竹取翁と万葉集のお勉強

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万葉雑記 色眼鏡 百五九 石見国 その特殊性

2016年02月27日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 百五九 石見国 その特殊性

 万葉集で柿本人麻呂の人生を考えるとき、万葉集巻二に「柿本朝臣人麻呂従石見國別妻上来時謌二首」と標題を持つ集歌131の長歌を始めとして、都合、九首の長歌・短歌の歌群が載せられています。これは万葉集全体を見ましても非常に特徴のある編纂ですから、石見国と云うものを無視して人麻呂を語ることはできません。つまり、石見国は日本文学史での巨人であり歌聖である柿本人麻呂を考えるとき、重要なキーワードとなる存在です。

 他方、この石見国は山陰道に含まれる諸国ですので、丹波國、丹後國、因幡國、伯耆國、出雲國、隱岐國が形成するグループに含まれます。また、朝廷が定める山陰道の駅伝馬条では次のように駅を定め、駅ごとに備える荷役用の駅馬の数量を規定していました。ここから、一般的な解釈では平城京から石見国への道程は現在の京都府から日本海側に抜け、丹後半島を横断した後、日本海側を西へ向かったとします。ただし、緊急連絡網となる伝馬を置く郡家は紹介を省いています。この省いた伝馬の例としては丹波國では桑田郡家、多紀郡家、冰上郡家の三か所に馬各五匹を置くと定められています。

<延喜式に載る荷役駅馬を置く宿駅>
丹波國の宿;大枝、野口、小野、長柄、星角、佐治、日出、花浪
丹後國の宿;勾金
但馬國の宿;粟鹿、郡部、養耆,山前,面治、射添,春野
因幡國の宿;山埼、佐尉、敷見、柏尾
伯耆國の宿;笏賀、松原、清水、和奈、相見
出雲國の宿;野城、田、完道、狹結、多仗、千酌
石見國の宿;波禰、託農、樟道、江東、江西、伊甘

 ただし、古代交通研究会に寄せられた研究書が示すように平安時代に作成された延喜式に載る駅伝馬条の記載事項が実際に運営されたものかは問題があるようです。古代交通研究第12号に載る研究が指摘するように、東山道信濃国と北陸道越後国とを繋ぐ連絡道について信濃側の記載がありますが、越後側の記載はありません。同じように山陽道長門国と山陰道石見国とを繋ぐ陰陽連絡道について長門側の記載はありますが、石見側の記載はありません。山陽道の支線で播磨国と美作国を結ぶ美作路についても播磨側の記載はありますが美作側の記載はありません。古代交通研究会に寄せられた研究書からしますと、延喜式に載る駅伝馬条は尊重をしても絶対的な信頼はないものとするのが良いようです。
 従いまして、延喜式に示す諸國運漕雜物功賃条や駅伝馬条を尊重した上、地形地図を使い実際に交通路が成立するかどうかを検討する必要があると思われます。

 ここで延喜式から抽出した山陰道諸国の国府と調物の平安京までの運賃・路程を以下に紹介します。

国府所在地と駄別稻・路程:-
丹波国;桑田郡(京都府亀岡市;未定) 駄別稻三束 行程上一日、下半日
丹後国;加佐郡(京都府宮津市;未定) 駄別稻二一束 行程上七日、下四日
但馬国;気多郡(兵庫県豊岡市;未定) 駄別稻二四束 行程上七日、下四日
因幡国;法美郡(鳥取県鳥取市国府) 駄別稻三六束 行程上十二日、下六日
伯耆国;久米郡(鳥取県倉吉市国府) 駄別稻三二束  行程上十三日、下七日
出雲国;意宇郡(島根県松江市大草) 駄別稻三九束 行程上十五日、下八日
石見国;那賀郡(島根県浜田市;未定) 駄別稻九十束 行程上二九日、下十五日
隠岐国;周吉郡(島根県隠岐郡隠岐) 駄別稻百八十束 行程上三五日、下十八日

 このリストから面白いことが判りませんか。
 経済性と公平性を基準としますと、平安時代での山陰道諸国の街道は次のような接続であったのではないかと考えられます。運賃規定からすると伯耆国の調物が因幡国を通過して平安京に向かうことはありません。他方、山陽道での美作国までの路程が上七日、下四日であり、駄別稻二一束ですから美作国と伯耆国とを繋いでも路程と運賃に矛盾は生じません。
 さらにリストをみてみますと、出雲国と石見国とを連絡すると路程及び運賃規定の両面から石見国は異常値となります。つまり、石見国は山陰道に所属しますが、山陰道を使って平安京には接続していなかったことが予想されます。例としまして出羽国は東山道に所属する国ですが、実際には北陸道を使い越後国に連絡します。石見国もまた出羽国と同じ状況だったと推定されます。

ルート1:平安京‐丹波国‐丹後国‐但馬国‐因幡国
ルート2:平安京‐山陽道(美作国)‐伯耆国‐出雲国‐隠岐国
ルート3:平安京‐山陽道(長門国)‐石見国

 そうした時、山陽道の長門国への路程と運賃規定は行程上二一日、下十一日(又は海路二三日)であり、駄別稻六十三束です。これを踏まえますと、長門国から石見国へは八日と稻二七束、出雲国から石見国へは十四日と稻五一束と計算されますので、単純な国間距離において石見国は出雲国よりも長門国の方が旅程と経済的距離は近いことになります。これは、まったくに想定外のことではないでしょうか。現在で、島根県浜田市から島根県松江市と山口県下関市とを比べたとき、路程と経済的距離において山口県下関市との結びつきの方が強いとは想像しないし、候補にも載らないと思います。しかしながら、平安時代の延喜式に載る規定を尊重しますと、このようなことになります。
 ここに色眼鏡を外し、先達の研究を脇に置き、冷静に資料だけを見つめる必要があります。つまり、地理的基礎として、律令制では畿内及び七街道に諸国をグループ分けしますが、グループ分けとその国への交通路程とは一致してないことを知る必要があります。

 ここで柿本人麻呂を祖神とする戸田柿本神社がある石見国高津、現在の島根県益田市に目を向けますと、現在では想像も出来ないでしょうが、島根県益田市の昔の姿において、現在市内中心部を流れる高津川は益田平野に出たところで東に向かい、益田川に合流して日本海へと流れる姿を示します。現在の中心市街地となる場所は高津川と益田川とで作る氾濫湿地帯でした。そして、その益田川の西側に広がる氾濫湿地帯が浜田藩領と津和野藩領とを分ける境界でした。これが江戸期以前の益田平野の状況です。
 この自然地形を背景として益田市の西はずれにある飯浦が、現在の高津川河口左岸に位置する高津港が開かれるまで津和野藩唯一の藩港でした。つまり、氾濫河川である高津川が江戸時代初期となる元和二年(1616)に高津川の益田平野における河川の付け替え等の整備が終わり、元和四年(1618)に高津港が開かれるまでは飯浦港が唯一の商業港としての役割を担っており、内陸部津和野から飯浦へは傾成峠を越える路が重要な交通路でした。
 参考として自然の地形を背景に出来た飯浦港の東隣に、柿本人麻呂を祖神とする戸田柿本神社があります。このように、おおよそ、現在にイメージする益田市の姿や古代の港、それへの内陸からの街道は、全くに違う姿をしていました。文学を鑑賞するとき社会歴史を無視しては、なかなか、鑑賞が出来ないようです。

 さて、時代を平安時代初期に戻しますと、山陽道長門国と山陰道石見国とを繋ぐ陰陽連絡道について長門側の記載から長門・石見国境までは宿駅を辿ることが出来ます。それが次のものです。

山陽道厚狭駅 小野田市厚狭
阿津 美祢市東厚保町川東、又は美祢市西厚保町本郷
鹿野 美祢市大嶺町
意福 美祢市於福町上 付近
由宇 長門市渋木 付近
三隅 長門市三隅上
參美 萩市三見
垣田 萩市椿東 小畑
阿武 萩市大井
宅佐 萩市高佐 付近
小川 萩市小川中小川 付近
山陰道伊甘駅(所在地不明)

 紹介しました陰陽連絡道の小川駅は津和野から傾成峠を越えて飯浦へと連絡する街道の中間地点の近傍にありますから、飯浦が石見国側の宿駅であった可能性があり、飯浦から山陰道伊甘駅へと繋がった可能性は否定できないと思います。

 古代での駅は約30里(1里=534m;16㎞)を目途に設置されたとしますが、一方、延喜式に載る平安時代での山陽道の駅間距離は13里(=7㎞)程度でした。これを参考にしたいと思います。
 ここで小野田市厚狭から美祢市大嶺、長門市三隅、萩市椿東、萩市高佐、益田市飯浦を経由して益田市七尾までの一般道路での距離は約160㎞です。これは古代の10駅区間に相当する距離となります。陰陽連絡道で阿津から数え飯浦を含めますと11駅となり、それほど、違和感のある数字にはなりません。ここからの推定として陰陽連絡道で長門国境から石見国国府側において、石見国内では飯浦(益田市飯浦)、七尾(益田市七尾)あたりに駅が置かれていても不思議ではないことになります。
 次に、養老律令の行程条に示す「凡行程、馬日七十里・歩五十里・車卅里」の規定や延喜式の路程からしますと、陸路徒歩では一日26㎞強を踏破することを前提としたようです。すると、山陽道厚狭から石見国益田七尾までが約160㎞ですので六日強の路程となります。先に長門国国府(下関付近)から石見国国府へは八日と稻二七束と計算しましたから、長門国国府から山陽道厚狭までの路程一日を考慮しますと、石見国国府は石見国益田七尾付近にあった可能性も示唆します。これもまた、標準的なものとは大きく違う話となります。
 他方、旧来の山陰道を使い、延喜式の路程に従いますと、出雲‐石見の距離は上り十四日の路程距離ですから、これは平安京と出雲国府との路程と同じものです。およそ、出雲国から石見国を見たとき石見国は路程では九州南部以南に位置することになります。つまり、従来の解釈では非常にナンセンスな比定をしていたことになります。
 ここで歴史を探りますと、鎌倉時代、石見国の国司である益田氏は、ここ石見国益田庄に置かれた七尾屋形を本拠としていました。また、その益田氏は現代に伝わる複数の益田家系図や石見周布家系図の中で非公式扱いとなっていますが、信頼性があるもっとも古い系図を示す「一本」と云う系図では共に奈良時代天平年間から石見国益田庄を本貫とし、柿本人麻呂を祖とする地方官僚一族が出身とします。

 以下に「柿本朝臣人麻呂従石見國別妻上来時謌二首」の標題でまとめられた歌群の中から「或本謌一首」の方を紹介しますが、古く、石見國より妻と別れ都へ上り来る時の歌の情景から、柿本人麻呂は上京において石見国を東から西に移動したと思われ、さらに何故か、大船に乗る港まで山中を旅したことになっています。これは山陰道石見国の国府とされる浜田から、従来、想定していました日本海側を東上するルートとは合いません。それで歌は創作ではないか等との議論はありました。しかし、ここで推定した平安時代初期となる延喜式で規定する石見国と平安京とを結ぶルートは、従来の想定とは違い、山陽道を使うというものです。それを前提としますと、人麻呂が状況ルートに陰陽連絡道を使い、山陽道海上ルートから上京したとすると、ちょうど歌の世界と一致することが判ります。

或本謌一首并短謌
標訓 或る本の歌一首并せて短歌
集歌138 石見之海 津乃浦乎無美 浦無跡 人社見良米 滷無跡 人社見良目 吉咲八師 浦者雖無 縦恵夜思 潟者雖無 勇魚取 海邊乎指而 柔田津乃 荒礒之上尓 蚊青生 玉藻息都藻 明来者 浪己曽来依 夕去者 風己曽来依 浪之共 彼依此依 玉藻成 靡吾宿之 敷妙之 妹之手本乎 露霜乃 置而之来者 此道之 八十隈毎 萬段 顧雖為 弥遠尓 里放来奴 益高尓 山毛超来奴 早敷屋師 吾嬬乃兒我 夏草乃 思志萎而 将嘆 角里将見 靡此山
訓読 石見(いはみ)し海 津の浦を無(な)み 浦無しと 人こそ見らめ 潟(かた)無しと 人こそ見らめ よしゑやし 浦は無くとも よしゑやし 潟は無くとも 鯨魚(いさな)取り 海辺(うみへ)を指しに 柔田津(にぎたつ)の 荒礒(ありそ)し上に か青なる 玉藻沖つ藻 明け来れば 浪こそ来寄れ 夕されば 風こそ来寄れ 浪し共(むた) か寄りかく寄り 玉藻なす 靡き吾(わ)が寝(ね)し 敷栲し 妹し手本(たもと)を 露霜の 置きにし来れば この道し 八十(やそ)隈(くま)ごとに 万(よろづ)たび 顧(かへ)り見すれど いや遠に 里放(さか)り来ぬ いや高に 山も越え来ぬ 愛(は)しきやし 吾(わ)が妻の子が 夏草の 思ひ萎えに 嘆くらむ 角(つの)し里見む 靡けこの山
私訳 石見の海の津野の浦を船が着く浦ではないと人は見るだろう。潟ではないと人は見るだろう。かまわない、浦はなくても。かまわない、潟はなくても。大きな魚を取る人が海岸を目指し、穏やかな波が打ち寄せる荒磯の上の青々とした玉藻や沖からの流れ藻の、朝は風が吹き寄せ、夕には波が打ち寄せる。その浪とともにそのように寄りこのように寄せる美しい藻のように寄り添って寝た恋人を、露や霜のようにこの地に置いてくると、京への道の沢山の曲がり角ごとに、何度も何度も振り返って見返すけれど、はるか遠くに恋人の里は離れてしまった。とても高い山も越えて来た。愛しい私の妻である貴女のことが夏草のように思うと心が萎へて嘆いてしまうだろう。恋人を思い出そう。津の里を見たい。生茂る木々の葉よ靡け開け、この山よ。

反謌一首
集歌139 石見之海 打歌山乃 木際従 吾振袖乎 妹将見香
訓読 石見(いはみ)し海(み)打歌(うつた)し山(やま)の木(こ)し際(ま)より吾が振る袖を妹見つらむか
私訳 石見の海の、その海沿いの宇田の山の木の間際から私が振る袖を恋人の貴女は見ただろうか。
右、謌躰雖同句々相替。因此重載。
注訓 右は、歌体同じと謂へども句々相替れり。因りて此に重ねて載す。


 今回は古代の街道とその使用状況を延喜式に載る規定から推測しました。弊ブログは酔論と暴論を根拠に成り立っていますが、その背景にはそれなりの屁理屈を持たせています。そこが「トンデモ論」ですが、いいところでもあります。
 なお、陰陽連絡道の長門側宿駅において、明治以前の古地名を使用したこと、また、津和野・飯浦街道が持つ江戸期以前の重要性を踏まえて、宅佐駅、小川駅の場所を従来の説よりも内陸に移動しています。その位置は現在の比定地とは違います。
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万葉雑記 色眼鏡 百五八 安積皇子と大伴家持

2016年02月20日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 百五八 安積皇子と大伴家持

 大伴家持は親を大伴旅人としますと、家持が二十一歳以前に旅人が従二位大納言と云う身分を有していたこと、万葉集に載る妾への挽歌に付けられた年月などから推定して蔭位制度を踏まえますと、標準的な想定とは違い、家持は嫡子ではなく庶子の立場で和銅七年(714)頃の誕生と考えられます。
 その家持は天平十七年(745)正月に家持が正六位上から従五位下へと昇位していますから、天平十七年には三十一歳となります。ここで、標準的な養老二年(718)の生誕説を採用しても二十七歳です。
 ここを前提条件とします。
 さて、万葉集巻六に載る集歌1040の歌から天平十五年の秋頃、大伴家持は二十九歳の年齢で正六位上と云う高い官位を持つのですが、まだ、内舎人と云う身分でした。家持は蔭位制度から二十一歳での内舎人での出仕ですから、すでに二回の考課を経ています。そうした時、正六位上と云う高い官位持つ内舎人は、どのような職務をしていたかが、重大な関心事項となります。規定での内舎人の職務は次のようなものであり、正六位上と云う高い官位持つ官人が就く職務ではありません。

<職務解説>
内舎人; 宮中の警備、雑役及び行幸の際の警護役

<内舎人を示す万葉集歌:天平15年秋秋ごろの歌>
安積親王、宴左少辨藤原八束朝臣家之日、内舎人大伴宿祢家持作謌一首
標訓 安積親王(あさかのみこ)の、左少辨藤原八束朝臣の家に宴(うたげ)せし日に、内舎人大伴宿祢家持の作れる謌一首
集歌1040 久堅乃 雨者零敷 念子之 屋戸尓今夜者 明而将去
訓読 ひさかたの雨は降りしけ念(おも)ふ子し屋戸(やど)に今夜(こよひ)は明かしに行かむ
私訳 遥か彼方から雨は降りしきる。私がお慕いする貴方は、この家に今夜は明日の朝まで夜を明かしていくでしょうから。


 他方、大伴家持は安積皇子に関係する歌を、挽歌を含め数首を残していますから、大伴家持は安積皇子と何らかの関係があったと推定するのが妥当と考えます。一般的な推定では家持は安積皇子の内舎人であったとします。しかし、安積皇子は天平十六年閏正月に十七歳で亡くなられた親王格の皇子でありますから、建前として官位を持たず、独立した家計をも持たない未成年皇族で生涯を終えられています。つまり、安積皇子は公式の規定である家令職員令に従った朝廷から付けられるべき職員を与えられない立場です。しかしながら、実務上、「薨」と云う続日本紀に載る死亡記事での扱いは三位以上の身分ですから、日常生活において家来を持たないで親王格の皇子の生活は保たれません。およそ、令外の家政職員として臨時職員が配置された可能性は考えられます。
 また、令外の家政職員は朝廷からの支給と考えられますが、他方、皇子の親の私財から雇用した一族や私人での使用人は存在したと思われます。残念ながら皇子や皇女の家政職員については家令職員令や禄令食封条に従った家政組織の研究や推定はありますが、未成年で官位を持たない皇族皇親に対する令外への研究は見かけません。当時の風習からしますと、男子はおよそ十五歳で成人式を行い、妾や夜伽を置くようになりますから、何らかの家政組織は存在したはずですし、財政基盤もあったはずです。また、その問題の解決の糸口となる安積皇子の壬生を誰が行ったかと云う問題もあります。そうした時、生母の県犬養広刀自は従三位の官位を持ちますから、食封(100戸)・位田(34町)・資人(60人)と云う資財有することになります。これは未成年の安積皇子を養うに足るのではないでしょうか。
 それらを考えますと、正六位上と云う高い官位持つ家持と無官位の安積皇子との関係が見えて来るのではないでしょうか。
 朝廷からではなく私人と云う関係を想定しますと、例として、中衛大将から中務卿へとなった藤原房前と従五位上の官位を持つ山田史三方との関係があります。山田史三方は贈収賄事件への国司として監督不十分と云うことで罪を得ますが、学問での功績により特赦されています。その後は、従五位上のままで散位の立場になったと推定されますが、同時に藤原房前のお側集のような立場だったようですので、官人ですが私人のような立場です。
 大伴家持は安積皇子に対して官人ですが私人のような立場の令外の家政職員であったかもしれません。安積皇子が無事に成長し、二十一歳の時に皇親として叙位・登用を迎えていたら、家持は安積皇子の正式の家政職員として任命されたかもしれません。それを窺わせるように、安積皇子が天平十六年閏正月に十七歳で亡くなられたあと、家持は翌天平十七年に従五位下に昇位し、天平十八年には兵部少輔に任命され、武官を中心とした官僚の道を歩みます。
 参考として、安積皇子が亡くなられた時に家持が詠った歌六首を紹介します。

十六年甲申春二月、安積皇子薨之時、内舎人大伴宿祢家持作謌六首
標訓 十六年甲申の春二月に、安積皇子の薨(かむあが)りましし時に、内舎人(うどねり)大伴宿祢家持の作れる謌六首
集歌475 桂巻母 綾尓恐之 言巻毛 齊忌志伎可物 吾王 御子乃命 萬代尓 食賜麻思 大日本 久邇乃京者 打靡 春去奴礼婆 山邊尓波 花咲乎為里 河湍尓波 年魚小狭走 弥日異 榮時尓 逆言之 狂言登加聞 白細尓 舎人装束而 和豆香山 御輿立之而 久堅乃 天所知奴礼 展轉 埿打雖泣 将為須便毛奈思
訓読 桂(か)けまくも あやに恐(かしこ)し 言はまくも ゆゆしきかも 吾(あ)が王(おほきみ) 御子(みこ)の命(みこと) 万代(よろづよ)に 食(め)し賜はまし 大(おほ)日本(やまと) 久迩(くに)の京(みやこ)は うち靡く 春さりぬれば 山辺(やまへ)には 花咲きををり 川瀬には 鮎子(あゆこ)さ走り いや日に異(け)に 栄ゆる時に 逆言(およづれ)し 狂言(たはごと)とかも 白栲に 舎人(とねり)装(よそ)ひて 和豆香(わづか)山(やま) 御輿(みこし)立たして ひさかたの 天知らしぬれ 臥(こ)いまろび ひづち泣けども 為(せ)むすべもなし
私訳 高貴で気品高くいられるも、真に恐れ多く、言葉に示すことも、神聖で畏れ多い、私の王である御子の命が、万代に御治めるはずであった大日本の久邇の京は、草木が打ち靡く春がやって来ると山の辺には花が咲き枝を撓め、川の瀬には鮎の子が走りまわり、ますます日々に栄える時に、逆言でしょうか、狂言なのでしょうか、白い栲の衣に舎人は装って、和豆香山に皇子の御輿を運ばれて、遥か彼方の天の世界を統治なされた。悲しみに地に伏し転がり回り、衣を濡れそぼって泣くが、もうどうしようもない。

反謌
集歌476 吾王 天所知牟登 不思者 於保尓曽見谿流 和豆香蘇麻山
訓読 吾(あ)が王(きみ)し天知らさむと思はねば凡(おほ)にぞ見ける和豆香(わづか)杣山(そまやま)
私訳 私の王が天の世界を統治されるとは思ってもいなければ、気にもせずに見ていた。和豆香にある木を切り出す杣山よ。

集歌477 足桧木乃 山左倍光 咲花乃 散去如寸 吾王香聞
訓読 あしひきの山さへ光(てら)し咲く花の散りぬるごとき吾(われ)し王(きみ)かも
私訳 葦や檜の生える山さえ照らし輝かし、咲く花が散り行くようにこの世から散っていかれたような私の王です。
右三首、二月三日作謌
注訓 右の三首は、二月三日に作れる謌

集歌478 桂巻毛 文尓恐之 吾王 皇子之命 物乃負能 八十伴男乎 召集聚 率比賜比 朝猟尓 鹿猪踐越 暮猟尓 鶉雉履立 大御馬之 口抑駐 御心乎 見為明米之 活道山 木立之繁尓 咲花毛 移尓家里 世間者 如此耳奈良之 大夫之 心振起 劔刀 腰尓取佩 梓弓 靭取負而 天地与 弥遠長尓 万代尓 如此毛欲得跡 憑有之 皇子乃御門乃 五月蝿成 驟驂舎人者 白栲尓 取著而 常有之 咲比振麻比 弥日異 更經見 悲召可聞
訓読 かけまくも あやに恐(かしこ)し 吾(われ)し王(きみ) 皇子し命(みこと)し 物部(もののふ) 八十(やそ)伴(とも)の男(を)を 召(め)し集(つど)へ 率(あとも)ひ賜ひ 朝(あさ)狩(かり)に 鹿猪(しし)踏み越し 暮狩(ゆふかり)に 鶉雉(とり)踏み立て 大御馬(おほみま)し 口(くち)抑(おさ)へとめ 御心を 見(め)し明(あか)らめし 活道山(いくぢやま) 木立の繁(しげ)に 咲く花も 移(うつ)ろひにけり 世間(よのなか)は 如(かく)のみならし 大夫(ますらを)し 心振り起し 剣刀(つるぎたち) 腰に取り佩き 梓(あずさ)弓(ゆみ) 靫(ゆぎ)取り負(お)ひて 天地と いや遠長に 万代(よろづよ)に 如(かく)しもがもと 憑(たの)めりし 皇子の御門(みかど)の 五月蝿(さばへ)なす 騒(さわ)く舎人(とねり)は 白栲に 取りて著(つけ)てし 常ありし 笑(ゑま)ひ振舞(ふるま)ひ いや日(ひ)に異(け)に また經て見れば 悲しめすかも
私訳 高貴で気品高くいられるも、真に恐れ多い私の王である皇子の命に従う立派な男達の沢山の供を召し集められて率いなされて、朝の狩りに鹿や猪を野を踏み野から起こし、夕辺の狩りで鶉や雉を野を踏み追い立て、皇子の乗る大御馬の口を引いて抑え留め、風景を御覧になって御心を晴れやかにさせた活道山は、木々の立ち木に中に沢山に咲いていた花も時が移り散ってしまった。この世はこのようなのでしょう。立派な男の気持ちを振起し、剣や太刀を腰に取り佩いて、梓弓や靭を取り背負って、天と地とともにますます永遠に、万代までにこのようにあってほしいと頼りにしていた皇子の御門のうるさいほどに集い騒ぐ舎人は、白き栲の衣に取り身に著けて、常に見られた笑顔や振る舞いが日々に変わり、時が過ぎて思い出すと、私だけでなく大夫たる立派な男も悲しく思われるでしょう。
注意 原文の「鹿猪踐越」の「越」は「起」、「取著而」は「服著而」、「更經見」は「更經見者」、「悲召可聞」の「召」は「呂」が正しいとしますが、ここは原文のままとします。

反謌
集歌479 波之吉可聞 皇子之命乃 安里我欲比 見之活道乃 路波荒尓鷄里
訓読 愛(は)しきかも皇子し命(みこと)のあり通(かよ)ひ見(め)しし活道(いくぢ)の路は荒れにけり
私訳 なんともいとしいことよ。皇子の命がつねに通われ眺められた活道の路は荒れてしまった。

集歌480 大伴之 名負靭帶而 萬代尓 憑之心 何所可将寄
訓読 大伴し名(な)負(お)ふ靫(ゆぎ)帯びて万代(よろづよ)に憑(たの)みし心何処(いづく)か寄せむ
私訳 大伴の名に相応しく靭を帯びて、万代にまで皇子の命を頼りにしていたこの気持ちを、どこに寄せたら良いのでしょう。
右三首、三月廿四日作謌
注訓 右の三首は、三月廿四日に作れる謌なり。


 歌に示される安積皇子の埋葬地となる和豆香山は京都府相楽郡和束町付近にある和束山と推定され、皇子の陵墓が太鼓山古墳と称されて整備されています。場所は恭仁京があった京都府木津川市加茂地区からは北東の山中です。また、狩りに何度も訪れたという活道山もまた和豆香山の周辺となる京都府相楽郡和束町付近ではないかと推定されていますが詳細は不詳です。
 挽歌の詠いようから大伴家持は活道山で行われた狩りに従っていたと思われます。また、集歌480の歌に「大伴之 名負靭帶而 萬代尓 憑之心」とありますから、やはり、家持は特別に付けられた安積皇子の家政職員ではないでしょうか。そのため、正六位上と云う高い身分ですが内舎人と云うアンバランスな肩書と思われます。また、集歌1040の歌の標題から推測するに、正六位上と云う高い身分を持つ家持を安積皇子の身辺に内舎人として配置したのは藤原八束であり、さらには元正太上天皇の意向があったかもしれません。
 歴史の不思議ですが、大伴家持の父親大伴旅人も藤原氏の都合のよいタイミングで病没し、主として仕えた安積皇子もまた藤原氏の都合のよいタイミングで病没します。家持は実に不運な人です。


 最後に妄想的な参考情報として、
 安積皇子の「安積」を「阿佐加=あさか」と訓じるのは会津地方を治めた「阿尺」国造に由来するようで関東の言葉ですが、畿内ではなじみのない特別な訓じです。
 訓じは違いますが、古来、安曇は安積であり、阿積に通じるとされています。その安曇氏は難波小郡とも呼ばれた摂津国西成郡安曇江を畿内の本拠とします。この地は同時に大伴の御津と称された難波津でもありますから、大伴家持にもゆかりのある場所となります。およそ、「安積」と云う表記の名をもつ安積皇子の壬生に安曇氏が関与し、また、大伴氏が関係する可能性はあります。
 安積皇子は県犬養広刀自を生母とし、その県犬養一族は河内国河内郡桜井郷付近を本拠とした氏族と考えられていますから、安曇氏と県犬養氏とは本拠地が接していることになります。天平時代ですと、生駒を越えて牧岡に出る暗越奈良街道は奈良と難波を結ぶ最短ルートですし、県犬養氏の河内郡桜井郷と難波大郡とも呼ばれた東成郡、安曇氏の西成郡とは近接します。
 さて、その安積皇子は天平十六年の難波行幸への同行の途中、河内郡桜井郷に置かれた桜井頓宮において急な脚気により恭仁京に戻り、その二日後に死亡しています。死亡原因とされる脚気の症状は「全身倦怠感など様々な異常が引き起き、 主な症状は全身倦怠感の他に食欲不振が発生し、やがて足がしびれることやむくみが目立つようになる。その他、動機、息切れも起きる」と紹介されます。
 ここで、意図した誘導情報をさらに提供します。
 急性腎不全と云う病気があり、その症状は「むくみ、吐き気、疲労、かゆみ、呼吸困難」と云うものです。表面的な症状的では、この急性腎不全と脚気とは病例が類似していますし、脚気心から腎不全を発病する病例は有り得ることのようです。
 古代において脚気に類似する急性腎不全を人為的・計画的に引き起こすのには塩化第二水銀の水溶液を使用するのが容易な方法です。その製法は少なくとも平安時代末期までには軽粉と云う化粧品として宋よりもたらされたと推定されています。また、藤原京から平城京時代には水銀を使う鍍金、塗料や化粧用品として使う丹(硫化水銀)は広く使用されていますし、水銀と硫黄とを反応させて製造する人工丹は八世紀には製法が確立していたとされます。安積皇子の時代に水銀を扱う技術や製法は存在していましたし、正倉院宝物などがその技術の存在を裏付けます。
 その塩化第二水銀(昇汞)は「水に溶けやすい。水で薄めた昇汞水の致死量でも0.2~0.4gほどで、誤って一滴でも飲んでしまうだけでも生命にかかわる」と紹介されるように、急性腎不全などを引き起こす水銀中毒症状を発症させるには最適な物質です。
 超劇物である塩化第二水銀の古代における製法は、次のように紹介されます。

 塩化第一水銀は時に軽粉と呼ばれる化粧品の一種、白粉として使用します。その軽粉の製造法は、水銀に赤土・食塩などを水でこねたものを蓋付きの容器に入れ、約600度で四時間程熱して、「ほっつき」という容器の蓋の内側についた白い粉を払い落して軽粉を得ます。この軽粉である塩化第一水銀は日光により塩化第二水銀と水銀とに分解され、黒色に変化します。塩化第二水銀は常温では水1kgに約60gが溶け、やや水溶性を示しますが、塩化第一水銀(0.2mg/100mL)は水に溶けにくく、水銀には極微小な水溶性しかありません。

 つまり、軽粉と呼ばれる塩化第一水銀を十分に日光に曝し、黒色になったものをお湯に溶かし込むことで塩化第二水銀の水溶液(昇汞水)が得られます。精製され試薬品に使う塩化第二水銀は匂いがないとされますので、先の塩化第二水銀の水溶液の上澄みを慎重に水分蒸発させて濃縮すると無臭の致死有効な昇汞水が得られることになります。先の世界大戦では昇汞は有効な自決用の薬剤でしたし、戦前には昇汞水は有名な自殺用の薬品です。歴史においては、藤原鎌足は水銀を長寿の薬として皇族に処方し、彼自身も服用したと伝わるように、水銀は藤原氏にはなじみ有る物質です。
 一方、歴史に残る記録では、安積皇子がビタミンB1不足に由来する慢性病であるはずの「脚気」と云う病を急発させたのは、一族の里である河内郡桜井郷に置かれた桜井頓宮です。ほぼ、この桜井頓宮は県犬養一族の氏長の屋敷であったと思われますから、安積皇子は実家で発病したことになります。参考としビタミンB1は獣肉からも摂取でき、万葉集の歌に詠うように安積皇子はある年齢になってからは狩りにたびたび参加したようですので、十分に獣肉・鳥肉や新鮮な川魚類を摂取する機会はあったと思われます。つまり、極度のビタミンB1不足と云うことは難しいのではないでしょうか。
およそ、内舎人と云う近習であった家持の安積皇子の実家で提供された食事への油断です。

 以上、誘導的な情報を提供しました。
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万葉雑記 色眼鏡 百五七 歌の標題はかりそめ 山部赤人を鑑賞する。

2016年02月13日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 百五七 歌の標題はかりそめ 山部赤人を鑑賞する。

 万葉集巻六に山部赤人が詠う歌が載せられています。今回は集歌917の長歌とそれに付随する短歌を鑑賞します。
 さて、今回の題目に「歌の標題はかりそめ」とキャプションを付けました。つまり、万葉集の標題は絶対的には信用してはいけない代物であって、参考には出来るが信用は出来ないと云うことを理解しておく必要があることを説明したいからです。
 最初に歌三首を紹介しますので、鑑賞からお願い致します。

神龜元年甲子冬十月五日、幸于紀伊國時、山部宿祢赤人作謌一首并短謌
標訓 神亀元年甲子の冬十月五日に、紀伊國に幸(いでま)しし時に、山部宿祢赤人の作れる謌一首并せて短謌
集歌917 安見知之 和期大王之 常宮等 仕奉流 左日鹿野由 背上尓所見 奥嶋 清波瀲尓 風吹者 白浪左和伎 潮干者 玉藻苅管 神代従 然曽尊吉 玉津嶋夜麻
訓読 やすみしし 吾(わ)ご大王(おほきみ)し 常宮(とこみや)と 仕(つか)へ奉(まつ)れる 雑賀(そひが)野(の)ゆ 背上(そがひ)に見ゆる 奥つ島 清き渚(なぎさ)に 風吹けば 白浪騒(さわ)き 潮(しほ)干(ふ)れば 玉藻刈りつつ 神代(かむよ)より 然(しか)ぞ貴き 玉津島(たまつしま)山(やま)
私訳 八方を遍く承知なられる吾等の大王の永遠の宮殿として、この宮殿に土地をお仕え申し上げる雑賀野。その雑賀野の背景に見える湾奥の島(=半島)。その清き渚に風が吹くと白浪が立ち騒ぎ、潮は引くと美しい藻を刈っている。神代からこのようにこの地は貴いことです。この玉津の島山の地は。

注意 原文の「背上尓所見」は、一般に「背匕尓所見」と記し「背向(そがひ)に見ゆる」と訓みます。

反謌二首
集歌918 奥嶋 荒礒之玉藻 潮干満 伊隠去者 所念武香聞
訓読 奥つ島荒礒(ありそ)し玉藻潮干(しほひ)満ちい隠(かく)りゆかば念(おも)ほえむかも
私訳 湾奥にある半島の、その荒磯の美しい藻が潮干が満ちて潮に姿を隠していくと、その潮に揺れる姿を想像するでしょう。

集歌919 若浦尓 塩満来者 滷乎無美 葦邊乎指天 多頭鳴渡
訓読 若浦(わかうら)に潮満ち来れば潟(かた)を無み葦辺(あしへ)をさして鶴(たづ)鳴き渡る
私訳 若の浦に潮が満ちて来たら、干潟は姿を消し、岸辺の葦原を目指して鶴が鳴きながら飛んで行く。
右、年月不記。但、称従駕玉津嶋也。因今檢注行幸年月以載之焉。
注訓 右は、年月を記さず。但し、玉津嶋に従駕(おほみとも)すと称(い)へり。因りて、今、行幸(いでまし)の年月を檢(かむが)へ注(しる)して以ちて之を載す。


 集歌919の歌の左注にこの長短歌三首に対しての解説が載せられ、「右、年月不記」とあります。つまり、山部赤人の歌は万葉集の編纂時には記録され残されていますが、いつの作品かは不明でした。ただ、歌に「安見知之和期大王」と「玉津嶋夜麻」と詠うから、歌は山部赤人が紀伊国行幸従駕の時のものであろうと推定しています。
 山部赤人は神亀年間から天平年間初期に歌を残した人となっていますから、集歌919の歌の左注を付けた人は、そこを頼りに続日本紀の記録を辿り、神龜元年(724)甲子冬十月と云うものを得たようです。その続日本紀には次のように記します。また、この時の目的は紀伊国名草及び海部郡を訪れるのが目的であったような行幸でした。従来ですと、吉野川・紀ノ川と下り、若浦で大船に乗り換え牟婁へ向かうのが通例でした。およそ、玉津嶋または雑賀野(雑賀崎)と云う場所は旅の途中の通過地点だったのです。

神亀元年十月辛卯(5)、辛卯、天皇幸紀伊国。
神亀元年十月癸巳(7)、癸巳、行至紀伊国那賀郡玉垣勾頓宮。
神亀元年十月甲午(8)、甲午、至海部郡玉津嶋頓宮。留十有余日。

 このような背景から山部赤人の歌を研究した人物は「神亀元年十月辛卯、天皇幸紀伊国」の記事から標題の「神龜元年甲子冬十月五日、幸于紀伊國」と云うものを割り出しています。ただし、問題は山部赤人が神亀元年十月以降に紀伊国を訪れていたら、この推定は崩壊します。それは標題を付けた人物も承知しており、そこで集歌919の歌の左注に「因今檢注行幸年月以載之焉」と付記します。標題は歴史書からの推定だけであって、これを信用してはいけないとしています。
 どうです、面白いでしょう。

 次に紹介する車持朝臣千年の歌は「養老七年癸亥夏五月、幸于芳野離宮」と云う標題を持つ笠朝臣金村が詠う集歌907の長歌とそれに付属する短歌五首と先に紹介した「神龜元年甲子冬十月五日、幸于紀伊國」と云う標題を持つ山部赤人が詠う集歌917の長歌とそれに付随する短歌に挟まれた作品です。また、吉野の景色を詠う歌と云うこと。車持千年は行幸従駕での作品を多く残すことから、吉野行幸への従駕でのものと目されています。ここから、この集歌913の長歌とそれに付属する短歌三首は吉野行幸への従駕のものであるとされ、さらに歌の「霧」から三月ではないだろうこと、車持千年の活躍した年代から養老七年五月の吉野行幸の時であろうと推定されています。「味凍」は「身凍」も意味するとし、吉野の三月でも「霧」と云う言葉に違和感が無ければ、神亀元年三月と云う可能性はあります。

車持朝臣千年作謌一首并短謌
標訓 車持朝臣(くるまもちのあそみ)千年(ちとし)の作れる謌一首并せて短謌
集歌913 味凍 綾丹乏敷 鳴神乃 音耳聞師 三芳野之 真木立山湯 見降者 川之瀬毎 開来者 朝霧立 夕去者 川津鳴奈辦詳 紐不解 客尓之有者 吾耳為而 清川原乎 見良久之惜蒙
訓読 身(み)凍(こほ)り あやに乏(とも)しく 鳴神(なるかみ)の 音(おと)のみ聞きし み吉野し 真木(まき)立つ山ゆ 見(み)降(お)ろせば 川し瀬ごとに 明け来れば 朝霧(あさぎり)立ち 夕(ゆふ)されば かはづ鳴くなべし 紐(ひも)解(と)かぬ 旅にしあれば 吾(あ)のみせに 清き川原を 見らくし惜しも
私訳 身を凍らせるにわか雨のおもむきの、そのモノトーンの情景に何とも云えず心がひかれる、その雷神の鳴らす雷鳴を聞くように有名な評判を聞く、その吉野の立派な木々が茂る山から見下ろすと、川の瀬毎に朝が開けてくると朝霧が立ち、夕べになるとカジカ蛙が鳴くでしょう。上着の紐を解きくつろぐこともない御幸の旅路の途中なので、(貴方がいなくて)私独りでこの清らかな川原を見るのが、残念なことです。
注意 原文の「川津鳴奈辦詳」は、一般に「川津鳴奈拜」と記し「かはづ鳴くなへ」と訓みます。

反謌一首
集歌914 瀧上乃 三船之山者 雖 思忘 時毛日毛無
訓読 瀧(たぎ)し上(へ)の三船し山は雖(しかれ)ども思ひ忘るる時も日もなし
私訳 激流の上流にある三船の山は、趣があり心を惹かれますが、私は貴方を思い忘れる時も日々もありません。

或本反謌曰
標訓 或る本の反謌に曰はく
集歌915 千鳥鳴 三吉野川之 音成 止時梨二 所思君
訓読 千鳥鳴くみ吉野川し音(おと)成(な)りの止(や)む時無しに思ほゆる君
私訳 多くの鳥が鳴く美しい吉野川の轟きが止む時がないように、常に慕っている貴方です。
注意 原文の「音成」は、一般に「川音成」と記し「川音なす」と訓みます。

集歌916 茜刺 日不並二 吾戀 吉野之河乃 霧丹立乍
訓読 茜(あかね)さす日(け)並(なら)べなくに吾が恋は吉野し川の霧(きり)に立ちつつ
私訳 茜に染まる夕べの日々を重ねたわけでもないが、私の貴方への恋は、吉野の川に霧が立っている(ように行方が見えません)。
右、年月不審。但、以歌類載於此次焉。或本云、養老七年五月幸于芳野離宮之時作。
注訓 右は、年月は審(つばび)かならず。但し、歌の類(たぐひ)を以つて此の次(しだい)に載す。或る本に云はく「養老七年五月に芳野の離宮に幸(いでま)しし時に作れり」といへり。


 この歌も集歌916の歌の左注にありますように「右、年月不審」の歌です。紹介しましたように万葉集の編纂をした人物は、あくまでも、歌の内容と車持千年から「養老七年五月幸于芳野離宮」を割り出しています。当然、「或本」の編集者も同じような思考で歌は行幸でのものであり、それは養老七年五月であると推定したのではないかと云う考え方もできます。万葉集の編纂をした人物は「右、年月不審」と最初に明記しますから、行幸従駕の時のものでない可能性、神亀元年三月の可能性を否定している訳ではありません。
 ただし、車持千年の歌人としての作品は皇室に寄り添うものですから行幸従駕の作品であろうと推定することは正しいと考えます。すると、大宝元年二月から天平八年六月の間に吉野行幸は六回を数えますが、車持千年の歌人としての活躍時期から養老七年五月か、神亀元年三月のどちらかに絞られます。そこで、万葉集の編纂者は養老七年五月の笠朝臣金村が詠う歌と神龜元年十月と推定した山部赤人との歌で挟むことで、養老七年五月か神亀元年三月のどちらかであろうとして、「但、以歌類載於此次焉」と記している訳です。万葉集の編纂をした人物もまた可能性から、決めきれないということを示しています。
 なお、この思考回路は山部赤人の詠う歌を神龜元年十月の作品と推定したことが出発点ですから、これが神龜元年十月以降の歌としますと、車持千年の歌自体も不確かになる可能性はあります。さらに、車持千年の作品は皇室に寄り添うものであったとしても、次に紹介する続日本紀の旱魃時の降雨祈願のような朝廷御用のために派遣されて吉野(芳野)を訪れた可能性は否定できません。この場合、まったくに制作した時期は不明になります。

<続日本紀 降雨祈願の資料>
文武二年四月戊午、奉馬于芳野水分峰神。祈雨也。
養老元年四月丙戌、祈雨于畿内。
天平四年五月甲子、遣使者于五畿内。祈雨焉。

 参考としまして、万葉集巻六に載る笠朝臣金村の作品に付けられた標題に対して、車持千年や山部赤人の作品の左注として付けられた「右、年月不審」や「右、年月不記」と云うような注記はありません。つまり、万葉集の編纂をした人物は笠金村の作品については、その制作年月と歌が詠われた場面については確認を持っていたと思われます。つまり、今は失われた笠朝臣金村歌集はそのような記載を持って編集されていたか、または朝廷内に置かれた歌舞所などに収蔵され、確かな記録と残っていたと推定されます。制作年月を持たない車持千年や山部赤人の作品が万葉集に取られていることから、可能性としては笠金村の作品は車持千年や山部赤人の作品と同様に歌舞所などに収蔵保管されていましたが、同時に笠金村自身が編んだ笠朝臣金村歌集にも載っていたと考えるのが自然なのでしょう。このような背景が推定されるため、笠金村の作品については制作年月に揺るぎがないのでしょう。
 しかしながら、万葉集の鑑賞や万葉集の載るものから年譜を再構成する場合、笠金村の作品のものは資料に使えるであろうが、車持千年や山部赤人の作品はそのような資料には使えないであろうことを基礎的知識として認識する必要があります。

 今回は、ただ、いちゃもんだけを付けたようなものになりました。反省する次第です。
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万葉雑記 色眼鏡 百五六 節度使の歌を鑑賞する。

2016年02月06日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 百五六 節度使の歌を鑑賞する。

 万葉集巻六に節度使に関係する歌四首があります。歌で詠われる節度使は天平四年に設けられた令外の職で、大唐の職令に従った役職です。その大唐における節度使の職務は駐屯軍の将軍とその地方の財政官とを兼ね、任地の税収を軍の糧秣と兵士の雇用に使う制度であって、これは遠隔地での異民族対策として緊急時即応を考慮したものです。
 歌はこのような中国における節度使を模した役職なのか、集歌972の短歌では「千萬乃 軍奈利友 言擧不為 取而可来 男常曽念」と勇壮な出陣のような語句で詠い上げます。このような感覚で以下の歌を鑑賞してください。

四年壬申、藤原宇合卿遣西海道節度使之時、高橋連蟲麻呂作謌一首并短謌
標訓 (天平)四年壬申、藤原宇合卿の西海道節度使に遣さえし時に、高橋連蟲麻呂の作れる謌一首并せて短謌
集歌971 白雲乃 龍田山乃 露霜尓 色附時丹 打超而 客行君者 五百隔山 伊去割見 賊守 筑紫尓至 山乃曽伎 野之衣寸見世常 伴部乎 班遣之 山彦乃 将應極 谷潜乃 狭渡極 國方乎 見之賜而 冬成 春去行者 飛鳥乃 早御来 龍田道之 岳邊乃路尓 丹管土乃 将薫時能 櫻花 将開時尓 山多頭能 迎参出六 君之来益者
訓読 白雲の 龍田し山の 露霜(つゆしも)に 色づく時に うち越えに 旅行く君は 五百重(いほへ)山 い去(い)きさくみ 敵(あた)守(まも)る 筑紫に至り 山の極(そき) 野し極(そき)見よと 伴の部(へ)を 班(あか)ち遣(つかは)し 山彦(やまびこ)の 答へむ極(きは)み 谷蟇(たにくぐ)の さ渡る極(きは)み 国形(くにかた)を 見し給ひに 冬成りて 春さり行かば 飛ぶ鳥の 早く来まさね 龍田道し 丘辺(をかへ)の道に 丹(に)つつじの 薫(にほは)む時の 桜花 咲きなむ時に 山たづの 迎(むか)へ参(ま)ゐ出(で)む 君し来まさば
私訳 白雲の立つ龍田の山の木々が露霜により黄葉に色づく時に、山路を越えて旅行く貴方は多くの山を踏み越えて敵が守る筑紫に至り、山の極み、野の極みまで敵を見つけて成敗せよと、部下の部民を編成し派遣し、山彦が声を返す極み、ヒキガエルが這い潜り込む地の底の極みまで、その国の様子を掌握されて、冬が峠を越え、春がやって来ると、飛ぶ鳥のように、早く帰ってきてください。龍田道の丘の道に真っ赤なツツジが薫る時の、桜の花が咲く頃に、ニワトコの葉が向かい合うように迎えに参り出向きましょう。貴方が帰って御出でなら。

反謌一首
集歌972 千萬乃 軍奈利友 言擧不為 取而可来 男常曽念
訓読 千万(ちよろづ)の軍(いくさ)なりとも言(こと)挙(あ)げせず取りに来ぬべき男(をのこ)とぞ念(おも)ふ
私訳 千万の敵軍であるとして、改めて神に誓約するような儀式をしなくとも敵を平定してくるはずの男子であると、貴方のことを思います。
右、檢補任文、八月十七日任東山々陰西海節度使。
注訓 右は、補任の文を檢(かむが)ふるに、八月十七日に東山・山陰・西海の節度使を任す。

天皇賜酒節度使卿等御謌一首并短謌
標訓 天皇(すめらみこと)の酒(みき)を節度使の卿等(まへつきみたち)に賜へる御謌(おほみうた)一首并せて短謌
集歌973 食國 遠乃御朝庭尓 汝等之 如是退去者 平久 吾者将遊 手抱而 我者将御在 天皇朕 宇頭乃御手以 掻撫曽 祢宜賜 打撫曽 祢宜賜 将還来日 相飲酒曽 此豊御酒者
訓読 食国(をすくに)し 遠(とほ)の朝廷(みかど)に 汝等(いましら)し かく罷(まか)りなば 平(たひら)けく 吾は遊ばむ 手抱(たむだ)きに 吾は在(いま)さむ 天皇(すめ)と朕(われ) うづの御手(みて)もち かき撫でぞ 労(ね)ぎ賜ふ うち撫でぞ 労(ね)ぎ賜ふ 還(かへ)り来(こ)む日 相飲まむ酒(き)ぞ この豊御酒(とよみき)は
私訳 天皇が治める国の遠くの朝廷たる各地の府に、お前たちが節度使として赴いたら、平安に私は身を任そう、自ら手を下すことなく私は居よう。天皇と私は。高貴な御手をもって、卿達の髪を撫で労をねぎらおう、頭を撫でて苦をねぎらおう。そなたたちが帰って来た日に、酌み交わす酒であるぞ、この神からの大切な酒は。

反謌一首
集歌974 大夫之 去跡云道曽 凡可尓 念而行勿 大夫之伴
訓読 大夫(ますらを)し去(い)くといふ道ぞ凡(おほ)ろかに念(おも)ひに行くな大夫(ますらを)し伴
私訳 立派な男子が旅立っていくと云う道だ。普通の人々が旅立つと思って旅立つな。立派な男子たる男達よ。
右御謌者、或云、太上天皇御製也。
注訓 右の御謌(おほみうた)は、或は云はく「太上天皇の御製なり」といへる。


 さて、最初に続日本紀の天平四年(732)八月十七日の記事に節度使の任命に関するものがあります。この時、節度使が置かれたのは東海道と東山道を一グループとした東国、山陰道、そして西海道の三地区だけです。山陽道、南海道や北陸道には節度使は設置されていません。

<天平四年八月丁亥>
以従四位上多治比真人広成為遣唐大使、従五位下中臣朝臣名代為副使、判官四人、録事四人。正三位藤原朝臣房前為東海・東山二道節度使。従三位多治比真人県守為山陰道節度使。従三位藤原朝臣宇合為西海道節度使。道別判官四人、主典四人、医師一人、陰陽師一人。

 日本での職務は何かといいますと、同じ続日本紀の天平四年(732)八月二二日の記事に示すように軍備の点検とその充足にあります。武装品や馬の地域外への移動を禁止し、その地域での武装品や兵糧の過不足を確定して、不足の充足や老朽品の更新を速やかに行うことを要求しています。これは持統天皇の時代、全国に亘る戸籍制度を導入しようとしたとき、人の移動を禁止し、地域における人の状態を厳密に確認しようとした姿に似ています。さらに、武装品や兵糧の充足と並行して、兵卒として住民の内、正丁四人に一人の割合で招集し、彼らに軍事教練を課すことを求めています。

<天平四年八月壬辰>
勅、東海・東山二道及山陰道等国兵器・牛馬並不得売与他処、一切禁断勿令出界。其常進公牧繋飼牛馬者、不在禁限。但西海道依恒法。又節度使所管、諸国軍団幕釜有欠者、割取今年応入京官物、充価、速令填備。又四道兵士者、依令差点満四分之一。其兵器者脩理旧物。仍造勝載百石已上船。又量便宜造籾焼塩。


 ところで、集歌973の長歌を鑑賞してみてください。標題では「天皇賜酒節度使卿等御謌」となっていますが、歌の内容は天皇より少し下の地位にある太上天皇の歌にふさわしいものです。つまり、節度使を送別する宴で天皇は送り出す歌を詠っていません。また、集歌972の短歌で「言擧不為」とありますように、節度使を送別するにおいて朝廷は重要な「敵を懲伏させることを祈願する神事」を行っていないと思われます。つまり、朝廷(天皇)はこの節度使と云うものについて無関心であった可能性がありますし、または天皇がなんらかの事情でこのような行事を執り行えなかった可能性もあります。歌からしますと実に不思議です。
 一方、地方に派遣される節度使は続日本紀の記事に示すように、任地の諸国司を指揮し軍備の充足のため軍の統括と奈良の都へ送る物品の転用を許可された財政面での臨時権限を与えられていますから、何らかの緊急事態が背景にあると推定されるのです。それも対象は東国、山陰、九州地方のみの臨時措置です。古く東国は対外防衛を担う防人を供給する地域ですので、常時において武装点検や軍事訓練を行うことに疑義はありませんが、山陰や九州地方に対しては異常を感じます。そこで専門家は山陰及び九州地方に軍船への転用が可能な大船の造艦を要求していること、山陰節度使の鎮所が石見国に置かれたことなどを踏まえ、およそ、それは海峡を挟んだ対新羅、対唐と云う緊急事態を想定したものではないかと推定しています。ただし、節度使の任務からしますと防衛戦を想定したもので、渡海作戦を想定したものではなかったと思われます。
 つまり、紹介しました節度使を詠う歌四首はそのような非常事態宣言下での歌と云うことになります。

 では、天平四年頃の東アジアの政治状況はどうかと云うと、大唐は玄宗皇帝の時代で最盛期を迎えていますし、新羅はこのころ唐風文化へと転換しており、唐‐新羅は友好な関係にありました。一方、朝鮮半島北部には高句麗を引き継いだ渤海が興隆し、その渤海は渤海の興隆に危機感をもって節度使を置いた大唐とは軍が対峙していますし、その大唐と友好関係を保つ新羅とは緊張関係にありました。対して渤海と日本とは渤海が遣日本使を派遣するなど友好関係が成立していました。ちょうど、それは天智天皇の統治時代の高句麗・百済・日本の連合体制と唐・新羅の連合体制との対立があった状況と似たものがあります。
 加えて、時代は、聖武天皇及び藤原氏は百済系の一派と目される党派であって、対立する対新羅友好関係を保った長屋大王をクーデターで殺害した直後です。事実、天平元年を境として日本と新羅は互いの無礼を咎め、唐での朝礼席順を争うなど対立を深めて行きます。政治情勢としては、そのような時期に当たります。
 参考として、百済系の一派が中心となる聖武朝廷は長屋大王をクーデターで殺害した直後となる天平三年十一月に惣管と諸道鎮撫使と云う令外の臨時の治安職を置きます。節度使は東国、山陰、九州地方のみの臨時措置でしたが、惣管と諸道鎮撫使は畿内と山陽道・山陰道・南海道の現在の中国・四国地方が対象の職務です。続日本紀には職務を「其職掌者、差発京及畿内兵馬。捜捕結徒集衆。樹党仮勢、劫奪老少、圧略貧賤。是非時政、臧否人物、邪曲寃枉之事、又断盗賊、妖言。自非衛府執持兵刃之類」としますから、長屋大王をクーデターで殺害した現朝廷に対しての反対運動への弾圧が目的であったであろうと推定されています。なお、人選においては山陽道が多治比真人県守であり、南海道が大伴宿禰道足、山陰道が藤原朝臣麻呂となっていて、地方の不満を長屋大王系の人物を採用することで押さえこんだような雰囲気があります。この諸道鎮撫使は建前では天平十八年の廃止まで存続していたようですが、山陽道鎮撫使の多治比真人県守が山陰道節度使に任命されていることから推定しまして、天平四年にはその臨時職務を停止していたと思われます。諸道鎮撫使、ほぼ、クーデター後の治安を維持するための非常時体制の職です。そのため、人心の動揺が収まった時点でその職務を停止したものと思われます。

 このように天平年間初頭に軍事に関係する鎮撫使と節度使が相次いで設置されましたが、天平六年(734)になって節度使の所管をそれぞれの国の国司に移管する形で、一端の目途とされています。日本の歴史では次のような時系列で事態は推移していますが、渤海使を務めた引田虫麻呂の報告がある一定の恐怖を朝廷に与え、それが鎮撫使や節度使と云う令外の軍事組織を生んだのかもしれません。

天平二年八月廿九日、遣渤海使引田朝臣虫麻呂等の大和への帰朝。
天平三年十一月廿八日、惣管・鎮撫使の任命。
天平四年正月廿二日、新羅使の大宰府への入国。
天平四年二月廿七日、遣新羅使角朝臣家主等の新羅への出発儀礼。
天平四年三月〇五日、新羅使を大宰府の政庁に召喚。
天平四年五月十一日、新羅使の大宰府から平城宮への移動・到着。
天平四年六月廿六日、新羅使の新羅への帰国。
天平四年八月十一日、遣新羅使角朝臣家主等の大和への帰朝。
天平四年八月十七日、節度使の任命。
天平六年十二月六日、新羅より新羅貢調使の大宰府への入国。
天平七年二月十七日、新羅貢調使の大宰府から平城宮への移動・到着。
天平七年二月廿七日、新羅の改国名「王城」に不満があり、新羅貢調使を帰国させる。
天平八年四月十七日、遣新羅使阿倍朝臣継麻呂等の新羅への出発儀礼。
天平九年正月廿七日、遣新羅使の大和への帰朝。(阿倍継麻呂は病没)
天平九年二月十五日、遣新羅使の「新羅国の失常礼を失し、使を受けない旨」を報告。
天平九年二月廿二日、新羅国に態度に対して「或言、遣使問其由。或言、発兵加征伐」
天然痘の大流行が始まる。

 今回は、万葉集の歌の解釈から歴史問題へ大きく傾きました。実に反省する次第です。
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