万葉雑記 色眼鏡 二四七 今週のみそひと歌を振り返る その六七
今回は巻九の中から次の歌二首で遊びます。この歌は個人の好みを下に紹介するもので歌自体の鑑賞には一般的な鑑賞と相違する点は少ないと考えます。ただ、集歌1783の歌は掛詞技法で詠われた歌としては最初期に位置するもので近代の和歌史研究では重要な歌と考えます。
集歌1782 雪己曽波 春日消良米 心佐閇 消失多列夜 言母不往来
訓読 雪こそば春日(はるひ)消(け)ゆらめ心さへ消(き)え失せたれや言(こと)も通はぬ
私訳 積もった雪は春の陽光に当たって解けて消えるように、貴女は私への想いも消え失せたのでしょうか。私を愛していると云う誓いの歌もこの春になっても遣って来ません。
集歌1783 松反 四臂而有八羽 三栗 中上不来 麻呂等言八子
訓読 松(まつ)返(かへ)りしひにあれやは三栗(みつくり)し中(なか)上(のぼ)り来(こ)ぬ麻呂といふ奴(やつこ)
私訳 松の緑葉は生え変わりますが、貴方は体が不自由になったのでしょうか。任期の途中の三年目の中上がりに都に上京して来ない麻呂という奴は。
別訳 貴方が便りを待っていた返事です。貴方が返事を強いたのですが、任期の途中の三年目の中の上京で、貴方はまだ私のところに来ません。麻呂が言う八歳の子より。
さて、この歌二首は集歌1783の歌の左注に「右二首、柿本朝臣人麻呂之謌集中出」と紹介されるもので、万葉集の中でも柿本人麻呂の人生や経歴研究からは最重要歌の一つです。
いかにも大げさに紹介しましたが、その大げさな背景を紹介します。まず、集歌1782の歌からは歌が詠われていた時の人麻呂の生活環境が推定されます。歌の上句「雪己曽波 春日消良米」と詠うように、当時、人麻呂はすぐに解けて消えますがそれでも雪が降り積もる地域に住んでいますし、歌を贈った都に住む相手の女性(弊ブログでは「隠れ妻:巨勢臣人の娘」と推定)も人麻呂が住む地域をそのような場所として認識するような地方です。まず、雪の降り様から豪雪地帯の北陸・越前方面ではないでしょうし、南関東以西の東国でもないでしょう。なお、陸奥国(北関東以北と東北)は人麻呂時代では大和と云う国には含まれていませんから対象外です。さらに、山陽道や南海道の諸国でもないでしょう。およそ、北部九州から山陰地方が候補に上ると思います。さらに、「言母不往来」と詠うように古代ではありますが都との人の交通が頻繁には無い地方です。ここから都との連絡が頻繁であろう大宰府や瀬戸内海航路に関わる北部九州地域ではなく、山陰方面が候補であろうと絞られて来ます。
次に集歌1783の歌に「三栗 中上不来」とあります。ここから、人麻呂は地方に任官して三年を過ごしており、歌が詠われた年に行政規定(中上)による都に業務報告のため上京する予定があったことになります。それも「中上」ですから身分は国司か、それに準ずる立場です。都に住む女性が地方に住む人麻呂から特段の上京理由と日程を説明する便りが無かったとしますと、都人たちは人麻呂の身分を三年目の中間業務報告である中上を行わなければならない国司と理解しています。そして、飛鳥浄御原宮時代ですと官位としては後の六位相当の大山格の官吏です。ここまでのことがこの歌二首から直接に推定されます。
ここで、少し視野を広げて巻十に載る歌を紹介します。
集歌2033 天漢 安川原 定而 神競者 磨待無
訓読 天つ川八湍(やす)し川原し定まりて神(かみ)競(きそは)へば磨(まろ)し待たなく
私訳 天の八湍の川原で約束をして天照大御神と建速須佐之男命とが大切な誓約(うけひ)をされていると、それが終わるまで天の川を渡って棚機女(たなはたつめ)に逢いに行くのを待たなくてはいけませんが、年に一度の今宵はそれを待つことが出来ません。
此謌一首庚辰年作之。
注訓 この歌一首は庚辰の年に作れり
この歌は庚辰年と云う左注からしますと天武天皇九年(680)七月に七夕の宴で詠われたものです。つまり、人麻呂は天武九年七月には飛鳥の都にいます。すると、「中上」に関わる集歌1782の歌が詠われたのは天武五年春か、天武十二年春以降かの二案が提案されます。ただし、持統三年(689)四月に草壁皇子の挽歌を詠いますから、赴任の時期を大きく後ろに持って来ることはできません。赴任限度は天武十二年(683)が下限です。
中上が歌われた年について天武十二年春以降説の場合、天武九年七月の七夕の宴直後に地方官として赴任したとしても、任期満了は早くて天武十五年(686)となります。この説の場合、飛鳥の都に帰任してしばらくの後となる草壁皇子の挽歌を持統三年(689)に詠います。それも最先端の国家思想である天皇の天降りと神上がりと云う現御神の精神で以ってその挽歌を詠いますから、政権中枢が作り上げた国家像へ触れる機会が多い立場です。石見国司格の人物が帰任直後に関与するには任が重いと思いますし、それに柿本一族は政治官僚系の一族ではなく、実務系の一族と考えますので天武十二年春以降説は薄いと判断しています。弊ブログではこのような考察と他の万葉集に載る歌が詠われた年代表から集歌1782の歌が詠われたのは天武五年春説を採用しています。そうしたとき、江戸時代の版木本ではありますが『人丸秘密抄』に「人丸は天武天皇御時三年八月三日に石見国戸田郡山里といふ所に語家命(みこと)といふ民(たみ)の家の柿本に出現する人なり」とあります。この記事の出典元は不明ですが、江戸時代に天武三年八月に柿本人麻呂が石見国美濃郡小野郷戸田に飛鳥の都から赴任したとの伝承が伝わっています。
さらに、万葉集を参照しますと巻二に集歌135の長歌に「大夫跡 念有吾毛」との表現があります。ここから人麻呂が石見国から帰任する時、大夫(=小錦:五位格)の官位の内示があったと推定されます。すると、壬申の乱直後の天武三年八月に大山(六位格)の国司級官吏として石見国美濃郡に赴任し、天武八年の晩秋から暮頃に小錦(従五位格)の内示を得て帰任したとの推定が可能となります。この場合、人麻呂は翌年の天武九年の七夕の宴には後年の殿上人と同じ立場で出席したと思われます。庭先で歌を献上するような下級官吏ではありません。
簡単な歌と思われる集歌1782の歌と集歌1783の歌ですが、歌で使われる言葉やその言葉から導かれる社会的背景を合わせて鑑賞しますと、柿本人麻呂と云う人物の人生と身分を考察することが可能となります。そして、集歌2033の歌の左注の「庚辰年(680)」を基準点として、人麻呂の人生は万葉集に示す作歌年や歌が扱う事件から天武三年(673)から大宝元年(701)の紀伊国行幸までは容易に辿る事が出来ることとなります。こうしてみますと、柿本人麻呂と云う人物は従来、評論するような人生不明の人物ではない事が判ります。このような考察が可能となることから、紹介しました歌二首は万葉集の中で最重要な歌となるのです。
さて、別な角度から集歌1783の歌を鑑賞しますと、この歌は掛詞技法を使う歌としては日本最古の位置にあります。従来の説とは違い、万葉集の歌を原歌表記から忠実に訓じますと、多くの掛詞技法の歌を見る事が可能です。鎌倉時代以降のそのような掛詞技法の存在を失念した人が行った漢字交じり仮名表記に翻訳された訓読み万葉集歌では見えてこない世界です。集歌1783の歌の上句「松反 四臂而有八羽」は確実に掛詞ですが、それを解説するものはあまりありません。従来、専門家によって強制された色眼鏡を掛けて歌を鑑賞していますから、存在しても視覚としてそれを捉えることはしませんし、許可されません。
万葉集での掛詞技法の歌は期待に反して多数を見る事ができますが、ここでは紹介しきれません。そこで、弊ブログでは、都度、掛詞技法が使われた歌を紹介していますので、「掛詞」でブログ内検索を行っていただければ、ここで主張するものの検証は容易に行えるものと考えます。お時間があれば検索して確認をお願いします。
参考情報として、従来の万葉集歌の検討では「柿本朝臣人麻呂歌」と「柿本朝臣人麻呂歌集」とに載る歌において、「柿本朝臣人麻呂歌」は人麻呂自身が作歌したもので、「柿本朝臣人麻呂歌集」は人麻呂が採歌し歌集として編んだものであって人麻呂自身の作歌とは認めがたいと、一見、厳密な区分をしていました。それを背景として人麻呂歌集の歌を使って柿本人麻呂の人生や身分を考察することは出来ないとの否定的な扱いをしていました。このような態度を下に柿本人麻呂は正史に載らない不明な人と云う評価や研究成果を得ていました。ただ、近代学問からすれば、このような研究は実に安直です。
一方、近代文学研究には無署名作品の作者比定と云う研究分野と手法があり、欧米では標準的な研究手法の一つとなっています。つまり、日本の古いタイプの研究者が個人の都合に合わせて論難に採用する「どこに、そのような記事が書いてあるのか」と云うようなものは研究放棄に近いものとしてまともな近代研究分野では相手にされないのです。作品に示される作者の思考態度、言葉の選択と扱い、表現方法での特徴や癖などを緻密に精査し、仮説を組み立て、検証を行い、無署名作品の作者比定を行うこともまた研究です。作品は残るがそれを直接に解説する文献が無いと云う理由で思考停止をするのでは近代研究者ではありません。逆に古文書読解を行う特殊作業員とその読解された古文書を下に研究を進める研究者とは厳密に区分すべきです。
このような無署名作品の作者比定の研究手法から「柿本朝臣人麻呂歌集」もまた人麻呂本人による作歌作品が多くを占めると考えられるようになり、ここで紹介しましたように集歌1782の歌は人麻呂自身のもので、集歌1783の歌は人麻呂の恋人である隠れ妻によるものであると考えられています。このような立場から、ここまでに紹介しました人麻呂の人生と身分が考察されることになります。当然、ここまでの帰結は古文書に直接には記載されていません。従来ですと古文書に記載されていない事柄は確認された事実ではありませんから架空の想定と云うことになります。古文書読解の特殊作業員の立場からすればそのようになります。繰り返しますが。仮定を組み立て論理的に検証して行くのが科学ですから、科学的研究者と古文書読解の特殊作業員との立ち位置は大きく違います。
さらに、およそ、昭和時代までの万葉集の研究と平成時代の研究とは、その研究態度が大きく違います。平成時代では万葉集歌は原歌表記(漢語と万葉仮名だけで表記)から扱うものであって、漢字交じり仮名に翻訳された訓読み万葉集歌を擬似原歌とすることは邪道です。また、明確に作歌者の名前が記述されないものを直ちに読み人知れずの歌として扱うことは避けるようになってきています。このような時代的背景からか、万葉集の研究は日本語研究、史書・律令法令、古代天文及・暦研究などの多方面からの総合研究へと進化して来ており、従来のような単純な古文書読解や詩歌語句研究だけに収まらないようになって来ています。
ご存じのように訓読み万葉集の語句は鎌倉時代初期でのものを伝統としますから、原歌表記を万葉仮名として忠実に訓じるものと一致するかと云うと必ずしも一致しません。例として弊ブログで度々指摘する「之」と云う万葉仮名の訓じ問題もその一つです。紀貫之たちはこの「之」を万葉仮名として訓じますが、藤原定家頃になりますと漢文読解での副詞的扱いで「之」に、適宜、訓じを与えます。そのような場合、詩歌語句研究での語尾変化と云う研究には疑問が生じます。まず、定訓としている訓読み万葉集歌が正しい訓じであると云う証明は正しいのかと疑問が生じます。また、詩歌において語尾変化が常に教科書的に詠われていたのかと云う証明は可能かとものがあります。日本語の進化と云う方面から丁寧に万葉仮名の訓じを研究すると、結構、難しい問題が残るようです。万葉仮名「之」の訓じにおいて、紀貫之の時代と藤原定家の時代の訓じは大きく異なります。弊ブログでは紀貫之の時代のものに準じますが、標準的な万葉集の読解では藤原定家の時代のものに準じます。必然、歌の内容が変わるものも出て来ます。
今回はこのような視点から、非常に肩に力が入った与太話・酔論となりました。あくまで、素人の酔論です。そのようなものとして御笑納下さい。
今回は巻九の中から次の歌二首で遊びます。この歌は個人の好みを下に紹介するもので歌自体の鑑賞には一般的な鑑賞と相違する点は少ないと考えます。ただ、集歌1783の歌は掛詞技法で詠われた歌としては最初期に位置するもので近代の和歌史研究では重要な歌と考えます。
集歌1782 雪己曽波 春日消良米 心佐閇 消失多列夜 言母不往来
訓読 雪こそば春日(はるひ)消(け)ゆらめ心さへ消(き)え失せたれや言(こと)も通はぬ
私訳 積もった雪は春の陽光に当たって解けて消えるように、貴女は私への想いも消え失せたのでしょうか。私を愛していると云う誓いの歌もこの春になっても遣って来ません。
集歌1783 松反 四臂而有八羽 三栗 中上不来 麻呂等言八子
訓読 松(まつ)返(かへ)りしひにあれやは三栗(みつくり)し中(なか)上(のぼ)り来(こ)ぬ麻呂といふ奴(やつこ)
私訳 松の緑葉は生え変わりますが、貴方は体が不自由になったのでしょうか。任期の途中の三年目の中上がりに都に上京して来ない麻呂という奴は。
別訳 貴方が便りを待っていた返事です。貴方が返事を強いたのですが、任期の途中の三年目の中の上京で、貴方はまだ私のところに来ません。麻呂が言う八歳の子より。
さて、この歌二首は集歌1783の歌の左注に「右二首、柿本朝臣人麻呂之謌集中出」と紹介されるもので、万葉集の中でも柿本人麻呂の人生や経歴研究からは最重要歌の一つです。
いかにも大げさに紹介しましたが、その大げさな背景を紹介します。まず、集歌1782の歌からは歌が詠われていた時の人麻呂の生活環境が推定されます。歌の上句「雪己曽波 春日消良米」と詠うように、当時、人麻呂はすぐに解けて消えますがそれでも雪が降り積もる地域に住んでいますし、歌を贈った都に住む相手の女性(弊ブログでは「隠れ妻:巨勢臣人の娘」と推定)も人麻呂が住む地域をそのような場所として認識するような地方です。まず、雪の降り様から豪雪地帯の北陸・越前方面ではないでしょうし、南関東以西の東国でもないでしょう。なお、陸奥国(北関東以北と東北)は人麻呂時代では大和と云う国には含まれていませんから対象外です。さらに、山陽道や南海道の諸国でもないでしょう。およそ、北部九州から山陰地方が候補に上ると思います。さらに、「言母不往来」と詠うように古代ではありますが都との人の交通が頻繁には無い地方です。ここから都との連絡が頻繁であろう大宰府や瀬戸内海航路に関わる北部九州地域ではなく、山陰方面が候補であろうと絞られて来ます。
次に集歌1783の歌に「三栗 中上不来」とあります。ここから、人麻呂は地方に任官して三年を過ごしており、歌が詠われた年に行政規定(中上)による都に業務報告のため上京する予定があったことになります。それも「中上」ですから身分は国司か、それに準ずる立場です。都に住む女性が地方に住む人麻呂から特段の上京理由と日程を説明する便りが無かったとしますと、都人たちは人麻呂の身分を三年目の中間業務報告である中上を行わなければならない国司と理解しています。そして、飛鳥浄御原宮時代ですと官位としては後の六位相当の大山格の官吏です。ここまでのことがこの歌二首から直接に推定されます。
ここで、少し視野を広げて巻十に載る歌を紹介します。
集歌2033 天漢 安川原 定而 神競者 磨待無
訓読 天つ川八湍(やす)し川原し定まりて神(かみ)競(きそは)へば磨(まろ)し待たなく
私訳 天の八湍の川原で約束をして天照大御神と建速須佐之男命とが大切な誓約(うけひ)をされていると、それが終わるまで天の川を渡って棚機女(たなはたつめ)に逢いに行くのを待たなくてはいけませんが、年に一度の今宵はそれを待つことが出来ません。
此謌一首庚辰年作之。
注訓 この歌一首は庚辰の年に作れり
この歌は庚辰年と云う左注からしますと天武天皇九年(680)七月に七夕の宴で詠われたものです。つまり、人麻呂は天武九年七月には飛鳥の都にいます。すると、「中上」に関わる集歌1782の歌が詠われたのは天武五年春か、天武十二年春以降かの二案が提案されます。ただし、持統三年(689)四月に草壁皇子の挽歌を詠いますから、赴任の時期を大きく後ろに持って来ることはできません。赴任限度は天武十二年(683)が下限です。
中上が歌われた年について天武十二年春以降説の場合、天武九年七月の七夕の宴直後に地方官として赴任したとしても、任期満了は早くて天武十五年(686)となります。この説の場合、飛鳥の都に帰任してしばらくの後となる草壁皇子の挽歌を持統三年(689)に詠います。それも最先端の国家思想である天皇の天降りと神上がりと云う現御神の精神で以ってその挽歌を詠いますから、政権中枢が作り上げた国家像へ触れる機会が多い立場です。石見国司格の人物が帰任直後に関与するには任が重いと思いますし、それに柿本一族は政治官僚系の一族ではなく、実務系の一族と考えますので天武十二年春以降説は薄いと判断しています。弊ブログではこのような考察と他の万葉集に載る歌が詠われた年代表から集歌1782の歌が詠われたのは天武五年春説を採用しています。そうしたとき、江戸時代の版木本ではありますが『人丸秘密抄』に「人丸は天武天皇御時三年八月三日に石見国戸田郡山里といふ所に語家命(みこと)といふ民(たみ)の家の柿本に出現する人なり」とあります。この記事の出典元は不明ですが、江戸時代に天武三年八月に柿本人麻呂が石見国美濃郡小野郷戸田に飛鳥の都から赴任したとの伝承が伝わっています。
さらに、万葉集を参照しますと巻二に集歌135の長歌に「大夫跡 念有吾毛」との表現があります。ここから人麻呂が石見国から帰任する時、大夫(=小錦:五位格)の官位の内示があったと推定されます。すると、壬申の乱直後の天武三年八月に大山(六位格)の国司級官吏として石見国美濃郡に赴任し、天武八年の晩秋から暮頃に小錦(従五位格)の内示を得て帰任したとの推定が可能となります。この場合、人麻呂は翌年の天武九年の七夕の宴には後年の殿上人と同じ立場で出席したと思われます。庭先で歌を献上するような下級官吏ではありません。
簡単な歌と思われる集歌1782の歌と集歌1783の歌ですが、歌で使われる言葉やその言葉から導かれる社会的背景を合わせて鑑賞しますと、柿本人麻呂と云う人物の人生と身分を考察することが可能となります。そして、集歌2033の歌の左注の「庚辰年(680)」を基準点として、人麻呂の人生は万葉集に示す作歌年や歌が扱う事件から天武三年(673)から大宝元年(701)の紀伊国行幸までは容易に辿る事が出来ることとなります。こうしてみますと、柿本人麻呂と云う人物は従来、評論するような人生不明の人物ではない事が判ります。このような考察が可能となることから、紹介しました歌二首は万葉集の中で最重要な歌となるのです。
さて、別な角度から集歌1783の歌を鑑賞しますと、この歌は掛詞技法を使う歌としては日本最古の位置にあります。従来の説とは違い、万葉集の歌を原歌表記から忠実に訓じますと、多くの掛詞技法の歌を見る事が可能です。鎌倉時代以降のそのような掛詞技法の存在を失念した人が行った漢字交じり仮名表記に翻訳された訓読み万葉集歌では見えてこない世界です。集歌1783の歌の上句「松反 四臂而有八羽」は確実に掛詞ですが、それを解説するものはあまりありません。従来、専門家によって強制された色眼鏡を掛けて歌を鑑賞していますから、存在しても視覚としてそれを捉えることはしませんし、許可されません。
万葉集での掛詞技法の歌は期待に反して多数を見る事ができますが、ここでは紹介しきれません。そこで、弊ブログでは、都度、掛詞技法が使われた歌を紹介していますので、「掛詞」でブログ内検索を行っていただければ、ここで主張するものの検証は容易に行えるものと考えます。お時間があれば検索して確認をお願いします。
参考情報として、従来の万葉集歌の検討では「柿本朝臣人麻呂歌」と「柿本朝臣人麻呂歌集」とに載る歌において、「柿本朝臣人麻呂歌」は人麻呂自身が作歌したもので、「柿本朝臣人麻呂歌集」は人麻呂が採歌し歌集として編んだものであって人麻呂自身の作歌とは認めがたいと、一見、厳密な区分をしていました。それを背景として人麻呂歌集の歌を使って柿本人麻呂の人生や身分を考察することは出来ないとの否定的な扱いをしていました。このような態度を下に柿本人麻呂は正史に載らない不明な人と云う評価や研究成果を得ていました。ただ、近代学問からすれば、このような研究は実に安直です。
一方、近代文学研究には無署名作品の作者比定と云う研究分野と手法があり、欧米では標準的な研究手法の一つとなっています。つまり、日本の古いタイプの研究者が個人の都合に合わせて論難に採用する「どこに、そのような記事が書いてあるのか」と云うようなものは研究放棄に近いものとしてまともな近代研究分野では相手にされないのです。作品に示される作者の思考態度、言葉の選択と扱い、表現方法での特徴や癖などを緻密に精査し、仮説を組み立て、検証を行い、無署名作品の作者比定を行うこともまた研究です。作品は残るがそれを直接に解説する文献が無いと云う理由で思考停止をするのでは近代研究者ではありません。逆に古文書読解を行う特殊作業員とその読解された古文書を下に研究を進める研究者とは厳密に区分すべきです。
このような無署名作品の作者比定の研究手法から「柿本朝臣人麻呂歌集」もまた人麻呂本人による作歌作品が多くを占めると考えられるようになり、ここで紹介しましたように集歌1782の歌は人麻呂自身のもので、集歌1783の歌は人麻呂の恋人である隠れ妻によるものであると考えられています。このような立場から、ここまでに紹介しました人麻呂の人生と身分が考察されることになります。当然、ここまでの帰結は古文書に直接には記載されていません。従来ですと古文書に記載されていない事柄は確認された事実ではありませんから架空の想定と云うことになります。古文書読解の特殊作業員の立場からすればそのようになります。繰り返しますが。仮定を組み立て論理的に検証して行くのが科学ですから、科学的研究者と古文書読解の特殊作業員との立ち位置は大きく違います。
さらに、およそ、昭和時代までの万葉集の研究と平成時代の研究とは、その研究態度が大きく違います。平成時代では万葉集歌は原歌表記(漢語と万葉仮名だけで表記)から扱うものであって、漢字交じり仮名に翻訳された訓読み万葉集歌を擬似原歌とすることは邪道です。また、明確に作歌者の名前が記述されないものを直ちに読み人知れずの歌として扱うことは避けるようになってきています。このような時代的背景からか、万葉集の研究は日本語研究、史書・律令法令、古代天文及・暦研究などの多方面からの総合研究へと進化して来ており、従来のような単純な古文書読解や詩歌語句研究だけに収まらないようになって来ています。
ご存じのように訓読み万葉集の語句は鎌倉時代初期でのものを伝統としますから、原歌表記を万葉仮名として忠実に訓じるものと一致するかと云うと必ずしも一致しません。例として弊ブログで度々指摘する「之」と云う万葉仮名の訓じ問題もその一つです。紀貫之たちはこの「之」を万葉仮名として訓じますが、藤原定家頃になりますと漢文読解での副詞的扱いで「之」に、適宜、訓じを与えます。そのような場合、詩歌語句研究での語尾変化と云う研究には疑問が生じます。まず、定訓としている訓読み万葉集歌が正しい訓じであると云う証明は正しいのかと疑問が生じます。また、詩歌において語尾変化が常に教科書的に詠われていたのかと云う証明は可能かとものがあります。日本語の進化と云う方面から丁寧に万葉仮名の訓じを研究すると、結構、難しい問題が残るようです。万葉仮名「之」の訓じにおいて、紀貫之の時代と藤原定家の時代の訓じは大きく異なります。弊ブログでは紀貫之の時代のものに準じますが、標準的な万葉集の読解では藤原定家の時代のものに準じます。必然、歌の内容が変わるものも出て来ます。
今回はこのような視点から、非常に肩に力が入った与太話・酔論となりました。あくまで、素人の酔論です。そのようなものとして御笑納下さい。