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竹取翁と万葉集のお勉強

楽しく自由に万葉集を楽しんでいるブログです。
初めてのお人でも、それなりのお人でも、楽しめると思います。

万葉雑記 色眼鏡 二二〇 今週のみそひと歌を振り返る その四〇

2017年06月24日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 二二〇 今週のみそひと歌を振り返る その四〇

 今週は集歌1073の歌を中心に遊びます。
 万葉集の鑑賞で、万葉集から万葉集を鑑賞する立場と、新古今和歌集の時代から新古今和歌集を鑑賞するように万葉集を鑑賞する立場があります。ご存知のように万葉集の歌は漢語と表語文字の漢字で音を表して表記されたものですし、古今和歌集の歌は一字一音の万葉仮名だけで表記された和歌集です。新古今時代の漢字交じり平仮名表記の和歌集とは違います。このような背景がありますから万葉集や古今和歌集の鑑賞で「枕詞」という便利な術語が採用できるかは不明です。古今和歌集は言葉を敢えて清音平仮名だけで表現することで複線的で複合的な歌の世界を目指していますから、言葉の解釈への思考停止を意味する「枕詞」というものを積極的に採用してでしょうか。疑問です。
 また、肝心なことに「枕詞」という術語が成立するためには、慣用語的に他の言葉と連携して人々の認識・認知がなければなりません。和歌の創成期には、建前としても「枕詞」という術語でくくられるような言葉は存在しません。「枕詞」は和歌の長い歴史の中で形成されるものなのです。ただし、万葉集の歌を漢字交じり平仮名歌に翻訳し、それを定訓として擬似原歌として扱うのですと、それは新古今調の翻訳和歌ですから、翻訳という過程で「枕詞」は成立します。古語意味不詳として「枕詞」という術語を導入して、そのように翻訳しているのですから、当たり前です。当然、弊ブログは万葉集を万葉集として鑑賞する立場ですから、「枕詞」という術語を導入することを拒否します。実に素人の素人たる所以です。

集歌1073 玉垂之 小簾之間通 獨居而 見驗無 暮月夜鴨
訓読 玉垂(たまたれ)し小簾(をす)し間(ま)通(とひ)しひとり居(ゐ)に見る験(しるし)なき暮(ゆふ)月夜(つくよ)かも
私訳 美しく垂らす、かわいい簾の隙間をして独りいるこの部屋から見る、待つ身に甲斐がない煌々と道辺を照らす満月の夕月夜です。

 さて、集歌1073の歌の「玉垂之小簾」という表現で「玉垂」は「枕詞」として言葉の意味合いやその言葉が示す景色などを考慮しないのが標準です。慣用句であり語調を整えるものというのが一般です。類似の表現を持つものとして集歌2364の歌や集歌2556の歌を案内します。確かにそうではありますが、一方で万葉集では恋人を待つ若い女性の部屋の様子を示す言葉として「玉垂之小簾」という女性にふさわしい内装を表現しますし、この言葉が歌で紹介されますと、時に、それは若い女性のインテリア流行になると思うのが良いのではないでしょうか。大切な恋人を部屋に迎え入れるとき、インテリアやファッションに心を砕くのは若い女性にはありえることではないでしょうか。その視点からしますと、インテリアを似せ、流行の染め色を身に纏うのは想定のうちですし、その想定が成り立つなら、その情景を歌に詠うのも想定の内です。

集歌2364 玉垂 小簾之寸鶏吉仁 入通来根 足乳根之 母我問者 風跡将申
訓読 玉垂し小簾(をす)し隙(すけき)に入り通(かよ)ひ来(こ)ね たらちねし母が問(と)はさば風と申(まを)さむ
私訳 美しく垂らすかわいい簾の隙間から入って私の許に通って来てください。乳を与えて育てくれた実母が簾の揺れ動きを問うたら、風と答えましょう。


集歌2556 玉垂之 小簀之垂簾乎 徃褐 寐者不眠友 君者通速為
訓読 玉垂し小簾(をす)の垂簾(たれす)を行き褐(かち)む寝(い)は寝(な)さずとも君は通はせ
私訳 日が翳り美しく垂らすかわいい簾の内がだんだん暗くなります。私を抱くために床で安眠することが出来なくても、貴方は私の許に通って来てください。
注意 三句目「徃褐」は一般的には難訓で「往くかちに=往く勝ちに」と解釈します。当然、見る景色はまったくに変わります。


 弊ブログでは「玉垂之小簾」の言葉について「玉」は「大切なもの、美しいもの」などを示すと考えていますし、「小」は「かわいい」、男物に対する女物のような感覚で解釈しています。他方、「玉垂」の「玉」はじゅじゅ玉などの実際の草木の実などで作った「すだれ」と解釈することも可能です。ただ、若い女性の部屋の様子を示す言葉として、弊ブログでは「美しい」の意味合いを採用しています。
 他方、玉で出来たタスキを示す「玉垂」という言葉も万葉集にはあります。ただし、柿本人麻呂が作った造語と思われ、万葉集では河嶋皇子の葬儀に際しその妻である泊瀬部皇女に奉げた挽歌である集歌194の長歌に「玉垂乃 越乃大野之」という句と以下に紹介する短歌に現れるだけです。

集歌195 敷妙乃 袖易之君 玉垂之 越野過去 亦毛将相八方
訓読 敷栲の袖かへし君玉垂し越野過ぎゆくまたも逢はめやも
私訳 二人の休む敷栲の床でお互いの衣の袖を掛け合って貴方。野辺送りの葬送の玉垂を身に付けて越野を行列は行きますが、また、再び、貴方に逢えるでしょうか。

 この「玉垂」は玉で出来たタスキを示すとしましたが、古代、タスキはそのタスキを掛ける人の穢れを除く、物忌みの意味があったとされています。つまり、葬儀での親族を示すものであったと思われます。さらに人麻呂が奉げた挽歌で詠われる人物は泊瀬部皇女ですから、高貴な人物に対する修辞においても「玉垂」という言葉が選ばれた可能性があります。なお、繰り返しますが、このタスキをイメージする「玉垂」という言葉は河嶋皇子の葬儀で歌われた挽歌でのみ登場する非常に特殊な用法です。
 そのため、万葉集では「玉垂之小簾」の言葉が優勢となっていますし、ここから「玉垂」という言葉を「枕詞」という術語で処理します。「枕詞」の世界からしますと、人麻呂の「玉垂」が顔を出してはいけないのです。

 おまけでもう少し。
 万葉集の時代、「枕詞」という術語が成立していたかは疑問ですが、同様に万葉集の時代、三輪山は特殊な霊域として存在していました。ところが、明治時代の廃仏毀釈運動の時代、三輪山は宗教的な生き残りのため、仏教寺院群を解体・破棄し、神道聖地との宣伝広告を行いました。その宣伝広告の成果が今日の神道としての三輪山です。
 一方、大三輪氏は後に大神(おおみわ)氏と氏表記を変えますが、万葉時代の大神高市麻呂は仏教の大檀那で三輪山に大御輪寺(大神寺または大三輪寺)という大寺院を建立し、その大御輪寺は私寺ですが仏教僧の得度を許す戒壇を持つような仏教聖地へとなる基盤を築いた人物です。この歴史を反映して明治時代初期までは、人々は三輪山といえば仏教聖地を思うような場所でした。有名な三輪そうめんは江戸時代での大御輪寺への参詣の土産として発展しましたが、廃仏毀釈の後、三輪神社に由来を持つとその歴史を変更しています。
 このような歴史がありますから、万葉集の歌を鑑賞するとき、三輪山に仏教大寺院群の存在を忘れてはいけませんし、その裏手となる長谷寺方面の山並みは人を散骨し葬る場所であったことも忘れることはできません。

集歌1095 三諸就 三輪山見者 隠口乃 始瀬之檜原 所念鴨
訓読 三諸(みもろ)つく三輪山見れば隠口(こもくり)の泊瀬(はつせ)し檜原(ひはら)念(おも)ほゆるかも
私訳 仏や神々が宿る三輪山を眺めると、その奥にある隠口の泊瀬にある檜原をも偲ばれます。
注意 飛鳥時代以降の三輪は、大三輪寺を中心とする仏教寺院が立ち並ぶ仏教の聖地です。また、三輪山は神道の聖地でもあります。そこで原文の「三諸就」を解釈しました。


 今回は標準的な解説とは異なる視点で紹介しましたが、歴史や言葉を探るとこのような事柄も現れてきます。このような専門家ではない、素人視線が弊ブログの特徴で酔論の故たるところです。
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万葉雑記 色眼鏡 二一九 今週のみそひと歌を振り返る その三九

2017年06月17日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 二一九 今週のみそひと歌を振り返る その三九

 すみません。今回、取り上げ、遊びます歌は、すでに弊ブログでは何度も取り上げています。ただただ、個人の好みに従い、再び取り上げています。
 歌は柿本朝臣人麻呂歌集に載る歌として紹介されるものです。

集歌1068 天海丹 雲之波立 月船 星之林丹 榜隠所見
訓読 天つ海(み)に雲し波立ち月船し星し林に榜(こ)ぎ隠(かげ)そ見ゆ
私訳 天空の海に雲の波が立ち、上弦の三日月の船が星の林の中で、漕ぎ行き雲の波間に隠れたのを見た。

 昔、弊ブログで次のような酔っぱらいの感想を述べていました。ネット時代の怖さで、世に流れると消すに消せないようで、実に冷や汗ものです。(一部、訂正・追記あり)

 世界に誇る、日本人の感性を示す言葉があります。それが「月船(つきのふね)」です。この「月船」の言葉は月齢七日頃の山の端に沈み逝く月を船に、星々で形作られた闇夜に輝く天の川に懸かる雲を波に見立て、それが渡って行くとした表現です。そして、この言葉は飛鳥浄御原宮晩期から藤原京初期にかけて柿本人麻呂によって作られた日本人独特の感性に基づく言葉です。一見、「月船」の言葉は漢語のようですが、日本人独特の感性に因る為に中国漢詩の世界には現れない宇宙観であり、比喩です。
 確かに漢詩に「月船(又は月舟)」の文字が出て来るものがありますが、晩唐時代に尚顏が「送劉必先」で詠うように人麻呂が詠った「月船」の言葉とは違うものです。また、漢代には「遊月船」と云う言葉はありましたが、詩文の対句構成からしますとその言葉の意味合いとしては「遊月+船」ですので、大和人が愛した「月船」の言葉の意味合いとは違うものです。

 さて、人々が使う言葉にはその言葉を使う人々の生活があります。大陸の風習では第一等の美人を飾り立て、衆人注目の中、その美貌を人々に周知させ、豪奢な輿や車で自分の許に通わすのが男の中の男を象徴する行為です。一方、大和では人知れぬように噂の美人の許を密やかに通うのが第一級の風流子です。
 それが七夕の風習に端的に現れます。大陸ではカササギの羽を重ねた橋を美人が渡り男の許へと通い、大和では男が天の川を「なずみ」して渡り美人の許へと通います。この背景があるがため、七夕の宴で詠われた「月船」の言葉は日本人独特の感性に基づくものなのです。従いまして、中国古典漢詩に『万葉集』に載る「月船」の言葉の由来を求めるのは無理筋です。漢詩の世界では、最大の可能性として、西王母と漢武帝との伝説にもあるように七夕の夜に美人が飛雲に乗る俥で月から地上に降りて来るものなのです。さらに、西洋に目を向けましても三日月を水牛の角と見立てる例が多数派で、それは「月船」と見立てる日本人の感性とは違うものです。

<参考資料 一>
送劉必先(尚顏 全唐詩より)
力進憑詩業、心焦闕問安  力は詩業に進憑し、心は安の問ふを闕くに焦る
遠行無處易、孤立本来難  遠行、易き處無く、孤立、本より来難し
楚月船中没、秦星馬上残  楚の月は船中に没し、秦の星の馬上に残る
明年有公道、更以命推看  明年、公道に有り、更に命を以って推看す

<参考資料 二>
遊月船 : 漢宮遊船名。影娥池中有遊月船、觸月船、鴻毛船、遠見船。載數百人。


 紹介しました集歌1068の歌は柿本朝臣人麻呂歌集に載る歌と記載されるために、訓詁学では無名歌人の歌として扱われ、柿本人麻呂の歌とは認定されていません。他方、現在ではそのような思考停止の行為は取らず、未署名作品の鑑定方法という別の学問分野から、ほぼ、柿本人麻呂の歌と認定されています。
 作歌者問題はどうあれ、この人麻呂が詠う歌の世界は美しく、使う言葉も漢詩のような雰囲気があります。この漢詩のような雰囲気があるために、古く、唐漢詩の影響があるに違いないとされてきましたし、唐と大和との文学界からしても秀逸な歌の世界です。三日月の姿を舟と見立てただけでなく、その舟には七夕祭であれば牽牛が乗り、別な神話では月人壮士が乗るのかもしれません。目の前に見える月の風情ですが、その先には多くの神話が詠われていることに気付く必要があります。
 さらに「星之林」は何を意味するのかという議論があります。ただ、本気になって、昭和時代以前の文学者たちが中国漢詩を調べて「月舟」や「星林」という言葉を探ったかというと疑問です。人麻呂の歌よりも後の時代の漢詩から影響が認められるとの議論は、平成年間では認められません。影響があるとするならば隋以前の漢詩や詩文を示す必要がありますが、さて、そのようなものがあるのでしょうか。また、人麻呂より後の世代の文武天皇の漢詩を例題に取り出す人もいますが、それは本末転倒です。文武天皇の漢詩は人麻呂の影響を受けたものです。
 中国漢詩は人が中心であり、満月が鑑賞の対象です。三日月を中心に据えて、さて、歌を詠ったでしょうか。ただし、天平年間以降では中国漢詩に大和からの自然を鑑賞し歌とする可能性は伝わったようで、大和風のにおいがする作品が見られます。日本の遣唐使の人たちはそのままに唐朝廷の高級官僚の一席を占めるような教養を持ち合わせていましたから、大和から影響があったとしても不自然ではありません。
 いろいろとごたくを並べましたが、人麻呂が詠う集歌1068の歌の世界は大和の人々の感性を代表するものです。当時の人々は月をこのように恋人と鑑賞し、七夕の夜を過ごしていたのです。そして、月の舟は逢瀬という恋人が待つ岸に着き、夜通し愛を確かめることになっています。それが神代からの定めで、人もそれにしたがっていたようです。そうした中、暗闇の中、肩を寄せ合う若い男女に、末句「隠所見」という表現は意味深長です。歌には見方によっては、このような言葉遊びの世界もあります。

 さて、先ほどの「星之林」は、いったい、何を意味するのでしょうか。弊ブログでは昼間の木の葉の間から差し込む木漏れ日のような、夜の天の川のさまを想像していますが、さて、どうでしょうか。それとも、北極星を中心に星が動く軌跡を「線」と見、それの全体形としての林という意味でしょうか。(イメージでは固定カメラで撮った星の軌跡)それとも天の川の直接の比喩でしょうか。
 この「星之林」という言葉は美しいのですが、では、それは何を意味するのかというと、非常に難解な人麻呂の歌の世界です。貴女はどのような世界をイメージしたでしょうか。

 今回は純粋に歌の鑑賞への感覚問題です。酔論ですが、三日月の姿を大きな杯を傾けている様としなかっただけ、まだまだ、酔っ払ってはいないようです。ただ、時にそのように感じた人はいたようです。

五言 詠月 一首
月舟移霧渚 楓楫泛霞濱  月舟 霧(む)渚(しょ)に移り 楓(ふう)楫(しゅう) 霞濱(かひん)に泛(うか)ぶ
臺上澄流耀 酒中沈去輪  臺上 澄み流る耀(かがやき) 酒中 沈み去る輪(りん)
水下斜陰碎 樹落秋光新  水下りて斜陰(しゃいん)に碎け 樹落ちて秋光(しゅうこう)新たなり
獨以星間鏡 還浮雲漢津  獨り星間の鏡と以(な)りて 還た雲漢の津(みなと)に浮かぶ

 酔っ払ったせいか、詩は支離滅裂です。初句は三日月(月舟)を詠い、二句目(輪)と四句目(鏡)は満月を詠います。ところが、締めは三日月(月舟)を思って「還浮雲漢津」です。御付の人が悪いのか、後に創作し名を借りた人が悪いのか、酷いものです。中国漢詩の模倣も良いのですが、模倣するなら満月(輪、鏡)で、日本的な感覚なら三日月(月舟)で統一したほうが・・・ なお、専門家の評論を見ると面白いものがあります。さらに、人麻呂が後年に詠われたはずのこの漢詩を参考としたとするなら、人麻呂があまりにかわいそうです。
 参考に中国の三日月を詠うものに次の歌がありますが、情景は日没寸前の赤く染まる夕日が中心で、その川面に一筋の残影の中、三日月の光は乏しいという感覚です。

暮江吟 白居易
一道残陽鋪水中  一道の残陽 水中に鋪(し)き
半江瑟瑟半江紅  半江は瑟瑟(しつしつ) 半江は紅(くれない)なり。(瑟瑟:さざなみの様)
可憐九月初三夜  憐(あわれ)む 可(べ)し 九月初三の夜
露似眞珠月似弓  露は眞珠の似(ごと)く 月は弓に似たり


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万葉雑記 色眼鏡 二一八 今週のみそひと歌を振り返る その三八

2017年06月10日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 二一八 今週のみそひと歌を振り返る その三八

 今回は次の組歌に遊びます。
 歌は巻六に載るものですが、同じ日の宴会で詠われた歌が巻八にも七首が載せられています。巻六の歌と巻八の歌とでは載せる目的が違うようです。巻八では秋八月二十日に橘諸兄の屋敷で宴会があり、秋をテーマに歌を詠ったとして載せます。一方、その宴会で役務の中上りで上京してきた長門守の巨曽倍對馬が妻の待つ自宅に帰っていないことを、古歌を引用してからかっています。そのような風景の歌です。

秋八月廿日宴右大臣橘家謌四首
標訓 (天平十年)秋八月廿日に、右大臣橘の家(いへ)にて宴(うたげ)せる謌四首
集歌1024 長門有 奥津借嶋 奥真經而 吾念君者 千歳尓母我毛
訓読 長門(ながと)なる奥津借島(かりしま)奥まへに吾(あ)が念(も)ふ君は千歳(ちとせ)にもがも
私訳 (私が管理する)長門の国にある奥まった入り江にある借島のように、心の奥深くに私が尊敬している貴方は、千歳を迎えて欲しいものです。
右一首、長門守巨曽倍對馬朝臣
注訓 右の一首は、長門守巨曽倍對馬朝臣なり

集歌1025 奥真經而 吾乎念流 吾背子者 千歳五百歳 有巨勢奴香聞
訓読 奥まへに吾(あれ)を念(おも)へる吾(あ)が背子は千歳(ちとせ)五百歳(いほとせ)ありこせぬかも
私訳 心の奥深くに私を尊敬してくれている私の貴方が、千年と五百年を迎えてくれないものでしょうか。(ねえ、巨勢部の貴方)
右一首、右大臣和謌
注訓 右の一首は、右大臣の和(こた)へたる謌

集歌1026 百礒城乃 大宮人者 今日毛鴨 暇無跡 里尓不去将有
訓読 ももしきの大宮人は今日もかも暇(いとま)を無(な)みと里に去(ゆ)かずあらむ
私訳 沢山の岩を積み上げて造った大宮に勤める官人は、今日もまた、暇が無いと里に下っていかないのでしょう。
右一首、右大臣傳云、故豊嶋采女謌。
注訓 右の一首は、右大臣の傳へて云はく「故(いにし)への豊嶋采女の謌なり」といへり。

集歌1027 橘 本尓道履 八衢尓 物乎曽念 人尓不所知
訓読 橘し本(もと)に道踏む八衢(やちまた)に物をぞ念(おも)ふ人に知らえず
私訳 橘の木の下にある道の人が踏み通る八つの分かれ道のように、あれこれと物思いにふけることよ。その相手には判ってもらえないのに。
右一首、右大辨高橋安麻呂卿語云 故豊嶋采女之作也。但或本云三方沙弥、戀妻苑臣作歌也。然則、豊嶋采女、當時當所口吟此謌歟。
注訓 右の一首は、右大弁高橋安麻呂卿が語りて云はく「故(いにし)への豊嶋采女の作なり」といへり。但し、或る本に云はく「三方沙弥が、妻の苑臣に恋して作れる歌」といへり。然らば則ち、豊嶋采女、時に当たり所に当たり口吟し此の歌を詠へりか。

 さて、集歌1027の歌に添えられた左注から類推すると、巨曽倍對馬の妻も評判な幼な妻だったかもしれません。その左注に示される三方沙弥の妻である苑臣(そののおみ)(園臣)が詠ったとされるのが次の歌です。この歌からしますと、妻の苑臣はまだ髪も伸びきっていない年頃に婚姻したと考えられます。

三方沙弥娶園臣生羽之女、未經幾時臥病作謌三首
標訓 三方沙弥の園臣生羽の女(むすめ)を娶(ま)きて、いまだ幾(いくばく)の時を経ずして病に臥して作れる歌三首
集歌123 多氣婆奴礼 多香根者長寸 妹之髪 此来不見尓 掻入津良武香  (三方沙弥)
訓読 束(た)けば解(ぬ)れ束(た)かねば長き妹し髪このころ見ぬに掻(か)き入れつらむか
私訳 束ねると解け束ねないと長い、まだとても幼い恋人の髪。このころ見ないのでもう髪も伸び櫛で掻き入れて束ね髪にしただろうか。

集歌124 人皆者 今波長跡 多計登雖言 君之見師髪 乱有等母  (娘子)
訓読 人皆(ひとみな)は今は長しと束(た)けと言へど君し見し髪乱れたりとも
私訳 他の人は、今はもう長いのだからお下げ髪を止めて束ねなさいと云うけれども、貴方が御覧になった髪ですから、乱れたからと云ってまだ束ねはしません。

集歌125 橘之 蔭履路乃 八衢尓 物乎曽念 妹尓不相而  (三方沙弥)
訓読 橘し蔭(かげ)履(ふ)む路の八衢(やちまた)に物をぞ念(おも)ふ妹に逢はずに
私訳 橘の木陰の下の人が踏む分かれ道のように想いが分かれて色々と心配事が心にうかびます。愛しい恋人に逢えなくて。

 作歌された時代からしますと、元明天皇の時代の集歌125の歌が先で聖武天皇の時代と思われる集歌1027の歌が後と思われます。集歌125の歌を詠う三方沙弥は仏名で官人としては山田史三方(御方)の名であったと思われ、その彼は和銅三年から長門国の隣、周防国の国守を務めています。これらから、歌はその時代のものと考えられています。
 最初の集歌1026の歌に戻りますと、巨曽倍對馬は長門国の国守で、三方沙弥は隣の周防国の国守を務めた人です。歴史では山田史三方は養老六年に部下が仕出かした官物盗用事件の監督責任を問われ罰を与えられていますが、天皇特赦により罪を免れています。およそ、官人では記憶に残る事件の当事者です。万葉集に残る歌などから推定して、彼はこの事件以来、公から消え、藤原房前の秘書または相談役のような立場に落ち着いたようです。藤原房前と橘諸兄とは政治的に近い関係があったと思われますから、橘諸兄は山田史三方を直接に知っていた可能性があります。
 ここで山田史三方と三方沙弥とは同一人物としますと、その三方沙弥は幼な妻を詠った歌を詠いましたから、その比較です。そこからの集歌1026の歌です。その集歌1026の歌が大好きであった豊嶋采女からの思い出で、集歌1027の歌へとつながったと思われます。ただ、類型歌の関係からすると宴会に集う人々たちには集歌1027の歌が先にあり、その歌から集歌1026の歌が導き出されたのかもしれません。
 可能性として、原万葉集の編纂の指揮をとったと伝承が残るほどの歌人であった橘諸兄が、「そういえば、豊嶋采女が詠った歌があったねぇ」と、職務の上京だからと妻が待つ自宅に帰らない巨曽倍對馬を集歌1026の歌でからかったのでしょう。それを受けて、高橋安麻呂が、「豊嶋采女といえば、こんな歌がありましたねぇ」と集歌1027の歌を披露したかもしれません。これですと、右大臣橘諸兄と国守を管理する右大弁高橋安麻呂ともに巨曽倍對馬に早く自宅に帰って幼な妻にあってやれと歌で指示していることになります。
 和歌は花鳥の使いとしますが、同時に会話の手段でもあります。公式には公務の上京ですから自宅に帰れとは指示できませんが、暗黙裡に自宅に帰れと指示していることになります。

 今回もまた支離滅裂な話になりました。反省です。
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万葉雑記 色眼鏡 二一七 今週のみそひと歌を振り返る その三七

2017年06月03日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 二一七 今週のみそひと歌を振り返る その三七

 歌の鑑賞に苦しんでいます。
 万葉集もこのあたりに来ますと、和歌という世界が固定化して来て、歌の背景よりも歌が示す世界をそのままに楽しむように成って来ている感があります。

 今回は、言葉遊びを中心に遊んでみます。
 最初に、集歌992の歌は標題と歌が組み合って初めて歌の情景が判るもので、古今和歌集の歌のように詞書と歌とが一体になったものと同じ姿を見せています。もし、集歌992の歌を一字一音の万葉仮名だけで表記しますと、古今和歌集のものと区別するのは難しいと思います。
この歌では「飛鳥」と「明日香」との表記の使い分けがあり、古い郷の地名「あすか」は「飛鳥」と表記し、新造なったその飛鳥から移って来た飛鳥寺を「明日香」という表記で新しさや将来への希望を強く印象付けています。ここに漢字文字の使い分けがありますし、漢字を楽しむ姿があります。その姿があるから「見樂思好裳」という漢文的な漢字文字の選択です。
 雑話ですが、奈良市元興寺付近は奈良遷都に伴って移って来た飛鳥寺に因んで奈良の時代から今日まで「飛鳥」と呼ばれています。奈良市立飛鳥中学校の校名が地名由来を残しています。

大伴坂上郎女詠元興寺之里謌一首
標訓 大伴坂上郎女の元興寺の里を詠ふ謌一首
集歌992 古郷之 飛鳥者雖有 青丹吉 平城之明日香乎 見樂思好裳
訓読 古郷(ふるさと)し飛鳥はあれどあをによし平城(なら)し明日香を見らくしよしも
私訳 旧都の飛鳥に飛鳥寺(=法興寺)は残っているが、その飛鳥寺が青葉美しい奈良の都の明日香に遷ってきて新しい飛鳥寺(=元興寺)として見るのは楽しいことです。

 次に漢字遊びを中心に集歌997の歌に遊びます。この歌は六首が組みになったものの中の一首で、他の歌と組み合わせることでより背景が見えてくるようなものです。特に集歌1001の歌を参照しますと、難波の離宮への行幸に随伴し、祖神拝礼儀式が行われた、その日の夜に宴会が持たれたのであろうと推測されます。宴に集う人々は行幸やその日に見た情景を下に歌を詠ったようです。集歌997の歌はこのような背景を持つ歌です。
 集歌1001の歌からしますと、神事儀礼に参加する官僚群とその儀礼に参加しない女官たちでグループは分かれたようで、官僚たちは儀礼に参加する中で海岸に遊ぶ若い女官たちの姿を遠くから眺めたと思われます。集歌997の歌はその情景からの発展です。歌を鑑賞する人たちには昼間見た、裳裾を手繰り上げ、太ももまで素足をさらした若い女たちの姿があります。その姿があるから「しじみ」という貝の名を示すのに「四時美」ですし、太ももまでは見えたがその先までは見えなかったとして「開藻不見」という表現です。当然、貝に組み合わさる藻には若く柔らかな陰毛という約束事がありますし、貝は女陰の意味合いが隠されています。夜の宴会には相応しいバレ歌です。
 さらに穿ちますが、「戀度南」からしますと住吉神社から海岸は南に開けていますし、「南」の同音字は「男」です。若い女たちがいた場所は南側の日が差し込む海岸でありますし、神事に集う男たちが皆それを眺めた情景もあります。

春三月幸于難波宮之時謌六首
標訓 (天平六年)春三月に、難波宮に幸(いでま)しし時の謌六首
集歌997 住吉乃 粉濱之四時美 開藻不見 隠耳哉 戀度南
訓読 住吉(すみのえ)の粉浜(こはま)ししじみ開けも見ず隠(こも)りてのみや恋ひ渡りなむ
私訳 住吉の粉浜のしじみが固く蓋を閉じ開けるそぶりを見せない、そのように、ただ、貴女は閉じ籠っているだけでしょうか。そんな貴女に恋が募ります。

集歌1001 大夫者 御臈尓立之 未通女等者 赤裳須素引 清濱備乎
訓読 大夫(ますらを)は御臈(みらう)に立たし未通女(をとめ)らは赤裳(あかも)裾引く清(きよ)き浜廻(はまび)を
私訳 立派な殿上人である人達は祖神の法要に参加し、未通女達は目も鮮やかな赤い裳裾を引き上げて清らかな浜辺を歩き行く。
注意 原文の「御臈尓立之」は、一般に「御獮尓立之」と記し「御猟に立たし」と訓みます。

 万葉集は漢語と表語文字である漢字という文字を使い、音を表す万葉仮名だけで表記された歌です。この表記スタイルを尊重しますと、ここで示したように歌に遊ぶことが出来ます。ただし、これは弊ブログだけでの遊びです。正統な鑑賞方法ではありません。
 学業に関係ない大人のバカ話ですし、鑑賞です。学生さんたちは、正統な訓じと解釈に従うことが受験ということで義務付けられていますので、よろしく、お願いします。
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