竹取翁と万葉集のお勉強

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万葉集  朱鳥の年号から神亀の年号について考える

2011年10月02日 | 万葉集 雑記

万葉集  朱鳥の年号から神亀の年号について考える


 日本紀私記(弘仁私記)の漢文の序を鑑賞して、日本書紀は弘仁十年頃に嵯峨天皇の詔で日本紀から新たに創られた書物との推定を得ました。そこから日本書紀と万葉集で歴史について齟齬がある場合、一義的に日本書紀に載る記事が正しいとは断定できない可能性が導かれます。
 こうした時、古くから万葉集の歌の左注において、初期万葉集編者が日本紀から考証して朱鳥の年号を注記したことが知られています。その資料を次の年号対比表に示します。

万葉集における日本紀と日本書紀との年号対比表
事件/記事        万葉集/日本紀      年       日本書紀対比            年      掲載歌番号
大津皇子被死   朱鳥元年冬十月     686    持統称制前紀冬十月    686    集歌416
天皇幸紀伊國   朱鳥四年秋九月     689    持統四年秋九月          690    集歌34
川嶋皇子薨      朱鳥五年秋九月     690    持統五年秋九月          691    集歌195
天皇幸伊勢      朱鳥六年春三月     691    持統六年春三月          692    集歌44
幸藤原宮         朱鳥七年秋八月     692    持統七年秋八月          693    集歌50
幸藤原宮         朱鳥八年春正月     693    持統八年春正月          694    集歌50
遷居藤原宮      朱鳥八年冬十二月  693    持統八年冬十二月        694   集歌50
高市皇子尊薨   朱鳥十年秋七月     695    持統十年秋七月           696   集歌202

日本書紀では高市皇子尊が薨れたその翌年の持統十一年秋八月に、ちょうど、高市皇子尊の公式の一年の喪が明けた月になりますが、文武天皇が即位されています。

 この年号対比表において朱鳥元年を基準年とすると西暦表示に一年の齟齬が生じますが、それには理由があります。それは、日本書紀には、持統天皇即位前紀朱鳥元年(686)九月と持統元年(687)正月との条に、次の文言があるからです。

持統天皇即位前紀朱鳥元年(686)九月九日の条
朱鳥元年九月戊戌朔丙午、天渟中原瀛真人天皇崩。皇后臨朝称制。
訓読 朱鳥元年九月戊戌朔丙午に、天渟中原瀛真人天皇(天武天皇)崩(し)す。皇后、称制して朝を臨(のぞ)む。

持統元年(687)正月一日の条
元年春正月丙寅朔、皇太子率公卿百寮人等、適殯宮而慟哭焉。
訓読 (持統)元年春正月丙寅朔に、皇太子は公卿百寮人等を率ひて、適(まさ)に殯宮に慟哭(どうこく)をなす。

 この日本書紀に載る二つの記事により、歴史家は「持統」と云う年号の前に朱鳥元年又は持統称制前紀と云う年号を入れざるを得なくなったのです。このために、万葉集に載る日本紀での朱鳥の年号による記事と日本書紀での持統の年号による記事とで、同じ記事ですが、そこに一年の齟齬が生じてしまいました。
 当然、先の国書の改訂問題の提起からの弘仁私記序の漢文鑑賞で、現在の伝日本書紀は弘仁四年から弘仁十年にかけて日本紀から日本書紀へと再編纂されたものであることは、ほぼ、確実と推定されます。この日本紀から伝日本書紀へと再編纂が行われたのならば、万葉人である大伴旅人や山上憶良達、万葉人は「持統と云う年号」は知らないことになります。彼らが使う年号は、あくまでも万葉集の左注に載る日本紀に記す「朱鳥」と云う年号であり、それは天武年間から連続するものですし、続く元号もまた「朱鳥」から連続するものです。現在の歴史に於いて、奈良時代人が承知する日本紀や最初の続日本紀での朱鳥からの連続する年号表記、伝日本書紀と桓武天皇が改訂した現在の続日本紀で使う年号表記が、どの段階で暦年が一致するのかは不明です。ただし、外記日記等に残される朝廷に関わる行為、例えば、御幸、遣唐使や遣新羅使等の外交関係、については、万葉集の歌の標や左注の日付は確認されているでしょうから、それらの歌については万葉集の歌に標題が付けられ、目録が造られた段階で調整がなされていると考えます。
 そうした時、歴史の改竄に大きく関わると思われる長屋王の変前後で、私的な日記や書簡文に作歌者によって日付が付けられているものは、万葉集の歌への標題や目録作成の段階では、その日付の調整は出来なかったのではないでしょうか。つまり、個人の行為に基づく万葉集の日付を持つ歌は、現在、伝わる日本書紀や続日本紀の日付に比べると、その日付が一年早い可能性が否定できないことになります。従いまして、万葉集巻五の大伴旅人の報凶問歌や山上憶良の日本挽歌と嘉摩三部作などに代表される作歌者によって付けられた日付を持つ私的な日記や書簡文は、一年のずれが存在する可能性を否定出来なくなります。
 こうした疑惑や可能性を裏付ける歌が万葉集にあります。それが、山上憶良の七夕の謌十二首の次の二首です。

山上憶良の七夕の謌十二首より二首
集歌1518 天漢 相向立而 吾戀之 君来益奈利 紐解設奈
訓読 天の川相向き立ちて吾が恋ひし君来(き)ますなり紐解(と)き設(ま)けな
私訳 天の川に向い立って私が恋した君が来られるようだ。上着の紐を解いてお待ちしよう。
右、養老八年七月七日應令
左注 右は、養老八年七月七日に、令(りょう)に應(こた)ふ。

集歌1519 久方之 漢尓 船泛而 今夜可君之 我許来益武
訓読 久方(ひさかた)の天の川に船浮けて今夜か君の我許(わがり)来(き)まさむ
私訳 遥か彼方の天の川に船を浮かべて、今夜こそは本当に君が私の許においでになるのでしょうか。
右、神亀元年七月七日夜左大臣宅
左注 右は、神亀元年七月七日の夜に、左大臣の宅(いへ)。

 集歌1518の歌の左注の「應令」の言葉は「皇太子のお召に応える」と解釈します。そこで、養老八年七月七日の七夕の宴には、皇太子が列席していたことが推定されます。ご承知のように続日本紀に従えば養老八年は二月三日までで、二月四日以降は神亀元年の年号となります。そこで、一般には七夕を詠う集歌1518の歌は、養老六年か七年の誤りと扱われています。逆に左注の日付に何らかの事情があり、敢えて養老八年七月七日と表記し、それが正しいものとしますと、集歌1518と集歌1519の歌は同じ年に詠われたものとなります。つまり、神亀元年七月七日の夜に左大臣長屋王と皇太子が、長屋王の屋敷で七夕の宴を張ったことになります。
 ところが、続日本紀に従えば、神亀元年当時には皇太子は不在で、神亀四年閏九月二十九日の聖武天皇の御子の誕生と同年十一月二日のその乳飲み子の御子の立太子の詔まで、皇太子は存在しないと解釈されます。そして、その皇太子は神亀五年九月十三日に満一歳を迎える前に亡くなっていて、その後の天平十年(738)正月の阿倍内親王の立太子まで、皇太子は再び存在しないことになっています。なお、続日本紀では不思議なことに神亀四年閏九月二十九日に天皇の御子は、当時、存在しない太政大臣の邸宅で生まれたことになっています。この時、続日本紀には太政大臣の任命はなく、長屋王が左大臣にあり最高官として太政官府を指揮したことになっています。ただし、説話集である「日本国現報善悪霊異記(俗に日本霊異記)」の神亀六年二月の説話では、長屋王は長屋王家木簡が証明するように長屋親王の称号を持ち、太政大臣であったとして、その説話を展開しています。
 国書の編纂由来、長屋王家木簡等に現れる「北宮」の言葉や続日本紀の記事の矛盾など、色々と鑑賞を重ねて来ました。こうした時、従来は正史である日本書紀や続日本紀に載る記事が正しく、万葉集の歌や標との間に相違がある場合は、万葉集が間違いとされていました。先に見て来ましたように、日本書紀や続日本紀は桓武天皇や嵯峨天皇の時代の人々の都合に合わせて改訂・編纂されていますから、記事に相違があった場合に万葉集に載る歌や標が正しい歴史を示している可能性は否定できないと思います。つまり、集歌1518と集歌1519との歌の左注の日付が共に正しいものならば、旅人や憶良たちが生きた奈良時代には養老八年は丸々一年間が存在し、改元が行われたのは養老九年二月四日であったかも知れないのです。
 こうした時、この日付変更の可能性は、報凶問歌や日本挽歌を鑑賞する時に、非常に深刻な問題を生じさせます。これらの和歌付きの書簡文や献上歌には神亀五年の私的な日付が付されていますが、現在の歴史年表に換算すると神亀六年(天平元年)に創られたものである可能性が出てきて、長屋王の変との関係を確認しないと、その歌の鑑賞が出来なくなると推定されるからです。ただし、天平元年以降の日付のものは、長屋王の変以降の確実に聖武天皇の行為による元号に基づきますから、ほぼ、私的日付と年表日付は一致するものと思われます。
 この推論の参考として、続日本紀に載る神亀年間の記事には、干支表記を日表記に直すと、次に示す例のように干支表記日の順列に乱れが多発していることが知られています。

続日本紀における日付の乱れ
神亀元年三月庚申(一日)           定諸流配遠近之程の条
神亀元年十一月庚申(四日)        召諸司長官并秀才及勤公人等の条
神亀二年閏正月己丑(四日)        陸奥国俘囚の条
神亀二年正月戊子(三日)           夜月犯填星の条
神亀三年十一月己亥(二十六日)   改備前国藤原郡名の条
神亀五年八月甲午(是月甲午なし) 詔曰朕有所思の条
神亀五年八月壬申(九日)           太政官議奏。改定諸国史生・博士・医師員并考選叙限の条
神亀五年八月丁卯(四日)           太白経天の条

 ここで、これまでの推論から報凶問歌や日本挽歌等の私的記録で神亀五年の日付を持つものは、神亀六年(天平元年)の年号に修正するのが相当との仮説を立ててみます。
 先に漢語の「北宮」の言葉の鑑賞から長屋王の大王位(太政大臣に相当)への就任や膳部王の皇太子説の可能性の存在の推論と、以前に行った日本挽歌の前置漢文の序での「紅顏共三従長逝」の一節の鑑賞を合わせますと、大伴旅人の娘の皇太子夫人説を立てることが可能になります。この時、神亀六年(天平元年)の年号に修正するのが相当との仮説の下では、日本挽歌は私的献上歌での神亀五年の日付ですから、これが神亀六年の日付と読み替えが可能であるのなら、大伴旅人の娘は長屋王の変で良人である膳部王とともに死亡したことになります。
 こうした時、問題の長屋王の変では朝廷から神亀六年二月十八日に長屋王の一族全員(含む妻女)に対し「長屋王昆弟姉妹子孫及妾等合縁坐者、不問男女、咸皆赦除(すべての罪を赦し、その罪の記録を除く)」との詔が出ています。従って、この詔から大伴旅人の娘が皇太子夫人であったなら、本来なら外命婦に相当しますが、朝廷による討賊行為での戦死に相当するとして、喪葬令 職事官条により、官による死亡除籍での手続き上から、義理の伯母にあたる元正太上天皇から内大臣の藤原房前を通じて別勅の形で朝廷の行為として、大伴旅人の許にその死を悼み「正三位中納言兼大宰師大伴旅人の娘である従四位上膳部王夫人」に対して賻物が届けられたとの推定が可能となります。
 つまり、私的記録で神亀五年の日付を持つものは、神亀六年(天平元年)の年号に修正するのが相当との仮説から、長屋王の変で大伴旅人の娘が膳部王皇太子夫人として亡くなり、朝廷から大伴旅人の許に賻物が届けられたのではないかとの推論を立てることが可能になります。当然、この仮説は、報凶問歌や日本挽歌等の鑑賞に影響を与えるだけでなく、旅人の讃酒歌や憶良の思子等謌の歌が詠われた背景を説明するものになります。
 付け加えて、養老律令後宮職員令から正史や公卿補任に皇太子夫人としての記録が無いとの論議を提起する人の為に、参考に正史から読み取れる夫人初任官位表を提供します。

後宮職員令の夫人規定による夫人初任官位表
天皇名       夫人名           初任位年    初任位                       補足事項
文武天皇  藤原宮子         文武元年    初任官位不明               初任位記録なし
聖武天皇  県犬養広刀自    不明         無位から正五位下(?)    初任位記録なし
光仁天皇  紀宮子            宝亀七年    無位から正五位下
光仁天皇  藤原産子         宝亀七年    無位から従五位上
桓武天皇  藤原吉子         延暦二年    無位から従三位            即位後に入る
平城天皇  伊勢継子         大同三年    無位から正五位下
嵯峨天皇  藤原緒夏         弘仁元年    無位から従五位上
淳和天皇  橘氏子            不明         無位から従五位上(?)    女御の称号扱い

上表から、養老律令後宮職員令の規定による天皇の妃(品位)・夫人(三位以上)・嬪(五位以上)の官位と正史での初任官位は、専門家が夫人官位から歴史を説明するほどには一致しないことが判ります。従って、上表から推定される慣例上からの皇太子夫人は無位と思われますので、皇太子夫人の任官位については正史や公卿補任に載る可能性はありません。皇太子夫人は、朝参行立次第条により外命婦として、宮廷儀礼での序列やその身分が保障されていたと考えます。逆に皇太子に五位以上の官位が与えられていない場合、入内以前に個人として五位以上の官位を持たない妃、夫人や嬪は、宮中参内や行事への参加が出来ないことになります。つまり、宮廷の儀礼運営上、叙位の無い皇太子への就任はあり得ないことになります。
 先に見て来ましたように、日本書紀や続日本紀は、桓武天皇や嵯峨天皇時代の人々の都合に合わせて改訂・編纂された可能性がありますから、記事に相違があった場合に万葉集に載る歌や標が正しい歴史を示している可能性は否定できないと思います。およそ、仮説として長屋親王の大王位就任と膳部王の皇太子就任はあったと唱え、それを下に万葉集を解釈することは可能でしょう。当然、万葉集は聖武天皇以降に編纂された歌集ですから、長屋親王の大王位就任や膳部王の皇太子就任を明示できるはずはありません。丹念に探れば判るような形でのみ、それが成り立つと思います。
 ここで、山上憶良の日本挽歌に少し戻ります。日本挽歌の前置漢文の一節に「偕老違於要期 獨飛生於半路」とあります。この一節の状況を説明すると思われる記事が、続日本紀の養老五年(721)正月庚午の条ではないでしょうか。

続日本紀の養老五年(721)正月庚午の詔
詔従五位上佐為王、従五位下伊部王、正五位上紀朝臣男人・日下部宿禰老、従五位上山田史三方、従五位下山上臣憶良・朝来直賀須夜・紀朝臣清人、正六位上越智直広江・船連大魚・山口忌寸田主、正六位下楽浪河内、従六位下大宅朝臣兼麻呂、正七位上土師宿禰百村、従七位下塩家連吉麻呂・刀利宣令等、退朝之後、令侍東宮焉。

訓読 詔(みことのり)して従五位上佐為王、・・・・中略・・・、刀利宣令等(たち)に、退朝の後に東宮に侍(はべ)らしむる。

 従来、この記事は二十一歳となった首皇子(後の聖武天皇)に対する東宮従講の選定とその任命の記事とされていました。ところが、当時の学制では大学・国学への入学は十三~十六歳で行い、大学寮への進学の寮試受験は十七歳前後から行うのが一般とされています。東宮従講の行う学問伝授は大学寮相当の教育でしょうから、養老五年に二十一歳となった首皇子に対する東宮従講の選定は、奈良時代では少し時期外れの感があります。一般に大同元年六月の平城天皇の詔から大学寮への入学を十歳として学制を説明するものがありますが、詔は大学への入学の年齢を示すだけで、大学寮への進学ではありません。さらに弘仁三年五月には嵯峨天皇の詔でこの十歳での大学への入学年齢も撤回されています。大学寮の進学の時期は、菅原道真の例を引いても、やはり、十七歳前後ではないでしょうか。

日本後紀 大同元年(806)六月壬寅十日の詔
又勅、諸王及五位已上子孫、十歳以上、皆入大學、分業教習。依蔭出身、猶合上寮。

訓読 また勅(みことのり)して、諸王及び五位より上の子孫の、十歳以上は、皆大學に入れ、業を分かちて教(おしえ)を習(なら)わしむ。蔭(かげ)に依る出身の、猶(さら)に合(かな)うは寮に上げるべし。

日本後紀 弘仁三年(812)五月戊寅廿一日の詔
而朽木難琢、愚心不移、徒積多年、未成一業。自今以後、宜改前勅、任其所好、稍合物情。

訓読 而(しか)るに朽木は琢(みが)き難たく、愚(おろ)かな心は移(かわ)らず、徒(いたずら)に年を多く積むも、未だ一(その)の業は成らず。今より後は、宜しく前の勅(みことのり)を改ため、其の好む所に任せ、稍(まさ)に物の情に合せよ。

 一方、この養老五年は、十七歳となった膳部王が二世王として自宅で大学寮と同等な教育を受ける時期と一致します。ここで、長屋王家での北宮の存在を考えると神亀元年(724)二月に二十一歳となり官人として親王相当の従四位下を授けられた膳部王に対する皇太子就任の準備であった可能性が考えられます。物語ですが、源氏物語の夕霧が二十一歳で寮試と文人擬生の試験を受けるために文章博士や左中辨達から講義や試験を受けたのと似たところがあります。
 ここで、先に見たように日本書紀や続日本紀が桓武天皇や嵯峨天皇時代の人々の都合に合わせて改訂・編纂された可能性あることから、この東宮従講任命が膳部王の皇太子就任の準備であったと解釈ができるのなら、山上憶良と皇太子膳部王とは親しい関係があったことになります。そして、その膳部王は長屋王と共に神亀六年二月に首王(後の聖武天皇)と藤原一族が起こしたクーデターにより一家惨殺に遭っています。その時、山上憶良が詠う日本挽歌の前置漢文の序では若い夫婦が亡くなったと記します。つまりそこに、山上憶良が「東宮従講として膳部王夫婦に仕えたが、憶良本人ただ一人のみ生き残ってしまった」と感じたとの解釈が可能になり、それが「獨飛生於半路」の表現に展開したとの推定が可能になります。

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