万葉雑記 色眼鏡 百三三 万葉集周辺の馬鹿話
大人の世界での世間一般は七月から八月は相互にスケジュールを調整しての夏休みの季節です。また、九月はシルバーウィークとも称される連休の季節です。
さて、当方の頭の中はいつも花畑のおめでたい状態ですが、今は常に益して頭の中は向日葵で花盛りです。まったくもって、千三つや千無い話をするにはうってつけの状態です。
万葉集に関係する昭和の一大研究に阿蘇瑞枝氏の『柿本人麻呂論考』(桜楓社)があります。この論文では柿本人麻呂歌集の原歌表記に注目し、略体歌、非略体歌の区分を提起した、当時としては画期的な大発見でした。ただし、万葉集の研究者には非常に都合の悪い大発見でした。
なぜか。それは次の歌二首を見て頂ければ、一目瞭然です。歌は万葉集中で人麻呂歌集の歌として連続的に掲載された歌です。
<略体歌>
集歌2513 雷神 小動 刺雲 雨零耶 君将留
訓読 鳴る神し少し響(とよ)みてさし曇り雨も降らぬや君し留(とど)めむ
私訳 雷神の鳴らす雷の音がかすかに響いて、空も曇ってきて、雨も降ってこないでしょうか。そうすれば、貴方のお帰りを引き留めましょう。
<非略体歌>
集歌2512 味酒之 三毛侶乃山尓 立月之 見我欲君我 馬之足音曽為
訓読 味酒(うまさけ)し三諸(みもろ)の山に立つ月し見が欲(ほ)し君が馬し足音(おと)そし
私訳 噛み酒を奉じる三室の山に出る月が輝いて見せて欲しい。その言葉ではないが逢いたいと思うその貴方の馬の蹄の音がする。
紹介したものは弊ブログでの標準である原歌表記、その訓じと現代語解釈を示す訳文です。一方、阿蘇瑞枝氏が『柿本人麻呂論考』で「略体歌・非略体歌論」を世に問うまで、一般の万葉集研究者は次のような伝承されて来た「訓読み万葉集」で万葉集歌を研究していました。ここに、阿蘇瑞枝氏が指示した万葉集の原歌表記自体が昭和時代の万葉集研究者にとって非常に都合が悪かったことは視覚的にすぐにご理解いただけると思います。参考として「訓読み万葉集」は原歌を忠実に訓じたものではありません。歌番号2513の「雨零耶」に対して「雨も降らぬか」ですし、歌番号2512の「馬之足音曽為」に対して「馬の音ぞする」です。
万葉集 歌番号2513
鳴る神の 少し響(とよ)みて さし曇り 雨も降らぬか 君を留(とど)めむ
万葉集 歌番号2512
味酒の みもろの山に 立つ月の 見が欲し君が 馬の音ぞする
そうです。知らなかったのです。大多数の、それも主力の万葉集研究者は万葉集原歌が次のような姿をしているとは知らなかったのです。それで、阿蘇瑞枝氏の『柿本人麻呂論考』が昭和の一大研究なのです。
万葉集 歌番号2513
雷神小動刺雲雨零耶君将留
万葉集 歌番号2512
味酒之三毛侶乃山尓立月之見我欲君我馬之足音曽為
ところで面白いもので阿蘇瑞枝氏の『柿本人麻呂論考』は昭和の一大研究ですが、一方で昭和時代の万葉集研究者にとってはそれは都合の悪い研究です。そこで、万葉集研究者はそれまでの万葉集研究書を隅から隅まで漁り、そして、「略体歌・非略体歌論」とは、江戸時代に賀茂真淵によって発見され、「詩体・常体」と区分されたものの焼き直しであると結論付けました。およそ、賀茂真淵の研究を別の言葉で二百年の時を超えて現代に紹介したものとの解釈です。
しかし、研究者がどんなに体裁を取り繕っても阿蘇瑞枝氏の『柿本人麻呂論考』までは明治期から昭和期までの万葉集研究者が万葉集を原歌から研究をしていなかったと云う事実は残ります。ここが重要です。研究の出発点となる原典や原歌を知らないで万葉集歌を研究していたと云うジョークのような事実は残るのです。
このような原典や原歌を知らない人々が真剣に難訓歌を研究すると云うのもある種の学問的なジョークでしょう。だから、きちんと近代教育論からの教育を受けた世代と代替わりをしたところではすでにもう大学授業としては馬鹿馬鹿しくて「難訓歌の読解」と云うものは扱えないでしょう。真面目に万葉集歌を原歌から研究すれば万葉集には難訓歌は存在しません。現代では、所謂、「難訓歌の読解」とは学部卒論程度の初歩的なものですし、別な面からすればそれは商業出版での売れ筋のテーマだけです。
その商業出版での有名なところでは次の歌を「難訓歌中の難訓歌」と宣伝し、販売するようです。
幸于紀温泉之時、額田王作謌
標訓 紀温泉(きのゆ)に幸(いでま)しし時に、額田王の作れる歌
集歌9 莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣吾瀬子之射立為兼五可新何本
ただし、古来、この歌は「吾瀬子之射立為兼五可新何本」の部分は次のように読解出来るとされてきました。これは短歌では下三句が訓じられていることに相当します。
原歌 吾瀬子之 射立為兼 五可新何本
訓じ 吾(あ)が背子が 致しけむ 厳橿(いつかし)が本(もと)
すると、上二句に相当する部分が「莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣」となり、これは十二文字となります。和歌の短歌を律詩と規定しますと、上二句は五音と七音、都合、十二音で構成することになっていますから、集歌9の歌が日本語の和歌であると規定しますと、一字一音万葉仮名で記述してあるのではないかと云う推定が可能となります。
非常に判り切ったことをくどくどと述べていますが、この十二音を十二文字で表現しているであろうことが重大な問題なのです。『古事記』では「於姓日下謂玖沙訶」と、『万葉集』補注では「嬥歌者柬俗語曰賀我比」と記しますが、その漢文記述に従えば「玖沙訶」は「くさか」と訓じなければいけませんし、「賀我比」は「かがひ」と訓じなければいけません。これらは一字一音万葉仮名で記述してありますから、当時としてはこれ以上に判り易い表記方法はないのです。現代人に馴染みの「ひらがな」や「カタカナ」はまだありません。
従いまして、「莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣」という表記に対して、奈良時代人も、また、万葉集が教養であった紫式部や藤原道長の時代までは、この表記を読み解くにおいて追加して何らかの手立てをする可能性はありません。例えば現代語において「そまりなし おそなえそえき」と云う文章にこれ以上にどのように日本語の訓じを付けるのでしょうか。逆に「染まりなし、お備え副えき」と漢字交じり平仮名文にするべきでしょうか。それですと、藤原定家が鎌倉時代の京都の公家衆の要望に応えて平仮名だけで記述されていた古今和歌集原典に対して施した「鎌倉時代語での翻訳作業」と同じになります。
また、「莫囂圓隣」の文字列を「ばくごうえんりん」と訓じて、難訓歌の虚仮脅しをする人もいます。しかし、この「莫囂圓隣」が話題としています集歌9の歌の初句となる文字列だとしますと、それは四音でなければいけないと云う縛りがありますから、まず、和歌も知らないし、漢字・漢語もしらない、非常に特殊な人が特別に「為にする」話題を垂れ流しているのでしょう。一字一音万葉仮名であるならば『宋本廣韻』からしますと唐時代の発音では「莫」は「な」、「囂」は「そ」、「圓」は「ま」、「隣」は「り」、「之」は「し」の音が得られます。この時、「莫」を漢語否定語と捉えるか、万葉仮名と捉えるかで、訓じにおいて歌の判断が生じます。
つまり、こう云うことです。
真面目に万葉集歌を原歌から読解する訓練や教育を受けていれば、万葉集に難訓歌はありません。せいぜい、万葉集をゼミのテーマに選択した学部生の卒論になるか、ならないか程度のものです。
本来ですと、文学部生の卒論テーマとするならば標準的に万葉集歌として歌を訓じた後に、歌の表記問題として斉明天皇の時代に額田王が詠った歌として一字一音仮名歌のような原歌表記のものが伝わったのかと云う、本質的な問題に進むべきものなのです。
考古学の発掘からしますと伝承歌ではそれを覚えるためとして人々が一字一音で歌を記録する可能性はありますが、歌を詠うときに一字一音で表記することを前提にして作歌するものは大伴旅人や山上憶良による筑紫文壇時代まで待つ必要があります。一方、集歌9の歌の表記に使う漢字は古風を伝えるものです。参考として集歌9の歌と同時代の歌を日本書紀から紹介します。原歌表記での使われる文字は古風ですが、一方、短歌としては整い過ぎている姿から藤原京から前期平城京時代に古歌歌謡から採歌し、日本書紀編纂時に近代詩へと直されたのではないかとも推測されています。
日本書紀 斉明天皇紀より
歌謡116
伊磨紀那屡 乎武例我禹杯爾 倶謨娜尼母 旨屡倶之多多婆 那爾柯那皚柯武
いまきなる をむれがうへに くもだにも しるくしたたば なにかなげかむ
歌謡117
伊喩之々乎 都那遇舸播杯能 倭柯矩娑能 倭柯倶阿利岐騰 阿我謨婆儺倶爾
いゆししを つなぐかはへの わかくさの わかくありきと あがもはなくに
歌謡118
阿須箇我播 濔儺蟻羅毘都都 喩矩瀰都能 阿比娜謨儺倶母 於母保喩屡柯母
あすかがは みなぎらひつつ ゆくみづの あひだもなくも おもほゆるかも
およそ、集歌9の歌を商業的には書籍の販売目的で難訓歌と称しますが、日本書紀 斉明天皇紀からしますと、次のような表記であったかもしれないのです。その時、さて、研究者はそれを難訓歌と称したのでしょうか。(同時代性を持つ記紀歌謡の例題を引っ張り出し、各音字に対しそれぞれの用字例を示すだけで5万字は稼げます。下三句でお試しを!)
日本書紀 歌謡表記法から推定;
集歌9の歌の可能性の表記
莫囂圓隣之 大相七兄爪謁氣 阿我勢虚之 伊多弖之為鶏武 伊都可新何母騰
逆に集歌9の歌が日本書紀歌謡のような表記スタイルであったなら、「莫囂圓隣」の文字列を「ばくごうえんりん」と訓じる頓珍漢な万葉集を全くに知らない部外者は現れなかったでしょうし、「難訓歌」などと云う名称すら与えなかったと思われます。
このように遊びで推定しますと、万葉集に載る集歌9の歌は伝承歌の中の一つですが、額田王が詠った可能性が非常に強いとして古事記や日本書紀歌謡のような形ではなく、その可能性を見せるために敢えて折衷のような表記方法を採用したのかもしれません。本来ですと、この程度までは遊んで頂き、さらに専門研究者の成果を披露して頂くと「流石」となります。それでやっと集歌9の歌が卒業論文のテーマと成り得るのではないでしょうか。
あともう一つ、歌の標題の「幸于紀温泉之時」からしますと、歌は斉明天皇が斉明四年(658)十月から翌年正月まで滞在された紀温湯への行幸でのものとなります。額田王の御子に十市皇女を推定しますと、十市皇女の生誕は白雉四年(653)頃とされていますから、当時の女性の初婚年齢などを踏まえると、額田王は舒明天皇十年(638)頃の生まれと思われます。すると、二十歳前後で集歌9の歌を詠ったことになりますが、音字表記に直した時、時代として、これほど整った歌を詠ったかどうかについて、「なぜ」と云う疑問が残ります。ちょうどそれは日本書紀の歌謡への評論と等しいものとなるでしょうか。
今回は万葉集周辺の馬鹿話ですから、少し、話題を変え、もう一つ馬鹿話をします。
ところで、現代の源氏物語引歌研究者は、紫式部は熱心な万葉集のファンであり、十分にそれを読解し、享受していたと推測します。その紫式部は源氏物語の中で人麻呂関係歌を九首採用(一首重複)し、その大半が人麻呂と愛人であった軽里の妻(隠れ妻)との相聞歌です。その一部、三首を紹介します。
源氏物語 二十八帖 野分
引歌文 中将の朝けの姿はきよげなりな。ただ今は、きびはなるべきほどを、かたくなしからず見ゆるも、心の闇にや
万葉集巻十二 集歌2841 人麻呂歌集
原文 我背子之 朝明形 吉不見 今日間 戀暮鴨
読下 わかせこしあさけしすかたよくみすてけふしあいたしこひくらすかも
私訓 我が背子し朝明(あさけ)し姿よく見ずて今日し間(あひだ)し恋ひ暮らすかも
私訳 私の貴方がまだ薄暗い朝明けの中を帰っていく姿をはっきりと見ないまま、おぼつかなく、今日の一日を恋しく暮らすのでしょうか。
源氏物語 第三九帖 夕霧
引歌文 いとなかなか年ごろの心もとなさよりも、千重にもの思ひ重ねて嘆きたまふ。
万葉集巻十一 集歌2371 人麻呂歌集
原文 心 千遍雖念 人不云 吾戀嬬 見依鴨
読下 こころにしちへしおもへとひといはぬわかこいつましみむよしもかも
私訓 心にし千遍(ちへ)し思へど人云はぬ吾(われ)恋(こひ)嬬(つま)し見むよしもがも
私訳 心の中では千遍も貴女を愛していると思っていても、それを人には口に出して云いませんが、私の恋する貴女を抱く機会がありません。
源氏物語 五一帖 浮舟
引歌文 わりなく思されければ、親のかふこは所狭きものにこそと思すもかたじけなし。
万葉集巻十一 集歌2495 人麻呂歌集
原文 足常 母養子 眉隠 ゞ在妹 見依鴨
読下 たらちねしははしかふこしまゆこもりこもれるいもしみるよしもがも
私訓 たらつねし母し養(か)ふ蚕(こ)し繭(まよ)隠(こも)り隠(こも)れる妹し見むよしもがも
私訳 心を満たす母が飼う蚕が繭に籠るように、母親によって家の奥に隠れている貴女に会う機会がほしい。
こうした時、人麻呂と軽里の妻との出会いを丹念に人麻呂歌集などから追いますと、どうも、人麻呂は軽里の妻が初潮を迎える前(当時での未成年に相当)、石上神社の祭礼で見初めたようです。そして、その若い軽里の妻を教育し、自分の和歌や自然観に相応しい女性へと育てたと思われます。人麻呂の時代はまだ万葉仮名の創設時期で人々は文字や文章を漢字・漢文から直接に学ぶ時代です。そのような時代ですから、好いた女性と和歌で会話を楽しむには、男女ともに相当な勉学に励む必要があったと思われます。
その人麻呂は、若き時代、軽里の妻を都に残し、有能な鉱山技師として地方を回ります。須磨・明石もまた人麻呂が訪れた場所です。そして、風流と有能な官吏として従四位の立場まで上ります。そうした中、人麻呂は軽里の妻を亡くします。その軽里の妻に対し、人麻呂は尼寺のような場所で死んだことを匂わせるような挽歌を捧げています。ただし、軽里の妻は正妻ではありません。正妻は引手山の娘女です。あちらの方も正妻ではありません。正妻は女三宮です。
おまけで、人麻呂が子を産ませその地に残して出来た石見柿本党と云う勢力は史実として平安時代から安土桃山時代までは益田地域では受領・地頭として有力な地場勢力でしたし、明石の方の父親である明石入道もまた物語では受領と云う地域の有力者です。これは、どっかからのパクリのあらすじではありません。人麻呂歌集などの歌々や続日本紀、新撰姓氏録などを丁寧に当たって行くと推測できる事項です。
人麻呂の生涯はパクリじゃないと宣言しましたが、さて、では、紫式部は「あれはパクリじゃない」と宣言出来るでしょうか。紫式部は熱心な人麻呂歌集の愛読者です。その万葉集からは源氏物語に三十三首を引用していますが、その内、九首が人麻呂関連歌です。疑惑は浮かびます。幼い軽里の妻には石上神社の祭礼で田舞を舞い奉納する姿があり、方や、幼な児にはスズメを捕まえ、飼おうとする姿があります。ともに登場の場面は深閨に隠れた美人と云うものではありません。そして、娘としてその幼い女の子を育てるのではなく、才能を見込んだ相手を己の妻として育て、そして、唯一の男としてその蕾を摘み、花として咲かせ、その花が枯れるまで己が手の内に置きました。
夏の暑さに、頭の中はいつもよりお花畠です。その暑い中、最後までお付き合い、ありがとうございます。なお、ここでの話は真夏の白昼夢ですし、千無い話です。真に受けないでください。
大人の世界での世間一般は七月から八月は相互にスケジュールを調整しての夏休みの季節です。また、九月はシルバーウィークとも称される連休の季節です。
さて、当方の頭の中はいつも花畑のおめでたい状態ですが、今は常に益して頭の中は向日葵で花盛りです。まったくもって、千三つや千無い話をするにはうってつけの状態です。
万葉集に関係する昭和の一大研究に阿蘇瑞枝氏の『柿本人麻呂論考』(桜楓社)があります。この論文では柿本人麻呂歌集の原歌表記に注目し、略体歌、非略体歌の区分を提起した、当時としては画期的な大発見でした。ただし、万葉集の研究者には非常に都合の悪い大発見でした。
なぜか。それは次の歌二首を見て頂ければ、一目瞭然です。歌は万葉集中で人麻呂歌集の歌として連続的に掲載された歌です。
<略体歌>
集歌2513 雷神 小動 刺雲 雨零耶 君将留
訓読 鳴る神し少し響(とよ)みてさし曇り雨も降らぬや君し留(とど)めむ
私訳 雷神の鳴らす雷の音がかすかに響いて、空も曇ってきて、雨も降ってこないでしょうか。そうすれば、貴方のお帰りを引き留めましょう。
<非略体歌>
集歌2512 味酒之 三毛侶乃山尓 立月之 見我欲君我 馬之足音曽為
訓読 味酒(うまさけ)し三諸(みもろ)の山に立つ月し見が欲(ほ)し君が馬し足音(おと)そし
私訳 噛み酒を奉じる三室の山に出る月が輝いて見せて欲しい。その言葉ではないが逢いたいと思うその貴方の馬の蹄の音がする。
紹介したものは弊ブログでの標準である原歌表記、その訓じと現代語解釈を示す訳文です。一方、阿蘇瑞枝氏が『柿本人麻呂論考』で「略体歌・非略体歌論」を世に問うまで、一般の万葉集研究者は次のような伝承されて来た「訓読み万葉集」で万葉集歌を研究していました。ここに、阿蘇瑞枝氏が指示した万葉集の原歌表記自体が昭和時代の万葉集研究者にとって非常に都合が悪かったことは視覚的にすぐにご理解いただけると思います。参考として「訓読み万葉集」は原歌を忠実に訓じたものではありません。歌番号2513の「雨零耶」に対して「雨も降らぬか」ですし、歌番号2512の「馬之足音曽為」に対して「馬の音ぞする」です。
万葉集 歌番号2513
鳴る神の 少し響(とよ)みて さし曇り 雨も降らぬか 君を留(とど)めむ
万葉集 歌番号2512
味酒の みもろの山に 立つ月の 見が欲し君が 馬の音ぞする
そうです。知らなかったのです。大多数の、それも主力の万葉集研究者は万葉集原歌が次のような姿をしているとは知らなかったのです。それで、阿蘇瑞枝氏の『柿本人麻呂論考』が昭和の一大研究なのです。
万葉集 歌番号2513
雷神小動刺雲雨零耶君将留
万葉集 歌番号2512
味酒之三毛侶乃山尓立月之見我欲君我馬之足音曽為
ところで面白いもので阿蘇瑞枝氏の『柿本人麻呂論考』は昭和の一大研究ですが、一方で昭和時代の万葉集研究者にとってはそれは都合の悪い研究です。そこで、万葉集研究者はそれまでの万葉集研究書を隅から隅まで漁り、そして、「略体歌・非略体歌論」とは、江戸時代に賀茂真淵によって発見され、「詩体・常体」と区分されたものの焼き直しであると結論付けました。およそ、賀茂真淵の研究を別の言葉で二百年の時を超えて現代に紹介したものとの解釈です。
しかし、研究者がどんなに体裁を取り繕っても阿蘇瑞枝氏の『柿本人麻呂論考』までは明治期から昭和期までの万葉集研究者が万葉集を原歌から研究をしていなかったと云う事実は残ります。ここが重要です。研究の出発点となる原典や原歌を知らないで万葉集歌を研究していたと云うジョークのような事実は残るのです。
このような原典や原歌を知らない人々が真剣に難訓歌を研究すると云うのもある種の学問的なジョークでしょう。だから、きちんと近代教育論からの教育を受けた世代と代替わりをしたところではすでにもう大学授業としては馬鹿馬鹿しくて「難訓歌の読解」と云うものは扱えないでしょう。真面目に万葉集歌を原歌から研究すれば万葉集には難訓歌は存在しません。現代では、所謂、「難訓歌の読解」とは学部卒論程度の初歩的なものですし、別な面からすればそれは商業出版での売れ筋のテーマだけです。
その商業出版での有名なところでは次の歌を「難訓歌中の難訓歌」と宣伝し、販売するようです。
幸于紀温泉之時、額田王作謌
標訓 紀温泉(きのゆ)に幸(いでま)しし時に、額田王の作れる歌
集歌9 莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣吾瀬子之射立為兼五可新何本
ただし、古来、この歌は「吾瀬子之射立為兼五可新何本」の部分は次のように読解出来るとされてきました。これは短歌では下三句が訓じられていることに相当します。
原歌 吾瀬子之 射立為兼 五可新何本
訓じ 吾(あ)が背子が 致しけむ 厳橿(いつかし)が本(もと)
すると、上二句に相当する部分が「莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣」となり、これは十二文字となります。和歌の短歌を律詩と規定しますと、上二句は五音と七音、都合、十二音で構成することになっていますから、集歌9の歌が日本語の和歌であると規定しますと、一字一音万葉仮名で記述してあるのではないかと云う推定が可能となります。
非常に判り切ったことをくどくどと述べていますが、この十二音を十二文字で表現しているであろうことが重大な問題なのです。『古事記』では「於姓日下謂玖沙訶」と、『万葉集』補注では「嬥歌者柬俗語曰賀我比」と記しますが、その漢文記述に従えば「玖沙訶」は「くさか」と訓じなければいけませんし、「賀我比」は「かがひ」と訓じなければいけません。これらは一字一音万葉仮名で記述してありますから、当時としてはこれ以上に判り易い表記方法はないのです。現代人に馴染みの「ひらがな」や「カタカナ」はまだありません。
従いまして、「莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣」という表記に対して、奈良時代人も、また、万葉集が教養であった紫式部や藤原道長の時代までは、この表記を読み解くにおいて追加して何らかの手立てをする可能性はありません。例えば現代語において「そまりなし おそなえそえき」と云う文章にこれ以上にどのように日本語の訓じを付けるのでしょうか。逆に「染まりなし、お備え副えき」と漢字交じり平仮名文にするべきでしょうか。それですと、藤原定家が鎌倉時代の京都の公家衆の要望に応えて平仮名だけで記述されていた古今和歌集原典に対して施した「鎌倉時代語での翻訳作業」と同じになります。
また、「莫囂圓隣」の文字列を「ばくごうえんりん」と訓じて、難訓歌の虚仮脅しをする人もいます。しかし、この「莫囂圓隣」が話題としています集歌9の歌の初句となる文字列だとしますと、それは四音でなければいけないと云う縛りがありますから、まず、和歌も知らないし、漢字・漢語もしらない、非常に特殊な人が特別に「為にする」話題を垂れ流しているのでしょう。一字一音万葉仮名であるならば『宋本廣韻』からしますと唐時代の発音では「莫」は「な」、「囂」は「そ」、「圓」は「ま」、「隣」は「り」、「之」は「し」の音が得られます。この時、「莫」を漢語否定語と捉えるか、万葉仮名と捉えるかで、訓じにおいて歌の判断が生じます。
つまり、こう云うことです。
真面目に万葉集歌を原歌から読解する訓練や教育を受けていれば、万葉集に難訓歌はありません。せいぜい、万葉集をゼミのテーマに選択した学部生の卒論になるか、ならないか程度のものです。
本来ですと、文学部生の卒論テーマとするならば標準的に万葉集歌として歌を訓じた後に、歌の表記問題として斉明天皇の時代に額田王が詠った歌として一字一音仮名歌のような原歌表記のものが伝わったのかと云う、本質的な問題に進むべきものなのです。
考古学の発掘からしますと伝承歌ではそれを覚えるためとして人々が一字一音で歌を記録する可能性はありますが、歌を詠うときに一字一音で表記することを前提にして作歌するものは大伴旅人や山上憶良による筑紫文壇時代まで待つ必要があります。一方、集歌9の歌の表記に使う漢字は古風を伝えるものです。参考として集歌9の歌と同時代の歌を日本書紀から紹介します。原歌表記での使われる文字は古風ですが、一方、短歌としては整い過ぎている姿から藤原京から前期平城京時代に古歌歌謡から採歌し、日本書紀編纂時に近代詩へと直されたのではないかとも推測されています。
日本書紀 斉明天皇紀より
歌謡116
伊磨紀那屡 乎武例我禹杯爾 倶謨娜尼母 旨屡倶之多多婆 那爾柯那皚柯武
いまきなる をむれがうへに くもだにも しるくしたたば なにかなげかむ
歌謡117
伊喩之々乎 都那遇舸播杯能 倭柯矩娑能 倭柯倶阿利岐騰 阿我謨婆儺倶爾
いゆししを つなぐかはへの わかくさの わかくありきと あがもはなくに
歌謡118
阿須箇我播 濔儺蟻羅毘都都 喩矩瀰都能 阿比娜謨儺倶母 於母保喩屡柯母
あすかがは みなぎらひつつ ゆくみづの あひだもなくも おもほゆるかも
およそ、集歌9の歌を商業的には書籍の販売目的で難訓歌と称しますが、日本書紀 斉明天皇紀からしますと、次のような表記であったかもしれないのです。その時、さて、研究者はそれを難訓歌と称したのでしょうか。(同時代性を持つ記紀歌謡の例題を引っ張り出し、各音字に対しそれぞれの用字例を示すだけで5万字は稼げます。下三句でお試しを!)
日本書紀 歌謡表記法から推定;
集歌9の歌の可能性の表記
莫囂圓隣之 大相七兄爪謁氣 阿我勢虚之 伊多弖之為鶏武 伊都可新何母騰
逆に集歌9の歌が日本書紀歌謡のような表記スタイルであったなら、「莫囂圓隣」の文字列を「ばくごうえんりん」と訓じる頓珍漢な万葉集を全くに知らない部外者は現れなかったでしょうし、「難訓歌」などと云う名称すら与えなかったと思われます。
このように遊びで推定しますと、万葉集に載る集歌9の歌は伝承歌の中の一つですが、額田王が詠った可能性が非常に強いとして古事記や日本書紀歌謡のような形ではなく、その可能性を見せるために敢えて折衷のような表記方法を採用したのかもしれません。本来ですと、この程度までは遊んで頂き、さらに専門研究者の成果を披露して頂くと「流石」となります。それでやっと集歌9の歌が卒業論文のテーマと成り得るのではないでしょうか。
あともう一つ、歌の標題の「幸于紀温泉之時」からしますと、歌は斉明天皇が斉明四年(658)十月から翌年正月まで滞在された紀温湯への行幸でのものとなります。額田王の御子に十市皇女を推定しますと、十市皇女の生誕は白雉四年(653)頃とされていますから、当時の女性の初婚年齢などを踏まえると、額田王は舒明天皇十年(638)頃の生まれと思われます。すると、二十歳前後で集歌9の歌を詠ったことになりますが、音字表記に直した時、時代として、これほど整った歌を詠ったかどうかについて、「なぜ」と云う疑問が残ります。ちょうどそれは日本書紀の歌謡への評論と等しいものとなるでしょうか。
今回は万葉集周辺の馬鹿話ですから、少し、話題を変え、もう一つ馬鹿話をします。
ところで、現代の源氏物語引歌研究者は、紫式部は熱心な万葉集のファンであり、十分にそれを読解し、享受していたと推測します。その紫式部は源氏物語の中で人麻呂関係歌を九首採用(一首重複)し、その大半が人麻呂と愛人であった軽里の妻(隠れ妻)との相聞歌です。その一部、三首を紹介します。
源氏物語 二十八帖 野分
引歌文 中将の朝けの姿はきよげなりな。ただ今は、きびはなるべきほどを、かたくなしからず見ゆるも、心の闇にや
万葉集巻十二 集歌2841 人麻呂歌集
原文 我背子之 朝明形 吉不見 今日間 戀暮鴨
読下 わかせこしあさけしすかたよくみすてけふしあいたしこひくらすかも
私訓 我が背子し朝明(あさけ)し姿よく見ずて今日し間(あひだ)し恋ひ暮らすかも
私訳 私の貴方がまだ薄暗い朝明けの中を帰っていく姿をはっきりと見ないまま、おぼつかなく、今日の一日を恋しく暮らすのでしょうか。
源氏物語 第三九帖 夕霧
引歌文 いとなかなか年ごろの心もとなさよりも、千重にもの思ひ重ねて嘆きたまふ。
万葉集巻十一 集歌2371 人麻呂歌集
原文 心 千遍雖念 人不云 吾戀嬬 見依鴨
読下 こころにしちへしおもへとひといはぬわかこいつましみむよしもかも
私訓 心にし千遍(ちへ)し思へど人云はぬ吾(われ)恋(こひ)嬬(つま)し見むよしもがも
私訳 心の中では千遍も貴女を愛していると思っていても、それを人には口に出して云いませんが、私の恋する貴女を抱く機会がありません。
源氏物語 五一帖 浮舟
引歌文 わりなく思されければ、親のかふこは所狭きものにこそと思すもかたじけなし。
万葉集巻十一 集歌2495 人麻呂歌集
原文 足常 母養子 眉隠 ゞ在妹 見依鴨
読下 たらちねしははしかふこしまゆこもりこもれるいもしみるよしもがも
私訓 たらつねし母し養(か)ふ蚕(こ)し繭(まよ)隠(こも)り隠(こも)れる妹し見むよしもがも
私訳 心を満たす母が飼う蚕が繭に籠るように、母親によって家の奥に隠れている貴女に会う機会がほしい。
こうした時、人麻呂と軽里の妻との出会いを丹念に人麻呂歌集などから追いますと、どうも、人麻呂は軽里の妻が初潮を迎える前(当時での未成年に相当)、石上神社の祭礼で見初めたようです。そして、その若い軽里の妻を教育し、自分の和歌や自然観に相応しい女性へと育てたと思われます。人麻呂の時代はまだ万葉仮名の創設時期で人々は文字や文章を漢字・漢文から直接に学ぶ時代です。そのような時代ですから、好いた女性と和歌で会話を楽しむには、男女ともに相当な勉学に励む必要があったと思われます。
その人麻呂は、若き時代、軽里の妻を都に残し、有能な鉱山技師として地方を回ります。須磨・明石もまた人麻呂が訪れた場所です。そして、風流と有能な官吏として従四位の立場まで上ります。そうした中、人麻呂は軽里の妻を亡くします。その軽里の妻に対し、人麻呂は尼寺のような場所で死んだことを匂わせるような挽歌を捧げています。ただし、軽里の妻は正妻ではありません。正妻は引手山の娘女です。あちらの方も正妻ではありません。正妻は女三宮です。
おまけで、人麻呂が子を産ませその地に残して出来た石見柿本党と云う勢力は史実として平安時代から安土桃山時代までは益田地域では受領・地頭として有力な地場勢力でしたし、明石の方の父親である明石入道もまた物語では受領と云う地域の有力者です。これは、どっかからのパクリのあらすじではありません。人麻呂歌集などの歌々や続日本紀、新撰姓氏録などを丁寧に当たって行くと推測できる事項です。
人麻呂の生涯はパクリじゃないと宣言しましたが、さて、では、紫式部は「あれはパクリじゃない」と宣言出来るでしょうか。紫式部は熱心な人麻呂歌集の愛読者です。その万葉集からは源氏物語に三十三首を引用していますが、その内、九首が人麻呂関連歌です。疑惑は浮かびます。幼い軽里の妻には石上神社の祭礼で田舞を舞い奉納する姿があり、方や、幼な児にはスズメを捕まえ、飼おうとする姿があります。ともに登場の場面は深閨に隠れた美人と云うものではありません。そして、娘としてその幼い女の子を育てるのではなく、才能を見込んだ相手を己の妻として育て、そして、唯一の男としてその蕾を摘み、花として咲かせ、その花が枯れるまで己が手の内に置きました。
夏の暑さに、頭の中はいつもよりお花畠です。その暑い中、最後までお付き合い、ありがとうございます。なお、ここでの話は真夏の白昼夢ですし、千無い話です。真に受けないでください。