竹取翁と万葉集のお勉強

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万葉雑記 色眼鏡 六九 「三日月の歌」を鑑賞する

2014年04月19日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 六九 「三日月の歌」を鑑賞する

 世界に誇る、日本人の感性を示す言葉があります。それが「月船(つきのふね)」です。この「月船」の言葉は月齢七日頃の山の端に沈み逝く月を船に、星々で形作られた闇夜に輝く天の川に懸かる雲を波に見立て、それが渡って行くとした表現です。そして、この言葉は飛鳥浄御原宮晩期から藤原京初期にかけて柿本人麻呂によって作られた日本人独特の感性に基づく言葉です。一見、「月船」の言葉は漢語のようですが、日本人独特の感性に因る為に中国漢詩の世界には現れない宇宙観であり、比喩です。
 確かに漢詩に「月船(又は月舟)」(参考資料一)の文字が出て来るものがありますが、晩唐時代に尚顏が「送劉必先」で詠うように人麻呂が詠った「月船」の言葉とは違うものです。また、漢代には「遊月船」(参考資料二)と云う言葉はありましたが、その言葉の意味合いとしては「遊月+船」ですので、大和人が愛した「月船」の言葉の意味合いとは違うものです。

 さて、人々が使う言葉にはその言葉を使う人々の生活があります。大陸の風習では第一等の美人を飾り立て、衆人注目の中、その美貌を人々に周知させ、豪奢な輿や車で自分の許に通わすのが男の中の男を象徴する行為です。一方、大和では人知れぬように噂の美人の許を密やかに通うのが第一級の風流子です。
 それが七夕の風習に端的に現れます。大陸ではカササギの羽を重ねた橋を美人が渡り男の許へと通い、大和では男が天の川を「なずみ」して渡り美人の許へと通います。この背景があるがため、七夕の宴で詠われた「月船」の言葉は日本人独特の感性に基づくものなのです。従いまして、中国古典漢詩に『万葉集』に載る「月船」の言葉の由来を求めるのは無理筋です。漢詩の世界では、最大の可能性として、西王母と漢武帝との伝説にもあるように七夕の夜に美人が飛雲に乗る俥で月から地上に降りて来るものなのです。さらに、西洋に目を向けましても三日月を水牛の角と見立てる例が多数派で、それは「月船」と見立てる日本人の感性とは違うものです。

 ブログの趣旨は『万葉集』の鑑賞ですので、そこに戻ります。
 紹介する歌は巻七の冒頭に置かれた柿本人麻呂歌集からのものです。旧来の分類に従いますと無署名文学作品ですから学問を放棄した安直な解説では「詠み人知れずの歌」となります。一方、無署名文学作品に対する作者比定の方法論を下にした研究では、ほぼ「柿本人麻呂の作品」と比定されています。従いまして、ここでは近年の評価から柿本人麻呂本人の作品と扱います。つまり、「月船」なる言葉は人麻呂の創語と云うことになります。

詠天
標訓 天を詠める
集歌1068 天海丹 雲之波立 月船 星之林丹 榜隠所見
訓読 天つ海(み)に雲し波立ち月し船星し林に榜(こ)ぎ隠る見ゆ
私訳 天空の海に雲の波が立ち、上弦の三日月の船が星の林の中に、その船を進め見え隠れするのを見る。
右一首、柿本朝臣人麿之謌集出
注訓 右の一首は、柿本朝臣人麿の歌集に出(い)づ。

 言葉において、その形から「弓張月」は月齢三日頃の月であり、「月船」は月齢七日頃の月であろうと推定しますと、集歌1068の歌は七夕の宴で詠われた歌と解釈することが出来ます。こうした時、『万葉集』には集歌1068の歌の類型歌があり、それが巻十に載る集歌2223の歌です。ただし、歌を詠う時の視線が違います。集歌1068の歌は夜の大空全体の景色を詠い、対する集歌2223の歌は三日月自体を詠います。そして、その集歌2223の歌の背景に中国の「呉剛の伝説」を引用していますから、素直な見たままの自然を詠い挙げる集歌1068の歌より、やや、知識が表に出た歌となっています。なお、集歌1068の歌中の「星之林」の情景とは、常緑広葉樹林帯での分厚い葉枝から射し込む木漏れ日からイメージした光の世界と想像しています。およそ、明るく星降るような銀河を、まるで日中の木漏れ日の様だと比喩した表現と考えています(椿などが密生した林の木漏れ日のイメージ)。ただ、この情景は意訳文では説明しにくいものです。歌は、言葉で情景を直感的に共有させる人麻呂独自の魔法の世界だと、一人、楽しんでいます。無料の写真をインターネットで見つけましたので、参考に紹介します。
 一方、船を漕ぐ様は集歌1068の歌と集歌2223の歌とでは、その文字が「榜」と「滂」とに違います。『説文解字』では榜は進船であり、時に木片と示しますが、一方、滂は水扁に音を示す旁を組み合わせた文字で雨の様を示す文字でもあります。およそ、集歌2223の歌で使われる「滂」の文字は進船の意味を持たせながらも雨や浪切の様も想像させる文字です。つまり、低い雲が懸かった七夕の夜、やっと、月や闇夜に輝く天の川が見えたのに、再び、宴の途中でしぐれたのかもしれません。感覚ではありますが、紹介しますように用字を追求しますと二首は同じ宴会での人麻呂の詠歌です。

詠月
標訓 月を詠めり
集歌2223 天海 月船浮 桂梶 懸而滂所見 月人牡子
訓読 天つ海月し船(ふな)浮(う)け桂(かつら)梶(かぢ)懸(か)けに滂(こ)ぐ見ゆ月人(つきひと)壮士(をとこ)
私訳 天空の海に月の船を浮かべて月に生える桂の木でこしらえた梶を艫に据えて飛沫を上げて船を進めるのが見えます。月の世界の勇者(=呉剛)の舟を操る姿が。

 先に「月船」の言葉は日本人独特の感性に基づくものと紹介しましたが、この「月船(又は月舟)」の言葉を用いた漢詩があります。それが、『懐風藻』に載る文武天皇の「五言 詠月 一首」です。ものの紹介では文武天皇の「詠月」と『万葉集』に載る集歌1068の歌との先後を論じるものがありますが、まず、『万葉集』が先で、そこに使われる「月船」の言葉に誘惑されて文武天皇の「詠月」の漢詩が生まれたものと思われます。そのため、天皇が好んだ大和歌が詠う夜空の風景と漢詩で月を詠う時の約束事との衝突が起き、天皇が詠う「詠月」の漢詩が支離滅裂になったのでしょう。まず、この天皇が詠う漢詩は作漢詩の勉強のために机の上で詠われたものであって、実際の宴の場でのものや観月をしてのものではありません。このような背景があるため、文武天皇の「詠月」と『万葉集』に載る集歌1068の歌との先後を論じるのは野暮です。他方、このような漢詩作歌学習中の作品を御製として公にしたお付きの漢学者や懐風藻採歌者の能力と判断に疑問が残ります。

五言 詠月 一首   文武天皇
月舟移霧渚 楓楫泛霞濱 月舟 霧渚(むしょ)に移り 楓楫(ふうしゅう) 霞濱(かひん)に泛(うか)ぶ
臺上澄流耀 酒中沈去輪 臺上 澄み流る耀(かがやき) 酒中 沈み去る輪(りん)
水下斜陰碎 樹落秋光新 水下りて斜陰(しゃいん)に碎け 樹落ちて秋光(しゅうこう)新たなり
獨以星間鏡 還浮雲漢津 獨り星間の鏡と以(な)りて 還た雲漢の津(みなと)に浮かぶ


 野暮な話になりますが、参考として漢詩で月を詠う時の約束事を踏まえて、敢えて、三日月を織り込んで詠った唐代の中国漢詩を紹介します。
 詩にありますように漢詩では月は満月を基準に詠います。それで「半輪秋」であり、「輪未安」なのです。この約束事があるため、御製では「沈去輪」や「星間鏡」の詞を採用したと思われます。そして、その結果が支離滅裂と云う訳です。本来ですと白居易の姿で詠い終われば「月舟」に相応しいものになったと思われますが、白居易は文武天皇からすれば、ずっと、後の人です。時に、彼らは大和からの遣唐使一行(特に藤原清河・阿倍仲麻呂たち)がもたらした大陸人とは違う自然鑑賞への感性の影響を受けた可能性があります。つまり、時代が早いのかもしれません。
 およそ、『懐風藻』と云う時代性からすると文武天皇の「詠月」の漢詩が未完成であるのは仕方がないのかもしれません。ただ、目を『万葉集』に向けた時、「榜」と「滂」との用字の使い分けにも見られるように、人麻呂たち、万葉人が漢語や漢字を自在に酷使し、漢語と万葉仮名と云う漢字だけで大和歌を詠った姿から比較しますと、なぜか、不思議な知的ギャップを感じます。なぜ、平安時代の漢詩を詠う階層は特徴的に宋唐時代の漢文学に幼かったのでしょうか。

峨眉山月歌 李白
峨眉山月半輪秋 峨眉の山月 半輪の秋
影入平羌江水流 影は平羌の江水に入りて流る
夜発清渓向三峡 夜 清渓を発して三峡に向かふ
思君不見下渝州 君を思うも見(まみえ)ずして 渝州に下る

初月  杜甫
光細弦欲上 影斜輪未安 光細くして弦初めて上る、影斜めにして輪未(いま)だして安からず。
微升古塞外 已隱暮雲端 微(わずか)に升る古塞の外、己に隠る暮雲の端
河漢不改色 關山空自寒 河漢(かかん)色を改めず、関山(かんさん)空しく自ずから寒し
庭前有白露 暗滿菊花團 庭前に白露あり、暗に菊花の団は満つ

暮江吟 白居易
一道殘陽鋪水中 一道の殘陽 水中に鋪(し)き
半江瑟瑟半江紅 半江は瑟瑟(しつしつ) 半江は紅(くれなゐ)なり。
可憐九月初三夜 憐(あわれ)む 可(べ)し 九月初三の夜
露似眞珠月似弓 露は眞珠の似(ごと)く 月は弓に似たり

 確認ですが、文武天皇が詠う「詠月」で詠われる「酒中沈去輪」と「獨以星間鏡」の句から月は「輪」であり「鏡」ですから、必然、漢詩の約束通りに満月であるはずです。しかしながら、初句の「月舟移霧渚」からは月齢七日頃の三日月でもあります。それゆえの支離滅裂との指摘です。さらに「樹落秋光新」と詠ったのでは、季節感もまた、多く常緑広葉樹が広がる大和の冬なのか、落葉広葉樹林が広がる大陸の秋(または陸奥の晩秋)なのかとの疑問も湧きます。ただ、インターネットで検索してみましても、これを指摘した上で詩を正面から鑑賞するものは少ないようです。(注;旧暦ですから秋は現在の8月初旬から10月初旬までです)
 なお、『懐風藻』には大津皇子の作品として「七言 述志」なる作品がありますが、伝承では大津皇子本人のものは初句と二句のみで、三句と四句は後年の人によるとします。可能性として文武天皇が詠う「詠月」でも同じことが生じたかもしれません。つまり、文武天皇の作品も初句と二句が天皇本人のもので、それ以降は後年の人によると云う可能性です。「述志」も後半が酷いものですから、文武天皇の作品の支離滅裂さを説明するものとしてはその可能性が非常に高いのではないでしょうか。
 参考に、原文から鑑賞して頂ければ明確のように現在に伝わる『懐風藻』はその詩歌集作品に内在する矛盾から奈良時代中期、天平勝寶三年の年号を持つ編纂当時のものから後年に大幅に手が入れられ改変された疑いが強い作品です。従いまして、紹介するものはあくまで現在に伝わる『改変版懐風藻』をベースとするものであることを承知下さい。推定で平安時代人による改変作業です。奈良時代人はもう少し大陸文化に馴染んでいます。

七言 述志 大津皇子
天紙風筆畫雲鶴 天紙風筆 雲鶴を画き
山機霜杼織葉錦 山機霜杼 葉錦を織る
[後人聯句] [後人の聯句]
赤雀含書時不至 赤雀 書を含みて 時に至らず
潛龍勿用未安寢 潛龍 用ゐること勿く 未だ安寢せず

 おまけで、『万葉集』に戻りますと、先の巻十に載る集歌2223の歌の関連歌となるものとして次のような歌があります。これらの歌々が示すように、この七夕の宴の時、天候はあいにくのようであったと思われます。そこが『懐風藻』の詩作と違い、漢語漢字に対する自在性を持つ『万葉集』の恐いところです。

集歌2010 夕星毛 往来天道 及何時鹿 仰而将待 月人壮
訓読 夕星(ゆふつつ)も通ふ天道(あまぢ)をいつまでか仰ぎに待たむ月人(つきひと)壮士(をとこ)
私訳 夕星(宵の明星=金星)も移り行く天の道。その天の道を通い、年に一度の逢う、その時は、さあ、今なのかと鹿もまた「ケーン」と鳴き仰いで待っている。ねえ、月人壮士よ。

集歌2043 秋風之 清夕 天漢 舟滂度 月人牡子
訓読 秋風し清(さや)けき夕(ゆふ)へ天つ川舟滂(こ)ぎ渡る月人(つきひと)牡士(をとこ)
私訳 秋風が清々しいこの夕べ、その天の川を、舟を操って渡る月人壮士よ。

集歌2051 天原 徃射跡 白檀 挽而隠在 月人牡子
訓読 天つ原い往(い)きて射(い)むと白(しら)真弓(まゆみ)引きに隠(かく)れる月人(つきひと)牡士(をとこ)
私訳 天の原を翔け行き得物を射ようと白木の立派な弓を引く、その言葉の響きではないが、引かれるように山の端に隠れて行った月人壮士よ。

集歌2052 此夕 零来雨者 男星之 早滂船之 賀伊乃散鴨
訓読 この夕(ゆふへ)降り来る雨は男星(ひこほし)し早滂(こ)ぐ船し櫂の散(ち)りかも
私訳 この七夕の夕べに降り来る雨は、彦星が急いで舟を漕いだ、その櫂のしずくが飛び散ったものでしょうか。

 最後に文中で紹介しましたものの資料を載せます。

<参考資料 一>
送劉必先(尚顏 全唐詩より)
力進憑詩業、心焦闕問安 力は詩業に進憑し、心は安の問ふを闕くに焦る
遠行無處易、孤立本来難 遠行、易き處無く、孤立、本より来難し
楚月船中没、秦星馬上残 楚の月は船中に没し、秦の星の馬上に残る
明年有公道、更以命推看 明年、公道に有り、更に命を以って推看す

<参考資料 二>
遊月船 : 漢宫遊船名。影娥池中有遊月船、觸月船、鴻毛船、遠見船。載數百人。
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万葉雑記 色眼鏡 六八 再び鮒と鰒を鑑賞する

2014年04月12日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 六八 再び鮒と鰒を鑑賞する

 ずいぶん昔に載せた記事の焼き直しですが、今回は『万葉集』に載る鮒と鰒の歌を鑑賞します。実はこれらの歌は宴会で詠われた猥歌の可能性が高いものですから、大人の馬鹿話の一つとしてお付き合いをお願いします。つまり、まともな万葉集歌の鑑賞ではありません。

 最初に、その『万葉集』に載る鮒と鰒の歌を鑑賞する前に大人の与太話を紹介します。この大人の与太話が、歌の鑑賞の前提であることをご了解ください。その与太話からの「呆れた意訳=呆訳」です。
 さて、唐突ですが、性に関係する隠語の話をしてみたいと思います。古い言葉ですが「岐神」と記して日本書紀に、その訓みを「此云、布那斗能加微」と記されるように「フナドノカミ」と訓みます。また、古事記ではこの岐神のことを衝立船戸神(ツキタツフナドノカミ)と紹介します。この岐神は、平安時代以降には道教の庚申・道祖神信仰と結びついて、本来、大和神の「塞之大神」や「道反大神」が担っていた役割を肩代わりさせられ、地域の境界を守る御塞神(オサイジン)として解釈されるようになりました。そのためでしょうか、次に紹介する現在の解説では、この「塞之大神」や「道反大神」の役割や道祖神との習合を下にした新しい解釈に従って岐神を説明するのが過半と思います。

デジタル大辞泉より引用
ふなど‐の‐かみ 【岐神】
道の分岐点などに祭られる神。邪霊の侵入を防ぎ、旅人を守護すると信じられた。道祖神。塞(さえ)の神。久那斗(くなど)の神。巷(ちまた)の神。

 ところが、「フナドノカミ」との訓みをされる「岐神」は、どうも本来の神の姿とは、日本書紀の一書に紹介される「是謂岐神、此本号曰来名戸之祖神焉」の「来名戸之祖神(クナトノオヤカミ)」であって、それは勃起した男性器自体や男性が男根を勃起させて女性と性交する様を顕わす神であったようです。そのためでしょうか、この本来の姿である岐神への奉納物として相応しい物だと、陰陽物や陽物を奉納する風習が全国各地に残っています。また、この岐神は女性が夫との子宝授受や夫婦和合を願う時に祀る神とされ、その風習の一例として扶桑略記の天慶二年の項目には、「臍下腰底刻繪陰陽、・・・、号曰岐神。又稱御霊」と紹介します。一部の解説ではアイヌ語を引用して、「クナトノオヤカミ」とは縄文時代に遡る古代大和の男性器を意味する古語であるとしています。さらに「クナト」は「クナグ(婚グ)=男女和合」が本来の言葉で、「クナグ」から「クナト」へと音が転換したとの説もあります。
 この「岐神」と表記して「来名戸之祖神(クナトノオヤカミ)」や「布那斗能加微(フナドノカミ)」と訓むところから、古代から中世の知識者には、漢字表記での「岐神」の漢字表記を仲介して「クナトノカミ」と「フナトノカミ」との呼び名から「クナト」と「フナト」とが言葉遊びでは等価の言葉と扱われた可能性があります。そうした時、時代の流れと共に本来の由緒である杖を大地に立て、邪悪の侵入を遮ると云う「布那斗能加微(フナドノカミ)」が、その由来よりも言葉遊びでの等価の言葉から男性器を代表する「来名戸之祖神(クナトノオヤカミ)」と混同されていったのでしょう。
 さて、隠語が隠語として成り立つには創り手と読み手との間に共通の認識が必要ですから、この岐神の呼び名を仲介として「フナト」と「クナト」の言葉遊びは成り立つと思います。つまり、「フナ」なる音字から「クナ」の音字をイメージすることです。「クナト」は古代から中世では男性器や性交をイメージさせる言葉ですから、猥歌と推理されるような歌に「フナ」なる音字が使われる時、歌の詠い手と聞き手には男性器や性交をイメージした可能性があります。現代人での「H」なる音字と同じ働きがあるであろうと云う推定です。この推定からの飛躍ですが、これを前提に「鮒(フナ)」の字音から、引用する文脈において「フナト」の言葉のイメージが起き、さらにその「フナト」の漢字表記である「岐神」から「クナト」へのイメージ(勃起した男根)が浮かぶとの論理を取ります。

 ここで、少し話題を変えます。
 『万葉集』では海上・沖合を示す言葉の「オクヘ」は「奥邊」や「奥部」と記述するのが一般的ですが、『万葉集』の中で「奥弊」や「奥敝」と特殊な用字をした歌がそれぞれ一首あります。ここで、漢辞海からその解説を恣意的に引用しますと、この「弊」と「敝」の漢字には次の意味を取ることが出来ます。
弊;破れる、疲労する、疲れる、隠す、前に倒す。また、弊は蔽に通じる
敝;破れる、疲労する、疲れる、隠す。また、敝は弊に通じる
 つまり、歌の情景が成熟した男女の関係を前提にしたときに、それが猥歌と区分される歌で使われる「奥弊」や「奥敝」の漢字表記からは、男女の関係において、その文脈によっては奥まった場所にある蔽われた閨での性交の情景をイメージすることも可能になります。逆に歌の鑑賞において男女を詠う集歌625の歌の「奥弊徃」や集歌72の歌の「玉藻苅奥敝」の詞には隠語的な用法での「弊」と「敝」の用字を敢えて行ったのではないかと推定することも可能とする立場です。飛躍ですが、現代人が「淫」や「陰」の漢字に対して持つイメージと同じ感覚です。

 寄り道をしました。本来の趣旨である『万葉集』の鑑賞に進みます。
 寄り道で扱いました、その「鮒」と「弊」との文字が共に使われているのが、つぎの高安王が詠う集歌625の歌です。当然、「漢字交りひらがな表記」へと訓読みされた『訓読み万葉集』と「漢語と万葉仮名だけで表記」された『原文万葉集』とでは、鑑賞する世界は違います。

高安王裹鮒贈娘子謌一首  高安王者後賜姓大原真人氏
標訓 高安王の裹(つつ)める鮒を娘子(をとめ)に贈れる謌一首  高安王は、後に姓(かばね)大原真人の氏(うぢ)を賜へり
集歌625 奥弊徃 邊去伊麻夜 為妹 吾漁有 藻臥束鮒
訓読 沖辺(おくへ)往(い)き辺(へ)を去(い)き今や妹がため吾が漁(すなど)れし藻(も)臥(ふ)し束鮒(つかふな)
私訳 池の沖に出たり岸辺を行ったりして、たった今、愛しい貴女のために私が捕まえた藻の間に隠れていた一握り程の大きさの鮒です。
呆訓 奥辺(おくへ)往(い)き辺(へ)を去(い)き今や妹がため吾が巣(す)などれし藻(も)臥(ふ)し束鮒(つかふな)
呆訳 奥の閨へとやって来た、今夜は私の女となった愛しい貴女のためにと私の体についている、それが貴女の美しい柔毛のところに挿入している握り拳ほどの長さの男根です。
注意 「藻臥束鮒」が隠語ですと、「藻」は陰毛、「束」は握り拳ほどの長さ、「鮒」は男性器を意味します。およそ、「束鮒」なる言葉は標準的な勃起長を示唆します。

 この歌は、宴に招かれた女性に今夜は泊って行きませんかと云うような謎かけの歌とも取れますが、感覚で、くだけた宴での、その宴に出席している女性たちへ墨書して示した猥歌でしょう。この謎かけを理解して「応応」と答えれば、それが飛鳥・奈良時代の「清々し」と表現される女性の心意気を示すと思われます。
 これだけの謎かけの歌ですから宴に参加する娘子達からの答歌があっても良いと思います。そうした時、『万葉集』ではひとつ置いて次のような歌があります。ここで、集歌625の歌が宴での猥歌と推定した上で、それぞれの歌の標を一旦脇に置きますと、集歌625、集歌627と集歌628の歌は連続した宴での歌と解釈が出来ます。
 すると、現代にされる解説では集歌627と集歌628の歌とのそれぞれの「戀」の字を「変」の誤字として解釈していますが、そのような不自然な誤字説を採る必要性はなくなります。つまり、これらの歌は宴で出された肴の干物の鮒から詠いだされた集歌625の歌に隠された意味である貴女を抱きたいとの意を汲んで、娘女が詠う「鮒と鯉」との言葉遊びと「戀水=惚れ薬」の意味合いを許にした戯れの相聞として鑑賞することが可能になります。当然、猥歌では「鮒」が生きの良い男根なら「水」は女性の潤いです。また、奈良時代、精力剤を鹿の角を煮て作ったと云います。そうした時、集歌628の歌の「鹿煮藻闕二毛」の表記が利いてきますし、「戀水」は惚れ薬や精力剤の意味合いを意味していると解釈されます。

娘子報贈佐伯宿祢赤麿謌一首
標訓 娘子(をとめ)の佐伯宿祢赤麿に報(こた)へ贈れる謌一首
集歌627 吾手本 将巻跡念牟 大夫者 戀水定 白髪生二有
訓読 吾が手本(たもと)纏(ま)かむと念(おも)はむ大夫(ますらを)は恋(こ)ふ水(みづ)定め白髪生(お)ひにけり
私訳 私を抱きたいと強く思う立派な男子は、私が飲む惚れ薬の恋の水を手に入れてください。(ぐずぐずしている内に) 貴方の髪には白い髪が生えていますよ。

佐伯宿祢赤麿和謌一首
標訓 佐伯宿祢赤麿の和(こた)へたる謌一首
集歌628 白髪生流 事者不念 戀水者 鹿煮藻闕二毛 求而将行
訓読 白髪生(お)ふる事(こと)は念(おも)はず恋(こ)ふ水(みづ)はかにもかくにも求めて行かむ
私訳 白髪が生えていることは気にかけません。貴女に飲ませる惚れる薬の恋の水は、とにもかくにも捜し求めてから、貴女を尋ねましょう。

 参考に一つ飛ばしました集歌626の歌を、次に紹介します。

八代女王獻天皇謌一首
標訓 八代(やしろの)女王(おほきみ)の天皇(すめらみこと)に獻(たてまつ)れる謌一首
集歌626 君尓因 言之繁乎 古郷之 明日香乃河尓 潔身為尓去
一尾云、龍田超 三津之濱邊尓 潔身四二由久
訓読 君により言(こと)し繁きを古郷(ふるさと)し明日香の川に潔身(みそぎ)せに行く
一尾(あるび)に云はく、龍田越え御津し浜辺にみそぎしに行く
私訳 貴方へのために恋いの噂話が酷いので、故郷の明日香にある川に心を清めるために禊ぎをしに行きます。
或る尾句に云うには「龍田の山を越え、難波の御津の浜辺に禊ぎをしに行く」と。

 ここで、集歌626の歌が詠われた宴で、その宴に列席する男性の多くが明日香で生まれた人々ですと、歌意には鮒が取れた明日香の川に女性が素肌の下半身を沈め、今も元気に泳ぐ鮒に身を曝す意味合いも現れて来ます。ただ、上品過ぎて集歌625の歌の答歌にはなりません。やはり、集歌627の歌の方が面白いとして鑑賞しました。

 次にもう一つ、特別に「敝」の用字を使った式部卿藤原宇合が詠う「奥敝」の言葉が載る集歌72の歌を紹介します。この歌は、伝承では慶雲三年の文武天皇の難波宮への御幸の折りに、十三歳であった藤原馬養(宇合)に夜伽の女性があてがわれ、その翌朝に年少の馬養がその情景を詠ったものとされています。
 この歌には夜伽の女性に後朝として歌を贈ったものと云うより、からかいで昨夜の首尾を聞く大人たちへの答歌の感覚があります。この歌の背景の伝承と用字からの呆訳です。

集歌72 玉藻苅 奥敝波不榜 敷妙乃 枕之邊 忘可祢津藻
訓読 玉藻刈る沖辺(おきへ)は漕がじ敷妙の枕の辺(あたり)忘れかねつも
意訳 玉藻を刈るからとて沖遠くは舟を出すまい。敷妙の枕を交わした人が忘れられないものを。
呆訳 美人の柔毛を別け奥の閨ですることは疲れ果てもう出来ません。褥を敷いて待っていた美しい枕もとのあの人が忘れられないでしょう。
右一首式部卿藤原宇合
注訓 右の一首は、式部卿藤原宇合


 これから紹介する次の集歌327の歌は年増の宮中女官が女犯禁制の僧侶をからかうことに対して、僧侶からの軽い皮肉を込めた答歌として有名な歌です。ここで鰒は古来より女隠を顕わす言葉であることがミソです。なお、標の「賜」の用字から「或娘子等」は女性ですが通觀僧より身分は上ですから、宮中の女官であることが推測されます。
 なお、干鮑は神餞や饗宴での饌食の食材ですから、僧侶に贈答すること自体は特別に奇異なことでも淫靡な意味合いがあるわけではありません。そこからしますと、集歌327の歌が詠われる「特別な前提」が宮中女官と僧侶との間にあったと思われます。それで標での「戯請通觀僧之咒願」の「戯」の言葉の意味が出てきます。

或娘子等賜裹乾鰒戯請通觀僧之咒願時通觀作歌一首
標訓 或(あ)る娘子等(をとめら)の、裹(つつ)める乾鰒(ほしあはび)を賜りて戯(たわむ)れに通觀(つうかん)僧(ほふし)の咒願(しゅがん)を請(こ)ひし時に、通觀の作れる歌一首
集歌327 海若之 奥尓持行而 雖放 宇礼牟曽此之 将死還生
訓読 海神(わたつみ)し沖に持ち行きに放(はな)つともうれむぞこれしよみがへりなむ
私訳 生まれ故郷の海神が宿る沖合い遥かに持っていって海に放ち放生回向をしたとしても、どうして乾鰒が生き返るでしょうか。
呆訓 海女(あま)若(わか)し奥に持ち行きにただ放(はな)ちうれむぞこれしよみがへりなむ
呆訳 まだ若い海女を閨に連れ込み、その体に何度も射精をする。それでもきっと、この男根はなんども勃起をするでしょう。

 参考に食べる鰒(鮑)を詠う歌が催馬楽(さいばら)に「我家」と云う曲名であります。歌の隠れた意味合いにおいて、鮑と栄螺は形で示し、ウニは海胆や海栗でなくあえて「石陰子」の漢字表記で示したと理解するのが良いようです。それで、私の三人の娘は抱き心地が良いから、その内の一人の娘の夫になってくれとの歌の意味が出てきます。この催馬楽は奈良時代、天平十三年の恭仁遷都頃の曲とされていますので、先の集歌327の歌と同時代性があります。歌から、どのような時代であったのかを感じて頂ければ、紹介した鑑賞がある程度の背景があると理解されるのではないでしょうか。
 参考としてくだらない解説ですが、一応、善良・健全な若い人への確認として、鮑はその身をよじり縮める姿が女性器外淫を、栄螺はその形から女性器膣を、石陰子はその漢字表記から女性器全体を暗示する言葉です。真面目に歌を鑑賞すると、この歌もまた性的露骨な歌となっていることに気付かされます。時代です。

わいへは とばり帳(ちょう)も たれたるを 我家は 帷帳も 垂れたるを
おほきみきませ むこにせむ 大君来ませ 聟にせむ
みさかなに なによけむ  御肴に 何よけむ
あはびさだをか かせよけむ 鮑栄螺か 石陰子よけむ
あはびさだをか かせよけむ 鮑栄螺か 石陰子よけむ


 最後に集歌3828の歌は「鮒」の言葉からの勢いでの呆訳です。単なる実験としてご笑納ください。

詠香塔厠屎鮒奴謌
標訓 香、塔、厠、屎、鮒、奴(やつこ)を詠める歌
集歌3828 香塗流 塔尓莫依 川隈乃 屎鮒喫有 痛女奴
訓読 香(こり)塗(ぬ)れる塔(たふ)にな寄りそ川隈(かはくま)の屎鮒(くそふな)食(は)めるいたき女(め)奴(やつこ)
私訳 好い匂いのする香を塗った貴い仏塔には近寄るな。川の曲がりにある厠から流れる屎を餌に育った鮒を食べた臭いがきつい女の召使よ。
呆訳 良い女と同衾する、その立派な男の持ち物にその手で触れるな。川の曲りのところで、どうしようもない男の男根を堪能したとんでもない女よ。


 おまけで、
 「鮒侍」なる言葉が江戸中期以降に有名になりました。そうです。忠臣蔵の浅野匠頭を揶揄する言葉です。一般には「鮒侍」なる言葉に対して「井の中の鮒」なる解説を引用し、世間知らずの田舎者を意味すると説明します。
 さて、このような落語もどきの解説はさておき、本来の仮名手本忠臣蔵では「鮒侍」なる言葉が使われる前段階で、次のようなストリーが展開します。その最終末が「鮒よ、鮒よ、鮒侍だぁ」の罵倒です。それを紹介するのにインターネットから仮名手本忠臣蔵「松の廊下」段を引用します。

 仮名手本忠臣蔵は有名な赤穂事件を元に脚色された義太夫狂言で、当時実名で上演すると幕府からお咎めを受けるので、吉良上野介を高師直、浅野内匠頭を塩冶判官、大石内蔵助を大星由良之助とし、あくまでも南北朝時代の出来事という設定で史実と虚構を巧みに織り交ぜて書かれた名作です。
 鶴ヶ岡八幡の造営を祝い副将軍足利直義が下向し、塩冶判官と桃井若狭之助がその饗応役を勤めることとなりました。高師直はかねてより天下一の美人と名高い塩冶判官の奥方顔世御前に横恋慕をしており、鶴ヶ岡にて恋文を渡し言い寄ります。若狭之助の機転により顔世は無事逃れますがその腹いせに師直は若狭之助を罵倒します。屋敷に戻った若狭之助は余りの口惜しさに師直を斬ろうと決心しますが、是を知った家老の加古川本蔵が、大事に至らぬようにと密かに師直へ莫大な進物を行いました。
 さて、そうとは知らない若狭之助は怒りにまかせ師直と差し違えるつもりで登城し、松の間にて師直主従を見つけ刀に手をかけます。しかし、権高だった師直が一転して卑屈なまでにへりくだって謝ります。刀を抜くきっかけを失った若狭之助は怒りの収まらぬまま師直を罵倒し控えの間に去ります。
 そこへ遅参・登城してきた塩冶判官は、師直に愛妻顔世御前からの手紙を渡し、そこに書かれていた和歌から師直は恋が破れた事を知ります。恋の逆恨みと最前、若狭之助に追従した反動とが重なり師直は判官を散々にいたぶり辱めます。判官は理由の解らぬまま我慢に我慢を重ねますが、最後には「鮒よ、鮒よ、鮒侍だぁ」と罵られて、ついに屈辱に耐えかね刃傷に及んだのです。


 以上の解説からしますと、高師直から見て、塩冶判官は副将軍饗応接待役の務めよりも美人の奥方顔世御前との睦を先として大事な役務に遅参する男だと、人々の前で罵っていることに気付く必要があります。そうした時、仮名手本忠臣蔵は上方で初演された義太夫の作品ですので、当時の上方の言葉や祭事が取り込まれている可能性があります。つまり、「クナト」と「フナト」との言葉遊びの可能性です。そこに塩冶判官は美人の奥方顔世御前との夫婦和合をもっぱらにし、本来の侍の姿が見えないとの罵りが存在する可能性があります。当然、江戸に下っては畿内の言葉からの「クナト」と「フナト」との言葉遊びは理解不能でしょうから、別な解説で刃傷事件の背景を説明する必要が生まれます。それが「井の中の鮒」や「鮒と云ふのも無理はない、もとのおこりはこひの道」なのでしょう。ただ、それは私のような「洒落も知らない井の中の蛙」者には判らない世界です。
 当然、男と云う対面を最重視する武士社会で美人との「H」だけが取り柄の男と揶揄されたら、やはり、対面を保つために決闘をせざるを得ないのではないでしょうか。

 今回は、呆れた法螺話となりました。反省です。ただ、当たりくじがあるのなら、江戸期の作品ですら正確に作品を鑑賞出来ていないと云う手本になるかもしれません。そのとき、『万葉集』は遥か玄遠です。
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