竹取翁と万葉集のお勉強

楽しく自由に万葉集を楽しんでいるブログです。
初めてのお人でも、それなりのお人でも、楽しめると思います。

万葉雑記 色眼鏡 二六四 今週のみそひと歌を振り返る その八四

2018年04月28日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 二六四 今週のみそひと歌を振り返る その八四

 今回は巻十の歌から時雨について遊ぼうと思います。万葉集時代、大和言葉では「しぐれ」と云うものはありましたが、漢字での「時雨」と云う表現はありません。当て字として「鐘礼」や「四具礼」と云う表記で表していました。また季節としては九月から十月となっています。
 他方、秋の時雨と云うものは大陸では四季として発生しないようで暦での二十四節気にはありませんし、漢詩でも季節物の詩の題材とはならないようです。

集歌2180 九月乃 鐘礼乃雨丹 沾通 春日之山者 色付丹来
訓読 九月(ながつき)の時雨(しぐれ)の雨に濡れ通り春日(かすが)し山は色付(にほひ)にけり
私訳 木々の葉が九月の時雨の雨に濡れ通り、春日の山は色付いて来た。

集歌1590 十月 鐘礼尓相有 黄葉乃 吹者将落 風之随
訓読 十月(かむなつき)時雨(しぐれ)にあへる黄葉(もみちは)の吹かば落(ち)りなむ風しまにまに
私訳 神無月の時雨に遇った黄葉は、風が吹けば散り落ちてしまうでしょう。風の吹くままに。

 時雨は気象では「時雨(しぐれ、じう)は、主に秋から冬にかけて起こる、一時的に降ったり止んだりする雨である」と解説する降雨です。また、気象学者の定義ではつぎのようなものを云うようです。
• 晩秋から初冬にかけて多い
• 日本の各地にみられる。
• 朝、昼、夕といった特別の時刻はない。
• 細雨ではないが、だからといって雨量は多くない。やや強い雨を伴い、雲足は速い。
• 広い地域に一様に降るのではなく、密集した雲の団塊から降る。
• 気温は低めである

 この定義からしますと、平安時代の旧暦十月を時雨月と異称した季節感が相応しく、旧暦九月には秋雨や秋霖の方が似合う感覚があります。
 当然、気象と地球・地域の平均気温は関係するでしょうから、季節の移り変わりが飛鳥・奈良時代前期と奈良時代後期・平安時代前期とが同じ肌感覚でなかった可能性があります。屋久杉を使った気温解析では飛鳥時代 大化の改新前後を底に年平均気温は現在よりも1~2度ほど低く、その後 平均気温は上昇に転じ、藤原京から前期平城京時代には現在と同じ平均気温になっています。平均気温はさらに上昇し、古今和歌集が編まれた平安時代初期には平均気温は現在よりも2から2.5度程度 高かったと推定されています。つまり、現在、話題となる地球温暖化で予測されるピーク平均気温は平安時代に訪れた高温期に匹敵するものです。
 研究者によっては万葉寒冷期と大仏温暖期とも称すようで、万葉集前期に詠われた歌と万葉集末期に詠われた歌では年平均気温では3度程度の相違があります。これは近畿 大阪と東北 仙台との平均気温差に相当します。大阪を基準都市としますと、万葉集前期では新潟や仙台の四季の移ろい、万葉集中期は大阪の四季の移ろい、万葉集後期では宮崎から鹿児島の四季の移ろいに相当するようです。暦が同じであっても、これほどの四季の移ろいの差があることを認識する必要があります。なお、弊ブログでは万葉集中期頃の現在と年平均気温が同じであった気候を基準に鑑賞しています。そのため、梅、桜、藤などの開花時期の調整はしていませんし、萩、尾花、黄葉も現在に等しいとしています。
 およそ、先に紹介しました集歌2180の歌は旧暦九月に時雨を詠いますから万葉集でも早い時期、対して集歌1590の歌は旧暦十月に時雨を詠いますから遅い時期に詠われたものと推定することも可能になります。

 長い前置きとなりました。ここから今週の鑑賞になります。
 集歌2214の歌は畿内での渡りを終えた冬鳥の鴈と時雨の組み合わせです。まず、現代の十月末から十一月の風景でしょうか。そこに紅葉が始まるとしますから、十一月の方が季節感に合うと思います。すると平安時代の十月の異称 時雨月に似合う季節感です。

集歌2214 夕去者 鴈之越徃 龍田山 四具礼尓競 色付尓家里
訓読 夕されば鴈(かり)し越え行く龍田(たつた)山(やま)時雨(しぐれ)に競(きほ)ひ色づきにけり
私訳 夕暮れになると鴈が飛び越えて行く龍田山は、時雨と季節を競って色付いたよ。

 次に集歌2215の歌は時雨に紅葉を終えた木の葉が散ると詠います。まず、現代の十一月下旬の風景です。これもまた、平安時代の十月の異称 時雨月と唱える季節感です。まず、旧暦九月の風情ではありません。

集歌2215 左夜深而 四具礼勿零 秋芽子之 本葉之黄葉 落巻惜裳
訓読 さ夜(よ)更(ふ)けに時雨(しぐれ)な降りそ秋萩し本葉(もとは)し黄葉(もみち)散らまく惜(を)しも
私訳 夜が更けてから、時雨よ、降らないでくれ。秋萩の黄葉した下の方の葉が散ってしまうのが残念だから。

 最後に集歌2217の歌を鑑賞しますが、西本願寺本のものと校本のものとでは歌の表記が違い、特に二句目「之黄葉早者」の鑑賞態度が違うために歌の解釈は変化します。西本願寺本では妻問った先で見た紅葉が夜来のやや強いにわか雨で予想外に早く葉を散らし始めた風情ですが、校本は昼間に訪問した家の庭に散る紅葉を見ての感想と云うところでしょうか。

集歌2217 君之家乃 之黄葉早者 落 四具礼乃雨尓 所沾良之母
試訓 君し家(へ)のこの黄葉(もみち)葉(は)は散りにけり時雨(しぐれ)の雨に濡れにけらしも
試訳 貴女の家のこの紅葉した葉は早くも散ってしまいました。時雨の雨に濡れたのでしょうか。
注意 原歌の「君之家乃之黄葉早者」に対し、校本では「君之家乃黄葉早者」と記し、そこから歌の句切れ位置と解釈が異なります。校本の表記を次に紹介します。なお、「もみち葉早く」などの異訓もあります。
<校本>
集歌2217 君之家乃 黄葉早者 落 四具礼乃雨尓 所沾良之母
訓読 君が家(いへ)の黄(もみち)葉(は)今朝(けさ)は散りにけり時雨(しぐれ)の雨に濡れにけらしも
意訳 あなたの家の黄葉は、今朝散ったようですね。時雨の雨に濡れてしまったらしい。

 集歌2217の歌の時雨の時期は不明ですが、西本願寺本解釈では紅葉途中での葉散らしのやや強い雨に葉を散らします。旧暦十月後半ではなく、前半ぐらいでしょうか。一方、校本ではそうろそろ葉を落とす時期に、たまたま、訪問の日の夜明け前に時雨が降ったような感覚です。およそ、旧暦十月後半の時期でしょうか。
 ただ、最初に説明しましたように万葉集前期と万葉集後期では季節は二~三週間ほど違います。つまり、歌が詠われたのが万葉集時代の早い時期としますと、旧暦九月後半に時雨と黄葉の組み合わせがあっても良いことになります。
 和歌では季語を大切にしますが、江戸時代中期と現代では年平均気温は三度ぐらいの差があり、暦と季節感は一致しません。同じように万葉集初期と後期では同じほどの差があります。知識としての季語と観察からの季節感は違う可能性がありますし、主に関東・信州を中心とする東歌と九州地域での筑紫文壇や防人歌ではその季節感は大きく違います。

 今回もまた与太話と馬鹿話に終始しました。正統な和歌鑑賞では、今回のような気象と季節感なぞは対象外の事柄です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

万葉雑記 色眼鏡 二六三 今週のみそひと歌を振り返る その八三

2018年04月21日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 二六三 今週のみそひと歌を振り返る その八三

 今回は巻十 詠山の部立に載る集歌2177の歌で遊びます。

詠山
標訓 山を詠めり
集歌2177 春者毛要 夏者緑丹 紅之 綵色尓所見 秋山可聞
訓読 春は萌(も)よ夏は緑に紅(くれなゐ)し綵色(まだら)に見ゆる秋し山かも
私訳 春は木々が萌え立ち、夏は木々は緑に包まれる。その木々が紅にまらだ模様に見える秋の山なのでしょう。

 歌は春の芽生えの淡緑、夏の光るような深緑を、最後に秋の紅葉を詠います。万葉集では秋の木々のうつろいを「黄葉」と表記するのが一般ですが、この歌では「紅」を最初に、次に「綵色」の漢字表現を使います。およそ、目に見える山々の様子は紅が映え、そこに黄色や緑色などが混ざり合うものだったと思われます。ただし、集歌2177の歌で歌い手はどの季節が気に入っているかは詠いません。それぞれの季節で楽しむ風流の模様を詠うだけです。そのためか、山の景色を詠うとして標題では「詠山」なのでしょう。黄葉でも秋山でもありません。
 他方、春の花景色と秋の紅葉を比べた歌があります。それが次の額田王が詠う歌です。

天皇、詔内大臣藤原朝臣、競憐春山萬花之艶秋山千葉之彩時、額田王、以謌判之謌
標訓 天皇の、内大臣(うちのおほおみ)藤原朝臣に詔(みことのり)して、春山の萬花(ばんくわ)の艶(にほひ)と秋山の千(せん)葉(ゑふ)の彩(いろどり)とを競はしたまひし時に、額田王の、歌を以ちて判(こと)れる歌
集歌16 冬木成 春去来者 不喧有之 鳥毛来鳴奴 不開有之 花毛佐家礼抒 山乎茂 入而毛不取 草深 執手母不見 秋山乃 木葉乎見而者 黄葉乎婆 取而曽思努布 青乎者 置而曽歎久 曽許之恨之 秋山吾者
訓読 冬こもり 春さり来(く)れば 鳴かざりし 鳥も来(き)鳴(な)きぬ 咲(さ)かざりし 花も咲けれど 山を茂(も)み 入りにも取らず 草深み 取りても見ず 秋山の 木(こ)し葉を見には 黄葉(もみち)をば 取りにそ偲(しの)ふ 青きをば 置きにそ嘆く そこし恨めし 秋山吾は
私訳 冬の木芽から春を過ぎ来ると、今まで鳴かなかった鳥も来て鳴き、咲かなかった花も咲きますが、山は茂り合っていて入ってその花を手に取れず、草は深くて花を手折って見ることも出来ない。秋の山では、その木の葉を眺めては、色付くその黄葉を手に取ってはとても美しいと思う。このまだ黄葉していない青葉は早く色付いて欲しいと思う。それがじれったく待ち遠しい。それで秋山を私は採ります。

 建前として、額田王の詠う集歌16の歌は近江大津宮時代のもので、集歌2177の歌は藤原京から前期平城京の時代の歌です。従いまして、集歌2177の歌の作歌者は額田王の詠う集歌16の歌を知っていたと推定されます。その分、春と夏の好ましい山の景色を歌に詠い込んだと思われます。「だって、それ、つまんないじゃないの」と云う詠い方と、それぞれの良さを折り込む詠い方とに作歌者の個性が出てくるのでしょう。紹介した二首は競いを詠いますが、その詠い方に明確な個性があります。

 おまけの鑑賞として、集歌16の歌の標題に「内大臣藤原朝臣」とありますが、これは歌が詠われていた当時の肩書きではありません。近江朝時代 「朝臣」と云う肩書きもありませんし、「内大臣(ないだいじん)」と云う役職もありません。まじめに論議しますと、歌が詠われた宴会での本来の肩書きは「内臣(うつつおみ)中臣(なかおみ)臣(おみ)」が正しいものになります。さらに「大臣」と云うものについて、大和では官僚制からの大臣(だいじん)と氏族制度からの大臣(おほおみ)の呼称があり、近江朝時代、官僚制の大臣なのか、氏族制度の大臣なのか、どちらが使われていたのか、それとも混在していたのかは明確ではありません。なお、中臣鎌足は死の前日、「大臣(おほおみ)」の姓(かばね)を与えられていますので、死亡時は確かに「内大臣中臣鎌足」です。藤原姓については日本書紀では天智天皇八年に死の直前に与えたと云う記事と続日本紀では文武二年に中臣不比等に与えたと云う記事があります。弊ブログでは中臣家は壬申の乱のあと天武年間は「中臣」の姓を名乗っていますから続日本紀の方の記事を採用する立場です。
 ただ、奈良時代 大宝律令などの公布以降、過去の正史を記述する時、意図的に氏族制度の大臣と官僚制の大臣を混在させますし、肩書きや官位も過去の正しいものとそれを養老律令から読み替えたものと混在させます。さらに官位では養老律令でも皇族・王族官位体系と臣民官位体系は別立てなのですが、これも意図的に混在させます。
基本的に歴史の専門家であっても、大宝律令・養老律令や延喜式令格を参照しながら、日本書紀や続日本紀を眺めませんから、身分や階級の解釈は、時にぐちゃぐちゃです。その影響が万葉集や懐風藻の鑑賞にも及んでいます。
 これを踏まえますと、集歌16の歌の標題 「詔内大臣藤原朝臣」は「内大臣たる藤原朝臣に詔して」と解釈しますから、ある種、公式の宮中での宴でのものとなります。一方、「詔内臣中臣臣」が正しく「内臣たる中臣の臣に詔して」と訓じますと「天皇家の秘書たる中臣に命じて」との解釈となります。この場合、天智天皇のサロンに風流人を集めて春秋競い歌の詠ったと云うことになります。ちなみに漢詩集である懐風藻にはその時代の春秋競いの漢詩は載りません。

 今回もまた、真剣に与太話や馬鹿話をしてしまいました。
 なお、正史はうそは記述しませんが、誤解するような記述を排除するものでもありません。もし、そのような正史を誤解・誤読するのは読み手の勉強不足と云うことになります。正史を書き換えた藤原氏は読者には親切ではありません。


参考記事:-
文武二年(六九八)八月丙午(十九)の記事;
丙午。詔曰。藤原朝臣所賜之姓。宜令其子不比等承之。但意美麻呂等者。縁供神事。宜復旧姓焉。
天智天皇八年(六六九)十月庚申(十五)の記事;
庚申。天皇遣東宮大皇弟於藤原内大臣家。授大織冠与大臣位。仍賜姓為藤原氏。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

万葉雑記 色眼鏡 二六二 今週のみそひと歌を振り返る その八二

2018年04月14日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 二六二 今週のみそひと歌を振り返る その八二

 今回は少し変わった視点から和歌を鑑賞します。
 最初に和歌の世界の秋は七月から九月ですが、これは旧暦のため新暦ではおおむね八月中旬から十月中旬となります。また、近年、地球温暖化の話題がありますが、これは西欧の十八世紀を基点としての議論です。古代からの気象関係記録が残る東アジア圏では飛鳥・奈良時代は現代と同様な気温情況ですし、平安中期から後期はそれよりも高温期です。日本では桜などの草花の開花時期の記録からも奈良時代と現代とは同じような気温であったと推定されています。

 今回は秋の草木 萩の花を観賞の対象とします。
 この萩は「ヤマハギ(L. bicolor):朝鮮半島、中国から日本全国の山野に自生する品種で、ハギというとこの種を指すのが一般的です。7~9月に明るい紅紫の花を咲かせます。木の高さは1.5~2mと高く枝がやや細いのが特徴です。」と解説される草木で、開花時期は七月から九月で、奈良の萩の名所 白毫寺の盛りの季節は九月中旬から九月下旬と紹介しますし、秋篠寺の盛りも九月中旬頃と紹介します。
 一方、二十四節気の白露はおおむね新暦では九月六日頃に当たります。中国漢詩の世界ではこの日以降では露霜の季節と云うことになります。ただし、この暦二十四節気は中国大陸 黄河流域地方を基準としたもので日本 それも畿内でのものではありません。そのために新暦九月上旬に白露(初めて露を置く)という季節設定になっています。つまり、畿内での萩の盛りと露の時期とは微妙にずれていて、本来、観察したものを歌にするのですと萩と露は相性が悪いことになります。ほぼ、常夏とも異名を持ち、萩と花の時期が同じとなる女郎花(花の時期:新暦七月~九月)に露と云う言葉は似つかないと思います。
 このような季節感覚から次の集歌2169の歌は尾花に付く水滴を狭霧からとします。

集歌2169 暮立之 雨落毎 春日野之 尾花之上乃 白霧所念
訓読 夕立ちし雨降るごとし 春日野(かすがの)し尾花(をばな)し上(ほと)りの白霧(しらきり)そ念(も)ふ
私訳 夕立ちの雨が降るたびに春日の野の尾花のほとりに流れる霧を思い出します。
注意 原文末句は「白霧所念」であって「白露所念」ではありません。夕立の後の風景ですから、露ではなく野を流れる靄や霧となります。校本では白露に直します。

 ところが、観察よりも和歌作歌規定を重要視しますと、尾花は秋の草ですから白露以降のものとなります。そのため、原歌が白霧(靄のような狭霧)と表記していても白露と校訂します。夕立の雨の雨上がりの野辺に、さて、霧が立つのか、露が置くのか、どちらでしょうか。
 紹介が前後しましたが、集歌2168の歌もまた「白霧」です。

集歌2168 冷芽子丹 置白霧 朝々 珠斗曽見流 置白霧
訓読 秋萩に置ける白露(しらつゆ)朝(あさ)な朝(さ)な玉とぞ見ける置ける白霧
私訳 秋萩に置いた白露。毎朝、毎朝、それを美しい玉として眺める萩に置いた白霧よ。
注意 初句「冷芽子」の「冷」は「秋」の戯訓とされています。また、原文二句目と末句は「置白霧」であって「置白露」ではありません。校本では白露に直します。

 こうした時、次の歌はどのように鑑賞しましょうか。漢詩と暦の二十四節気からの約束に従って詠った歌としましょうか。集歌2170の歌は花や葉が落ちた萩の枝の風情でしょうか、それでは風流ではありません。つぼみや花を持つ枝の風情ですと、それは漢文・漢詩の世界が詠う「露霜」では無く白霧の雫でしょう。さて、どうしましょうか。

集歌2170 秋芽子之 枝毛十尾丹 露霜置 寒毛時者 成尓家類可聞
訓読 秋萩し枝もとををに露(つゆ)霜(しも)置く寒くも時はなりにけるかも
私訳 秋萩の枝を撓めるほどに露や霜が置く。寒さを感じる時節になってきたのでしょう。

 一方、集歌2175の歌は萩の花を散らす秋風の冷たさを詠います。盛りの過ぎた萩の花ですから九月下旬から十月上旬です。これならば白露の季節感に沿うのではないでしょうか。

集歌2175 日来之 秋風寒 芽子之花 令散白露 置尓来下
訓読 このころし秋風寒し萩し花散らす白露置きにけらしも
私訳 今日このごろの秋風は寒い、きっと、萩の花を散らす白露を置いたようです。

個人の感覚ですが、これらの歌は宮中か貴族の邸宅で持たれた宴で詠われた歌でしょう。その時、写生と云う態度よりも漢詩・漢文の世界を踏まえた常識的な歌の方が好まれたのかもしれません。それならば集歌2170の歌は優等生が詠う常識的な歌になります。

 和歌心を持ち合わせていませんが、今回、つっかかってみました。ご容赦を。

 おまけとして、露の季節は稲刈りの季節でもあったようです。早稲としても奈良盆地の九月中旬は稲刈りには早い気がします。

集歌2176 秋田苅 苫手揺奈利 白露者 置穂田無跡 告尓来良思
訓読 秋田(あきた)刈る苫手(とまて)揺(ふる)なり白露は置く穂田(ほた)なみと告(つ)げに来(き)ぬらし
私訳 秋の田を刈る刈庵の苫が揺れ動く。白露を置く稲穂が残る田はもうないと告げに来たらしい。

 もう一つ、次の萩の歌は解釈が難しいところがあります。末句「芽子之遊」が云う若い女性とする遊びとは、いったいどのような遊びなのでしょうか。

集歌2173 白露乎 取者可消 去来子等 露尓争而 芽子之遊将為
訓読 白露を取らば消(け)ぬべしいざ子ども露に競(きほ)ひに萩し遊びせむ
私訳 白露を手に取れば消えてしまうでしょう。さあ、愛しい貴女、その露に競って、萩と風流を楽しみましょう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

万葉雑記 色眼鏡 番外雑話 北斎とよむ古事記・万葉集

2018年04月08日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 番外雑話 北斎とよむ古事記・万葉集

 批評社から岡林みどり氏の『狂歌絵師 北斎とよむ古事記・万葉集』(本体3500円+税)が本年平成30年3月30日に出版されています。弊ブログに、一度、ご紹介がありましたので、ここに紹介いたしたいと思います。

 本は著者がライフワークとしてなされている「日本語」に対する研究成果・知識を葛飾北斎の版画図「百人一首 姥かゑとき」を足掛かりに、小倉百人一首、古今和歌集、万葉集へと遡り、解説・展開されています。この「百人一首 姥かゑとき(=姥が絵解き)」は「おばあさんが孫に教える絵解きなので、簡単なはずのものなのだが、実際の北斎の画には難解なものが多い。そのため出版に至ったものは27図だけで、その他の64図は、校合摺1図、版下絵56図ならびにこれを基にした亜鉛凸版による復刻版7図として残っているに過ぎない」と作品解説されるもので、本来は小倉百人一首に応答する100図の画集になるところ、現時点で伝存するものは27図しかありません。つまり、北斎の「百人一首 姥かゑとき」は未完の画集です。
 すると、ここに北斎の「百人一首 姥かゑとき」への疑問が出て来ます。未完になった理由は偶然か、必然かです。また、絵図が示す世界観と和歌の世界観との対比にあります。著者はこれを意図した未完と考察されたようですし、絵図の世界に江戸風流からの「滑稽」や「洒落」を見ています。ここが出発点であり、それに気付くかどうかは「深読み」か「浅読み」かの鑑賞者の立場であり、現代の「深読み」を求める時流への感受性によるとします。この立場から思索を展開し「百人一首 姥かゑとき」と「万葉集巻一 全84首と関連する歌」との関連性を考察し、そこでの「立体象」を示されています。また、本著の契機を東日本大震災と大津波から見出した百人一首の「末の松山」から万葉集の歌番号83の「海の底 奥つ白波 立田山」への啓示によるとされています。弊ブログでも、ご連絡の内容から「番外雑話 末の松山」で弊ブログの鑑賞立場を紹介しましたが、著者はこの「末の松山」の歌に貞観大地震を、歌番号83の歌に白鳳大震災を想像されたようです。およそ、ここに文学を鑑賞するときの「浅読み」と「深読み」との分かれ道があります。
 本は日本語の研究をライフワークとされている著者が独自の視点から古今和歌集や万葉集の歌々を使い、これまでの研究成果を述べられていますので純粋・直線的に和歌を鑑賞するものではありません。著書にはインターネットでは有名なHP『暗号 山上憶良』に類する思索の展開があり、読者にはある程度の以上の古典文学や言語学に対する素養を求めるものとなっています。このような本であるがため、浅読みとなる歌をその原歌の字面に従い直線的に鑑賞を旨とする私では非常に難しい思索の展開となっています。しかしながら本著を感想文的に要約しますと和歌鑑賞と云うものよりも筆者が見出した古典文学への謎解き本であり、その謎解きに日本語と言語論と云う武器を使います。
 また、弊ブログと比較しますと万葉集の原歌表記での漢字の解釈に使う『説文解字』の扱い方、太陰太陽暦を基準とする暦などへの解釈・扱いが大きく異なります。そのために万葉集の原歌読解、弊ブログで指摘する「之」や「而」などの漢字解釈などに多く相違があります。つまり和歌の基本鑑賞に相違があり、立場が違います。例としては「番外雑話 末の松山」や「番外雑話 末の歌と頭の歌 万葉集と古今和歌集」に示すところです。『狂歌絵師 北斎とよむ古事記・万葉集』は、個人の感覚では、その論旨の展開や思索原理ではHP『暗号 山上憶良』に似たところがあります。従いまして、あくまで個人の感想ですが、HP『暗号 山上憶良』で行う古典文学へのアプローチを好まれるお方には、この『狂歌絵師 北斎とよむ古事記・万葉集』はその心のツボにハマるのではないでしょうか。他方、そのような方向性を持つ著書であることを理解していないと、本著をお手にされた時に途惑われるのではないでしょうか。

 本著書は私にはとても難解でしたので帰結すら理解することも出来ませんでした。従いまして、実に頓珍漢な本の紹介となりました。それを御了解下さい。
 なお著作物を離れますと、葛飾北斎の「百人一首 姥かゑとき」と云う作品で紹介される版画図の世界観に江戸時代の文化人の和歌鑑賞態度があるとしますと、私が鑑賞する和歌の世界観とは相当に違います。現代の万葉集での訓読み万葉集解釈は平安時代末期から鎌倉時代初期の次点解釈を江戸時代に発展させたものですので、北斎が示す「百人一首 姥かゑとき」の世界観はそれを絵として示すものと考えます。このような視点から解釈比較を行うのは面白いかもしれません。ただし、小倉百人一首は平安時代末期から鎌倉時代初期の和歌の世界観で古典を翻訳したものですので、それを前提にする必要はあります。つまり、弊ブログの立場からしますと万葉集の世界、小倉百人一首の世界、北斎の「百人一首 姥かゑとき」の世界は同一ではないことになります。
 斯様に『狂歌絵師 北斎とよむ古事記・万葉集』は、考えさせられるところがありますので、余裕がおありでしたら書店・図書館で、一度、お手にされてはいかがでしょうか。ただ、繰り返しますが、本著は直線的な和歌鑑賞本ではないことを御了解下さい。ある種、和歌に隠された謎解き本です。

 いつものように支離滅裂で申し訳ありません。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

万葉雑記 色眼鏡 二六一 今週のみそひと歌を振り返る その八一

2018年04月07日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 二六一 今週のみそひと歌を振り返る その八一

 今回は今週 鑑賞しましたものの中から鴈(かり)の歌に遊びます。

集歌2129 明闇之 朝霧隠 鳴而去 鴈者言戀 於妹告社
訓読 明け闇(ぐれ)し朝(あさ)霧(きり)隠(こも)り鳴きに去(い)く雁は言ふ恋(こひ)妹し告げこそ
私訳 夜明け前の闇の朝霧に姿を隠し「駈り、駈り(=駈けていく)」と、鳴きながら飛び去って行く。その雁が語る恋を私の愛しい貴女に告げて欲しい。
注意 万葉時代の鴈は「カリ」と云う種類の雁(ガン)です。その「カリ」の名の由来は「カリ、カリ」と啼くことにあります。

集歌2139 野干玉之 夜度鴈者 欝 幾夜乎歴而鹿 己名乎告
訓読 ぬばたまし夜渡る雁は欝(おほほ)しく幾夜(いくよ)を経(へ)てか己(おの)し名を告(の)る
私訳 漆黒の夜を飛び渡る雁は、その姿が定かではないが、一体、幾夜を経てからか雁は自分自身の名を、鳴き声を上げて名乗るのでしょうか。
注意 鴈の啼き声は「カリ、カリ」で、これを「仮、仮」と聴いたのでしょう。

 現在、カリと入力・漢字変換しますと一般に「雁」の表記となります。この雁と云う表記の読みは「ガン、カリ」と紹介され、「ガン」が最初に来るようです。実際、万葉集では鴈の表記を使用しますし、現在 鴈は雁の異体字とし、読みは「カリ、ガン」と紹介します。こうしますと、ある時代までは鴈と雁との漢字使い分けはあったと思われます。
 前段で漢字の使い分けで遊びましたが、本題は鳥の鳴き声にあります。鴈は「カリ、カリ」と啼くから「カリガネ」であり、雁は「グァン、グァン」と啼くから「ガン」と名前の由来を説明する事があります。他方、歴史において鎌倉時代前後の地球寒冷化などの自然環境変化から日本に飛来する冬鳥に変化があり、飛鳥・奈良時代には中心を為した「カリガネ」から鎌倉時代以降は「ガン」に交代しました。ご存じのように奈良時代後期から平安時代後期は現在よりも気温は二度前後の高温期でしたが、鎌倉時代以降 江戸中期に向けて気温は現在よりも二度前後 低下します。これらの自然環境の影響か、現在、「カリガネ」は絶滅危惧種であり、日本ではほぼ観測されないものとなっています。このために「カリガネ」と云う冬の渡り鳥にも、その鳴き声にもなじみはありません。
 今回の歌の鑑賞は「カリガネ」の啼き声をどのように見なしたかを鑑賞するものです。さて、弊ブログは行き過ぎでしょうか、それとも叶うでしょうか。

 なお、弊ブログでは「見なす」と云う言葉を使いましたが、和歌技法では標準には「見立て」と云う言葉を使います。ただし、この「見立て」と云う言葉は「ある事柄を他の事柄になぞらえたり、みなしたりする技法」と紹介しますが、研究者により「比喩(直喩・隠喩)」と同一視する考えと、「見立て」は目で見えるものをなぞらえた表現技法とする考えがあるようです。この区分や考え方ですと、ここで紹介した「鴈」からその鳴き声を想像し、鳴き声「カリ」から「駈り」や「仮初」を想像するのは「隠喩」と云うことになるでしょうか。しかしながら、「見立て」などで紹介される次の歌などとここでの鑑賞態度は相当に違いますので万葉集での「見なし」と和歌技法「見立て」には理解の上で距離があるかと考えます。ある種、枕詞的に隠された比喩が定まった定型の「見なし」と云うことになるでしょうか。

古今和歌集
歌番号88 紀貫之
さくら花ちりぬる風のなごりには水なきそらに浪ぞたちける

 他方、同じように鳥の鳴き声を見なしで鑑賞するものに霍公鳥があります。ただし、万葉集では霍公鳥はホトトギスと訓じますが、実際は「キョッキョッ キョキョキョキョ」や「テッペンカケタカ」と啼く霍公鳥と「カッコウ」と啼く郭公と混同しています。同じカッコウ目カッコウ科に属する鳥ですが別種です。なお、中国故事からすると中国語の「杜鵑」は「啼いて血を吐くホトトギス」の異称に相応しい霍公鳥を指します。

集歌1476 獨居而 物念夕尓 霍公鳥 従此間鳴渡 心四有良思
訓読 ひとり居に物思ふ夕(よひ)に霍公鳥(ほととぎす)こゆ鳴き渡る心しあるらし
私訳 独り部屋に座って居て物思いをする夕べに、ホトトギスがここを通って「カツコヒ(片恋)」と啼き飛び渡る。私の気持ちをわかってくれる心があるようだ。

集歌1467 霍公鳥 無流國尓毛 去而師香 其鳴音手 間者辛苦母
訓読 霍公鳥(ほととぎす)なかる国にも行きにしかその鳴く声を聞けば苦しも
私訳 不如帰去(帰り去くに如かず)と過去を慕い啼くホトトギスが居ない国にでも行きたいものだ。その啼く声を聞くと物思いが募る。

 集歌1476の歌に例を取りましたが、万葉集では霍公鳥の鳴き声「カッコウ」を「カツコヒ=片恋」と聴き、恋の歌では定番の表現となっています。これはある種の言葉の洒落です。同様に鴈の啼き声の聴きようによっては言葉の洒落が生まれます。
 斯様に万葉集時代初期、発音が似ている言葉から別の言葉を導き出す作歌技法が好まれたようですので、歌の鑑賞で言葉の発音からの洒落や遊びに数多をひねるのも面白いと思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする