竹取翁と万葉集のお勉強

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資料編 延喜式祝詞 祈年祭・中臣寿詞・龍田風神祭

2021年03月20日 | 資料書庫
資料編 延喜式祝詞 祈年祭・中臣寿詞・龍田風神祭

最初に、本資料は、萬葉集の人麻呂の草壁皇子の挽歌を読む為のものです。従って、祈年祭、中臣寿詞および龍田風神祭の祝詞を以下に記しますが、宣命体表示にはしていません。恣意により和文漢文体表示としています。つまり、送字は記していません。大意は、書き下し文を参照願います。

祈年祭  (原文)

 集侍神主・祝部等、諸聞食宣。(神主・祝部等、共稱唯。餘宣准此。)
 高天原神留坐、皇睦神漏伎命・神漏彌命以、天社・國社稱辭竟奉、皇神等前白、今年二月、御年初將賜為而、皇御孫命宇豆幣帛、朝日豊逆登稱辭竟奉宣。
 御年皇神等前白、皇神等依奉奥津御年、手肱水沫畫垂、向股泥畫寄、取作奥津御年、八束穂伊加志穂、皇神等依奉者、初穂千穎八百穎奉置、瓶閉高知、瓶腹滿雙、汁穎稱辭竟奉。大野原生物者、甘菜・辛菜、靑海原住物者、鰭廣物・鰭狹物、奥津藻菜・邊津藻菜至、御服者、明妙・照妙・和妙・荒妙、稱辭竟奉。御年皇神前、白馬・白猪・白鶏、種種色物備奉、皇御孫命宇豆幣帛、稱辭竟奉宣。
 大御巫辭竟奉、皇神等前白、神魂・高御魂・生魂・足魂・玉留魂・大宮乃賣・大御膳都神・辭代主、御名者白而、辭竟奉者、皇御孫命御世、手長御世、堅磐常磐斎奉、茂御世幸奉故、皇吾睦神漏伎命・神漏彌命、皇御孫命宇豆幣帛、稱辭竟奉宣。
 座摩御巫稱辭竟奉、皇神等前白、生井・榮井・津長井・阿須波・婆比支、御名者白、辭竟奉、皇神敷坐、下都磐根宮柱太知立、高天原千木高知、皇御孫命瑞御舎仕奉、天御蔭・日御蔭隠坐、四方國安國平知食故、皇御孫命宇豆幣帛、稱辭竟奉宣。
 御門御巫稱辭竟奉、皇神等前白、櫛磐間門命・豊磐間門命、御名者白、辭竟奉者、四方御門、湯都磐村如塞坐、朝者御門開奉、夕者御門閉奉、疎夫留物自下往者下守、自上往者上守、夜守・日守守奉故、皇御孫命宇豆幣帛、稱辭竟奉宣。
生嶋御巫辭竟奉、皇神等前白、生國・足國、御名者白、辭竟奉者、皇神敷坐嶋八十嶋者、谷蟆狹度極、鹽沫留限、狹國者廣、峻國者平、嶋八十嶋堕事夭、皇神等依奉故、皇御孫命宇豆幣帛、稱辭竟奉宣。
 辭別、伊勢坐天照大御神大前白、皇神見霽坐四方國者、天壁立極、國退立限、靑雲靄極、白雲墜坐向伏限、靑海原者、棹柁不干、舟艫至留極、大海舟滿都都氣、自陸往道者、荷緒縛堅、磐根木根履佐久彌、馬爪至留限、長道夭間立都都氣、狹國者廣、峻國者平、遠國者八十綱打挂引寄如事、皇大御神寄奉、荷前者、皇大御神大前、如横山打積置、残平聞看。又皇御孫命御世、手長御世、堅磐常磐斎奉、茂御世幸閉奉故、皇吾睦神漏伎・神漏彌命、宇事物頚根衝抜、皇御孫命宇豆幣帛、稱辭竟奉宣。
 御縣坐皇神等前白、高市・葛木・十市・志貴・山邊・曾布、御名者白、此六御縣生出、甘菜・辛菜持参來、皇御孫命長御膳遠御膳聞食故、皇御孫命宇豆幣帛、稱辭竟奉宣。
 山口坐皇神等前白、飛鳥・石村・忍坂・長谷・畝火・耳夭、御名者白、遠山・近山生立大木・小木、本末打切、持参來、皇御孫命瑞御舎仕奉、天御蔭・日御蔭隠坐、四方國、安國平知食故、皇御孫命宇豆幣帛、稱辭竟奉宣。
 水分坐皇神等前白、吉野・宇陀・都祁・葛木、御名者白、辭竟奉者、皇神等寄奉奥都御年、八束穂伊加志穂寄奉者、皇神等、初穂、穎汁、瓶閉高知、瓶腹滿雙、稱辭竟奉、遺皇御孫命朝御食・夕御食加牟加比、長御食遠御食、赤丹穂聞食故、皇御孫命宇豆幣帛稱辭竟奉、諸聞食宣。
 辭別、忌部弱肩太多須支取挂、持由麻波利仕奉幣帛、神主・祝部等受賜、事不過捧持奉宣。


祈年祭  (書き下し文)

 集侍はれる神主・祝部等、諸聞こし食せと宣る。(神主・祝部等、共に唯と稱せ。餘の宣るといふも、此に准へ。)
 高天原に神留り坐す皇睦神漏伎命・神漏彌の命以て、天社と國社と稱辭竟へ奉る皇神等の前に白さく、今年二月に御年初め賜はむと為て、皇御孫命の宇豆の幣帛を、朝日の豊逆登に稱辭竟へ奉らくと宣る。
 御年皇神等の前に白さく、皇神等の依さし奉らむ奥津御年を、手肱に水沫畫き垂り、向股に泥畫き寄せて、取作らむ奥津御年を、八束穂の伊加志穂に、皇神等の依さし奉らば、初穂をば千穎八百穎に奉り置きて、瓶の上高知り、瓶の腹滿て雙べて、汁にも穎にも稱辭竟へ奉らむ。大野原に生ふる物は甘菜・辛菜、靑海原に住む物は、鰭の廣物・鰭の狹物、奥津藻菜・邊津藻菜に至るまでに、御服は明妙・照妙・和妙・荒妙に稱辭竟へ奉らむ。御年皇神の前に、白馬・白猪・白鶏、種種の色物を備へ奉りて、皇御孫命の宇豆の幣帛を稱辭竟へ奉らくと宣る。
 大御巫の辭竟へ奉る皇神等の前に白さく、神魂・高御魂・生魂・足魂・玉留魂・大宮の賣・大御膳つ神・辭代主と御名は白して、辭竟へ奉らくは、皇御孫命の御世を手長の御世と、堅磐に常磐に斎ひ奉り、茂し御世に幸はへ奉るが故に、皇吾睦神漏伎命・神漏彌命と、皇御孫命の宇豆の幣帛を稱辭竟へ奉らくと宣る。
 座摩の御巫の稱辭竟へ奉る皇神等の前に白さく、生井・榮井・津長井・阿須波・婆比支と御名は白して、辭竟へ奉らくは、皇神の敷き坐す下つ磐根に宮柱太知り立て、高天原に千木高知りて、皇御孫命の瑞の御舎を仕へ奉りて、天御蔭・日御蔭と隠り坐して、四方の國を安國と平けく知し食すが故に、皇御孫命の宇豆の幣帛を、稱辭竟へ奉らくと宣る。
 御門の御巫の稱辭竟へ奉る皇神等の前に白さく、櫛磐間門命・豊磐間門命と御名は白して、辭竟へ奉らくは、四方の御門に、湯つ磐村の如く塞り坐して、朝には御門を開き奉り、夕には御門を閉て奉りて、疎ふる物の下より往かば下を守り、上より往かば上を守り、夜の守・日の守に守り奉るが故に、皇御孫命の宇豆の幣帛を稱辭竟へ奉らくと宣る。
 生嶋の御巫の辭竟へ奉る皇神等の前に白さく、生國・足國と御名は白して辭竟へ奉らくは、皇神の敷き坐す嶋の八十嶋は、谷蟆の狹度る極、鹽沫の留る限、狹き國は廣く、峻しき國は平けく、嶋の八十嶋堕つる事無く、皇神等の依さし奉るが故に、皇御孫命の宇豆の幣帛を稱辭竟へ奉らくと宣る。
 辭別きて、伊勢に坐す天照大御神の大前に白さく、皇神の見霽かし坐す四方の國は、天の壁立つ極、國の退立つ限、靑雲の靄く極、白雲の墜り坐向伏す限、靑海原は棹柁干さず、舟の艫の至り留る極、大海原に舟滿ち都都氣て、陸より往く道は荷の緒縛ひ堅めて、磐根木根履み佐久彌て、馬の爪の至り留る限、長道間無く立ち都都氣て、狹き國は廣く、峻しき國は平けく、遠き國は八十綱打挂けて引き寄する事の如く、皇大御神の寄さし奉らば、荷前は皇大御神の大前に、横山の如く打積み置きて、残りをば平けく聞こし看さむ。又、皇御孫命の御世を、手長の御世と、堅磐に常磐に斎ひ奉り、茂し御世に幸はへ奉るが故に、皇吾睦神漏伎・神漏彌命と、鵜じ物頚根衝き抜きて、皇御孫命の宇豆の幣帛を稱辭竟へ奉らくと宣る。
 御縣に坐す皇神等の前に白さく、高市・葛木・十市・志貴・山邊・曾布と御名は白して、此の六御縣に生り出づる甘菜・辛菜を持ち参來て、皇御孫命の長御膳の遠御膳と聞こし食すが故に、皇御孫命の宇豆の幣帛を稱辭竟へ奉らくと宣る。
 山口に坐す皇神等の前に白さく、飛鳥・石村・忍坂・長谷・畝火・耳無と御名は白して、遠山・近山に生ひ立てる大木・小木を、本末打切りて持ち参來て、皇御孫命の瑞の御舎仕へ奉りて、天御蔭・日御蔭と隠り坐して、四方の國を安國と平けく知し食すが故に、皇御孫命の宇豆の幣帛を稱辭竟へ奉らくと宣る。
 水分に坐す皇神等の前に白さく、吉野・宇陀・都祁・葛木と御名は白して辭竟へ奉らくは、皇神等の寄さし奉らむ奥つ御年を、八束穂の伊加志穂に寄さし奉らば、皇神等に、初穂は穎にも汁にも、瓶の上高知り、瓶の腹滿て雙べて、稱辭竟へ奉りて、遺りをば皇御孫命の朝御食・夕御食の加牟加比に、長御食の遠御食と、赤丹穂に聞こし食すが故に、皇御孫命の宇豆の幣帛を稱辭竟へ奉らくを、諸聞こし食せと宣る。
 辭別きて、忌部の弱肩に太多須支取挂けて、持由麻波利仕へ奉れる幣帛を、神主・祝部等受け賜りて、事過たず捧げ持ちて奉れと宣る。



中臣寿詞  (原文)

 現御神大八嶋國所知食大倭根子天皇御前、天神寿詞稱辭定奉申。
 高天原神留坐皇親神漏岐・神漏美命持、八百萬神等神集賜、皇孫尊、高天原事始、豊葦原瑞穂國、安國平所知食、天都日嗣天都高御座御坐、天都御膳長御膳遠御膳、千秋五百秋、瑞穂平安由庭所知食事依奉、天降坐後、中臣遠祖天児屋根命、皇御孫尊御前奉仕、天忍雲根神、天二上奉上、神漏岐・神漏美命前受給申、皇御孫尊御膳都水、宇都志國水天都水加奉申事教給依、天忍雲根神天浮雲乘、天二上上坐、神漏岐・神漏美命前申、天玉櫛事依奉、此玉櫛刺立、自夕日至朝日照、天都詔刀太諸刀言以告。如此告、麻知弱蒜由都五百篁生出。自其下天八井出。此持、天都水所聞食事依奉。
 如此依奉任任、所聞食由庭瑞穂、四國卜部等、太兆卜事持奉仕、悠紀近江國野洲、主基丹波國氷上斎定、物部人等・酒造児・酒波・粉走・灰焼・薪採・相作・稲實公等、大嘗会斎庭持斎参來、今年十一月中卯日、由志理・伊都志理持、恐恐清麻波利奉仕、月内日時撰定、献悠紀・主基黒木・白木大御酒、大倭根子天皇天都御膳長御膳遠御膳、汁實、赤丹穂所聞食、豊明明御坐、天神寿詞、天津社・國津社稱辭定奉皇神等、千秋五百秋相嘗相宇豆乃比奉、堅磐常磐斎奉、伊賀志御世榮奉、自康治元年始、天地月日共、照明御坐事、本末不傾、茂槍中執持、奉仕中臣祭主正四位上行神祇大副大中臣朝臣清親、寿詞稱辭定奉申。
 又申、天皇朝廷奉仕親王等・王等・諸臣・百官人等、天下四方國百姓諸諸集侍、見食、尊食、歡食、聞食、天皇朝廷、茂世八桑枝如立榮奉仕祷所聞食、恐恐申給申。


中臣寿詞  (書き下し文)

 現御神と大八嶋國知食す大倭根子天皇が御前に、天神の寿詞を稱辭定め奉らくと申す。
 高天原に神留り坐す皇親神漏岐・神漏美の命を持ちて、八百萬の神等を神集へ賜ひて、皇孫尊は、高天原に事始めて、豊葦原の瑞穂の國を安國と平けく知食して、天つ日嗣の天つ高御座に御坐して、天つ御膳の長御膳の遠御膳と、千秋の五百秋に、瑞穂を平けく安けく、斎庭に知し食せと、事依し奉りて、天降し坐しし後に、中臣の遠つ祖天児屋根命、皇御孫尊の御前に仕へ奉りて、天忍雲根神を天の二上に上せ奉りて、神漏岐・神漏美命の前に受け給り申ししに、皇御孫尊の御膳つ水は、宇都志國の水に、天つ水を加へて奉らむと申せと事教へ給ひしに依りて、天忍雲根神、天の浮雲に乘りて、天の二上に上り坐して、神漏岐・神漏美命の前に申せば、天の玉櫛を事依し奉りて、此の玉櫛を刺立て、夕日より朝日照るに至るまで、天つ詔との太詔と言を以て告れ。此に告らば、麻知は弱蒜に斎つ五百篁生ひ出でむ。其の下より天の八井出でむ。此を持ちて、天つ水と聞こし食せと、事依し奉りき。
 此に依し奉りし任任に聞こし食す由庭の瑞穂を、四國の卜部等、太兆の卜事を持ちて仕へ奉りて、悠紀に近江國の野洲、主基に丹波國の氷上を斎ひ定めて、物部の人等・酒造児・酒波・粉走・灰焼・薪採・相作・稲實公等、大嘗会の斎庭に持ち斎はり参來て、今年の十一月の中つ卯日に、由志理・伊都志理持ち、恐み恐みも清麻波利に仕へ奉り、月の内に日時を撰び定めて、献る悠紀・主基の黒木・白木の大御酒を、大倭根子天皇が天つ御膳の長御膳の遠御膳と、汁にも實にも、赤丹の穂にも聞こし食して、豊の明りに明り御坐して、天つ神の寿詞を、天つ社・國つ社と稱辭定め奉る皇神等も、千秋の五百秋の相嘗に相宇豆の比奉り、堅磐常磐に斎ひ奉りて、伊賀志御世に榮えしめ奉り、康治元年より始めて、天地月日と共に照し明らし御坐さむ事に、本末傾けず茂槍の中執り持ちて仕へ奉る、中臣の祭主正四位上行神祇大副大中臣朝臣清親、寿詞を稱辭定め奉らくと申す。
 又申さく、天皇が朝廷に仕へ奉れる、親王等・王等・諸臣・百官人等、天の下の四方の國の百姓、諸諸集侍はりて、見食べ、尊み食べ、歡び食べ、聞き食べ、天皇が朝廷に、茂世に、八桑枝の立榮え仕へ奉るべき祷を聞こし食せと、恐み恐みも申し給はくと申す。


龍田風神祭  (原文)

 龍田稱辭竟奉、皇神前白、
 志貴嶋大八嶋國知皇御孫命、遠御膳長御膳、赤丹穂聞食五穀物始、天下公民作物、草片葉至不成、一年二年不在、歳眞尼傷故、百物知人等、卜事出神御心者、此神白負賜。
 此物知人等、卜事以卜、出神御心夭白聞看、皇御孫命詔、神等天社・國社、忘事無、遺事無、稱辭竟奉思行、誰神、天下公民作作物、不成傷神等、我御心悟奉、宇氣比賜。
 是以、皇御孫命大御夢悟奉、天下公民作作物、悪風荒水相、不成傷、我御名者、天御柱命・國御柱命、御名者悟奉、吾前奉幣帛者、御服者、明妙・照妙・和妙・荒妙、五色物、楯・戈・御馬御鞍具、品品幣帛備、吾宮者、朝日日向處、夕日日隠處、龍田立野小野、吾宮定奉、吾前稱辭竟奉者、天下公民作作物者、五穀始、草片葉至、成幸奉悟奉。
 是以、皇神辭教悟奉處、宮柱定奉、此皇神前稱辭竟奉、皇御孫命宇豆幣帛令捧持、王・臣等為使、稱辭竟奉、皇神前白賜事、神主・祝部等諸聞食宣。
 奉宇豆幣帛者、比古神、御服、明妙・照妙・和妙・荒妙、五色物、楯・戈・御馬御鞍具、品品幣帛献、比賣神御服備、金麻笥・金端・金桛、明妙・照妙・和妙・荒妙、五色物、御馬・御鞍具、雑幣帛奉、御酒者、瓶閉高知、瓶腹滿雙、和稲・荒稲、山住物者、毛和物・毛荒物、大野原生物者、甘菜・辛菜、靑海原住物者、鰭廣物・鰭狹物、奥都藻菜・邊都藻菜至、如横山打積置、奉此宇豆幣帛、安幣帛足幣帛、皇神御心、平聞食、天下公民作作物、悪風荒水不相賜、皇神成幸賜者、初穂者、瓶閉高知り、瓶腹滿雙、汁穎、八百稲・千稲引居置、秋祭奉、王・卿等、百官人等、倭國六縣刀禰、男女至、今年四月(七月者云今年七月) 諸参集、皇神前、宇事物頚根築抜、今日朝日豊逆登、稱辭竟奉、皇御孫命宇豆幣帛、神主・祝部等、被賜、惰事無奉宣命、諸聞食宣。


龍田風神祭  (書き下し文)

 龍田に稱辭竟へ奉る皇神の前に白さく、
 志貴嶋に大八嶋國知しめしし皇御孫命の遠御膳の長御膳と、赤丹の穂に聞こし食す五穀物を始めて、天下の公民の作る物を、草の片葉に至るまで成さざること、一年二年に在らず、歳數多く傷へるが故に、百の物知り人等の卜事に出でむ神の御心は、此の神と白せと負せ賜ひき。
 此を物知り人等の卜事を以て卜へども、出づる神の御心も無しと白すと聞こし看して、皇御孫命の詔りたまはく、神等をば天社と國社と忘るる事無く、遺つる事無く、稱辭竟へ奉ると思ほし行はすを、誰の神ぞ、天下の公民の作りと作る物を成さず傷へる神等は、我が御心ぞと悟し奉れと宇氣比賜ひき。
 是を以て皇御孫命の大御夢に悟し奉らく、天下の公民の作りと作る物を、悪しき風荒き水に相はせつつ、成さず傷へるは、我が御名は天の御柱の命・國の御柱の命と、御名は悟し奉りて、吾が前に奉らむ幣帛は、御服は明妙・照妙・和妙・荒妙、五色物、楯・戈、御馬に御鞍具へて、品品の幣帛備へて、吾が宮は朝日の日向ふ處、夕日の日隠る處の龍田の立野の小野に、吾が宮は定め奉りて、吾が前を稱辭竟へ奉らば、天下の公民の作りと作る物は、五穀を始めて、草の片葉に至るまで、成し幸はへ奉らむと悟し奉りき。
 是を以て皇神の辭教へ悟し奉りし處に、宮柱定め奉りて、此の皇神の前に稱辭竟へ奉りに、皇御孫命の宇豆の幣帛を捧げ持たしめて、王・臣等を使と為て、稱辭竟へ奉らくと、皇神の前に白し賜ふ事を、神主・祝部等諸聞こし食せと宣る。
 奉る宇豆の幣帛は、比古神に御服は明妙・照妙・和妙・荒妙、五色物、楯・戈、御馬に御鞍具へて、品品の幣帛献り、比賣神に御服備へ、金の麻笥・金の端・金の桛、明妙・照妙・和妙・荒妙、五色物、御馬に御鞍具へて、雑の幣帛奉りて、御酒は・閉高知り、・腹滿て雙べて、和稲・荒稲に、山に住む物は、毛の和物・毛の荒物、大野原に生ふる物は、甘菜・辛菜、靑海原に住む物は、鰭の廣物・鰭の狹物、奥都藻菜・邊都藻菜に至るまでに、横山の如く打積み置きて、奉る此の宇豆の幣帛を、安幣帛の足幣帛と、皇神の御心に平けく聞こし食して、天下の公民の作りと作る物を、悪しき風荒き水に相はせ賜はず、皇神の成し幸はへ賜はば、初穂は瓶の上高知り、瓶の腹滿て雙べて、汁にも穎にも、八百稲・千稲に引居ゑ置きて、秋祭に奉らむと、王・卿等、百官人等、倭國の六縣の刀禰、男女に至るまでに、今年の四月(七月には今年の七月と云へ) 諸参集はりて、皇神の前に鵜じ物頚根築き抜きて、今日の朝日の豊逆登に、稱辭竟へ奉る皇御孫命の宇豆の幣帛を神主・祝部等被け賜りて、惰る事無く奉れと宣りたまふ命を、諸聞こし食せと宣る。
コメント

資料編 楊朱 原文並びに訓読 下

2021年03月13日 | 資料書庫
資料編 楊朱 原文並びに訓読

列子 巻第二 黃帝 第十五章
楊朱南之沛、老聃西遊於秦。邀於郊。至梁而遇老子。老子中道仰天而歎曰、始以汝為可教、今不可教也。楊子不荅。至舍、進涫漱巾櫛、脱履戸外、膝行而前曰、向者夫子仰天而歎曰、始以汝為可教、今不可教。弟子欲請夫子辭、行不閒、是以不敢。今夫子閒矣、請問其過。老子曰、而睢睢、而盱盱、而誰與居。大白若辱、盛德若不足。楊朱蹴然變容曰、敬聞命矣。其往也、舍迎將、家公執席、妻執巾櫛、舍者避席、煬者避竈。其反也、舍者與之争席矣。

楊朱は南して沛に之(ゆ)く、老聃(ろうたん)は西して秦に遊ぶ。郊(こう)に邀(むか)へむとす。梁に至り而して老子に遇ふ。老子は道の中ばにして天を仰ぎて而して歎じて曰く、始め汝を以つて教ふる可しと為せり、今、教ふるは可からず。楊子は荅へず。舍に至り、涫漱(かんそう)巾櫛(きんしつ)を進め、履を戸外に脱ぎ、膝行して而る前(すす)みて曰く、向には夫子、天を仰ぎて而して歎じて曰く、始め汝を以つて教ふる可くをなすも、今は教ふる可からず。弟子は夫子に請ふを欲し、辭行(じこう)するも閒(ひま)あらず、是を以つて敢てせず。今は夫子は閒(ひま)ならむ、請ふ、其の過ちを問はむ。老子の曰く、而(なんじ)、睢睢(きき)たり、而(なんじ)、盱盱(くく)たり、而(なんじ)、誰と與に居らむ。大白(たいはく)は辱(けが)れたるが若(ごと)く、盛德(せいとく)は足らざるが若し。楊朱は蹴然(しゅくぜん)として容(かたち)を變へて曰く、敬(つつし)みて命(おしへ)を聞くのみ。
其の往くや、舍(やど)る者は迎將し、家公は席を執り、妻は巾櫛(きんしつ)を執り、舍る者は席を避け、煬(かわか)する者は竈を避けたり。其の反(かへ)るや、舍(やど)る者は之と席を争へり。


列子 巻第二 黃帝 第十六章
楊朱過宋、東之於逆旅。逆旅人有妾二人、其一人美、其一人悪。悪者貴而美者賤。楊子問其故。逆旅小子對曰、其美者自美、吾不知其美也。其悪者自悪、吾不知其悪也。楊子曰、弟子記之。行賢而去自賢之行、安往而不愛哉。

楊朱は宋を過ぎ、東に之(ゆ)きて逆旅(やど)る。逆旅の人、妾二人有り、其の一人は美(よ)し、其の一人は悪(あ)し。悪しなる者は貴にして而に美しなる者は賤なり。楊子は其の故を問ふ。逆旅の小子の對へて曰く、其の美(よ)しなる者は自ら美しとするも、吾は其の美しを知らず。其の悪(あ)しなる者は自ら悪しとするも、吾は其の悪しを知らず。楊子の曰く、弟子、之を記るせ。賢を行ふは而して自ら賢とする行ひを去らば、安(いず)くに往くとして而して愛されざらむや。


列子 巻第三 周穆王 第十一章
秦人逢氏有子、少而惠、及壯而有迷罔之疾。聞歌以為哭、視白以為黒、饗香以為朽、常甘以為苦、行非以為是。意之所之、天地四方水火寒暑、無不倒錯者焉。
楊氏告其父曰、魯之君子多術藝、將能已乎。汝奚不訪焉。其父之魯、過陳、遇老聃、因告其子之證。
老聃曰、汝庸知汝子之迷乎。今天下之人、皆惑於是非、昏於利害。同疾者多、固莫有覚者。且一身之迷、不足傾一家。一家之迷、不足傾一郷。一郷之迷、不足傾一國。一國之迷、不足傾天下。天下盡迷、孰傾之哉。向使天下之人、其心盡如汝子、汝則反迷矣。哀楽聲色臭味是非、孰能正之。且吾之此言未必非迷、而況魯之君子、迷之郵者、焉能解人之迷哉。栄汝之糧、不若遄歸也。

秦の人の逢(ほう)氏に子が有り、少にして而(ま)た惠、壯に及びて而(しかる)に迷罔(めいぼう)の疾は有り。歌を聞きて以つて哭き、白を視て以つて黒と為し、饗香(きょうこう)を以つて朽と為し、常甘(じょうかん)を以つて苦と為し、非を行うも以つて是と為す。意の之(ゆ)く所、天地四方水火寒暑、倒錯せざるは無し。
楊氏は其の父に告げて曰く、魯の君子に術藝は多し、將に能く已(や)まむや。汝は奚(なむ)ぞ訪ねざらむや。其の父は魯に之(ゆ)き、陳を過ぎ、老聃(ろうたん)に遇ひ、因りて其の子の證(さま)を告げる。
老聃の曰く、汝は庸(なむ)ぞ汝の子の迷ひを知らむや。今、天下の人、皆、是非に迷ひ、利害に昏(くら)む。疾(やまひ)を同じくする者は多く、固(もとよ)り覚りを有する者は莫し。且つ一身の迷ひ、一家を傾けるに足らず。一家の迷ひ、一郷を傾けるに足らず。一郷の迷ひ、一國を傾けるに足らず。一國の迷ひ、天下を傾けるに足らず。天下が盡(ことごと)く迷はば、孰(たれ)か之を傾(ただ)さむ。向使(もし)、天下の人をして、其の心を盡(ことごと)く汝の子の如くならしめば、汝は則ち反つて迷へるなり。哀楽・聲色・臭味・是非、孰(たれ)か能く之を正(ただ)さむ。且つ吾の此の言は未だ必ずしも迷ひに非ずんばあらず、而して況や魯の君子、之の郵(よりべ)を迷ふ者、焉(いずく)むぞ能く人の迷ひを解かむや。汝の糧を栄(にな)ひ、若(なむ)ぞ遄(すみや)かに歸らざらむや。


列子 巻第四 仲尼 第九章
無所由而常生者道也。由生而生、故雖終而不亡、常也。由生而亡、不幸也。有所由而常死者、亦道也。由死而死、故雖未終而自亡者、亦常。由死而生、幸也。故無用而生謂之道、用道得終謂之常。有所用而死者、亦謂之道、用道而得死者、亦謂之常。
季梁之死、楊朱望其門而歌。隨梧之死、楊朱撫其尸而哭。隸人之生、隸人之死。衆人且歌、衆人且哭。

由(よ)る所の無くして而して常に生くるものは道なり。生に由りて而して生き、故に終ると雖も而に亡(う)せずは、常なり。生に由りて而に亡せるは、不幸なり。由る所有りて而に常に死(う)せるものは、亦た道なり。死(う)すことに由りて而た死(う)せ、故に未だ終らずと雖ども而た自ら亡(う)せるものは、亦た常なり。死すことに由りて而た生くるは、幸なり。故に用ふる無くして而た生くるは、之を道と謂ひ、道を用ひて終るを得るは、之を常と謂ふ。用ふる所有りて而た死(う)せるものは、亦た之を道と謂ひ、道を用いて而た死(う)するを得るものは、亦た之を常と謂ふ。
季梁が死(う)せ、楊朱は其の門を望みて而して歌ふ。隨(まにま)に之の死(う)せるを梧り、楊朱は其の尸(かばね)を撫で而して哭く。人は生の隸(しもべ)にして、人は死の隸(しもべ)なり。衆人は且だ歌ふのみ、衆人は且だ哭くのみ。


列子 巻第六 力命篇 第六章
楊朱之友曰季梁。季梁得疾、十日大漸。其子環而泣之、請医。季梁謂楊朱曰、吾子不肖如此之甚、汝奚不為我歌以曉之。楊朱歌曰、天其弗識、人胡能覚。匪祐自天、弗孽由人。我乎汝乎。其弗知乎。医乎巫乎。其知之乎。其子弗曉終謁三医。一曰矯氏、二曰俞氏、三曰盧氏。
診其所疾、矯氏謂季梁曰、汝寒溫不節、虛實失度、病由飢飽色欲、精慮煩散。非天非鬼、雖漸、可攻也。季梁曰、衆医也、亟屏之。
俞氏曰、女始則胎氣不足、乳湩有餘。病非一朝一夕之故、其所由来漸矣、弗可已也。季梁曰、良医也、且食之。
盧氏曰、汝疾不由天、亦不由人、亦不由鬼。稟生受形、既有制之者矣、亦有知之者矣。薬石其如汝何。季梁曰、神医也、重貺遣之。俄而季梁之疾自瘳。

楊朱の友を季梁(きりょう)と曰ふ。季梁は疾(やまひ)を得て、十日にして大いに漸(すす)む。其の子は環(めぐ)りて而して之を泣き、医を請ふ。季梁、楊朱に謂いて曰く、吾が子の不肖なること此の如く、甚だし。汝(なんじ)、奚(なむ)ぞ我が為に歌いて以つて之を曉(さと)さざる。楊朱は歌ひて曰く、天、其を識らず、人は胡(なむ)ぞ能く覚らむ。祐(さいわい)すること天よりするに匪(あら)ず、孽(わざわひ)すること人に由(よ)ることあらず。我と汝と、其を知らずや。医と巫と、其は之を知らむや。其の子は曉(さと)らずて、終(つい)に三医を謁(こ)ふ。一曰く矯氏、二曰く俞氏、三曰く盧氏。
其の疾む所を診(み)て、矯氏は季梁に謂いて曰く、汝、寒溫は節あらず、虛實は度を失ふ、病は飢飽色欲、精慮の煩散せるに由る。天に非ず鬼に非ず、雖だ漸(すす)めりといへども、攻(おさ)む可きなり。季梁の曰く、衆医なり、亟(すみ)やかに之を屏(しりぞ)けよ。
俞氏の曰く、女(なんじ)、始めは則ち胎氣(たいき)は足らず、乳湩(にゅうしょう)に餘り有り。病は一朝一夕の故に非ず、其の由来する所は漸(ひさ)し、已む可からず。季梁の曰く、良医なり、且(しばら)く之を食(く)はせ。
盧氏の曰く、汝、疾(やまひ)は天に由らず、亦た人に由らず、亦た鬼に由らず。生を稟(う)け形を受けてより、既に之を制するもの有り、亦た之を知るもの有り。薬石、其の如く汝を何(いか)にせむ。季梁の曰く、神医なり、重く貺(おく)りて之を遣(つか)はせ。俄(にわか)にして而して季梁の之の疾(やまひ)は自ら瘳(い)ゆ。


列子 巻第六 力命篇 第八章
楊布問曰、有人於此、年兄弟也、言兄弟也、才兄弟也、貌兄弟也、而壽夭父子也、貴賤父子也、名譽父子也、愛憎父子也。吾惑之。
楊子曰、古之人有言、吾嘗識之、將以告若。不知所以然而然、命也。今昏昏昧昧、紛紛若若、隨所為、隨所不為。日去日来、孰能知其故。皆命也。夫信命者亡壽夭、信理者亡是非、信心者亡逆順信性者亡安危。則謂之都亡所信、亡所不信。真矣、愨矣、奚去奚就。奚哀奚楽。奚為奚不為。
黃帝之書云、至人居若死、動若械。亦不知所以居、亦不知所以不居、亦不知所以動、亦不知所以不動。亦不以衆人之觀易其情貌、亦不謂衆人之不觀不易其情貌。獨往獨来、獨出獨入、孰能礙之。

楊布(ようふ)の問ひて曰く、北に人有り、年は兄弟なり、言は兄弟なり、才は兄弟なり、貌は兄弟なり、而た壽夭は父子なり、貴賤は父子なり、名譽は父子なり、愛憎は父子なり。吾は之を惑ふ。
楊子の曰く、古の人に言有り、吾は嘗(か)つて之を識る、將に以つて若(なんじ)に告げむ。以つて然する所を知らずして而た然なり、命なり。今、昏昏昧昧、紛紛若若にして、隨(まにま)に為す所、隨に為さざる所。日に去り日に来り、孰か能く其の故を知らむ。皆、命なり。夫の命を信じる者に壽夭は亡(な)し、理を信じる者に是非は亡し、心を信じる者に逆順は亡し、性を信じる者に安危は亡し。則ち之、都(ことごと)く信じる所は亡く、信じざる所を亡しと謂ふ。真(まこと)なり、愨(まこと)なり、奚(なむ)を去り、奚に就かむ。奚を哀しみ、奚に楽まむ。奚を為さむ、奚に為さざらむ。
黃帝の書に云く、至人は居るに死せるが若(ごと)く、動くに械(かせ)の若(ごと)き。亦た居る所以(ゆえん)を知らず、亦た居らざる所以を知らず、亦た動く所以を知らず、亦た動かざる所以を知らずなり。亦た衆人の觀るを以つて其を情貌を易へず、亦た衆人の觀ざるを謂(おも)ひて其の情貌を易へずんばあらず。獨り往き獨り来たる、獨り出で獨り入る、孰か能く之を礙(さまた)げむ。


列子 卷第八 符篇 第二十三章
楊朱曰、利出者實及、怨往者害来。發於此而應於外者唯請、是故賢者慎所出。

楊朱の曰く、利に出ずる者に實(もこと)は及び、怨に往むく者に害(わざわい)は来たる。此に發し而して外に應じる者は唯だ請ひ、是の故に賢者は出ずる所を慎む。


列子 卷第八 符篇 第二十四章
楊子之鄰人亡羊。既率其黨、又請楊子之豎追之。楊子曰、嘻、亡一羊何追者之衆。鄰人曰、多岐路。既反。問、獲羊乎。曰、亡之矣。曰、奚亡之。曰、岐路之中又有岐焉。吾不知所之、所以反也。楊子戚然変容、不言者移時、不笑者竟日。
門人怪之、請曰、羊賤畜、又非夫子之有、而損言笑者何哉。揚子不荅。門人不獲所命。弟子孟孫陽出、以告心都子。心都子他日與孟孫陽偕入而問曰、昔有昆弟三人、游齊、魯之閒、同師而学、進仁義之道而歸。其父曰、仁義之道若何。伯曰、仁義使我愛身而後名。仲曰、仁義使我殺身以成名。叔曰、仁義使我身名並全。彼三術相反、而同出於儒。孰是孰非邪。
楊子曰、人有濱河而居者、習於水、勇於泅、操舟鬻渡、利供百口、裹糧就学者成徒、而溺死者幾半。本学泅不学溺、而利害如此。若以為孰是孰非。心都子嘿然而出。孟孫陽讓之曰、何吾子問之迂、夫子荅之僻。吾惑愈甚。
心都子曰、大道以多岐亡羊、学者以多方喪生。学非本不同、非本不一、而末異若是。唯歸同反一、為亡得喪。子長先生之門、習先生之道、而不達先生之況也、哀哉。

楊子の鄰人、羊を亡(うしな)ふ。既に其の黨を率ひ、又た楊子の豎(じゅ)を請ひて之を追ふ。楊子の曰く、嘻(ああ)、一羊を亡(うしな)ふに何ぞ追ふ者の衆(おお)きや。鄰人の曰く、岐路は多し。既にして反る。問ひて、羊を獲たりや。曰く、之を亡(うしな)へり。曰く、奚ぞ之を亡へり。曰く、岐路の中に又た岐有り。吾は之(ゆ)く所を知らず、反(かへ)れる所以(ゆえん)なり。楊子は戚然として容を変じ、言ざること時を移し、笑わざること日を竟(わた)る。
門人は之を怪み、請ひて曰く、羊は賤畜なり、又た夫子の有(もの)に非ず、而(しかる)に言笑を損ふものは何ぞや。揚子は荅へず。門人は命(おしへ)る所を獲ず。弟子の孟(もう)孫陽(そんよう)、出でて、以つて心(しん)都子(とし)に告ぐ。心都子、他日に孟孫陽と偕(とも)に入りて而して問いて曰く、昔、昆弟三人有り、齊、魯の閒に游び、師を同じくして而して学び、仁義の道を進め而(しかる)に歸る。其の父は曰く、仁義の道、若何(いかん)。伯の曰く、仁義は我をして身を愛し而して名を後と使しむ。仲の曰く、仁義は我をして身を殺し以つて名を成さ使しむ。叔の曰く、仁義は我をして身と名を並びて全(まった)くから使しむ。彼の三術は相ひ反し、而(しかる)に同じく儒に出ず。孰(いず)れか是、孰れか非なるや。
楊子の曰く、人、河の濱(はま)に而して居る者有り、水を習ひて、泅(およ)ぎに勇なり、舟を操りて渡しを鬻(ひさ)ぎ、利は百口を供す。糧を裹(つつ)み学に就く者、徒を成すも、而(しかる)に溺死する者は幾(ほとん)ど半なり。本、泅ぐことを学びて溺るることを学ばざるに、而に利害は此の如し。若(なんじ)、以つて孰(いず)れか是、孰れか非と為すや。
心都子、嘿然(もくぜん)として而して出ず。孟孫陽、之を讓(せめ)めて曰く、何ぞ吾が子に問ふこと、迂(う)なるや、夫子の荅(こた)ふること、僻(へき)なるや。吾の惑ひ、愈(いよい)よ甚(はなはだ)し。心都子の曰く、大道は多岐なるを以つて羊を亡ひ、学ぶ者は多方を以つて生を喪ふ。学、本より同じからざるに非ず、本より一にあらざるに非ず、而(しかる)に末の異なるは是の若し。唯だ同に歸し一に反(かへ)れば、得喪は亡(な)しと為る。子、先生の門に長し、先生の道に習ふも、而(しかる)に先生の況(ありさま)に達せず、哀しいかな。


列子 卷第八 符篇 第二十五章
楊朱之弟曰布、衣素衣而出。天雨、解素衣、衣緇衣而反。其狗不知、迎而吠之。楊布怒將扑之。楊朱曰、子無扑矣。子亦猶是也。嚮者使汝狗白而往黒而来、豈能無怪哉。

楊朱の弟を曰く布(ふ)、素衣(そい)を衣(き)て而して出づ。天雨(あめ)なり、素衣を解き、緇衣(しい)を衣て而して反る。其の狗は知らず、迎えて而して之を吠える。楊布は怒りて將に之を扑(う)たむとす。楊朱の曰く、子は扑つことは無からむ。子は亦た猶ほ是とせよ。嚮(さき)に汝は狗に白として而(しかる)に往き、黒として而(しかる)に来り使しむ、豈に能く怪しむことなからむや。


列子 卷第八 符篇 第二十六章
楊朱曰、行善不以為名、而名従之。名不與利期、而利歸之。利不與争期、而争及之。故君子必慎為善。

楊朱の曰く、善を行うは以つて名の為にせず、而(しか)るに名は之に従ふ。名は與に利を期せず、而(しか)るに利は之に歸す。利は與に争ふを期せず、而(しか)るに争は之に及ぶ。故に君子は必ず善を為すを慎む。


【参考資料】
『列子』以外にも、楊朱(楊子)については『孟子』、『荘子』、『荀子』、『韓非子』に資料がありますので、以下にそれを紹介します。

孟子 盡心上篇より
孟子曰、楊子取為我、拔一毛而利天下不為也。墨子兼愛。摩頂放踵利天下、為之。子莫執中、執中為近之、執中無権、猶執一也。所悪執一者、為其賊道也、挙一而廢百也。

孟子の曰く、楊子は我(おのれ)の為を取り、一毛を拔き而して天下を利することも為さず。墨子は兼愛し、頂(あたま)を摩(すりへ)らし踵(きびす)を放じても天下の利、之を為す。子莫は中を執り、中を執るは之に近しと為すも、中を執りて権(はか)ることなければ、猶ほ一を執るがごとし。一を執るを悪(にく)む所は、其の道を賊(そこな)うが為なり、一を挙げて而して百を廢するなり。


荘子 內篇 應帝王より
陽子居見老聃曰、有人於此、嚮疾強梁、物徹疏明、学道不倦。如是者、可比明王乎。老聃曰、是於聖人也、胥易技係、労形怵心者也。且也虎豹之文来田、猿狙之便、執嫠之狗来藉。如是者、可比明王乎。陽子居蹴然曰、敢問明王之治。老聃曰、明王之治、功蓋天下而似不自己、化貸萬物而民弗恃。有莫挙名、使物自喜、立乎不測、而遊於無有者也。

陽子居の老聃に見えて曰く、此に人有り、嚮疾強梁、物徹疏明、道を学びて倦まず。是の如くの者は、明王に比す可きか。老聃の曰く、是は聖人に於けるや、胥易技係、形を労し心を怵(おそ)しむる者なり。且つ虎豹の文は田(かり)を来たし、猿狙(えんそ)の便(びん)、嫠(り)を執うるの狗の藉(つな)がることを来たす。是の如くの者は、明王に比す可けむや。陽子居、蹴然(しゅうぜん)として曰く、敢へて明王の治を問はむ。老聃の曰く、明王の治、功は天下を蓋えども而た己れよりせざるに似たり、化は萬物に貸(ほどこ)せども而た民は恃まず。名を挙ぐること莫くは有るも、物をして自ら喜ば使め、不測に立ちて、而た無有に遊ぶ者なりと。


荘子 外篇 山木より
陽子之宋、宿於逆旅。逆旅有妾二人、其一人美、其一人悪、悪者貴而美者賤。陽子問其故、逆旅小子對曰、其美者自美、吾不知其美也;其悪者自悪、吾不知其悪也。陽子曰、弟子記之。行賢而去自賢之行、安往而不愛哉。

陽子は宋に之(ゆ)き、逆旅(げきりょ)に宿る。逆旅に妾二人有り、其の一人は美(よ)し、其の一人は悪(あ)し。悪(あ)しき者は貴(かざ)りて而(しかる)に美(よ)し者は賤(かざ)らず。陽子は其の故を問ふ、逆旅の小子の對へて曰く、其の美し者は自ら美しとし、吾は其の美しを知らざるなり。其の悪し者は自ら悪しとし、吾は其の悪しを知らざるなり。陽子の曰く、弟子、之を記せ。行い賢にして而(ま)た自ら賢とするの行ひを去れば、安(いず)くにぞ往くとして而(しかる)に愛せられざらむや。


荘子 雜篇 寓言より
陽子居、南之沛、老聃西遊於秦。邀於郊、至於梁而遇老子。老子中道仰天而歎曰、始以汝為可教、今不可也。陽子居不答。
至舍、進盥漱巾櫛、脱屨戸外、膝行而前曰、向者弟子欲請夫子、夫子行不閒、是以不敢。今閒矣、請問其過。老子曰、而睢睢盱盱、而誰與居。大白若辱、盛德若不足。陽子居蹴然変容曰、敬聞命矣。其往也、舍者迎、將其家公執席、妻執巾櫛、舍者避席、煬者避灶。其反也、舍者與之争席矣。

陽子居、南の沛に之(ゆ)く、老聃、西の秦に遊ぶ。郊に邀(むか)へ、梁に至りて而して老子に遇ふ。老子、中道にして天を仰ぎ而た歎じて曰く、始め汝を以つて教へむ可しと為すも、今は可ならず。陽子居、答へず。
舍に至るや、盥漱巾櫛を進め、屨を戸外に脱ぎ、膝行して而して前(すす)みて曰く、向者(さきごろ)は弟子、夫子に請わむと欲せしも、夫子は行きて閒(ひま)あらず、是を以つて敢えてせざりき。今や閒(ひま)あり、請う、其の過ちを問はむ。老子の曰く、而(なんじ)、睢睢(きき)盱盱(くく)たり、而(なんじ)、誰と與に居る。大白は辱(じょく)の若く、盛德は足ざるが若しと。陽子居、蹴然として容を変じて曰く、敬んで命を聞けりと。其の往くや、舍者は迎へ、將に其の家の公、席を執り、妻は巾櫛を執り、舍者は席を避け、煬者は灶を避けむ。其の反るや、舍者は與に之と席を争う。


荀子 王覇篇より
嗚呼。君人者、亦可以察若言矣。楊朱哭衢涂、曰、此夫過挙蹞步、而覚跌千里者夫。哀哭之。此亦栄辱、安危、存亡之衢已、此其為可哀、甚於衢涂。嗚呼。哀哉。君人者、千歲而不覚也。

嗚呼(ああ)、人に君たる者、亦た以つて若(かくのごと)き言を察す可し。楊朱、衢涂(くと)に哭(こく)して曰く、此れ夫(か)の挙(きょ)を過つこと蹞步(きほ)にして、跌(たが)うを覚ゆること千里なる者か、と。哀しみて之を哭す。此れ亦た栄辱(えいじょく)・安危・存亡の衢(ちまた)のみ、此れ其の哀む可きを爲すこと、衢涂(くと)よりも甚だし。嗚呼、哀しいかな、人に君たる者は千歲にして覚(さと)らざるなり。


韓非子 説林下より
楊朱之弟楊布衣素衣而出、天雨、解素衣、衣緇衣而反、其狗不知而吠之。楊布怒、將擊之。楊朱曰、子毋擊也、子亦猶是。曩者使女狗白而往、黒而來、子豈能毋怪哉。

楊朱の弟、楊布、素衣(そい)を衣(き)て出づ。天雨(あめ)して、素衣を解き、緇衣(しい)を衣(き)て反(かへ)る。其の狗知らずして之を吠ゆ。
楊布、怒りて、將に之を擊たんとす。楊朱曰く、子、擊つこと母かれ、子も亦た猶ほ是のごとし。曩(さき)に女(なんじ)の狗をして白くして往かしめ、黒くして來たら使めば、子、豈に能く怪しむこと母からんやと。

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資料編 楊朱 原文並びに訓読 上

2021年03月13日 | 資料書庫
資料編 楊朱 原文並びに訓読

 中国最初の統一王朝である秦朝が成立する前、周代 戦国期の思想家 孟子が指摘するように中国知識人の間には楊朱(楊子)と墨翟(墨子)の思想が主流を占めていました。ここではその楊朱の資料を提供するものです。
 紹介するものは『列子』全八巻に載る、巻七 楊朱篇を中心に示し、他の巻に載るものは楊朱に係る部分を抜粋しています。また、参考資料として『孟子』、『荘子』、『荀子』、『韓非子』に載る楊朱(楊子・陽子)に関わるものも抜粋して紹介します。紹介する原文は原則として中国哲学書電子化計画に載るものを底本とし維基文庫により校訂を行っています。その校訂作業では日本で出版している図書類からの補足校訂は行っていません。また、底本の繁体字及び旧字体漢字を適宜、日本語新字漢字に置き換えています。原文に対応するように訓読を付けていますが、これは弊ブログ管理者単独の行いで、先行する訓読や解釈の引き写しではありません。このようなものですので笑本類として使ってください。何らかの引用には全くに向きません。
 周代 戦国時代初期に活躍した楊朱や墨翟に対し、戦国時代前期の中国古典思想家の孟子は「聖王不作、諸侯放恣、處士橫議、楊朱墨翟之言盈天下。天下之言、不歸楊、則歸墨。(聖王は作(な)さず、諸侯は放恣し、處士は橫議して、楊朱・墨翟の言、天下に盈つ。天下の言、楊に歸せずんば、則ち墨に歸す。)」と述べるように、東周代の戦国時代前期にあっては楊朱と墨翟の思想が中心的なものとされています。ところが、彼らは儒学者ではありませんから、日本ではこの楊朱と墨翟の両者の思想は有名ではありませんし、研究もこれからの段階です。
 楊朱は現代中国にあっても歴史の闇に埋もれた人物として扱われており、前漢時代以降では、ほぼ無名人です。この楊朱については、『孟子』の「楊朱墨翟之言盈天下」の言葉から孔子より後の人物と推定され、孟子よりも前の人物と考えられています。ほぼ、墨翟と同時代の人と推定されています。老子とは違い、この楊朱も墨翟も一人の人間として実存は確実視されていますが、生年、生国、死没年代については未解決となっています。墨翟は秦・前漢時代に『墨子』が編まれ、現代までその思想が伝わっていますが、楊朱は各種の古典に彼の発言が引用される形で伝わるだけで、後年に弟子たちによる独立した『楊子』のような編纂本は伝わっていません。主たるものとして中国戦国時代の列禦寇が著した『列子』の巻七に独立した楊朱篇があり、それは『漢書』芸文志に『列子』の一部として紹介されています。
 楊朱が生きた周代 戦国時代初期、幼年期を生き延びた人たちの平均寿命は各種の資料などから30~40歳程度と推定されています。また、周代 春秋時代、春秋左氏伝に載る約140の諸国は戦乱や下克上などを繰り返すことで戦国期初期までには戦国七雄と称される7国に集約していきます。楊朱は確実に識字階級であり、王侯貴族階級との面談・議論を行う人物ですから、それ相当の語彙力と面談作法を持つ人です。この人物像からすれば、一定の教育機会が得られる王族・士族に属する人物像が現れます。しかしながら、所属していた国が強国に吸収されることにより職を失い、わずかな領地を所有する小荘園主のような立場です。
 戦国七雄に集約する直前、墨翟が指導する墨学徒により強国は支配地に対し「墨家の法」に類似した法治と徴兵制度を施行するようになってきています。周代 戦国時代とは戦国七雄が勝ち抜き戦を戦い、最終的に秦国に吸収されていく過程の時代です。勝ち抜き戦に勝ち抜くために、それぞれの強国は法治・徴兵制度から支配地域の小荘園主に対しそれぞれの配下の小作農民から兵卒を選抜し参戦することを求めます。拒否すればその小荘園主を逆賊として抹殺します。
 強国が小国を併呑する戦争や強国同士の勝ち抜き戦争は、楊朱が属する小荘園主たちにとっては所属する国の制度の中で栄進や名誉を求めなければ関係のない世界です。弊ブログ独特の解釈ですが、楊朱は人生がたかだか40年なら、生きている内に人生を楽しみたい。国王たちが唱える国の利は自分には関係ない。増して、そのような関係のない国の利の為に自らの命を賭けて戦場に赴くのはまっぴら御免であると考えたようです。この態度を孟子は「楊子取為我、拔一毛而利天下不為也。(楊子は我の為を取り、一毛を拔き而して天下を利することも為さず)」と評論します。なお、楊朱は戦争では友軍の立場で少人数ですが部隊を率いて戦う必要がある内部者で、一方の孟子は礼仁の教授と云う学者として戦争を評論する外部者です。命のやり取りの切迫感は全くに違います。
 ただし、同じ時代の墨翟は強国が小国を併呑する戦争や強国同士の勝ち抜き戦争での生き残り方策を提案します。そこが世に背を向けた楊朱と問題解決に立ち向かって突き進んだ墨翟との差があるようです。孟子は楊子への評論に加えて「墨子兼愛。摩頂放踵利天下、為之。(墨子は兼愛し、摩頂放踵して天下の利、之を為す。)とします。
 戦国時代の最終盤に位置する韓非子の主張からしますと、戦国七雄のそれぞれの地域支配が強固に進む周代 戦国時代中後期までには周代以来の没落王族・士族たちの小荘園は消えて行き、個人の才覚で財を成した富農や商工者が新たな農場経営者として小作人を扱うようになってきたようです。この富農や商工者は、自身と家族の徴兵免除を求めた上で私有財産を守るためにも富国強兵に賛同し、墨学者たちが唱える公平な法治体制と徴兵制度の施行を求める立場です。このような社会情勢の変化から周代 戦国時代中後期までには旧士族小荘園主たちが消えると同時に彼らが賛同した楊朱の説は廃れていったと考えます。
 なお、ここまでの紹介に反しますが、『韓非子』の「顕学篇」に「不以天下大利易其脛一毛」以下の文節、また『荘子』に楊朱の思想を反映した「盗跖篇」が、前漢時代中期までに編まれたと推定されていますから、やはり、「楊朱墨翟之言盈天下」だったのです。

参照資料:
① 中国哲学書電子化計画 https://ctext.org/zh
② 維基文庫 https://zh.wikisource.org/wiki/Wikisource
③ 新釈漢文大系 列子(明治書院)
④ 列子(岩波文庫)
⑤ 中国の思想 第6巻 老子・列子(徳間書店)

列子 卷第七 楊朱篇
第一章
楊朱游於魯、舍於孟氏。孟氏問曰、人而已矣、奚以名為。曰、以名者為富。既富矣、奚不已焉。曰、為貴。既貴矣、奚不已焉。曰、為死。既死矣、奚為焉。曰、為子孫。名奚益於子孫。曰、名乃苦其身、燋其心。乗其名者澤及宗族、利兼郷黨、況子孫乎。凡為名者必廉廉斯貧、為名者必讓讓斯賤。
曰、管仲之相斉也、君淫亦淫、君奢亦奢、志合言従、道行国霸。死之後、管氏而已。田氏之相斉也、君盈則己降、君歛則己施。民皆歸之、因有斉国、子孫享之、至今不絶。
若實名貧、偽名富。曰、實無名、名無實、名者偽而已矣。昔者堯舜偽以天下讓許由、善巻、而不失天下、享祚百年。伯夷、叔斉實以孤竹君讓、而終亡其国、餓死於首陽之山。實偽之辯、如此其省也。

楊朱の魯に游び、孟氏に舍(やど)る。孟氏の問ひて曰く、人は而(おのれ)のみ、奚ぞ以(ま)た名を為す。曰く、以(ゆえ)に名は富を為す。既に富ならば、奚ぞ已(や)まむ。曰く、貴の為なり。既に貴ならば、奚ぞ已まむ。曰く、死の為なり。既に死せば、奚ぞ為さむ。曰く、子孫の為なり。名は奚ぞ子孫を益するや。曰く、名は其の身を苦しめ、其の心を燋く。其の名に乗(よ)らば澤(たく)は宗族に及び、利は郷黨を兼ね、況(いは)むや子孫においておや。凡そ名を為す者は必ず廉廉し貧を斯(わか)ち、名を為す者は必ず讓讓し賤を斯(わか)つ。
曰く、管仲が斉を相(うけつ)ぐや、君が淫ならば亦た淫をなし、君が奢ならば亦た奢をなし、志を合せ言に従がひ、道を行ひ国を霸す。死する後、管氏は而(ま)た已(や)む。田氏が斉を相(うけつ)ぐや、君は盈(のぞ)みて則ち己から降り、君は歛(のぞ)みて則ち己から施す。民は皆之に歸し、因りて斉国は有る、子孫は之を享し、今に至るも絶えず。
若(かくのごと)く貧を名して實ならば、富を名すれば偽なり。曰く、名の無しが實ならば、實の無しは名なり、名は偽にして而に已む。昔の堯・舜は偽を以つて天下の讓許を由(おこな)ひ、善を巻(たわ)むも、而に天下を失わず、祚百年を享す。伯夷・叔斉は實(まこと)を以つて孤竹君を讓(さけ)るも、而に其の国は終(つい)に亡(う)せ、首陽山に餓死す。實偽の辯、此の如し、其を省みむや。

第二章
楊朱曰、百年、壽之大斉。得百年者千無一焉。設有一者、孩抱以逮昏老、幾居其半矣。夜眠之所弭、晝覚之所遺、又幾居其半矣。痛疾哀苦、亡失憂懼、又幾居其半矣。量十數年之中、逌然而自得、亡介焉之慮者、亦亡一時之中爾。
則人之生也、奚為哉、奚楽哉。為美厚爾、為聲色爾。而美厚復不可常厭足、聲色不可常翫聞。乃復為刑賞之所禁勧、名法之所進退、遑遑爾競一時之虛譽、規死後之餘栄、偊偊爾順耳目之観聴、惜身意之是非、徒失當年之至楽、不能自肆於一時。重囚纍梏、何以異哉。
太古之人知生之暫来、知死之暫往。故従心而動、不違自然所好、當身之娛非所去也、故不為名所勧。従性而游、不逆萬物所好、死後之名非所取也、故不為刑所及。名譽先後、年命多少、非所量也。

楊朱の曰く、百年は壽の大斉なり。百年を得る者は千に一は無し。設(も)し一有るとするも、孩抱を以つて昏老に逮ぶまで、幾(ほとん)ど其の半は居すのみ。夜は眠する所のみにして、晝に覚する所を遺すも、又た幾(ほとん)ど其の半は居すのみ。痛疾哀苦、亡失憂懼すも、又た幾(ほとん)ど其の半は居するのみ。十數年の中を量るに、逌然(ゆうぜん)として而るに自得し、介焉(かいえん)の慮の亡きものは、亦た一時の中に亡きことしかり。
則ち人の生くるや、奚(なに)をか為すや、奚(なに)をか楽しまむや。美厚を為すのみ、聲色を為すのみ。而ち美厚は復た常に厭足(えんそく)すべからず、聲色は常に翫聞(がんぶん)すべからず。乃ち復た刑賞の禁勧する所、名法の進退する所を為し、遑遑(こうこう)として、爾(なんじ)、一時の譽を競い、死後の餘栄を規(はか)かり、偊偊(ぐうぐう)として、爾(なんじ)、耳目の観聴に順ひ、身意の是非を惜しみ、徒(いたず)らに當年の至楽を失ひ、自ら一時に肆(ほしいまま)にすること能はず。重囚(ちょうしゅう)纍梏(るいこく)して、何を以つて異ならむや。
太古の人は生の暫来するを知り、死の暫往することを知る。故に心に従いて而に動き、自然の好む所に違わず、當に身の娛するを去る所に非ずなり、故に名を為す所を勧めず。性に従いて而に游び、萬物の好む所に逆らわず、死後の名を取る所に非ずなり、故に刑を為す所に及ばず。名譽の先後、年命の多少、量る所に非らざるなり。

第三章
楊朱曰、萬物所異者生也、所同者死也。生則有賢愚貴賤、是所異也、死則有臭腐消滅、是所同也。雖然、賢愚貴賤非所能也、臭腐消滅、亦非所能也。故生非所生、死非所死、賢非所賢、愚非所愚、貴非所貴、賤非所賤。然而萬物斉生斉死、斉賢斉愚、斉貴斉賤。十年亦死、百年亦死、仁聖亦死、凶愚亦死。生則堯舜、死則腐骨、生則桀紂、死則腐骨。腐骨一矣、孰知其異。且趣當生、奚遑死後。

楊朱の曰く、萬物の異(い)なる所のものは生なり、同(どう)なる所のものは死なり。生と則(な)れば賢愚貴賤が有り、是の所は異なり、死と則(な)れば臭腐消滅が有り、是の所は同なり。雖だ然るに、賢愚貴賤は能(およ)ぶ所に非ずなり、臭腐消滅、亦た能(およ)ぶ所に非ずなり。故に生は生ずる所に非ず、死は死する所に非ず、賢は賢なる所に非ず、愚は愚なる所に非ず、貴は貴なる所に非ず、賤は賤なる所に非ず。然らば而ち萬物は斉生し斉死し、斉賢し斉愚し、斉貴し斉賤なり。十年亦た死(う)せ、百年亦た死(う)せ、仁聖も亦た死(う)せ、凶愚も亦た死(う)す。生きて堯舜と則(な)るも、死すれば腐骨と則(な)り、生きて桀紂と則(な)るも、死すれば腐骨と則(な)る。腐骨は一なり、孰(いず)れぞ其の異を知らむ。且た當生を趣(そく)し、奚ぞ死後に遑(こう)せむや。

第四章
楊朱曰、伯夷非亡欲、矜清之卸、以放餓死。展李非亡情、矜貞之卸、以放寡宗。清貞之誤善之若此。

楊朱の曰く、伯夷は欲を亡(なく)すに非ず、清を矜(ほこ)りて之を卸(かた)り、以つて餓死に放(おわ)る。展李は情を亡(なく)すに非ず、貞を矜(ほこ)りて之を卸(かた)り、以つて寡宗に放(おわ)る。清貞の誤善、之は此の若し。

第五章
楊朱曰、原憲窶於魯、子貢殖於衛。原憲之窶損生、子貢之殖累身。然則窶亦不可、殖亦不可、其可焉在。曰、可在楽生、可在逸身。故善楽生者不窶、善逸身者不殖。

楊朱の曰く、原憲(げんけん)は魯に窶(ひん)し、子貢(しこう)は衛に殖(しょく)なり。原憲の之の窶は生を損なひ、子貢の之の殖は身を累(わずらわ)す。然らば則ち窶は亦た可ならず、殖も亦た可ならず。其の可は焉(いずく)むぞ在らむや。曰く、可は楽生に在り、可は逸身に在り。故に善く楽生する者は窶ならず、善く逸身する者は殖ならず。

第六章
楊朱曰、古語有之、生相憐、死相捐。此語至矣。相憐之道、非唯情也、勤能使逸、饑能使飽、寒能使溫、窮能使達也。相捐之道、非不相哀也。不含珠玉、不服文錦、不陳犧牲、不設明器也。

楊朱の曰く、古語に之有り、生は相ひ憐(あはれ)み、死は相ひ捐(す)つ。此の語は至らむや。相憐(そうりん)の道は、唯だ情に非ずなり、勤に能く使逸し、饑に能く使飽し、寒に能く使溫し、窮に能く使達するなり。相捐(そうえん)の道は、相ひ哀しまざるに非ずなり。珠玉を含ませず、文錦を服(き)せず、犧牲を陳(つら)ねず、明器を設けずなり。

第七章
晏平仲問養生於管夷吾。管夷吾曰、肆之而已、勿壅勿閼。晏平仲曰、其目柰何。夷吾曰、恣耳之所欲聴、恣目之所欲視、恣鼻之所欲向、恣口之所欲言、恣體之所欲安、恣意之所欲行。夫耳之所欲聞者音聲、而不得聴、謂之閼聰、目之所欲見者美色、而不得視、謂之閼明、鼻之所欲向者椒蘭、而不得嗅、謂之閼顫、口之所欲道者是非、而不得言、謂之閼智、體之所欲安者美厚、而不得従、謂之閼適、意之所欲為者放逸、而不得行、謂之閼性。
凡此諸閼、廢虐之主。去廢虐之主、熙熙然以俟死、一日一月一年十年、吾所謂養。拘此廢虐之主、錄而不舍、戚戚然以至久生、百年千年萬年、非吾所謂養。管夷吾曰、吾既告子養生矣、送死柰何。晏平仲曰、送死略矣、將何以告焉。
管夷吾曰、吾固欲聞之。平仲曰、既死、豈在我哉。焚之亦可、沈之亦可、瘞之亦可、露之亦可、衣薪而棄諸溝壑亦可、袞文繡裳而納諸石椁亦可、唯所遇焉。管夷吾顧謂鮑叔黃子曰、生死之道、吾二人進之矣。

晏(あん)平仲(へいちゅう)の生を養うを管(かん)夷吾(いご)に問う。管夷吾の曰く、之を肆(ほしいまま)にするのみ、壅(ふさ)ぐこと勿かれ閼(さへぎ)ること勿かれ。晏平仲の曰く、其の目は柰何(いかん)や。夷吾の曰く、耳の聴くを欲する所を恣(ほしいまま)にし、目の視るを欲する所を恣(ほしいまま)にし、鼻の向くを欲する所を恣(ほしいまま)にし、口の言うを欲する所を恣(ほしいまま)にし、體の安するを欲する所を恣(ほしいまま)にし、意の行うを欲する所を恣(ほしいまま)にす。
夫れ耳の聞くを欲する所のものは音聲なり、而に聴くを得ずを、之を閼聰(あつそう)と謂ふ、目の見るを欲する所のものは美色なり、而に視るを得ずは、之を閼明(あつめい)と謂ふ、鼻の向くを欲する所のものは椒蘭(しょうらん)なり、而に嗅ぐを得ずは、之を閼顫(あつせん)と謂ふ、口の道するを欲する所のものは是非なり、而に言ふを得ずは、之を閼智(あつち)と謂ふ、體の安するを欲する所のものは美厚なり、而に従ふことを得ずは、之を閼適(あつてき)と謂ふ、意の為すを欲する所のものは放逸なり、而に行ふを得ずは、之を閼性(あつせい)と謂ふ。
凡そ此の諸(もろもろ)の閼(えん)、廢虐の主なり。廢虐の主を去り、熙熙(きき)、然として以つて死を俟(ま)たば、一日一月一年十年、吾が養と謂ふ所なり。此の廢虐の主に拘われ、錄して而に舍てず、戚戚(せきせき)、然として以つて久生に至らば、百年千年萬年、吾が養と謂ふ所に非ず。
管夷吾の曰く、吾は既に子に生を養うを告げたり、死を送るは柰何(いかん)。晏平仲の曰く、死を送るは略なり、將に何ぞ以つて告げむ。管夷吾の曰く、吾は固(ふたた)び之を聞くを欲す。平仲の曰く、既に死すれば、豈に我は在らむや。之を焚くも亦た可なり、之を沈むも亦た可なり、之を瘞(うず)むるも亦た可なり、之を露(さら)すも亦た可なり、衣薪して而に諸(これ)を溝壑に棄つるも亦た可なり、袞文(こんい)繡裳(しゅうしょう)して而に諸(これ)を石椁に納むも亦た可なり、唯だ遇(かな)ふ所なり。管夷吾は顧みて鮑叔・黃子に謂ひて曰く、生死の道、吾は二人に之を進めむ。

第八章
子産相鄭、專国之政三年、善者服其化、悪者畏其禁、鄭国以治。諸侯憚之。而有兄曰公孫朝、有弟曰公孫穆。朝好酒、穆好色。
朝之室也、聚酒千鐘、積麴成封、望門百步、糟漿之気逆於人鼻。方其荒於酒也、不知世道之安危、人理之悔吝、室内之有亡、九族之親踈、存亡之哀楽也。雖水火兵刃交於前、弗知也。
穆之後庭、比房數十、皆擇稚歯娞媠者以盈之。方其聃於色也、屏親昵、絶交游、逃於後庭、以晝足夜、三月一出、意猶未愜。郷有處子之娥姣者、必賄而招之、媒而挑之、弗獲而後已。
子産日夜以為戚、密造鄧析而謀之。曰、喬聞治身以及家、治家以及国、此言自於近至於遠也。喬為国則治矣、而家則乱矣。其道逆邪。將奚方以救二子、子其詔之。鄧析曰、吾怪之久矣。未敢先言。子奚不時其治也、喩以性命之重、誘以禮義之尊乎。
子産用鄧析之言、因閒以謁其兄弟、而告之曰、人之所以貴於禽獣者智慮、智慮之所將者禮義。禮義成、則名位至矣。若触情而動、聃於嗜慾、則性命危矣。子納喬之言、則朝自悔、而夕食祿矣。
朝、穆曰、吾知之久矣、擇之亦久矣、豈待若言而後識之哉。凡生之難遇、而死之易及。以難遇之生、俟易及之死、可孰念哉。而欲尊禮義以夸人、矯情性以招名、吾以此為弗若死矣。為欲盡一生之歓、窮當年之楽。唯患腹溢而不得恣口之飲、力憊而不得肆情於色、不遑憂名聲之醜、性命之危也。且若以治国之能夸物、欲以説辭乱我之心、栄祿喜我之意。不亦鄙而可憐哉。我又欲與若別之。
夫善治外者、物未必治、而身交苦、善治内者、物未必乱、而性交逸。以若之治外、其法可蹔行於一国、未合於人心。以我之治内、可推之於天下、君臣之道息矣。吾常欲以此術而喩之、若反以彼術而教我哉。
子産忙然無以應之。他日以告鄧析。鄧析曰、子與真人居而不知也、孰謂子智者乎。鄭国之治偶耳、非子之功也。

子産(しさん)は鄭の相にして、国の政を專すること三年、善者は其の化に服し、悪者は其の禁を畏れ、鄭国は以つて治まる。諸侯は之を憚る。而(ま)た兄有りて曰く公孫朝、弟有りて曰く公孫穆。朝は酒を好み、穆は色を好む。
朝の室や、聚酒千鐘、積麴成封、門を望むこと百步にして、糟漿の気は人鼻に逆(むか)ふ。方(まさ)に其は酒に荒(おぼ)れ、世道の安危を知らず、人は之の悔吝を理(さと)し、室内に之の亡は有り、九族は之を親踈し、之の哀楽に亡は存す。雖だ前に水火兵刃の交わるを、知らず。
穆の後庭、房は數十を比べ、皆、稚歯娞媠なる者を擇(えら)びて以つて之を盈(みた)す。方(まさ)に其は色に聃(ふ)け、屏は親昵にして、游を交へるを絶ち、後庭に逃げ、晝を以つて夜に足し、三月に一も出ず、意は猶ほ未だ愜(みちた)らず。郷に處子の娥姣(がこう)の有るは、必ず賄(まいな)いて而して之を招き、媒(なかだち)して而して之に挑み、獲ずして而して後に已む。
子産は日夜を以つて戚(うれい)を為し、密かに鄧析を造(おく)り而して之を謀(はかりごと)す。曰く、喬(きょう)は、家に及ぶを以つて身を治め、国に及ぶを以つて家を治むと聞き、此の言は近き自り遠きに至る。喬(きょう)は、国を為し則ち治まるも、而(しかる)に家は則ち乱れむ。其の道は逆邪なり。將に奚(なむ)ぞ方(まさ)に以つて二子を救ひ、子は其の之を詔(め)さむ。鄧析の曰く、吾は之を久しく怪しまむ。未だ敢て先を言はず。子は奚ぞ其の治むる時はあらざるや、性命の重きを以つて喩し、禮義の尊きを以つて誘はむ。
子産は鄧析の言を用い、閒(ひま)に因り以つて其の兄弟に謁(えつ)し、而た之を告げて曰く、人の禽獣に於いて貴しを以つてするものは智慮する所、智慮の之(おこな)ふ所は將に禮義なり。禮義は成り、則ち名位は至る。若(なむ)ぞ情に触れ而た動かむ、嗜慾に聃(ふ)けば、則ち性命は危し。子は喬(きょう)の之の言を納(い)れ、則ち朝には自らを悔ひ、而(しかる)に夕には祿を食むや。
朝、穆の曰く、吾は之の久しを知る、之を擇び亦た久し、豈に若(なんじ)の言を待ち而して後に之を識らむや。凡そ生は遇(あ)ひ難く、而(しかる)に死は及び易し。難遇の生を以つて、易及の死を俟(ま)たむ、孰か念ず可し。而(なんじ)、禮義を尊ぶを以つて人に夸(おご)り、情性を矯むを以つて名を招(まね)かむを欲すも、吾は以つて此を為すも若(かくのごと)く死なず。一生の歓を盡し、當年の楽を窮めむを欲するを為す。唯だ腹溢を患ひ而して恣(ほしいまま)に口に飲むを得ず、力は憊(つか)れ而して肆(ほしいまま)に色に情を得ず、名聲の醜きと性命は危きことの憂ふを遑(こう)せずなり。且(か)つ、若(なんじ)、国を治める能を以つて物を夸(おご)り、説辭を以つて我が心を乱し、栄祿をして我の意を喜ばさむを欲す。亦た鄙(いやし)くして而(しかる)に憐れむ可きにあらずや。我は又た若(なんじ)の之を別(ときあか)さむを欲す。
夫れ善く外を治める者は、物は未だ必ずしも治まらずして、而に身は交(こもご)も苦しみ、善く内を治める者は、物は未だ必ずしも乱れずして、而に性は交(こもご)も逸(らく)す。若(なんじ)、外を治むるを以つてするは、其の法は蹔く一国に於いて行ふ可くも、未だ人の心に合わず。我の内を治むるを以つてすれば、天下に之を推(およぼ)すべく、君臣の道は息(や)む可し。吾、常に此の術(すべ)を以つてし而して之を喩すを欲するに、若(なんじ)、反りて彼の術を以つて而して我に教えむとするや。
子産は忙然として以つて之に應ふは無し。他日、以つて鄧析に告ぐ。鄧析の曰く、子は真人と居りて而に知らずや、孰ぞ子を智者と謂はむ。鄭国の治は偶(たまたま)のみ、子の功に非ずなり。

第九章
衛端木叔者、子貢之世也。藉其先貲、家累萬金。不治世故、放意所好。其生民之所欲為、人意之所欲玩者、無不為也、無不玩也。牆屋臺榭、園囿池沼、飲食車服、聲楽嬪御、擬斉楚之君焉。至其情所欲好、耳所欲聴、目所欲視、口所欲嘗、雖殊方偏国、非斉土之所産育者、無不必致之、猶藩牆之物也。及其游也、雖山川阻険、塗逕脩遠、無不必之。猶人之行咫步也。
賓客在庭者日百住、庖廚之下、不絶煙火、堂廡之上、不絶聲楽。奉養之餘、先散之宗族、宗族之餘、次散之邑里、邑里之餘、乃散之一国。行年六十、気幹將衰、棄其家事、都散其庫藏、珍寶、車服、妾媵、一年之中盡焉、不為子孫留財。及其病也、無薬石之儲、及其死也、無瘞埋之資。一国之人、受其施者相與賦而藏之、反其子孫之財焉。
禽骨釐聞之、曰、端木叔狂人也、辱其祖矣。段干生聞之、曰、端木叔達人也、徳過其祖矣。其所行也、其所為也、聚意所驚、而誠理所取。衛之君子多以禮教自持。固未足以得此人之心也。

衛の端(たん)木叔(ぼくしゅく)は、子貢の世(よつぎ)なり。其の先貲(せんし)を藉(たよ)り、家に萬金を累ねむ。世故を治めず、意は好む所に放つ。其の生民の為すを欲する所、人意の玩(もてあそ)ぶを欲する所のもの、為さざるは無く、玩(もてあそ)ばざるは無しなり。牆屋臺榭、園囿池沼、飲食車服、聲楽嬪御、斉・楚の君に擬(なぞ)らえむ。其の情の好を欲する所、耳の聴くを欲する所、目の視るを欲する所、口の嘗(な)めむるを欲する所に至るも、雖だ殊方(しゅほう)、偏国(へんこく)、斉土の之を産育する所に非ずもの、之を致すを必(な)さざるは無く、猶ほ藩牆(はんしょう)の物なり。其の游に及ぶや、雖だ山川阻険、塗逕脩遠、之を必(な)さざるは無し。猶ほ人の之を咫步して行くがごとし。
賓客の庭に在る者は日に百をもて住(かぞ)へ、庖廚の下、煙火は絶えず、堂廡の上、聲楽は絶えず。奉養の餘、先に之を宗族を散じ、宗族の餘、次に之を邑里を散じ、邑里の餘、乃ち之を一国を散ず。行年六十、気幹は將に衰へ、其の家事を棄て、都(ことごと)く其の庫藏、珍寶、車服、妾媵を散じ、一年の中に盡し、子孫に留財を為さず。其の病に及ぶや、薬石の儲(そなえ)は無く、其の死に及ぶや、瘞埋(えいまい)の資は無し。一国の人、其の施を受くる者は相ひ賦(わか)ちて與に而(ま)た之を藏(う)め、其の子孫に之の財を反(かへ)す。
禽(きん)骨釐(こつり)の之を聞き、曰く、端(たん)木叔(ぼくしゅく)は狂人なり、其の祖を辱(はずかしめ)む。段(だん)干生(かんせい)の之を聞き、曰く、端木叔は達人なり、徳は其の祖を過ぐ。其の行ふ所や、其の為す所や、聚意の驚する所にして、而た誠理の取る所なり。衛の君子は多いに以つて禮教を自ら持す。固(なむ)ぞ未だ以つて此の人の心を得るを足らざらむや。

第十章
孟孫陽問楊子曰、有人於此、貴生愛身、以蘄不死、可乎。曰、理無不死。以蘄久生、可乎。曰、理無久生。生非貴之所能存、身非愛之所能厚。且久生奚為。五情好悪、古猶今也、四體安危、古猶今也、世事苦楽、古猶今也、変易治乱、古猶今也。既聞之矣、既見之矣、既更之矣、百年猶厭其多、況久生之苦也乎。
孟孫陽曰、若然、速亡愈於久生、則踐鋒刃、入湯火、得所志矣。楊子曰、不然。既生、則廢而任之、究其所欲、以俟於死。將死則廢而任之、究其所之、以放於盡。無不廢、無不任、何遽遅速於其閒乎。

孟(もう)孫陽(そんよう)の楊子に問いて曰く、此に人有り、生を貴とび身を愛し、以つて不死を蘄(き)すは、可なるか。曰く、不死に理は無し。以つて久生を蘄すは、可なるか。曰く、久生に理は無し。生は之の存を能くする所を貴しとするに非ず、身は之の厚く能くする所を愛するに非ず。且た久生は奚(なに)を為さむ。五情好悪にして、古は猶ほ今なり、四體安危にして、古は猶ほ今なり、世事苦楽にして、古は猶ほ今なり、変易治乱にして、古は猶ほ今なり。既に之を聞き、既に之を見、既に之を更(あらた)め、百年猶ほ其の多を厭ひ、況や久生は之を苦しまむ。
孟孫陽の曰く、然るが若く、速かに久生に亡愈(ぼうゆ)するは、則ち鋒刃を踐(ふ)み、湯火に入り、志す所を得む。楊子の曰く、然らず。既に生くば則ち廢し而た之を任せ、其の欲する所を究め、以つて死を俟(ま)つ。將に死せば則ち廢し而た之を任せ、其の之(かな)ふ所を究め、以つて盡くるに放(まか)す。廢せずは無く、任せずは無し、何遽ぞ其の閒に遅速はあらむや。

第十一章
楊朱曰、伯成子高不以一毫利物、舍国而隱耕。大禹不以一身自利、一體偏枯。古之人損一毫利天下不與也、悉天下奉一身不取也。人人不損一毫、人人不利天下、天下治矣。
禽子問楊朱曰、去子體之一毛、以済一世、汝為之乎。楊子曰、世固非一毛之所済。禽子曰、假済、為之乎。楊子弗應。禽子出、語孟孫陽。
孟孫陽曰、子不達夫子之心、吾請言之。有侵若肌膚獲萬金者、若為之乎。曰、為之。孟孫陽曰、有斷若一節得一国、子為之乎。禽子默然。有閒、孟孫陽曰、一毛微於肌膚、肌膚微於一節、省矣。然則積一毛以成肌膚、積肌膚以成一節。一毛固一體萬分中之一物、柰何軽之乎。禽子曰、吾不能所以荅子。然則以子之言問老聃、關尹、則子言當矣、以吾言問大禹、墨翟、則吾言當矣。孟孫陽因顧與其徙説他事。

楊朱の曰く、伯成(はくせい)子高(しこう)は一毫を以つて物を利せず、国を舍て而に隱れ耕せり。大禹は一身を以つて自ら利せず、一體を偏枯(へんこ)せり。古の人の一毫を損して天下を利するも與(くみ)せざるなり、天下を悉(つく)して一身に奉ずるも取らざるなり。人人、一毫を損せず、人人、天下を利せざれば、天下は治まる。
禽子(きんし)の楊朱に問ひて曰く、子が體の一毛を去りて、以つて一世を済(すく)ふならば、汝は之を為さむか。楊子の曰く、世は固(もとよ)り一毛の済(すく)ふ所に非ず。禽子の曰く、假(かり)に済(すく)はば、之を為すか。楊子は應へず。禽子は出でて、孟孫陽に語る。
孟孫陽の曰く、子は夫子の心に達せざるなり、吾は請ひて之を言ふ。若(なんじ)の肌膚を侵して萬金を獲(え)ること有らば、若(なんじ)は之を為すか。曰く、之を為す。孟孫陽の曰く、若(なんじ)の一節を斷ちて一国を得ること有らば、子は之を為すか。禽子は默然たり。閒(ま)有りて、孟孫陽の曰く、一毛は肌膚より微なり、肌膚は一節より微なり、省(あき)らかなり。然らば則ち一毛を積みて以つて肌膚を成し、肌膚を積みて以つて一節を成す。一毛は固(もと)より一體の萬分中の一物なり、柰何(いかん)ぞ之を軽むぜむや。禽子の曰く、吾は以つて子に荅(こた)ふる所は能はず。然らば則ち子の言を以つて老聃(ろうたん)・關尹(かんいん)に問はば、則ち子の言は當たらむ、吾が言を以つて大禹(たいう)・墨翟(ぼくてき)に問はば、則ち吾の言は當たらむ。孟孫陽は因りて顧みて其の徙と與に他事を説く。

第十二章
楊朱曰、天下之美歸之舜、禹、周、孔、天下之悪歸之桀、紂。然而舜耕於河陽、陶於雷澤、四體不得蹔安、口腹不得美厚、父母之所不愛、弟妹之所不親。行年三十、不告而娶。及受堯之禅、年已長、智已衰。商鈞不才、禅位於禹、戚戚然以至於死、此天人之窮毒者也。
鯀治水土、績用不就、殛諸羽山。禹纂業事讎、惟荒土功、子産不字、過門不入、身體偏枯、手足胼胝。及受舜禅、卑宮室、美紱冕、戚戚然以至於死、此天人之憂苦者也。
武王既終、成王幼弱、周公攝天子之政。邵公不悅、四国流言。居東三年、誅兄放弟、僅免其身、戚戚然以至於死、此天人之危懼者也。
孔子明帝王之道、應時君之聘、伐樹於宋、削迹於衛、窮於商周、圍於陳蔡、受屈於季氏、見辱於陽虎、戚戚然以至於死、此天民之遑遽者也。
凡彼四聖者、生無一日之歓、死有萬世之名。名者、固非實之所取也。雖稱之弗知、雖賞之不知、與株塊無以異矣。
桀藉累世之資、居南面之尊、智足以距群下、威足以震海内、恣耳目之所娛、窮意慮之所為、熙熙然以至於死。此天民之逸蕩者也。
紂亦藉累世之資、居南面之尊、威無不行、志無不従、肆情於傾宮、縱欲於長夜、不以禮義自苦、熙熙然以至於誅。此天民之放縱者也。
彼二凶也、生有従欲之歓、死被愚暴之名。實者固非名之所與也、雖毀之不知、雖稱之弗知、此與株塊奚以異矣。彼四聖雖美之所歸、苦以至終、同歸於死矣。彼二凶雖悪之所歸、楽以至終、亦同歸於死矣。

楊朱の曰く、天下の美(よし)、之は舜・禹・周・孔に歸す、天下の悪(あし)、之は桀・紂に歸す。然らば舜は河陽に耕し、雷澤に陶し、四體は蹔安を得ず、口腹は美厚を得ず、父母は之を愛(いつく)しまず所、弟妹は親しまず所なり。行年三十にして、告せずして娶る。堯の禅を受くに及び、年は已に長し、智は已に衰える。商鈞は不才にして、禹に禅位し、戚戚、然として以つて死に至る、此は天人の窮毒者なり。
鯀は水土を治め、用を績(つむ)ぐも就(と)げず、諸(これ)を羽山に殛(ちゅう)す。禹は業(ぎょう)を纂(つ)ぎ讎(にん)を事す、惟だ荒土に功(いそし)み、子を産むも字(あい)せず、門を過ぎるも入らず、身體は偏枯し、手足は胼胝す。舜の禅を受けるに及び、宮室は卑(おとろ)へ、紱冕(はいべん)は美(おほい)なり、戚戚、然として以つて死に至る、此は天人の憂苦者なり。
武王は既に終え、成王は幼弱、周公は天子の政を攝(と)る。邵公は悅(よろこ)ばず、四国は言を流す。東に三年居し、兄を誅し弟を放ち、僅に其の身を免れ、戚戚、然として以つて死に至る、此は天人の危懼者なり。
孔子は帝王の道を明らかにし、時君の聘(へい)に應じ、樹を宋に伐(き)られ、迹(おこない)を衛に削(けず)られ、商周に窮(きわ)み、陳蔡に圍(かこ)まれ、屈(くつじょく)を季氏に受け、陽虎に辱(はずかしめ)を見、戚戚、然として以つて死に至る、此は天民の遑遽者なり。
凡そ彼の四聖は、生きて一日の歓無く、死して萬世の名有り。名は、固より實の取る所に非ず。之の稱(ほむる)を知らずと雖(いえ)ども、之の賞(しょうする)を知らずと雖ども、株塊(しゅかい)と與に以つて異は無し。
桀は累世の資を藉(せき)し、南面の尊に居し、智は以つて群下を距(ふせ)ぐに足り、威は以つて海内を震(ふる)はすに足る、耳目は之の娛する所を恣(ほしいまま)にし、意慮の為す所を窮め、熙熙、然として以つて死に至る。此は天民の逸蕩者なり。
紂は亦た累世の資を藉(せき)し、南面の尊に居し、威を行はずは無く、志の従はずは無く、傾宮に情を肆(ほしいまま)にし、長夜に欲を縱(ほしいまま)にし、禮義を以つて自ら苦まず、熙熙、然として以つて誅に至る。此は天民の放縱者なり。
彼は二凶なり、生きて歓の欲に従うは有り、死して愚暴の名を被むる。實は固より名は之を與にする所に非ずなり、毀(そしる)は之を知らずと雖(いえ)ども、稱(ほむる)は之を知らずと雖ども、此の株塊(しゅかい)と與に奚(なむ)ぞ以つて異ならむや。彼の四聖は雖だ美の歸する所、苦は以つて終に至り、同(とも)に死に歸す。彼の二凶は雖だ悪の歸す所にして、楽は以つて終に至り、亦た同(とも)に死に歸すなり。

第十三章
楊朱見梁王、言治天下如運諸掌。梁王曰、先生有一妻一妾而不能治、三畝之園而不能芸。而言治天下如運諸掌、何也。
對曰、君見其牧羊者乎。百羊而群、使五尺童子荷箠而隨之、欲東而東、欲西而西。使堯牽一羊、舜荷箠而隨之、則不能前矣。且臣聞之、吞舟之魚、不游枝流、鴻鵠高飛、不集汙池。何則、其極遠也。黃鐘大呂不可従煩奏之舞。何則、其音䟽也。將治大者不治細、成大功者不成小、此之謂矣。

楊朱は梁王に見(まみ)えて、天下の諸(これ)を掌(たなごころ)に運(めぐら)すが如く治むと言う。梁王の曰く、先生に一妻一妾有るも而(しかる)に能く治さめず、三畝の園も而(しかる)に能く芸(う)へず、而(しかる)に天下の諸(これ)を掌(たなごころ)に運(めぐら)すが如く治めると言う、何ぞや。
對へて曰く、君は其の牧羊者を見るか。百羊の群するに、五尺の童子を使て荷(はっか)を箠(ふ)きて而して之を隨(したが)はせしめ、東を欲せば而(ま)に東、西を欲せば而(ま)に西。堯をして一羊を牽(ひ)かせ、舜をして荷(はっか)を箠(ふ)きて而に之を隨(したが)は使しめむも、則るに能く前(すす)めずなり。且だ臣は之を聞く、吞舟の魚、枝流に游(およ)がず、鴻鵠(こうこく)は高く飛ぶも、汙池(おち)に集(つど)らず。何と則(な)る、其は極めて遠(かなは)ずなり。黃鐘大呂は煩奏の舞に従う可からず。何と則(な)る、其の音は䟽なり。將に大を治める者は細を治めず、大功を成す者は小を成さず、此は之を謂ふなり。

第十四章
楊朱曰、太古之事滅矣、孰誌之哉。三皇之事、若存若亡、五帝之事、若覚若夢、三王之事、或隱或顯、億不識一。當身之事、或聞或見、萬不識一。目前之事或存或廢、千不識一。太古至于今日、年數固不可勝紀。但伏羲已来三十餘萬歲、賢愚好醜、成敗是非、無不消滅、但遅速之閒耳。矜一時之毀譽、以焦苦其神形、要死後數百年、中餘名、豈足潤枯骨。何生之楽哉。

楊朱の曰く、太古の事は滅し、孰か之を誌(し)るすや。三皇の事、存の若(ごと)く亡の若し、五帝の事、覚(うつつ)の若く夢(ゆめ)の若し、三王の事、或は隱(かく)れ或は顯(あらわ)れるも、億の一も識らず。當身の事、或は聞き或は見るも、萬の一も識らず。目前の事、或は存し或は廢すも、千の一も識らず。太古より今日に至るも、年の數は固より紀を勝(まさ)る可からず。但だ伏羲、已来(いらい)、三十餘萬歲にして、賢愚好醜、成敗是非の、消滅せずは無く、但だ之の遅速の閒(かん)のみ。一時の毀譽を矜(ほこ)り、以つて其の神形を焦苦し、死後に數百年を要し、名を餘くに中(あ)てる、豈に枯骨を潤するに足らむや。何ぞ生に之を楽しまむや。

第十五章
楊朱曰、人肖天地之類、懷五常之性、有生之最靈者人也。
人者、爪牙不足以供守衛、肌膚不足以自捍禦、趨走不足以従逃利害、無毛羽以禦寒暑、必將資物以為養、性任智而不恃力。故智之所貴、存我為貴、力之所賤、侵物為賤。
然身非我有也、既生不得不全之、物非我有也、既有不得而去之。身固生之主、物亦養之主。雖全生身、不可有其身。雖不去物、不可有其物。有其物、有其身、是橫私天下之身、橫私天下之物。不橫私天下之身、不橫私天下物者、其唯聖人乎。公天下之身、公天下之物、其唯至人矣。此之謂至至者也。

楊朱の曰く、人は天地の類に肖(に)て、五常の性を懷(いだ)き、有生の最も靈なる者は人なり。
人は、爪牙は以つて守衛に供するに足らず、肌膚は以つて自ら捍禦するに足らず、趨走は以つて利害を従逃するに足らず、毛羽は以つて寒暑を禦するは無し、必ず將に資物を以つて養を為し、性は智に任かせ而た力に恃まず。故に智は貴き所にして、我の存するを貴と為し、力は賤なる所にして、物を侵すを賤と為す。
然れども身は我が有に非ざるにして、既に生ずれば、之を全ったくせざるを得ず、物は我が有に非ずして、既に有を得れば而た之を去らず。身は固り生の主にして、物は亦た養の主なり。全ったく身を生かすと雖(いえ)ども、其の身を有す可からず。物を去らずと雖ども、其の物を有する可からず。其の物を有し、其の身を有するは、是は天下の身を橫私し、天下の物を橫私するなり。天下の身を橫私せずして、天下の物は橫私せずするは、其は唯だ聖人か。天下の身を公(おおやけ)にし、天下の物を公にするは、其は唯だ至人なり。此を至至(しし)の者と謂ふなり。

第十六章
楊朱曰、生民之不得休息、為四事故、一為壽、二為名、三為位、四為貨。有此四者、畏鬼、畏人、畏威、畏刑。此謂之遁人也。
可殺可活、制命在外。不逆命、何羨壽。不矜貴、何羨名。不要勢、何羨位。不貪富、何羨貨。此之謂順民也。
天下無對、制命在内、故語有之。曰、人不婚宦、情欲失半、人不衣食、君臣道息。
周諺曰、田父可坐殺。晨出夜入、自以性之恆、啜菽茹藿、自以味之極、肌肉麁厚、筋節巻急、一朝處以柔毛綈幕、薦以粱肉蘭橘、心厭體煩、内熱生病矣。商魯之君與田父侔地、則亦不盈一時而憊矣。
故野人之所安、野人之所美、謂天下無過者。昔者宋国有田夫、常衣縕蕡、僅以過冬。届春東作、自曝於日、不知天下之有廣廈隩室、綿纊狐狢。顧謂其妻曰、負日之煊、人莫知者、以獻吾君、將有重賞。里之富室告之曰、昔人有美戎菽、甘枲莖、芹萍子者、對郷豪稱之。郷豪取而嘗之、蜇於口、惨於腹。衆哂而怨之、其人大慚。子、此類也。

楊朱の曰く、生民の休息するを得ざるは、四事の故なり、一は壽なり、二は名なり、三は位なり、四は貨なり。此の四の有る者は、鬼を畏れ、人を畏れ、威を畏れ、刑を畏る。此は之を遁人(とんじん)と謂ふなり。
殺す可し活す可し、命を制すること外に在り。命に逆らわずば、何ぞ壽を羨(うらや)まむ。貴に矜(ほこ)らずは、何ぞ名を羨(うらや)まむ。勢を要せずば、何ぞ位を羨(うらや)まむ。富を貪(むさぼ)らずば、何ぞ貨を羨(うらや)まむ。此は之を順民(じゅんみん)と謂ふなり。
天下に對するは無く、命を制すること内に在り、故に語に之は有り。曰く、人の婚宦せざれば、情欲は半ばを失ひ、人の衣食せざれば、君臣の道は息(や)まむ。
周の諺に曰く、田父は坐殺(ざさつ)す可し。晨(あした)に出で夜に入り、自ら以(おも)へらく性は之を恆(つね)にし、菽(しょく)を啜(くら)ひ藿(くわく)を茹(くら)ひて、自ら以つて味は之を極め、肌肉(きにく)麁厚(そうこう)、筋節(きんせつ)巻急(けんきゅう)にして、一朝、處(お)らしむに柔毛(じゅうもう)綈幕(ていまく)を以つて、薦(すす)むるに粱肉(りょうにく)蘭橘(らんきつ)を以つてすれば、心は厭(むすぼ)れ體は煩(つか)れ、内熱して病を生ぜむ。商魯の君と與に田父は地を侔(おなじ)くし、則ち亦た一時に盈さずして而して憊(つか)れむ。
故に野人の安むずる所、野人の美しとする所、謂く天下に過ぐる者無きなり。昔に宋国に田夫有り、常に縕蕡(おんひ)を衣(き)て、僅に以つて冬を過ぐ。春に届(およ)びて東作し、自ら日に曝らし、天下に廣廈(こうかい)隩室(くしつ)、綿纊(めんこう)狐狢(こうかく)の有るを知らず。顧(かえり)みて其の妻に謂ひて曰く、日を負ひて煊(あたたか)し、人の知るもの莫し、以つて吾が君に獻じ、將に重賞は有らむ。里の富室は之を告げて曰く、昔の人に戎菽(じゅうしゅく)・甘枲莖(かんしけい)・芹萍子(きんへいし)を美(うま)しとするもの有り、郷豪に對に之を稱(すす)む。郷豪は取りて而して之を嘗むも、口を蜇(さ)し、腹は惨(いた)む。衆は哂(わら)ひて而るに之を怨む、其の人は大ひに慚ず。子、此の類なり。

第十七章
楊朱曰、豊屋美服、厚味姣色、有此四者、何求於外。有此而求外者、無猒之性。無猒之性、陰陽之蠹也。
忠不足以安君、適足以危身。義不足以利物、適足以害生。安上不由於忠、而忠名滅焉、利物不由於義、而義名絶焉。君臣皆安、物我兼利、古之道也。
鬻子曰、去名者無憂。老子曰、名者實之賓。而悠悠者趨名不已。名固不可去。名固不可賓邪。今有名則尊栄、亡名則卑辱、尊栄則逸楽、卑辱則憂苦。憂苦、犯性者也、逸楽、順性者也、斯實之所係矣。名胡可去。名胡可賓。但悪夫守名而累實。守名而累實、將恤危亡之不救、豈徒逸楽憂苦之閒哉。

楊朱の曰く、豊屋美服、厚味姣色、此の四つのもの有らば、何ぞ外に求めむ。此を有りて而(ま)た外に求める者は、猒(あ)く無きの性(さが)なり。猒く無きの性は、陰陽の蠹(しみ)なり。
忠は以つて君を安(やす)むに足らず、適(とき)に、以つて身の危(あやう)くするに足る。義は以つて物を利するに足らず、適に、以つて生を害するに足る。上を安(やす)むずるに忠に由(したが)はずば、而た忠の名は滅し、物を利するには義に由(したが)はずば、而た義の名は絶える。君臣の皆は安むじ、物我を兼ね利するは、古の道なり。
鬻子(いくし)の曰く、名を去る者は憂ひ無し。老子の曰く、名は實(まこと)にして之に賓(したが)ふ。而た悠悠、名に趨(おもむ)くは已まず。名は固(もと)より去る可からず。名は固(もと)より賓邪する可からず。今、名を有(たも)つは則ち尊栄、名を亡(う)すは則ち卑辱、尊栄は則ち逸楽、卑辱は則ち憂苦なり。憂苦は、性を犯すものなり、逸楽は、性に順ふものなり、斯(すなは)ち實(まこと)の係る所なり。名は胡(なむ)ぞ去る可けむや。名は胡(なむ)ぞ賓(したが)ふ可けむや。但だ夫の名を守り而た實(まこと)に累(わずら)ふものを悪(にく)まむ。名を守るは而た實(まこと)に累(わずら)ひ、將に危亡に之を救はずを恤(あわれ)み、豈に徒(いたずら)に逸楽憂苦するを、之を閒(うかが)はむや。

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資料編 天徳四年 内裏歌合(原文、解釈付)

2020年06月07日 | 資料書庫
資料編 天徳四年 内裏歌合(原文、解釈付)

 天徳四年内裏歌合とは、天徳四年(九六〇)三月三十日に、村上天皇によって宮中清涼殿で行われた歌合を指します。
 歌合では事前の歌題の提示から当日まで一月の期間をおき、歌会当日の歌合せの進め方や左右双方の衣裳、歌を書いた色紙を置く州浜(飾り台)など綿密に準備され、この歌合の次第が後世の歌合の基準となります。和歌の歴史では先行する昌泰元年秋(八九八)に行われた宇多上皇主催の亭子院女郎花合と称される歌合などとは趣を異にします。
 この天徳四年の内裏歌合の準備の為に三月初めに示された題は霞、鶯 、柳、桜 、款冬(山吹)、藤、暮春、首夏、郭公、卯花、夏草、恋の十二題です。記録では当日の歌合わせでは鶯と郭公が各二番、桜が三番、恋が五番の組み合わせがあり、それ以外の題では一番ずつの組み合わせで、計二十番で優劣を競っています。判者は左大臣藤原実頼、その補佐に大納言源高明が勤め、歌を披露する講師は左方を源延光、右方を源博雅が勤めています。また、それぞれ左右の歌人を応援する方人には歌人たちに縁を持つ女房たちが分かれて集い、それぞれ左方は赤(朱)、右方は青(緑)を基調に「かさねの色」を多用した唐衣裳装束を揃えるなどして趣向を凝らし華やかさを競ったと伝わります。なお、この時代、女性の十二単装束は生まれていませんが、十二単ではありませんが薄絹で五単ほどは重ねて華やかさと個性を出したとされます。
 天徳四年の内裏歌合では事前に左右の組に当時の有力歌人が分けられ、その左組、右組に選抜された歌人達が提示された歌題に合わせて秀歌を準備します。そうして歌会の当日に題に相応しい秀歌を組として選抜・披露し、相手方との歌の優劣を競う姿を取ります。天徳四年の内裏歌合以前では歌合の主催者の許に事前に歌を提出し、歌合の主催者が歌の趣向が似たもの二首を選び出し、組とし、その組毎に歌の優劣を判定し、歌合の当日に披露と評価の背景を説明するような次第でした。ある種の和歌の秀歌講習会のような雰囲気です。そのために歌合する左右一対の歌ですが同じ歌人が詠ったものを選択することもありました。そこには二人の歌人が同じテーマで歌を詠い技量や歌の優劣を競う姿はありません。
ところがこの天徳四年の内裏歌合では、完全に二人の歌人が同じテーマで歌を詠い優劣を競う方法を採用しています。今日の私たちが想像する歌合の姿です。つまり、和歌の世界では天徳四年以前と以降では違う世界の可能性があるのです。奈良時代までの和歌の宴は男女が左右に分かれて歌垣歌のような姿で歌を掛け合い、歌物語を紡ぐ姿があり、平安時代初期では和歌の秀歌とはどのようなものかを人々が和歌をテーマとした宴で合意形成する姿がありました。ところが、この天徳四年の時点では秀歌の基準は定まり、その秀歌の基準に従って歌人の技量を競う段階に達しています。全くに和歌への態度が違います。

天徳四年の内裏歌合で伝わる次第は次の通りです。
題 霞、鶯、柳、桜、款冬、藤、暮春、首夏、郭公、卯花、夏草、恋
歌人 左 朝忠卿、坂上望城、橘好古、大中臣能宣、少弐命婦、壬生忠見、源順、本院侍従
   右 平兼盛、藤原元真、中務、藤原博古、清原元輔
講師 左 源延光
   右 源博雅
判者 左大臣(藤原実頼) 補佐 大納言源高明


一番 霞
歌番号〇一
左:藤原朝忠卿(勝)
原歌 くらはしの やまのかひより はるかすみ としをつみてや たちわたるらむ
解釈 倉橋の山のかひより春霞としをつみてやたちわらるらむ
歌番号〇二
右:平兼盛
原歌 ふるさとは はるめきにけり みよしのの のかきかはらの かすみこめたり
解釈 ふるさとは春めきにけり御吉野の御垣の原を霞こめたり

二番 鶯
歌番号〇三
左:源順(勝)
原歌 こほりたに とまらぬはるの たにかせに またうちとけぬ うくひすのこゑ
解釈 こほりだにとまらぬ春の谷風にまだうちとけぬ鶯のこゑ
歌番号〇四
右:平兼盛
原歌 わかやとに うくひすいたく なくなるは にはもはたらに はなやちるらむ
解釈 わが屋戸に鶯いたくなくなるは庭もはだらに花や散るらむ

三番 鶯
歌番号〇五
左:藤原朝忠卿(勝)
原歌 わかやとの うめかえになく うくひすは かせのたよりに かをやとめまし
解釈 わが屋戸の梅が枝になく鶯は風のたよりに香をやとめこし
歌番号〇六
右:平兼盛
原歌 しろたへの ゆきふりやまぬ うめかえに いまそうくひす はなとなくなる
解釈 しろたへの雪ふりやまぬ梅が枝に今ぞ鶯春となくなる

四番 柳
歌番号〇七
左:坂上望城
原歌 あらたまの としをへつつも あをやきの いとはいつれの はるかたゆへき
解釈 あらたまの年をつむらむ青柳のいとはいづれの春かたゆべき
歌番号〇八
右:平兼盛(勝)
原歌 さほひめの いとそめかくる あをやきを ふくなみたりそ はるのやまかせ
解釈 佐保姫のいとそめかくる青柳をふきなみだりそ春の山風

五番 桜
歌番号〇九
左:藤原朝忠卿(勝)
原歌 あたなりと つねはしりにき さくらはな をしむほとたに のとけからなむ
解釈 あだなりとつねはしりにき桜花をしむほどだにのどけからなむ
歌番号一〇
右:清原元輔
原歌 よとともに ちらすもあらなむ さくらはな あかぬこころは いつかたゆへき
解釈 よとともに散らずもあらなむさくら花あかぬ心はいつかたゆべき

六番 桜
歌番号一一
左:大中臣能宣(持)
原歌 さくらはな かせにしちらぬ ものならは おもふことなき はるにそあらまし
解釈 桜花風にし散らぬものならば思ふことなき春にぞあらまし
歌番号一二
右:平兼盛(持)
原歌 さくらはな いろみるほとに よをしへは としのゆくをも しらてやみなむ
解釈 桜花色みゆるほどによをしへば歳のゆくをも知らでやみなむ

七番 桜
歌番号一三
左:少弐命婦(勝)
原歌 あしひきの やまかくれなる さくらはな ちりのこれりと かせにしらすな
解釈 あしひきの山がくれなる桜花散りのこれりと風に知らすな
歌番号一四
右:中務
原歌 としことに わかきつつみる さくらはな かすみもいまは たちなかくしそ
解釈 としごとにきつゝ我が見る桜花かすみも今はたちなかくしそ

八番 款冬(山吹)
歌番号一五
左:源順(勝)
原歌 はるかすみ ゐてのかはなみ たちかへり みてこそゆかめ やまふきのはな
解釈 春がすみ井手の川波たちかへり見てこそゆかめやまぶきの花
歌番号一六
右:平兼盛
原歌 ひとへつつ やへやまふきは ひらけなむ ほとへてにほふ はなとたのまむ
解釈 ひとへづゝやへ山ぶきはひらけなむほどへてにほふ花とたのまむ

九番 藤
歌番号一七
左:藤原朝忠卿
原歌 むらさきに にほふふちなみ うちはへて まつにそちよの いろはかはれる
解釈 むらさきににほふ藤なみうちはえてまつにぞちよの色はかゝれる
歌番号一八
右:平兼盛(勝)
原歌 われゆくて いろみるはかり すみよしの きしのふちなみ をりなつくしそ
解釈 我ゆきて色みるばかり住吉のきしの藤波をりなつくしそ

十番暮春
歌番号一九
左:藤原朝忠卿(勝)
原歌 はなたにも ちらてわかるる はるならは いとかくけふは をしまましやは
解釈 はなだにもちらでわかるゝ春ならばいとかく今日はをしまましやは
歌番号二〇
右:藤原博古
原歌 ゆくはるの とまりをしふる ものならは われもふなてて おくれさらまし
解釈 ゆく春のとまりをしふるものならば我もふなでておくれざらまし

十一番 首夏
歌番号二一
左:大中臣能宣(持)
原歌 なくこゑは またきかねとも せみのはの うすきころもを たちそきてける
解釈 なく声はまだきかねどもせみのはの薄き衣をたちぞきてける
歌番号二二
右:中務(持)
原歌 なつころも たちいつるけふは はなさくら かたみのいろも ぬきやかふらむ
解釈 夏ごろもたちいづるけふは花ざくらかたみの色もぬぎやかふらむ

十二番 卯花
歌番号二三
左:壬生忠見
原歌 みちとほみ ひともかよはぬ おくやまに さけるうのはな たれとをらまし
解釈 みちとほみ人もかよはぬ奥山にさけるうの花誰とをらまし
歌番号二四
右:平兼盛(勝)
原歌 あらしのみ さむきみやまの うのはなは きえせぬゆきと あやまたれける
解釈 あらしのみさむきみやまのうの花はきえせぬ雪とあやまたれつゝ

十三番 郭公(ほとゝぎす)
歌番号二五
左:坂上望城(持)
原歌 ほのかにそ なきわたるなる ほとときす みやまをいつる けさのはつこゑ
解釈 ほのかにぞなきわたるなる郭公み山をいづるけさのはつ声
歌番号二六
右:平兼盛(持)
原歌 みやまいてて よはにやきつる ほとときす あかつきかけて こゑのきこゆる
解釈 み山いでてよはにやいつる郭公あかつきかけて声のきこゆる

十四番 郭公
歌番号二七
左:壬生忠見(持)
原歌 さよふけて ねさめさりせは ほとときす ひとつてにこそ きくへかりけれ
解釈 さ夜ふけてねざめざりせば郭公人づてにこそきくべかりけれ
歌番号二八
右:藤原元真(持)
原歌 ひとならは まててふへきを ほとときす ふたこゑとたに きかてすきぬる
解釈 人ならばまててふべきを郭公ふた声とだにきかですぎぬる

十五番 夏草
歌番号二九
左:壬生忠見(勝)
原歌 なつくさの なかをつゆけみ かきわけて かるひとなしに しけるのへかな
解釈 夏草のなかをつゆけみかきわけてかる人なしにしげる野辺かな
歌番号三十
右:平兼盛
原歌 なつふかく なりそしにける おはらきの もりのしたくさ なへてひとかる
解釈 夏ふかくなりぞしにけるおはらぎのもりのした草なべて人かる

十六番 恋
歌番号三一
左:藤原朝忠卿(勝)
原歌 ひとつてに しらせてしかな かくれぬの みこもりにのみ こひやわたらむ
解釈 人づてに知らせてしがなかくれぬのみこもりにのみこひや渡らむ
歌番号三二
右:中務
原歌 うはたまの よるのゆめたに まさしくは わかおもふことを ひとにみせはや
解釈 むばたまの夜の夢だにまさしくば我が思ふことを人にみせばや

十七番 恋
歌番号三三
左:大中臣能宣(勝)
原歌 こひしきを なににつけてか なくさめむ ゆめにもみえす ぬるよなけれは
解釈 こひしきをなににつけてかなぐさめむ夢にも見えずぬるよなければ
歌番号三四
右:中務
原歌 きみこふる こころはそらに あまのはら かひなくてふる つきひなりけり
解釈 君こふる心はそらにあまのはらかひなくてふる月日なりけり

十八番 恋
歌番号三五
左:本院侍従(持)
原歌 ひとしれす あふをまつまに こひしなは なににかへたる いのちとかいはむ
解釈 人しれずあふをまつまにこひしなば何にかへたる命とかいはむ
歌番号三六
右:中務(持)
原歌 ことならは くもゐのつきと なりななむ こひしきかけや そらにみゆると
解釈 ことならば雲ゐの月となりななむこひしきかげやそらに見ゆると

十九番 恋
歌番号三七
左:藤原朝忠卿(勝)
原歌 あふことの たえてしなくは なかなかに ひとをもみをも うらみさらまし
解釈 あふことのたえてしなくばなかなかに人をもみをもうらみざらまし
歌番号三八
右:藤原元真
原歌 きみこふと かつはきえつつ ふるものを かくてもいける みとやなるらむ
解釈 君こふとかつはきえつつふるものをかくてもいけるみとや見るらむ

二十番 恋
歌番号三九
左:壬生忠見
原歌 こひすてふ わかなはまたき たちにけり ひとしれすこそ おもひそめしか
解釈 こひすてふ我がなはまだきたちにけり人しれずこそおもひそめしか
歌番号四十
右:平兼盛(勝)
原歌 しのふれと いろにいてにけり わかこひは ものやおもふと ひとのとふまて
解釈 しのぶれどいろに出でにけり我がこひはものやおもふと人のとふまで
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資料編 奈良時代の租庸調 調布について考える

2018年03月04日 | 資料書庫
資料編 奈良時代の租庸調 調布について考える

 最初に、この記事は弊ブログ特有の個人の備忘録のようなものになっています。そのため、万葉集の歌の鑑賞には直接に影響しません。また、今回のものは「奈良時代の租庸調 税制について考える」の続編にあたります。そのため、「奈良時代の租庸調 税制について考える」も参照いただければ幸いです。

 日本の古代 律令時代の税制である租庸調については平安時代初期に編まれた律令・格式の解説書である『令義解』や『令集解』に載る『養老律令』の条文から養老律令の大枠が復元されており、その条文と日本書紀に載る大化二年の大化の改新の詔・続日本紀に載る各種の詔や太政官布との比較などを通じて養老律令と大宝律令とにおいて大差はなく、養老律令は大宝律令を施行して判明した不都合を修正したものと考えられています。このような推定の背景から平城京時代を通じて、復元された養老律令を以って租庸調の税制体系を議論しても大枠では正しいであろうと弊ブログでは考えています。確かに田租税率や庸税率の詳細・細目では大宝律令と養老律令では違う可能性がありますが、養老律令の正式の公布以前に詔や太政官通知として大宝律令での施行細目の一部は修正がなされていますから、以下に述べる与太話や馬鹿話は養老律令を基準としていますが大筋で正しいものとしています。この点を最初にご了承下さい。
注意:大宝律令の公布・施行は大宝元年(701)、養老律令の原案完成は養老六年(722)でその公布・施行は天平宝字元年(757)

 なお、学術と云う立場から研究者が厳密に論議するとしますと大宝律令の復元が出来ていませんから天平宝字元年(757)以前での確実に施行された税制は不明となります。日本書紀に載る大化の改新での税制がどこまで施行されたか、また、どの地域や被支配者層に対して為されたのかについても実態は不明です。なお、次の時代である斉明天皇時代の白村江の戦を含む百済の役での動員状況を考えますと、その斉明天皇の時代でも豪族の連合体の形態と思われますから、少なくとも公地公民は屯倉などに対する、極、限定的な施行と考えます。
 話題としています租庸調税制の根拠となる律令体制の基本は公地公民です。しかしながら、どのような形で公地公民になったのか、いつ、それが全国規模で実効的に為されたのかは、まったくに不明です。少なくとも天智天皇の時代でも、壬申の乱でのそれぞれの陣営での募兵状況を鑑みますと全国規模での公地公民ではありません。律令体制での公地公民が為されていますとそれぞれの国での軍の徴兵と指揮は国司か、それに準ずる官人が執ることになります。しかし、壬申の乱での徴兵と指揮体系はそうではありません。特に大海人皇子軍はそれぞれの支配地域を持つ王族・豪族の集合体です。ある種、反乱義勇軍ですが政府軍と対等に戦線を張れるだけの軍事動員能力と武装がありましたから、その住民(多くは農民)に対する動員権限と税及びその施行と云う面から考えたとき、日本の古代史は非常に不思議ですし、その不思議への研究は・・・と云う状況です。確かに律令制度を支える公地公民の言葉は美しいのですが、そこへ到達するまでの方法・実行論や移行の時代の検証は???の状況です。現実利益を追求する会社勤め人では有り得ないような、方法論と作業工程を持たない地に足を付けていない宙に浮いた公地公民の議論です。
 また、公地公民の基礎となる戸籍と諸国・郡での会計帳簿(計帳)・土地台帳はすべて紙に漢文で記載する必要がありますが、さて、大化二年(646)時点ですべての地方の郡司に対する漢文及び会計記帳の教育がなされていたのでしょうか。奈良時代初期ですが対象となる郡は全国で三千を越えます。
 ただもし、全国各地に点在する屯倉から大化の改新の戸籍令と税制がスタートしたのですと、それは支配被支配関係での貢物の風習を成文・制度化しただけで、それは律令体系での公地公民とは違うものです。漢字は同じ「貢」でも支配関係での貢物と律令の貢雑物とは違います。なおややこしいのですが、天平年間以降では朝集使を地方に派遣し地方から朝集使へのお土産(貢物)扱いでの朝集使貢献物と云う地方特産品の納付制度が出来ますから、中央・地方での支配被支配関係は確かに存在はしています。ただ、律令体制は建前としても公地公民からの租庸調の税体系です。

 気を取り直して。
 古い教育では、一般に良民に属する成人男子は租庸調税制体系において、調税は布で納め、庸税も年10日を基準とする歳役に就かなかった場合、日割り換算で布を代償税として納税すると解説します。この解説が正しいかと云うと、正しい場面もあるし、そうでは無い場面もあるとしか答えようがありません。
 まず、律令時代の「布」は麻布が基準ですが、調税で定める調物は「絹・絁・糸・綿・布」が並立で規定され、布は標準調物では最後に紹介されます。朝廷は基本的に絹製品である「絹・絁・糸・綿」を最初に求め、最後に麻製品である「布(麻布)」を指定します。そしてこれらの繊維製品類が其の地の特産で無い場合は、特産の代替となる雑物での納付を求めます。ここで綿とは真綿を意味し絹繊維製品の一種で蚕の繭を煮た物を引き伸ばして綿にした物です。およそ、調の布とは麻製の布であり、綿は絹繊維の真綿を示します。調税に云う「布」は一般名称の布ではありません。
 また、調物となる布製品は規格が定められ絹と絁は正丁六人分で一疋、特に最高級品とされた美濃絁は正丁八人分で一疋の製品となります。同様に麻布は正丁二人分で一端、麻布での最高級品である上総国望陀郡特産の望陀布は正丁四人分で一端となります。布幅は共に二尺二寸です。斯様に賦役令で繊維製品の規格を規定に示すように個々人で半端な長さの調布を調製し納入するのではありません。延喜式 主税寮で会計帳簿記載例である某國司解申收納某年正税帳事に示すように専門の工人が調製し、納税者は人頭割りで割り当てられた調達費用を稲束で供出します。

養老令 賦役令
賦役令第一 調絹韃條:
凡調絹・絁・糸・綿・布、並隨郷土所出。正丁一人、絹・絁八尺五寸、六丁成疋 (長五丈一尺。廣二尺二寸)。美濃絁、六尺五寸、八丁成匹 (長五丈二尺。廣同絹絁)。糸八両。綿一斤。布二丈六尺、並二丁成韶屯端 (端長五丈二尺。廣二尺四寸)。其望陀布、四丁成端 (長五丈二尺。廣二尺八寸)

延喜式 主税寮:某國司解申收納某年正税帳事より抜粋
 織諸羅綾料若干束(羅・綾を例としたもの)
 羅機若干具、綜料絲若干絇、價若干束(絇別若干束。諸色准此、各為一項)
 羅若干疋(疋別織若干日)、織単若干人、粮料若干束(人別若干束。諸色准此、各為一項)
 替綜若干具(經若干年替)料若干束
 某羅綾綜若干具料絲若干絇。價若干束。(絇別若干束)
 作単若干日粮料若干束(日若干把)
 纏紡単若干日
 作綜単若干日

 年料交易雜物價料若干束(東絁を例としたもの)
 東絁若干束(諸色准此、各為一項)價若干束(疋別若干束)
 運駄若干疋(疋別負某色若干疋)
 功若干束(疋別若干束)
 裹料雜物價若干束。某物若干枚、價若干束(枚別若干束。諸色准此、各為一項)

 依某年月日符交易、進上絹若干疋(絹を例としたもの)
 價若干束(疋別若干束)
 擔夫若干人功粮若干束。功若干束(人別若干束)
 粮料若干束(向京若干日、日別若干把。還郷若干日、日別若干把)

 次に延喜式 主計寮に載る調庸の納税規定を見てみます。例として、弊ブログに合わせ万葉集では有名な大伴家持が治めた越中国の調庸税は次のように規定されています。調の割り当ては白畳の真綿二百帖で、正丁、次丁、中男の合計した調物への納税代価が真綿二百帖を越える場合はその超過原資で白く細い絹繊維の真綿を調達し納めることになっています。この規定では従来に説明する麻製の布と云うものは出て来ません。調や庸の基準規定の「布」は、基準通貨が無かった時代での納税での価格換算基準でしかありません。複雑な社会経営を行うことを前提にすれば当たり前のことで、朝廷が全国から麻布を集め、それを自ら他の商品との等価交換を行うより、納税者に必要とする物資を割り当て、それを調税の麻布と等価交換させて納めさす方が簡便で楽です。たぶん、このような運営に気付かない昭和時代の研究者や文科省の役人よりも奈良時代の主計寮の役人の方が優秀で実務的だったのでしょう。先に延喜式 主税寮で会計帳簿記載例である某國司解申收納某年正税帳事を紹介しましたが庸雑物や中男作物などの貢雑物でも朝廷が納付すべき物品と数量を割り当て、諸国はそれを専門の職人たちに調製させ、中男たちはその代価を稲束で納付します。

越中國(行程上十七日,下九日)海路廿七日。
• 調:白疊綿二百帖。自餘輸白細屯綿。(浮浪人別輸商布二段)
• 庸:韓櫃卌六合。(塗漆著鎖五合、白木卌一合)自餘輸綿。(韓櫃便盛疊綿及白綿、其櫃底各敷布一段、折庸綿充布價、段別二屯)
• 中男作物:紙、紅花、茜、漆、胡麻油、鮭楚割、鮭鮨、鮭冰頭、鮭背腸、鮭子、雜醋。

 また、養老令 賦役令で定める調物の絹や絁には一疋を長五丈一尺・広二尺二寸とする規定が、布には長五丈二尺・広二尺二寸とする製品規定があります。紡織技術からしますと布の幅が規定されていることは織機で使う筬(おさ)の長さが全国で統一されており、同時に筬を使う織機で布を織る必要があります。藤ノ木古墳出土品などからの織機の研究では飛鳥・奈良時代では傾斜機に類する織機を使って平織りの織物を織ったのではないかと推定しますから、麻布であっても全国の一般家庭に据え付けるような原始機のような自家用向けの機織り機ではありません。専門の工人が織る機械です。
 さらに遺跡に残された布片や正倉院御物からの機織り機の研究では経錦(たてにしき)はそれ専用の経錦機が使われ、奈良時代までに登場する紋織物、錦、綾は空引機と云う機で織られたと推定します。この空引機は現代でも使用される機織機であって、これらの布は高度な織機技術を必要としますから、その織機には挑文師(あやのし)と云う専門指導員による手引きと空引機自体を木材や竹から作り出す必要があります。続日本紀には各地に技術を普及するために和銅四年(711)閏六月に「遣挑文師于諸国。始教習織錦綾」と云う太政官命令が出されています。
 他方、駿河国に調物として各種の窠紋(かもん:円弧文様)の綾や白い絹である帛(はく)など各種の絹織物が割り当てられていますが、これらは専門の機織工人が織るものであって、一般の農民では織ることが出来ないものです。従いまして調物や庸物は麻布で納める必要があったと云うのは、ある種の妄信です。麻布と云うものの経済価値を基準に朝廷が指定した物を等価で納めると云うのが正しいと思います。まず、専門の研究者でない一般の社会人は誠実に養老律令規定を各種の資料から確認する必要があります。

駿河國(行程上十八日,下九日)
• 調:一窠綾六疋、二窠綾五疋、三窠綾四疋、小鸚鵡綾一疋、薔薇綾三疋、帛一百廿疋、橡帛十三疋、縹帛八疋、皂帛十疋、倭文卅一端、煮堅魚二千一百卅斤十三両、堅魚二千四百十二斤。自餘輸絁。
• 庸:白木韓櫃廿合。自餘輸布。
• 中男作物:手綱鮨卅九斤十三兩二分、紙、紅花、火乾年魚、煮鹽年魚、堅魚煎汁、堅魚。

 ではなぜ過去の解説で調税は布(麻布)で納めるという誤解説が生まれたのでしょうか。不思議に大化の改新の詔による税制でも調税では「凡絹・絁・糸・綿、並随郷土所出」と規定し、布は製品規格の場で「布四丈、長・広同絹・絁、一町成端」と規定するだけです。その改新の詔では麻製の布とシナノキの皮を細く紡いで織った布である貲布(さいみ)とを区分していますが、「別収戸別之調、一戸貲布一丈二尺」の一文から戸別に割り当てられる調は貲布の布なので、ここから調は布であるとの解説が生まれたのでしょうか。ただ、大化二年の時点では調税課税において耕作地に対するもの(絹・絁・糸・綿)と大家族集団である戸に対するもの(貲布)が並列していますから、大宝律令(浄御原宮令も含む?)以降のものと改新の詔とを同一視することは出来ません。また、改新の詔での釆女・仕丁は被支配地からの貢の人間ですが、大宝律令での法体系での賦役は良民正丁による公への勤務です。そのため、養老律令では無報酬役務期間超過後の役務に対し明確に賃金支払いの規定があります。被支配者への奴隷規定ではありません。
 およそ、大化年間から大宝年間のどこかの時点で支配被支配関係での貢物制度から公地公民と班田収受の口分田制度での公平な租庸調の税制への大変革があったと考えられます。過去の研究者はこの税体系 根本での相違が理解出来なかったのではないでしょうか。そのために混同や誤解釈が生じ、その誤解釈を板書から無批判拝受した門弟により世に広まったと考えます。弊ブログでは藤原京時代にこの大変革がなし崩し的に行われたと推定します。

 調庸税の納付規定について、現代人らしく貨幣価値と云う視点から眺めてみますと、確かに飛鳥浄御原宮時代には富本銅銭が発行され流通を開始していたと思われますが、ほぼ、畿内の一部地域に限定した流通と思われます。本格的な貨幣の流通は和銅年間の和同開珎まで待つ必要がありますが、それでも和銅五年(712)十月の詔「随役夫到任令交易。又令行旅人必齎銭為資。因息重担之労。亦知用銭之便」を参考としても、全国規模での貨幣の交換価値への認知・普及には時間が掛かったようです。正税帳にも示すように、地方では奈良時代を通じて売買・交換の基準は重荷に分類される穀(もみ米)や稲束です。地方広域では可能性として運搬が容易な軽荷に分類される布(麻布)です。しかしながら政府への納税としては別物です。調物や庸雑物は指定された物品を換算された価格相当の数量で納める必要がありました。なお、価格換算基準は賦役令に定めるレートを使用しますが、これはある種の布(麻布)本位制です。近世の金本位制下でも納税等を金で納めないように、布本位制での納税もまた布だけではありません。
 そうしたとき、和銅年間に和同開珎銅銭が広く流通するようになり、朝廷は銭と物品との公式の交換比率を規定しています。つまり、和銅四年、和銅五年の太政官通知により全国規模での和同開珎銅銭の公定交換価格が制定されるまでは、一部畿内の地域を除き、ある種 慣習法での布(麻布)と云うもの以外に経済市場には交換レートの基準が無かったと云うことになります。大宝律令制定はその和同開珎発行以前ですから銅銭・銀銭でもって納税規定を定める事が出来なかったと考えます。つまり、穀(稲束)と布が基準通貨です。さらに養老律令は大宝律令制定以降に顕われた不都合を詔や太政官布告で修正したものを改めて改訂律令として公布したような感がありますし、天平時代後半頃から急激にインフレーションが進み 銭交換レートは大きく揺れ動きました。これらから大宝律令で定めた実物物価基準となる穀や布をそのままにして養老律令を公布・施行したものと考えます。
 ちなみに和銅年間では公定レートとして麻布一端(五丈二尺)が銭二百文、もみ米である穀六升が銭一文でした。なお、もみ米六升は精米すると白米三升になり、律令の一升は現代の四合のため、概算で一文で白米約2kgが買えたことになります。一方、庸の歳役不足での庸布の日割りは二尺六寸ですからこれは銭十文に相当します。他方、天平時代中頃には寺院などの会計帳簿などから、公設市場での麻布一端(五丈二尺)の販売価格が銭三百五十文に跳ね上がったと報告します。政府としてはインフレに弱い貨幣本位制よりもインフレに強い布本位制の方が実質税収入では安定的ですから、養老律令で納税規定を貨幣本位制に改める意思はなかったものと思います。参考として藤原氏の政治が本格的に始まる天平年間からインフレが急速に進み、天平宝字四年(760)三月に万年通宝銅銭を発行し十分の一のデノミを実施せざるを得ないほどになります。
 ただし、穀(稲束)と布が基準通貨の場合、その弱点は品質とサイズのばらつきです。物不足の時代では問題は顕在化しませんがある程度の市場流通があり消費者に選択の余地が生まれますと、商品である穀(稲束)や布には品質などにより市場価格の差が生まれます。どうも天平時代末期頃からこの品質と市場価値と云う次なる経済問題が生じたようです。天平宝字四年の記録で同じ絹製品である絁の産地別価格差は上級ランク丹波産(一疋:680文)と下級ランク安芸産(一疋:600文)では13%前後の差がありました。同じ納付量としたとき納税価値は13%も違うと云うことになります。ずるをするなら丹波国の人は丹波産を都の市場で売り、安芸産を買って納税すれば13%の差益が生まれます。そこで養老令 賦役令で「不得襍勾隨便糴輸(実物を運ばずに、京内での品物の売買によってまかなった物を提出してはならない)」と規定したのでしょうが、斯様に経済活動が高度化すると品質差からくる不公平感が醸し出され、それが租庸調制度崩壊への一端となったかもしれません。

日本書紀 大化二年(646)正月甲子朔の詔より抜粋:
其三曰、初造戸籍・計帳。班田収授之法、凡五十戸為里、毎里置長一人。掌按検戸口・課殖農桑・禁察非違・催駆賦役。若山谷阻険・地遠人稀之処、随便量置。凡田長三十歩・広十二歩為段、十段為町。段租稲二束二把・町租稲二十二束。
其四曰、罷旧賦役、而行田之調。凡絹・絁・糸・綿、並随郷土所出。田一町絹一丈、四町成疋。長四丈・広二尺半。絁二丈、二町成疋、長・広同絹。布四丈、長・広同絹・絁、一町成端。(糸・綿絇屯、諸処不見)別収戸別之調、一戸貲布一丈二尺。凡調副物塩贄、亦随郷土所出。凡官馬者、中馬毎一百戸輸一疋。若細馬毎二百戸輸一疋。其買馬直者、一戸布一丈二尺。凡兵者、人身輸刀・甲・弓・矢・幡・鼓。凡仕丁者、改旧毎三十戸一人(以一人充廝也)、而毎五十戸一人(以一人充廝)。以死諸司、以五十戸死仕丁一人之糧、一戸庸布一丈二尺・庸米五斗。凡釆女者、貢郡少領以上姉妹及子女形容端正者(従丁一人・従女二人)。以一百戸充釆女一人糧、庸布・庸米、皆准仕丁。


 ここで目先を変えて、「布」と云う繊維製品に焦点を当てますと、繊維と機織りの研究では藤ノ木古墳副葬品が色々な情報を与えるとします。この藤ノ木古墳は敏達天皇四年(575)から推古天皇八年(600)となる六世紀 第四四半期の円墳と推定されています。副葬品で発見された布類の分析からそれらの布類は、以下に紹介する織り機により織られたと推定されています。この内、傾斜機の発展系が現在でも徳島県の太布と云うもので使われていますし、奈良時代から登場と思われる空引機は一部の京都西陣織に現在も使われています。趣味の世界になりますが市販されています卓上型の手織り平織り機は布機の改良型です。
 手織りでの機織り機は奈良時代までに基本構造と手法は固まったと思われますから、現在に残るものから飛鳥・奈良時代の手織り織物の調度・製作は復元が可能のようです。逆に考えますと奈良時代初頭に日本全国のすべての家に布機や傾斜機が普及していたのでしょうか。従来の調庸の納付の解説ですと、個々人で規定された幅、織目、長さを持った製品である布を織る必要がありますから、ここで示す専用の織り機は必須と云うことになります。
 およそ奈良時代の役人は現実的・実務的なのでしょう。郡の人々が専門の機織り職人を雇い、その賃金を稲束で支払うような運営をしていますから、登録された「戸」全戸がそれぞれに機織り機を持つ必要はありません。この場合、職人は機織りに専念し、農民は稲作に専念することになります。つまり、近代的な分業制です。この発展系が奈良時代までに現れた美濃の絁であり、上総の望陀布なのでしょう。

• 布機(地機):台架と呼ばれる経巻保持具を使う織機です。
• 傾斜機:経糸の開口を助けるために織機全体が上から下へと傾斜しており、この為に経糸の張力を掛ける体の動きがスムーズとなり機織の労力が半減し、機台と呼ばれる台が付属した織機です。
• 経錦機:二~四色の経糸を使い分けて柄を織り出すという織物専用の織機です。なお、織色が限定され織法が難しいため、唐から最新の空引機が導入された後、奈良時代中期までには姿を消します。
• 絹機:平織を織り出す絹織機をいいます。布巻が機台に固定されていて、開口は踏木を使うことにより綜絖が上下し緯打ちは筬で行います。
• 空引機:紋織物を織り出す機で、模様を織り出すには、空引工という人が必要な通糸を引き揚げ、織工が下にあって緯糸を織込みます。

 先に述べた復習のようなものとなりますが、布とそれを織る機具との関係において、日本では古墳時代中期頃に原始的な経糸の端を木や杭などに括りつけて織る原始機と云うものから、架台を持ち筬(おさ)で布目を整える平織の布機が登場するようです。また、古墳時代中期以降の古墳副葬品から錦や綾が目立つようになるとの報告がありますから、三~四世紀頃に専門技術を持つ織工が渡来し技術が普及したのではないでしょうか。加えて古墳時代中期頃の遺跡調査からは布機の部品などは渡来系の人々が住んでいたと推定される場所からの出土例が多いとしますから、まだまだ普及期で大和全体には及んでいなかったと考えられています。調製された布は高級な貢物の段階で、税として納める代替通貨的地位までは降りて来ていなかったと思われます。
 技術と製品と云う観点から考えますと、古墳時代最末期に当たる大化年間に全国規模で布機による機織技術が普及していたかは疑問が残るところです。一方、奈良時代 大宝年間までには美濃の絁、上総の麻布と云う高級特産品が各地に誕生していますから、飛鳥岡本宮・近江大津宮時代から藤原京時代の間に急速に機織物の技術が進み、同時に全国規模で養蚕などの原料供給面を中心として普及したものと考えられます。そして、この社会経済状況を背景に租庸調の税体系が整備されたのではないでしょうか。ちなみに大化の改新の詔に「課殖農桑」と記すように桑の殖産を推薦していますから、律令時代の絹製品は屋内飼育の家繭による養蚕製品だったと思われます。


 ここでおまけとして、弊ブログとして万葉集に話題を振りますと、相聞歌などに白栲(白妙)と云う衣が詠われます。一方、調庸物には樹木繊維からの白栲と云うものはなく、せいぜいが大化時代の古風な貲布(さいみ)です。それより上等な布は律令では「布」と規定される麻布です。貴族や官人に給与として配られる布は下等品で麻布、上等品で絹や絁です。これらは規格を持つ手工業製品であって、無規格の民芸品ではありません。さらに身分によっては麻布でも最高級品とされる上総国望陀郡特産の望陀布です。すると、万葉時代の白栲の衣は、ある種、特注品になるのでしょうか。例として、フィリピンでのパイナップルやバナナの葉の繊維で織られた布を使ったバロン・タガログと云う上着は伝統の庶民が着た正装ですが、今日ではすべて専門技能士の手作業による伝統繊維製品のものは特注の高級正装の位置付けにあります。同じようなことが万葉時代にもあったのでしょうか。
 伝統の正装を考える時、日本書紀 天武天皇紀に「蓁指御衣」と云う衣が登場し、これは延喜式 衣服令に示す榛摺り染めの御衣と思われ、古来からの木葉の摺り染めの技法で作られた神事や朝儀の儀礼で着服する礼服を示します。つまり、飛鳥浄御原宮時代ごろから貴族は日常的に絹や絁の布で縫われた衣を着用しますが、神事などの伝統行事では和妙の白栲に木葉の摺り染めの技法で調度された衣を身に纏ったと思われます。なお、平安時代初頭では宮中での神道神事の比重が落ち、白栲の榛摺り染めの御衣は延喜式 衣服令に記録されるだけのものになったようです。そのため今日では言葉すら忘れ去られた神事衣装です。ただ、伝統と云うものからしますと飛鳥浄御原宮から前期平城京時代の人々にとって白栲の衣は神聖で特別な着物と云う位置付けになるのかもしれません。ある種、女性が成人式に伝統の和装を望む姿に似たものがあるのかもしれません。
 そうしたとき、もし、その白栲の衣が奈良時代にあってはもう神聖な儀式の時にしか着ない衣としますと、妻問いを待つ若い女性にとって白栲の衣は特別な意味合いを持つことになるのではないでしょうか。妻問いは恋人同士が夜を共にする行為を指しますが、野良での行為では無く、屋敷内での行為です。つまり、妻問いとは若い女性が特別の個室を持つような貴族階級の世界です。その特別の部屋での調度品や衣装は若い女性の親が準備します。この通い婚を前提とした準備作業での白栲の衣と云う意味合いです。
 白栲の衣について万葉集に歌を求めますと、集歌1675の歌は有馬皇子が殺されたと云う紀国 藤白御坂での鎮魂儀礼の時の歌ですから礼服を着たと見なしての歌です。一方、集歌2023の歌は初めての妻問いの朝の風景です。女歌としますと、現在の新婚初夜に等しい状況ですから愛を神に誓うような大切な夜と云う意味合いが「白栲」に込められているかもしれません。ある種、昭和期まで見られた白無垢の花嫁衣裳です。

集歌1675 藤白之 三坂乎越跡 白栲之 我衣手者 所沾香裳
訓読 藤白(ふぢしろ)し御坂を越ゆと白栲し我が衣手(ころもて)は濡れにけるかも
私訳 藤白の御坂を越えると、有馬皇子の故事を思うと白栲の私の衣の袖は皇子を思う涙に濡れるでしょう。

集歌2023 左尼始而 何太毛不在者 白栲 帶可乞哉 戀毛不遏者
訓読 さ寝(ね)そめに幾許(いだく)もあらねば白栲し帯(おび)乞(こ)ふべしや恋も遏(とど)めずば
私訳 抱き合って寝てそれほどでもないのに、身づくろいの着物の白栲の帯を求めるのでしょうか。恋の行いを抑えきれないのに。

 今回も往ったり来たりの酔い加減の与太話であり馬鹿話です。最後には妻問いの歌にまで大脱線してしまいました。そのため、表面上、内容はいかにもの風情をしていますが、小学生の学習帳のようなもので内実はありません。真に受けないようにお願い致します。


 おまけのおまけ
 三回に別け、奈良時代の稲作、租庸調の税制およびその調布について、馬鹿話を展開してきました。背景として柿本人麻呂が生きた時代についての社会構成や税体系などを個人的に納得がいく形で再構成をしているためです。紹介しましたように昭和期までと研究が進んだ平成期では相当に古代税制の解釈に相違があります。また、昭和時代の論文・学説などは一般に公衆には公表しない状況が過去にあり、研究と思想・想像とが区別されないようなものまでが学説として扱われていたようです。それが公費による研究は広く公衆に公表すると云う近々の政府決定から表に出てくるようになり、従来の一部の学説・定説の根拠が非常に怪しいものであることが判明し、同時に驚きがあります。其の典型が小学校の授業でも教える調税は布で納めるというものです。誰が、どのようにして製作し、どこに納めるのかと云う問題を律令制度での「調の布」とは何かと云う定義とその製法から始めますと、従来の説明は実に空想的な「トンデモ論」だったことが判ります。
 律令体制での租庸調は税制の根本であり、統治の大本です。奈良時代の水田稲作での品種・育成法・農機具・単位面積当たりの収穫量などを確認しますと、租税が江戸期から昭和初期の農民ほどは過酷ではないことが判明しました。調庸税での都への納付経費は自弁との従来説明は律令制度ではなんら根拠が無いことも判明しましたし、調物や庸雑物は朝廷が品目と数量を指定するもので、勝手に布(麻布)を納付すると地方の国司・郡司や農民が決めてしまえるものではないことも判りました。さて、昭和期までの研究者とは何者だったのでしょうか。

 歴史観として弊ブログでは原始神道とは違う国家神道は天武天皇の時代頃から全国規模に広がり、全国の祝(はふり)が中央で行われる国家神道の祈年祭や新嘗祭に招聘され、そこで幣物として朝廷から鉄刃先の鍬や品種改良された優秀品種の初穂が下し渡されたと推定します。この推測は奈良時代だけに現れる全国統一規格の新U字形鉄刃鍬や遠く離れた地域で栽培された同一品種名を持つ水稲が根拠です。延喜式では天皇が招聘する全国の祝(郡司・里長)について記述し、その人数は三千百三十二人です。これだけの人々が毎年 国司たちに引率され、中央へと集まります。これを背景にそれぞれの地域での風土や慣習に拠らない、全国各地の神社の拝殿や祝詞などが規格化されたと考えます。
 他方、古代では中央の大王に招聘された地方の豪族たちはその土地の特産品を手土産の贈り物(貢)として携え献上するのが習いです。それを朝廷が賦役令 調物で「隨郷土所出」と規定するように手土産となる物品の種類と数量を地域や郡の規模に応じて公平に指定しますと、律令制での調物との区別はつきません。また、国租である稲の収穫物は単位収穫の3~5%に相当し、その地域に備蓄米として保管されますから農民たちにとって長い目では救荒米として地域利益になっても特段の負担になるようなものではありません。さらに農民は従来から共有物となる水路を引く・畦を作る・道を作るなど、その建設と維持・管理などを共同で行っており、そのような共同の労働奉仕を成文化したところで生活が大きく変わるものではありません。庸である歳役や雑徭は地域内での道路整備・水田や水路の新規開発や整備・郡衙や倉庫の建設や整備などが主な使役としますと、これもまた中央の官に頼ることなく明治から昭和初期に地域の小学校などの校舎がその地域の寄付と労働奉仕で建てられたという古来からの地域自治精神からすれば特段の負担とはなりません。また、地方農村では今日でも農業用の畦道普請・草刈や水路清掃などは組内の寄合作業としてその慣習が残っています。都での歳役についてそれが本国出発日から役をカウントされますと満三十日で租調税免除となり、それ以降は日当が支払われますし、食料は官支給で調理人は歳役の中から最大十人に一人が就きます。近隣国からの超短期役務で無い限り、往復の路程を考えると都での歳役は租調税免除となります。すると場合により、大家族制の下では地方で農作業をするよりその無税となる口分田を家族に預け都で役務に就くほうが経済的に有利と成ります。従いまして、正規の規定での庸役が農民たちの負担になったのかどうかは不明です。ただし、これらは前期平城京ぐらいまでの話です。中央や地方での華美・豪奢な装飾を求める寺院や僧侶の増加などにより雑税扱いの新たな税が誕生した時、重税路線へと転げ落ちて行きます。
 なお都での歳役について面白いことに奈良時代中期までには地方農民が国に戻らず、そのまま都で労働に従事した場合、正丁一人につき雇用税(三百七十五文)を納めてその雇用実態を認めて貰う制度が出来ます。本国に戻らない理由は口分田での重税なのか、都会暮らしなのか、さて、理由はどこにあったのでしょうか。

延喜式 主計 左右京、五畿内國での調庸税より抜粋
其外國百姓逃亡居住畿内,一丁輸錢二百五十文,庸一百廿五文

 およそ、飛鳥浄御原宮から藤原京の時代になし崩しに古代の慣習や地方自治実態を律令と云う枠の中に組み込んだのではないかと想像します。そのなし崩し的な制度移行を持統天皇から文武天皇の時代に成文化したものが大宝律令の租庸調の税制と考えます。現在、公地公民と学問的に名称を付けますが、当時の農民たちにはそのような実感や実態はなかったのではないでしょうか。さらに、従来から地域で神事取り纏めや世話役を執る祝(はふり)は村の長(おさ)から律令で定める里長や郡司の立場を公的・世襲的に与えられ、地域での律令管理者・責任者へとその性格を変えたと考えます。
 実利としてそれぞれの村は朝廷から鉄製農機具の貸与や良質な水稲品種の配布、さらには家蚕の種繭の配布と養蚕技術やその後の絹・麻製品の手工業化や須恵器・土師器などを初めとする最新の技術指導などを受けられ、里長や郡司は世襲的にその地域支配者の身分を保証されました。また、時に凶作時には朝廷によって当座の食料と翌年の作付け用の種籾を近隣の郡や諸国から応援を受けることも出来ました。一方、その代償として政府運用費用として調庸雑物の中央政府への納付義務が課されたと考えます。租税は原則的に地域行政の運営費用です。斯様な利害を天秤に架けますと、飛鳥浄御原宮から藤原京の時代では地方の祝にとって中央政府の影響下・管理下に入るほうが利が多かったのではないでしょうか。さらに穀物が得にくい漁村・山村では調物・庸雑物の公定レートで其の地の産品(魚介類・塩・繭玉・樹木油・薬草など)を確実に穀(もみ米)に交換して貰えるルートが保障されたことになります。これも重要な実利ではないでしょうか。
 其の時代、日本書紀や続日本紀に従えば中央政府は近江・但馬・備前などに大規模な官営製鉄所を運営していますし、また、倭飛鳥・播磨・長州・豊前などに銀を副産物として生む規模を持つ銅製錬所を運営しています。銀は新羅や大唐からの先進技術者招聘の原資になりますし、鉄は地方農民が渇望する鉄製農機具の源です。そして、銅は通貨の源です。さらに全国規模で各地の優良稲種を中央に報告・提出することを求め 実行しています。これらの先端技術の伝授・鉄製農機具の貸与・優良水稲品種の配布・大災害時の広域相互扶助などを梃子に大和朝廷は経済的に地方を支配下に置いたと考えます。政治体制的には従来の祝(里長)と村民との関係に大和の朝廷は乗っかっただけですから地方自治では従来からの変更はありません。およそ、蝦夷・熊襲地域を除くと律令体制での全国統一は武力ではなかったと考えます。このマジックのような国家神道による幣物下賜と云う分配と実利と云うもので擬似公地公民が進んだのではないでしょうか。
 さらなる妄想として、藤原京から前期平城京時代では容易に開墾できる未開発地が広く残されており、地域で新たに生まれる子の数よりも鉄製農機具などを使い開拓される農地の方が多かったのではないでしょうか。これですと口分田制度は維持され破綻しません。ただし、公共による水田開発速度が人口増加に負けたとき、口分田制度は崩壊します。鬼頭宏やビラベンの推定では近江大津宮・飛鳥浄御原宮時代の人口は四百万人前後ですが奈良時代後期までには五百五十万人~六百万人ほどに急激に増加したとしますから、農地は40%前後の増加がないとバランスが取れないことになります。それに前期平城京時代まででは中央で生活する世襲皇族の人数や役人・僧侶の人数も少なく、農民にかかる調庸雑物の納付圧力も少なかったのではないでしょうか。ちなみに水田開発は私有となる墾田三世一身法・墾田永世私有法や土地不足の西日本の人々を土地が広い東日本への移住促進などの政策を動員しても水田面積の増加は鈍く、奈良時代中期までには新規開墾は人口増加に負けます。人口推計を行った鬼頭たちは水田耕地面積は奈良時代後期にピークを迎え、律令制度の崩壊と共に口分田となる水田も荒れ平安時代初頭にはその水田耕地面積は減少へと向かったと報告します。
 加えて、延喜式 主税寮に載る会計帳簿記載例である某國司解申收納某年正税帳事を参考にしますと仏教関係費用の項目が目に付きますから、仏教と云う華美・奢侈を求める宗教が地方経済の疲弊を招いた根本原因なのかもしれません。ご存じのように律令制崩壊と共に一部の地方を除き、国分寺・国分尼寺はその姿を消しますから宗教としては民衆の信仰・支えは無かったと考えます。
 以上が弊ブログの歴史への憶測であり、酔論です。弊ブログはこのような視線から柿本人麻呂が生きた時代を眺めていますし、万葉集を鑑賞しています。


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