竹取翁と万葉集のお勉強

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万葉雑記 色眼鏡 百五五 養子? 大伴家持を考える

2016年01月30日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 百五五 養子? 大伴家持を考える

 大伴家持と云う人物の一般的なイメージを、一度、棚に置きますと、その正体は不明の人物です。
 なにが不明かと云いますが、父親が大伴旅人なのか、母親は誰なのか、生年はいつなのかと云う基本的な事項です。建前では続日本紀の死亡時の記事から大伴旅人が父親になります。ただし、当時でも蔭位制度と一族の社会的地位を守るために養子と云う庶子はいますし、日本の蔭位制度も養子と云う庶子を認めています。そのため、大伴家持を解説するとき、正妻の長男(=嫡子)と妾の長男(=庶子)と云う二つの解説が存在します。歴史的には大伴家持は大伴一族の氏長の立場にありましたから、誰か他の正妻の長男(=嫡子)に対して妾の長男(=庶子)であったという見方をしますと、その正妻の長男はそうとう早くに死亡したと考えるより他はありません。一方、正妻は、おおむね、大伴旅人の大宰府赴任に同行しそこで死亡した大伴郎女と目されています。これを踏まえて、大伴家持は正体不明の妾の長男であろうと推定されています。一応、大伴旅人の実子説です。ただ、大伴郎女に男子の子が無く、または、家持よりはるかに年少でない限り、家持は庶子と云う立場です。大宝律令以降の建前では、蔭位制度を前にしますと嫡子と庶子との区分は大きいものがあります。

<養子についての参考資料>
大宝元年(701)七月戊戌、又功臣封応伝子、若無子勿伝、但養兄弟子為子者聴伝。其伝封之人、亦無子、聴更立養子而転授之。其計世葉、一同正子。但以嫡孫為継、不得伝封。又五位以上子、依蔭出身、以兄弟子為養子、聴叙位。其以嫡孫為継不得也。

 また、大伴家持は大正年間になってから本格的に注目・研究された万葉歌人であって、それ以前、平安時代や鎌倉時代などで、家持の秀歌として取り上げるものは本人の作品ではなく、他人の作品、無名歌人の作品、はたまた、家持の死後となる平安時代初期頃に作られた歌である場合が見られます。つまり、想像での家持像が先にあり、その家持像に合わせた歌が作られ、秀歌として採用された面があります。それに例するように大正期までは家持の生涯を矛盾なく再検討することは想定の外であったと思われます。名門出身の有名歌人ですから、伝承の家持像と年譜に問題があるとは思わなかったためなのでしょう。このあたりは「万葉雑記 色眼鏡 五十八 三十六人撰から平安貴族の万葉歌人への態度を見る」を参照にして頂ければと考えます。
 ここまでが、前提とする雑談です。

 さて、続日本紀の死亡時の記事「父大納言従二位旅人」から父親は大伴旅人となりますが、その旅人は死亡時には大納言従二位と云う高官でしたし、その死亡時、万葉集からしますと家持はまだ二十一歳未満であり官人に登用されていないとされています。
 一方、蔭位制度からしますと、従二位と云う高官の嫡子ですと二十一歳のときに正六位下の役人として出仕することになります。無位の官僚候補生である舎人を束ねる舎人正が正六位下の官位ですから、家持が旅人の嫡子でしたら二十一歳の時点で内舎人のような身分である可能性は薄いと思われます。そのため紹介しましたように庶子だったと推定し提案する研究者もいます。蔭位制度と父親の官位と云う視点から、家持は二十一歳のときに嫡子として正六位下で出仕したのか、それとも庶子として従六位上で出仕したのかと云う議論があり、未だにその決着は見ていないようです。この議論に合わせて生年の推定も動きますし、家持の相聞歌が詠われた年齢と相手との関係推定が変わります。つまり、この時点で既に大伴家持と云う人物の正体がぼやけて来るのです。
 ご存知のように大伴家持の家系は父親が旅人で祖父が安麻呂ですが、その大伴安麻呂は長男ではなく、兄には大納言を務めた大伴御行がいます。つまり、父親旅人が大伴家を束ねる器量があったために大伴家の家長格となっていますが、大伴御行の子には橘奈良麻呂の変で惨殺された大伴古麻呂がおり、旅人の死後に家持が大伴一族を代表する人物であったかと云うと難しく、奈良時代の政治混乱期を生き残ったという運があった人だけなのかもしれません。ある種、光仁天皇の即位への背景と似たものがあります。
 今一度、家持の官位問題に立ち戻りますと、天平十七年(745)正月に家持が正六位上から従五位下へと昇位した記事があります。この記事からしますと家持が嫡子であった場合は正六位下での出仕ですから、少なくとも八年ぐらいの役人生活を送っていたか、特選されての正六位下から正六位上へ、さらに正六位上から従五位下に昇位したことになります。標準的な昇位ですと八年ほど遡って天平十年(738)頃に二十一歳と逆算され、これは養老二年(718)頃の誕生となります。庶子ですと余分に一官位差分の考課期間四年が必要ですから天平六年(734)頃に二十一歳となります。つまり、和銅七年(714)頃の誕生となります。
 参考情報として、一般に家持の生年は『公卿補任』に載る天応元年(781)の記事から養老二年(718)としますので嫡子説を採用するのでしょうが、同じ『公卿補任』の宝亀十一年(780)の記事では天平元年(729)生まれとするようです。これは万葉集からすると全くに採用されない内容ですので『公卿補任』からのものは信頼性が無いとした方が良いかもしれません。
 他方、家持は万葉集に残る歌からしますと天平十年(738)頃に五位以上の子弟で二十一歳となるものが出仕する内舎人ではなかったかと思われます。ここで、本来の内舎人の官位は四位から五位の子弟が蔭位制度を下に出仕しますので七位から八位の位の職位です。すると、初任位が正六位下または従六位上の位を持つはずの家持にはまったくにふさわしくないものです。つまり、「父大納言従二位旅人」と云う正式な記録からしますと、大伴家持の年譜は不思議なものになるのです。ただし、よほどの遊び人か、ぼんくらで六位の位を持つ青年貴族として就くべき職がなく、位はあるが職がない散位扱いでの内舎人と云う可能性はあります。俗に云う放蕩息子のような人物と云うことになります。
 ここで、万葉集の歌に天平二年(730)六月に大伴旅人が病気となり、それに関連した歌が二首あり、その左注「於是大監大伴宿祢百代、少典山口忌寸若麿、及卿男家持等、相送驛使、共到夷守驛家、聊飲悲別、乃作此謌」から、この時、家持は宴に参加していることが判ります。嫡子で養老二年(718)頃の誕生ですと十二歳、庶子で和銅七年(714)頃の誕生ですと十六歳です。当時、男子は十四~十五歳で袴着を行い、大人の仲間入りをします。この男子成人の風習を踏まえますと、家持は庶子で和銅七年(714)頃の誕生と云う線が強いのかもしれません。大伴旅人は天智四年(665)の生まれですから、家持が和銅七年の生まれとしましても49歳頃の子供となります。非常に遅い子供です。なお、この和銅七年は大伴旅人の父親である安麻呂が亡くなった年であり、旅人が大納言大伴安麻呂家を継いだ年でもあります。ここに家持養子説と云う可能性が出てくるのです。なお、家持の弟書持は天平十一年に二十一歳ほどであった家持の、その妾の死亡を労わる歌を家持に贈っていますから、それほど年の離れた弟ではありません。双子であってもおかしくないほどの近接した年齢です。

 生誕に関係して、大伴家持は万葉集に載る歌から丹比家との繋がりが想定され、そこから家持の母親は丹比郎女と云う説があります。この説ですと、大伴旅人が丹比家の女性の許に妻問いを行い、その結果に生まれた子供で娘はそのままに丹比の女の許にいて、男の子である家持は旅人の許に引き取られた(大宰府の赴任に同行)ということを前提としています。
 ただし、歌の左注には「従留女之女郎」や「留女之女郎所誂家婦作也」とあります。他方、万葉集における「女郎」と「郎女」と云う名称問題については親の官位に従うという報告があります。この報告に従いますと、天平年間には大伴家持は従五位下ですから、家持の娘は四位から五位格の出身として「女郎」格の女性となり、伝承のような従二位旅人の娘の場合は三位以上の格の出身として「郎女」格の女性として呼称されます。従いまして、「女郎」と云う名称が明記されているのですから、以下に紹介する歌を根拠に「母親、丹比郎女と云う説」を唱える人がいましたら非常に残念です。なお、集歌4198の歌の左注「女郎者即大伴家持之妹」は、万葉集編纂関係者によるものではありません。付けられた漢文章の表記から分かりますように、これは後年の万葉集鑑賞者による「書き入れ」ですので、この「家持之妹」なるものを丹比郎女と云う説の根拠に採用するには、これ以外の論拠が必要になります。

贈京丹比家謌一首
標訓 京(みやこ)の丹比(たぢひ)の家に贈れる謌一首
集歌4173 妹乎不見 越國敝尓 經年婆 吾情度乃 奈具流日毛無
訓読 妹を見ず越し国辺(くにへ)に年経れば吾(わ)が心(こころ)どの和(な)ぐる日もなし
私訳 愛しい貴女を逢わないままに、越の国に年を経ると、私の気持ちは和む日はありません。

従京師贈来謌一首
標訓 京師(みやこ)より贈来(おこ)せる謌一首
集歌4184 山吹乃 花執持而 都礼毛奈久 可礼尓之妹乎 之努比都流可毛
訓読 山吹の花取り持ちてつれもなく離(か)れにし妹を偲(しの)ひつるかも
私訳 山吹の花を取り持って、思いのままにならなくて縁が無くなった大切なあの人(家持の正妻か)を偲んでします。
右、四月五日、従留女之女郎所送也
注訓 右は、四月五日に、留(とど)まれる女(め)の女郎(いらつめ)より送れり

集歌4198 都礼母奈久 可礼尓之毛能登 人者雖云 不相日麻祢美 念曽吾為流
訓読 つれもなく離(か)れにしものと人は云へど逢はぬ日多(まね)み念(おも)ひぞ吾がする
私訳 「思いのままにならなくて縁が無くなった」と貴女は云うけれど、その貴女に逢えない日々が多く、貴女を慕っています。私は。
右為贈留女之女郎所誂家婦作也 女郎者即大伴家持之妹
注訓 右は、留まりし女(め)の女郎(いらつめ)の所に贈らむが為に、家婦に誂(あとらへ)へて作れる。
補訓 女郎は即ち大伴家持の妹なり。


 つまり、大伴家持の母親は丹比郎女であると云う説は万葉集における「女郎」と「郎女」と云う名称問題を知らない誤解釈からの「トンデモ説」以外の何物でもないことになります。ここに、家持の母親は不明と云うことになります。このように昭和期以前までに推定された大伴家持像とはその根拠が非常にあいまいか、推定者の色眼鏡からの「べき論」的なものなのです。
 なお、天平十一年(739)の段階で家持には同居する妾がおり、その妾はその年に死亡しています。以下の歌が詠われた天平勝宝二年(750)には家持は三十六歳前後ですので、天平十一年六月に詠われた「悲傷亡妾作謌」からしますと十四~五歳頃の娘がいても不思議ではありません。ただ、このような検討が専門家の中でなされてきたかは知りません。

十一年己卯夏六月、大伴宿祢家持悲傷亡妾作謌一首
標訓 十一年己卯の夏六月に、大伴宿祢家持の亡(みまか)りし妾(をみなめ)を悲傷(かな)しびて作れる謌一首
集歌462 従今者 秋風寒 将吹焉 如何獨 長夜乎将宿
訓読 今よりは秋風寒く吹きなむを如何(いか)にかひとり長き夜を宿(ね)む
私訳 今からは秋風が寒く吹くでしょうに、これからどのようにして独りで長い夜を寝ましょう。

 次に大伴家持の内舎人についてもう一度検討をしてみますと、万葉集巻八に載る集歌1591の歌に付けられた左注「内舎人大伴宿祢家持」から、家持は天平十一年以前に内舎人であったことになります。そこから一般には天平十年に家持は内舎人の身分で出仕したと推定します。一方、万葉集巻三に載る長歌475の歌の標題には「十六年甲申春二月、安積皇子薨之時、内舎人大伴宿祢家持作謌六首」とありますし、巻六に載る集歌1029の歌の標題には「十二年庚辰冬十月、依太宰少貳藤原朝臣廣嗣謀反發軍、幸于伊勢國之時、河口行宮、内舎人大伴宿祢家持作謌一首」とあります。
 困りました家持は従二位大納言大伴旅人の子です。最低でも蔭位制度により二十一歳で従六位上の官位を授けられる身分です。まともな行政能力を持つ人物ですと、官位と職能はリンクするのが律令社会です。ただし、勤務成績が不良であれば、その保証はありません。勤務成績不良により任官出来る職務がなく、散位であったかもしれません。それが天平十六年以降まで長きに渡って内舎人=散位と云う官職、つまり、現代の企業内失業状態であった理由かもしれません。

集歌1591 黄葉乃 過麻久惜美 思共 遊今夜者 不開毛有奴香
訓読 黄葉(もみちは)の過ぎまく惜しみ思ふどち遊ぶ今夜(こよひ)は明けずもあらぬか
私訳 黄葉の季節が過ぎ行くの惜しと思える人たちが風流を楽しむ今夜は、夜が明けないでくれないものか。
右一首、内舎人大伴宿祢家持。
以前冬十月十七日、集於右大臣橘卿之舊宅宴飲也。


 若い家持が官人としての適性があったかと云うとそうでもなかったようです。それを窺わせるのが次の歌です。大伴一族、坂上郎女や駿河麿が招いた宴会で藤原八束に若い家持の後ろ盾を願ったようですが、どうも、本人がそれなりだったようです。

藤原朝臣八束梅謌二首  八束後名真楯 房前第二子
標訓 藤原朝臣八束(やつか)の梅の謌二首  八束は後に名を真楯(またて) 房前(ふささき)の第二子
集歌398 妹家尓 開有梅之 何時毛々々々 将成時尓 事者将定
訓読 妹し家(へ)に咲きたる梅しいつもいつも成りなむ時に事(こと)は定めむ
私訳 尊敬する貴女の家に咲いた梅(家持)が、何時でもそのときに、人として成長したときに人事を決めましょう。

集歌399 妹家尓 開有花之 梅花 實之成名者 左右将為
訓読 妹し家(へ)に咲きたる花し梅の花実にし成りなばかもかくもせむ
私訳 尊敬する貴女の家に咲いた花の、梅の花(家持)が実として成長したならば、どうにかしましょう。

大伴宿祢駿河麿梅謌一首
標訓 大伴宿祢駿河麿の梅の謌一首
集歌400 梅花 開而落去登 人者雖云 吾標結之 枝将有八方
訓読 梅の花咲きて散りぬと人は云へど吾が標(しめ)結(ゆ)ひし枝(えだ)にあらめやも
私訳 梅の花は咲いて散って逝くと世の人は云いますが、散って逝くのは私が標しを結んだ枝であるはずがありません。


 奈良時代中期までは、まだ、律令体制は機能しています。いくら名門の子弟であっても、ぼんくらは官僚としての官職もそれに対応する官位も与えられません。平安時代とはそこが違います。
 以下に続日本紀に載る大伴家持の年譜を示しますが、就いた職務とその後の展開を見て下さい。どうも、家持はち密な行政職には向いていないようで、国司や大宰少弐よりも名門武闘派系の氏族の長にふさわしい兵卒を率いる兵部少輔・大輔や名誉職である春宮大夫のような職種が彼には向いていたようです。せっかく、光仁天皇の即位で左中弁と云う行政職中枢の職を宝亀元年に得ますが、宝亀三年には式部員外大輔と云う名誉職が与えられ、最初の考課となる宝亀五年には相摸守と云う職務に従四位下と云う官位なのですが従五位相当職に任命されています。これは現在では降格人事に当たるものです。この人事は宝亀五年までのことですので、それ以降に生じる桓武天皇即位に関係するような派閥問題よりも、本人の役人としての能力か、真面目に勤務するという勤務態度に問題があるような人事です。その時代の重大な政変である有名な他戸皇太子とその母親井之上皇后の排除は宝亀三年(772)五月のことです。宝亀五年九月には左京大夫と同時に上総守に任官しています。政変で干された訳ではありません。ただ、左京大夫と同時に上総守に任官することは、実際上、上総守は名目だけであり、左京大夫もある種、名誉職です。
 よほど、家持は行政職には向いていなかったようです。逆に愛すべき放蕩人のような人格で生涯三度の事変(橘奈良麻呂の変、氷上川継の乱、廃他戸皇太子事件)でも深く巻き込まれることなく乗り越えられたのではないでしょうか。

天平十七年(745)正月乙丑、正六位上大伴宿禰家持並従五位下。
天平十八年(746)三月壬戌、従五位下大伴宿禰家持為(兵部)少輔。
天平十八年(746)六月壬寅、従五位下大伴宿禰家持為越中守。
天平勝宝元年(749)四月甲午朔、従五位下大伴宿禰家持並従五位上。
天平勝宝六年(754)夏四月庚午、従五位上大伴宿禰家持為兵部少輔。
天平勝宝六年(754)十一月辛酉朔、従五位上大伴宿禰家持為山陰道使。
天平宝字元年(757)六月壬辰、従五位上大伴宿禰家持為(兵部)大輔。
天平宝字二年(758)六月丙辰、従五位上大伴宿禰家持為因幡守。
天平宝字六年(762)正月戊子、従五位上大伴宿禰家持為信部大輔。
天平宝字八年(764)正月己未、従五位上大伴宿禰家持為薩摩守。
神護景雲元年(767)八月丙午、従五位上大伴宿禰家持並為大宰少弐。
宝亀元年(770)六月丁未、従五位上大伴宿禰家持為(民部)少輔。
宝亀元年(770)九月乙亥、従五位上大伴宿禰家持為左中弁兼中務大輔。
宝亀元年(770)十月己丑朔、従五位上大伴宿禰家持並正五位下。
宝亀二年(771)十一月丁未、正五位下大伴宿禰家持並従四位下。
宝亀三年(772)二月丁卯、左中弁従四位下大伴宿禰家持為兼式部員外大輔。
宝亀五年(774)三月甲辰、従四位下大伴宿禰家持為相摸守。
宝亀五年(774)九月庚子、従四位下大伴宿禰家持為左京大夫。左京大夫従四位下大伴宿禰家持為兼上総守。
宝亀六年(775)十一月丁巳、従四位下大伴宿禰家持為衛門督。
宝亀七年(776)三月癸巳、従四位下大伴宿禰家持為伊勢守。
宝亀八年(777)正月庚申、従四位下大伴宿禰家持並従四位上。
宝亀九年(778)正月癸亥、従四位上大伴宿禰家持正四位下。
宝亀十一年(780)二月丙申朔、伊勢守正四位下大伴宿禰家持並為参議。
宝亀十一年(780)二月甲辰、以参議正四位下大伴宿禰家持為右大弁。
天応元年(781)四月壬寅、右京大夫正四位下大伴宿禰家持為兼春宮大夫。
天応元年(781)四月癸卯、正四位下大伴宿禰家持並正四位上。
天応元年(781)五月乙丑、正四位上大伴宿禰家持為左大弁。春宮大夫如故。
天応元年(781)十一月己巳、授正四位上大伴宿禰家持従三位。
延暦元年(782)五月己亥、参議従三位大伴宿禰家持為春宮大夫。
延暦元年(782)六月戊辰、春宮大夫従三位大伴宿禰家持為兼陸奥按察使鎮守将軍。
延暦二年(783)七月甲午、従三位大伴宿禰家持為中納言、春宮大夫如故。
延暦三年(784)二月己丑(#この月なし。)従三位大伴宿禰家持為持兼征東将軍。
延暦四年(785)四月辛未、中納言従三位兼春宮大夫陸奥按察使鎮守将軍大伴宿禰家持。
延暦四年(785)八月庚寅、中納言従三位大伴宿禰家持死。祖父大納言贈従二位安麻呂、父大納言従二位旅人。家持天平十七年授従五位下、補宮内少輔。歴任内外。宝亀初、至従四位下左中弁兼式部員外大輔。十一年拝参議。歴左右大弁。尋授従三位。坐氷上川継反事、免移京外。有詔宥罪、復参議春宮大夫。以本官出為陸奥按察使。居無幾拝中納言、春宮大夫如故。
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万葉雑記 色眼鏡 百五四 東隣貧女、大伴田主と石川女郎の歌

2016年01月23日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 百五四 東隣貧女、大伴田主と石川女郎の歌

 何度も取り上げている歌で申し訳ありません。今回もまた万葉集巻二に載る大伴田主と石川女郎の相聞問答歌で遊びます。
 この相聞問答歌には短歌と短歌の間に漢文章が置かれ、その漢文章が大伴田主と石川女郎との相聞問答歌の背景を説明します。ちょうど、伊勢物語が漢字交じり平仮名文で歌が詠われた背景や場面を紹介するのと似ています。時代の先後からしますと、この漢文章が付けられた相聞問答歌が先で、伊勢物語は約百年の後です。この状況から物語と云う文学ジャンルにおける走りに位置する「歌物語」と云う分類での一番の最初のものともされています。
 こうした時、この漢文章に注目しますと、専門家は文章中に現れる「東隣貧女」と云うものに注目をします。今回、その注目される「東隣貧女」と云うものについて、遊びたいと思います。この言葉で今回、遊ぶ背景には万葉集の歌が詠われた時代の大陸文化とその導入と云うものがあり、本格的に大陸の文芸古典が導入されたのはいつ頃の時代なのかという問題のためです。このような背景で今回は「東隣貧女」と云う言葉に対して遊んでいます。

石川女郎贈大伴宿祢田主謌一首 即佐保大納言大伴卿第二子 母曰巨勢朝臣也
標訓 石川女郎の大伴宿祢田主に贈れる歌一首
追訓 即ち佐保大納言大伴卿の第二子、母を巨勢朝臣といふ
集歌126 遊士跡 吾者聞流乎 屋戸不借 吾乎還利 於曽能風流士
訓読 遊士(みやびを)と吾は聞けるを屋戸(やと)貸さず吾を還せりおその風流士(みやびを)
私訳 風流なお方と私は聞いていましたが、夜遅く忍んで訪ねていった私に、一夜、貴方と泊まる寝屋をも貸すこともしないで、そのまま何もしないで私をお返しになるとは。女の気持ちも知らない鈍感な風流人ですね。
左注 大伴田主字曰仲郎、容姿佳艶風流秀絶。見人聞者靡不歎息也。時有石川女郎、自成雙栖之感、恒悲獨守之難、意欲寄書、未逢良信。爰作方便、而似賎嫗、己提堝子、而到寝側、哽音蹄足、叩戸諮曰、東隣貧女、将取火来矣。於是仲郎暗裏非識冒隠之形。慮外不堪拘接之計。任念取火、就跡歸去也。明後、女郎既恥自媒之可愧、復恨心契之弗果。因作斯謌以贈諺戯焉。
注訓 大伴田主は字(あざな)を仲郎(なかちこ)といへり。容姿佳艶しく風流秀絶れたり。見る人聞く者の歎息せざるはなし。時に石川女郎といへるもの有り。自(おのづか)ら雙栖(そうせい)の感を成して、恒(つね)に獨守の難きを悲しび、意に書を寄せむと欲(おも)ひて未だ良信(よきたより)に逢はざりき。ここに方便を作(な)して賎しき嫗に似せて己(おの)れ堝子(なへ)を提げて寝(ねや)の側(かたへ)に到りて、哽音蹄足して戸を叩き諮(たはか)りて曰はく、「東の隣の貧しく女(をみな)、将に火を取らむと来れり」といへり。ここに仲郎暗き裏(うち)に冒隠(ものかくせる)の形(かたち)を識らず。慮(おもひ)の外に拘接(まじはり)の計りごとに堪(あ)へず。念(おも)ひのまにまに火を取り、路に就きて歸り去なしめき。明けて後、女郎(をみな)すでに自媒(じばい)の愧(は)づべきを恥ぢ、また心の契(ちぎり)の果さざるを恨みき。因りてこの謌を作りて諺戯(たはふれ)を贈りぬ。

大伴宿祢田主報贈一首
標訓 大伴宿祢田主の報(こた)へ贈れる一首
集歌127 遊士尓 吾者有家里 屋戸不借 令還吾曽 風流士者有
訓読 遊士(みやびを)に吾はありけり屋戸(やと)貸さず還しし吾(われ)ぞ風流士(みやびを)にはある
私訳 風流人ですよ、私は。神話の伊邪那岐命と伊邪那美命との話にあるように、女から男の許を娉うのは悪(あし)ことですよ。だから、女の身で訪ねてきた貴女に一夜の寝屋をも貸さず、貴女に何もしないでそのまま還した私は風流人なのですよ。だから、今、貴女とこうしているではないですか。

同石川女郎更贈大伴田主中郎謌一首
標訓 同じ石川女郎の更に大伴田主中郎に贈れる歌一首
集歌128 吾聞之 耳尓好似 葦若未乃 足痛吾勢 勤多扶倍思
訓読 吾(わ)が聞きし耳に好(よ)く似る葦(あし)若未(うれ)の足(あし)痛(う)む吾が背(せ)勤(つと)め給(た)ふべし
私訳 私が聞くと発音がよく似た葦(あし)の末(うれ)と足(あし)を痛(う)れう私の愛しい人よ。神話の伊邪那岐命と伊邪那美命との話にあるように、女から男の許を娉うのは悪(あし)ことであるならば、今こうしているように、風流人の貴方は私の許へもっと頻繁に訪ねて来て、貴方のあの逞しい葦の芽によく似たもので私を何度も何度も愛してください。
右、依中郎足疾、贈此謌問訊也
注訓 右は、中郎の足の疾(やまひ)に依りて、此の歌を贈りて問訊(とぶら)へり。

大伴皇子宮侍石川女郎贈大伴宿祢宿奈麻呂謌一首
女郎字曰山田郎女也。宿奈麻呂宿祢者、大納言兼大将軍卿之第三子也
標訓 大伴皇子の宮の侍(まかたち)石川女郎(いらつめ)の大伴宿祢宿奈麻呂に贈れる歌一首
追訓 女郎は字(あざな)を山田の郎女(いらつめ)といへり。宿奈麻呂宿祢は大納言兼大将軍卿の第三子なり。
集歌129 古之 嫗尓為而也 如此許 戀尓将沈 如手童兒
訓読 古(ふ)りにし嫗(おふな)にしにや如(か)くばかり恋に沈まむ手(た)童(わらは)し如(ごと)
私訳 私はもう年老いた婆ですが、この石川女郎と大伴田主との恋の物語のように昔のように恋の思い出に心を沈みこませています。まるで、一途な子供みたいに。
一云、戀乎太尓 忍金手武 多和良波乃如
一(ある)は云はく、
訓読 恋をだに忍びかねてむ手(た)童(わらは)の如
私訳 恋の思い出に耐えるのが辛い。まるで、感情をコントロール出来ない子供のように。

 最初に紹介しましたように、この相聞問答歌には集歌126の歌の左注の形で漢文書によって歌の背景を紹介します。その漢文章に現れる「東隣貧女」と云う文節に対して、古くから話題があります。話題の中心が「東隣貧女」と云う言葉の出典はなにかと云う点です。
 この相聞問答歌が創作されたのは藤原京後半の時代であろうと推定されていますから、最大、時代を下っても平城京遷都の和銅三年(710)までです。この年を基準としますと大宝二年(702)に派遣され、慶雲元年(704)に帰国した第七次遣唐使が近々の大陸文化を大規模にもたらした有力な事件となります。それ以前ですと、私的貿易や新羅経由での大陸文化の導入となり、大規模で網羅的な大陸文化の導入までは行き着かなかったのではないでしょうか。
 このような時代背景があるために、今回紹介しました相聞問答歌に現れる「東隣貧女」と云う文節もまた重要な文化交流の実情を知る上での物証となる可能性があります。例えば、司馬相如の「美人賦」に「臣之東隣有一女子」と云う一節がありますから、相聞問答歌を創作した人物はこの司馬相如の「美人賦」を知っていたと推定することも可能となります。また、『文選』に載る「好色賦」には「隣之女」や「東家之子」と云う詞がありますので、司馬相如の「美人賦」からではなく、『文選』の「好色賦」からではないかと云う推定も成り立ちます。さらに、『藝文類聚』に載る梁江淹の「麗色賦」での「東隣之佳人」の詞もまたそれの可能性があり、『玉台新詠』に載る徐悱が詠う「對房前桃樹詠佳期贈内」における「東家」かもしれません。このように第七次遣唐使が持ち帰った可能性のある漢籍は多数に上ります。少なくとも、文学史の研究者は、これらの『文選』、『藝文類聚』、『玉台新詠』は奈良時代の早い時期には将来された書物であろうとします。
 また、漢文章の中に使われる「風流」と云う詞もまたその意味する出典に対して話題があります。およそこの相聞歌で使われる「風流」と云う詞が示す世界は、従来の人物が風雅であるとか、自然の景色が雅であるというような解釈ではなく、遊郭での遊びや性的な男女の交際を暗示させる用法が現れる『遊仙窟』の影響が多大だとします。そのため、歌中に現れる「風流」と云う詞の用法からしますと、この相聞問答歌は、引用したであろう『遊仙窟』が大唐において公表された時代背景からしますと第七次遣唐使の帰国以降、平城京遷都の前に創作されたであろうと推定されています。まず、慶雲元年に帰国した第七次遣唐使の帰国以降であるとして、歌や漢文章を鑑賞する必要があることになります。

 さて、「東隣貧女」と云う言葉に、再度、注目しますと、漢文章では「而似賎嫗、己提堝子、而到寝側、哽音蹄足」と記しますが、読み手の期待としては「大伴田主字曰仲郎、容姿佳艶風流秀絶」の相手として相応しい容姿を求めるのではないでしょうか。もし、そうですと、「東隣貧女」と云う言葉に中国古典が取られているとしますと、その言葉の背景には漢籍引用のルールからは「容姿佳艶風流秀絶」に対抗するものを暗示する原典の文節があるはずです。
 このような視点から中国古典を眺めますと、司馬相如の「美人賦」は「玄髮豊豔、蛾眉皓齒」と非常にあっさりしたものですし、登徒子の「好色賦」もまた「眉如翠羽、肌如白雪、腰如束素、齒如含貝」と標準的な美人を表現するのみです。ともに『文選』に載る作品ですが、さて、「容姿佳艶風流秀絶」である大伴田主にふさわしい相手を示すものでしょうか。
 一方、時代が下って南北朝時代になりますと、江淹は「麗色賦」で「既翠眉而瑤質、亦顱瞳而赬脣、灑金花及珠履、颯綺袂與錦紳、色練練而欲奪、光炎炎而若神、・・・」と美人の容姿や服飾を詳説します。個人の好みからしますと、「東隣貧女」と云う言葉はこの「麗色賦」で示す「東隣之佳人」が由来ではないかと考えたくなります。さて、奈良時代の貴族はどちらの方の古典を思い浮かべたでしょうか。

 ところで、この江淹の「麗色賦」は『藝文類聚』に収録される作品で、その『藝文類聚』は初唐の武徳七年(624)に編まれた百科事典のようなものです。その書物の性格から、この『藝文類聚』は慶雲元年(704)に帰国した第七次遣唐使によって将来された可能性がありますので、大伴田主と石川女郎の相聞問答歌が創作された時代とも合うものです。個々の数百もの書籍を網羅的に読解し身に着けるよりも、選書から編まれた『藝文類聚』を下に先行する古典を学習する方が容易と考えます。また、そうであったのではないでしょうか。
 このように考えますと、万葉集中期以降の作品に現れてくる中国古典の多くは慶雲元年(704)に帰国した第七次遣唐使や養老二年(718)に帰国した第八次遣唐使によるものが多大と考えます。標準的な帰結となりますが、万葉集の歌人たちは『藝文類聚』や『遊仙窟』、また、神仙道教の書籍の方を好んだようです。これは今回紹介しました相聞問答歌における漢文章での「東隣貧女」や「風流」と云う言葉の用法が裏付けるものでもあります。

 最後に参考資料と文字数稼ぎを目的に、引用しました中国古典を以下に紹介します。なお、付けられた読点は弊ブログの独善ですので、参考だけに留めて下さい。

『文選』収録「美人賦」 司馬相如(前漢の人)
漢司馬相如美人賦曰、
司馬相如、美麗閑都、遊於梁王。梁王之。鄒陽譖之於王曰、相如美則美矣。然服色容冶、妖麗不忠、將欲媚辭取。
遊王後宮、相如曰、古之避色、孔墨之徒。聞齊饋女而遐逝。望朝歌而迴車、譬猶防火水中、避溺山隅。此乃未見其可欲。何以明不好色乎。若臣者、少長西土、鰥處獨居、室宇遼廓、莫與為娛。臣之東鄰、有一女子、玄髮豊豔、蛾眉皓齒。登垣而望臣、三年於茲矣。臣棄而不許。聞大王之高義、命駕来東、途出鄭衛、道由桑中、朝發溱洧、暮宿上宮。上宮閑館、寂寞重虚、門閤盡掩、曖若神居、芳香芬烈、黼帳高張、有女獨處、婉若在床、臣遂撫弦、為幽蘭之曲。女乃歌曰、獨處室兮廓無依、有美人兮來何遲。玉釵挂臣冠、羅袖拂臣衣、茵褥重陳、角枕施。女乃弛其上服、表其中衣、皓體呈露、弱骨豊肌。時来親臣、柔滑如脂、臣脈定於内、心正于懷。翻然高舉、與彼長辭。


『文選』収録「好色賦」 登徒子(戦国時代 楚の人)
大夫登徒子侍於楚王、短宋玉曰、玉為人、體貌閑麗、口多微辭、又性好色。願王勿與出入後宮。王以登徒子之言問宋玉、玉曰、體貌閑麗、所受於天也。口多微辭、所學於師也。至於好色、臣無有也。王曰、子不好色、亦有說乎、有說則止、無說則退。玉曰、天下之佳人莫若楚國、楚國之麗者莫若臣里、臣里之美者莫若臣東家之子。東家之子、之一分則太長、減之一分則太短、著粉則太白、施朱則太赤。眉如翠羽、肌如白雪、腰如束素、齒如含貝。嫣然一笑、惑陽城、迷下蔡。然此女登牆闚臣三年、至今未許也。登徒子則不然。其妻蓬頭攣耳、齞脣歴齒。旁行踽僂、又疥且痔。登徒子之、使有五子。王孰察之、誰為好色者矣。
是時、秦章華大夫在側、因進而稱曰、今夫宋玉盛稱隣之女、以為美色、愚亂之邪。臣自以為守、謂不如彼矣。且夫南楚窮巷之妾、焉足為大王言乎。若臣之陋、目所曾睹者、未敢云也。
王曰、試為寡人說之。大夫曰、唯唯。臣少曾遠遊、周覽九士、足歴五都。出咸陽、熙邯鄲。從容鄭衛溱洧之間、是時向春之未、迎夏之陽、鶬鶊喈喈、群女出桑。此郊之妹、華色含光、體美容冶、不待飾裝。
臣觀其麗者、因稱詩曰、遵大路兮攬子袪、贈以芳華辭甚妙。於是處子悦若有望而不來、忽若有來而不見、意密體疏、俯仰異觀、含喜微笑、竊視流眄。
復稱詩曰、寤春風兮發鮮榮、潔齋俟兮惠音聲、贈我如此兮不如無生、因遷延而辭避、蓋徒以微辭相感動、精神相依憑、目欲其顏、心顧其義、揚詩守禮、終不過差、故足稱也。
于是楚王稱善、宋玉遂不退。


『藝文類聚』収録「麗色賦」 江淹(南朝、梁の人)
夫絶世獨立者、信東隣之佳人。既翠眉而瑤質、亦顱瞳而赬脣、灑金花及珠履、颯綺袂與錦紳、色練練而欲奪、光炎炎而若神、非氣象之可譬、焉影響而能陳。故仙藻霊葩、冰華玉儀、其始見也。若紅蓮鏡池、其少進也。如綵雲出崖、五光徘徊、十色陸離、寶過珊瑚同樹、價直瓊草共枝。於是雕臺繡戺、當衢術、椒庭承月、碧戶延日、架蛟柱之厳麗、亙虹梁之峻密、錦幔垂而香寂、桂煙起而清謐。女乃曜邯鄲之歩、媚北里之鳴瑟。若夫紅華舒春、黄鳥飛時、紺初軟、赬蘭始滋、不掔蘅帶、無倚桂旗、摘芳拾蕊、涵詠吐辭、笑月出於陳歌、感蔓草於衛詩、氣炎日永、離明火中、菫栄任露、蓮華勝風、後欄丹奈、前軒碧桐、笙歌畹右、琴舞池東。至乃西陸始秋、白道月弦、金波照戸、玉露曖天。氣以濕兮曉未半、星雖流兮夜何央。憶雜佩兮且一念、憐錦衾兮以九傷。於是帳必藍田之寶、席必蒲萄之文、館図明月、室畫浮雲。言必入媚、動必應規、有光有艶、如合如離、氣柔色靡、神凝骨奇、經秦歴趙、既無其雙、尋楚訪蔡、不覿其容。非天下之至麗、孰能與於此哉。


『玉台新詠』収録「對房前桃樹詠佳期贈内」徐悱(南朝 梁の人)
對房前桃樹詠佳期贈内 房前の桃樹に對し佳期を詠じ内に贈る
相思上北閣 徙倚望東家 相思ひて北閣に上り 徙倚して東家を望む
忽有當軒樹 兼含映日花 忽ち軒に當れる樹有り 兼ねて日に映ずる花を含む
方鮮類紅粉 比素若鉛華 鮮を方ぶれば紅粉に類し 素を比ぶれば鉛華の若し
更使増心憶 彌令想狹斜 更に心憶を増さしめ 彌いよ狹斜を想はしむ
無如一路阻 脈脈似雲霞 如ともする無し一路の阻たり 脈脈として雲霞に似たり
嚴城不可越 言折代疎麻 嚴城越ゆべからず 言に折りて疎麻に代ふ


 お詫びとして、
 紹介しました「賦」については訓じを示しませんでした。これは個人の漢文への能力不足に起因し、また、無精によるものです。申し訳ありません。
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万葉雑記 色眼鏡 百五三 なまよみの甲斐国 山梨から富士を讃える

2016年01月16日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 百五三 なまよみの甲斐国 山梨から富士を讃える

 万葉集巻三に高橋虫麻呂歌集に載る歌として富士山を詠う集歌319の長歌があります。多くの富士山を詠う歌は太平洋上やその岸辺から眺めた姿を詠いますが、この集歌319の長歌は少しその歌い方が違います。貞観大噴火以前に存在した石花海や富士川を読み込むなど甲斐国側、北側から富士山を眺めたものとなっています。ただ、富士山と云う山自体の所属は駿河国であって、甲斐国ではなかったようです。
 こうしたとき、長歌の詠い出し「奈麻余美乃 甲斐乃國(なまよみの甲斐の国)」と云う言葉が古くから話題になっています。この「なまよみ」とは、どのような意味を持つ言葉なのかという議論では、今日では「生+黄泉」と云う考えが有力ですが、今回はもう一度この言葉を探っていきたいと思います。

詠不盡山謌一首并短謌
標訓 不尽山を詠める歌一首并びに短歌
集歌319 奈麻余美乃 甲斐乃國 打縁流 駿河能國与 己知其智乃 國之三中従 出之有 不盡能高嶺者 天雲毛 伊去波伐加利 飛鳥母 翔毛不上 燎火乎 雪以滅 落雪乎 火用消通都 言不得 名不知 霊母 座神香 石花海跡 名付而有毛 彼山之 堤有海曽 不盡河跡 人乃渡毛 其山之 水乃當焉 日本之 山跡國乃 鎮十方 座祇可間 寳十方 成有山可聞 駿河有 不盡能高峯者 雖見不飽香聞
訓読 なまよみの 甲斐(かひ)の国 うち寄する 駿河(するが)の国と こちごちの 国しみ中ゆ 出(い)ずしあり 不尽(ふじ)の高嶺(たかね)は 天雲も い行きはばかり 飛ぶ鳥も 飛びも上(のぼ)らず 燃ゆる火を 雪もち消(け)ち 降る雪を 火もち消(け)ちつつ 言ひも得ず 名付けも知らず 霊(くす)しくも 座(いま)す神か 石花(せ)し海と 名付けてあるも その山し つつめる海ぞ 不尽河(ふぢかわ)と 人の渡るも その山し 水の激(たぎ)ちぞ 日し本し 大和し国の 鎮(しづめ)とも 座(いま)す神かも 宝とも 生(な)れる山かも 駿河なる 不尽の高嶺は 見れど飽かぬかも
私訳 半黄泉(なまよみ)、この世とあの世との界(かい=区切り)、その言葉の響きのような、甲斐の国と、浪打ち寄せる駿河の国と、あちこちの国の真ん中にそびえたつ富士の高峰は、天雲も流れ行くのをはばかり、空飛ぶ鳥も山を飛び越えることもせず、山頂に燃える火を雪で消し、また、降る雪を燃える火で溶かし消し、どう表現したらよいのか、名の付け方も知らず、貴くいらっしゃる神のようです。石花の海と名付けているのも、その山を取り巻く海だよ。富士川として人が渡る川も、その山の水の激しい流れだよ。日の本の大和の国の鎮めといらっしゃる神とも、国の宝ともなる山でしょうか。駿河にある富士の高嶺は見ても見飽きることはないでしょう。

反謌
集歌320 不盡嶺尓 零置雪者 六月 十五日消者 其夜布里家利
訓読 不尽(ふぢ)し嶺(ね)に降り置く雪は六月(みなつき)し十五日(もち)に消(き)ぬればその夜(よ)降りけり
私訳 富士の嶺に降り積もる雪は、夏の終わりの六月の十五日に消えるのだが、その夜には新しい年の雪が降ってくる。


 インターネット調べからしますと、都留文系大学の鈴木武晴教授の「なまよみの甲斐考」に多くの有力説が解説してあり、西宮一臣氏が唱え、現在では最有力となっている「生+黄泉」説もそこに紹介されています。
 歴史の中では「生吉の貝」、「生善肉の貝」、「生弓の甲斐」などの案が提案されてきたようですが、語例と語法から非常な無理筋であると否定的な扱いになっています。有力なのは「生黄泉の交ひ」案です。これは東海道と東山道とを連絡する古道があり、また、山・坂の地でこの世とあの世(黄泉国)との連絡となる場所(生+黄泉=黄泉の国として完成されていない、未熟である場所=入り口となる場所)と云う意味合いから提案された案です。
 一方、鈴木武晴教授は古くから土地誉めと云う風習がある大和で、その良字や良名にならない「生+黄泉」説に異議を唱え、「行(なま=並ま)+吉み」説を唱えられています。つまり、山並みの姿が宜しい国と云う考えからです。そうしますと、歌の初句「奈麻余美乃 甲斐乃國 打縁流 駿河能國与」は「(山の姿が)なまよみの」甲斐の国と「(波が)うち寄する」駿河の国と云う対比が現れるとします。実に卓見の指摘です。
 こうした時、いくつものものが連なる様を意味する「並み」や「並め」と云う言葉が「なま」と云う言葉と等価であるということが重要になります。一方、「なまよみ」の「よみ」については万葉集中に「好見」(集歌765)、「吉美」(集歌1483)、「吉三」(集歌2131)、「好美」(集歌2349)、「好三」(集歌2618)などの表現があり、「余美」と云う表現はこれらのものと比較して「美しいところが余りある、すばらしいところ」のような表現を意味するとしても違和感がないと考えます。
 すると、「奈麻余美」の「奈麻」が「並ま」であるのかどうかに、問題点は集約されます。都留文系大学の鈴木武晴教授は「天雲(あまくも)」などの用例を上げて「天」の「あめ」が「あま」と転化したのと同様な事例であるとします。ほぼ、この説明で「奈麻」は「並ま」であり「なま」と訓じて良いのではないでしょうか。従いまして、集歌319の長歌の訓じと解釈は次のように変更致します。

訓読 並(な)まよ美の 甲斐(かひ)の国 うち寄する 駿河(するが)の国と こちごちの 国しみ中ゆ 出(い)ずしあり 不尽(ふじ)の高嶺(たかね)は 天雲も い行きはばかり 飛ぶ鳥も 飛びも上(のぼ)らず 燃ゆる火を 雪もち消(け)ち 降る雪を 火もち消(け)ちつつ 言ひも得ず 名付けも知らず 霊(くす)しくも 座(いま)す神か 石花(せ)し海と 名付けてあるも その山し つつめる海ぞ 不尽河(ふぢかわ)と 人の渡るも その山し 水の激(たぎ)ちぞ 日し本し 大和し国の 鎮(しづめ)とも 座(いま)す神かも 宝とも 生(な)れる山かも 駿河なる 不尽の高嶺は 見れど飽かぬかも

私訳 山々が連なり山並みが美しい甲斐の国と、浪打ち寄せる駿河の国と、あちこちの国々の真ん中にそびえたつ富士の高峰は、天雲も流れ行くのをはばかり、空飛ぶ鳥も山を飛び越えることもせず、山頂に燃える火を雪で消し、また、降る雪を燃える火で溶かし消し、どう表現したらよいのか、名の付け方も知らず、貴くいらっしゃる神のようです。石花(せ=背=頼もしい夫)の海と名付けているのも、その山を取り巻き包む海だからです。富士川として人が渡る川も、その山の水の激しい流れです。日の本の大和の国の鎮めといらっしゃる神とも、国の宝ともなる山でしょうか。駿河にある富士の高嶺は見ても見飽きることはないでしょう。


 さて、歌自体に目を転じてみたいと思います。この高橋連蟲麻呂に関係して高橋連蟲麻呂謌集は「登筑波嶺為嬥謌會日作歌」、「登筑波山謌」、「詠上総末珠名娘子一首」などの作品を収めた歌集とされ、それらの作品は高橋蟲麻呂自身の作品であろうと推定されています。つまり、高橋蟲麻呂は東国、それも現在の関東地方を訪れていることは確実です。
 こうした時、「四年壬申、藤原宇合卿遣西海道節度使之時、高橋連蟲麻呂作謌一首」と云う歌(集歌971)があり、藤原宇合と高橋蟲麻呂との上司・配下の関係が推定されています。さらに藤原宇合は養老三年の按察使設置時に常陸守として安房、上総及び下総三国の按察使に任命されていますので、このごろ、高橋蟲麻呂は関東地方にやって来たのではないかと推定されています。「検税使大伴卿登筑波山時謌一首」(集歌1753)が高橋連蟲麻呂謌集に載るものですと、高橋蟲麻呂と大伴旅人との関係も考慮する必要が現れて来ます。
 歌での「検税使大伴卿」と示される「検税使」は、東山道、東海道、北陸道、山陽道、山陰道、南海道、西海道の七街道と畿内とにそれぞれ配置された臨時の税務に関する役職です。そうした時、大伴旅人や藤原宇合が活躍した時代、古代史の建前では、東山道は近江・美濃・信濃・上野・下野・陸奥の各国国府を通る道となっていますが、歴史においては美濃国と信濃国とを結ぶ吉蘇路(木曽路)が完成したのは和銅六年(713)です。つまり、それ以前としては建前としては美濃国と信濃国とは公道として連絡していません。従いまして、それ以前には東山道は寸断されており駿河・甲斐・武蔵・上野・下野・陸奥と云う順路が想像されますし、大伴旅人や藤原宇合が活躍した時代は吉蘇路(木曽路)が開墾・開通したばかりで切株がまだまだ目立つような険しい道のりであったようです。例えば、次の歌は柿本人麻呂歌集の載る歌ですが、時代としては急速に官道が整備されつつある時代です。

集歌2855 新治 今作路 清 聞鴨 妹於事牟
訓読 新墾(にひはり)し今作る路(みち)さやかにも聞きてけるかも妹し上(へ)しことを
私訳 新しく切り開いた今作った道が清らかであるように、さやに(=はっきりと)聞きました。貴女が新しく路を作るように、時を迎え女性になったという身の上の出来事を。

 すると、「奈麻余美乃 甲斐乃國 打縁流 駿河能國与」と云う句から考えますと、高橋蟲麻呂は甲斐国から駿河国へと街道を抜けた可能性があります。これは推定される当時としての東山道検税使のルートであり、按察使における常陸守として安房、上総及び下総三国の按察する場合との交通ルートが違います。一方、藤原宇合の赴任地である常陸国へのルートからしますと道中の安房や下総へは浦賀から東京湾を渡海するルートが標準ですので、伊豆国御島(静岡県三島)から伊豆半島の足柄峠を経由して相模に下り、さらに浦賀・安房が順当です。この場合、高橋蟲麻呂は北側から富士山を詠いますから、その視線での甲斐国は藤原宇合の赴任地へのルート上には乗ってきません。
 この推定下では東国の歌関係では武蔵国が古い時代には東山道に含まれているとしますと高橋蟲麻呂は検税使である大伴旅人との関係が深く、反って按察使兼常陸守である藤原宇合とは関係が薄かったと思われます。万葉集の解説としては意外でしょうが、高橋蟲麻呂の「詠不盡山謌一首」を鑑賞しますと、このように推測せざるを得ないことになります。なお、ご指摘があるでしょう常陸国の筑波山と上総国の末珠名娘子の件は勤務の途中の物見遊山としても大きくルートからは外れないと考えています。これについては、実に独善で恣意的な判断ですが、駿河国から甲斐国へ富士山見学の目的だけには行かないという判断が背景ですので、ご了解ください。

 大伴旅人や高橋蟲麻呂が見たであろう富士山は北西側で大噴火した貞観噴火以前の富士山の姿であり、今日の姿ではありません。そのとき、青木が原樹海の基盤となった溶岩台地はありませんし、富士山北西麓一帯は巨大な石花湖がありました。それに山頂からは煙噴く姿です。
 付け加えまして、甲斐国から富士山を眺め、褒め称えた歌はあまりないのではないでしょうか。山梨県が収集する資料にも「甲斐国から富士山を眺め、褒め称えた歌」と云う紹介はないのではないでしょうか。そこが、少し、残念です。ご来場の方で、甲斐から見た富士山を詠う平安時代以前の歌をご存知で、ご教授頂けたら、大変にありがたいことです。

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万葉雑記 色眼鏡 百五二 瀬戸内海航路と万葉集

2016年01月09日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 百五二 瀬戸内海航路と万葉集

 今回は万葉集の歌から古代の交通路について遊びます。ただ、歌の鑑賞や解釈は、いつものように強引ですし、独善です。異臭がプンプンしますが、ご容赦を願います。
 最初に標準的な中古代の畿内から四国への街道である南海道の道のりは延喜式では紀伊水道から淡路島の由良へ渡り、さらに鳴門海峡を渡り阿波国へ抜け、郡頭駅(徳島県板野町大寺)から讃岐国に入り、讃岐平野を東西に横断して讃岐国西端から伊予国大岡駅を分岐点として伊予国と土佐国へと繋ぎます。
 一方、紀貫之の土佐日記からは難波住江から淡路島へ直接に渡り、さらに鳴門海峡を渡り阿波国の沿岸を南下して室戸岬を回って土佐湾へ入るルートを求めます。このルートは海上交通が発達していた奈良時代の養老二年以降のルートでもあります。
 ところが養老二年以前の万葉集の歌が詠われた時代は土佐への交通ルートは違っていました。その土佐へは伊予国から入ります。それも延喜式で示す伊予国大岡駅(四国中央市妻鳥町)経由ではありません。

続日本紀、養老二年(七一八)五月庚子の記事より;
土左国言、公私使直指土左、而其道経伊与国。行程迂遠、山谷険難。但阿波国、境土相接、往還甚易。請、就此国以為通路。許之。

 ただし、伊予国から土佐へと抜けますが、紹介しましたようにこれは延喜式に載る南海道のルートとは違います。高知県での郷土史では「波多国が都佐国より早く大和朝廷に統一されたのは不思議のようであるが、別に不思議ではない。当時の交通路が伊予から都佐へ渡るようになっていたので、都佐の西にあった波多が一足先に、大和朝廷につながりをもったものと思われる。・・(中略)・・ 昔は、大和文化は瀬戸内海を西進し、伊予から波多に入り、更に、都佐に入ったものと考えてよいのではなかろうか。当時の官道は、伊予経由であって、宇和郡から幡多を通って高知付近に行ったものである。」と「宿毛市史」では案内します。ここで波多国は高知県宿毛市・中村市を中心とする地域で、都佐国は高知県土佐市を中心とする地域です。
 つまり、養老二年の変更までは瀬戸内海から豊予水道を抜け、その先の宇和海から宿毛湾への海上交通路は重要だったようです。他方、古事記や日本書紀に登場する古代の海上交通の要所、豊予海峡を利用して伊予から九州へ渡るルートもまた重要なルートであったようです。陸上交通が発達していなかった古代では朝鮮海峡を横断するような遣唐使船や遣新羅使船クラスの船を以てすれば、渡海に困難性はありません。それに山上憶良が詠うように筑前国や大宰府は壱岐・対馬と九州とを結ぶ食料運搬船などを保有していましたから、それと同等の船を持たないということもないでしょう。ただ、律令制度の建前では豊予海峡は霊亀二年(七一六)五月までは交通が禁止されていましたから、公としての交通は出来ないことになっていました。

続日本紀、霊亀二年(七一六)五月辛卯の記事より;
大宰府言、豊後・伊予二国之界、従来置戍、不許往還。但高下尊卑、不須無別、宜五位以上差使往還、不在禁限。

 しかしながら、関所(=戍)を設置してまで海上交通を管理していたことは、逆に見ますと万葉集が詠われた時代、土佐国西部方面や日向国・薩摩国方面への交通路として伊予国を通過するルートが確立していたことは確実です。
 そうした時、次の万葉集巻三に載る集歌388の長歌を見てください。歌の句に「淡路嶋 中尓立置而 白浪乎 伊与尓廻之」とあり、淡路島を挟んで難波大伴津と伊予国とを両端に置きます。そして、「開乃門従者」は「明石海峡」のこととされ、また、反歌で「敏馬」と詠います。およそ、船は難波大伴津から敏馬(神戸市灘区)、明石海峡と航海をして来て伊予を目指すようです。

羈旅謌一首并短謌
標訓 羈旅(たび)の謌一首并せて短謌
集歌388 海若者 霊寸物香 淡路嶋 中尓立置而 白浪乎 伊与尓廻之 座待月 開乃門従者 暮去者 塩乎令満 明去者 塩乎令于 塩左為能 浪乎恐美 淡路嶋 礒隠居而 何時鴨 此夜乃将明跡 待従尓 寐乃不勝宿者 瀧上乃 淺野之雉 開去歳 立動良之 率兒等 安倍而榜出牟 尓波母之頭氣師
訓読 海若(わたつみ)は 霊(くす)しきものか 淡路島 中に立て置きて 白波を 伊予(いよ)に廻(めぐ)らし 座待月(ゐまちつき) 明石し門(と)ゆは 夕されば 潮を満たしめ 明けされば 潮を干(ひ)しむ 潮騒(しほさゐ)の 波を恐(かしこ)み 淡路島 礒(いそ)隠(かく)り居(ゐ)て いつしかも この夜の明けむと 待つよりに 眠(い)の寝(ね)かてねば 瀧(たき)し上(へ)の 浅野(あさの)し雉(きぎし) 明けぬとし 立ち騒くらし いざ児ども あへて榜(こ)ぎ出む 庭も静けし
私訳 海を掌る神は神秘なものなのでしょうか。淡路島を中に立てておいて、沖立つ白波を遥か伊予の国までに立ち廻らし、十八夜の居待つ明るい月のその明石の海峡は、夕暮れになると潮を満たし、朝明けがやってくると潮を引く。その潮の満ち干騒ぐその荒浪を敬って、淡路島の磯に船を避難し泊まって、いつの間にかに、この夜は明けるでしょうと待っていると、夜に寝ることも出来ずにいると、海に注ぐ急流の辺りの草のまばらな野に雉が朝が明けると啼き立ち騒ぐようだ。さあ、皆の者、思い切って船を操り出そう。水面は静かだ。
注意 原文の「待従尓」の「待」は、一般に「侍」の誤記とします。ここでは原文のままです。

反謌
集歌389 嶋傳 敏馬乃埼乎 許藝廻者 日本戀久 鶴左波尓鳴
訓読 島伝ひ敏馬(みぬめ)の崎を漕ぎ廻(み)れば日本(やまと)恋しく鶴(たづ)さはに鳴く
私訳 島伝いに敏馬の崎を船を操り回航して来ると、大和の国が恋しいと鶴が盛んに鳴く。
右謌、若宮年魚麿誦之。但未審作者
注訓 右の謌は、若宮年魚麿の之を誦(うた)ふ。但し、未だ作る者は審(つばび)らかならず。


 次に瀬戸内海を船旅した歌を紹介します。歌は柿本人麻呂のものです。集歌220の長歌と集歌1711の短歌が連絡するものとしますと、人麻呂は「粟の小島」、「那珂の湊」、「讃岐狭峯嶋」と航行して来たことになります。
 この「粟の小島」は現在の粟島とされ、香川県三豊市の沖合、塩飽諸島に属し、江戸時代には北前船の寄港地でした。次に「那珂の湊」は香川県丸亀市にある金倉川の河口と推定され、「讃岐狭峯嶋」は香川県坂出市の沖合の小島です。つまり、この時、柿本人麻呂は備後灘を西から東へと航海し、小豆島の北側から播磨灘へ出て、家島沖合から明石海峡へと進む航路を取っていたと思われます。瀬戸内海航路ですが南ルートとなる来島海峡から備後灘、播磨灘、明石海峡、大阪湾への九州・畿内を結ぶ最短ルートを取っていたと推定されます。北ルートですと、「那珂の湊」や「讃岐狭峯嶋」の代わりに大伴旅人が詠うように「鞆浦」の地名となるでしょう。


讃岐狭峯嶋、視石中死人、柿本朝臣人麿作歌一首并短哥
標訓 讃岐の狭岑(さみねの)島(しま)に、石(いは)の中に死(みまか)れる人を視て、柿本朝臣人麿の作れる歌一首并せて短歌
集歌220 玉藻吉 讃岐國者 國柄加 雖見不飽 神柄加 幾許貴寸 天地 日月與共 満将行 神乃御面跡 次来 中乃水門従 船浮而 吾榜来者 時風 雲居尓吹尓 奥見者 跡位浪立 邊見者 白浪散動 鯨魚取 海乎恐 行船乃 梶引折而 彼此之 嶋者雖多 名細之 狭峯之嶋乃 荒磯面尓 廬作而見者 浪音乃 茂濱邊乎 敷妙乃 枕尓為而 荒床 自伏君之 家知者 往而毛将告 妻知者 来毛問益乎 玉桙之 道太尓不知 鬱把久 待加戀良武 愛伎妻等者
訓読 玉藻よし 讃岐し国は 国柄か 見れども飽かぬ 神柄か ここだ貴き 天地し 日月とともに 満(た)りゆかむ 神の御面(みおも)と 継ぎ来たる 中の水門(みなと)ゆ 船浮けて わが漕来れば 時つ風 雲居に吹くに 沖見れば とゐ波立ちし 辺(へ)し見れば 白波さわく 鯨魚(いさな)取り 海を恐(かしこ)み 行く船の 梶引き折りて をちこちし 島は多けど 名くはし 狭岑(さみね)し島の 荒磯(ありそ)面(も)に いほりにみれば 波し音の 繁き濱辺を 敷栲の 枕になしに 荒床に 自(ころ)伏(ふ)し君し 家知らば 行きにも告げむ 妻知らば 来も問はましを 玉桙し 道だに知らず おほほしく 待ちか恋ふらむ 愛(は)しき妻らは
私訳 玉のような藻も美しい讃岐の国は、お国柄か何度見ても飽きることがなく、神代の飯依比古の時代からの神柄かなんと貴いことよ。天と地と日と月と共に満ち足りていく伊予の二名の飯依比古の神の御面と云い伝えて来た。その伝え来る中の那珂の湊から船を浮かべて我々が漕ぎ来ると、時ならぬ風が雲の中から吹き付けるので、沖を見るとうねり浪が立ち、岸辺を見ると白波が騒いでいる。大きな魚を取るような広い海を恐み、航行する船の梶を引き上げて仕舞い、あちらこちらに島はたくさんあるのだけれど、名の麗しい狭岑の島の荒磯に停泊してみると、波の音の騒がしい浜辺を夜寝る寝床として荒々しい床に伏している貴方の家を知っているのなら行って告げましょう。妻がここでの貴方の様子を知っていたらここに来て荒磯に伏す理由を聞くでしょう。玉の鉾を立てる立派な道筋すら知らず、おぼろげに貴方を待って恋しく思っているでしょう。貴方の愛しい妻たちは。

参考歌
集歌1711
原文 百傳 八十之嶋廻乎 榜雖来 粟小嶋者 雖見不足可
訓読 百づたふ八十の島廻を漕ぎ来れど粟の小島は見れど飽かぬかも
私訳 百に伝わる八十、その沢山の島の周りを漕ぎ来るが、粟の小島は何度見ても見飽きることはありません。


 播磨灘の家島群島から明石海峡、敏馬、難波大伴津のルートは万葉集では多くの歌が詠われていますので、こちら側については歌の紹介を省略します。これは瀬戸内海南ルートでも北ルートでも変わらない共通のルートです。
 逆の備後灘から西側のルートについてはいろいろと探しましたが歌がありません。ただ、伊予国熟田津の歌があるのみです。集歌8の歌は斉明天皇、中大兄皇子たちによる新羅出兵が背景としますから、左注に示す御船とは外航航路を行くような大船でしょう。すると、来島海峡から伊予国熟田津は古代の土佐路の海上ルートでもありますから、至極自然な道程ではないでしょうか。この伊予国熟田津から九州大宰府方面へは周防大島などを島見の航路目標として伊予灘、周防灘を経て一直線です。まず、大船団が取る大船航路としてはふさわしいものがあります。


額田王謌
標訓 額田(ぬかだの)王(おほきみ)の謌
集歌8 熟田津尓 船乗世武登 月待者 潮毛可奈比沼 今者許藝乞菜
訓読 熟田津(にぎたつ)に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな
私訳 熟田津で朝鮮に出兵するための対策を立てて実行してきたが、全ての出陣への準備が願い通りに整ったし、この遅い月の月明かりを頼って出港の準備をしていたら潮も願い通りになった。さあ、今から出港しよう。

左注 右、檢山上憶良大夫類聚歌林曰、飛鳥岡本宮御宇天皇元年己丑、九年丁酋十二月己巳朔壬午、天皇大后、幸于伊豫湯宮。後岡本宮馭宇天皇七年辛酉春正月丁酉朔丙寅、御船西征始就于海路。庚戌、御船、泊于伊豫熟田津石湯行宮。天皇、御覧昔日猶存之物、當時忽起感愛之情。所以因製謌詠為之哀傷也。即此謌者天皇御製焉。但、額田王謌者別有四首。
注訓 右は、山上憶良大夫の類聚歌林を檢(かむが)みて曰はく「飛鳥岡本宮の御宇天皇の元年己丑、九年丁酋の十二月己巳の朔の壬午、天皇(すめらみこと)大后(おほきさき)、伊豫の湯の宮に幸(いでま)す。後岡本宮の馭宇天皇の七年辛酉の春正月丁酉の朔の丙寅、御船の西に征(ゆ)き始めて海路に就く。庚戌、御船、伊豫の熟田津の石湯(いはゆ)の行宮(かりみや)に泊(は)つ。天皇、昔日(むかし)より猶存(のこ)れる物を御覧(みそなは)して、當時(そのかみ)忽ち感愛(かなしみ)の情(こころ)を起こす。所以に因りて謌を製(つく)りて哀傷(かなしみ)を詠ふ」といへり。即ち此の謌は天皇の御(かた)りて製(つく)らせしなり。但し、額田王の謌は別に四首有り。


 なお、これらの航路は天平時代ごろまでには吉備の児島、備後国の鞆浦方面から安芸国倉橋島へ、さらに周防国大島へと航行し、そこから周防灘を抜けて九州へと渡るルートに変わっています。このルートは大伴旅人の帰京時の歌や遣新羅使の歌からも推定されます。
 穿って、これより少し前に伊予から土佐へ抜けるルートは阿波から土佐へと抜けるルートに変更となっていますし、建前として伊予から豊後への海上連絡は禁制です。つまり、養老二年の変更により伊予国熟田津はある種の行き止まりの地点となっています。もう一つ、そのごろから周防では銅鉱山の開発が進み、周防熊毛郡牛島半島方面から長門鋳銭司へ銅鉱石などが送られています。一方、備前・備後の吉備方面からは畿内方面に特産の鉄製品などが送られており、官営の海上交通を開発・維持する動機と需要はありました。このような物資輸送と云う経済的観点から奈良時代中期には瀬戸内海南ルートから瀬戸内海北ルートへと変遷したのではないでしょうか。

 終わりに紀貫之の残した土佐日記の京都・土佐の旅程とその当時の官人旅程を延喜式に探りますと、そこに載る公式の旅程とは全くに違います。従いまして、官人であっても延喜式の公式旅程は尊重しても、人はそのときどきで一番楽な旅程を選んでいた可能性はあります。万葉集の歌からですと大伴旅人の大宰府からの上京ルート、坂上郎女や家持たちの上京ルート、驛使大伴稲公の帰京ルートはそれぞれに違っています。やはり、それらもそのときどきの一番楽な旅程や用船の手配などの実行可能性のあるものを選択していたからなのかもしれません。ですから、色眼鏡を持って、古代の交通ルートはこうであったと旅程を決め打ちしての鑑賞は難しいかもしれません。例としまして、万葉集巻十五に載る遣新羅使の歌もまた、季節や旅行ルートからしますと、その相関が変な日程となっています。

 今回もまた、とりとめのない話となりました。反省です。
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万葉雑記 色眼鏡 百五一 仙柘枝歌と柘枝舞

2016年01月02日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 百五一 仙柘枝歌と柘枝舞

 今回もまた、ひどく脱線をします。まず、まともな万葉集の鑑賞ではありませんの、そこのところは、よろしく、お願いいたします。
 さて、万葉集巻三に次のような歌があります。この集歌385の歌の標題と左注から「柘枝傳」と云う書物が注目を浴びています。

仙柘枝謌三首
標訓 仙(やまひと)柘枝(つみのえ)の謌三首
集歌385 霰零 吉美我高嶺乎 險跡 草取可奈和 妹手乎取
訓読 霰降り吉美(よしみ)が岳(たけ)を険(さが)しみと草(かや)取りかなわ妹し手を取る
私訳 霰が降り、「吉美が岳(よしみがたけ)」、その言葉に似た響きの「さがしみ(=険しい)」からとその山で草を刈ることが出来ないが、代わりに貴女の手を抱き取った。
右一首。或云、吉野人味稲与柘枝媛謌也。但、見柘枝傳無有此謌
注訓 右は一首。或は云はく「吉野の人味稲(うましね)の柘枝媛(つみのえひめ)に与へし謌なり」といへる。但し、柘枝傳(つみのえでん)を見るに、此の謌有ることなし。

集歌386 此暮 柘之左枝乃 流来者 楔者不打而 不取香聞将有
訓読 この暮(ゆふべ)柘(つみ)しさ枝の流れ来(こ)ば梁(やな)は打たずに取らずかもあらむ
私訳 この夕暮れに柘の小枝が流れ来たら、川に梁を張ることなく、その小枝を取らないでいるでしょうか。(やはり拾い上げるでしょう)
右一首
注訓 右は一首

集歌387 古尓 楔打人乃 無有世伐 此間毛有益 柘之枝羽裳
訓読 古(いにしへ)に梁(やな)打つ人の無かりせば此処(ここ)もあらまし柘(つみ)し枝(えだ)はも
私訳 昔、川に梁を張る人が居なかったら、今でもここにあるでしょう、柘の枝は。
右一首、若宮年魚麿作
注訓 右は一首、若宮年魚麿(あゆまろ)の作れり


 集歌385の歌に付けられた左注は、弊ブログでの推定では紀貫之の時代ごろに付けられたと考えています。まず、「但、見柘枝傳無有此謌」と云う文章からしますと原万葉集の載る歌々が詠われた時代ではありませんし、原万葉集の第二次編纂時期となる天平勝宝年間でもないと考えます。もう少し、後の時代での左注です、同時代性はありません。
 では、文中のその『柘枝傳』はどのようなものであったかと云うと一切が不明のものです。そのため、『懐風藻』や『風土記』の記事から次のように内容を推定するようです。

漁師の味稲(うましね)(美稲あるいは熊志祢とも)が吉野川に梁を仕掛けて漁をしていた。そこへ柘(つみ)の枝(え)が流れて来て梁にかかり、仙女と化した。二人は結婚するが、譴めを蒙って山野に逃げ、二人は手を取り合って険しい岳を登る。最後には領巾衣(ひれころも)を着て飛び去る。

 その推定される柘枝傳の主人公は川を流れ来た柘枝が梁にかかって女と化した仙人であり、その仙女を『懐風藻』に載る藤原史の漢詩などを下に「柘媛」と呼ぶようです。そうしたとき、その「柘枝傳」の「柘枝」と云う言葉から、古く、大唐での「柘枝舞」との関連を探っています。今日の日本では奈良時代には存在したであろう「柘枝傳」を探ることは困難ですが、「柘枝舞」については中国に残る賦や漢詩などからおよその姿が示されています。
 まず、中唐時代となりますが、盧肇(818-882)が『湖南觀雙柘枝舞賦』と云う作品を為しており、その賦から「柘枝舞」は「古也郅支之伎、今也柘枝之名」と示され、もともとは西域胡族の男性が踊る舞踏の一つであったとします。それらの胡族の舞踏などの歌舞が北方民族国家である隋や唐の成立から中国中原に紹介され「健舞(現在では漢族舞踏に分類)」と称されます。ここで、「郅支」と云う地域や胡族のある部族長の名前であったものが唐時代にはその地域の中心地の名前に由来して「柘枝」と表記されるようになり、舞踏の名もまた「郅支之伎」から「柘枝舞」へと移り変わりました。ただし、ここまでは面白くもおかしくもありません。その時の「柘枝舞」は、胡族の服装を着た男性による胡の楽奏に乗った「胡旋舞」とも称される片足を軸に旋回して踊るものですし、剣の舞です。単なる異国情緒のある男舞です。今日ですと同類のものとして、トルコの「セマー」と云う旋舞が有名で、インターネットから簡単に鑑賞することが出来ます。
 ところがところが、唐初の時代、大変化が起きます。
 その「胡旋舞」の一つである「柘枝舞」を、胡服を着た女性が踊るようになります。それも胡服の中でも軍装を女性が着て踊ります。それまでの時代の、うら若き宮中の舞踊を専門にするような女性の装いの中に、男装、益して、軍装を身に纏うというようなファッションは有りませんでした。歴史で初めての場面としての男装した女性の登場です。それまでは宮中の舞踊を専門にするような女性のファッションは薄物の衣に胸高にスカートを着た、いかにも柔らかでふんわりとした、それでいて体の線を隠すような姿が基本です。それが体の線も明らかになる軍装の男装ファッションでの登場です。さらに、半袖の丈の短いボレロのような上着を衣の上に身に着ける男装胡服を女性が纏います。軍装ですが、上半身が下着となる胸当てとボレロのような上着だけであるがために踊りの最中にボレロのような上着の紐が緩めば胸元の素肌があらわになるというアンバランスな装いなのです。そして、唐から宋の時代にはこのファッションが大流行し、「柘枝舞」と云う舞踏は男装の美女集団による集団舞踏へと発展していきます。(日本ですと、男踊りがベースのある種のよさこい踊りのような雰囲気でしょうか) 「柘枝舞」とはそのような歴史を持つ、ファッション革命をも伴った舞踏なのですし、場合によっては性的嗜好の変化も伴うものなのです。一説には楊貴妃も「胡旋舞」の名手であったと云いますから、時に宝塚歌劇団の男役トップスター以上の雰囲気を持つ人であったかもしれません。さらに、ご存知のように楊貴妃は「私、脱げばもっとすごいんです」と云う女性々々した人でもありました。唐時代とはそのような嗜好の時代であったようです。

 さて、唐初の時代には大流行をしたと云うこの「柘枝舞」を無視して、日本の「柘枝傳」が単独に成立したでしょうか。弊ブログの立場からしますと、疑問です。
 則天武后に大歓迎されたという粟田真人を大使とする第七次遣唐使の帰国が慶雲元年(704)です。天平勝宝四年(752)の東大寺開眼法要では「唐女舞(施袴二十人)」と云う隊舞が披露されていますから、ほぼ、この時代以前に大唐で大流行した「胡旋舞」が到来していたことは確かでしょう。従いまして「柘枝舞」を無視して日本の「柘枝傳」を探るのは困難ではないでしょうか。
 すると、『湖南觀雙柘枝舞賦』を中心に「柘枝傳」を探るのが正しい方向かもしれません。例えば『懐風藻』に藤原史が詠う吉野に遊ぶという作品がありますが、旧来、「柘媛接魚通」の句から「柘枝傳」の関連を探っています。一方、『湖南觀雙柘枝舞賦』には「何彼妹之婉孌、媚戎服之豪侠。司樂以魚符發詠、侍兒以蘭膏薦潔」と云う一節がありますから、漢詩を作詞するときは先行する詩や賦などの中国古典を引用するルールからしますと、盧肇が参照したものと同じような「柘枝舞」に関する中国古典を引用した可能性はあります。ここで「魚符」とは通行許可書のような割符です。従って、「柘媛接魚通」は「柘媛は通行許可書を与えられて男の許に通う」とも解釈すべき内容の句です。
 ただし、藤原史の漢詩には彼独特の作風があり、その「漆姫控鶴舉」の一節は場合により中国古典の「神仙故事 控鶴仙人」か、「漆」を同音字である「謀」の隠し字として則天武后の「控鶴府」を暗示する可能性もありますが、古典文学の専門家が指摘するように日本民話を彼流に漢字文字「漆姫」と云う風にアレンジしたのではないかと云う疑いもあります。そのため、藤原史のものを、中国古典を参照し、また、内容や題詞を下に歴史資料として使うのは難しい面があります。ただ、『懐風藻』の研究家の指摘とは違いますが、個人的には「漆姫控鶴舉」の一節は「謀姫である則天武后は男妾のために控鶴府を創った」と訳するが面白いと思うのですが。
 なお参考として中国古典では「乗鶴仙人」と云う神話があるように、古典一般には鶴は仙女のシンボルであり、仙人や仙人となった男を天上の仙人界へと運ぶ役目を果たします。後、この「乗鶴仙人」の説話が日本に入って、いつしか、仙女もまた鶴に乗るようになりました。なお、黄鶴楼が遊郭を示すように、古典において鶴が男性を体の上に乗せる美人のシンボルであるなら「控鶴舉」とは「隊舞」の美人を意味しているのかもしれません。

<懐風藻 藤原史>
五言 遊吉野 二首  吉野に遊ぶ
飛文山水地 文を飛ばす山水の地
命爵薜蘿中 爵を命ずる薜蘿の中
漆姫控鶴舉 漆姫 鶴を控きて舉り
柘媛接魚通 柘媛 魚に接して通ず
煙光巖上翠 煙光 巖上に翠
日影漘前紅 日影 漘前に紅
翻知玄圃近 翻つて知る 玄圃の近きを
對翫入松風 對して翫す 松に入る風を


 こうした時、日本の「柘枝の話」が気になります。「柘枝の話」では神の領域の川上から流れて来た「柘の枝」が美人となります。また、最後の昇天では羽衣や領巾によって行われますから、背景には羽衣伝説の変形があるのかもしれません。
 平安時代末期から鎌倉時代に仏教では九想観と云うものが流行し、この流行の下、檀林皇后や小野小町などの九想観図が作られました。この九想観図は絶世の美女が死、仏教徒として野に捨てられると、やがて体は獣に食われ、虫にたかられ最後には白骨になるという場面を順に描くもので、差し障りの無いところの「絶世の美女=小野小町」と云うことで彼女の名前が借用されました。それと同じように異国や異郷からの美人と云うことで「柘媛」という名前が借用された可能性もあるのではないでしょうか。万葉時代では大和の美人の代表として「石川郎女」と云う名前を与えていますから、一概に無視はできないと考えます。
 ただ一方、「柘」と云う漢字は現代では「やまくわ」、「つげ」ですし、『説文解字』では「桑」や「甘蔗」を意味すると云います。すると、奈良時代には甘い果実を付ける「やまくは=山桑」に対して「柘」と云う文字を与えていた可能性を否定できません。
 こうした時、「山桑」は非常に有用な高木樹です。その樹皮は黄色系の染料となり、樹木自体は堅く木目の美しさから高級家具や将棋・呉盤の材料となります。また、果実は甘く食用になりますし、根皮は漢方薬の桑白皮(そうはくび)と呼ばれるもので利尿やせき止めなどの効用を持つ生薬として服用します。さらに繊維は強靭なので和紙に混用されるとします。このように古代では代表的な恵みの樹木なのです。それを「山の恵み=山の媛」として、この樹木に敬意を示したかもしれません。なお、養蚕に使う「くは」は中国から朝鮮半島に繁殖し輸入植物である「桑」であって、漢字では「桑」と記しますが、国内で古から繁殖する「やまくわ」とは違う植物です。そのため、「やまくわ」の漢字表記は「柘」であり「山桑」です。
 そうしますと、歌の標題「仙柘枝謌三首」と歌中の「柘之左枝」とが同じものを示しているのかが問題となります。ご存知のように万葉集での標題のつけようからしますと、歌と標題が一致することは必ずしも保証されません。歌が先に詠われ、後に万葉集の編纂に合わせて編集者の判断で標題を与えた可能性があります。そうしますと、平安時代後期以降では『湖南觀雙柘枝舞賦』や「遊吉野(藤原史)」などの漢詩文作品群から「仙柘枝」は仙女をイメージして「やまひと、つみのえ」と訓じますが、本来ですと「やまひと、くわのえ」と訓じるべきなのかもしれません。
 例えば、集歌385の歌では左注の「右一首或云、吉野人味稲与柘枝媛謌也」の文章でもって「柘枝媛」との関連を示唆しますが、歌自体には柘枝媛は詠われていません。「妹手」として、恋歌の中で年頃の女性を示唆するだけです。さらに集歌386の歌では「柘之左枝」ですし、集歌387の歌でも「柘之枝」だけです。直接の鑑賞からしますと「山桑の枝」であっても良いのですから、歌自体には「柘枝媛」の姿はないのです。ただ、比喩として受け止められるだけです。
 実に不思議です。
 時に、万葉集の編集者はこれら、全て、承知の上で標題「仙柘枝謌三首」を付けたのかもしれません。「遊吉野(藤原史)」が遅く大宝二年(702)の作品としましても藤原史は「柘枝舞」のようなものを知らない可能性があります。およそ、第七次遣唐使の帰国が慶雲元年(704)以前の作品では「仙柘枝謌」を「やまひと、つみのえ」として歌を詠うかと云うことです。やはり、編集者は遊びとして後年に「やまひと、くはのえ」と「やまひと、つみのえ」との二通りに読ませるつもりだったのかもしれません。ちゃんと判っているよねって。
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