竹取翁と万葉集のお勉強

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万葉雑記 色眼鏡 百八十 万葉集と漢字、そして仏教

2016年07月23日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 百八十 万葉集と漢字、そして仏教

 今回は『二重言語国家・日本』(石川九楊 青灯社)から、漢字と万葉集について、与太話と酔論を展開します。取り上げました『二重言語国家・日本』の論旨の基盤は、次のようなものになっています。

 無文字時代の古代大和には単純な語彙の言葉しかなかった。また、秦・漢の時代になるまで、中国でも文字は神聖文字であり、王の支配する文字であって、人々のものではなかった。そのため、中国大陸も周辺地域でも文化レベルとしては、決定的な高低差は生まれていなかった。ところが、秦の始皇帝の時代に漢字文字が標準化され、人々が生活に使う文字となった結果、漢字は本質的に表意文字・表語文字であることから、その文字の組み合わせなどを通じて語彙は飛躍的に増加した。そのため、中国大陸と周辺地域とで文化レベルで決定的な高低差が生じ、水が高きから低きへ流れるように漢字文字と云うものが高圧の力でもって周辺地域へと流れ込むことになった。その漢字文字の流入により古代大和の語彙も豊かになったのである。しかしながら、漢字文字は流入したものであり、話し言葉は現住のものであるから、日本語が中国語にならない限り、言語は表層の漢字文字による表記と基層の大和言葉による話し言葉との合成にならざるを得ないとします。例えば日本語では「春風」と云う表記は「しゅんぷう」であり、同時に「はるかぜ」でもあります。自然現象を表す漢字文字ですが、言葉としたとき、日本人では「しゅんぷう」と「はるかぜ」とでは心理的受け取り方が変わります。これが表層の漢字文字と基層の話し言葉の相違であり、日常生活ではその合成されたもので日本語は表現されているのです。
 無文字時代の古代大和には単純な語彙の言葉しかなく、漢字文字の流入により語彙が豊かになったと考察しますと、日本語や日本文学を考えるとき、いつ、漢字文字が流入し、広まったのかと云うことが重要になります。例として、『万葉集』は四千五百首余の詩歌を集めた歌集ですが、その豊かな日本語語彙や表現が太古から存在したのではなく、漢字文字の流入の結果によるものと云うことになります。単純に大和言葉に対して「からこころ」と「やまとこころ」と云う風に区分は出来ないとします。

 さて、漢字の歴史は仏教の写経に大いに関係すると石川九楊氏は唱えます。一方、『万葉集』の歌は漢語と万葉仮名と称される真仮名と云う漢字だけで表記された歌です。万葉集歌の時代、平仮名や片仮名は、まだ、ありません。すると、『万葉集』は漢字と云う文字を通じて仏教の写経の歴史に直接に関係することになるのでしょうか。
 ウキペディアに拠りますと、日本の写経の歴史は『日本書紀』の記事から天武二年(673)に天武天皇が命じて川原寺で書生を集めて行った一切経の写経を最初の事例とします。さらに、「聖武天皇の時代の天平年間に仏教は空前の隆盛を来たし、写経が一段と盛んとなった。そして、官立の写経所が設けられ、専門の写経生たちによって国家事業としての写経が行われた」と解説します。この説明からしますと、大和言葉の語彙の多くは漢字文字の流入の成果であると云う主張の下では、飛鳥浄御原宮から前期平城京時代ごろになって大和言葉の語彙が豊かになったと早合点する可能性も出て来ます。また、この状況を『古事記』の序文では「上古之時、言意並朴(上古の時、言葉と意味は自然で飾らない)」と云うのかもしれません。古代では語彙が乏しく、麗文ではないと云うことなのでしょう。
 なお、元明天皇・元正天皇の時代のものである「長屋皇子発願大般若経(和銅経)」と「長屋皇子発願大般若経(神亀経)」とが伝存するように、大規模な写経は聖武天皇の天平年間を待つ必要はないのかもしれません。ただし、書道の歴史からしますと、官立の写経所の設置以降に写経のための書体「写経体」と云う書道スタイルが現れて来ることから、公務の職業分野として天平年間に写経が行われたと考えるようです。つまり、天平年間のものは写経の歴史の中で修行や鎮魂を主目的とするようなものではなく、全国の国分寺・国分尼寺などへの大量配布を目的としたような印刷物に類似したものを作成するという特別な時代と云うことなのでしょう。
 一方、仏教と云う宗教は神道とは違い成文の仏典が基本教本として存在しないといけません。つまり、仏教式典では(写経された)仏教教本たる仏典がその場に存在していることが約束事となります。この視点から『日本書紀』に仏教式典を探りますと、皇極天皇元年(642)七月に雨乞いの儀式として「屈請衆僧、読大雲経等」と云う記事を見ることが出来ます。これは舒明天皇十二年(640)五月に祭壇を設けて恵隠僧侶に無量寿経を読ませたような半島や大陸から将来した著名な僧侶によるものではなく、読経したのは「衆僧」ですから、彼らが読む経典は日本で彼らが写経した経典でしょう。さらに、孝徳天皇の白雉二年(651)の十二月晦には「於味経宮請二千一百余僧尼、使読一切経」と云う記事が現れて来ます。この晦日の法会は翌白雉三年にも記事が載りますから、仏教僧侶が確実に社会の中に生活し、経常的に宗教活動をしていました。つまり、十年ほどで、飛鳥の都周辺には大蔵経一切経(全部または一部)が多数、写経され、数千人規模となる僧侶や信徒の間に流布していたと推定することが出来ます。また、聖徳太子伝説や万葉集などからしますと維摩経や般若経が広く読まれていたと推定されますから、大蔵経だけでなくそれら多くの経典が写経されていたものと考えます。
 節会で経典を読経するという行事は天武天皇時代にも行われており、天武四年(675)四月に「請僧尼二千四百余、而大設斎焉」と云う記事を見ることが出来ます。孝徳天皇から天武天皇までの間に二十五年の歳月が経っていますが、参集する僧尼の数は二千一百余から二千四百余と、大きくは増えていません。これは社会での僧尼の数が増えなかったというよりも、天皇が招集すべき寺院の僧侶は孝徳天皇の時代にほぼ固まったと考えるべき出来事でしょうか。
 僧侶と経典について『日本書紀』を探りますと、推古天皇十年(602)の記事によりますと、将来した僧侶を教授として学問所を設置し、その教授に対して書生三・四人を選抜したと伝えます。それが、推古天皇三二年(624)九月には畿内に寺が四十六か所、僧が八百十六人、尼が五百六十九人、都合一千三百八十五人の規模にまで育って来たとします。その僧尼たちは教義において仏像の前で仏教経典を正しく読経することが求められていますから、全員がそうであるとは言いませんが、寺での指導者となるような僧尼たちは自分が使う経典は写経する必要があったと考えますし、それぞれの寺には仏教経典は必需と考えます。長屋皇子発願大般若経は歴史を通じて寺にとって大変な宝物でしょうが、無名な僧侶の写経本は日常の消耗品的な扱いでしょう。そのような背景から今日に伝存してはいませんが、仏教と云う宗教からは仏教経典は推古天皇の時代から写経されて来たと考えます。その当時の写経本が伝存していないから「写経はなかった、しなかった」ではありません。仏教と云う宗教の要請から写経は「行われていた」のです。
 およそ、漢字の歴史は仏教の写経に大いに関係するという石川九楊氏の説からしますと、推古天皇から舒明天皇の時代までには漢字は知識人の間に広まったとしても良いことになります。漢字と写経の関係を唱える人は奈良時代初期から漢字が人々の間に広まったと想定しているようですが、『続日本紀』の神亀四年(727)七月に「筑紫諸国。庚午籍七百七十巻。以官印印之」との記事が載るように、現在に伝わっていませんが近江朝に庚午年籍(670)、また、藤原朝に庚寅年籍(690)が作られていますから、その作成要件からして漢字は全国的規模で人々の間にあったことが判ります。さらに、伝承として聖徳太子は三経義疏を著したとしますから、書き手と読み手と云う視点からも推古天皇の時には写経と共に経典及び漢語・漢字への読み解き技術は知識階級には広まっていたと推定されます。
 このことは、推古天皇から舒明天皇の時代までには写経や仏教活動を通じた漢字文字の普及により大和言葉の語彙は飛躍的に増加していただろうと、第二次世界大戦敗戦後の米国占領下での米国語語彙を片仮名で表記した日本語語彙の増加からも類推できるでしょう。およそ、文化が水のように高きから低きへと流れるように、そして、それにより人々を高きへ引き寄せるように、日本中から飛鳥へと人々を引き寄せたのではないでしょうか。そうしたとき、万葉集の時代となる飛鳥浄御原宮時代以降の人々が納得するような語彙群を持ち、レベルの高い古話や伝承は、推古天皇から舒明天皇の時代を遡る可能性は薄いかもしれません。仮に遡ることが可能であっても語彙量の変化から、その古話や伝承は大いに変質している可能性があると考えます。
 文化格差により人々を高きへ引き寄せるようになり、学習と云うものが重要になって来ますと、普通の人々の中で如何に学習するかと云う問題が現れたと思います。そうしたとき、人々の話し言葉の現れである和歌と漢字文字とが結び付いたのではないでしょうか。学習の手本となる和歌は飛鳥地方の言葉(当時の標準語)で詠われたでしょうから、人々は大和標準語の学習と同時に漢字文字の学習をも行ったと考えます。その代表例が一字一音の万葉仮名による難波津の歌と安積山の歌ではないでしょうか。遺物出土からしますと難波津の歌ではそれぞれに字音が相違しているものがあります。つまり、地域、使う手本や指導する教師により歌の音韻を示す字音は統一されていません。万葉集の万葉仮名と同様に多様性があります。

<例一:難波津の歌>
訓読 なにはつにさくやこのはなふゆこもりいまははるへとさくやこのはな
解釈 難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花
木簡 奈尓波都尓 佐久夜己乃波奈 布由己母利 異真波ゝ留部止 佐久矢己乃波奈
木簡 奈尓波川尓 作久矢己乃波奈 〇〇〇〇〇 〇〇〇〇〇〇〇 〇〇〇〇〇〇〇(観音寺遺跡)
木簡 奈尓皮ツ尓 佐久矢己乃皮奈 泊由己母利 伊真皮々留部止 佐久〇〇〇〇〇(藤原京)

<例二:安積山の歌>
訓読 あさかやまかげさへみゆるやまのゐのあさくはひとをおもふものかは
解釈 安積山 影さへ見ゆる 山の井の 浅き心を わが思はなくに
木簡 阿佐可夜〇 〇〇〇〇〇〇流 夜真〇〇〇 〇〇〇〇〇〇〇 〇〇〇〇〇〇〇

 難波津の歌や安積山の歌は初歩的な文字学習教材と思いますが、一方、早い時代の『万葉集』の歌はどうであったかと云うと、個人の万葉集歌への感想ですが、次のような歌がそのような早い時代のものとして位置し、歌はその時代の表記のままで二十巻本万葉集の時代まで伝わったと考えます。これらの歌の特徴として、その使われる漢字や漢字の意味の取り方が古風であることにあります。そのため、平安時代末期以降での新しい漢字の意味の取り扱いや日本唐音による音韻では訓じられないものになります。歌は古風に大陸隋・唐音の音韻で読解すべきですし、意味合いは唐時代の漢語として漢字文字を解釈すべきです。

集歌9 莫囂圓隣之 大相七兄爪謁氣 吾瀬子之 射立為兼 五可新何本
訓読 染(そ)まりなし御備(おそな)え副(そ)えき吾(あ)が背子し致(いた)ちししけむ厳橿(いつかし)が本(もと)
私訳 一点の穢れなき白栲の布を奉幣に副えました。吾らがお慕いする君が、梓弓が立てる音の中、その奉幣をいたしました。大和の橿原宮の元宮であります、この熊野速玉大社を建てられた大王(=神武天皇)よ

集歌156 三諸之 神之神須疑 已具耳矣 自得見監乍 共不寝夜叙多
試訓 三(み)つ諸(もろ)し神し神杉(かむすぎ)過(す)ぐのみを蔀(しとみ)し見つつ共し寝(ね)ぬ夜そ多(まね)き
試訳 三つの甕を据えると云う三諸の三輪山、その神への口噛みの酒を据える、神山の神杉、その言葉の響きではないが、貴女が過ぎ去ってしまったのを貴女の部屋の蔀の動きを見守りながら、その貴女と共寝をしない夜が多いことです。

集歌188 且覆 日之入去者 御立之 嶋尓下座而 嘆鶴鴨
試訓 且(い)き覆(おほ)ふ日し入り行けばみ立たしし島に下(お)り居(ゐ)に嘆きつるかも
試訳 空を行き雲に覆われ日が雲間に入り行くと、御方が御出立ちなされた嶋に座り込んで嘆くでしょう。
注意 原文の「且覆」は、一般には「旦覆」の誤記として「たな曇り」と訓むます。そのため歌意が違います。漢字解説のHP「漢典」には「與徂同、往也」と云う解説も載せます。

集歌193 八多篭良我 夜晝登不云 行路乎 吾者皆悉 宮道叙為
訓読 畑子(はたこ)らが夜昼(よるひる)といはず行く道を吾はみなごと宮道ぞする
私訳 田畑を耕す農民が夜昼の区別なく行く道を、私はそれをすべて殯の宮への道とします。

 万葉集歌でも古い時代に実作されたと思われる歌は、漢字文字の学習の初期のように大陸隋・唐の漢語や漢字に忠実であったと考えます。そのため、集歌188の歌の初句「且覆」の「且」の漢語が示すように、非常に漢語・漢字の扱いが古風な姿を示すのだと思います。『万葉集』の歌で同じような表記システム(例えば詩体歌、非詩体歌、常体歌)を示す歌であっても、古層に位置するものと近世に位置するものとでは漢語・漢字の扱いが相違する可能性があります。

 弊ブログでは漢語・漢字文字表記について与太話や酔論を展開して来ましたが、その根本となる漢語や漢字の伝来と日本語の語彙と云う視点はあまり、強く意識していませんでした。さらに、いつ、人々は中国語の漢語や漢字を学習し、日本語の語彙を豊かにしたのか、それを日本語の中で消化出来ていたのか、どうか、などの視点もありませんでした。
 今回、改めてこのような視点で与太話や酔論を展開しましたが、万葉集初期の作品と中期以降の作品では同じ常体歌表記システムで表記されていても、それぞれの漢語や漢字の扱いが大陸的か、大和的かで別れる場面もあるようです。勉強になりましたが、同時に従来の弊ブログの内容がいかに幼い与太話や酔論であったかと、焦りますし、反省の次第です。
 今回もまた、深い反省です。

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今日の古今 みそひと歌 金

2016年07月22日 | 古今 みそひと歌
今日の古今 みそひと歌 金

題しらず よみ人しらず
歌番一四七 
原歌 ほとときすなかなくさとのあまたあれはなほうとまれぬおもふものから
標準 ほととぎすながなくさとのあまたあれば猶うまれぬ思ふ物から
解釈 郭公汝が鳴く里のあまたあればなほ疎まれぬ思ふものから
注意 このホトトギスは巷で美貌の評判の立っている女性を比喩します。その美貌の女性に恋した男の歌です。伊勢物語四十三段には賀陽親王がある女性に贈った歌とします。

<参考歌 伊勢物語>
昔、賀陽(かや)の親王(みこ)と申すみこおはしましけり。その親王、女をおぼしめしていとかしこう恵みつかつ給ひけるを、人なまめきてありけるを、我のみと思ひけるを、又人ききつけて文(ふみ)やる。ほととぎすのかたをかきて、
ほととぎす 汝(な)がなく里の あまたあれば 猶(なほ)うとまれぬ 思ふものから
といへり。この女、けしきをとりて、
名のみたつ しでのたをさは 今朝ぞなく 庵(いほり)あまたと うとまれぬれば
時は五月(さつき)になむありける。男返し、
庵(いほり)おほき しでのたをさは 猶(なほ)たのむ わが住む里に 声したえずは

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今日の古今 みそひと歌 木

2016年07月21日 | 古今 みそひと歌
今日の古今 みそひと歌 木

題しらず よみ人しらず
歌番一四六 
原歌 ほとときすなくこゑきけはわかれにしふるさとさへそこひしかりける
標準 郭公なくこゑきけはわかれにしふるさとさへぞこひしかりける
解釈 郭公鳴く声聞けは別れにし古里さへぞ恋しかりける
注意 望帝杜宇の不如帰去の故事を下にした歌です。万葉集に同じの不如帰去の故事を引いた歌がありますが雰囲気は違います。なお、古注に作歌者は紀貫之とあるそうです。

<参考歌 万葉集>
額田王和謌一首 従倭京進入
標訓 額田王の和(こた)へ奉(たてまつ)れる歌一首 倭の京(みやこ)より奉(たてまつ)り入る
集歌112 古尓 戀良武鳥者 霍公鳥 盖哉鳴之 吾戀流其騰
試訓 古(いにしへ)に恋ふらむ鳥は霍公鳥(ほととぎす)けだしや鳴きし吾(わ)が恋(こ)ふるそと
試訳 昔を恋しがる鳥は霍公鳥です。さぞかし鳴いたでしょう。私がそれを恋しく思っているように。
注意 原文の「吾戀流其騰」は、一般には「吾念流碁騰」と大きく表記を変え「吾(わ)が念(おも)へるごと」と訓みます。そのため歌意が違います。
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今日の古今 みそひと歌 水

2016年07月20日 | 古今 みそひと歌
今日の古今 みそひと歌 水

題しらず よみ人しらず
歌番一四五 
原歌 なつやまになくほとときすこころあらはものおもふわれにこゑなきかせそ
標準 夏山になく郭公心あらば物思ふ我に声なきかせそ
解釈 夏山に鳴く郭公心あらばもの思ふ我に声な聞かせそ
注意 この歌に何かあるかと云うとありません。それに、この歌の雰囲気に似た歌は万葉集に数多く見ることが出来ます。古注に作歌者は七条后のものとあるそうです。この七条后は藤原温子、宇多天皇の女御で醍醐天皇の養母です。和歌の世界では重要人物に関わる女性となります。

<参考歌 万葉集>
大伴坂上郎女謌一首
標訓 大伴坂上郎女の謌一首
集歌1484 霍公鳥 痛莫鳴 獨居而 寐乃不所宿 聞者苦毛
訓読 霍公鳥(ほととぎす)いたくな鳴きそひとり居て寝(い)の寝(ぬ)らえぬに聞けば苦しも
私訳 「カツコヒ、カツコヒ」とホトトギスよ。そんなにひどく啼くな。あの人を待ちわびて一人だけで夜も寝られないときに、お前のその鳴き声を聞くと辛くなる。

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今日の古今 みそひと歌 火

2016年07月19日 | 古今 みそひと歌
今日の古今 みそひと歌 火

奈良の石上寺にて郭公の鳴くをよめる 素性
歌番一四四 
原歌 いそのかみふるきみやこのほとときすこゑはかりこそむかしなりけれ
標準 いその神ふるき宮この郭公声許こそむかしなりけれ
解釈 石上古き都の郭公声ばかりこそ昔なりけれ
注意 奈良の石上寺は歌を詠った素性の住む良因院を示します。そのため、複雑な解釈が存在することになります。例えば「ふるきみやこのほとときす」の「ふる」は石上の布留、古き宮、振るき宮、古き都(仁賢天皇の宮)などの解釈がなりたちます。さらに郭公には蜀魂の故事があり、「むかしなりけれ」と云う言葉と近接に絡み合います。「宮」と「古」との言葉に反応しますと、額田王が詠う歌を思い浮かべます。ここまで来ますと、行き過ぎでしょうか。

<参考歌 万葉集>
集歌112 古尓 戀良武鳥者 霍公鳥 盖哉鳴之 吾戀流其騰
試訓 古(いにしへ)に恋ふらむ鳥は霍公鳥(ほととぎす)けだしや鳴きし吾(わ)が恋(こ)ふるそと
試訳 昔を恋しがる鳥は霍公鳥です。さぞかし鳴いたでしょう。私がそれを恋しく思っているように。

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