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竹取翁と万葉集のお勉強

楽しく自由に万葉集を楽しんでいるブログです。
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万葉雑記 色眼鏡 二四七 今週のみそひと歌を振り返る その六七

2017年12月30日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 二四七 今週のみそひと歌を振り返る その六七

 今回は巻九の中から次の歌二首で遊びます。この歌は個人の好みを下に紹介するもので歌自体の鑑賞には一般的な鑑賞と相違する点は少ないと考えます。ただ、集歌1783の歌は掛詞技法で詠われた歌としては最初期に位置するもので近代の和歌史研究では重要な歌と考えます。

集歌1782 雪己曽波 春日消良米 心佐閇 消失多列夜 言母不往来
訓読 雪こそば春日(はるひ)消(け)ゆらめ心さへ消(き)え失せたれや言(こと)も通はぬ
私訳 積もった雪は春の陽光に当たって解けて消えるように、貴女は私への想いも消え失せたのでしょうか。私を愛していると云う誓いの歌もこの春になっても遣って来ません。

集歌1783 松反 四臂而有八羽 三栗 中上不来 麻呂等言八子
訓読 松(まつ)返(かへ)りしひにあれやは三栗(みつくり)し中(なか)上(のぼ)り来(こ)ぬ麻呂といふ奴(やつこ)
私訳 松の緑葉は生え変わりますが、貴方は体が不自由になったのでしょうか。任期の途中の三年目の中上がりに都に上京して来ない麻呂という奴は。
別訳 貴方が便りを待っていた返事です。貴方が返事を強いたのですが、任期の途中の三年目の中の上京で、貴方はまだ私のところに来ません。麻呂が言う八歳の子より。

 さて、この歌二首は集歌1783の歌の左注に「右二首、柿本朝臣人麻呂之謌集中出」と紹介されるもので、万葉集の中でも柿本人麻呂の人生や経歴研究からは最重要歌の一つです。
 いかにも大げさに紹介しましたが、その大げさな背景を紹介します。まず、集歌1782の歌からは歌が詠われていた時の人麻呂の生活環境が推定されます。歌の上句「雪己曽波 春日消良米」と詠うように、当時、人麻呂はすぐに解けて消えますがそれでも雪が降り積もる地域に住んでいますし、歌を贈った都に住む相手の女性(弊ブログでは「隠れ妻:巨勢臣人の娘」と推定)も人麻呂が住む地域をそのような場所として認識するような地方です。まず、雪の降り様から豪雪地帯の北陸・越前方面ではないでしょうし、南関東以西の東国でもないでしょう。なお、陸奥国(北関東以北と東北)は人麻呂時代では大和と云う国には含まれていませんから対象外です。さらに、山陽道や南海道の諸国でもないでしょう。およそ、北部九州から山陰地方が候補に上ると思います。さらに、「言母不往来」と詠うように古代ではありますが都との人の交通が頻繁には無い地方です。ここから都との連絡が頻繁であろう大宰府や瀬戸内海航路に関わる北部九州地域ではなく、山陰方面が候補であろうと絞られて来ます。
 次に集歌1783の歌に「三栗 中上不来」とあります。ここから、人麻呂は地方に任官して三年を過ごしており、歌が詠われた年に行政規定(中上)による都に業務報告のため上京する予定があったことになります。それも「中上」ですから身分は国司か、それに準ずる立場です。都に住む女性が地方に住む人麻呂から特段の上京理由と日程を説明する便りが無かったとしますと、都人たちは人麻呂の身分を三年目の中間業務報告である中上を行わなければならない国司と理解しています。そして、飛鳥浄御原宮時代ですと官位としては後の六位相当の大山格の官吏です。ここまでのことがこの歌二首から直接に推定されます。
 ここで、少し視野を広げて巻十に載る歌を紹介します。

集歌2033 天漢 安川原 定而 神競者 磨待無
訓読 天つ川八湍(やす)し川原し定まりて神(かみ)競(きそは)へば磨(まろ)し待たなく
私訳 天の八湍の川原で約束をして天照大御神と建速須佐之男命とが大切な誓約(うけひ)をされていると、それが終わるまで天の川を渡って棚機女(たなはたつめ)に逢いに行くのを待たなくてはいけませんが、年に一度の今宵はそれを待つことが出来ません。
此謌一首庚辰年作之。
注訓 この歌一首は庚辰の年に作れり

 この歌は庚辰年と云う左注からしますと天武天皇九年(680)七月に七夕の宴で詠われたものです。つまり、人麻呂は天武九年七月には飛鳥の都にいます。すると、「中上」に関わる集歌1782の歌が詠われたのは天武五年春か、天武十二年春以降かの二案が提案されます。ただし、持統三年(689)四月に草壁皇子の挽歌を詠いますから、赴任の時期を大きく後ろに持って来ることはできません。赴任限度は天武十二年(683)が下限です。
 中上が歌われた年について天武十二年春以降説の場合、天武九年七月の七夕の宴直後に地方官として赴任したとしても、任期満了は早くて天武十五年(686)となります。この説の場合、飛鳥の都に帰任してしばらくの後となる草壁皇子の挽歌を持統三年(689)に詠います。それも最先端の国家思想である天皇の天降りと神上がりと云う現御神の精神で以ってその挽歌を詠いますから、政権中枢が作り上げた国家像へ触れる機会が多い立場です。石見国司格の人物が帰任直後に関与するには任が重いと思いますし、それに柿本一族は政治官僚系の一族ではなく、実務系の一族と考えますので天武十二年春以降説は薄いと判断しています。弊ブログではこのような考察と他の万葉集に載る歌が詠われた年代表から集歌1782の歌が詠われたのは天武五年春説を採用しています。そうしたとき、江戸時代の版木本ではありますが『人丸秘密抄』に「人丸は天武天皇御時三年八月三日に石見国戸田郡山里といふ所に語家命(みこと)といふ民(たみ)の家の柿本に出現する人なり」とあります。この記事の出典元は不明ですが、江戸時代に天武三年八月に柿本人麻呂が石見国美濃郡小野郷戸田に飛鳥の都から赴任したとの伝承が伝わっています。
 さらに、万葉集を参照しますと巻二に集歌135の長歌に「大夫跡 念有吾毛」との表現があります。ここから人麻呂が石見国から帰任する時、大夫(=小錦:五位格)の官位の内示があったと推定されます。すると、壬申の乱直後の天武三年八月に大山(六位格)の国司級官吏として石見国美濃郡に赴任し、天武八年の晩秋から暮頃に小錦(従五位格)の内示を得て帰任したとの推定が可能となります。この場合、人麻呂は翌年の天武九年の七夕の宴には後年の殿上人と同じ立場で出席したと思われます。庭先で歌を献上するような下級官吏ではありません。
 簡単な歌と思われる集歌1782の歌と集歌1783の歌ですが、歌で使われる言葉やその言葉から導かれる社会的背景を合わせて鑑賞しますと、柿本人麻呂と云う人物の人生と身分を考察することが可能となります。そして、集歌2033の歌の左注の「庚辰年(680)」を基準点として、人麻呂の人生は万葉集に示す作歌年や歌が扱う事件から天武三年(673)から大宝元年(701)の紀伊国行幸までは容易に辿る事が出来ることとなります。こうしてみますと、柿本人麻呂と云う人物は従来、評論するような人生不明の人物ではない事が判ります。このような考察が可能となることから、紹介しました歌二首は万葉集の中で最重要な歌となるのです。

 さて、別な角度から集歌1783の歌を鑑賞しますと、この歌は掛詞技法を使う歌としては日本最古の位置にあります。従来の説とは違い、万葉集の歌を原歌表記から忠実に訓じますと、多くの掛詞技法の歌を見る事が可能です。鎌倉時代以降のそのような掛詞技法の存在を失念した人が行った漢字交じり仮名表記に翻訳された訓読み万葉集歌では見えてこない世界です。集歌1783の歌の上句「松反 四臂而有八羽」は確実に掛詞ですが、それを解説するものはあまりありません。従来、専門家によって強制された色眼鏡を掛けて歌を鑑賞していますから、存在しても視覚としてそれを捉えることはしませんし、許可されません。
 万葉集での掛詞技法の歌は期待に反して多数を見る事ができますが、ここでは紹介しきれません。そこで、弊ブログでは、都度、掛詞技法が使われた歌を紹介していますので、「掛詞」でブログ内検索を行っていただければ、ここで主張するものの検証は容易に行えるものと考えます。お時間があれば検索して確認をお願いします。

 参考情報として、従来の万葉集歌の検討では「柿本朝臣人麻呂歌」と「柿本朝臣人麻呂歌集」とに載る歌において、「柿本朝臣人麻呂歌」は人麻呂自身が作歌したもので、「柿本朝臣人麻呂歌集」は人麻呂が採歌し歌集として編んだものであって人麻呂自身の作歌とは認めがたいと、一見、厳密な区分をしていました。それを背景として人麻呂歌集の歌を使って柿本人麻呂の人生や身分を考察することは出来ないとの否定的な扱いをしていました。このような態度を下に柿本人麻呂は正史に載らない不明な人と云う評価や研究成果を得ていました。ただ、近代学問からすれば、このような研究は実に安直です。
 一方、近代文学研究には無署名作品の作者比定と云う研究分野と手法があり、欧米では標準的な研究手法の一つとなっています。つまり、日本の古いタイプの研究者が個人の都合に合わせて論難に採用する「どこに、そのような記事が書いてあるのか」と云うようなものは研究放棄に近いものとしてまともな近代研究分野では相手にされないのです。作品に示される作者の思考態度、言葉の選択と扱い、表現方法での特徴や癖などを緻密に精査し、仮説を組み立て、検証を行い、無署名作品の作者比定を行うこともまた研究です。作品は残るがそれを直接に解説する文献が無いと云う理由で思考停止をするのでは近代研究者ではありません。逆に古文書読解を行う特殊作業員とその読解された古文書を下に研究を進める研究者とは厳密に区分すべきです。
 このような無署名作品の作者比定の研究手法から「柿本朝臣人麻呂歌集」もまた人麻呂本人による作歌作品が多くを占めると考えられるようになり、ここで紹介しましたように集歌1782の歌は人麻呂自身のもので、集歌1783の歌は人麻呂の恋人である隠れ妻によるものであると考えられています。このような立場から、ここまでに紹介しました人麻呂の人生と身分が考察されることになります。当然、ここまでの帰結は古文書に直接には記載されていません。従来ですと古文書に記載されていない事柄は確認された事実ではありませんから架空の想定と云うことになります。古文書読解の特殊作業員の立場からすればそのようになります。繰り返しますが。仮定を組み立て論理的に検証して行くのが科学ですから、科学的研究者と古文書読解の特殊作業員との立ち位置は大きく違います。
 さらに、およそ、昭和時代までの万葉集の研究と平成時代の研究とは、その研究態度が大きく違います。平成時代では万葉集歌は原歌表記(漢語と万葉仮名だけで表記)から扱うものであって、漢字交じり仮名に翻訳された訓読み万葉集歌を擬似原歌とすることは邪道です。また、明確に作歌者の名前が記述されないものを直ちに読み人知れずの歌として扱うことは避けるようになってきています。このような時代的背景からか、万葉集の研究は日本語研究、史書・律令法令、古代天文及・暦研究などの多方面からの総合研究へと進化して来ており、従来のような単純な古文書読解や詩歌語句研究だけに収まらないようになって来ています。
 ご存じのように訓読み万葉集の語句は鎌倉時代初期でのものを伝統としますから、原歌表記を万葉仮名として忠実に訓じるものと一致するかと云うと必ずしも一致しません。例として弊ブログで度々指摘する「之」と云う万葉仮名の訓じ問題もその一つです。紀貫之たちはこの「之」を万葉仮名として訓じますが、藤原定家頃になりますと漢文読解での副詞的扱いで「之」に、適宜、訓じを与えます。そのような場合、詩歌語句研究での語尾変化と云う研究には疑問が生じます。まず、定訓としている訓読み万葉集歌が正しい訓じであると云う証明は正しいのかと疑問が生じます。また、詩歌において語尾変化が常に教科書的に詠われていたのかと云う証明は可能かとものがあります。日本語の進化と云う方面から丁寧に万葉仮名の訓じを研究すると、結構、難しい問題が残るようです。万葉仮名「之」の訓じにおいて、紀貫之の時代と藤原定家の時代の訓じは大きく異なります。弊ブログでは紀貫之の時代のものに準じますが、標準的な万葉集の読解では藤原定家の時代のものに準じます。必然、歌の内容が変わるものも出て来ます。

 今回はこのような視点から、非常に肩に力が入った与太話・酔論となりました。あくまで、素人の酔論です。そのようなものとして御笑納下さい。
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万葉雑記 色眼鏡 二四六 今週のみそひと歌を振り返る その六六

2017年12月23日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 二四六 今週のみそひと歌を振り返る その六六

 今回は巻九の中から次の歌で遊びます。

宇合卿謌三首
標訓 宇合卿(うまかひのまえつきみ)の歌三首
集歌1729 暁之 夢所見乍 梶嶋乃 石越浪乃 敷弖志所念
訓読 暁(あかとき)し夢(いめ)そ見えつつ梶島(かぢしま)の石(いは)越す波のしきてしそ思(も)ふ
私訳 うつらうつら見る明け方の夢に貴方の姿を見えつつ、梶島の巖を越す波が覆い被さるように私の心に貴方の姿が被さっています。

集歌1730 山品之 石田乃小野之 母蘇原 見乍哉公之 山道越良武
訓読 山科(やましな)し石田の小野し柞原(ははそはら)見つつか公し山道(やまぢ)越ゆらむ
私訳 山科の石田の小野のクヌギの林を見ながら、貴方は山道を越えるのでしょうか。
注意 山道は山科と大津を結ぶ逢坂関越えの街道です。

集歌1731 山科乃 石田社尓 布靡越者 蓋吾妹尓 直相鴨
訓読 山科の石田し杜(もり)にしま越せばけだし吾妹(わぎも)に直(ただ)し逢はむかも
私訳 山科の石田の杜を袖を靡かせて暫しの間に越えて来れば、たぶんきっと、私の愛しい貴女に直ぐに逢えるでしょう。

 歌を鑑賞しますと、集歌1730の歌と集歌1731の歌では藤原宇合は奈良から旧大津宮方面に住む女性に逢う為に旅をしていることが窺えます。歌三首の鑑賞ではこれを基準に置きたいと思います。
 他方、一般に集歌1729の歌で詠われる梶島は愛知県幡豆郡吉良町の宮崎海岸の沖に浮かぶ梶島(弁天島)がそれだとします。ただ、三首組歌として鑑賞する場合は二首が山科を詠いますから、吉良町の島では違和感がありますので、未詳として場所を保留する考えもあります。また、吉良町の梶島の地名は戦国時代の今川義元と織田信長との紛争に由来するとしますから、この地名比定はある種、宮城の塩釜と同じような昭和になってからの新しい観光名所かもしれません。ただ、昭和時代での新古今時代以降の伝統を受け継ぎ組歌であっても和歌は一首づつ抜き出し単独に鑑賞する立場では吉良町に浮かぶ島になりますし、歌を組歌として鑑賞する立場では場所未詳となります。これは歌を鑑賞する立場に拠りますから、伝統や和歌道からすれば単独に鑑賞するのが基本ですから吉良の梶島説が観光行政を踏まえると正統なものとなります。なお、古来からの語呂合わせですと、愛知県愛西市の梶島(かじしま)、静岡県の鍛冶島(かじしま)、高知県の柏島(かしはしま)などでなまって遊ぶことも可能です。ただ、素直な万葉集歌の鑑賞と云うものと町興しと云う経済的行為とを混同しないのが良いと思います。吉良町の梶島は純粋な町興しでしょうから距離を置くのが良いと思います。

 さて気を取り直し、藤原定家に祖を置く伝統や和歌道を棚の奥のほうの目の付かないところに置き、歌三首を歌に示される標題通りに組歌三首として鑑賞します。
 繰り返しますが集歌1730の歌と集歌1731の歌からは藤原宇合は奈良から旧大津宮方面に住む女性に逢う為に旅をしています。それも歌三首は宇合が詠っていることになっていますが、集歌1729の歌と集歌1730の歌は宇合を待つ女性の立場でのものですから、標題に従いますと女性に成り代わっての歌となります。ここに、物語性があります。
 この時代と物語性を踏まえて、奈良時代までは梶の木は神聖な樹木でその葉は御饌(みけ)を載せる皿のような役割で下に敷いていました。さらに栲(たえ)は栲(かじ)とも読み、梶木の繊維で布や幣などを調度し神事などに使用しています。大和の伝統において大麻(おおあさ)から麻布を得て、それも栲(たえ)としますが、麻布は人々の衣類の主力製品であったためか、梶の木の方が古代人にとってより神聖性が高かったようです。
 また、奈良方面から近江大津方面への交通の要所として宇治川の渡しと逢坂の峠越えがあります。その宇治川の渡しでは中州の島である塔の島と橘島とを併せて中の島と呼びますが、上流側の塔の島の呼び名は鎌倉時代後期に建立された十三重石塔に由来を持つ名称で奈良時代からの名称ではありません。参考として、当時、宇治川が巨椋池の注ぐ河口部の最大の島を槇島と称していましたから、塔の島には宇治上神社ゆかりとして梶の木が植えられていた可能性があります。さらに、宇治橋は大化年間頃から僧侶の勧進により架けられたとの歴史を持ちますから、梶は加持であるかもしれません。鎌倉時代の十三重石塔もまた宇治橋架け替えの安全と完成祈願に工事で迷惑する魚たちへの償いを含めた仏教的振る舞いのものです。

 強引な話ですが、古代、宇治塔の島を梶島と称されていた可能性です。そのように妄想しますと、集歌1729の歌の「石越浪乃 敷弖志所念」の景色が、宇治川の流れが中州先端の川原を洗う状況に似合ってきます。そして、道順としても奈良から大津への順路ですので、歌三首を鑑賞するとき、奈良を出発して宇治川の渡しを経て、山科の石田の杜を抜け、逢坂山を越えるとなります。このとき、愛知県の島を持って来るよりも歌の鑑賞としては自然です。
 かように、まず、地名探しは終わります。
 ついで、集歌1729の歌と集歌1730の歌について、標題では「宇合卿謌」ですが、歌の内容からして山科と近江との境を為す逢坂を越えた先の里に住む女性のものです。天智天皇の大津宮などの例外はありますが、奈良盆地や河内平野を本拠とする倭人にとって近江は畿外です。およそ、そこは旅する場所であって、常の妻問いするような場所ではありません。すると、頭の二首は女性の立場に成り代わっての歌ですし、その女性は畿外に住む女性です。天智天皇の大津宮時代を回想してのものでないとしますと、仮構を詠ったものでしょうか。なお、藤原宇合は年齢的にまったくに天智天皇の大津宮時代を知らない世代で、それは祖父や父親が生きた時代です。歌三首は雑歌の部立に含まれますが、必ずしも羈旅での歌ではないのではないでしょうか。HP「千人万首」では「旅の歌か、宴で詠まれた歌か」と、その内容は定め難いとします。この判断に基本的に同意ですが、弊ブログでは更に一歩進めて、宴での歌と考えます。

 目先を変えて、この歌三首の前に石川卿が詠う集歌1728の歌が置かれています。万葉集での石川卿とは式部卿石川朝臣年足と考えますし、その集歌1728の歌は紀伊国名草の景色を詠いますから、歌が詠われたのは神亀元年(724)の紀伊行幸でのものと思われます。万葉集への掲載順からしますと、その後ろに置かれた「宇合卿謌」はその神亀元年以降のものと考えられます。これに藤原宇合の経歴を重ねますと神亀二年から三年頃の歌となるでしょうか。藤原宇合の経歴と激務からしますと、まず、女を訪ねての近江への旅はないと考えます。
 すると、歌三首は宮中などでのサロンで詠われた仮構の歌物語としますと、その背景に誰もが知る近江の女と倭の男との恋愛物語があったはずです。それにより男がわざわざ奈良から大津へと通う場面に人々は納得するのです。では、どのような恋愛物語があったかと云うと、弊ブログでの推定は近江朝時代の柿本人麻呂と隠れ妻との恋愛譚がそれであり、それは人麻呂歌集の形で世に出ていたと考えます。源氏物語の中で紫式部が万葉集に載る柿本人麻呂と隠れ妻との相聞和歌を引き歌したように、奈良時代でも人麻呂と隠れ妻との相聞歌は恋愛を和歌を詠うお手本であったと推定します。

 参考として人麻呂歌集の歌で、近江朝時代の遠距離恋愛時代の歌四首を抜粋して紹介します。

集歌2424 紐鏡 能登香山 誰故 君来座在 紐不開寐
訓読 紐鏡(ひもかがみ)能登香(のとか)し山し誰がゆゑし君来ませるに紐解(と)かず寝(ね)む
私訳 紐を通して吊るして懸ける真澄鏡。その紐を「莫解か(なとくか)」と云う言葉のひびきのような、能登川の香しい高円山よ。誰のためでしょうか。鏡の中に貴方の姿が見えるのに、契りの衣の紐を解かずに今日は独りで寝ましょう。

集歌2425 山科 強田山 馬雖在 歩吾来 汝念不得
訓読 山科(やましな)し木幡(こはた)し山し馬あれど歩(かち)より吾(わ)が来(こ)し汝(な)し思(も)ひかねて
私訳 近江路の山科の木幡の山を馬も越えると云うが徒歩で私は来ました。貴女を慕うだけでは逢えないので。

集歌2434 荒磯越 外往波乃 外心 吾者不思 戀而死鞆
訓読 荒礒(ありそ)越し外(ほか)行く波し外(ほか)心(こころ)吾(われ)は思はじ恋ひて死ぬとも
私訳 川の流れの荒い岩を越えて流れて行く波のように、異心を私は思うことはありません。貴女を慕って恋に死ぬとしても。

集歌2435 淡海ゞ 奥白浪 雖不知 妹所云 七日越来
訓読 淡海(あふみ)し海(み)沖つ白波知らずとも妹(いも)がりといはば七日(なぬか)越え来む
私訳 淡海の海の沖の白浪の恐ろしさを知らなくても、貴女の住む場所といへば七日かかっても山川を越えて来ます。

 今回も与太話でした。根拠はまったくにありませんので、取り扱いには注意をお願いします。
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遊仙窟の詩文鑑賞 同音字とその比喩が示すもの

2017年12月22日 | 資料書庫
遊仙窟の詩文鑑賞 同音字とその比喩が示すもの

 『遊仙窟』は奈良時代初期に唐から大和にもたらされた艶本伝奇小説です。およそ、万葉集に深く関係する山上憶良が随行した大宝元年(701)第七次遣唐使の帰国時 慶雲元年(704)にそれを持ち帰ったのではないかと推定され、その後の日本文学に大きな影響を与えた作品です。
 当然、遊仙窟は漢文で創作された作品ですので、その文章や詩文などにも漢字が持つ同音関係からの言葉遊びや比喩・暗示など 多様な表現方法がふんだんに使われています。一般的な遊仙窟の解説では紹介されない、この同音関係からの言葉遊びや比喩・暗示などの多様な表現方法について、その一部をここで紹介しようと考えます。なお、本文中での女性の美の形容、楼館や室内、衣装、食事、歌舞音曲などの様子を形容する慣例・定型での美辞麗句や古典引用などは判り易い常のものですので、ここでは取り上げません。それは漢詩漢文を専門に研究するお方のテリトリーです。
 弊ブログは『万葉集』を原歌表記から鑑賞し、それを備忘録の扱いでブログとしてアップしています。そうしたとき、漢文鑑賞において同音字関係を理解しないと作品の面白みに触れられないと思っており、それは専門とする人たちの基本認識と思っていました。ところが、色々な文庫本やインターネットなどで紹介されるものを眺めますと、盛唐以降の漢詩に韻を考察することはあっても、漢文章に同音字関係を考察することは稀ではないかと思うようになりました。例えば、『詩経』漢詩の解説で同音字関係から漢詩を鑑賞・解説するものを見つけることは困難です。また、ここで紹介する遊仙窟でも然りですし、万葉集でもそうです。このような状況がありますので、有名な遊仙窟を使い、その文章や詩文での漢字が持つ同音関係からの言葉遊びや比喩・暗示など 多様な表現方法の可能性を紹介するものです。ただ、ご存じのように弊ブログは正統な教育を受けていない建設作業員が行うブログです。学問的な背景はまったくにありません。あくまで、部外者が行う与太話としてご笑納下さい。ただただ、鑑賞での可能性を示すだけです。
 追記参考として、遊仙窟の原文並びにその訓読については、弊ブログの資料庫に収容していますので「遊仙窟」で検索を行い、参照していただければ幸いです。一般的なネット検索では「遊仙窟 原文」のキーワードで容易に弊ブログのものに接続できます。ただ、その訓読において同音字による比喩や暗示、また、表の意味合いと文中に隠された裏の意味合いをもすべて訓読中に紹介することは煩雑ですし、そのような文才を持ち合わせていません。そのため、訓読では同音字関係を括弧書きにより示唆するだけに留め、訓じは文章表面上のものだけを紹介しています。遊仙窟の本来の楽しみは、ここでその一端を紹介する同音関係からの言葉遊びや比喩・暗示などの多様な表現方法の存在を認識した上で貴兄の鑑賞に委ねます。

 さて、多様な表現方法において、例えば次に示す文中に同音字による言葉遊びがあります。理解を容易にするために補足しますと、前提として文章は主人公である「下官(げかん)」とその下官に旅の宿を借し、さらに一夜を共にすることになる「十娘(じゅうじょう)」との間で、次第に互いが心を引かれ見詰め合う中で、外見と本心と云う問題について「眼」と「心」と云う詞を使い問答を行う場面でのものです。その二人の言い合いがエスカレートする中、十娘の義理の兄嫁となる「五嫂(ごそう)」が機転を利かせ、二人の言い合いの中での言葉と卓上に置かれた果物の名とを聴き間違えたかのようにしてその言い合いを引き取ります。紹介しますものは、二人の眼と心に関する言い合いと、それを引き取って機転を利かせたときの言葉遊びです。なお、会話で云う「眼」とは目で見える上辺の態度であり、「心」とは目で見ることの出来ない本心を意味します。

<本文>
下官詠曰、忽然心裏愛、不覚眼中憐。未関雙眼曲、直是寸心偏。
十娘詠曰、眼心非一處、心眼舊分離。直令渠眼見、誰遣報心知。
下官詠曰、舊来心使眼、心思眼剰傳。由心使眼見、眼亦共心憐。
十娘詠曰、眼心俱憶念、心眼共追尋。誰家解事眼、副著可憐心。
于時五嫂遂向菓子上、作機警曰、但問意如何、相知不在棗。
十娘曰、兒今正意密、不忍即分梨。
下官曰、忽遇深恩、一生有杏。
五嫂曰、當此之時、誰能忍柰。

<訓読>
下官の詠ひて曰はく「忽然として心裏に愛しみ、覚えず眼中の憐み。未だ雙眼は曲(すなお)に関わらずて、直だ是れ寸心偏(かたむ)くなり」と。
十娘の詠ひて曰はく「眼(ひとみ)と心は一つ處に非ず、心と眼は舊(もと)より分ち離る。直ちに渠(きみ)が眼をして見せしめば、誰か心を報じて知らしめむ」と。
下官の詠ひて曰はく「舊来、心は眼を使はしめ、心の思ふときは眼剰(あまつさ)へ傳ふ。心の眼を使ふに由つて見るや、眼も亦た心と共に憐む」と。
十娘の詠ひて曰はく「眼と心と俱(つまびから)に憶ひ念ふや、心と眼と共に追ひ尋ねむ。誰家(だれ)か事を解する眼ぞ、副(そ)ひ著(な)せる可憐なる心」と。
その時に五嫂、遂ひに菓子の上に向ひ、機警(きけい)を作(な)して曰はく「但だ問ふ意は如何、相ひ知る棗(なつめ)に在らざるか」と。(棗と早は同音で、言葉遊びがあります)
十娘の曰はく「兒(われ)、今、正に意は密なり、忍ばずて即ち梨を分かたむ」と。(梨と離は同音です)
下官の曰はく「忽ち深恩に遇ふて、一生は杏に有り」と。(杏と幸は同音です)
五嫂の曰はく「此の時に當りて、誰か能く柰(りんご)を忍ばむ」と。(柰と耐は同音です)

 後半での表面上の三人の会話は卓上に置かれた果物、棗・梨・杏・柰についてですが、同音文字での言葉遊びでは下官と十娘との互いの感情を暗示させます。この紹介しました文中から一例を示し詳細しますと、五嫂の「相知不在棗」の直接の訓じは「相ひ知る棗(なつめ)に在らざるか」で、卓上の果物の一つを示した言葉です。このままでは前後の会話からすると頓珍漢となりますが「棗」と「早」とは同音字関係ですから聴き様によっては話言葉として「相知不在、早」であり、訓じでは「相ひ知る在らざるや、早(=既に、互いの心情は判ってるでしょうに)」と解釈が出来ます。もしこの同音字の言葉遊びが判らず、ただただ原文を字面のままに読んだのでは、どうして急に卓上の果物の話が出てきたのかが理解が出来ないのではないでしょうか。
 これが唐代の遊郭で遊ぶ風流士が成した遊仙窟と云う作品の本質です。弊ブログになじまれているお方はご承知と思いますが、詩経 衛風「有狐」と云う作品での「淇」と「妓」との同音字関係と同様な技法が遊仙窟でもふんだんに使われていると云うことなのです。つまり、中国文学での基本作文技法と云うことです。文中に引用される定型での美辞麗句の出典由来を研究することも重要ですが、それ以上に同音字関係を研究することも作品鑑賞では忘れることは出来ないと考えます。
 ここで、遊仙窟 本文ではこの同音字の言葉遊びの会話の後に、十娘が梨の皮を剥く場面へと進みます。その梨の皮を剥く場面で詠われるものは以下に「割梨」と云う題を仮に付けた詩文のところで紹介します。ここでは果物名を使った同音字の言葉遊びの会話を通じて下官と十娘とは既に互いに心が惹かれあっていると云う小説での設定と展開を理解してください。

注意事項:遊仙窟は本質的に男女の性交をテーマにした艶本(ポルノ小説・セクシャル小説)です。そのため、遊仙窟の鑑賞は性技などを示す文章を鑑賞することに近似することになります。従いまして、低年齢のお方や性交渉表現に嫌悪を持たれるお方は、ここでの退場を推薦します。

 さて、遊仙窟は若き有望な武人が使いにより出向いた遠い旅の途中で若き戦争未亡人が住む屋敷に一夜の宿を借りることを小説の場と設定する艶本伝奇小説です。この設定において十娘は二十歳にもならないうら若い女性ですが、立場は戦争未亡人ですので男女関係を知らない女性ではありません。亡き夫から十分に男女関係を教えられている成熟した女性と云うことになっています。また、儒教などを背景とする倫理面においても、戦争未亡人たる十娘は旅行く男と一夜の恋に落ちても良いことになりますし、夜が明ければ亡き夫の屋敷を守る十娘と旅行く男との恋は終わることになります。このような前提で以下の詩文の鑑賞を進めていきます。
 最初、遊仙窟に現れる詩文を鑑賞する前に例題を示して同音字の言葉遊びを紹介しました。詩文の始めとして次に紹介しますものは、遊仙窟 本文中では下官を遠来の客として持てなす宴の中で余興として双六をする場面で詠われたものです。
 この双六遊びは賭け事であり、賭けの懸賞品に関して次のような艶なる会話がなされています。十娘が双六で勝ったら賭けの懸賞品である下官と一夜を共にし、下官が勝ったら下官の求めに従って十娘と一夜を共にしましょうという提案です。いづれの結果でも一夜を共にしましょうと云う下官からの艶なる提案です。なお、文中の「輸籌」とは双六勝負での得た数字が大きいと云う意味合い、つまり、勝ちを示します。

<本文>
余答曰、十娘輸籌、則共下官臥一宿。下官輸籌、則共十娘臥一宿。

<訓読>
余の答へて曰はく「十娘、籌(かず)を輸(ま)けなば、則ち下官と一宿を臥せ。下官、籌を輸けなば、則ち十娘と共に一宿を臥せむ」と。

 順序として、紹介する詩文はこのような下官・十娘・五嫂との間での会話が先にあり、その後に詠われています。直接的な詩文の鑑賞において、この詩文中の「脚」は推定で盤双六での初めの位置に置かれた二石で、「腰」は中央の五石を意味すると思われます。つまり、最初は相手が配置した自分から見て後ろとなる二石を攻撃し、次に中央の五石を攻撃すると云う、盤双六の勝負の様子を詠っているのでしょう。しかしながら現在では唐時代に流行した盤双六の本来のルールは判らなくなっており、そのため、詩文中の「脚」や「腰」で示される双六遊びでの言葉の意味は未詳のままです。この盤双六は中国でも日本でも人々が熱狂したと云う博打ですが、そのルールが不明となったため、本来の表となる詩文の意味が判らなくなってしまいました。ただ、下官から既に勝負の結果がどうであれ夜を共にすることを笑いを交えて提案されていますから、詠う詩文の内実は夜の誘いであり、その応答です。

詠局 局(すごろく)を詠う
眼似星初轉、 眼は星の初めて轉(またた)くに似、
眉如月欲消。 眉は月の消えむと欲するが如く。
先須捺後脚、 先づ須らく後脚を捺で、
然始勒前腰。 然して始めて前腰を勒(おさ)むべし
勒腰須巧快、 腰を勒めなば須らく巧(よ)く快(こころよ)かるべし、
捺脚更風流。 脚を捺でなば更に風流
但令細眼合、 但だ細(くはし)き眼を合わせしめば、
人自分輸籌 人も自(われ)も籌(かず)を輸(ま)けること分たむ
(細と戯は同音、眼と艶は同音。輸に盡の意味あり)

 内実において、下官が最初に十娘の輝く眼(=瞳)と新月のような細い眉を詠い十娘が典型的な中国美人であることを誉め、ついで脚から愛撫を始めて性交をしたいと願います。対して十娘は「貴方と性交したら気持ちがいいでしょうし、最初に脚(=陰部)から丹念に愛撫されたらもっともっと気持ちがいいでしょう。そうしたら、貴方と戯れて艶を共にするとその気持ちよさで貴方と私が幾度も交わってから始めてやっと満たされて互いに身を放つでしょう」と詠います。確かに建前の鑑賞では盤双六であり、双六の遊びですが、斯様に内実は違います。互いに夜の営みへの誘い合いを詠います。

 次に紹介するものは最初に同音字での言葉遊びの例として紹介しました卓上に置かれた果実の会話の続きです。それが割梨と云う詩題で紹介するものです。参考で詩中の梨は中国梨でその形状は洋ナシのように枝側の先が尖り、断面、三角形となります。日本の梨とは形が違います。建前ではその枝側の先が尖った梨を十娘が下官から借りた小刀で皮を剥く様子を詠います。

割梨 「梨を割る」を詠う
自憐膠漆重、 自ら憐む膠漆の重んずべきを、
相思意不窮。 相ひ思ひて意は窮まらず。
可惜尖頭物、 惜むべし尖(さき)き頭の物、
終日在皮中。 終日(ひねもす)皮中に在るを。
數捺皮應緩、 數(まね)して皮を捺でなば應じて緩たり、
頻磨快轉多。 頻ぶるに磨すれば快は轉(うたた)る多からむ。
渠今拔出後、 渠(きみ)、今、拔き出して後、
空鞘欲如何。 空しき鞘を如何にか欲(よく)さむ。

 この詩文の前に詠われた双六の詩文では、下官は十娘を抱きたいと願い、十娘は優しく愛撫してから私を抱くなら何度でも抱きなさいという応諾の関係が出来上がっていることになっています。それが前提の詩文です。そのため、最初に下官が詠うこの詩文での尖頭物とは女性の陰核を暗示し、中国梨の枝側の尖りではありません。対して建前では下官から小刀を借りた十娘は小刀を鞘から抜き出して梨の皮を剥く様子を詠います。ただ、内実は違います。下官が「互いに好き合っているのに貴女の女陰は愛撫もされていませんね」と詠うと、十娘は「その皮に包まれ隠れている陰核をやさしく愛撫すると女陰は緩み、さらにやさしくされて表に顕われた陰核をもっと愛撫すると快感は目が回るほどに増すでしょう。そうした私と性交し、気を吐いた陰茎を抜き去った後、それから貴方は私の女陰をどうするの」と尋ねます。つまり、交わりは一度だけかとの事前の問い掛けです。
 この十娘からの問い掛けの答えが次の詩文「破銅熨斗」です。この銅の熨斗とは古代から近世まで使われたアイロンです。片手鍋のような形状で、鍋の部分に火の付いた炭を入れ銅製の鍋本体を暖めてアイロンとして皺展ばしに使います。

破銅熨斗 「破(こは)れた銅の熨斗(のし)」を詠う
舊来心肚熱、 舊来、心肚は熱せり、
無端強熨他。 端無く強ひて他を熨さる。
即今形勢冷、 即ち今形勢は冷えて、
誰肯重相磨。 誰か肯へて重なりて相ひ磨(ま)かむ。
若冷頭面在、 若し冷なる頭の面に在あらば、
生平不熨空。 生平(つね)に空を熨さず。
即今雖冷惡、 即ち今冷惡なりと雖も、
人自覚残銅。 人も自(われ)も残銅を覚(もと)めむ。
(銅は洞と同音)

 遊仙窟は艶本伝奇小説です。そのため詩文「破銅熨斗」の十娘が歌う前半部分は、特段、艶なる要素はありません。ところが下官が歌う後半の「覚残銅」で始めて艶なる要素が出て来ます。もし、同音字において銅が洞であるならば、ここで先ほどの「空鞘欲如何」の答えが出て来ます。つまり、性交で一度、射精をして萎えたとしても他の女とは違い、貴女となら私はさらに貴女を求め性交をしますよとの答えです。つまり、同音字において残銅は残洞であり、萎えた陰茎が去った後の女陰と云う比喩です。
 ここで、遊仙窟は艶本伝奇小説ですから詩文は十娘と下官との詩に分かれていても、全体は作者の詩文です。そうしますと、後半部が十娘との複数回の性交を示唆するのですと前半部分の「無端強熨他」には十娘と下官との性交体位が示されていることになります。およそ、それは十娘が下官の体の下に在り、身の端から端まで下官の体によって展ばされた形、つまり、正常位で行為をすると云うことになります。
 ついで、遊仙窟 本文ではこの詩文「破銅熨斗」の後、再び宴の場面に戻り、宴に集う人々による歌舞の場面を紹介します。そして、歌舞の場面での会話を記述する文中に使われた「便(ときおり)」と云う言葉と別の意味合い「便(たより)」との言葉遊びに小説は展開し、その「便(たより)」から詠筆硯の詩文を詠う場面に遷ります。詠筆硯の詩文の前半、下官が詠う部分は「便(たより)」を記す為に墨を磨る様子です。ただし、使う漢字には色々な意味合いがありますから、取り様によっては非常なる艶があります。

詠筆硯 筆硯(すずり)を詠う
摧毛任便點、 毛を摧(くじ)きて便(おり)に任せて點じ、
愛色轉須磨。 色を愛して轉た須らく磨(と)ぐべし。
所以研難竟、 研(すず)りて竟(おわり)り難き所以は、
良由水太多。 良く水の太(はなは)だ多きに由る
嘴長非為嗍、 嘴の長きは嗍(す)はむを為すに非ずて、
項曲不由攀。 項の曲れるは攀じるに由らず。
但令脚直上、 但だ脚を直ちに上げしめば、
他自眼雙翻。 他も自(われ)も雙つの眼は翻らむ。

 例えば、摧と云う漢字には砕くだけでなく至るの意味があり、磨には摩(さする)の意味があります。また、研は磨に通じます。つまり、この詩文を「女性の柔毛の部分から陰核を愛撫すると、愛液が止め処なく溢れ出てくるから愛撫を止める事が出来ない」と解釈することが出来ます。そのように解釈しますと、十娘が詠う後半部分は確かに硯に使う水差しのようですが、内実は違います。十娘が詠う水差しは「鴨頭鐺子」と云う代物で、中国古典では鴨頭はその頭の丸くずんぐりした形状から勃起した陰茎を示す隠語です。本来の硯水差しの「鶴首鐺子」ではありません。それはおよそ愛撫により愛液溢れた所を鴨頭と云う太く長くそして反り返った陰茎でもって悪戯をすると云うことを示唆し、それも正常位から女性の脚を大きく広げ持ち上げて挿入を行うとします。遊仙窟の作者はうら若い未亡人である十娘にそのような体位で愛されたら気が行ってしまうでしょうし、貴方はしっかりそのような秘所を眺めたいでしょうねと詠わせます。参考として、ここで示す正常位から女性の脚を持ち上げて行う性交体位(屈曲位)は現代の中国でももっともポピュラーなもののようです。およそ、男女和合において盛唐時代から現代まで人の好みはそれほどは変化しないようです。

 本文では詠筆硯の詩文に続けてさらなる艶の詩文を示します。ここでの詩文の酒杓子は現代では三々九度のお酒や御屠蘇を注ぐときに見られる杓子です。その柄を除いた部分の形状をまず想像して下さい。それは伸びた陰茎と丸く膨らんだ睾丸を示唆します。また、爵(さかずき)は杓子との組み合わせで、酒杓子が男根の比喩ならば爵はそれを受け入れる女陰です。

詠酒杓子 酒杓子(しゃくし)を詠う
尾動惟須急、 尾の動くとき惟だ須らく急なるべし、
頭低則不平。 頭の低くするは則ち平らかならず。
渠今合把爵、 渠(きみ)、今、爵(さかずき)を合ひ把るべくは、
深淺任君情。 深淺は君が情(なさけ)に任す。
發初先向口、 初めて發して先ず口に向ひ、
欲竟漸昇頭。 竟(おは)らむと欲して漸(ようや)く頭に昇る。
従君中道歇、 君に従ひて中に道(おさめ)むを歇(や)み、
到底即須休。 底に到りて即ち須(やくや)く休(や)むべし。

 詩文 詠酒杓子は、性交での陰茎の動きを「深淺」と云う詞が代表するように直接的に示します。古代の有名な性交手引書とも称される医心方 房内ではその行為での男の動きについて「疏緩動搖、八浅二深」を推薦しますが、ここでの十娘の求めは「任君情」とします。なお、「深淺」の意味合いから詩文中の「向口」の口は膣口部で、「昇頭」の頭は子宮口と解釈します。およそ、詩文からしますと行為は最後に子宮口を突くほどに女陰の奥深く挿入し、射精して果てるとします。
 さらに本文では飲食と歌舞を伴う宴の後、下官・十娘・五嫂たちは園庭を散策し十娘の寝所へと向かう場面を描きます。その寝所への途中、庭に雉が現れ、それを下官が弓で仕留めます。建前において詩文 詠弓は雉を一矢で仕留めた下官の腕前を詠います。建前で詩文の弓は弩であり、和弓ではありません。弓弦の引き方や射撃の方法は西洋弓に似たものがあります。建前での鑑賞では句「若令臍下入」は腹に弩を押し当て矢を番える様を示します。他方、内実において「弩」が大きなる陰茎としますと「低頭」は「抬頭」に対する詞において射精後の萎えた姿です。つまり、「低頭」は下官が弓で獲物を射るまで獲物に気づかれないようにと十娘が頭を下げ身を潜めると云う直接の意味合いではありません。このように詩文は建前では弓の形状・種類から、内実では示した比喩において鑑賞する必要があります。

詠弓 弓を詠う
平生好須弩、 平生に好みて弩を須(よく)し、
得挽即低頭。 挽くことを得て即ち頭を低くす。
聞君把提快、 君が把提の快きを聞き、
更乞五三籌。 更に五三の籌(はかりごと)を乞はむ
縮幹全不到、 縮まれる幹は全く到らずも、
抬頭剰大過。 頭を抬(もた)げて剰(さら)に大いに過ぐ。
若令臍下入、 若し臍下をして入らしめば、
百放故籌多。 百たび放たば故に籌(はかりこと)は多からむ。

 この十娘が詠う詩句「聞君把提快、更乞五三籌」の内実は「貴方が私との行為が気持ち良かったのなら、もっともっとその行為を為して下さい」との直接的なおねだりです。対して下官が詠う「幹」は陰茎であり、萎えれば行為は出来ないが再び回復して陰茎の頭が抬げれば何度でも出来るとします。一応、十娘が求める回数は五三の十五回ですが、応える下官は百回とします。まず、女の期待以上に和合を為すとの無謀な宣言です。
 本文は斯様に十娘の寝所に入るまで、宴の最初から終わりまでの間、十娘と下官との間で交わされた際どい艶詩を載せます。当然、この艶詩で示唆する男女の行為がこれから十娘の寝所で行われるであろう十娘と下官との行為の内容を暗示します。

 遊仙窟は同音字や比喩を利用し男女和合の作法を具体的に示唆します。ここまでの様子からしますと二人の閨での様子についてどのように詳しく紹介するのかと期待が膨らむでしょう。ところがところが、本文では次のように二人の行為を紹介するのみで、詳しい様子は示しません。実にあっさりしたものです。逆に見ますと、閨に入るまでに詠われた詩文によって二人が為すであろう行為の具体的な様子は既に示唆されていることになります。ただし、それは現代ポルノ小説からしますと非常にオーソドックスな男女の営みの所作です。
 他方、遊仙窟と云う小説は唐代初期に営業していた遊郭への登楼手引書ではないかとの評論があります。そのような視線から遊仙窟を読み返し、客が初めて遊郭に登楼を為し、初手の妓女と会った場面を想定しますと、本文中で示す宴での所作や寝所での性行為での作法はなるほどと思えるようなものです。そうしますとこの遊仙窟は客であっても性行為において妓女が十分に貴方との性交を楽しむように振る舞いなさいと示唆していることになります。男自身の好みであっても初手の妓女とはいきなり変則的な体位で行うなと云うことです。およそ、唐代初頭と云う時代においても、その時代人が考える風流人とは遊仙窟の本文に示す詩文や歌舞音曲で遊びが出来るだけでなく、遊郭の妓女であっても相手の女性を十分に楽しませることが出来るような人物と云うことでしょうか。ここで脱線しますが、遊仙窟が登楼手引書としますと詩文「破銅熨斗」での句「誰肯重相磨」や句「生平不熨空」からすると、一般的な遊郭での妓女との性交渉は料金体系的に一回だけの回数制限制度だった可能性があります。特別な上客と個人の部屋を持つ妓女だけが朝まで床を共に出来たのでしょう。これは日本ですと江戸期吉原で代表されるものと似たところがあります。ちなみに遊仙窟の十娘を吉原遊郭での太夫とみなしますと、十娘には桂心と芍藥という名を持つ女中が付き添っていますから、この二人はある種の禿(かむろ)に相当します。このように遊仙窟は色々なことを示唆してくれます。
 参考に、万葉集からしますと、奈良時代、この遊仙窟は男女を問わず貴族たちのバイブルでしたし、教養です。可能性として当時の貴族たちはこの本文に載るものは実行・研究していたのではないでしょうか。また、性行為の実践手引書となる医心方房内もまた奈良時代の貴族たちの必須教養です。そのような男女の閨での様子を直接に詠う歌が万葉集にありますので、二首ほどを紹介します。閨の中で女は積極的に色々なやり方で和合を為すことを男にねだっています。

集歌2949 得田價異 心欝悒 事計 吉為吾兄子 相有時谷
訓読 うたて異(け)に心いぶせし事(こと)計(はか)りよくせ吾が背子逢へる時だに
私訳 どうしたのでしょう、今日は、なぜか一向に気持ちが高ぶりません。何か、いつもとは違うやり方を工夫してください。ねえ、貴方。こうして二人が抱き合っているのだから。

集歌3465 巨麻尓思吉 比毛登伎佐氣弖 奴流我倍尓 安杼世呂登可母 安夜尓可奈之伎
訓読 高麗錦(こまにしき)紐解き放(さ)けて寝(ぬ)るが上(へ)に何(あ)ど為(せ)ろとかもあやに愛(かな)しき
私訳 高麗錦の紐を解き放って、お前と寝る。それ以上に、お前は何をしろと云うのか。とても、かわいいお前よ。

 最後に遊仙窟での十娘と下官との一夜の様子を以下に紹介します。訓読と語字の解説から二人の行為の様子をここまでの詩文解説と併せて想像して下さい。なお、文中、女中の名の桂心と芍藥は漢方の薬草で、ある種、精強剤となるものです。つまり、艶本特有の洒落からの名前です。

<本文>
于時、夜久更深、情急意密。魚燈四面照、蠟燭両邊明。十娘即喚桂心、並呼芍藥、與少府脱靴履、疊袍衣、閣幞頭、掛腰帶。然後自與十娘施綾被、解羅裙、脱紅衫、去緑袜。花容満目、香風裂鼻。心去無人制、情来不自禁。插手紅褌、交脚翠被。両唇對口、一臂支頭。拍搦奶房間、摩挲髀子上。一齧一快意、一勒一傷心、鼻裏痠痜、心裏結繚。少時眼華耳熱、脈脹筋舒。始知難逢難見、可貴可重。俄頃中間數廻相接。誰知可憎病鵲、夜半驚人、薄媚狂雞、三更唱曉。遂則被衣對坐、泣涙相看。

<訓読>
その時、夜は久しく更(よる)は深け、情は急(せま)り意は密なり。魚燈は四面を照らし、蠟燭は両邊を明るくす。十娘の即ち桂心を喚び、並た芍藥を呼びて、少府と與に靴履を脫ぎ、袍衣を疊み、幞頭を閣き、腰帶を掛けしむ。然る後、自ら十娘と綾の被を施(ゆる)め、羅の裙を解き、紅き衫を脫ぎ、緑の袜を去る。花容は目に満ち、香風は鼻を裂く。心は去りて人の制する無く、情は来たりて自ら禁ぜず。手を紅き褌に插み、脚を交わして翠(ひたれ)を被ふ。両唇は口に對へ、一臂は頭を支ふ。奶房の拍搦せし間、髀子の上を摩挲す。一齧一快の意、一勒一傷の心、鼻の裏は痠痜(いきはだ)しく、心の裏は結繚れり。少時にて眼は華き耳は熱し、脈は脹(ふく)れ筋は舒(の)ぶ。始めて知るぬ逢ひ難く見難くして、貴むべく重んずべきを。俄頃(しばし)の中間(あひだ)に數(まね)く廻(もど)りて相ひ接す。誰か知らむ憎むべきの病鵲、夜半に人を驚かし、薄媚の狂雞、三更に曉を唱ふ。遂に則ち衣を被り對坐して、泣涙して相ひ看む。

<補足として語字の解説>
 施綾被;「施」はゆるめると訓じるが、相手に委ねると云う意味もあり、男の手で被を取り去るというさまを示す。
 交脚翠被;「翠」とは鳥の尾の脂肉を指し、ここでは女の柔らかな下腹部を示すため、女陰部を男の脚を交差させて覆うさまを示す。
 両唇對口;互いの唇を合わせること。口付け。
 一臂支頭;片手を相手の頭に添える。ここでは男の頭に手を添えるさまを示す。
 拍搦奶房間;両手で女の乳房をからめ取るさまから、両手で行う乳房への愛撫を示すが、文章からは拍搦奶房と摩挲髀子とを同時に行っているとも解釈できるので、ここでは片手での愛撫とする。
 摩挲髀子上;「挲」は手を水につけてすすぐように動かす、「髀子」は脚の付け根を示すことから、女陰又は陰核への手または指による愛撫のさまを示す。
 一齧一快意;対句表現での「拍搦奶房間」から判断して、女の乳首を甘噛みし、それに対して女が好ましい気持ちを起こしたさまを示す。
 一勒一傷心;対句表現での「摩挲髀子上」から判断して、交接での陰茎の挿入と、それにより女陰が押し開くさまを示し、そのときの感情のさまを表す。なお、口にくわえさせるを意味する「勒」に対して「傷」に開くと云う意味合いを持たすが、同時に交接を行った行為での痕と云う意味合いも示す。
 鼻裏痠痜;鼻が興奮により膨れ疼くさまを示す。
 心裏結繚;心の内が千路に乱れて絡み合うさまを示す。
 眼華耳熱;目は見開き、耳は熱を帯びると興奮したさまを示す。
 脈脹筋舒;陰茎が興奮により血管を浮き出させ脈動し、太長く膨張したさまを示す。
 數廻相接;「數」は数多いさま、「廻」は元に戻るさまを示すことから、射精後の陰茎の回復に任せて数多く交接を重ねたさまを示す。

 最後に主人公の名称「下官」は朝廷に使える武官としての一般名称と考えられますが、対して十娘と五嫂の名称は『玉房秘訣』などに載る「五徴十動」からの大人の洒落かもしれません。
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万葉雑記 色眼鏡 二四五 今週のみそひと歌を振り返る その六五

2017年12月16日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 二四五 今週のみそひと歌を振り返る その六五

 今回は巻九の中から次の歌三首で遊びます。

献舎人皇子謌二首
標訓 舎人皇子に献(たてまつ)れる歌二首
集歌1704 球手折 多武山霧 茂鴨 細川瀬 波驟祁留
訓読 ふさ手折(たを)り多武(たむ)し山霧しげみかも細川(ほそかは)し瀬し波し騒ける
私訳 さあ、乙女と云う花の房を手折ろう。多武山を山霧が覆っているのだろうか、細川の瀬の川波の音が騒がしいことよ。(これから花を手折りに行く想いに、心も騒がしいことよ)
注意 細川は現在の冬野川で、多武峰に源流を持ち、飛鳥川に合流します。

集歌1705 冬木成 春部戀而 殖木 寶成時 片待吾等叙
訓読 冬ごもり春べを恋ひて殖ゑし木し実しなる時し片待つ吾ぞ
私訳 冬に木が芽を付けるように、春の訪れを恋しく想って植えた木のその花が咲き、実が育つ時を心待ちにする私達です。

舎人皇子御謌一首
標訓 舎人皇子の御歌一首
集歌1706 黒玉 夜霧立 衣手 高屋於 霏微麻天尓
訓読 ぬばたまし夜霧し立ちぬ衣手し高屋(たかや)し上(うへ)に棚引くまでに
私訳 漆黒の闇に夜霧が立ち渡る。布を裁ち縫う衣手の、その袖で高く指す高屋の上まで棚引くほどに。
注意 高屋は奈良県桜井市高家付近の地区名と推定されていますが、弊ブログでは歌が示す視線から取りません。

 最初に『万葉集』は言葉として有名ですし、伝存する日本最古の詩歌集と云うものから、その集載される歌に示す地名は、それぞれの地域での歴史の古さを誇るものとして地域興しなどに取り上げられる場合があります。
 集歌1706の歌に載る「高屋」から桜井市高家地区に舎人皇子の屋敷など存在性を求める場合があります。ただ、歌を歌として鑑賞しますと、皇子は目の前に存在する多武山に掛かる霧が高屋地区と云う多武山中腹まで降りて来ている状況を詠っていますから、歌を詠ったとき、舎人皇子は多武山を遠景できる場所にいます。つまり、多武山の裾野からしてもある程度の距離があります。面白くなんともありませんが、舎人皇子は八釣から山田付近の飛鳥浄御原宮近辺、それも東方から多武山を眺めていたと推定されます。およそ、想定される天皇一族の居住区域と云うことになります。
 また、柿本人麻呂が詠う歌二首からしますと歌はある種の妻問いの歌です。集歌1705の歌で「冬木成 春部戀而」と詠いますから、季節は初春から中春です。およそ、現在の2月下旬から3月中旬ごろとしますと、藤の房花の季節ではありません。従いまして集歌1704の歌で詠う「球手折」は女性を手折るという比喩と考えられます。ただし、「献舎人皇子謌」の標題を持ちますから、妻問う人物は舎人皇子であって人麻呂は従者の立場です。そして現在の冬野川と比定される飛鳥川支流の細川の流れを詠いますから、妻問う先の女の家は阿倍にあったことになります。ただし、相手は阿倍本家筋の女ではなかったようです。舎人皇子の母親は新田部皇女で母方祖母は阿倍内麻呂の御子橘娘です。そして、天武天皇から持統天皇時代、右大臣まで昇る阿倍御主人が一族を率いていますから、阿倍本家筋の娘が母親です。そのような血縁と格式からしますと、阿倍本家筋の娘は天皇や皇親の夫人や妃となる身分に相当しますから、生まれるであろう御子の血筋を明確にするために舎人皇子の屋敷内に住むべき女性となります。建前として正式の婚姻を行い皇子の屋敷内に住むべき娘であり、自由恋愛となる妻問い婚を為す相手とはなりません。

 さて、舎人皇子は天武天皇の第六皇子として天武五年(676)に生まれていますから、持統五年(691)頃には袴着の儀式を終え、十五歳で成人となったと思われます。大和の故習からしますと成人式を終えていれば妻問ひを行う事が出来ることになります。紹介します和歌三首の表記形式(非詩体歌)からすると天武天皇から持統天皇の早い時期でのものと思われますから推定で皇子が十六から十七歳頃に、従者を引き連れて妻問いを行ったのではないかと考えています。相手は阿倍の里の女です。ただし、阿倍本家筋の朝臣の姓を持つ家の子ではありません。場合によっては、阿倍氏配下の部民の家の子であったかもしれません。舎人皇子の正妻は当麻山背で、妃もまた当麻氏出身です。ところが、家族関係において長男は不明の母から生まれた守部王で、次男は正妻山背の御子三原王です。この守部王と三原王の叙位を比べてみますと、正妻の最初の御子である次男の三原王が養老元年(717)に無位から従四位下になり、妾の御子である長男の守部王は天平12年(740)に無位から従四位下に叙位されています。叙任に二十三年以上の格差を付けられた守部王はその存在を無視されたかのような扱いです。参考に別の不明な母から生まれた四男池田王は天平7年(735)に無位から従四位下に守部王に先立ち叙位されています。
 整理しますと、長男守部王(不明の母);天平12年(740)に従四位下、次男三原王(正妻山背);養老元年(717)従四位下、三男船王(当麻の女);神亀4年(727)従四位下、四男池田王(不明の母);天平7年(735)に従四位下に叙位となっています。つまり、長男守部王だけが極端に不遇だった可能性があります。この不遇の背景として、守部王は妻問いの結果に生まれた御子だったのではないかと云う推論が成り立ちます。妻問いはある種の自由恋愛ですから、父親の血筋は確定できません。母親の血筋のみが確定することになります。その場合、守部王に蔭位制度から叙位するのは難しいのかもしれません。そこで同じような立場であった聖武天皇からの特別な親授だったのかもしれません。
 なお、ご存じのように昭和時代頃までは、ぎりぎり、男子の古式による成人式の儀礼は残っていたようで、十五歳前後で成人式を迎えた男の子は儀式の夜、母方親族の女性により童貞を卒業し、女の扱い方の訓練を受けます。貴族ではこのような女性を添伏と称したようです。推定で、歴史では草壁皇子には蘇我媼子が、軽王(文武天皇)には藤原宮子が添伏の大役を務めたと考えられています。当然、性行為を訓練しますから可能性として御子が生まれる可能性はあります。そのような御子は女方一族で育てたようですので、先に見ましたように守部王の叙位経歴などからしますと、そのような可能性を考えます。
 歌に戻りますと、舎人皇子が肌なじんだ女の許にたびたび妻問いしますと、成人した男として女に子を産ます可能性があります。それが集歌1705の歌で詠う「寶成時 片待吾等叙」ではないでしょうか。舎人皇子は男が男を主張していた時代の男の代表を務める大夫です。成人した男として女を抱き、その結果、子を為すのも成人した男の立派な勤めでしょう。また、大正年間頃まで引き継がれた大和の伝統として、貴種が下々の女に種を授けるのも立派な男子たる行為とされていた時代です。その感覚での「寶成時 片待吾等叙」と考えます。

 参考として次のような歌二首が柿本人麻呂歌集の載ります。歌はこれもまた「我妹兒何 家門」と詠うように妻問いの歌ですが、舎人皇子への献上歌ですから人麻呂の妻問いではなく、舎人皇子の妻問いでしょう。集歌1775の歌の末句「近春二家里」の選字からしますと、歌が詠われたのは初春から中春でしょうか。すると、集歌1705の歌の上句「冬木成 春部戀而」での表現と季節感が合って来ますし、同じ妻問いの風景です。また、集歌1774の歌が詠うように、妻問いのスタートは皇子と娘とが野良などで出会い両者が好き合っての妻問いではなく、娘の親筋が依頼を受けて準備したような妻問いです。ある種、皇子の将来にするであろう正妻や妃への妻問いと云う行為への訓練のようなものだったのではないでしょうか。

獻舎人皇子謌二首
標訓 舎人皇子に献(たてまつ)れる歌二首
集歌1774 垂乳根乃 母之命乃 言尓有者 年緒長 憑過武也
訓読 たらちねの母し命(みこと)の言にあれば年し緒長く憑(たの)め過ぎむや
私訳 乳を与えてくれた実母の大切なお言葉だからからと云って、ただ、長い年月を貴方を頼りに時を過ごすしたでしょうか。(いいえ、私から貴方を慕っているのです)

集歌1775 泊瀬河 夕渡来而 我妹兒何 家門 近春二家里
訓読 泊瀬川夕渡り来て吾妹子(わぎもこ)が家し門し近づきにけり
私訳 泊瀬川を夕刻に渡って来て、恋しい恋人の家の門が近付いてきた。


 非常にうがった鑑賞ですし、酔論です。ただ、このような可能性もあることを御笑納して頂ければと希望します。
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万葉雑記 色眼鏡 二四四 今週のみそひと歌を振り返る その六四

2017年12月09日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 二四四 今週のみそひと歌を振り返る その六四

 今回は巻九の中から次の歌で遊びます。歌は雑歌の部立の内、柿本人麻呂歌集に由来を持つ標題「紀伊國作謌二首」からのものです。

紀伊國作謌二首
標訓 紀伊国にして作れる歌二首
集歌1692 吾戀 妹相佐受 玉浦丹 衣片敷 一鴨将寐
訓読 吾(わ)が恋ふる妹し逢はさず玉し浦に衣(ころも)片(かた)敷(し)き独りかも寝(ね)む
私訳 私が恋しい貴女は逢ってくださらず、美しい玉の浦で私の衣だけの片身で、鴨は二匹で仲良く寝ますが、今夜は私は独りで寝るのでしょう。

集歌1693 玉匣 開巻惜 吝夜牟 袖可礼而 一鴨将寐
訓読 玉櫛笥(たまくしげ)開けまき惜(を)しみ吝(お)しむ夜を袖(そで)離(か)れに独りかも寝(ね)む
私訳 常ならば美しい櫛を納める箱を開けてそれを見せるように貴女が衣を解いて肌を見せ妻問いの浮名が流れるのを嫌う、浮名が流れるのを嫌うので貴女と共寝が出来ないことを吝しむ、この夜を共寝の袖を交わすことをしないで、独りで今夜は寝るのでしょう。

 歌二首は人麻呂歌集からのもので標題に紀伊國作謌とありますから、作歌されたのは持統天皇四年九月の紀伊国への行幸の時と思われます。なお、弊ブログでは柿本人麻呂の人生を推定しており、この歌が詠われたのは人麻呂が四十四歳ごろで、歌の「妹」とは人麻呂の隠れ妻と称される女性で、この頃は宮中女官で紀伊国行幸に随行していたとしています。このような年齢と場面での歌と云うことになります。
 参考として、集歌1692の歌と集歌1693の歌では恋人の隠れ妻に貴女と共寝がしたいと詠っています。結果として、後年、人麻呂が再度の紀伊国への行幸に随行した時に歌った回顧の歌である集歌1798の歌を参照しますと、その夜、紀伊国黒牛潟の海岸で逢引をしたと思われます。およそ、屋外、海岸の砂浜での共寝です。

集歌1798 古家丹 妹等吾見 黒玉之 久漏牛方乎 見佐府下玉
訓読 古(いにしへ)に妹(いも)と吾(わ)が見しぬばたまし黒牛潟(くろうしがた)を見れば寂(さぶ)しも
私訳 昔に貴女と私が人目を忍んで寄り添って見た漆黒の黒牛潟を、独りでこうして見ていると寂しいことです。

 歌を詠ったのが柿本人麻呂であり、歌を贈られたのが人麻呂の隠れ妻です。二人は飛鳥浄御原宮や藤原宮の宮中サロンでの和歌歌人を代表する人ですから、「玉匣 開巻惜」の上句から次のような近江朝時代に詠われた歌二首組歌を思い起こしたのではないでしょうか。ここに先行する古歌を踏まえての作歌の可能性、つまり、集歌1693の歌に本歌取技法が使われている可能性です。
 なお、紹介する集歌93の歌と集歌94の歌は相聞歌に部立される歌ですが、標題で使われる用字「娉」などからしますと、宮中サロンなどで歌われた歌垣歌のような男女での歌の掛け合い歌です。背景に男女関係は直接にはありませんから、恋人同士での人知れずに秘めた恋文ではありません。当時、一般に知られた表舞台での掛け合い歌です。それも鑑賞の前提として下さい。今はもう明治や昭和時代ではありません。本来なら人知れず秘めた恋歌とすべきところを大々的に広く人に知られるようにと回覧し流布させたと云う昭和期の発想は、幼い為にする発想です。隠匿すべき恋文がどのように人々に知られるようになったのかと云う推理と仮説がありませんと、標準的には宴での仮構の作品とするか、伝承に従って作られた物語歌とするのが相当です。つまり、集歌93の歌と集歌94の歌には史実性はないことになります。

内大臣藤原卿娉鏡王女時、鏡王女贈内大臣謌一首
標訓 内大臣藤原卿の鏡王女を娉(よば)ひし時に、鏡王女の内大臣に贈れる歌一首
集歌93 玉匣 覆乎安美 開而行者 君名者雖有 吾名之惜裳
訓読 玉(たま)匣(くしげ)覆ふを安(やす)み開けに行(い)ば君し名はあれど吾(わ)が名し惜しも
私訳 美しい玉のような櫛を寝るときに納める函を覆うように私の心を硬くしていましたが、覆いを取るように貴方に気を許してこの身を開き、その朝が明け開いてから貴方が帰って行くと、貴方の評判は良いかもしれませんが、私は貴方との二人の仲の評判が立つのが嫌です。

内大臣藤原卿報贈鏡王女謌一首
標訓 内大臣藤原卿の鏡王女に報(こた)へ贈れる歌一首
集歌94 玉匣 将見圓山乃 狭名葛 佐不寐者遂尓 有勝麻之目
訓読 玉(たま)匣(くしげ)見(み)む円山(まどやま)の狭名(さな)葛(かづら)さ寝(ね)ずはつひに有りかつましめ
私訳 美しい玉のような櫛を寝るときに納める函を開けて見るように貴女の体を開いて抱く、その丸い形の山の狭名葛の名のような丸いお尻の間の翳り。そんな貴女と共寝をしないでいることはあり得ないでしょう。

 さて、集歌1693の歌に集歌93の歌からの本歌取技法があると認めますと、「開巻惜 吝夜牟」の句における「惜」と「吝」の二文字の解釈が大きく変わる可能性があります。その場合、次のような一般的な解釈は大きく変化する可能性が出て来ます。

<標準の解釈>
原歌 玉匣 開巻惜 ね夜矣 袖可礼而 一鴨将寐
訓読 玉櫛笥(たまくしげ)明けまく惜しきあたら夜を衣手離れて独りかも寝む
解釈 (相手がいたら)玉櫛笥の蓋を開けるように明けるのが惜しい夜。が、共寝する子もいない私にはそんな夜もひとり寝するしかない
注意 「ね夜矣」の「ね」は外字符号で、扁 左 [ 忙 ] 旁 (a[ メ ]b[ ナ ]c[ ム ])を代表します。(The Rector and Visitors of the University of Virginia)

 歌に本歌取技法を認めますと、「玉匣 開巻惜」の「惜」には、女性が身を許して浮名が流れることを嫌い、名を惜しむという意味合いがあることになります。 すると、状況としては先に置かれた集歌1692の歌で人麻呂は行幸の旅先で恋仲の女を旅先での逢引に誘ったと思われます。それに対して女は人目を気にして色好い返事をしなかったのでしょう。人麻呂も女も行幸の一行の中では中堅どころの身分ですし、女は持統天皇などの高貴な身分の女性貴族の随員です。夜、小者を連れて宿舎を抜け出しますと、人目に付きますし噂にも上ります。ここに噂が立つのを嫌う=名を惜しむという状況となります。憶測となりますが、人麻呂の許には集歌1692の歌の返歌としてそのような回答があったのではないでしょうか。
 それに対しての再度の誘いが集歌94の歌と集歌95の歌を引用した集歌1693の歌です。およそ、人麻呂の願いは「佐不寐者遂尓 有勝麻之目」です。本来、明るい日の光の中で眺めることが出来ない宮中奥深くの女官である女を、行幸の道行きや行事の中で常の夜の暗闇の中で見る姿とは違い、着飾った姿を日の光の中で眺めています。それが日中の出来事です。また、肌を知る恋仲ですが行幸に随行して以来、人麻呂は女と共寝をする機会を持っていません。この時、人麻呂は四十四歳ぐらいの中年の男ですが、日中の女の姿を見て、この女を抱きたいと強く思ったのでしょう。そのような切羽詰った歌二首と考えます。
 弊ブログでの解釈では、このような背景を持って鑑賞しています。


 追加して、実に詰まらない事ですが、万葉集の原文、訓読、解釈をブログやHPに記事として紹介する時、バージニア州立大学がネット上に公開しています「万葉集」をコピペするのが一番、安直です。参考情報として、このバージニア州立大学のデータベースは山口大学の吉村誠教授グループが整備されたデータベースを基としていますが、この電子データベースは校本万葉集と完全に交合されたものではありませんし、漢字入力時のフォントの関係で外字などを省略記号で導入しています。また、基となった吉村誠教授グループでのデータ入力は研究生や学部生の協力の下、なされたためか、データ入力において個々人の個性が出ており、巻毎に印刷物の校本万葉集のものと照合しますと入力精度において誤記・誤字のばらつきがあります。そのため、本来ですとブログやHPに記事として引用・紹介する場合、著作権保護や正確性を担保するのですと校本万葉集や注釈本との照合・交合を行い新たな加工・創意が必要です。
 バージニア州立大学のデータベースはネットで容易に引用できる原歌表記を持つデータベースですが、改めて各人がネット上に紹介するには照合作業を行うか、都度、引用先や精度を明記する必要があります。しかしながら、ネット上のものを見ますとそのような最低限の作業を行っていないものもあります。今回、<標準の解釈>で紹介しました集歌1693の歌の原歌における三句目で「ね夜矣」との表記を紹介するものは、バージニア州立大学のデータベースなどからのまったくのパクリですが、校本万葉集本で示す原歌表記との照合を行っていないものです。「ね」は山口大学の吉村誠教授グループが整備した電子データベースが指定するCP入力時のフォント制約に由来する「外字」を示す符号です。そのために原歌表記「ね夜矣」に対する訓じが「あたら夜を」と云う不思議なものとなっています。HPによっては照合の結果とフォントの関係から「○夜矣」と表記し、「あたら夜を」の訓じを与えます。訓じが妙なことになっているのは、このようなネットデータを引用する作業でのパクリと云う事情があるためです。

 追記参考として、バージニア州立大学の電子データベースは、個人が自己用に万葉集原歌データベースを作成する時の基礎としての入力には都合が良いものです。コピペが非常に簡単に行えます。その点が、日本国内で紹介される吉村誠教授グループのものよりは勝手がよいものになっています。ただ、使われているフォントは台湾繁体字がベースですので、可能ならルビ振りの作業のためにも日本語フォントに変換するのが好ましいと思いますし、誤記・誤字の訂正のためにも最低限入手が安価で容易な「万葉集(中西進)」などで原歌表記を照合することを推薦します。非常に煩雑であり面倒なことですが、基礎データの入力時の精度やフォント制約からの外字問題などがありますから或程度の追加作業が必要となります。
 弊ブログは酔論や与太話ばかりですが、原歌表記については、最低限、複数の校本版との照合を行い、西本願寺本万葉集に載る表記に戻したものを使用していますし、それに対して改めて訓じを与えています。。まったくのパクリではないことだけが、唯一の取り柄です。
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