竹取翁と万葉集のお勉強

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万葉集 長歌を鑑賞する 集歌942

2016年01月31日 | 万葉集 長歌を楽しむ
万葉集 長歌を鑑賞する 集歌942


過辛荷嶋時、山部宿祢赤人作謌一首并短謌
標訓 辛荷(からに)の嶋を過し時に、山部宿祢赤人の作れる謌一首并せて短謌
集歌942 味澤相 妹目不數見而 敷細乃 枕毛不巻 櫻皮纒 作流舟二 真梶貫 吾榜来者 淡路乃 野嶋毛過 伊奈美嬬 辛荷乃嶋之 嶋際従 吾宅乎見者 青山乃 曽許十方不見 白雲毛 千重尓成来沼 許伎多武流 浦乃盡 徃隠 嶋乃埼々 隈毛不置 憶曽吾来 客乃氣長弥

<標準的な解釈(「萬葉集 釋注」伊藤博、集英社文庫)>
訓読 あぢさはふ 妹が目離(か)れて 敷栲(しきたへ)の 枕もまかず 桜皮(さくら)纏(ま)き 作れる船に 真梶(まかぢ)貫(ぬ)き 我が漕(こ)ぎ来れば 淡路の 野島(のしま)も過ぎ 印南(いなみ)都(つ)麻(ま) 唐荷(からに)の島の 島の際(ま)ゆ 我家(わぎへ)を見れば 青山(あをやま)の そことも見えず 白雲も 千重(ちへ)になりきぬ 漕ぎたむる 浦のことごと 行(ゆ)き隠(かく)る 島の崎々 隈(くま)も置かず 思ひぞ我が来る 旅の日(け)長み
意訳 いとしいあの子と別れて、その手枕も交わしえず、桜皮を巻いて作った船の舷に櫂を通してわれらが漕いで来ると、いつしか淡路の野島も通り過ぎ、印南都麻をも経て唐荷の島へとやっと辿り着いたが、その唐荷の島の、島の間から、わが家の方を見やると、そちらに見える青々と重なる山のどのあたりがわが故郷なのかさえさだかでなく、その上、白雲までたなびいて幾重にも間を隔ててしまった。船の漕ぎめぐる浦々、行き隠れる島の崎々、そのどこを漕いでいる時もずっと、私は家のことばかりを思いながら船旅を続けている。旅の日数が重なるままに。

<西本願寺本万葉集の原文を忠実に訓むときの解釈>
訓読 味さはふ 妹し目離(か)れて 敷栲(しきたへ)の 枕も纏(ま)かず 桜皮(さくら)纏(ま)き 作れる舟に 真梶(まかぢ)貫(ぬ)き 吾が榜(こ)ぎ来れば 淡路の 野島(のしま)も過ぎし 印南(いなみ)嬬(つま) 辛荷(からに)の島し 島し際(ま)ゆ 吾家(わぎへ)を見れば 青山(あをやま)の そことも見えず 白雲も 千重(ちへ)になり来ぬ 漕ぎ廻(た)むる 浦のことごと 往(い)き隠(かく)る 島の崎々 隈(くま)も置かず 思ひぞ吾が来る 旅の日(け)長み
私訳 たくさんのアジ鴨のその目のようにはっきりと愛しい貴女の姿を見ることが久しくなり、敷いた栲に枕を並べ貴女を手に捲かないかわりに、桜の皮を巻いて造った舟に立派な梶を挿し込んで、私が乗る舟を操って来ると、淡路の野島も過ぎて、印南妻、辛荷島の島の際から我が家の方向を見ると、青く見える山並みがどこの場所かも判らず、白雲も千重に重なりあっている。舟を漕ぎまわる浦のすべてで、舟の進みに隠れる島の岬の、その舟が廻り行く岬毎に旅の思い出が私の心に遣って来る。旅の日々が長くなったことよ。

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万葉雑記 色眼鏡 百五五 養子? 大伴家持を考える

2016年01月30日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 百五五 養子? 大伴家持を考える

 大伴家持と云う人物の一般的なイメージを、一度、棚に置きますと、その正体は不明の人物です。
 なにが不明かと云いますが、父親が大伴旅人なのか、母親は誰なのか、生年はいつなのかと云う基本的な事項です。建前では続日本紀の死亡時の記事から大伴旅人が父親になります。ただし、当時でも蔭位制度と一族の社会的地位を守るために養子と云う庶子はいますし、日本の蔭位制度も養子と云う庶子を認めています。そのため、大伴家持を解説するとき、正妻の長男(=嫡子)と妾の長男(=庶子)と云う二つの解説が存在します。歴史的には大伴家持は大伴一族の氏長の立場にありましたから、誰か他の正妻の長男(=嫡子)に対して妾の長男(=庶子)であったという見方をしますと、その正妻の長男はそうとう早くに死亡したと考えるより他はありません。一方、正妻は、おおむね、大伴旅人の大宰府赴任に同行しそこで死亡した大伴郎女と目されています。これを踏まえて、大伴家持は正体不明の妾の長男であろうと推定されています。一応、大伴旅人の実子説です。ただ、大伴郎女に男子の子が無く、または、家持よりはるかに年少でない限り、家持は庶子と云う立場です。大宝律令以降の建前では、蔭位制度を前にしますと嫡子と庶子との区分は大きいものがあります。

<養子についての参考資料>
大宝元年(701)七月戊戌、又功臣封応伝子、若無子勿伝、但養兄弟子為子者聴伝。其伝封之人、亦無子、聴更立養子而転授之。其計世葉、一同正子。但以嫡孫為継、不得伝封。又五位以上子、依蔭出身、以兄弟子為養子、聴叙位。其以嫡孫為継不得也。

 また、大伴家持は大正年間になってから本格的に注目・研究された万葉歌人であって、それ以前、平安時代や鎌倉時代などで、家持の秀歌として取り上げるものは本人の作品ではなく、他人の作品、無名歌人の作品、はたまた、家持の死後となる平安時代初期頃に作られた歌である場合が見られます。つまり、想像での家持像が先にあり、その家持像に合わせた歌が作られ、秀歌として採用された面があります。それに例するように大正期までは家持の生涯を矛盾なく再検討することは想定の外であったと思われます。名門出身の有名歌人ですから、伝承の家持像と年譜に問題があるとは思わなかったためなのでしょう。このあたりは「万葉雑記 色眼鏡 五十八 三十六人撰から平安貴族の万葉歌人への態度を見る」を参照にして頂ければと考えます。
 ここまでが、前提とする雑談です。

 さて、続日本紀の死亡時の記事「父大納言従二位旅人」から父親は大伴旅人となりますが、その旅人は死亡時には大納言従二位と云う高官でしたし、その死亡時、万葉集からしますと家持はまだ二十一歳未満であり官人に登用されていないとされています。
 一方、蔭位制度からしますと、従二位と云う高官の嫡子ですと二十一歳のときに正六位下の役人として出仕することになります。無位の官僚候補生である舎人を束ねる舎人正が正六位下の官位ですから、家持が旅人の嫡子でしたら二十一歳の時点で内舎人のような身分である可能性は薄いと思われます。そのため紹介しましたように庶子だったと推定し提案する研究者もいます。蔭位制度と父親の官位と云う視点から、家持は二十一歳のときに嫡子として正六位下で出仕したのか、それとも庶子として従六位上で出仕したのかと云う議論があり、未だにその決着は見ていないようです。この議論に合わせて生年の推定も動きますし、家持の相聞歌が詠われた年齢と相手との関係推定が変わります。つまり、この時点で既に大伴家持と云う人物の正体がぼやけて来るのです。
 ご存知のように大伴家持の家系は父親が旅人で祖父が安麻呂ですが、その大伴安麻呂は長男ではなく、兄には大納言を務めた大伴御行がいます。つまり、父親旅人が大伴家を束ねる器量があったために大伴家の家長格となっていますが、大伴御行の子には橘奈良麻呂の変で惨殺された大伴古麻呂がおり、旅人の死後に家持が大伴一族を代表する人物であったかと云うと難しく、奈良時代の政治混乱期を生き残ったという運があった人だけなのかもしれません。ある種、光仁天皇の即位への背景と似たものがあります。
 今一度、家持の官位問題に立ち戻りますと、天平十七年(745)正月に家持が正六位上から従五位下へと昇位した記事があります。この記事からしますと家持が嫡子であった場合は正六位下での出仕ですから、少なくとも八年ぐらいの役人生活を送っていたか、特選されての正六位下から正六位上へ、さらに正六位上から従五位下に昇位したことになります。標準的な昇位ですと八年ほど遡って天平十年(738)頃に二十一歳と逆算され、これは養老二年(718)頃の誕生となります。庶子ですと余分に一官位差分の考課期間四年が必要ですから天平六年(734)頃に二十一歳となります。つまり、和銅七年(714)頃の誕生となります。
 参考情報として、一般に家持の生年は『公卿補任』に載る天応元年(781)の記事から養老二年(718)としますので嫡子説を採用するのでしょうが、同じ『公卿補任』の宝亀十一年(780)の記事では天平元年(729)生まれとするようです。これは万葉集からすると全くに採用されない内容ですので『公卿補任』からのものは信頼性が無いとした方が良いかもしれません。
 他方、家持は万葉集に残る歌からしますと天平十年(738)頃に五位以上の子弟で二十一歳となるものが出仕する内舎人ではなかったかと思われます。ここで、本来の内舎人の官位は四位から五位の子弟が蔭位制度を下に出仕しますので七位から八位の位の職位です。すると、初任位が正六位下または従六位上の位を持つはずの家持にはまったくにふさわしくないものです。つまり、「父大納言従二位旅人」と云う正式な記録からしますと、大伴家持の年譜は不思議なものになるのです。ただし、よほどの遊び人か、ぼんくらで六位の位を持つ青年貴族として就くべき職がなく、位はあるが職がない散位扱いでの内舎人と云う可能性はあります。俗に云う放蕩息子のような人物と云うことになります。
 ここで、万葉集の歌に天平二年(730)六月に大伴旅人が病気となり、それに関連した歌が二首あり、その左注「於是大監大伴宿祢百代、少典山口忌寸若麿、及卿男家持等、相送驛使、共到夷守驛家、聊飲悲別、乃作此謌」から、この時、家持は宴に参加していることが判ります。嫡子で養老二年(718)頃の誕生ですと十二歳、庶子で和銅七年(714)頃の誕生ですと十六歳です。当時、男子は十四~十五歳で袴着を行い、大人の仲間入りをします。この男子成人の風習を踏まえますと、家持は庶子で和銅七年(714)頃の誕生と云う線が強いのかもしれません。大伴旅人は天智四年(665)の生まれですから、家持が和銅七年の生まれとしましても49歳頃の子供となります。非常に遅い子供です。なお、この和銅七年は大伴旅人の父親である安麻呂が亡くなった年であり、旅人が大納言大伴安麻呂家を継いだ年でもあります。ここに家持養子説と云う可能性が出てくるのです。なお、家持の弟書持は天平十一年に二十一歳ほどであった家持の、その妾の死亡を労わる歌を家持に贈っていますから、それほど年の離れた弟ではありません。双子であってもおかしくないほどの近接した年齢です。

 生誕に関係して、大伴家持は万葉集に載る歌から丹比家との繋がりが想定され、そこから家持の母親は丹比郎女と云う説があります。この説ですと、大伴旅人が丹比家の女性の許に妻問いを行い、その結果に生まれた子供で娘はそのままに丹比の女の許にいて、男の子である家持は旅人の許に引き取られた(大宰府の赴任に同行)ということを前提としています。
 ただし、歌の左注には「従留女之女郎」や「留女之女郎所誂家婦作也」とあります。他方、万葉集における「女郎」と「郎女」と云う名称問題については親の官位に従うという報告があります。この報告に従いますと、天平年間には大伴家持は従五位下ですから、家持の娘は四位から五位格の出身として「女郎」格の女性となり、伝承のような従二位旅人の娘の場合は三位以上の格の出身として「郎女」格の女性として呼称されます。従いまして、「女郎」と云う名称が明記されているのですから、以下に紹介する歌を根拠に「母親、丹比郎女と云う説」を唱える人がいましたら非常に残念です。なお、集歌4198の歌の左注「女郎者即大伴家持之妹」は、万葉集編纂関係者によるものではありません。付けられた漢文章の表記から分かりますように、これは後年の万葉集鑑賞者による「書き入れ」ですので、この「家持之妹」なるものを丹比郎女と云う説の根拠に採用するには、これ以外の論拠が必要になります。

贈京丹比家謌一首
標訓 京(みやこ)の丹比(たぢひ)の家に贈れる謌一首
集歌4173 妹乎不見 越國敝尓 經年婆 吾情度乃 奈具流日毛無
訓読 妹を見ず越し国辺(くにへ)に年経れば吾(わ)が心(こころ)どの和(な)ぐる日もなし
私訳 愛しい貴女を逢わないままに、越の国に年を経ると、私の気持ちは和む日はありません。

従京師贈来謌一首
標訓 京師(みやこ)より贈来(おこ)せる謌一首
集歌4184 山吹乃 花執持而 都礼毛奈久 可礼尓之妹乎 之努比都流可毛
訓読 山吹の花取り持ちてつれもなく離(か)れにし妹を偲(しの)ひつるかも
私訳 山吹の花を取り持って、思いのままにならなくて縁が無くなった大切なあの人(家持の正妻か)を偲んでします。
右、四月五日、従留女之女郎所送也
注訓 右は、四月五日に、留(とど)まれる女(め)の女郎(いらつめ)より送れり

集歌4198 都礼母奈久 可礼尓之毛能登 人者雖云 不相日麻祢美 念曽吾為流
訓読 つれもなく離(か)れにしものと人は云へど逢はぬ日多(まね)み念(おも)ひぞ吾がする
私訳 「思いのままにならなくて縁が無くなった」と貴女は云うけれど、その貴女に逢えない日々が多く、貴女を慕っています。私は。
右為贈留女之女郎所誂家婦作也 女郎者即大伴家持之妹
注訓 右は、留まりし女(め)の女郎(いらつめ)の所に贈らむが為に、家婦に誂(あとらへ)へて作れる。
補訓 女郎は即ち大伴家持の妹なり。


 つまり、大伴家持の母親は丹比郎女であると云う説は万葉集における「女郎」と「郎女」と云う名称問題を知らない誤解釈からの「トンデモ説」以外の何物でもないことになります。ここに、家持の母親は不明と云うことになります。このように昭和期以前までに推定された大伴家持像とはその根拠が非常にあいまいか、推定者の色眼鏡からの「べき論」的なものなのです。
 なお、天平十一年(739)の段階で家持には同居する妾がおり、その妾はその年に死亡しています。以下の歌が詠われた天平勝宝二年(750)には家持は三十六歳前後ですので、天平十一年六月に詠われた「悲傷亡妾作謌」からしますと十四~五歳頃の娘がいても不思議ではありません。ただ、このような検討が専門家の中でなされてきたかは知りません。

十一年己卯夏六月、大伴宿祢家持悲傷亡妾作謌一首
標訓 十一年己卯の夏六月に、大伴宿祢家持の亡(みまか)りし妾(をみなめ)を悲傷(かな)しびて作れる謌一首
集歌462 従今者 秋風寒 将吹焉 如何獨 長夜乎将宿
訓読 今よりは秋風寒く吹きなむを如何(いか)にかひとり長き夜を宿(ね)む
私訳 今からは秋風が寒く吹くでしょうに、これからどのようにして独りで長い夜を寝ましょう。

 次に大伴家持の内舎人についてもう一度検討をしてみますと、万葉集巻八に載る集歌1591の歌に付けられた左注「内舎人大伴宿祢家持」から、家持は天平十一年以前に内舎人であったことになります。そこから一般には天平十年に家持は内舎人の身分で出仕したと推定します。一方、万葉集巻三に載る長歌475の歌の標題には「十六年甲申春二月、安積皇子薨之時、内舎人大伴宿祢家持作謌六首」とありますし、巻六に載る集歌1029の歌の標題には「十二年庚辰冬十月、依太宰少貳藤原朝臣廣嗣謀反發軍、幸于伊勢國之時、河口行宮、内舎人大伴宿祢家持作謌一首」とあります。
 困りました家持は従二位大納言大伴旅人の子です。最低でも蔭位制度により二十一歳で従六位上の官位を授けられる身分です。まともな行政能力を持つ人物ですと、官位と職能はリンクするのが律令社会です。ただし、勤務成績が不良であれば、その保証はありません。勤務成績不良により任官出来る職務がなく、散位であったかもしれません。それが天平十六年以降まで長きに渡って内舎人=散位と云う官職、つまり、現代の企業内失業状態であった理由かもしれません。

集歌1591 黄葉乃 過麻久惜美 思共 遊今夜者 不開毛有奴香
訓読 黄葉(もみちは)の過ぎまく惜しみ思ふどち遊ぶ今夜(こよひ)は明けずもあらぬか
私訳 黄葉の季節が過ぎ行くの惜しと思える人たちが風流を楽しむ今夜は、夜が明けないでくれないものか。
右一首、内舎人大伴宿祢家持。
以前冬十月十七日、集於右大臣橘卿之舊宅宴飲也。


 若い家持が官人としての適性があったかと云うとそうでもなかったようです。それを窺わせるのが次の歌です。大伴一族、坂上郎女や駿河麿が招いた宴会で藤原八束に若い家持の後ろ盾を願ったようですが、どうも、本人がそれなりだったようです。

藤原朝臣八束梅謌二首  八束後名真楯 房前第二子
標訓 藤原朝臣八束(やつか)の梅の謌二首  八束は後に名を真楯(またて) 房前(ふささき)の第二子
集歌398 妹家尓 開有梅之 何時毛々々々 将成時尓 事者将定
訓読 妹し家(へ)に咲きたる梅しいつもいつも成りなむ時に事(こと)は定めむ
私訳 尊敬する貴女の家に咲いた梅(家持)が、何時でもそのときに、人として成長したときに人事を決めましょう。

集歌399 妹家尓 開有花之 梅花 實之成名者 左右将為
訓読 妹し家(へ)に咲きたる花し梅の花実にし成りなばかもかくもせむ
私訳 尊敬する貴女の家に咲いた花の、梅の花(家持)が実として成長したならば、どうにかしましょう。

大伴宿祢駿河麿梅謌一首
標訓 大伴宿祢駿河麿の梅の謌一首
集歌400 梅花 開而落去登 人者雖云 吾標結之 枝将有八方
訓読 梅の花咲きて散りぬと人は云へど吾が標(しめ)結(ゆ)ひし枝(えだ)にあらめやも
私訳 梅の花は咲いて散って逝くと世の人は云いますが、散って逝くのは私が標しを結んだ枝であるはずがありません。


 奈良時代中期までは、まだ、律令体制は機能しています。いくら名門の子弟であっても、ぼんくらは官僚としての官職もそれに対応する官位も与えられません。平安時代とはそこが違います。
 以下に続日本紀に載る大伴家持の年譜を示しますが、就いた職務とその後の展開を見て下さい。どうも、家持はち密な行政職には向いていないようで、国司や大宰少弐よりも名門武闘派系の氏族の長にふさわしい兵卒を率いる兵部少輔・大輔や名誉職である春宮大夫のような職種が彼には向いていたようです。せっかく、光仁天皇の即位で左中弁と云う行政職中枢の職を宝亀元年に得ますが、宝亀三年には式部員外大輔と云う名誉職が与えられ、最初の考課となる宝亀五年には相摸守と云う職務に従四位下と云う官位なのですが従五位相当職に任命されています。これは現在では降格人事に当たるものです。この人事は宝亀五年までのことですので、それ以降に生じる桓武天皇即位に関係するような派閥問題よりも、本人の役人としての能力か、真面目に勤務するという勤務態度に問題があるような人事です。その時代の重大な政変である有名な他戸皇太子とその母親井之上皇后の排除は宝亀三年(772)五月のことです。宝亀五年九月には左京大夫と同時に上総守に任官しています。政変で干された訳ではありません。ただ、左京大夫と同時に上総守に任官することは、実際上、上総守は名目だけであり、左京大夫もある種、名誉職です。
 よほど、家持は行政職には向いていなかったようです。逆に愛すべき放蕩人のような人格で生涯三度の事変(橘奈良麻呂の変、氷上川継の乱、廃他戸皇太子事件)でも深く巻き込まれることなく乗り越えられたのではないでしょうか。

天平十七年(745)正月乙丑、正六位上大伴宿禰家持並従五位下。
天平十八年(746)三月壬戌、従五位下大伴宿禰家持為(兵部)少輔。
天平十八年(746)六月壬寅、従五位下大伴宿禰家持為越中守。
天平勝宝元年(749)四月甲午朔、従五位下大伴宿禰家持並従五位上。
天平勝宝六年(754)夏四月庚午、従五位上大伴宿禰家持為兵部少輔。
天平勝宝六年(754)十一月辛酉朔、従五位上大伴宿禰家持為山陰道使。
天平宝字元年(757)六月壬辰、従五位上大伴宿禰家持為(兵部)大輔。
天平宝字二年(758)六月丙辰、従五位上大伴宿禰家持為因幡守。
天平宝字六年(762)正月戊子、従五位上大伴宿禰家持為信部大輔。
天平宝字八年(764)正月己未、従五位上大伴宿禰家持為薩摩守。
神護景雲元年(767)八月丙午、従五位上大伴宿禰家持並為大宰少弐。
宝亀元年(770)六月丁未、従五位上大伴宿禰家持為(民部)少輔。
宝亀元年(770)九月乙亥、従五位上大伴宿禰家持為左中弁兼中務大輔。
宝亀元年(770)十月己丑朔、従五位上大伴宿禰家持並正五位下。
宝亀二年(771)十一月丁未、正五位下大伴宿禰家持並従四位下。
宝亀三年(772)二月丁卯、左中弁従四位下大伴宿禰家持為兼式部員外大輔。
宝亀五年(774)三月甲辰、従四位下大伴宿禰家持為相摸守。
宝亀五年(774)九月庚子、従四位下大伴宿禰家持為左京大夫。左京大夫従四位下大伴宿禰家持為兼上総守。
宝亀六年(775)十一月丁巳、従四位下大伴宿禰家持為衛門督。
宝亀七年(776)三月癸巳、従四位下大伴宿禰家持為伊勢守。
宝亀八年(777)正月庚申、従四位下大伴宿禰家持並従四位上。
宝亀九年(778)正月癸亥、従四位上大伴宿禰家持正四位下。
宝亀十一年(780)二月丙申朔、伊勢守正四位下大伴宿禰家持並為参議。
宝亀十一年(780)二月甲辰、以参議正四位下大伴宿禰家持為右大弁。
天応元年(781)四月壬寅、右京大夫正四位下大伴宿禰家持為兼春宮大夫。
天応元年(781)四月癸卯、正四位下大伴宿禰家持並正四位上。
天応元年(781)五月乙丑、正四位上大伴宿禰家持為左大弁。春宮大夫如故。
天応元年(781)十一月己巳、授正四位上大伴宿禰家持従三位。
延暦元年(782)五月己亥、参議従三位大伴宿禰家持為春宮大夫。
延暦元年(782)六月戊辰、春宮大夫従三位大伴宿禰家持為兼陸奥按察使鎮守将軍。
延暦二年(783)七月甲午、従三位大伴宿禰家持為中納言、春宮大夫如故。
延暦三年(784)二月己丑(#この月なし。)従三位大伴宿禰家持為持兼征東将軍。
延暦四年(785)四月辛未、中納言従三位兼春宮大夫陸奥按察使鎮守将軍大伴宿禰家持。
延暦四年(785)八月庚寅、中納言従三位大伴宿禰家持死。祖父大納言贈従二位安麻呂、父大納言従二位旅人。家持天平十七年授従五位下、補宮内少輔。歴任内外。宝亀初、至従四位下左中弁兼式部員外大輔。十一年拝参議。歴左右大弁。尋授従三位。坐氷上川継反事、免移京外。有詔宥罪、復参議春宮大夫。以本官出為陸奥按察使。居無幾拝中納言、春宮大夫如故。
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今日の古今 みそひと歌 金

2016年01月29日 | 古今 みそひと歌
今日の古今 みそひと歌 金

歌たてまつれとおほせられし時、よみてたてまつれる 貫之
歌番二二
原歌 かすかののわかなつみにやしろたへのそてふりはへてひとのゆくらむ
標準 かすがののわかなつみにやしろたへのそでふりはへて人のゆくらむ
釈A 春日野の若菜摘みにや、白妙の袖振り延へて人の行くらむ
釈B 春日野の若菜摘みにや、白妙の袖振り映えて人の行くらむ
注意 一般に「ふりはへて」の言葉は「振り延へて」であり、「ことさらに」、「わざわざにする」と云う意味とするようです。ただ、歌の感覚からは、遠くから若い娘たちが柔らかい日差しの中を野遊びする風情をながめていますから、「振り映えて」と解釈することは可能です。その場合、一転、歌には野遊びに連れ立って行く晴れ着に着飾った娘たちの姿が浮かびあがります。なお、この歌は何かの場面で、その場にふさわしい歌を詠えと指示を受けてのものです。平安京から遠く離れた平城京の春日野を詠いますから、時に春をテーマとした屏風絵か、なにかを見ての歌かもしれません。
『万葉集』には似た風景を詠うものがありますから、参考に紹介します。

詠煙
標訓 煙を詠う
集歌1879 春日野尓 煙立所見 感嬬等四 春野之菟芽子 採而煮良思文 (感は、女+感の当字)
訓読 春日野(かすがの)に煙(けぶり)立つそ見ゆ娘子(をとめ)らし春野しうはぎ採みに煮らしも
私訳 春日野に煙が立っているのを見た。宮の官女たちが春の野の野遊びで嫁菜を摘んで煮ているようだ。

野遊
標訓 野に遊ぶ
集歌1880 春日野之 淺茅之上尓 念共 遊今日 忘目八方
訓読 春日(はるひ)野し浅茅(あさぢ)し上に念(おも)ふどち遊ぶ今(いま)し日忘らえめやも
私訳 春の一日を野原の浅茅の上で、心を同じくする人と風流を楽しむ、その今日の日を忘れられるでしょうか。

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今日の古今 みそひと歌 木

2016年01月28日 | 古今 みそひと歌
今日の古今 みそひと歌 木

仁和のみかど、みこにおましましける時に、人にわかなたまひける御うた
歌番二一
原歌 きみかためはるののにいててわかなつむわかこもろてにゆきはふりつつ
標準 君がため春ののにいでてわかなつむわがこもろでに雪はふりつつ
解釈 「君がため春の野に出でて若菜摘む、わが衣手に雪は降りつつ」のままです。他になにもありません。ただ、文字数を優先しているためか、二句目の口調は佳くありません。

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今日の古今 みそひと歌 水

2016年01月27日 | 古今 みそひと歌
今日の古今 みそひと歌 水

題しらず よみ人しらず
歌番二〇
原歌 あつさゆみおしてはるさめけふふりぬあすさへふらはわかなつみてむ
標準 梓弓おしてはるさめけふふりぬあすさへふらばわかなつみてむ
釈A 梓弓をして張る、その言葉の響きの春雨が今日降りぬ。明日さへも降るのなら、もう、若菜を摘みましょう。
釈B 梓弓を圧して張る、その言葉の響きの春雨が今日降りぬ。明日までも日を経らば(さぞや草芽も伸びるでしょう、それから)若菜を摘みましょう。
釈C 梓弓を圧して張る、その言葉の響きの春雨が今日は降りぬ。明日だけは雨が経て(=止む)しまえば、若菜を摘みましょう。
注意 万葉調の言葉遊びの歌です。分類では古歌に置かれるのではないでしょうか。標準的な釈Aでは「けふふりぬあすさへふらは」は「今日降りぬ明日さへ降らば」となっていますが、それですと風流の春の若菜摘みではなく、「若菜が伸び切る前に今日摘んでやろう」と云う商売心での氷雨の中での若菜摘みとなります。ちょっと、解釈が野暮ではないでしょうか。

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