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竹取翁と万葉集のお勉強

楽しく自由に万葉集を楽しんでいるブログです。
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万葉雑記 色眼鏡 百九二 今週のみそひと歌を振り返る その十二

2016年11月26日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 百九二 今週のみそひと歌を振り返る その十二

 今週は、少し、目先を変えて歌を振り返りたいと思います。漢字交じり平仮名での意訳文を示されると、その文章の上手下手に目が行き、どうしてそのような意訳文になったのかを見過ごす可能性があります。可能性としては、次の歌もそのような歌です。

集歌334 萱草 吾紐二付 香具山乃 故去之里乎 不忘之為
訓読 萱草(わすれくさ)吾が紐に付く香具山の古(ふ)りにし里を忘れむがため
私訳 美しさに物思いを忘れると云うその忘れ草を私は紐に付けよう。懐かしい香具山の古りにし故郷を忘れないようにするために。

 ここでは「萱草」の訓に「わすれくさ」と付けていますし、言葉検索で「萱草」を探すと次のような解説が得られます。

和歌に「忘れ草」と詠まれているのは、ユリ科の萱草かんぞう。藪萱草(ヤブカンゾウ)・野萱草(ノカンゾウ)など幾種類かある。夏、百合に似た橙色の花を咲かせる。英名"daylily"は一日花ゆえ。若葉は美味で食され、根は生薬となる。歌に詠まれたのは花でなくもっぱら草葉である。
「忘れ草わが紐に付く香具山の古りにし里を忘れむがため」
万葉集巻三、大伴旅人。大宰府に在って、故郷への慕情を断ち切りたいとの心情を詠んだ歌。
漢土で「忘憂草」すなわち「憂いを忘れさせる草」と呼ばれたのは、食用とされる若葉に栄養分が多かった故か、あるいは根から採った生薬の効用か。それはともかく、万葉人たちは身につければ恋しさを忘れさせてくれる草として歌に詠んでいる。紐に付けるとは、いわば魂に結びつける擬態だろう。 (和歌歳時記より「忘れ草 萱草(かんぞう/くわんざう)」)


 弊ブログは漢語や漢字から歌を楽しむと云う態度をとりますから、上記に紹介した解説は採用しません。また、「萱草」を「忘れ草」と訓じるのは良いのですが、「歌に詠まれたのは花でなくもっぱら草葉である」という解説は、まったくに賛同できません。万葉集歌の鑑賞では百合に似た橙色の花を咲かせる美しい花であることが大切で、食用などの観点から歌を鑑賞するのは、さて、いかがなものでしょうか。
 漢語・漢字から歌を楽しむ立場からしますと、「萱草」と「忘憂草」との関係を考える必要があります。これも「萱草」と「忘憂草」とを同時に言葉検索しますと、必然、次の「詩經国風 衛風 伯兮」にたどりつきます。奈良時代、平安時代とは違い朝廷はまじめに公務員採用試験を実施し、その成績で職務を割り当て、昇級管理もしていました。その公務員採用試験の試験項目に四書五経が含まれていましたから、この「詩經国風 衛風」は公務員の知るべき教養科目です。建前からしますと、奈良時代の公務員は「萱草」と「忘憂草」との関係は一般教養であったのです。

詩經国風 衛風 伯兮
伯兮喝兮 邦之桀兮 伯の喝(けつ)なるや、邦の桀なり
伯也執殳 爲王前驅 伯は殳(ほこ)を執りて、王の為に前驅す
自伯之東 首如飛蓬 伯の東(とう)してより、首(こうべ)は飛蓬の如し
豈無膏沐 誰適爲容 豈に膏沐も無く、誰を適として容を為(な)さんや
其雨其雨 杲杲出日 其雨(そう)其雨(そう)も、杲杲(こうこう)と日は出づる
願言思伯 甘心首疾 願(つね)に 言(われ) 伯を思はば、甘心 首(こうべ)を疾(なや)ます
焉得諼草 言樹之背 焉(ここ)に諼草が得(あ)らば、言(われ) 之の背に樹(う)ゑむ
願言思伯 使我心病 願(つね)に 言(われ) 伯を思はば、我が心をして病(や)ましむ


 ここで、『説文解字注』では「傳曰、諼、忘也」、「釋文:諼、本又作萱」と解説します。ここから諼草は萱草と略されます。また、南宋の学者である朱熹が著した『詩経集傳』ではこの「伯兮」の解説で「諼草令人忘憂、背北堂也」と言葉の意を解きます。そして、このような背景から「萱草」を「忘憂草」とし、日本では萱草(かやくさ)を忘憂草の別名から忘れ草とも称します。
 また、『説文解字』に「願」と云う言葉に「傳曰、願、毎也」、「言」と云う言葉に「毛傳、言、我也」と云う解説があり、さらに「甘心」には「容易に」と云う意味合いがあります。紹介する漢詩の訳文は一般のものとは違いますが、可能性としてこのように解釈ができるとしてください。
 一方、次のような解説もありますから、この解説から萱草を食用のものとし、「歌に詠まれたのは花でなくもっぱら草葉である」と解説するのかもしれません。ただ、萱草は金針菜の別称を持ち、こちらの別称である金針菜は蕾を食用とし、その形からの名前ですから、認識は草葉ではなく花蕾です。解説では「此草嫩苗為蔬」なのですが、現代では「藼」は何かと云うとよくわからないところが正解かもしれません。なお、文字としては『説文解字』では「藼」が本字、「諼」や「萱」が通字と解説します。

藼、令人忘憂草也。或從宣。藼、古同萱字。古人認為以此草嫩苗為蔬、食之令人昏然如醉、可以使人忘憂、所以又稱為忘憂草、忘憂物。

 さて、朱熹の解説では「萱草令人忘憂」としますから、憂さを忘れさせるものです。一方、集歌334の歌では「不忘之為」と漢字文字で表現します。漢文直訳ですと、「これを忘れないため」となるでしょうか。「不忘」と云う表現ですから、「忘れる」との意味は取れないと考えます。
 すると、不思議な話になります。中国の解説からすると萱草は人の憂さを忘れさせる力を持つ植物ですが、集歌334の歌では「不忘之為」と云う表現のために「忘れないため」の植物と云うことになります。これは、まったくに逆の意味合いになります。なぜでしょうか。

 ここで、「衛風 伯兮」では「焉得諼草 言樹之背 願言思伯 使我心病」と詠い結びます。この「伯兮」では、「萱草は人の憂さを忘れさせる力を持つ植物だからと云って、目に付く場所に植えて世の憂さを忘れるような行いはしない。私は常に戦場に旅立った夫の事を思うとします」、これが本来の意味なのでしょう。他の男の気を引くためにお湯につかり石鹸を使って肌を滑らかにはしないし、化粧もしない。また、髪は梳くことなく乱れたままと詠う夫人が「萱草令人忘憂」の場面を求めたと云うのでは、まったく、歌の解釈が違うでしょう。
 では、こう云うことなのでしょうか。平安時代から明治時代の歌人は集歌334の歌を「萱草令人忘憂」の伝承から解釈し、一方、大伴旅人は「衛風 伯兮」が詠う場面から歌を詠ったのではないでしょうか。そのため、旅人は歌で「故去之里乎 不忘之為」と詠ったのでしょうし、また「言樹之背」に対して「吾紐二付」と表現したと考えます。「萱草令人忘憂」から「萱草」の力にすがれば憂さを忘れるかもしれないが、しかし、その美しい萱草の花を身の傍に置いたとしても、「私は決して忘れない」と云うことだと思います。これにより、大伴旅人が詠う集歌334の歌と「衛風 伯兮」とが同じ方向を向くのではないでしょうか。

 今回、紹介しました弊ブログの集歌334の歌の解釈も「衛風 伯兮」の解釈と試訓は、一般のものからすると、全くに誤訳となるものです。解釈の方向が180度、違います。弊ブログの解釈とはそのような与太話であることを御了解下さい。

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万葉雑記 色眼鏡 百九一 今週のみそひと歌を振り返る その十一

2016年11月19日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 百九一 今週のみそひと歌を振り返る その十一

 今週は旅の歌が中心の週でした。そこで、地名と歌とに話題性のあるものを振り返りの材料としたいと思います。それが集歌285と集歌286の歌、二首一組です。なぜ、この歌二首かというと、歌に勢能山という地名が詠い込められており、これが歌のテーマとなっていますし、他の歌への影響もあるからなのです。
 さて、話題としています勢能山は和歌山県かつらぎ町内の紀ノ川に面してそそり立つ山で、現在は背ノ山と呼び名が変わっています。また、後年に対岸の山を妹山と名付けています。古く、飛鳥・奈良時代はこの勢能山から上流側が畿内、下流側が紀伊国と行政区分されており、畿内と諸国との重要な関所でした。
 雑学ですが、日本書紀の大化二年正月に出された大化の改新の詔の中に「凡畿内東自名墾横河以来。南自紀伊兄山以来。〈兄。此云制。〉西自赤石櫛淵以来。北自近江狭々波合坂山以来。為畿内国」と云う一節があり、この詔で畿内と云う概念が生まれました。しかしながら、制度ではこの「兄=制の山」から紀ノ川を降ると畿外ですから、本格的な官の許可が必要な「旅」の始まりということになります。
 歌はその畿内から畿外へと旅立つときの歌と理解して下さい。

丹比真人笠麿徃紀伊國超勢能山時作謌一首
標訓 丹比真人笠麿の紀伊國に徃きて勢能(せの)山(やま)を超(こ)へし時に作れる謌一首
集歌285 栲領巾乃 懸巻欲寸 妹名乎 此勢能山尓 懸者奈何将有
訓読 栲(たく)領巾(ひれ)の懸(か)けまく欲(ほ)しき妹し名をこの背の山に懸(か)けばいかにあらむ
私訳 神威から振るとその身を引き寄せると云う白い栲の領巾を、肩に掛けるように心に懸けるほどに知りたい貴女の名前を、この愛しい貴女と云うような「背の山」の名に懸けたら、貴女はどのようにしますか。

春日蔵首老即和謌一首
標訓 春日蔵(かすがのくらの)首(おびと)老(おゆ)の即ち和(こた)へたる謌一首
集歌286 宜奈倍 吾背乃君之 負来尓之 此勢能山乎 妹者不喚
訓読 宜(よろ)しなへ吾が背の君し負(お)ひ来(き)にしこの背の山を妹とは呼ばじ
私訳 昔から「背山=私の愛しい貴方」との名を背負って来た、この「背の山」を「妹背山=愛しい貴女」とは呼びません。

 この歌二首は雑歌問答の歌ですが、これだけですと分かりづらいのではないでしょうか。実は、この歌は柿本人麻呂が詠う歌を引き歌にして詠われた歌ですので、この歌を鑑賞する人はその人麻呂の歌を承知している必要があります。

集歌1247 大穴道 少御神 作 妹勢能山 見吉
訓読 大汝(おほなむち)少御神(すくなみかみ)し作らしし妹背(いもせ)の山を見らくしよしも
私訳 大汝と少御神との神が作られた妹背の山は見るとりっぱなことです。

 紹介はしましたが、一方、引き歌の先となるこの集歌1247の歌もまた解説が必要な歌です。この歌の背景が判らないと、歌の解釈と「妹勢能山」の理解に混乱が生ずるかもしれません。
 この紹介した集歌1247の歌は大穴牟遲神と少名毘古那神の二神を詠いますが、歌の舞台は出雲や播州ではありません。歌の舞台は奈良県吉野郡吉野町上市の旧伊勢街道と旧東熊野街道の分岐点となる妹山にある大名持神社近辺です。およそ、この付近は神功皇后や応神天皇に所縁の吉野離宮の地と比定される場所ですし、人麻呂が詠う持統天皇の吉野離宮や秋津野に当たります。つまり、この歌は人麻呂が吉野離宮への行幸に随行したときの歌と云うことになります。それも、漢詩体のスタイルで歌を詠いますから、時代として相当に早い時期と推定されます。推定で持統天皇三年八月ごろでしょうか。なお、現在、妹山の吉野川対岸の山を背山と呼びますが、いつからかは定かではありません。
 およそ、奈良時代の歌をたしなむ人々は柿本人麻呂の歌をよく知っていますから、集歌285の歌での「行幸」と云う場面と「勢能山」と云う漢字表記から、すぐに人麻呂が詠う集歌1247の歌を思い浮かべたということになります。それで紀伊との国境の「勢能山」は、似てはいるが吉野の秋津野の「妹勢能山」と違うと詠った訳なのです。

 研究者によりますと秋津野の「妹勢能山」の対岸の山を今は「背山」と称しますが、古代、そのようには呼ばなかったとようだとしますし、国境の「勢能山」の対岸の山を今は「妹山」と称しますが、これも古代ではそのように呼ばなかったのではないかとします。つまり、万葉集にこの「勢能山」が詠われ、そこから「妹兄(いもせ)」は対であるからと「妹山」と「兄山=背山」が作られ、「妹勢能山」に対して後に「背山」が生まれ、同じように「勢能山」に対して「妹山」が生まれたとします。

 なお、神亀元年の紀伊行幸の折に詠われた集歌544の歌に「木國乃 妹背乃山」とすでに詠われていますから、持統天皇四年の紀伊行幸に詠われた集歌286の歌からそれほど時代を下らない内に「勢能山」の対岸の山を「妹勢能山=妹背乃山」と称するようになったと思われます。

神亀元年の歌
集歌544 後居而 戀乍不有者 木國乃 妹背乃山尓 有益物乎
訓読 後れ居に恋ひつつあらずは紀伊(き)し国の妹背(いもせ)の山にあらましものを
私訳 後に残されて一人で貴方を恋い慕っていないで、紀伊の国にある妹背の山の名に因んだ貴方に愛される妹背でありたいものです。

藤原卿の歌、時代不詳
集歌1195 麻衣 著者夏樫 木國之 妹背之山二 麻蒔吾妹
試訓 麻衣(あさころも)着ればなつかし紀(き)し国し妹(いも)背(せ)し山に朝巻く吾妹(わぎも)
試訳 麻の衣を着ると偲ばれる、紀の国の妹背の山で、麻を蒔く、その言葉の響きではありませんが、朝まで巻く=夜を共にした私の愛しい貴女。
注意 原文の「麻蒔吾妹」は、一般には「麻蒔く吾妹」とままに訓みます。


 一般に、古今和歌集の時代から和歌の作歌技法は高度化すると云いますが、ところがところが、今回紹介しましたように先行する歌を知らないと理解できないとか、別な場所の地名と眺めている場所の地名で遊んでいるとか、色々な遊びが既に万葉集の歌に現れてきます。
 思っているよりも飛鳥・奈良時代の歌人の歌心は複雑です。
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万葉雑記 色眼鏡 百九〇 今週のみそひと歌を振り返る その十

2016年11月12日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 百九〇 今週のみそひと歌を振り返る その十

 今週は、各種、バラエティ豊かな歌々を鑑賞しました。最初に柿本人麻呂の明石方面を詠う覊旅歌八首に始まり、八釣山の雪模様を見、また、宇治川に漂う水泡に人の生き死にを感じました。また、高市黒人が詠う覊旅歌八首に紀伊、伊勢、近江などの風景を眺めました。
 今秋を振り返るものとして、ここではその高市黒人が詠う覊旅歌八首を取り上げたいと思います。復習のため、標題を付けて歌を再掲致します。

高市連黒人覊旅謌八首
標訓 高市連黒人の覊旅(たび)の謌八首
集歌270 客為而 物戀敷尓 山下 赤乃曽呆舡 奥榜所見  (呆はネ+呆の当字)
訓読 旅にして物恋しきに山下(やました)し赤(あけ)のそほ船沖へ榜ぐ見ゆ
私訳 旅路にあって物恋しいときに、山の裾野に赤丹に塗った官の船が沖に向って帆走していくのを見た。
注意 原文の「赤乃曽呆舡」は、一般には「赤乃曽保船」と表記します。

集歌271 櫻田部 鶴鳴渡 年魚市方 塩干二家良之 鶴鳴渡
訓読 桜田部(さくらたへ)鶴(たづ)鳴き渡る年魚市(あゆち)潟(かた)潮干(しほひ)にけらし鶴(たづ)鳴き渡る
私訳 桜田辺り、鶴が鳴き飛び渡る年魚市の干潟は潮が引いたらしい。鶴が鳴き飛び渡る。

集歌272 四極山 打越見者 笠縫之 嶋榜隠 棚無小舟
訓読 四極山(しはつやま)うち越え見れば笠縫(かさぬひ)し島榜(こ)ぎ隠(かく)る棚なし小舟
私訳 四極山のその山を苦労して越えて眺めると、笠縫にある嶋を帆走して嶋にその姿を隠す、側舷もない小さな舟よ。

集歌273 礒前 榜手廻行者 近江海 八十之湊尓 鵠佐波二鳴 (未詳)
訓読 磯し前(さき)榜(こ)ぎ廻(た)み行けば近江(あふみ)海(うみ)八十(やそ)し湊(みなと)に鶴(たづ)さはに鳴く (未だ詳(つばび)らかならず)
私訳 磯の岬を帆走して回り行くと、近江の海にある数多くの湊に鶴がしきりに鳴く。

集歌274 吾船者 枚乃湖尓 榜将泊 奥部莫避 左夜深去来
訓読 吾が船は比良(ひら)の湖(みなと)に榜(こ)ぎ泊(は)てむ沖へな避(さか)りさ夜更けにけり
私訳 私が乗る船は比良の湊に榜ぎ行き泊まろう。沖には決して離れて行くな。夜も更けたことです。

集歌275 何處 吾将宿 高嶋乃 勝野原尓 此日暮去者
訓読 いづくにか吾し宿(やど)らむ高島の勝野(かちの)し原にこの日暮(く)れなば
私訳 どこに今夜は私は宿を取りましょう。高嶋の勝野の野原で、この日が暮れてしまったら。

集歌276 妹母我母 一有加母 三河有 二見自道 別不勝鶴
訓読 妹もかもひとりなるかも三河なる二見(ふたみ)し道ゆ別れかねつる
私訳 一夜妻も私と同じように一人なのだろうか、そう思うと、この三河の昨夜の宿の辺りを振り返って見る道から別れ去りかねている。
一本云 水河乃 二見之自道 別者 吾勢毛吾文 獨可文将去
一本(あるほん)に曰はく、
訓読 三河(みかは)の二見(ふたみ)し道ゆ別れなば吾背も吾も一人かも行かむ
私訳 三河にある再び会うと云うその二見の道で別れたならば、私の愛しい貴女も私も独りだけでこれらかを生きて行くのでしょう。

集歌277 速来而母 見手益物乎 山背 高槻村 散去奚留鴨
訓読 速(はや)来ても見てましものを山背(やましろ)し高(たか)し槻群(つきむら)散りにけるかも
私訳 何が無くても早くやって来ても眺めましたものを、山城の背の高い槻の群落の黄葉は散ってしまったようです。


 まず、最初に作品を詠った高市黒人を紹介しますと、一般には次のように紹介される人物です。

 持統・文武朝頃の歌人。伝不詳。高市氏は県主(あがたぬし)氏族の一つで、古来大和国高市県(今の奈良県高市郡・橿原市の一部)を管掌した。大宝元年(701)の太上天皇吉野宮行幸、同二年の参河国行幸に従駕して歌を詠む。すべての歌が旅先での作と思われる。下級の地方官人であったとみる説が有力。万葉集に十八首収められた作は、すべて短歌である。

 なお、幣ブログでは、「雑記七六 高市黒人を鑑賞する」で次のように補足して紹介しています。

 高市黒人は「連(むらじ)」と云う氏族の階級を示す「姓(かばね)」を保持します。この「連」と云う姓を持つ高市連は『新撰姓氏録』に従うと天津日子根命の子孫を称する天孫系氏族の一つで、その出身は大和国高市県(今の奈良県高市郡から橿原市の一部)を管掌した高市県主です。その「県主」の姓は、天武天皇の定めた「八色の姓」の制度により、その嫡流だけに天武天皇十二年(683)になって「連」と云う階級を示す「姓」が賜与されています。つまり、これらの史実から高市黒人は高市県主の直系の子孫となります。
 さらに、天武天皇朝の左大臣、持統天皇朝の太政大臣を務めた高市皇子の養育を担当する「壬生」をその「高市皇子」なる呼称から高市県主が務めたと推定されます。およそ、高市黒人は天武・持統天皇朝では高市皇子との深い関係があったと想像することは許されるでしょう。これは、柿本人麻呂が高市皇子へ壮大な挽歌を捧げた姿から人麻呂と高市皇子との深い関係が想像されるとき、高市皇子を通じて高市黒人と人麻呂とは何らかの交流があったと推定することが許されるのと同等です。

 さて、紹介しました覊旅謌八首では、次のように地名や地形を詠います。

集歌270 赤乃曽呆舡 奥榜所見 不明(伊勢方面?)
集歌271 櫻田部 鶴鳴渡 年魚市方 尾張国
集歌272 四極山 打越見者 笠縫之 嶋榜隠 河内国
集歌273 礒前 榜手廻行者 近江海 八十之湊尓 近江国
集歌274 枚乃湖尓 榜将泊 近江国
集歌275 高嶋乃 勝野原尓 近江国
集歌276 三河有 二見自道 三河国
集歌277 山背 高槻村 山背国

 ここで歌に詠われている地名と黒人の生きた時代を想像しますと、黒人は朝廷に仕える官人としますと、地方に出向くのは役務でなくてはいけません。私人として官人が自由に畿外へ旅ができる時代ではありません。つまり、歌が詠われた公的背景があると推定されるのです。
 一方、古くからその地名について多くの提案がなされてきた覊旅謌八首に載る集歌272の歌で詠われる「四極山」は、御幸の一行が大船で三河へ直航したとしますと、当時の大船の港である大伴御津に関係するであろうと想像することが可能となります。およそ、賀茂真淵は四極山について摂津説(大阪市住吉区)を唱え、歌で詠われる笠縫島は摂津国笠縫邑(現在の大阪市東成区深江)とします。つまり、歌の順とは違いますが、難波、伊勢、尾張、三河、近江(北淡海と南淡海)、山背の国々が詠われていることになります。
 これらの歌が一度の旅で詠われたとしますと、有力なものが推定されます。それが、大宝二年の持統太上天皇の三河国への御幸の時に詠われたものであろうとの推定です。この時の御幸の工程は行宮を伊賀・伊勢・美濃・尾張・三河の五国に造営し、往きは船で三河に直接に至り、帰りは尾張・美濃・伊勢・伊賀と陸路を辿っています。美濃の行宮から伊勢の行宮までには五日を要していますから、この時、不破関を越え北近江の地を訪れた可能性があります。さらに伊勢からの帰京において、伊賀行宮からは御幸の一行とは別行動を取り、何らかの理由で旧大津宮を訪れてから帰京した可能性も否定できません。
 このように旅程や旅の動機を想像しますと、こうした時、『万葉集』巻九に「右、柿本朝臣人麻呂之謌集出」との左注に集合される可能性を持つ、高市謌一首との標題を持つ集歌1718の歌があります。詠う地名が近江国高島であり、作歌者に高市の名を持ちますから、時にこの歌は高市黒人のもので、それも大宝二年の持統太上天皇の三河国への御幸の時に詠われたものであるかもしれません。

高市謌一首
標訓 高市(たけち)の歌一首
集歌1718 足利思伐 榜行舟薄 高嶋之 足速之水門尓 極尓濫鴨
訓読 率(あとも)ひて榜(こ)ぎ行く舟は高島(たかしま)し阿渡(あと)し水門(みなと)に泊(は)てるらむかも
私訳 船人を率いて帆を操り行く舟は、高島の阿渡の湊に停泊するのでしょうか。

 このように想像に遊びますと、壬申の乱の折、高市郡大領であった高市県主許梅に事代主神が神降りし、神託を下していますから、神道に仕える一族と推定されます。およそ、高市黒人は朝廷で神道に関わる役職を執り、行幸などでは土地鎮めや地神祀りの行事を担当する立場であったと思われます。そのような人物で歌が達者であったために、今日まで高市黒人の歌が伝わったのではないでしょうか。宮廷歌人と云う立場ではなく、朝廷に務める役人の教養としての和歌作歌能力が高かったと思うのが良いと思います。
 もう少し、
 高市黒人は柿本人麻呂とは同年代人と思われますが、壬申の乱の当事者ではなかったようです。年少で戦いには参加しなかったのではないでしょうか。ただ、人麻呂と黒人とは交流があったのではないかと思われる節や持統太上天皇の行幸随伴などからしますと、大きく年が離れた関係ではないのではないでしょうか。壬申の乱のとき、14歳程度としますと斉明天皇四年(658)頃の生まれで、人麻呂とは十歳の年下、高市皇子とは5歳の年下と云う関係になります。話題としています持統太上天皇の三河国への行幸は大宝二年(702)ですから、この酔論では黒人44歳の出来事になります。年齢的に行幸の場で中心的に歌を披露しても不思議ではありません。主典を執る神祇大史は正八位という微官ではありますが、神事執行では実務を取り仕切る立場でもあります。

 紹介したものは単に黒人が詠う覊旅謌八首ではありますが、歌からはこのような酔論が展開できることになります。かように万葉集の歌の鑑賞は面白い世界です。
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万葉雑記 色眼鏡 百八九 今週のみそひと歌を振り返る その九

2016年11月05日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 百八九 今週のみそひと歌を振り返る その九

 万葉集巻二を閉める歌として、「霊龜元年歳次乙卯秋九月、志貴親王夢時作謌一首并短謌」という標題を持つ歌群が置かれています。おさらいではありませんが、その歌群での短歌を紹介します。

集歌231 高圓之 野邊乃秋芽子 徒 開香将散 見人無尓
訓読 高円(たかまと)し野辺(のへ)の秋萩いたづらに咲きか散るらむ見る人無みに
私訳 高円の野辺の秋萩は、ただ、無用に咲いて散っているだろう。それを眺める人も無いままに。

集歌232 御笠山 野邊徃道者 己伎大雲 繁荒有可 久尓有勿國
訓読 三笠山(みかさやま)野辺(のへ)往(い)く道はこきだくも繁く荒れたるか久(ひさ)にあらなくに
私訳 三笠山の野辺を通って行く道は、こんなに草が茂り荒れてしまったのか。あの御方が亡くなって幾らも経っていないのに。

集歌233 高圓之 野邊乃秋芽子 勿散祢 君之形見尓 見管思奴播武
訓読 高円(たかまと)し野辺の秋萩な散りそね君し形見に見つつ思(しの)はむ
私訳 高円の野辺の秋萩よ、花は散らさないでくれ。あの御方の形見と見做して御偲びしましょう。

集歌234 三笠山 野邊従遊久道 己伎太久母 荒尓計類鴨 久尓有名國
訓読 三笠山(みかさやま)野辺(のへ)ゆ行(ゆ)く道こきだくも荒れにけるかも久(ひさ)にあらなくに
私訳 三笠山の野辺を通って行く道は、こんなに荒れてしまった。あの御方が亡くなって幾らも経っていないのに。

 取り上げました志貴親王は巻八の巻頭に置かれた次の歌で代表される万葉集を代表する歌人でもあります。

志貴皇子懽御謌一首
標訓 志貴皇子の懽(よろこび)の御歌一首
集歌1418 石激 垂見之上乃 左和良妣乃 毛要出春尓 成来鴨
訓読 石(いは)激(たぎ)し垂水(たるみ)し上のさわらびの萌よ出づる春になりにけるかも
私訳 滝の岩の上をはじけ降る垂水の上に緑鮮やかな若いワラビが萌え出る春になったようです。
注意 原文の「石激」は、一般に「いははしる」と訓みます。滝の水の弾け飛ぶ景色が違います。そこが奈良の歌人と平安貴族の感覚の差です。

 このように志貴親王は巻二を閉め、また巻八を開くという万葉集編纂では重要な位置にある人物であることが分かります。
 そうした時、巻二十に次のような標題「依興各思高圓離宮處作謌五首」を持つ歌群五首があります。これらの歌々を巻二に載る挽歌群と比較すると、巻二十の歌々は志貴親王をテーマに歌を詠っていると推定されるのではないでしょうか。

依興各思高圓離宮處作謌五首
標訓 興に依りて各(おのがじし)高円の離宮(とつみや)処(ところ)を思(しの)ひて作れる歌五首
集歌4506 多加麻刀能 努乃宇倍能美也波 安礼尓家里 多々志々伎美能 美与等保曽氣婆
訓読 高円(たかまと)の野の上の宮は荒れにけり立たしし君の御代(みよ)遠そけば
私訳 高円の野の高台にある宮の屋敷は荒れてしまったようだ。屋敷を建てられた皇子の生前の時代は遠くなったので。
右一首、右中辨大伴宿祢家持

集歌4507 多加麻刀能 乎能宇倍乃美也波 安礼奴等母 多々志々伎美能 美奈和須礼米也
訓読 高円(たかまと)の峰の上の宮は荒れぬとも立たしし君の御名忘れめや
私訳 高円の高台にある宮の屋敷は荒れ果てたとしても皇子のお名前は忘れるでしょうか。
右一首、治部少輔大原今城真人

集歌4508 多可麻刀能 努敝波布久受乃 須恵都比尓 知与尓和須礼牟 和我於保伎美加母
訓読 高円(たかまと)の野辺延ふ葛(くず)の末つひに千代に忘れむ我が王(おほきみ)かも
私訳 高円の野辺に生える葛の蔓が長く延びるように千代の後に忘れられるような我が王の御名でしょうか。
右一首、主人中臣清麿朝臣

集歌4509 波布久受能 多要受之努波牟 於保吉美乃 賣之思野邊尓波 之米由布倍之母
訓読 延ふ葛(くず)の絶えず偲はむ王(おほきみ)の見しし野辺には標(しめ)結ふべしも
私訳 野辺に延びる葛の蔓が絶えないように御偲びする王が眺められた高円の野辺に農民に荒らされないように禁制の標を結ぶべきでしょう。
右一首、右中辨大伴宿祢家持

集歌4510 於保吉美乃 都藝弖賣須良之 多加麻刀能 努敝美流其等尓 祢能未之奈加由
訓読 王(おほきみ)の継ぎて見すらし高円(たかまと)の野辺見るごとに哭(ね)のみし泣かゆ
私訳 葬られた場所から王が今も見ていられるでしょう。高円の野辺を見るたびに亡くなられたことを怨みながら泣けてしまう。
右一首、大蔵大輔甘南備伊香真人

 今回は素材を提供致しました。なお、一般の解説では巻二十の歌は「ムササビの歌」の関係性を鑑み、聖武天皇をテーマにしているのではないかとの評論があります。ただし、万葉集全体を眺めた時、さて、聖武天皇への挽歌的な歌でしょうか。疑問です。
 他方、巻二十のものが志貴親王の歌うものでしたら、逆に、なぜ、後期天平年間から天平勝宝年間ごろにこのような歌が詠われたのでしょうか。この疑問を突き詰めていきますと、万葉集編纂の舞台裏が見えて来るのではないでしょうか。

 思わせぶりですみません。

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