する人夫を運脚といい、かかる負担は全て自弁であり大きな負担となった」との解説があります。これが古くからの通説のようです。
 一方、平安時代初期に運営されていた行政をまとめた『延喜式』には、以下に示す調・庸・調副物は京に納入するときの労働代価となる運賃規定「諸國運漕雜物功賃」の他に運搬を担当する運脚への往復での食糧の支給規定があります。

1. 右運漕,功賃並依前件。其路粮者各准程給、上人日米二升、塩二勺、下人減半。
2. 凡調庸及中男作物、送京差正丁充運脚、餘出脚直以資。脚夫預具所須之數、告知應出之人、依限検領、准程量宜、設置路次。起上道日、迄于納官、給一人日米二升、塩二勺。還日減半。
(注:上人、下人は身分ではなく、「上る人」、「下る人」を意味します。つまり、帰路はこの食料支給規定からすると上京の倍の速度で旅する必要があります。また、律令時代の米一升は現代の約米五合に相当します。)

 つまり、従来説明されてきた調物や庸物を都に運搬する運脚は自己負担で食料と旅費を支弁するという説明は、『延喜式』の規定からは間違いです。ただし、規定に定める往復日数に対しての食糧の支給ですから、都での検収滞在、往復の旅行中の天候不良による通行不能や怪我や疾病による余分な滞在には追加の食糧は支給されないというリスクはあります。あくまで、順当な旅程への食糧支給です。
 当然、怪我や疾病の程度によっては支給された食料が尽き、行き倒れる可能性はあります。これは旅行の継続が不能となるような重大な怪我や疾病の場合です。このようなケースを指摘して、「かかる負担は全て自己負担であり大きな負担となった」と歴史解説の作文根拠とはできません。ただし、養老律令の賦役令の規定から重患の状態で駅家にたどり着いた場合、駅家が宿舎・食事・医療を支給する規定があります。公式制度はこのように成っています。まず、『延喜式』の格式規定が優先のはずですし、大宝律令時代も養老律令体制と同等な格式が適用されていたと考えるべきと思います。
 また、調物や庸物を都に運搬は郡家にその郡に割り当てられた物品を集約して、次に示す規定に従い一定量で荷造りを行い、運搬キャラバンを組み、上京することになります。てんでバラバラに調物や庸物を都に運搬するのではありません。まず、Wikipedia租庸調の記述はこの律令格式の規定すら知らないで解説している可能性があります。たぶん、これらの記述は私のような歴史好きの素人が想像で記述したのでしょう。当然、駅伝馬規定から街道にはこの調物や庸物を都に運搬するための馬は常備されています。「諸國驛傳馬」の条項はそのための規定です。

 凡一駄荷率、絹七十疋、絁五十疋、絲三百絇、綿三百屯、調布三十端、庸布四十段、商布五十段、銅一百斤、鉄三十廷、鍬七十口。
 凡公私運米、五斗為俵、仍用三俵為駄、自余雑物、亦准之。其遠路国者、斟量減之
注意:奈良時代の重量が大唐に従いますと1斤は約600gですから、一駄荷は約60㎏と推定されます。また、古代の籾米五斗は現代の二斗に相当し約20㎏と推定されていますから、荷駄馬に三俵を積む規定は約60㎏に相当します。つまり、60㎏前後が一駄荷になるようです。

 ここには律令体制への色眼鏡があります。『延喜式』もまた適切に読解し解釈すべきと考えます。

 紹介しましたように、平安時代の朝廷の行政施行令を記録した書物に『延喜式』と云うものがあります。この中で「諸國運漕雜物功賃」と云う規定があり、この規定は諸国から平安京までの調物や庸物を運搬するときの運賃や作業員報酬を定めたものです。
 この「諸國運漕雜物功賃」を使いますと平安京からの経済距離が判りますので、この経済距離から隣り合う国の平安京からの遠近が定まります。ここから経済距離から推定される交通路が求められます。これに「諸國貢調」で定める平安京への旅程を組み合わせると、ほぼ、交通路が復元出来ます。前回のブログ「雑記 百五九 石見国 その特殊性」で示しましたように、出羽国は東山道諸国ですが連絡道は越後国を経由しての平安京との連絡ですし、石見国は長門国を経由して山陽道を使って平安京と連絡します。また、因幡国・出雲国が山陽道美作国を経由して瀬戸内海を使って平安京と連絡します。これは一般的な解釈とは違いますが、延喜式に載る「諸國運漕雜物功賃」と「諸國貢調」を適用しますと、導き出される結論です。経済距離を基準としますから、まず、動かない事柄です。そこが恣意的に創作活動の許される文学や社会学と経済性と規律を優先する行政律との違いがあります。

 こうした時、「諸國運漕雜物功賃」に一般常識を覆す規定があります。律令七街道時代、南海道と云う平安京から四国への連絡する街道があります。この南海道の運漕雜物功賃のリストに太宰府への海路のものが次のように含まれています。

太宰府海路: 自博多津漕難波津船賃,石別五束,挾杪六十束,水手四十束。自餘准播磨國
播磨國海路: 自國漕與等津船賃,石別稻一束,挾杪十八束,水手十二束。自與等津運京車賃,石別米五升,但挾杪一人,水手二人漕米五十石。
注意:「與等津」 は淀津であり、現在の京都市伏見区淀町付近の淀川・巨椋池水運の港

 不思議でしょう。太宰府海路は瀬戸内海北沿岸ルートである山陽道海路ではないのです。もし、山陽道海路を使うとしますと、次のような規定がありますから、太宰府と長門国との船賃が非常な割高になります。一方、太宰府海路を含む南海道においても太宰府と伊予国との船賃が異常な数値となります。

長門國: 自國漕與等津船賃、石別一束五把,挾杪四十束,水手三十束。自餘准播磨國
伊豫國: 自國漕與等津船賃、石別一束二把,挾杪三十束,水手廿五束。自餘准播磨國
太宰府: 自博多津漕難波津船賃,石別五束,挾杪六十束,水手四十束。自餘准播磨國

 もう一つ。
 山陽道、南海道のいずれの海路も播磨國を経由して淀川水系を遡り、巨椋池を利用して與等津(=淀津)へと航行する航路です。途中での乗せ換えは想定していないようです。およそ、この目的地である内水港湾である與等津の港湾機能から推定して、船長15m、喫水1mほどの100石積の丸子船のような、比較的、小中規模の船舶を使用したと思われます。
 一方、太宰府海路は外航船寄港が可能な博多津から難波津への航路です。内水港湾である與等津への航路ではありません。これは壱岐対馬航路や外航航路に使用できるような、ある種の新羅船級サイズとなる1000石積の大型船(船長30m、喫水2.5m)での運行であったためと考えられます。つまり、太宰府海路は博多津から難波津への航路において、瀬戸内海南岸沖合を直行する航路を採用していた可能性があります。ただし、このような大型船の運行は、石別五束の規定からして1000石積の大型船では5000束と云う非常に高額なものになります。1束は籾米1斗ですから、5000束の運賃は500石となります。貨物として米を積んだとしますと積荷の半分以上が運賃となります。ただ、延喜式にも示すように米は原則として地域内消費材であり、都に搬入するのは運賃の安い限定された諸国だけです。歴史学者は時に観念や希望で歴史を語りますが、律令時代の行政官は、原則、経済合理性を優先します。従いまして、太宰府海路で米を大宰府から都へ搬入することは平常時ではありません。逆な視点からしますと、太宰府海路の積荷は高価な品物が中心であったことになります。ここから安価なものは山陽道海路を使った方が経済合理性を持つことになります。

 しかしながら、万葉集には大伴旅人が大宰府から奈良の都に戻る道中を詠った歌があります。

天平二年庚午冬十二月、太宰帥大伴卿向京上道之時作謌五首
標訓 天平二年庚午の冬十二月に、太宰帥大伴卿の京(みやこ)に向ひて上道(かむだち)せし時に作れる謌五首
集歌446 吾妹子之 見師鞆浦之 天木香樹者 常世有跡 見之人曽奈吉
訓読 吾妹子(わぎもこ)し見し鞆浦(ともうら)し室木(むろのき)は常世(とこよ)にあれど見し人ぞなき
私訳 私の愛しい貴女が眺めた鞆の浦の室木は、常にこの世に生えているのに、それを眺めた人はこの世にない。

集歌449 与妹来之 敏馬能埼乎 還左尓 獨而見者 涕具末之毛
訓読 妹と来し敏馬(みぬめ)の崎を還(かへ)るさに独(ひと)りし見れば涙ぐましも
私訳 愛しい貴女と奈良の京から来た敏馬の埼を、筑紫からの帰還の折に独りだけで眺めると涙ぐむ。

 この歌からしますと、都からの下向と都への上京は現在の広島県福山市鞆地区となる鞆浦と神戸市灘区付近である敏馬を経由していますから、これは確実に山陽道海路を使ったと推定されます。
 一方、大宰府で重病になった大伴旅人を見舞うために都から派遣された大伴稲公と大伴胡麿は山陽道陸路を朝廷から渡された駅鈴に従って駅馬で移動したと思われます。

太宰大監大伴宿祢百代等贈驛使謌二首
標訓 太宰大監大伴宿祢百代(ももよ)等(たち)の驛使(はゆまつかひ)に贈れる謌二首
集歌566 草枕 羈行君乎 愛見 副而曽来四 鹿乃濱邊乎
訓読 草枕旅行く君を愛(うるは)しみ副(たぐ)ひにぞ来し志賀(しが)の浜辺(はまへ)を
私訳 草を枕にするような苦しい旅を行く貴方をいとしんで、連れ添ってやって来ました。志賀の浜辺を。
右一首、大監大伴宿祢百代
注訓 右の一首は、大監大伴宿祢百代

集歌567 周防在 磐國山乎 将超日者 手向好為与 荒其庭
訓読 周防(すはう)なる磐国山(いわくにやま)を越えむ日は手向(たむけ)けよくせよ荒(あら)しその庭
私訳 周防にある磐国山を越えて行く日は、神に手向けを十分にしなさい。荒々しいです。その神の座ます処は。
右一首、少典山口忌寸若麿
注訓 右の一首は、少典(せうてん)山口忌寸(やまぐちのいみき)若麿(わかまろ)

以前天平二年庚午夏六月、帥大伴卿、忽生瘡脚、疾苦枕席。因此馳驛上奏、望請、庶弟稲公姪胡麿、欲語遺言者。勅右兵庫助大伴宿祢稲公、治部少蒸大伴宿祢胡麿兩人、給驛發遣令看卿病。而逕數句、幸得平偏。于時稲公等、以病既療發府上京。於是大監大伴宿祢百代、少典山口忌寸若麿、及卿男家持等、相送驛使、共到夷守驛家、聊飲悲別、乃作此謌。
標訓 以前(さき)に天平二年庚午の夏六月、帥大伴卿、忽(たちま)ちに瘡(かさ)を脚に生(え)て、枕席に疾苦(くるし)みき。此に因りて驛(はゆま)を馳(は)せて上奏し、望請(ねが)はくは、庶弟(ままおと)稲公、姪(をひ)胡麿(こまろ)に遺言を語らむろすといへれば、右兵庫助大伴宿祢稲公、治部少丞大伴宿祢胡麿の兩人に勅(みことのり)して、驛(はゆま)を給(たま)ひて發遣(つかは)し、卿の病を看(み)しむ。而して數句(すうこう)に逕(いた)りて、幸(さきはひ)に平偏(へいへん)するを得たり。時に稲公等、病既に療(い)えたるを以ちて、府(つかさ)を發(たち)ちて京(みやこ)に上る。是に大監大伴宿祢百代、少典山口忌寸若麿、又、卿の男(をのこ)家持等、驛使(はゆまつかひ)を相送りて、共に夷守(ひなもり)の驛家(うまや)に到り、聊(いささ)か飲みて別れを悲しび、乃ち此の謌を作れり


 およそ、万葉集の歌などを見ますと、標準的な旅行は山陽道海路を使い、緊急時には駅馬を使用しての山陽道陸路を使ったと思われます。ただし、延喜式の規定に示すように準備期間を十分にとった大量かつ高価な物資の輸送には大宰府と難波大津とを結ぶ大型船による南海道海路の直行ルートを使用したと思われます。つまり、経済性と目的に求められる速度を勘案し、使い分けていたと思われます。非常に合理的な社会運営です。
 この反映が、額田王は南海道海路の直行ルートの途中となる現在の愛媛県松山市にあった熟田津の情景を詠い、柿本人麻呂が現在の香川県坂出市に含まれる讃岐狭峯嶋を詠った背景と考えられます。飛鳥浄御原宮から藤原京時代の七街道が十分に整備されていない状況下では難波大津と大宰府との連絡は、瀬戸内海を直行できる大船による連絡が一番確実で早いというものであったと考えます。

 ただ最後に問題が残ります。それは万葉集巻十五に載る遣新羅使たちはどうしたかです。
 ここで、天平十二年(740)九月三日に勃発した藤原広嗣の乱に関係して、その年の遣新羅使と遣渤海使の情報を提供すると次のようになっています。ただし、藤原広嗣の乱が鎮圧されたのは十月二三日のことですし、朝廷側の大将軍大野東人と反乱側の広嗣が板櫃河で対峙したのは十月九日です。つまり、朝廷側の船舶は九月から十月中旬にかけて、九州には寄港出来ないということになります。

四月二日、遣新羅使等拝辞。
四月二十日、遣渤海使等辞見。
九月二一日、勅大将軍大野朝臣東人等曰、得奏状知遣新羅使船来泊長門国。其船上物者、便蔵当国。使中有人、可採用者。将軍、宜任用之。
十月五日、遣渤海郡使外従五位下大伴宿禰犬養等来帰。
十月十五日、遣新羅国使外従五位下紀朝臣必登等還帰。

 今回も標準的な歴史や社会解釈とは違う言い掛かりのような与太話となりました。反省です。

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