万葉雑記 色眼鏡 その卅三 万葉解説本を推薦する
今回は本の推薦をさせて下さい。
書家であり、京都精華大学の教授でもある石川九楊氏が上梓された本に「万葉仮名でよむ『万葉集』(岩波書店)」というものがあります。これは2009年に岩波市民セミナーで行われた氏の講演の内容を加筆・改稿を経て編纂された本で、初版は2011年8月です。従いまして、万葉集の鑑賞態度を述べた解説書としては比較的に新しいものです。
まず、お金の話を先にしますと、定価ですと税引き2600円と非常に高価な本ですし、アマゾンなどを使っても古本が2400円ほどもします。古本が送料を考慮すると新刊と同じ金額になると云うことは、逆にそれほど人気があると云うことでもあります。ただ、日給月給で生きるために生きている人間にとっては辛いものがありますが、それでも何かを節約してでも読みたい思わせる本です。ですから、一度は手に取って読まれることを推薦する次第です。
次に著書された背景を推測しますと、石川九楊氏のホームグランドは書家です、国文学者ではありません。氏、その書家の立場から、かな文字の歴史を辿り、古今和歌集の「高野切」へ到り、そして、さらに書の歴史を辿って「万葉集」へと至られたようです。本は、その書家の視線から万葉集は漢字歌であることを、改めて、認識されています。ただし、書家と云うベースがあるがゆえに国文学を研究する人々には遠慮なく厳しい意見を述べられています。そこが魅力です。
例えば、古今和歌集の歌を紹介するについても、
「古今和歌集」の冒頭の歌は、たいがいの本では、
年の内に 春は来にけり ひととせを 去年(こぞ)とやいはん 今年(ことし)とはいはん
と、これまた漢字仮名交りで書かれている。・・・中略・・・
近代初頭、正岡子規はこの歌をひいて、古今和歌集が万葉集に較べていかにつまらないかと説いた。それが、日本の近代短歌よ俳句の表現領域を切り拓いたが、この論もまた、いずれも漢字仮名交り歌として比較した結果であり、・・・中略・・・
もうひとつは通称「高野切」という名の「古今和歌集」の写本。オール女手(平仮名)、濁点なしで、「としのうちに はるはきにけり ひととせを こそとやいはむ ことしとはいはむ」と書かれている。(6頁)
と、このように述べられています。まず、国文学を研究する人々が「万葉集」は漢字がずらりと並んだ歌であり、「古今和歌集」が女手(平仮名)をずらりと並べた歌であると云うことへの認識を改めて問うています。その比較を通じ、氏は、万葉集の歌を紹介するのにあたって漢字仮名交りで書かれたものをもって歌を紹介し、さらにそれを使って万葉歌を研究する人々の態度を問うています。ここがこの本の出発点であり、論点の総括です。
石川九楊氏は書家です。現代に残された万葉集の歌や古今和歌集の歌を記した書から、当時に書写した人々の息使いや鑑賞態度を感じ取り、そこからの理解と現代の国文学での研究成果との対比を行っています。
本で氏は、
文字はすべてこの書の姿を具えている。一点一画を書いていく力の入れ方、抜き方、そういう、力とベクトルからなる触覚が一つの筆画を形成する。そしてその筆画が文字を構成する。この書字の力とベクトルに支えられることによってはじめて、文学というもの―歌や詩や文―ができてくる。文字以前の書字の帯域(書字の微粒子的律動、起・送・終筆・点画、部首、偏旁、筆順等)をないがしろにする。そういう文化が、漢字で書かれていた「万葉集」を、勝手に漢字仮名交りに変え、平仮名で書かれていた「古今和歌集」を漢字仮名交りに変える。(15頁)
と主張されています。
ブログを開き、そのブログで独り特異な主張をしていたと思っていた者として、非常に頼もしい石川九楊氏の主張です。また、氏は万葉集歌において「初期万葉の歌と後期万葉歌とでは、意味優位と音優位というベクトルを異にしている。漢詩のごとき漢字歌から仮名歌、つまり和歌が作られていったのである」(124頁)と述べられています。
しかしながら素人がこのブログで述べているような「万葉集は漢語と万葉仮名だけで表記された歌である」や「万葉集は表記を楽しみ、古今和歌集以降は調べを楽しむ歌である」と同等な主張では、当然、著書としてお金が頂ける訳ではありません。石川九楊氏はここからさらに、「日本語は、漢字・漢語の流入以前に前もってあったのではなく、圧倒的に高い水圧を持つところの漢字・漢語との衝突の中から次第に作られていったという事実である。孤島に地方語はあった。バラバラであったにせよ、地方語はあった。それが漢字・漢語にのしかかられ、ぶつかり、整理され、そして一緒になってできたのが日本語」(125頁)と主張されています。ここが、非常に感心させられる点です。古事記や日本書紀に載る歌謡や和歌の多くは文武天皇から元明天皇の時代に集録校訂された雰囲気がありますから、その場合、氏が唱える主張からすると日本語は近江朝から飛鳥御浄原朝に出来たと云うことになりそうです。時に、人麻呂歌集が日本語誕生のきっかけの位置にあるのかもしれません。
さらに石川九楊氏は、次のように主張されています。
「万葉集」がなぜ「懐風藻」と違う形になっているかといえば、中国語圏に収まりきらなかったからである。それは最初から違っていたというよりも、次第にその違いが醸成されていったのである。無文字の孤島原地語とは比較にならない、圧倒的な語彙数をもち、緻密な表現が可能な漢詩・漢文体で大方は表現できる。しかしそこから漏れ落ちる、どうしてもそうではない形で言いたいことが芽生え、育ち、やがて万葉歌として育っていった。(128頁)
万葉集の歌は大きく分けて、雑歌、挽歌、相聞の部立に区分されます。中国の詩経に習えば地方地方の民風民情を詠う「風」、王者為政の盛事を讃える「雅」、祖先の盛徳功業を讃え神霊に告げる宗廟祭祀の「頌」で部立されます。万葉集と比較すると、雑歌が詩経での「風」と「雅」を合わせたようなところに位置し、挽歌が「頌」に似た場所にあります。しかしながら、相聞は万葉集独特な場所に位置し、また、それは古今和歌集以降に部立された「恋歌」とも違います。そうした時、石川九楊氏が先に主張された場所に戻ります。それは、「どうしてもそうではない形で言いたいことが芽生え、育ち、やがて万葉歌として育っていった」です。漢字文化圏の周辺に位置する朝鮮、林邑(ベトナム)、日本の国々の中で、どうして、日本だけがいち早く、平仮名と漢字を使った日本語と云う国語が誕生したのか? その理由が男女の相聞歌にあるのかもしれません。
例えば、宋から隋時代、遊郭の女性が詠ったとされる呉声歌曲の中に次のような漢詩があります。中国文学の中ではこのような呉声歌曲とか、子夜曲と称されるものが日本の和歌の恋歌に一番近いものと思われます。(ズルして、昔のブログから引っ張りました)
六国時代の宋・斉の呉声歌曲「華山畿」より
夜相思 風吹窗廉動 言是所歓來
訓読 夜に相思ひ 風は吹きて窓の廉を動かし 言う 是れ所歓(恋人のこと)の来たれるかと
意訳 夜、貴方の事を思うと、風が吹いて窓に掛かるカーテンを揺らす。私は言います。きっと、これは貴方がやって来る予兆だと。
ここで、思い浮かべて下さい。万葉集の原文は漢語と万葉仮名と云う漢字だけで表記された歌です。また、紫式部日記などの記事で判るように平安中期までの宮中女房と称される女性たちは漢文・漢詩の素養は十二分にありました。つまり、呉声歌曲のような漢詩文での恋文を送られても、奈良時代から平安時代の女性たちは十分にそれを理解することは可能でしたし、本人が無理でもそのような漢詩文の恋文を貰うような女性であれば、身の周りの付き人が解説やそれなりの対応をしてくれるでしょう。従いまして、言葉と云う場において収めようとすれば恋文もまた、他の中華周辺諸国と同様に中国語圏の中に収められたと思われます。
ところが、日本だけが違っていたようです。男女が互いに相手を想う気持ちを可能な限りに表現をしようと思ったようです。そこで日本語の単語を表すのに漢字の音を借り、それで不足なら音を借りた漢字が持つその表語性の特性をも使ったようです。それが万葉集の相聞の世界であり、さらに平仮名が生まれた理由なのかもしれません。
この本を読み進めると日本語が誕生する必然性やその過程が万葉集に示されていることが十分に理解することが出来ます。その説明仮定での石川九楊氏の繰り広げられる考察は実に鋭いと思います。
しかしながら本を読み通した時、最後まで二つの疑問が残りました。一つは平仮名の進化過程です。平仮名は楷書体の真仮名から草書体へ、そして、変体仮名の草仮名体へと速度感覚での進化と考えていますが、氏は「平仮名体は平安中後期に完成した。もし、速度感覚がベースにあるなら、もっと、進化をしても良いではないか。現在の平仮名が平安期から変化がないのなら、平安時代からの時代の長さを考えれば速度感覚が平仮名誕生の理由ではない」と考えられています。この点について素人ではありますが感覚的に納得がいきません。現在の五十一音字の平仮名表記について、音を表す文字について認識性と速度性を兼ね揃えた“文字シンボル”が日本全国の人々が納得する形であれば変化が生じ、それが進化として認識されると思います。逆に人々がその必要性を認めなければ、そこで変化は足踏みをするはずです。この視点があっても良いのではと考えます。生物進化でも地球の歴史で急激に変化する激動の時代とほぼ進化が停滞する時代とがあるようです。それと同じようにあるところまで文字のシンボル化の進化が進めばそれ以降は停滞をしても不思議ではありませんし、その停滞を理由に劇的に進化した理由を否定することは出来ないのではないでしょうか。例としてオスメスのシンボルである♂や♀を、これ以上にシンプル化した時、視認性の問題が生じるのではないでしょうか。
疑問の第二点目は、日本語の進化でなぜ漢字平仮名交りに落ち着いたかです。戦後すぐに日本語ローマ字表記論なるのもが提案されました。一種、日本語の表記を全て平仮名だけで表記する提案と同じですが、横文字であるローマ字表記と云うところが敗戦・占領下という時代性があります。同じアイデアがハングルです。つまり、音字だけで自国の国語を表す方式です。先に紹介した古今和歌集の「高野切」での全て真仮名を使った三十一文字での表記と同じです。ある時代まではすべて音字だけで国語を表現しようとする動きはありました。しかし、平安末期までには日本語の国語表記は漢字平仮名交りに落ち着いています。個人の感想ですが、それは書写したものを誤読なく読み易くする方向への進化の結果ではないでしょうか。
例を上げますと、次に示す古今和歌集二番歌は、本来、真仮名文字で詠われた歌を草書連綿体で記されていたと推定されています。それも句読点を打つことや一固まりの言葉どうしの間に空白を明けることもしません。また、一定の文字数で改行はしますが、その改行に言葉の繋がり関係を考慮することをしないのが一般でした。
曽天悲知弖武春比之美川乃己保礼留遠波留可太遣不乃可世也止久良武 (真仮名文字)
そてひちてむすひしみつのこほれるをはるかたけふのかせやとくらむ (平仮名)
袖ひぢてむすびし水のこほれるを春立つけふの風やとくらむ (藤原定家自筆伊達家本より)
どうでしょうか、真仮名文字を平仮名化して草書連綿で記述されたものより、藤原定家自筆伊達家本のように要所要所に漢字を入れて貰うと読み易く、歌の感覚も掴めると思います。現在、日本語を漢字平仮名交りで表記するスタイルは、この藤原定家の親切心が起点と考えています。
ただし、古今集の歌や万葉集の歌を本格的に鑑賞したいと思う時には、これは有難迷惑な親切心です。そこには常に定家の解釈が付き纏いますので、万葉集や古今和歌集の歌の鑑賞と云いながら、新古今調に翻訳された翻訳歌の鑑賞だけになる可能性があります。それで、石川九楊氏が万葉集は漢字だらけで表現された歌であり、古今和歌集は平仮名だけで表現された歌ではないかと指摘されるところです。
やはり、漢字平仮名交りの表記は日本語の進化だと思います。それは認めるべきであります。当然、現代の流行りのテキスト論からすれば、現在の大方の万葉集の研究は過去の万葉集研究史の中へと納められるべきもので、世に流通させるべきものではありません。論語の現代語訳をもって論語研究と唱えることが出来ないように、万葉集の藤原定家訳をもって万葉集研究と唱えることが出来ないのは明白です。その区分は石川九楊氏が著したこの「万葉仮名でよむ『万葉集』(岩波書店)」では明確です。
ここで紹介した個人的な二つの疑問点を除くと、この「万葉仮名でよむ『万葉集』(岩波書店)」は実に有意義な本です。万葉集に親しんでいられる御方には、是非、御手に取って読んで頂きたい本だと思っています。
後感として、石川九楊氏は古今和歌集が奉呈されてから百年ほど経った時代に書写されたと思われる「高野切」から書道家の目で、その原文で使われたであろう変体仮名文字を復元されています。楷書の万葉仮名、草書や草仮名の変体仮名、連綿平仮名の進化の歴史を考える時、氏が思うほど紀貫之の古今和歌集が平仮名であったかどうかは、疑問と思います。
また、いつもの「之」や「而」の訓みの話題に戻りました。反省する次第です。
今回は本の推薦をさせて下さい。
書家であり、京都精華大学の教授でもある石川九楊氏が上梓された本に「万葉仮名でよむ『万葉集』(岩波書店)」というものがあります。これは2009年に岩波市民セミナーで行われた氏の講演の内容を加筆・改稿を経て編纂された本で、初版は2011年8月です。従いまして、万葉集の鑑賞態度を述べた解説書としては比較的に新しいものです。
まず、お金の話を先にしますと、定価ですと税引き2600円と非常に高価な本ですし、アマゾンなどを使っても古本が2400円ほどもします。古本が送料を考慮すると新刊と同じ金額になると云うことは、逆にそれほど人気があると云うことでもあります。ただ、日給月給で生きるために生きている人間にとっては辛いものがありますが、それでも何かを節約してでも読みたい思わせる本です。ですから、一度は手に取って読まれることを推薦する次第です。
次に著書された背景を推測しますと、石川九楊氏のホームグランドは書家です、国文学者ではありません。氏、その書家の立場から、かな文字の歴史を辿り、古今和歌集の「高野切」へ到り、そして、さらに書の歴史を辿って「万葉集」へと至られたようです。本は、その書家の視線から万葉集は漢字歌であることを、改めて、認識されています。ただし、書家と云うベースがあるがゆえに国文学を研究する人々には遠慮なく厳しい意見を述べられています。そこが魅力です。
例えば、古今和歌集の歌を紹介するについても、
「古今和歌集」の冒頭の歌は、たいがいの本では、
年の内に 春は来にけり ひととせを 去年(こぞ)とやいはん 今年(ことし)とはいはん
と、これまた漢字仮名交りで書かれている。・・・中略・・・
近代初頭、正岡子規はこの歌をひいて、古今和歌集が万葉集に較べていかにつまらないかと説いた。それが、日本の近代短歌よ俳句の表現領域を切り拓いたが、この論もまた、いずれも漢字仮名交り歌として比較した結果であり、・・・中略・・・
もうひとつは通称「高野切」という名の「古今和歌集」の写本。オール女手(平仮名)、濁点なしで、「としのうちに はるはきにけり ひととせを こそとやいはむ ことしとはいはむ」と書かれている。(6頁)
と、このように述べられています。まず、国文学を研究する人々が「万葉集」は漢字がずらりと並んだ歌であり、「古今和歌集」が女手(平仮名)をずらりと並べた歌であると云うことへの認識を改めて問うています。その比較を通じ、氏は、万葉集の歌を紹介するのにあたって漢字仮名交りで書かれたものをもって歌を紹介し、さらにそれを使って万葉歌を研究する人々の態度を問うています。ここがこの本の出発点であり、論点の総括です。
石川九楊氏は書家です。現代に残された万葉集の歌や古今和歌集の歌を記した書から、当時に書写した人々の息使いや鑑賞態度を感じ取り、そこからの理解と現代の国文学での研究成果との対比を行っています。
本で氏は、
文字はすべてこの書の姿を具えている。一点一画を書いていく力の入れ方、抜き方、そういう、力とベクトルからなる触覚が一つの筆画を形成する。そしてその筆画が文字を構成する。この書字の力とベクトルに支えられることによってはじめて、文学というもの―歌や詩や文―ができてくる。文字以前の書字の帯域(書字の微粒子的律動、起・送・終筆・点画、部首、偏旁、筆順等)をないがしろにする。そういう文化が、漢字で書かれていた「万葉集」を、勝手に漢字仮名交りに変え、平仮名で書かれていた「古今和歌集」を漢字仮名交りに変える。(15頁)
と主張されています。
ブログを開き、そのブログで独り特異な主張をしていたと思っていた者として、非常に頼もしい石川九楊氏の主張です。また、氏は万葉集歌において「初期万葉の歌と後期万葉歌とでは、意味優位と音優位というベクトルを異にしている。漢詩のごとき漢字歌から仮名歌、つまり和歌が作られていったのである」(124頁)と述べられています。
しかしながら素人がこのブログで述べているような「万葉集は漢語と万葉仮名だけで表記された歌である」や「万葉集は表記を楽しみ、古今和歌集以降は調べを楽しむ歌である」と同等な主張では、当然、著書としてお金が頂ける訳ではありません。石川九楊氏はここからさらに、「日本語は、漢字・漢語の流入以前に前もってあったのではなく、圧倒的に高い水圧を持つところの漢字・漢語との衝突の中から次第に作られていったという事実である。孤島に地方語はあった。バラバラであったにせよ、地方語はあった。それが漢字・漢語にのしかかられ、ぶつかり、整理され、そして一緒になってできたのが日本語」(125頁)と主張されています。ここが、非常に感心させられる点です。古事記や日本書紀に載る歌謡や和歌の多くは文武天皇から元明天皇の時代に集録校訂された雰囲気がありますから、その場合、氏が唱える主張からすると日本語は近江朝から飛鳥御浄原朝に出来たと云うことになりそうです。時に、人麻呂歌集が日本語誕生のきっかけの位置にあるのかもしれません。
さらに石川九楊氏は、次のように主張されています。
「万葉集」がなぜ「懐風藻」と違う形になっているかといえば、中国語圏に収まりきらなかったからである。それは最初から違っていたというよりも、次第にその違いが醸成されていったのである。無文字の孤島原地語とは比較にならない、圧倒的な語彙数をもち、緻密な表現が可能な漢詩・漢文体で大方は表現できる。しかしそこから漏れ落ちる、どうしてもそうではない形で言いたいことが芽生え、育ち、やがて万葉歌として育っていった。(128頁)
万葉集の歌は大きく分けて、雑歌、挽歌、相聞の部立に区分されます。中国の詩経に習えば地方地方の民風民情を詠う「風」、王者為政の盛事を讃える「雅」、祖先の盛徳功業を讃え神霊に告げる宗廟祭祀の「頌」で部立されます。万葉集と比較すると、雑歌が詩経での「風」と「雅」を合わせたようなところに位置し、挽歌が「頌」に似た場所にあります。しかしながら、相聞は万葉集独特な場所に位置し、また、それは古今和歌集以降に部立された「恋歌」とも違います。そうした時、石川九楊氏が先に主張された場所に戻ります。それは、「どうしてもそうではない形で言いたいことが芽生え、育ち、やがて万葉歌として育っていった」です。漢字文化圏の周辺に位置する朝鮮、林邑(ベトナム)、日本の国々の中で、どうして、日本だけがいち早く、平仮名と漢字を使った日本語と云う国語が誕生したのか? その理由が男女の相聞歌にあるのかもしれません。
例えば、宋から隋時代、遊郭の女性が詠ったとされる呉声歌曲の中に次のような漢詩があります。中国文学の中ではこのような呉声歌曲とか、子夜曲と称されるものが日本の和歌の恋歌に一番近いものと思われます。(ズルして、昔のブログから引っ張りました)
六国時代の宋・斉の呉声歌曲「華山畿」より
夜相思 風吹窗廉動 言是所歓來
訓読 夜に相思ひ 風は吹きて窓の廉を動かし 言う 是れ所歓(恋人のこと)の来たれるかと
意訳 夜、貴方の事を思うと、風が吹いて窓に掛かるカーテンを揺らす。私は言います。きっと、これは貴方がやって来る予兆だと。
ここで、思い浮かべて下さい。万葉集の原文は漢語と万葉仮名と云う漢字だけで表記された歌です。また、紫式部日記などの記事で判るように平安中期までの宮中女房と称される女性たちは漢文・漢詩の素養は十二分にありました。つまり、呉声歌曲のような漢詩文での恋文を送られても、奈良時代から平安時代の女性たちは十分にそれを理解することは可能でしたし、本人が無理でもそのような漢詩文の恋文を貰うような女性であれば、身の周りの付き人が解説やそれなりの対応をしてくれるでしょう。従いまして、言葉と云う場において収めようとすれば恋文もまた、他の中華周辺諸国と同様に中国語圏の中に収められたと思われます。
ところが、日本だけが違っていたようです。男女が互いに相手を想う気持ちを可能な限りに表現をしようと思ったようです。そこで日本語の単語を表すのに漢字の音を借り、それで不足なら音を借りた漢字が持つその表語性の特性をも使ったようです。それが万葉集の相聞の世界であり、さらに平仮名が生まれた理由なのかもしれません。
この本を読み進めると日本語が誕生する必然性やその過程が万葉集に示されていることが十分に理解することが出来ます。その説明仮定での石川九楊氏の繰り広げられる考察は実に鋭いと思います。
しかしながら本を読み通した時、最後まで二つの疑問が残りました。一つは平仮名の進化過程です。平仮名は楷書体の真仮名から草書体へ、そして、変体仮名の草仮名体へと速度感覚での進化と考えていますが、氏は「平仮名体は平安中後期に完成した。もし、速度感覚がベースにあるなら、もっと、進化をしても良いではないか。現在の平仮名が平安期から変化がないのなら、平安時代からの時代の長さを考えれば速度感覚が平仮名誕生の理由ではない」と考えられています。この点について素人ではありますが感覚的に納得がいきません。現在の五十一音字の平仮名表記について、音を表す文字について認識性と速度性を兼ね揃えた“文字シンボル”が日本全国の人々が納得する形であれば変化が生じ、それが進化として認識されると思います。逆に人々がその必要性を認めなければ、そこで変化は足踏みをするはずです。この視点があっても良いのではと考えます。生物進化でも地球の歴史で急激に変化する激動の時代とほぼ進化が停滞する時代とがあるようです。それと同じようにあるところまで文字のシンボル化の進化が進めばそれ以降は停滞をしても不思議ではありませんし、その停滞を理由に劇的に進化した理由を否定することは出来ないのではないでしょうか。例としてオスメスのシンボルである♂や♀を、これ以上にシンプル化した時、視認性の問題が生じるのではないでしょうか。
疑問の第二点目は、日本語の進化でなぜ漢字平仮名交りに落ち着いたかです。戦後すぐに日本語ローマ字表記論なるのもが提案されました。一種、日本語の表記を全て平仮名だけで表記する提案と同じですが、横文字であるローマ字表記と云うところが敗戦・占領下という時代性があります。同じアイデアがハングルです。つまり、音字だけで自国の国語を表す方式です。先に紹介した古今和歌集の「高野切」での全て真仮名を使った三十一文字での表記と同じです。ある時代まではすべて音字だけで国語を表現しようとする動きはありました。しかし、平安末期までには日本語の国語表記は漢字平仮名交りに落ち着いています。個人の感想ですが、それは書写したものを誤読なく読み易くする方向への進化の結果ではないでしょうか。
例を上げますと、次に示す古今和歌集二番歌は、本来、真仮名文字で詠われた歌を草書連綿体で記されていたと推定されています。それも句読点を打つことや一固まりの言葉どうしの間に空白を明けることもしません。また、一定の文字数で改行はしますが、その改行に言葉の繋がり関係を考慮することをしないのが一般でした。
曽天悲知弖武春比之美川乃己保礼留遠波留可太遣不乃可世也止久良武 (真仮名文字)
そてひちてむすひしみつのこほれるをはるかたけふのかせやとくらむ (平仮名)
袖ひぢてむすびし水のこほれるを春立つけふの風やとくらむ (藤原定家自筆伊達家本より)
どうでしょうか、真仮名文字を平仮名化して草書連綿で記述されたものより、藤原定家自筆伊達家本のように要所要所に漢字を入れて貰うと読み易く、歌の感覚も掴めると思います。現在、日本語を漢字平仮名交りで表記するスタイルは、この藤原定家の親切心が起点と考えています。
ただし、古今集の歌や万葉集の歌を本格的に鑑賞したいと思う時には、これは有難迷惑な親切心です。そこには常に定家の解釈が付き纏いますので、万葉集や古今和歌集の歌の鑑賞と云いながら、新古今調に翻訳された翻訳歌の鑑賞だけになる可能性があります。それで、石川九楊氏が万葉集は漢字だらけで表現された歌であり、古今和歌集は平仮名だけで表現された歌ではないかと指摘されるところです。
やはり、漢字平仮名交りの表記は日本語の進化だと思います。それは認めるべきであります。当然、現代の流行りのテキスト論からすれば、現在の大方の万葉集の研究は過去の万葉集研究史の中へと納められるべきもので、世に流通させるべきものではありません。論語の現代語訳をもって論語研究と唱えることが出来ないように、万葉集の藤原定家訳をもって万葉集研究と唱えることが出来ないのは明白です。その区分は石川九楊氏が著したこの「万葉仮名でよむ『万葉集』(岩波書店)」では明確です。
ここで紹介した個人的な二つの疑問点を除くと、この「万葉仮名でよむ『万葉集』(岩波書店)」は実に有意義な本です。万葉集に親しんでいられる御方には、是非、御手に取って読んで頂きたい本だと思っています。
後感として、石川九楊氏は古今和歌集が奉呈されてから百年ほど経った時代に書写されたと思われる「高野切」から書道家の目で、その原文で使われたであろう変体仮名文字を復元されています。楷書の万葉仮名、草書や草仮名の変体仮名、連綿平仮名の進化の歴史を考える時、氏が思うほど紀貫之の古今和歌集が平仮名であったかどうかは、疑問と思います。
また、いつもの「之」や「而」の訓みの話題に戻りました。反省する次第です。