竹取翁と万葉集のお勉強

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今日の古今 みそひと歌 月

2016年02月29日 | 古今 みそひと歌
今日の古今 みそひと歌 月

水のほとりに梅の花さけりけるをよめる 伊勢
歌番四三
原歌 はることになかるるかはをはなとみてをられぬみすにそてやぬれなむ
標準 春ごとになるる河を花と見てをられぬ水にそでやぬれなん
釈A 春ごとに流るる河を花と見て折られぬ水に袖や濡れなん
釈B (夜戸を)張るごとに、流れるる川を花とみて、折られぬ御簾に袖や濡れなむ
注意 釈Aは標準的な解釈です。ただし、景色の解釈は「水に袖や濡れなん」と云う言葉から難しいとします。一方、釈Bは夜戸を開け、夜露に濡れた御簾を下す時に、目の先に梅の花びらが浮かぶ川面があるという風情です。

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万葉集 長歌を鑑賞する 集歌971

2016年02月28日 | 万葉集 長歌を楽しむ
万葉集 長歌を鑑賞する 集歌971

四年壬申、藤原宇合卿遣西海道節度使之時、高橋連蟲麻呂作謌一首并短謌
標訓 (天平)四年壬申、藤原宇合卿の西海道節度使に遣さえし時に、高橋連蟲麻呂の作れる謌一首并せて短謌
集歌971 白雲乃 龍田山乃 露霜尓 色附時丹 打超而 客行君者 五百隔山 伊去割見 賊守 筑紫尓至 山乃曽伎 野之衣寸見世常 伴部乎 班遣之 山彦乃 将應極 谷潜乃 狭渡極 國方乎 見之賜而 冬成 春去行者 飛鳥乃 早御来 龍田道之 岳邊乃路尓 丹管土乃 将薫時能 櫻花 将開時尓 山多頭能 迎参出六 君之来益者

<標準的な解釈(「萬葉集 釋注」伊藤博、集英社文庫)>
訓読 白雲の 龍田の山の 露霜(つゆしも)に 色づく時に うち越えて 旅行く君は 五百重(いほへ)山 い行(い)きさくみ 敵(あた)まもる 筑紫に至り 山のそき 野のそき見よと 伴の部(へ)を 班(あか)ち遣(つか)はし 山彦(やまびこ)の 答へむ極(きは)み たにぐくの さ渡る極(きは)み 国形(くにかた)を 見したまひて 冬こもり 春さりゆかば 飛ぶ鳥の 早く来まさね 龍田道の 岡辺(をかへ)の道に 丹(に)つつじの にほはむ時の 桜花 咲きなむ時に 山たづの 迎(むか)へ参(ま)ゐ出(で)む 君が来まさば
意訳 白雲の立つ龍田の山が、冷たい霧で赤く色づく時に、この山を越えて遠い旅にお出かけになるあなた様は、幾重にも重なる山々を踏み分けて進み、敵を見張る筑紫に至り着き、山の果て野の果てまでもくまなく検分せよと、部下どもをあちこちに遣わし、山彦のこだまする限り、ひきがえるの這い廻る限り、国のありさまを御覧になって、冬木が芽吹く春になったら、空飛ぶ鳥のように早くお帰り下さい。ここ龍田道の岡辺の道に、赤いつつじが咲き映える時、桜の花が咲きにおうその時に、私はお迎えに参りましょう。あなた様が帰っていらっしゃたならば。

<西本願寺本万葉集の原文を忠実に訓むときの解釈>
訓読 白雲の 龍田し山の 露霜(つゆしも)に 色づく時に うち越えて 旅行く君は 五百重(いほへ)山 い去(い)きさくみ 敵(あた)守(まも)る 筑紫に至り 山の極(そき) 野し極(そき)見よと 伴の部(へ)を 班(あか)ち遣(つかは)し 山彦(やまびこ)の 答へむ極(きは)み 谷蟇(たにくぐ)の さ渡る極(きは)み 国形(くにかた)を 見し給ひて 冬成りて 春さり行かば 飛ぶ鳥の 早く来まさね 龍田道し 丘辺(をかへ)の道に 丹(に)つつじの 薫(にほは)む時の 桜花 咲きなむ時に 山たづの 迎(むか)へ参(ま)ゐ出(で)む 君し来まさば
私訳 白雲の立つ龍田の山の木々が露霜により黄葉に色づく時に、山路を越えて旅行く貴方は多くの山を踏み越えて敵が守る筑紫に至り、山の極み、野の極みまで敵を見つけて成敗せよと、部下の部民を編成し派遣し、山彦が声を返す極み、ヒキガエルが這い潜り込む地の底の極みまで、その国の様子を掌握されて、冬が峠を越え、春がやって来ると、飛ぶ鳥のように、早く帰ってきてください。龍田道の丘の道に真っ赤なツツジが薫る時の、桜の花が咲く頃に、ニワトコの葉が向かい合うように迎えに参り出向きましょう。貴方が帰って御出でなら。

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万葉雑記 色眼鏡 百五九 石見国 その特殊性

2016年02月27日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 百五九 石見国 その特殊性

 万葉集で柿本人麻呂の人生を考えるとき、万葉集巻二に「柿本朝臣人麻呂従石見國別妻上来時謌二首」と標題を持つ集歌131の長歌を始めとして、都合、九首の長歌・短歌の歌群が載せられています。これは万葉集全体を見ましても非常に特徴のある編纂ですから、石見国と云うものを無視して人麻呂を語ることはできません。つまり、石見国は日本文学史での巨人であり歌聖である柿本人麻呂を考えるとき、重要なキーワードとなる存在です。

 他方、この石見国は山陰道に含まれる諸国ですので、丹波國、丹後國、因幡國、伯耆國、出雲國、隱岐國が形成するグループに含まれます。また、朝廷が定める山陰道の駅伝馬条では次のように駅を定め、駅ごとに備える荷役用の駅馬の数量を規定していました。ここから、一般的な解釈では平城京から石見国への道程は現在の京都府から日本海側に抜け、丹後半島を横断した後、日本海側を西へ向かったとします。ただし、緊急連絡網となる伝馬を置く郡家は紹介を省いています。この省いた伝馬の例としては丹波國では桑田郡家、多紀郡家、冰上郡家の三か所に馬各五匹を置くと定められています。

<延喜式に載る荷役駅馬を置く宿駅>
丹波國の宿;大枝、野口、小野、長柄、星角、佐治、日出、花浪
丹後國の宿;勾金
但馬國の宿;粟鹿、郡部、養耆,山前,面治、射添,春野
因幡國の宿;山埼、佐尉、敷見、柏尾
伯耆國の宿;笏賀、松原、清水、和奈、相見
出雲國の宿;野城、田、完道、狹結、多仗、千酌
石見國の宿;波禰、託農、樟道、江東、江西、伊甘

 ただし、古代交通研究会に寄せられた研究書が示すように平安時代に作成された延喜式に載る駅伝馬条の記載事項が実際に運営されたものかは問題があるようです。古代交通研究第12号に載る研究が指摘するように、東山道信濃国と北陸道越後国とを繋ぐ連絡道について信濃側の記載がありますが、越後側の記載はありません。同じように山陽道長門国と山陰道石見国とを繋ぐ陰陽連絡道について長門側の記載はありますが、石見側の記載はありません。山陽道の支線で播磨国と美作国を結ぶ美作路についても播磨側の記載はありますが美作側の記載はありません。古代交通研究会に寄せられた研究書からしますと、延喜式に載る駅伝馬条は尊重をしても絶対的な信頼はないものとするのが良いようです。
 従いまして、延喜式に示す諸國運漕雜物功賃条や駅伝馬条を尊重した上、地形地図を使い実際に交通路が成立するかどうかを検討する必要があると思われます。

 ここで延喜式から抽出した山陰道諸国の国府と調物の平安京までの運賃・路程を以下に紹介します。

国府所在地と駄別稻・路程:-
丹波国;桑田郡(京都府亀岡市;未定) 駄別稻三束 行程上一日、下半日
丹後国;加佐郡(京都府宮津市;未定) 駄別稻二一束 行程上七日、下四日
但馬国;気多郡(兵庫県豊岡市;未定) 駄別稻二四束 行程上七日、下四日
因幡国;法美郡(鳥取県鳥取市国府) 駄別稻三六束 行程上十二日、下六日
伯耆国;久米郡(鳥取県倉吉市国府) 駄別稻三二束  行程上十三日、下七日
出雲国;意宇郡(島根県松江市大草) 駄別稻三九束 行程上十五日、下八日
石見国;那賀郡(島根県浜田市;未定) 駄別稻九十束 行程上二九日、下十五日
隠岐国;周吉郡(島根県隠岐郡隠岐) 駄別稻百八十束 行程上三五日、下十八日

 このリストから面白いことが判りませんか。
 経済性と公平性を基準としますと、平安時代での山陰道諸国の街道は次のような接続であったのではないかと考えられます。運賃規定からすると伯耆国の調物が因幡国を通過して平安京に向かうことはありません。他方、山陽道での美作国までの路程が上七日、下四日であり、駄別稻二一束ですから美作国と伯耆国とを繋いでも路程と運賃に矛盾は生じません。
 さらにリストをみてみますと、出雲国と石見国とを連絡すると路程及び運賃規定の両面から石見国は異常値となります。つまり、石見国は山陰道に所属しますが、山陰道を使って平安京には接続していなかったことが予想されます。例としまして出羽国は東山道に所属する国ですが、実際には北陸道を使い越後国に連絡します。石見国もまた出羽国と同じ状況だったと推定されます。

ルート1:平安京‐丹波国‐丹後国‐但馬国‐因幡国
ルート2:平安京‐山陽道(美作国)‐伯耆国‐出雲国‐隠岐国
ルート3:平安京‐山陽道(長門国)‐石見国

 そうした時、山陽道の長門国への路程と運賃規定は行程上二一日、下十一日(又は海路二三日)であり、駄別稻六十三束です。これを踏まえますと、長門国から石見国へは八日と稻二七束、出雲国から石見国へは十四日と稻五一束と計算されますので、単純な国間距離において石見国は出雲国よりも長門国の方が旅程と経済的距離は近いことになります。これは、まったくに想定外のことではないでしょうか。現在で、島根県浜田市から島根県松江市と山口県下関市とを比べたとき、路程と経済的距離において山口県下関市との結びつきの方が強いとは想像しないし、候補にも載らないと思います。しかしながら、平安時代の延喜式に載る規定を尊重しますと、このようなことになります。
 ここに色眼鏡を外し、先達の研究を脇に置き、冷静に資料だけを見つめる必要があります。つまり、地理的基礎として、律令制では畿内及び七街道に諸国をグループ分けしますが、グループ分けとその国への交通路程とは一致してないことを知る必要があります。

 ここで柿本人麻呂を祖神とする戸田柿本神社がある石見国高津、現在の島根県益田市に目を向けますと、現在では想像も出来ないでしょうが、島根県益田市の昔の姿において、現在市内中心部を流れる高津川は益田平野に出たところで東に向かい、益田川に合流して日本海へと流れる姿を示します。現在の中心市街地となる場所は高津川と益田川とで作る氾濫湿地帯でした。そして、その益田川の西側に広がる氾濫湿地帯が浜田藩領と津和野藩領とを分ける境界でした。これが江戸期以前の益田平野の状況です。
 この自然地形を背景として益田市の西はずれにある飯浦が、現在の高津川河口左岸に位置する高津港が開かれるまで津和野藩唯一の藩港でした。つまり、氾濫河川である高津川が江戸時代初期となる元和二年(1616)に高津川の益田平野における河川の付け替え等の整備が終わり、元和四年(1618)に高津港が開かれるまでは飯浦港が唯一の商業港としての役割を担っており、内陸部津和野から飯浦へは傾成峠を越える路が重要な交通路でした。
 参考として自然の地形を背景に出来た飯浦港の東隣に、柿本人麻呂を祖神とする戸田柿本神社があります。このように、おおよそ、現在にイメージする益田市の姿や古代の港、それへの内陸からの街道は、全くに違う姿をしていました。文学を鑑賞するとき社会歴史を無視しては、なかなか、鑑賞が出来ないようです。

 さて、時代を平安時代初期に戻しますと、山陽道長門国と山陰道石見国とを繋ぐ陰陽連絡道について長門側の記載から長門・石見国境までは宿駅を辿ることが出来ます。それが次のものです。

山陽道厚狭駅 小野田市厚狭
阿津 美祢市東厚保町川東、又は美祢市西厚保町本郷
鹿野 美祢市大嶺町
意福 美祢市於福町上 付近
由宇 長門市渋木 付近
三隅 長門市三隅上
參美 萩市三見
垣田 萩市椿東 小畑
阿武 萩市大井
宅佐 萩市高佐 付近
小川 萩市小川中小川 付近
山陰道伊甘駅(所在地不明)

 紹介しました陰陽連絡道の小川駅は津和野から傾成峠を越えて飯浦へと連絡する街道の中間地点の近傍にありますから、飯浦が石見国側の宿駅であった可能性があり、飯浦から山陰道伊甘駅へと繋がった可能性は否定できないと思います。

 古代での駅は約30里(1里=534m;16㎞)を目途に設置されたとしますが、一方、延喜式に載る平安時代での山陽道の駅間距離は13里(=7㎞)程度でした。これを参考にしたいと思います。
 ここで小野田市厚狭から美祢市大嶺、長門市三隅、萩市椿東、萩市高佐、益田市飯浦を経由して益田市七尾までの一般道路での距離は約160㎞です。これは古代の10駅区間に相当する距離となります。陰陽連絡道で阿津から数え飯浦を含めますと11駅となり、それほど、違和感のある数字にはなりません。ここからの推定として陰陽連絡道で長門国境から石見国国府側において、石見国内では飯浦(益田市飯浦)、七尾(益田市七尾)あたりに駅が置かれていても不思議ではないことになります。
 次に、養老律令の行程条に示す「凡行程、馬日七十里・歩五十里・車卅里」の規定や延喜式の路程からしますと、陸路徒歩では一日26㎞強を踏破することを前提としたようです。すると、山陽道厚狭から石見国益田七尾までが約160㎞ですので六日強の路程となります。先に長門国国府(下関付近)から石見国国府へは八日と稻二七束と計算しましたから、長門国国府から山陽道厚狭までの路程一日を考慮しますと、石見国国府は石見国益田七尾付近にあった可能性も示唆します。これもまた、標準的なものとは大きく違う話となります。
 他方、旧来の山陰道を使い、延喜式の路程に従いますと、出雲‐石見の距離は上り十四日の路程距離ですから、これは平安京と出雲国府との路程と同じものです。およそ、出雲国から石見国を見たとき石見国は路程では九州南部以南に位置することになります。つまり、従来の解釈では非常にナンセンスな比定をしていたことになります。
 ここで歴史を探りますと、鎌倉時代、石見国の国司である益田氏は、ここ石見国益田庄に置かれた七尾屋形を本拠としていました。また、その益田氏は現代に伝わる複数の益田家系図や石見周布家系図の中で非公式扱いとなっていますが、信頼性があるもっとも古い系図を示す「一本」と云う系図では共に奈良時代天平年間から石見国益田庄を本貫とし、柿本人麻呂を祖とする地方官僚一族が出身とします。

 以下に「柿本朝臣人麻呂従石見國別妻上来時謌二首」の標題でまとめられた歌群の中から「或本謌一首」の方を紹介しますが、古く、石見國より妻と別れ都へ上り来る時の歌の情景から、柿本人麻呂は上京において石見国を東から西に移動したと思われ、さらに何故か、大船に乗る港まで山中を旅したことになっています。これは山陰道石見国の国府とされる浜田から、従来、想定していました日本海側を東上するルートとは合いません。それで歌は創作ではないか等との議論はありました。しかし、ここで推定した平安時代初期となる延喜式で規定する石見国と平安京とを結ぶルートは、従来の想定とは違い、山陽道を使うというものです。それを前提としますと、人麻呂が状況ルートに陰陽連絡道を使い、山陽道海上ルートから上京したとすると、ちょうど歌の世界と一致することが判ります。

或本謌一首并短謌
標訓 或る本の歌一首并せて短歌
集歌138 石見之海 津乃浦乎無美 浦無跡 人社見良米 滷無跡 人社見良目 吉咲八師 浦者雖無 縦恵夜思 潟者雖無 勇魚取 海邊乎指而 柔田津乃 荒礒之上尓 蚊青生 玉藻息都藻 明来者 浪己曽来依 夕去者 風己曽来依 浪之共 彼依此依 玉藻成 靡吾宿之 敷妙之 妹之手本乎 露霜乃 置而之来者 此道之 八十隈毎 萬段 顧雖為 弥遠尓 里放来奴 益高尓 山毛超来奴 早敷屋師 吾嬬乃兒我 夏草乃 思志萎而 将嘆 角里将見 靡此山
訓読 石見(いはみ)し海 津の浦を無(な)み 浦無しと 人こそ見らめ 潟(かた)無しと 人こそ見らめ よしゑやし 浦は無くとも よしゑやし 潟は無くとも 鯨魚(いさな)取り 海辺(うみへ)を指しに 柔田津(にぎたつ)の 荒礒(ありそ)し上に か青なる 玉藻沖つ藻 明け来れば 浪こそ来寄れ 夕されば 風こそ来寄れ 浪し共(むた) か寄りかく寄り 玉藻なす 靡き吾(わ)が寝(ね)し 敷栲し 妹し手本(たもと)を 露霜の 置きにし来れば この道し 八十(やそ)隈(くま)ごとに 万(よろづ)たび 顧(かへ)り見すれど いや遠に 里放(さか)り来ぬ いや高に 山も越え来ぬ 愛(は)しきやし 吾(わ)が妻の子が 夏草の 思ひ萎えに 嘆くらむ 角(つの)し里見む 靡けこの山
私訳 石見の海の津野の浦を船が着く浦ではないと人は見るだろう。潟ではないと人は見るだろう。かまわない、浦はなくても。かまわない、潟はなくても。大きな魚を取る人が海岸を目指し、穏やかな波が打ち寄せる荒磯の上の青々とした玉藻や沖からの流れ藻の、朝は風が吹き寄せ、夕には波が打ち寄せる。その浪とともにそのように寄りこのように寄せる美しい藻のように寄り添って寝た恋人を、露や霜のようにこの地に置いてくると、京への道の沢山の曲がり角ごとに、何度も何度も振り返って見返すけれど、はるか遠くに恋人の里は離れてしまった。とても高い山も越えて来た。愛しい私の妻である貴女のことが夏草のように思うと心が萎へて嘆いてしまうだろう。恋人を思い出そう。津の里を見たい。生茂る木々の葉よ靡け開け、この山よ。

反謌一首
集歌139 石見之海 打歌山乃 木際従 吾振袖乎 妹将見香
訓読 石見(いはみ)し海(み)打歌(うつた)し山(やま)の木(こ)し際(ま)より吾が振る袖を妹見つらむか
私訳 石見の海の、その海沿いの宇田の山の木の間際から私が振る袖を恋人の貴女は見ただろうか。
右、謌躰雖同句々相替。因此重載。
注訓 右は、歌体同じと謂へども句々相替れり。因りて此に重ねて載す。


 今回は古代の街道とその使用状況を延喜式に載る規定から推測しました。弊ブログは酔論と暴論を根拠に成り立っていますが、その背景にはそれなりの屁理屈を持たせています。そこが「トンデモ論」ですが、いいところでもあります。
 なお、陰陽連絡道の長門側宿駅において、明治以前の古地名を使用したこと、また、津和野・飯浦街道が持つ江戸期以前の重要性を踏まえて、宅佐駅、小川駅の場所を従来の説よりも内陸に移動しています。その位置は現在の比定地とは違います。
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今日の古今 みそひと歌 金

2016年02月26日 | 古今 みそひと歌
今日の古今 みそひと歌 金

はつせにまうづるごとにやどりける人の家に、ひさしくやどらで、ほどへてのちにいたれりければ、かの家のあるじ、「かくさだかになむやとりはある」といひいだして侍りければ、そこにたてりけるむめの花ををりてよめる 貫之
歌番四二
原歌 ひとはいさこころもしらすふるさとははなそむかしのかににほひける
標準 人はいさ心もしらずふるさとは花ぞ昔のかににほひける
解釈 「人はいさ心も知らず古里は花ぞ昔の香に匂ひける」のままです。
注意 この歌は詞書の「かくさたかになむやとりはある」の解釈が問題です。一般には「かく定かになむ、宿りはある=このようにちゃんとして、泊まる処はある」としますから、歌の「人はいさ心も知らず」の表現は、取り様によっては逆ギレの雰囲気です。「ご無沙汰していても、さあ、泊まる処はありますよ」と云う宿の亭主に対してはあんまりです。対して「人はいさ心も知らず」が紀貫之自身のことですと、外部から貫之と宿の主を眺めている雰囲気になります。穿って、宿の主が女であり、昔、貫之が足繁く通った関係として歌を鑑賞しますと、「女の盛りを過ぎたお前だのに、ちゃんとやって来たではないか」と云う意味合いになり、それでも「お前は、昔のように華やいでいる」との詠いとなります。さて、この歌をどのように鑑賞しましょうか。

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今日の古今 みそひと歌 木

2016年02月25日 | 古今 みそひと歌
今日の古今 みそひと歌 木

はるのよ、梅の花をよめる 躬恒
歌番四一
原歌 はるのよのやみはあやなしうめのはないろこそみえねかやはかくるる
標準 春の夜のやみはあやなし梅の花色こそ見えねかやはかくるる
解釈 「春の夜の闇はあやなし。梅の花、色こそ見えね、香やは隠るる」のままです。
注意 「かやはかくるる=香やは隠るる」は「香りは隠れるのだろうか」の意味合いで解釈します。ただ、歌が詠われた場面には関心があります。宮中で御簾に隠れている女房に贈ったのであれば比喩歌となりますから、「かやはかくるる」は「姿は見えませんが、でも、貴女だと気付いていますよ」と云う意味合いになり、艶です。宴席であれば、ただ、「まま」です。

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