竹取翁と万葉集のお勉強

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万葉雑記 色眼鏡 二一六 今週のみそひと歌を振り返る その三六

2017年05月27日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 二一六 今週のみそひと歌を振り返る その三六

 さて、この月は七夕の月でしょうか、満月の月でしょうか。なお、弊ブログでは集歌980から集歌987の歌までを一つの宴会で歌われた歌として鑑賞しています。この鑑賞態度はまったくに標準でのものと違いますので、注意をお願いします。

安倍朝臣蟲麿月謌一首
標訓 安倍朝臣蟲麿の月の謌一首
集歌980 雨隠 三笠乃山乎 高御香裳 月乃不出来 夜者更降管
訓読 雨(あま)隠(こも)る三笠の山を高みかも月の出で来ぬ夜は降(くた)ちつつ

大伴坂上郎女月謌三首
標訓 大伴坂上郎女の月の謌三首
集歌981 葛高乃 高圓山乎 高弥鴨 出来月乃 遅将光 (葛は、犬+葛)
訓読 猟高(かりたか)の高円山(たかまどやま)を高みかも出で来る月の遅く光(てる)るらむ

集歌982 烏玉乃 夜霧立而 不清 照有月夜乃 見者悲沙
訓読 ぬばたまの夜霧(よぎり)し立ちにおほほしく照れる月夜(つくよ)の見れば悲しさ

集歌983 山葉 左佐良榎牡子 天原 門度光 見良久之好藻
訓読 山し端(は)しささらえ牡士(をとこ)天つ原門(と)渡(た)る光見らくしよしも
右一首謌、或云月別名曰佐散良衣壮也、縁此辞作此謌。
注訓 右の一首の謌は、或は云はく「月の別(また)の名を『佐散良衣(ささらえ)壮(をとこ)』と曰(い)ふ、此の辞(ことば)に縁(より)て此の謌を作れり」といへり。

豊前娘子月謌一首  娘子字曰大宅。姓氏未詳也
標訓 豊前(とよさき)の娘子(をとめ)の月の謌一首  娘子(をとめ)は字(あざな)を大宅(おほやけ)と曰ふ。姓氏は未だ詳(つはび)かならず。
集歌984 雲隠 去方乎無跡 吾戀 月哉君之 欲見為流
訓読 雲(くも)隠(かく)り行方(ゆくへ)を無みと吾が恋ふる月をや君し見まく欲(ほ)りする

湯原王月謌二首
標訓 湯原王の月の謌二首
集歌985 天尓座 月讀牡子 幣者将為 今夜乃長者 五百夜継許増
訓読 天に坐(ま)す月読(つくよみ)牡士(をとこ)幣(まひ)は為(せ)む今夜(こよひ)の長さ五百夜(いほよ)継ぎこそ

集歌986 愛也思 不遠里乃 君来跡 大能備尓鴨 月之照有
訓読 愛(は)しきやし間(ま)近き里の君来むと大(おほ)のびにかも月し照りたる

藤原八束朝臣月謌一首
標訓 藤原八束朝臣の月の謌一首
集歌987 待難尓 余為月者 妹之著 三笠山尓 隠而有来
訓読 待ちかてに余(あ)がする月は妹し著(き)る三笠し山に隠(こも)りにありけり


 さて、以前にこの歌群を参考資料として取り上げ、宴会に招かれた藤原八束がなかなかやって来ないとの酔論を展開しました。つまり、集歌984の歌までは「月」で藤原八束を比喩している可能性があります。
 このような酔論はさておき、歌で歌われる月は満月でしょうか、それとも七夕の夜の三日月でしょうか。発想として、これらを組歌としますと月を主人公とする夜の宴会です。この点を強調しますと、観月祭か、七夕であろうという実にベタなものです。ただ、夕方以降に山から昇る月ですから満月でしょうか、およそ、七夕の月齢七日の月ではありません。
 万葉集では月に関係して「左佐良榎牡子」と「月人乎登古」との言葉があり、「月人乎登古」は集歌 3611の標題に示すように「七夕」の月に関係するものです。また集歌2051の「月人壮子」もまた歌が示す三日月のイメージから「七夕」の月に関係するものです。
 一方、「左佐良榎牡子」は満月のイメージがありますから、言葉に使い分けがあった可能性があります。この「左佐良榎牡子(ささら+え+をとこ)」や「ささらなみ」の「ささら」は古語では「細かい・小さい」と解釈しますが、場合によっては「きらきら輝く」とも解釈が可能ではないかと考えています。一般には「細かい・小さい」から「左佐良榎牡子」は「華奢な男」をイメージし、そこから三日月を引出します。ではそれで集歌981の歌と集歌983の歌とが同じ場で歌われたとしますと、坂上郎女は実際の月を見ることなく想像で詠ったとなければ月の出と月齢が合いません。文学に理屈は不要とすれば、それまでですが、集歌981の月は遅い月ですが、夜半に昇る月ではありません。つまり、三日月ではありません。

 以前、「今週のみそひと歌を振り返る その二五」でも遊びましたが、志貴皇子の御子である湯原王が高円山の別荘で開いた観月で歌を詠う宴会に安倍蟲麿、大伴坂上郎女、豊前娘子たちを呼びましたが、藤原八束が夕刻の空模様でなかなかやって来なかった場面を詠ったものかもしれません。
 その雲の晴れ行く待ち時間とやって来ない藤原八束とをテーマにバカ話をし、それを歌にしたのでしょうか。私は低俗ですから大人の男女関係のバカ話が好きで、時に、集歌984の歌は八束が贔屓にしている豊前娘子をわざわざ同席させているのに、その八束が来ないのは「お前さん、身ごもって、宴会の後のHが出来ないから、それでご贔屓の八束が来ないのじゃないの」とからかっていたかもしれません。若い娘が恋人に「月が無い」と発言しますと、ちょっとした重大事件です。八束が来るまでそのようにからかわれていますと、「無みと吾が恋ふる月をや君し見まく欲りする」と詠って、「私、八束の愛人よ」って皆の前で詠って八束に仕返ししても不思議ではありません。

 万葉集ではこのように遊ぶことが出来ます。
 改めて、今回、取り上げましたものを、私訳を付けて再掲します。

安倍朝臣蟲麿月謌一首
標訓 安倍朝臣蟲麿の月の謌一首
集歌980 雨隠 三笠乃山乎 高御香裳 月乃不出来 夜者更降管
訓読 雨(あま)隠(こも)る三笠の山を高みかも月の出で来ぬ夜は降(くた)ちつつ
私訳 雨に降り隠もれた三笠の山が高いからか、月が出て来ない、その夜は更けて行く。
注意 解釈として宴会に呼ばれた藤原八束を「月」と譬えて、なかなかやって来ないとも解釈が可能です。以下、集歌984の歌までは「月」で藤原八束を比喩している可能性があります。

大伴坂上郎女月謌三首
標訓 大伴坂上郎女の月の謌三首
集歌981 葛高乃 高圓山乎 高弥鴨 出来月乃 遅将光 (葛は、犬+葛)
訓読 猟高(かりたか)の高円山(たかまどやま)を高みかも出で来る月の遅く光(てる)るらむ
私訳 猟高の高円山は高いからか、それで山から出てくる月は夜遅くに照るのでしょう。(=藤原八束が遅れて来ること)

集歌982 烏玉乃 夜霧立而 不清 照有月夜乃 見者悲沙
訓読 ぬばたまの夜霧(よぎり)し立ちにおほほしく照れる月夜(つくよ)の見れば悲しさ
私訳 漆黒の夜に霧が立ったから、ぼんやりと霧に姿を示す満月の月夜は眺めると切ない。

集歌983 山葉 左佐良榎牡子 天原 門度光 見良久之好藻
訓読 山し端(は)しささらえ牡士(をとこ)天つ原門(と)渡(た)る光見らくしよしも
私訳 山の稜線に「ささらえ男子」が天の原の路を渡っていく、その印のような光を眺めることは気持ちが良いことです。
右一首謌、或云月別名曰佐散良衣壮也、縁此辞作此謌。
注訓 右の一首の謌は、或は云はく「月の別(また)の名を『佐散良衣(ささらえ)壮(をとこ)』と曰(い)ふ、此の辞(ことば)に縁(より)て此の謌を作れり」といへり。

豊前娘子月謌一首  娘子字曰大宅。姓氏未詳也
標訓 豊前(とよさき)の娘子(をとめ)の月の謌一首  娘子(をとめ)は字(あざな)を大宅(おほやけ)と曰ふ。姓氏は未だ詳(つはび)かならず。
集歌984 雲隠 去方乎無跡 吾戀 月哉君之 欲見為流
訓読 雲(くも)隠(かく)り行方(ゆくへ)を無みと吾が恋ふる月をや君し見まく欲(ほ)りする
私訳 雲に隠れ、その行方が判らないと私が心配する、その満月の月を、貴方は見たいとお望みになる。
注意 若い女性の「月」には別に「妊娠のきざし」という比喩もあり、「月を見た」のなら妊娠していないことになります。

湯原王月謌二首
標訓 湯原王の月の謌二首
集歌985 天尓座 月讀牡子 幣者将為 今夜乃長者 五百夜継許増
訓読 天に坐(ま)す月読(つくよみ)牡士(をとこ)幣(まひ)は為(せ)む今夜(こよひ)の長さ五百夜(いほよ)継ぎこそ
私訳 天にいらっしゃる月読壮士(=遅れってやって来た藤原八束)よ、進物を以って祈願をしよう。満月の今夜の長さが、五百日もの夜を足したほどであるようにと。

集歌986 愛也思 不遠里乃 君来跡 大能備尓鴨 月之照有
訓読 愛(は)しきやし間(ま)近き里の君来むと大(おほ)のびにかも月し照りたる
私訳 愛おしいと思う、間近い里に住む恋人がやって来たかのようにおほ伸びに(=大きく背伸びして)眺める。その言葉のひびきではないが、おほのびに(=甚だ間延びしたように)月が照って来た。(=藤原八束が遅れってやって来た)

藤原八束朝臣月謌一首
標訓 藤原八束朝臣の月の謌一首
集歌987 待難尓 余為月者 妹之著 三笠山尓 隠而有来
訓読 待ちかてに余(あ)がする月は妹し著(き)る三笠し山に隠(こも)りにありけり
私訳 待ちきれないと私が思った月は、雨に恋人が著ける御笠のような、その三笠山に隠れてしまっている。

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万葉雑記 色眼鏡 二一五 今週のみそひと歌を振り返る その三五

2017年05月20日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 二一五 今週のみそひと歌を振り返る その三五

 今回は奈良時代と平安時代以降の貴族たちの船に関する感覚について遊んでみます。
 まず、飛鳥時代、舒明天皇から天武天皇の時代、大和の軍勢が朝鮮半島へと出兵する作戦能力に疑問を持つ政治家はいません。日本書紀には、その出兵の結果、天智天皇の時代、白村江の戦いで唐・新羅連合軍に百済・大和連合軍が大敗したと記録します。この時、大和軍は百済方面と新羅方面との二方面軍(約四万人規模)を派遣していますから、それだけの軍勢に対する安定した渡海能力はあったと云うことになります。推定で大和軍は「新羅船」と称される30-40人乗りの外洋帆走船で渡海をしていたと思われます。対して、一隻120~150人を運んだとする遣唐使船から比べますと相当に小さいと云うことに成ります。研究では遣唐使船は船長が30mで積載能力150トン積(=八百石積)ほど、新羅船は船長が15mで積載能力40トン積(=二百石積)ほどであったと推定します。これは共に室町から江戸初期の弁財船相当の船級に括られるものです。しかしながら、船体重量等からして、従来、想定しています魯走などではありません。船舶工学や操船術からしますと弁財船と同じように莚帆を使用した帆走です。
 参考として、大和朝廷と新羅など朝鮮半島との政治的軋轢が無い時代は、日本と唐との交通路は新羅等の了承の下、朝鮮海峡から朝鮮半島西岸を北上し、山東半島を渡るルートを使用し、その後、大陸沿岸を南下して淮水を通じて大運河に入ったと思われます。この交通ルートに対し朝鮮半島との政治的軋轢が生じた時代は、遣唐使船は九州から一気に会稽沿岸を目指し、東シナ海を横断します。遣唐使船の海難事故の大半はこの東シナ海横断時に発生し、朝鮮半島ルートでは発生していません。遣唐使が命がけの渡航であったのは技術レベルと自然条件を無視し、政治だけで物事を処理した結果です。実質最後の遣唐使大使となった藤原常嗣は帰国に際し、新羅船を使用して朝鮮半島経由で無事に帰国しています。(新羅船十隻にて帰国、九隻は無事、一隻は大隅方面に漂流・漂着)なお、天平年間以降は新羅との関係は特に険悪になっています。
 このような背景を知らずに万葉集時代の船の歌を楽しむことは出来ません。

 そうした時、次の歌を見て下さい。船と云うものを考えますと、二句目の「棚無小舟」と云う言葉が重要です。

集歌930 海末通女 棚無小舟 榜出良之 客乃屋取尓 梶音所聞
訓読 海(あま)未通女(をとめ)棚無し小舟榜(こ)ぎ出(づ)らし旅の宿りに梶し音そ聞く
私訳 漁師のうら若い娘女が、側舷もない小さな船を操って船出をするようだ。旅の宿りを取る部屋にその船を操る梶の音だけが聞こえる。

 船で「棚」と云う言葉は「刳り船の船べりに、耐波性や積載量を増すために設けた板」を意味します。つまり、棚を持つ船とは丸太をくり抜いて造った丸木舟に竪板や、舷側板等の部品を組み合わせた準構造船という大型船を指します。そして、近年の実験航海などから準構造船クラス以上の大型船はその重量・波抵抗・潮流などから海上では魯や櫂による走行は困難で、帆走だったであろうと結論付けられています。
 およそ、集歌930の歌が詠う世界は、船べりの板を持たない小さな刳り船を漁師の娘が帆を使って操り、沖へと船出している風景と云うことになります。漢字の「榜」と云う文字は「進船也」と説明されますが、同時に「榜示」と云う言葉は公告・公示と説明されるもので棒を立て、その棒に告示を掲げる様を意味します。つまり、「榜」と云う漢字には船柱と似た姿があるのです。
 また、「梶」は船を操舵するもので、時に「梶」は「舵」であります。なお、「梶」には木梢と云う意味があり、ここから棒梶、棒梶は竿櫂と同じから船を進める意味が含まれるともします。船に関しては広い意味を持つ文字です。
 その「梶」に注目して次の歌を鑑賞します。ここで「梶」は船を操舵するものと解釈しています。水深の浅い川で舟を漕ぐ竿櫂とは解釈していません。ここが奈良時代の解釈と平安時代以降の解釈との相違があります。

集歌934 朝名寸二 梶音所聞 三食津國 野嶋乃海子乃 船二四有良信
訓読 朝凪に梶(かぢ)し音(ね)そ聞く御食(みけ)つ国野島(のしま)の海人(あま)の船にしあらし
私訳 朝の凪に梶の音だけが聞こえる。御食を奉仕する国の野島の海人の船の音らしい。

集歌936 玉藻苅 海未通女等 見尓将去 船梶毛欲得 浪高友
訓読 玉藻刈る海(あま)未通女(をとめ)ども見に行かむ船梶(ふなかぢ)もがも浪高くとも
私訳 玉藻を刈る漁師のうら若い娘女たちに会いに行こう。船やそれを操る梶があるならば、浪が高くとも。

 万葉集では「真梶繁貫」と云う言葉が示すように「梶」を梶穴に挿し込み準備をする様は大船の出港準備が整い、今、出港する姿をイメージさせる言葉です。その様からしますと、集歌934の歌において難波の離宮で山部赤人が梶の音を聞いたとしますと、夜釣で得た獲物をそのまま明石の野嶋から難波離宮へと御食となる魚を漁師が運んで来て、その運んで来た船の梶を入り江で停泊するために引き抜き準備して様と云うことになります。出港ではなく、入港と云うことです。
 他方、集歌936の歌は播磨國の印南野での風景を詠うもので、「真梶繁貫」と云う言葉に似、目の前に見える漁村の小ぶりの舟ですが、その浜に引き上げられている舟が梶などの準備が出来るなら、出かけて云ってうら若い女性に逢いたいものだというものになります。
 歌には景色は明確には見せませんが、言葉とその当時の様子を想像すると、もう少し、歌に風景が増すようです。

 今回は船に関係する言葉で歌に遊びました。
 平安時代は屋敷の内に苑池を設け、さらには塩焼きの景色までを再現しましたし、人々の行動範囲は宇治や近江大津程です。一方、奈良時代は実際に天皇以下、宮中の人々は、東は三河や伊勢、西は播磨までは行動範囲でしたし、大船や騎馬での旅行も経験しています。平安時代と奈良時代では宮中の女官たちの経験度合いはまったくに違います。舟と云うものも、苑池に浮かべる舟なのか、紀伊半島を航行する大船なのかを知る必要があります。奈良時代の大船の感覚は最低でも新羅船の15mほどの船を指し、平安時代では4mほどの苑池の舟です。
 このような感覚を下に、歌で遊びました。これもまた酔論ですし、馬鹿話です。
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