竹取翁と万葉集のお勉強

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万葉雑記 色眼鏡 その卅三 万葉解説本を推薦する

2013年06月29日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 その卅三 万葉解説本を推薦する

 今回は本の推薦をさせて下さい。
 書家であり、京都精華大学の教授でもある石川九楊氏が上梓された本に「万葉仮名でよむ『万葉集』(岩波書店)」というものがあります。これは2009年に岩波市民セミナーで行われた氏の講演の内容を加筆・改稿を経て編纂された本で、初版は2011年8月です。従いまして、万葉集の鑑賞態度を述べた解説書としては比較的に新しいものです。
 まず、お金の話を先にしますと、定価ですと税引き2600円と非常に高価な本ですし、アマゾンなどを使っても古本が2400円ほどもします。古本が送料を考慮すると新刊と同じ金額になると云うことは、逆にそれほど人気があると云うことでもあります。ただ、日給月給で生きるために生きている人間にとっては辛いものがありますが、それでも何かを節約してでも読みたい思わせる本です。ですから、一度は手に取って読まれることを推薦する次第です。
 次に著書された背景を推測しますと、石川九楊氏のホームグランドは書家です、国文学者ではありません。氏、その書家の立場から、かな文字の歴史を辿り、古今和歌集の「高野切」へ到り、そして、さらに書の歴史を辿って「万葉集」へと至られたようです。本は、その書家の視線から万葉集は漢字歌であることを、改めて、認識されています。ただし、書家と云うベースがあるがゆえに国文学を研究する人々には遠慮なく厳しい意見を述べられています。そこが魅力です。
 例えば、古今和歌集の歌を紹介するについても、

「古今和歌集」の冒頭の歌は、たいがいの本では、
年の内に 春は来にけり ひととせを 去年(こぞ)とやいはん 今年(ことし)とはいはん
と、これまた漢字仮名交りで書かれている。・・・中略・・・
近代初頭、正岡子規はこの歌をひいて、古今和歌集が万葉集に較べていかにつまらないかと説いた。それが、日本の近代短歌よ俳句の表現領域を切り拓いたが、この論もまた、いずれも漢字仮名交り歌として比較した結果であり、・・・中略・・・
もうひとつは通称「高野切」という名の「古今和歌集」の写本。オール女手(平仮名)、濁点なしで、「としのうちに はるはきにけり ひととせを こそとやいはむ ことしとはいはむ」と書かれている。(6頁)

と、このように述べられています。まず、国文学を研究する人々が「万葉集」は漢字がずらりと並んだ歌であり、「古今和歌集」が女手(平仮名)をずらりと並べた歌であると云うことへの認識を改めて問うています。その比較を通じ、氏は、万葉集の歌を紹介するのにあたって漢字仮名交りで書かれたものをもって歌を紹介し、さらにそれを使って万葉歌を研究する人々の態度を問うています。ここがこの本の出発点であり、論点の総括です。
 石川九楊氏は書家です。現代に残された万葉集の歌や古今和歌集の歌を記した書から、当時に書写した人々の息使いや鑑賞態度を感じ取り、そこからの理解と現代の国文学での研究成果との対比を行っています。
 本で氏は、

文字はすべてこの書の姿を具えている。一点一画を書いていく力の入れ方、抜き方、そういう、力とベクトルからなる触覚が一つの筆画を形成する。そしてその筆画が文字を構成する。この書字の力とベクトルに支えられることによってはじめて、文学というもの―歌や詩や文―ができてくる。文字以前の書字の帯域(書字の微粒子的律動、起・送・終筆・点画、部首、偏旁、筆順等)をないがしろにする。そういう文化が、漢字で書かれていた「万葉集」を、勝手に漢字仮名交りに変え、平仮名で書かれていた「古今和歌集」を漢字仮名交りに変える。(15頁)

と主張されています。
 ブログを開き、そのブログで独り特異な主張をしていたと思っていた者として、非常に頼もしい石川九楊氏の主張です。また、氏は万葉集歌において「初期万葉の歌と後期万葉歌とでは、意味優位と音優位というベクトルを異にしている。漢詩のごとき漢字歌から仮名歌、つまり和歌が作られていったのである」(124頁)と述べられています。
 しかしながら素人がこのブログで述べているような「万葉集は漢語と万葉仮名だけで表記された歌である」や「万葉集は表記を楽しみ、古今和歌集以降は調べを楽しむ歌である」と同等な主張では、当然、著書としてお金が頂ける訳ではありません。石川九楊氏はここからさらに、「日本語は、漢字・漢語の流入以前に前もってあったのではなく、圧倒的に高い水圧を持つところの漢字・漢語との衝突の中から次第に作られていったという事実である。孤島に地方語はあった。バラバラであったにせよ、地方語はあった。それが漢字・漢語にのしかかられ、ぶつかり、整理され、そして一緒になってできたのが日本語」(125頁)と主張されています。ここが、非常に感心させられる点です。古事記や日本書紀に載る歌謡や和歌の多くは文武天皇から元明天皇の時代に集録校訂された雰囲気がありますから、その場合、氏が唱える主張からすると日本語は近江朝から飛鳥御浄原朝に出来たと云うことになりそうです。時に、人麻呂歌集が日本語誕生のきっかけの位置にあるのかもしれません。
 さらに石川九楊氏は、次のように主張されています。

「万葉集」がなぜ「懐風藻」と違う形になっているかといえば、中国語圏に収まりきらなかったからである。それは最初から違っていたというよりも、次第にその違いが醸成されていったのである。無文字の孤島原地語とは比較にならない、圧倒的な語彙数をもち、緻密な表現が可能な漢詩・漢文体で大方は表現できる。しかしそこから漏れ落ちる、どうしてもそうではない形で言いたいことが芽生え、育ち、やがて万葉歌として育っていった。(128頁)

 万葉集の歌は大きく分けて、雑歌、挽歌、相聞の部立に区分されます。中国の詩経に習えば地方地方の民風民情を詠う「風」、王者為政の盛事を讃える「雅」、祖先の盛徳功業を讃え神霊に告げる宗廟祭祀の「頌」で部立されます。万葉集と比較すると、雑歌が詩経での「風」と「雅」を合わせたようなところに位置し、挽歌が「頌」に似た場所にあります。しかしながら、相聞は万葉集独特な場所に位置し、また、それは古今和歌集以降に部立された「恋歌」とも違います。そうした時、石川九楊氏が先に主張された場所に戻ります。それは、「どうしてもそうではない形で言いたいことが芽生え、育ち、やがて万葉歌として育っていった」です。漢字文化圏の周辺に位置する朝鮮、林邑(ベトナム)、日本の国々の中で、どうして、日本だけがいち早く、平仮名と漢字を使った日本語と云う国語が誕生したのか? その理由が男女の相聞歌にあるのかもしれません。
 例えば、宋から隋時代、遊郭の女性が詠ったとされる呉声歌曲の中に次のような漢詩があります。中国文学の中ではこのような呉声歌曲とか、子夜曲と称されるものが日本の和歌の恋歌に一番近いものと思われます。(ズルして、昔のブログから引っ張りました)

六国時代の宋・斉の呉声歌曲「華山畿」より
夜相思 風吹窗廉動 言是所歓來
訓読 夜に相思ひ 風は吹きて窓の廉を動かし 言う 是れ所歓(恋人のこと)の来たれるかと
意訳 夜、貴方の事を思うと、風が吹いて窓に掛かるカーテンを揺らす。私は言います。きっと、これは貴方がやって来る予兆だと。

 ここで、思い浮かべて下さい。万葉集の原文は漢語と万葉仮名と云う漢字だけで表記された歌です。また、紫式部日記などの記事で判るように平安中期までの宮中女房と称される女性たちは漢文・漢詩の素養は十二分にありました。つまり、呉声歌曲のような漢詩文での恋文を送られても、奈良時代から平安時代の女性たちは十分にそれを理解することは可能でしたし、本人が無理でもそのような漢詩文の恋文を貰うような女性であれば、身の周りの付き人が解説やそれなりの対応をしてくれるでしょう。従いまして、言葉と云う場において収めようとすれば恋文もまた、他の中華周辺諸国と同様に中国語圏の中に収められたと思われます。
 ところが、日本だけが違っていたようです。男女が互いに相手を想う気持ちを可能な限りに表現をしようと思ったようです。そこで日本語の単語を表すのに漢字の音を借り、それで不足なら音を借りた漢字が持つその表語性の特性をも使ったようです。それが万葉集の相聞の世界であり、さらに平仮名が生まれた理由なのかもしれません。
 この本を読み進めると日本語が誕生する必然性やその過程が万葉集に示されていることが十分に理解することが出来ます。その説明仮定での石川九楊氏の繰り広げられる考察は実に鋭いと思います。
しかしながら本を読み通した時、最後まで二つの疑問が残りました。一つは平仮名の進化過程です。平仮名は楷書体の真仮名から草書体へ、そして、変体仮名の草仮名体へと速度感覚での進化と考えていますが、氏は「平仮名体は平安中後期に完成した。もし、速度感覚がベースにあるなら、もっと、進化をしても良いではないか。現在の平仮名が平安期から変化がないのなら、平安時代からの時代の長さを考えれば速度感覚が平仮名誕生の理由ではない」と考えられています。この点について素人ではありますが感覚的に納得がいきません。現在の五十一音字の平仮名表記について、音を表す文字について認識性と速度性を兼ね揃えた“文字シンボル”が日本全国の人々が納得する形であれば変化が生じ、それが進化として認識されると思います。逆に人々がその必要性を認めなければ、そこで変化は足踏みをするはずです。この視点があっても良いのではと考えます。生物進化でも地球の歴史で急激に変化する激動の時代とほぼ進化が停滞する時代とがあるようです。それと同じようにあるところまで文字のシンボル化の進化が進めばそれ以降は停滞をしても不思議ではありませんし、その停滞を理由に劇的に進化した理由を否定することは出来ないのではないでしょうか。例としてオスメスのシンボルである♂や♀を、これ以上にシンプル化した時、視認性の問題が生じるのではないでしょうか。
 疑問の第二点目は、日本語の進化でなぜ漢字平仮名交りに落ち着いたかです。戦後すぐに日本語ローマ字表記論なるのもが提案されました。一種、日本語の表記を全て平仮名だけで表記する提案と同じですが、横文字であるローマ字表記と云うところが敗戦・占領下という時代性があります。同じアイデアがハングルです。つまり、音字だけで自国の国語を表す方式です。先に紹介した古今和歌集の「高野切」での全て真仮名を使った三十一文字での表記と同じです。ある時代まではすべて音字だけで国語を表現しようとする動きはありました。しかし、平安末期までには日本語の国語表記は漢字平仮名交りに落ち着いています。個人の感想ですが、それは書写したものを誤読なく読み易くする方向への進化の結果ではないでしょうか。
 例を上げますと、次に示す古今和歌集二番歌は、本来、真仮名文字で詠われた歌を草書連綿体で記されていたと推定されています。それも句読点を打つことや一固まりの言葉どうしの間に空白を明けることもしません。また、一定の文字数で改行はしますが、その改行に言葉の繋がり関係を考慮することをしないのが一般でした。

曽天悲知弖武春比之美川乃己保礼留遠波留可太遣不乃可世也止久良武 (真仮名文字)
そてひちてむすひしみつのこほれるをはるかたけふのかせやとくらむ (平仮名)
袖ひぢてむすびし水のこほれるを春立つけふの風やとくらむ (藤原定家自筆伊達家本より)

 どうでしょうか、真仮名文字を平仮名化して草書連綿で記述されたものより、藤原定家自筆伊達家本のように要所要所に漢字を入れて貰うと読み易く、歌の感覚も掴めると思います。現在、日本語を漢字平仮名交りで表記するスタイルは、この藤原定家の親切心が起点と考えています。
 ただし、古今集の歌や万葉集の歌を本格的に鑑賞したいと思う時には、これは有難迷惑な親切心です。そこには常に定家の解釈が付き纏いますので、万葉集や古今和歌集の歌の鑑賞と云いながら、新古今調に翻訳された翻訳歌の鑑賞だけになる可能性があります。それで、石川九楊氏が万葉集は漢字だらけで表現された歌であり、古今和歌集は平仮名だけで表現された歌ではないかと指摘されるところです。
 やはり、漢字平仮名交りの表記は日本語の進化だと思います。それは認めるべきであります。当然、現代の流行りのテキスト論からすれば、現在の大方の万葉集の研究は過去の万葉集研究史の中へと納められるべきもので、世に流通させるべきものではありません。論語の現代語訳をもって論語研究と唱えることが出来ないように、万葉集の藤原定家訳をもって万葉集研究と唱えることが出来ないのは明白です。その区分は石川九楊氏が著したこの「万葉仮名でよむ『万葉集』(岩波書店)」では明確です。
 ここで紹介した個人的な二つの疑問点を除くと、この「万葉仮名でよむ『万葉集』(岩波書店)」は実に有意義な本です。万葉集に親しんでいられる御方には、是非、御手に取って読んで頂きたい本だと思っています。

 後感として、石川九楊氏は古今和歌集が奉呈されてから百年ほど経った時代に書写されたと思われる「高野切」から書道家の目で、その原文で使われたであろう変体仮名文字を復元されています。楷書の万葉仮名、草書や草仮名の変体仮名、連綿平仮名の進化の歴史を考える時、氏が思うほど紀貫之の古今和歌集が平仮名であったかどうかは、疑問と思います。
 また、いつもの「之」や「而」の訓みの話題に戻りました。反省する次第です。
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万葉雑記 色眼鏡 その卅二 相聞歌の相違を楽しむ

2013年06月22日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 その卅二 相聞歌の相違を楽しむ

 前回はおおらかな性と云う側面から万葉集の歌を楽しみました。男女の愛の歌は万葉集ではおおむね相聞と云うジャンルに含まれ、その分量は万葉集歌全四五〇〇首余りの内、一七五〇首ほどの比率を占めます。
 さて、その恋歌を扱う相聞の部において贈歌とその反歌との二首組み合わせを相聞応答歌と区分しますと、万葉集では四二組八五首(一部、三首の組や長短歌の組もあり)を見ることが出来ます。一方、古今和歌集では恋歌の区分の中、八組の相聞応答の恋歌を見ることが出来ます。この八組十六首がどれほどかというと、古今和歌集で恋歌に分類される歌が三六〇首ほどですので、だいたい、万葉集と古今和歌集では同じ比率となるでしょうか。
 ここでは、恋の相聞応答の歌と云うジャンルに視線を当て、そのジャンルから男女の恋の歌を楽しみたいと思います。そこで、最初に古今和歌集での相聞応答の恋歌を紹介したいと思います。なお、その現代語訳はインターネットHP「古今和歌集散歩」のものを参照させて頂いています。

歌番476 みすもあらす みもせぬひとを こひしくは あやなくけふや なかめくらさむ
訳文 見ないわけでもなく、見たともいえない人を恋しいから、どうしようもなく今日は物思いにふけてっているのかなあ。
歌番477 しるしらぬ なにかあやなく わきていはむ おもひのみこそ しるへなりけり
訳文 知っているか知らないかをどうして筋もないような区別を仰るんですか。ただ、あなたの恋の思いだけが、人と人とを逢わせてくれる案内役なんですわ。

歌番556 つゝめとも そてにたまらぬ しらたまは ひとをみぬめの なみたなりけり
訳文 隠そうとして包むのだが袖に溜まらずにこぼれてしまう白玉は、あなたにお逢いできない私の目からこぼれる涙なんですね。
歌番557 おろかなる なみたそそてに たまはなす われはせきあへす たきつせなれは
訳文 いい加減に聞いている人の涙は、袖に水玉となって落ちるんだわ。私は、導師さまのお話しに感動して、涙を堰き止めることができないわ。だって、激流のような瀬なんですから。

歌番645 きみやこし わかやゆきけん おもほへす ゐめかうつつか ねてかさめてか
訳文 あなたが訪ねてきてくれたのかしら、私があなたの所へいったのかしら。分からないわ。昨夜のこと、夢だったのかしら、現実だったのかしら。寝ていたのかしら、それとも、覚めていたのかしら。分からないわ。
歌番646 かきくらす こころのやみに まとひにき ゆめうつゝとは よひとさためよ
訳文 思い乱れるその心の闇に私も迷ってしまい、分かりません。夢であるのか現実であるのか情交を結んだあなたが決めて。

歌番654 おもふとち ひとりひとりか こひしなは たれによそへて ふしころもきむ
訳文 好き合っている二人ですが、もしも、どちらか一人が恋死ぬようなことになったなら、誰のためと言って喪服の藤衣を着るのですか。着ることなんてできません。
歌番655 なきこふる なみたにそての そほちなは ぬきかへかてら よるこそはきめ
訳文 あなたの死を悲しみ、泣き恋う涙で袖が濡れたなら、私は、人目につかぬ夜、藤衣に着換えましょう。
注意 「ふしころも」は訳文では「藤衣」と解釈し、葬送で着る粗末な衣装を意味します。ただし、歌が万葉集歌413の句「藤服 間遠にしあれば いまだ着なれず」を引用しているのであれば、歌意は大きく変わります。歌は疎遠になった女への言い訳と、その女からの返しになります。

歌番706 おほぬさの ひくてあまたに なりぬれは おもへとえこそ たのまさりけれ
訳文 大幣のようにあなたを誘う女が多くなってしまったから、私、あなたのことを思っているけど、頼りにはなりませんわ。
歌番707 おほぬさと なにこそたてれ なかれても つひによるせは ありてふものを
訳文 大幣のようだと評判が立ってしまった。しかし、大幣が流れていっても、流れる着く浅瀬はあるというものですよ。結局、あなたのところに寄り付きますよ。
注意 この歌に宇治市にある県神社で行われる大幣神事の祭礼の風景が背後にあるとすると、季節の特定が可能になります。

歌番736 たのめこし ことのはいまは かへしてむ わかみふるれは おきところなし
訳文 頼りに思わせてくれた言葉のいっぱい詰まったお手紙を今はお返ししますわ。だって、あなたに忘れられてお婆ちゃんになってしまったんですから。
歌番737 いまはとて かへすことのは ひろひおきて をのかものから かたみとやみむ
訳文 今は、もうこれでお終いと送り返してくれた手紙、その言の葉を拾っておいて、私自身のものですが、あなたの形見と思っていようかしら。

歌番782 いまはとて わかみしくれに ふりぬれは ことのはさへに うつろひにけり
訳文 今はもうこれでお終いとお思いになって、時雨が降って木の葉が色変わるように古くなった私に、あなたのお言葉さえ変わってしまったんだわ。
歌番783 ひとをもふ こころこのはに あらはこそ かせのまにまに ちりもみだれめ
訳文 あなたを思う私の心が木の葉のようなものであるなら、風が吹くに任せてあちこちへと散り乱れもしましょう。(私の心は、あなただけのもの。)

歌番784 あまくもの よそにもひとの なりゆくか さすかにめには みゆるものから
訳文 空の雲のように、遠くよそよそしくなってしまうんですね。でも、そうはいっても、あなたのお姿、毎日、拝見していながらなんですが。
歌番785 ゆきかへり そらにのみして ふることは わかゐるやまの かせはやみなり
訳文 雲さんが山を離れて行ったり来たりして、空にばかりいることは、自分のいるべき山の風が強いからなんですよ。(私が行ったり来たりしながらあなたの家を離れているのはね、あなたの態度がきついからなんですよ。)

 ご存じのように古今和歌集の歌は基本的に声に出して歌を詠う歌です。掛け詞や本歌取りとか、色々な技法が使われていますから、意訳の取り方は非常に複雑になっています。そのため、そのおよその意訳を掴んだ上で、歌の調べを楽しむのが良いようです。例として歌番646の歌「かきくらすこころのやみにまとひにき」の「かきくらす」を「貴女を欠いて暮らす」と取るか、「私はこのように暮らす」と取るかで、独り寝の夜の雰囲気は違うでしょう。ただ、古今和歌集ではこのような理屈より、歌が発声により詠われたその瞬間の雰囲気の方が重要と思われます。ですから、この古今和歌集の歌が持つ特性、直観で歌の世界の理解を求めるという、その特性は素養の無い者には辛いところとなります。なお、漢字混じり平仮名で表記された古今和歌集伝本は藤原定家が行った古今和歌集の解釈がベースのようで、本来は一字一音の変体仮名表記だったと思われます。紹介しました歌番654の歌の現在での解釈は定家のものが基本と思われますが、さて、どうでしょうか。
 次に万葉集からも相聞応答の恋歌となる二首相聞歌を五組ほど紹介します。まず、初めは男女の会話の雰囲気を感じて下さい。

集歌2508 皇祖乃 神御門乎 衢見等 侍従時尓 相流公鴨
訓読 皇祖(すめろき)の神し御門を衢(みち)見しと侍従(さもら)ふ時に逢へる君かも
私訳 皇祖の神の御殿で、通路を見張るためにお仕えしている時の、その時だけに、お目に懸かれる貴方ですね。
集歌2509 真祖鏡 雖見言哉 玉限 石垣渕乃 隠而在孋
訓読 真澄鏡(まそかがみ)見とも言はめや玉かぎる石垣淵(いはがきふち)の隠(こも)りし麗(うるわし)
私訳 見たい姿を見せると云う真澄鏡、その鏡に貴女の姿を見て、逢ったと語れるでしょうか。川面輝く流れにある岩淵が深いように、宮中の奥深くに籠っている私の艶やかな貴女。

集歌2510 赤駒之 足我枳速者 雲居尓毛 隠往序 袖巻吾妹
訓読 赤駒し足掻(あがき)速けば雲居にも隠(かく)り行(い)かむぞ袖枕(ま)け吾妹
私訳 赤駒の歩みが速いので彼方の雲の立つところにも、忍んで行きましょう。褥を用意して待っていてください。私の貴女。
集歌2511 隠口乃 豊泊瀬道者 常消乃 恐道曽 戀由眼
訓読 隠口(こもくり)の豊(とよ)泊瀬(はつせ)道(ぢ)は常(とこ)消えの恐(かしこ)き道ぞ戀(こ)ふらくはゆめ
私訳 人が亡くなると隠れるという隠口の立派な泊瀬道は、いつも道が流される、使うのに恐ろしい道です。恋い焦がれるからと、気を逸らないでください。

集歌2812 吾妹兒尓 戀而為便無 白細布之 袖反之者 夢所見也
訓読 吾妹子(わぎもこ)に恋ひてすべなみ白栲し袖返ししは夢(いめ)し見えきや
私訳 愛しい貴女に恋しても逢えず、どうしようもないので、白栲の夜着の袖を折り返して寝たのを、貴女は夢に見えましたか。
集歌2813 吾背子之 袖反夜之 夢有之 真毛君尓 如相有
訓読 吾(あ)が背子(せこ)し袖返す夜し夢(いめ)ならしまことも君に逢ひたるごとし
私訳 私の愛しい貴方が白栲の夜着の袖を折り返した、その夜の夢なのでしょう。夢の中の貴方はまるで実際にお逢いしたようでした。

集歌2826 如是為乍 有名草目手 玉緒之 絶而別者 為便可無
訓読 かくしつつあり慰(なぐ)めて玉し緒し絶えて別ればすべなかるべし
私訳 このように振る舞って、ずっと気持ちを慰めて来て、玉の紐の緒が切れるように二人の仲が切れてしまえば、なんとも遣る瀬無いでしょう。
集歌2827 紅 花西有者 衣袖尓 染著持而 可行所念
訓読 紅(くれなゐ)し花にしあらば衣手(ころもて)に染(そ)めつけ持ちて行くべく思ほゆ
私訳 貴女が紅花の花であったなら、私の下着の袖に染め付けて身に着けていたいと思います。

集歌3109 慇懃 憶吾妹乎 人言之 繁尓因而 不通比日可聞
訓読 ねもころし憶(おも)ふ吾妹(わぎも)を人言(ひとこと)し繁きによりてよどむころかも
私訳 心からねんごろに懐かしく思う私の愛しい貴女よ。貴女への人の噂話がうるさいので、訪問が途絶えがちの今日この頃です。
集歌3110 人言之 繁思有者 君毛吾毛 将絶常云而 相之物鴨
訓読 人言(ひとこと)し繁くしあらば君も吾(あ)も絶えむと云ひに逢ひしものかも
私訳 恋とは「人の噂話がうるさくなったならば、貴方も私も共に、二人の仲は絶えて終わり」と決め付けて、お逢いするようなものでしょうか。

 さて、万葉集では男女の恋歌は「相聞」と云うジャンルに集合され、古今和歌集では「恋歌」と云うジャンルに集合されます。先に紹介しました古今和歌集の歌々も、万葉集の歌々も、それぞれが似たテーマで男女の恋を詠っています。ところが、ジャンルの名称は「相聞」と「恋歌」とで違います。そこには万葉集編者と古今和歌集編者とで男女の恋歌に対する考え方の相違があったものと想像されます。
 このジャンルの名称の違いについて個人の好みと手持ち資料の制約の中で探してみました。ずいぶん古い本ではありますが、伊藤博氏の本に「萬葉集相聞の世界(塙書房;昭和三四年)」と云うものがありました。そこでは、ここで紹介した古今和歌集の恋歌と万葉集の相聞との相違について

万葉集の「相聞」は、広義の「恋歌」、しいて定義をすれば、「男女間を主とする個人間の私情伝達の歌」という、性格的または内容的意義の部立であったということができよう。
なお、相聞歌の源流は掛合にあった。掛合は問答である。よって、「相問」なる語義を持つ「相聞」をあてはめただけだという見方も出るかもしれない。(225頁)

満葉の帰属は、京師内でもっぱら風流生活を志向しながらも、その背景や基盤として片や田舎の生産機構を直接経営するという、二面の生活を送っていた。
・・中略・・
萬葉歌が、一般に野趣と素人臭さをぬぐいさりえず、平安朝の洗練された文学と大きな距離を持つ根源もまた、ここに存するであろう。萬葉歌の重大な一分野、相聞歌の、勅撰集的恋歌との質の相違も、同じ論理で解けることは、いうまでもない。(183頁)

とあります。
 個人の浅はかな感想ですが、万葉集の相聞応答の歌には男女の体臭と肌の温もりがありますが、古今和歌集の相聞応答の恋歌にはそれを強く感じることはありません。それを伊藤氏は「野趣と素人臭さをぬぐいさりえず、平安朝の洗練された文学と大きな距離を持つ」と指摘されたのだと、独り合点しています。そこには常に相手を視線に置く「相聞」と、恋と云うテーマを歌人それぞれが技巧で詠った「恋歌」との差があるのでしょう。
 大伴坂上郎女に田所(庄)の歌が見られるように、大伴旅人や山上憶良に代表される万葉集第二世代であっても貴族と大衆との距離感は平安貴族のように極端ではなかったと思われます。そのため、歌垣での男女の歓交や野良での逢い引きの姿は奈良貴族たちにとってそれは日常であったかもしれませんし、場合によってはその当事者であった可能性もあります。そこには前回に紹介しました「おおらかな性」の世界があったと確信していますし、当事者たる人々が作歌する時、その世界が前提だったと思います。
 ただ、万葉集にしろ、古今和歌集にしろ、載せられる相聞歌や恋歌の採歌先は宮中や貴族の邸宅などで開催された宴でのものと思われます。つまり、一部の人麻呂歌集の歌を除くと実際の妻問いや逢い引きでの歌ではありません。あくまでもその宴席の場に合わせた創作と考えられます。(明治時代人は全て実作と考え、それ故に恋歌を詠う女性歌人を淫売と罵っていますが) 
 参考として次の二首相聞は、一見、豊前国の企救半島の海岸を詠っているようですが、歌を詠う男女は奈良の都に居る人たちです。宴席で大伴旅人や山上憶良達の歌が話題になれば大宰府に因んでその順路である企救半島の海岸を想像し歌を詠うかもしれませんし、三月、桜の季節の宴会で柿本人麻呂が話題に登れば「企救と妹」の組み合わせが詠われる可能性もあります。しかし、歌の地名はただ作歌上での設定であって、実際に男女二人が豊前国、企救半島の海岸に立って居る訳ではありません。

集歌3219 豊國乃 聞之長濱 去晩 日之昏去者 妹食序念
訓読 豊国(とよくに)の企救(きく)し長浜行き暮(くら)し日し暮(く)れゆけば妹をしぞ思ふ
私訳 豊国の名高い企救にある長浜へ行き日々を過ごす、そのような侘しい日が暮れ行くと愛しい貴女のことばかりが思い出されます。
集歌3220 豊國能 聞乃高濱 高々二 君待夜等者 左夜深来
訓読 豊国(とよくに)の企救(きく)の高浜高々(たかだか)に君待つ夜らはさ夜更けにけり
私訳 豊国の名高い企救にある高浜、その名のように背を伸ばし遥か彼方を望みながら愛しい貴方の訪れを待つ夜は、次第に更けて行きました。

 しかしながら、作歌者がそれぞれの属する時代と社会背景に縛られると考えますと、歌にはそれが反映されると思います。そのためでしょうか、万葉集の相聞歌は相手が現実の人として想像できるし、恋歌には性愛の匂いが付き纏います。また、女性の立場が、まるきり、違います。万葉集の女性は男性と対等の立場です。性愛を為すときの男女の取る状況から歌での女性の姿が受身であるとの解説がありますが、例として紹介した集歌2508の歌や集歌3110の歌には平安時代のような「ただ待つ女」と云う感覚はありません。
 対等な相手がいる。ここに同じ恋歌のジャンルですが万葉集は「相聞」と命名し、男女の立場の違いが明確な古今和歌集では「恋歌」と命名したと推測します。古今和歌集の建て前では「恋」は男が起点です。邸宅に隠れ住む女はただそれを待ち、受けるだけです。一方、万葉の時代、女もまた男と同様に野良を行きますし、騎乗もします。野良行きで見染めた好みの男に女から仕草や態度で恋の合図を送ることは可能です。
 このように万葉集と古今和歌集での同じテーマ、同じ恋の応答歌と云うスタイルのものを紹介しましたが、時代背景で作歌やその鑑賞は大きく違うようです。ただ、そうした時、長い和歌の歴史の中で、万葉集の歌だけが孤島のように独り独立した特異な歌集であることを感じられるのではないでしょうか。万葉集は「万葉集か、それ以外」と云うような態度で鑑賞するのが良いようで、新古今和歌集以降の和歌鑑賞法だけで良いかと云うそうではないと思います。

 今回は古今和歌集の歌へ散歩をしました。その古今は一字一音の変体仮名表記の上、清音・濁音の区別はせず、すべて清音表記が原則です。このため、掛詞や縁語など多くの技法を多く取り入れられています。その分、難しいです。
 古今の玄関まで行きましたが、その門構えが立派過ぎて、びっくりして逃げて来ました。実に意気地もなければ、素養もありません。恥ずかしいことです。
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万葉雑記 色眼鏡 その卅一 万葉集、おおらかな性を鑑賞する

2013年06月15日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 その卅一 万葉集、おおらかな性を鑑賞する

 万葉集の歌の性格の紹介に「万葉集の歌は、一面、性におおらかである」と云うものがあります。今回はこの「性におおらかである」と云う面から万葉集の歌を楽しんでいます。そのため、内容は大人の世界となっていますし、それなりの表現を使っています。今回は、そう云う内容であることを御理解下さい。
 性を語る時、現代もそうですが、抽象的に性やその行為を表すこともありますし、隠語でそれを表すことがあります。この視線を下に最初に集歌2963の歌を紹介します。この歌はお判りのように男女の共寝の歌です。共寝の歌であることを前提に末句の「戀将渡」の表現に注目して下さい。恋する男女が共寝をする時、改めて「恋をしましょう」と云う表現を使っています。今更、説明する必要もないでしょうが、この「恋」と云う女性が発する言葉は、今に置きかえると「Hをしましょう」と云う意味です。つまり、この歌は女性から男性に夜通しHをしましょうと甘く呼びかけている歌です。この歌のように、今回は歌で使われている言葉で「恋」は「Hをする」、「紐解く」は「体を重ねる」または端直に「挿入する」と読み替えて、理解して下さい。そうした時、万葉集の歌が実に「性におおらかである」と云う意味が判ると思います。また、ここで「Hをする」と云う言葉を使いましたが、これもある種の現代語での「性交渉」、「愛撫」、「性戯」や「挿入」などの一連の行為を示す隠語です。このように言葉を現代語に置き換えた時、歌が意味する世界がより身近に感じられると思います。

集歌2963 白細之 手本寛久 人之宿 味宿者不寐哉 戀将渡
訓読 白栲し手本(たもと)寛(ゆた)けく人し寝(ぬ)る味寝(うまゐ)は寝(ね)ずや恋ひわたりなむ
私訳 白い栲の床で貴方の手枕に気持ちがなごむ。世の人が寝るように熟睡することなく、貴方と「恋の行い」を夜通ししましょう。

 最初に東国地方の歌から楽しんでみます。インターネットで有名な壺斎閑話では集歌3361の歌を次のように解釈しています。

足柄の彼面(をても)此面(このも)にさす罠のか鳴る間静み子ろ吾紐解く(3361)

「をてもこのも」とは東国訛りの言葉だろう。大伴家持が「あしひきのをてもこのもに」と歌ったのは、東国訛りで洒落て見せたものだろう。あちこちにめぐらした罠のなる音が静まった、あたりには誰もいない証拠だから、さあ、互いに紐を解いて楽しもうというのが一首の意とするところで、朴訥ながらも恋の歌である。

 壺斎閑話でも男女が着ている物を脱ぎ、Hを楽しもうとしていると解釈しています。ほぼ、これが標準的な解釈と思います。この歌を最初として、順次、歌の私訳を紹介し、個人的な解釈を説明しようと思います。ずいぶんと下品になっていますので、ご容赦を。

集歌3361 安思我良能 乎弖毛許乃母尓 佐須和奈乃 可奈流麻之豆美 許呂安礼比毛等久
訓読 足柄の彼面(をても)此面(こても)に刺(さ)す罠のか鳴る間(ま)しづみ児ろ吾(あれ)紐解く
私訳 足柄山のあちらこちらに張り渡す罠が、時折、鳴り、そして静まる。その静まっている、そのちょっとの間にあの子と私がHをした。

 屋外で男女が逢っている風景を詠った歌です。二人は、今、林の茂みの中にいます。その林の中に時折、人か動物かが動き回るのか、何かの物音が響きます。そのような状態で二人は愛の営みをしています。なお、野暮な説明ですが、歌の「紐解く」とは物理的な意味ではありません。その時の行為を象徴した言葉です。先の約束に従って意味としては「体を重ねる」とか「挿入」です。それも、この歌では挿入の意味合いの方が強いと思いますが。従いまして、歌の感覚からは非常に短い時間での出来事です。歌には二人は誰かに監視されているかもしれない緊張感と短い時間での愛の営みをしたいと云う切羽詰まった感情があります。そのような二人がどのような体位を取ってHをしたかを想像して下さい。万葉人は、里人であるその二人の姿を想像して、歌を楽しんでいます。貴族のようなHをするための部屋(塗り籠、または籠り間)を持つような人々ではありません。平安時代までは庶民の家は掘り込みの竪穴式住居が中心で、家族単位での雑魚寝が基本です。独立していない若い男女のHは屋外でせざるを得ません。
 その屋外で男女がHをしていることを前提に次の歌を見て下さい。男は女の子とのHがとっても気持ち良かったと詠っていますが、わざわざ、どのような体位でHをしたかも詠っています。その二人の姿を想像しながら鑑賞をして下さい。このような歌があるため、万葉集の歌は、一面、性におおらかであると評価されるのです。

集歌3530 左乎思鹿能 布須也久草無良 見要受等母 兒呂我可奈門欲 由可久之要思母
訓読 さを鹿の伏すや草群(くさむら)見えずとも子ろが金門(かなと)よ行かくし良(え)しも
私訳 立派な角を持つ牡鹿が伏すだろう、その草むらが見えなくても、あの娘のりっぱな門を通るのは、それだけでも気持ちが良い。
注意 教室の授業で鑑賞しない場合は、古来、歌意に従って歌のさお鹿は男性の性器、金門は女性の性器、草群は女性の陰毛の寓意を以って、大人の歌として鑑賞します。

 想像して頂けたでしょうか。男は、本当は女性の陰毛がはっきり見える方向から抱きたかったようですが、それが出来ませんでした。でも、あの娘とのHは気持ちがよかったと詠っています。つまり、男は陰毛が見えない方向から女性の体を抱いたと想像が出来ます。それも何らかの事情でせわしない短い時間でのHです。
 この集歌3530の歌を下敷きに集歌3531の歌を見て下さい。歌には同じ男が詠ったような雰囲気があります。

集歌3531 伊母乎許曽 安比美尓許思可 麻欲婢吉能 与許夜麻敝呂能 思之奈須於母敝流
訓読 妹をこそ相見に来しか眉(まよ)引(ひ)きの横山辺(へ)ろの鹿猪(しし)なす思へる
私訳 愛しいお前だからこそ逢いに来ただけだのに、まるで眉を引いたような横山の辺りの鹿や猪かのように扱われる(追い払われる)と思ってしまう。
注意 この歌は教室の授業で鑑賞しない場合は、集歌3530の歌を受けて男女が野良で「鹿や猪のようにする」と鑑賞します。

 集歌3530の歌では男がどのような体位で女を抱いたのかが想像できるかと思います。その体位を想像しながら集歌3531の歌を鑑賞して下さい。「相見る」とは、相手の女性の合意の下、体を抱くと云う意味があります。その時の男の感想が「鹿猪なす思へる」です。つまり、「お前とおれとはまるで鹿や猪みたいだなあ」と云う意味です。林の中で男女が愛の行為をしています。その時の姿が「まるで鹿や猪みたいだなあ」です。さて、貴女はどのような体位を想像しましたか。ここは東国の林の中です。日光街道や箱根の山のような立派な木々が立ち並んでいたかもしれません。地面は湿度たっぷりの苔むす状況かもしれません。もし、そのような場所ですと、女は大きな木を抱えてその身を支えたかも知れません。そのような女の姿に対して「鹿猪なす思へる」であったのではないでしょう。当然、そのような体位では男は女性の陰毛は手触りで確認が出来ますが、眺めることは出来ません。
 もう一つ、次の集歌3388の歌を見て下さい。女と男とは同じ村人か、男は里人に仲間として受け入れられる関係です。その信頼関係があるからか、二人はみんなに囃したてられながらもゆっくりと愛の行為をすることが出来ます。それも愛の行為をするのに相応しい場所を選ぶことが出来ます。ところが、先に見た集歌3531の歌では、歌を詠う男はどこか他の里からやって来たようですし、人目を忍んで女と逢引きをしなければいけない男だと推定されます。およそ、男は女の属する里人に見つかれば袋叩きにされるような立場ではないでしょうか。その緊張とわずかな時間での愛の行為だったとも考えられます。インターネット検索では、昭和初期の出来事ですが、よそ者の夜這いは見つかれば袋叩きが決まりですが、それが殺人までに発展して警察が夜這いの風習を止めさせたと云う記事を見ることが出来ます。そのような背景があるのだと想像し、歌を鑑賞して下さい。古代、庶民は住宅事情から屋内ではなく、男女の合意の下、屋外での夜這いや逢引きです。

集歌3388 筑波祢乃 祢呂尓可須美為 須宜可提尓 伊伎豆久伎美乎 為祢弖夜良佐祢
訓読 筑波嶺(つくはね)の嶺(ね)ろに霞居過ぎかてに息(いき)づく君を率(ゐ)寝(ね)て遣(や)らさね
私訳 筑波嶺の嶺に霞が居座って動かないように、あそこで居座って動かず、貴女に恋してため息をついている、あの御方を連れて来て抱かれてあげなさいよ。

 次に紹介する集歌3440の歌はある意味で非常に有名な歌です。ご存知のように日本の女性がアンダーウエアーを身に着ける風習が出来たのは大正から昭和初期、それも都会からでした。つまり、それ以前、着物姿の女性が洗い物で小川の前にしゃがめば必然的に前が開き、奥が見える状態になります。太陽の光の射す向きによっては陰毛までが覗けるような姿となります。それで歌の詠う朝日と云う太陽の高さが利いて来ます。その状況を詠ったのがこの歌です。女は朝食の準備中のようですから自宅のそばです。声を上げれば家の人たちがすぐに駆け付けて来るでしょうから、女に声を掛けている男もまた近所に住む顔見知りの男です。そのような男女の風景です。そして、情景を想像すると男は女が小川に来るのを期待して待っていたような気がします。

集歌3440 許乃河泊尓 安佐菜安良布兒 奈礼毛安礼毛 余知乎曽母弖流 伊弖兒多婆里尓
訓読 この川に朝菜(あさな)洗ふ子汝(なれ)も吾(あれ)も同輩児(よち)をぞ持てるいで児給(たは)りに
私訳 この川にしゃがみ朝菜を洗う娘さん。お前もおれも、それぞれの分身を持っているよね。さあ、お前の(股からのぞかせている)その分身を私に使わせてくれ。

 紹介する次の集歌3553の歌ですが、一応、ある程度の身分ある男と女との関係を想像して「入りて寝まくも」を「床に入り込んで」と解釈しています。もし、この男と女とが庶民階級ですと、「家に入りて寝まくも」と云う情景はあり得ません。もし、そうなら一間しかない竪穴式住居で娘の親が見ている前でその娘と性交をすることになります。では屋外での逢い引きで「入りて寝まくも」の「入りて」とはどういう意味かと云うと、女と争うことなくスムーズに挿入してHがしたいと云うことを示していることになります。当時の住居環境などを想像するとこのような解釈も可能となります。

集歌3553 安治可麻能 可家能水奈刀尓 伊流思保乃 許弖多受久毛可 伊里弖祢麻久母
試訓 安治可麻(あぢかま)の可家(かけ)の水門(みなと)に入る潮(しほ)の小手(こて)たずくもが入りて寝まくも
試訳 安治可麻の可家の入江に入って来る潮がやすやすと満ちるように、やすやすとお前の床に入り込んで共寝がしたいものだ。
注意 原文の「許弖多受久毛可」は難訓です。ここでは「小手+助ずく+も」の意味で試訓を行っています。

 一方、次の集歌3407の歌は東国でも上流階級の娘とその妻問う男との情景を詠うものです。親は娘のために、男が通う為の部屋を用意しています。そのような立派な屋敷を持つ娘が男に抱かれた朝を詠うものです。野良での男女の愛の行為とは違い、気持にも時間にも余裕があります。

集歌3407 可美都氣努 麻具波思麻度尓 安佐日左指 麻伎良波之母奈 安利都追見礼婆
試訓 髪(かみ)付(つ)けぬ目交(まぐ)はし間門(まと)に朝日さしまきらはしもなありつつ見れば
試訳 私の黒髪を貴方に添える、その貴方に抱かれた部屋の入口に朝日が射し、お顔がきらきらとまぶしい。こうして貴方に抱かれていると。
注意 原文の「可美都氣努麻具波思麻度尓」を「髪付けぬ目交はし間門に」と歌の裏の意図を想定して試みに訓んでみました。一般には「上野(かみつけ)ぬ真妙(まくは)し円(まと)に」と訓み「上野国にある円」と云う地名と解釈します。

 今回は、おおらかな性について話を進めています。そこで飛鳥・奈良時代の貴族階級の性について少し、雑談をしたいと思います。
 不思議なのですが性について書かれた中国の古い時代の書籍のほとんどは中国には残っていません。現代に残る唐時代中期以前の性に関わる書籍の多くは日本にだけ残されています。そのため、中国古典医学の研究は日本が中心であると云う面白い状況があります。その書物の渡来が遣唐使が主な輸入ルートだったとしますと、遣唐使の人々が大真面目で性に関わる書物を掻き集めて日本へと命がけで持ち帰ったことになります。逆に見ますと、遣唐使の人々がそのような書物を持ち帰るだけの需要や要求があったと云うことになります。そこに奈良時代の貴族たちの趣味が透けて見えると思います。
 もう少し説明しますと、当時、性交をすることは立派な医療行為でもありました。医学書では中年以上の男には若い女性の愛液が滋養や保養の薬とされ、一方、中年以上の女性には若い男の精が保養や美貌の薬とされました。そして、医学書の玉房秘訣に載る房中術と云う処方では若い女性の愛液を得るために男は五徴十動を学ぶ必要があると説かれています。この五徴十動の教えを現代の言葉に置き換え説明すれば、それは女性への性愛の方法とその反応の観察法です。中国医学では俗に云う女性が「イク」という状態で溢れ出る愛液が最良の薬とされていましたから、女性が「イク」と云う状態であることを確かめるため、性行為を五段階で表し、女性が示す体の動きの意味を十の動作に区分してそれをしっかり観察することを勧めています。このような書物としては他にも素女経や洞玄子などがあります。なお、洞玄子に詳しい、その薬の摂取方法はここでは紹介しませんのでインターネットで検索をお願いいたします。ただし、原文は手強いです。
 万葉の時代とは、一方で、貴族階級の男女が大真面目でこのような性戯の指導書を読み、実践していた時代であると云うことを知っていて下さい。また、添伏の風習から男性貴族は若い時から実技指導でこのような五徴十動の法を教え込まれていたと思われます。このような背景を知ると万葉集の歌の鑑賞の時、ある種、別な大人の鑑賞を楽しめるのではないでしょうか。個人の感想で、万葉集や源氏物語の鑑賞法を教える大人への教養講座や大学での授業で、なぜ、このような重要な基礎情報を示さないのか、それを不思議に感じています。
 ここで、集歌3532の歌を見てください。私訳は標準的な解釈の方を採用しています。ただし、万葉の時代、人々は鳥の「カッコウ」の鳴き声を「カツコヒ=片恋」と聞き、「カァーカァー」の声を「コロク=子ろ来(く)=恋人がやって来た」と聞きました。また、秋の夜、鹿が「ケーン」と啼く声に雄鹿の妻問いを想像しました。しかし、この歌には鳴き声はありません。歌はただ、馬が長い舌をはっきりと伸ばし、もぐもぐと口を動かす動作を示すだけです。その馬が一生懸命に舌を伸ばし口を動かす動作で、なぜか男は故郷に残して来た妻を思い出しました。当然、馬は懸命に草を食んでいますから鳴き声を上げたとは思えません。現代に情景を置き換えた時、夜を共にする関係の女性が夜の食事の時、思わせぶりにフランクフルトソーセージを縦にしゃぶる姿を相手の男に見せたとしたら、貴女はどのような心理をその女性に想像しますか。そのような解釈の可能性のある歌です。その時、歌は三句切れとなります。

集歌3532 波流能野尓 久佐波牟古麻能 久知夜麻受 安乎思努布良武 伊敝乃兒呂波母
訓読 春の野に草食(は)む駒の口やまず吾(あ)を偲(しの)ふらむ家の子ろはも
私訳 春の野で草の新芽を食べる駒が常に口をもぐもぐと動かし止めることがない。(その駒のようにいつも口を動かし=しゃべっていたお前よ、)私を恋しく思っているでしょう、家に残した愛しい貴女よ。
注意 教室で鑑賞しない場合は、歌は妻が口で夫を楽しむと鑑賞します。

 集歌3532の歌は想像力を目一杯に広げましたが、次の集歌2925の歌は直線的です。ただし、この歌は何かの宴会で詠われたものと思われますから、この歌から直ちにおっぱいを口で愛撫していることにはなりません。ですが、宴会のバレ歌として詠われるテーマですから、当時の男女でもこれが標準的な愛撫の一つだったと思われます。想像でこの歌を詠った女性は当時の美人の基準の一つでもあった「胸別け広き」と称されるような胸の豊かな女性だったと思われます。ですから、宮中であっても言い寄る男たちは多かったのではないでしょうか。

集歌2925 緑兒之 為社乳母者 求云 乳飲哉君之 於毛求覧
訓読 緑児(みどりこ)し為こそ乳母(おも)は求むと云ふ乳(ち)飲めや君し乳母(おも)求むらむ
私訳 「緑児の為にこそ、乳母は探し求められる」と云います。でも、さあ、私の乳房をしゃぶりなさい。愛しい貴方が乳母(乳房)を求めていらっしゃる。

 さて、万葉時代、男も女も特定のパートナーだけとセックスをしたのではありません。妻問いと云うゆるい婚姻の風習では男女ともに複数のセックスパートナーを持つことになります。その風習を前提とする歌が次の集歌3486の歌です。隣に住む男と今夜に夜這った男の、どちらがHが上手だったでしょうか。今夜に夜這った男は、いろいろなことをして「おれの方がいいだろう」と聞いているような、そのような雰囲気の歌です。

集歌3486 可奈思伊毛乎 由豆加奈倍麻伎 母許呂乎乃 許登等思伊波婆 伊夜可多麻斯尓
訓読 愛(かな)し妹を弓束(ゆづか)並(な)へ巻き如己男(もころを)の事(こと)とし云はばいや扁(かた)益(ま)しに
私訳 かわいいお前を、弓束に藤蔓をしっかり巻くように抱きしめるが、それが隣の男と同じようだと云うなら、もっと強く抱いてやる。

 集歌3486の歌が色々と試したHの感想を男から女に聞く歌としますと、次の集歌2949の歌は女性の方から男性の方にマンネリではないHを求めています。集歌3465の歌は東国の歌ですから集歌2949の歌の応歌とはなりませんが、雰囲気的はこの答えの方が男女、喧嘩にならなくて良いと思います。復習ではありませんが、当時の医学書では二十数種類の体位がその方法と共に推薦されていました。 ところで、その「いつもとは違うやり方」とはどのようなHだったのでしょうか。色々と想像させてくれます。

集歌2949 得田價異 心欝悒 事計 吉為吾兄子 相有時谷
訓読 うたて異(け)に心いぶせし事(こと)計(はか)りよくせ吾が背子逢へる時だに
私訳 どうしたのでしょう、今日は、なぜか一向に気持ちが高ぶりません。何か、いつもとは違うやり方を工夫してください。ねえ、貴方。こうして二人が抱き合っているのだから。

集歌3465 巨麻尓思吉 比毛登伎佐氣弖 奴流我倍尓 安杼世呂登可母 安夜尓可奈之伎
訓読 高麗錦(こまにしき)紐解き放(さ)けて寝(ぬ)るが上(へ)に何(あ)ど為(せ)ろとかもあやに愛(かな)しき
私訳 高麗錦の紐を解き放って、お前と寝る。それ以上に、お前は何をしろと云うのか。とても、かわいいお前よ。

 万葉集の歌に「劔 鞘納野(つるぎたち鞘に入りの)」と云う言葉があるように男女の関係を詠う歌で剣や太刀の言葉は男根を暗示する隠語です。これを前提で集歌2636の歌を見て下さい。この歌はその次に紹介する集歌2498の歌を元歌とするような本歌取りの歌です。ただし、女性の積極性は大きく違います。集歌2498の歌は「男根が触れて」と解釈するのが良いと思いますが、集歌2636の歌は「上に行き男根に触れたい」と解釈するのが相当と思います。それも「去觸而所」と解釈する場合、「行き触れにそ」と訓みますから、「にそ(にぞ)」と云う語尾には強い願望や強調したい原因があるという心理があると思われます。その時、取る体位で云うと集歌2498の歌が正常位を示すなら、集歌2636の歌は騎乗位です。自ら積極的な騎乗位の形を取りたいと望む女性の言葉ですと、この「にそ」と云う語尾表記は的確にその状況を示す言葉ではないでしょうか。
 さらに、歌に歌人の個性が出るとしますと、集歌2498の歌も集歌2636の歌も共に女性が詠う歌です。そこには、思わず、歌に日頃の癖や好みが出たとも解釈が出来ます。

集歌2636 剱刀 諸刃之於荷 去觸而所 殺鴨将死 戀管不有者  (殺は、煞-灬の当字)
訓読 剣太刀(つるぎたち)諸刃(もろは)し上(うへ)し行き触れにそ死にかも死なむ恋ひつつあらずは
私訳 床に置く貴方の剣太刀の諸刃の上に行き触れたい。貴方の“もの”でこの身を貫かれ、その男女の営みで死ぬなら死んでしまいたい。この恋と云う「愛の営み」を続けることが出来ないならば。

集歌2498 釼刀 諸刃利 足踏 死ゞ 公依
訓読 剣太刀(つるぎたち)諸刃(もろは)し利(と)きし足踏みて死なば死なむよ君し依(よ)りては
私訳 貴方が常に身に帯びる剣や太刀の諸刃の鋭い刃に足が触れる、そのように貴方の“もの”でこの身が貫かれ、恋の営みに死ぬのなら死にましょう。貴方のお側に寄り添ったためなら。
注意 万葉集の歌には「下半身」を「脚」の漢字で表記したものはありません。原文の「足踏」の「足」には女性の下半身(内股)の意味も含まれるようです。参考に、当時の流行歌に「劔鞘納野(剣太刀、鞘に入りの)」なる言葉があります。そこからの妄想です。

 なお、集歌2498の歌と集歌2636の歌とは共に巻十一に載る歌で、共に詠み人知れずの歌です。ただ、集歌2498の歌は人麻呂歌集に分類される歌ですので、場合により人麻呂とその恋人、軽里の妻との相聞歌なのかもしれません。そうした時、集歌2498の歌と集歌2636の歌との間に、その表記の類似性や作歌時の発想の共通性を想像する時、集歌2636の歌は集歌2498の歌の推敲であるのかもしれません。もしそうであるなら、二人の関係において夜を共に過ごす回数が増すに連れ、女性は好きな男に抱かれると云う行為だけでは物足らず、次第に、心を満たされるだけでなく、体も満たされることを求めるようになったのかもしれません。俗に云うと「欲深い女の性」ということでしょうか。
 遊びの最後にその「欲深い女の性」に焦点を当て、初々しい時代から、もっと、お願いという時代までを並べてみました。解説は無しで、意訳のみです。

集歌2655 紅之 襴引道乎 中置而 妾哉将通 公哉将来座
訓読 紅(くれなゐ)し裾引く道を中置きに妾(われ)や通(かよ)はむ公(きみ)や来(き)まさむ
私訳 紅色の裳裾を引いて歩く道を奥の部屋に置きました(=成女式の裳着の儀式が終わりました)。もう、女となった私へ貴方は妻問いが出来ますよ。さあ、貴方はお出でになるでしょうか。

集歌2627 波祢蘰 今為妹之 浦若見 咲見慍見 著四紐解
訓読 はね蘰(かつら)今する妹しうら若み笑(ゑ)みみ怒(いか)りみ着(つ)けし紐(ひも)解(と)く
私訳 成女になった印の「はね蘰」を、今、身に着ける愛しい貴女は、まだ、男女の営みに初々しいので、笑ったり拗ねたりして、着ている下着の紐を解く。
注意 「慍」の文字には怒りの意味がありますが、これは怨むと云う感情を含む怒りです。男女の営みに慣れない若い女性が性交の時に相手の男性に対して示した態度を表した漢字です。潤いが不足していたり慣れていなくて、楽しみより痛みの方が勝っていた時期と思って下さい。

集歌2916 玉勝間 相登云者 誰有香 相有時左倍 面隠爲
訓読 玉かつま逢はむと云ふは誰(たれ)なるか逢へる時さへ面(おも)隠しする
私訳 美しい竹の籠(古語;かつま)の中子(身)と蓋が合う、その言葉ではないが、貴方と夜に逢いましょうと云ったのは誰ですか。こうして抱き合っている時でも、貴女は顔を隠す。

集歌2554 對面者 面隠流 物柄尓 継而見巻能 欲公毳
試訓 対(こた)ふ面(つら)面(おも)隠さゆるものからに継ぎて見まくの欲(ほ)しき公(きみ)かも
試訳 貴方にまじまじと見られると、恥ずかしくて私の顔を隠してしまうのですが、これからもずっと夜床を共にしたいと私からおねだりする貴方です。
注意 原文の「對面者」は、一般に「あひみては=相見ては」と訓みます。ここでは「對面」の語感を尊重して試訓を行っています。

集歌2650 十寸板持 盖流板目乃 不令相者 如何為跡可 吾宿始兼
訓読 そき板(た)以(も)ち葺(ふ)ける板目(いため)の合(あ)はざらば如何(いか)にせむとか吾(あ)が寝(ね)始(そ)めけむ
私訳 薄くそいだ板で葺いた屋根の板目がなかなか合わないように、私の体が貴方に気に入って貰えなければどうしましょうかと、そのような思いで、私は貴方と共寝を始めました。

集歌2683 彼方之 赤土少屋尓 霈零 床共所沾 於身副我妹
訓読 彼方(をちかた)し赤土(ひにふ)の小屋(をや)に小雨(こさめ)降り床(とこ)ともそ濡れ身に副(そ)へ我妹(わぎも)
私訳 遠くの野辺の土間敷きの小屋に激しい雨が降り、床までも濡れる。そのように滲み出し濡れたお前の体を私の身に寄せなさい。愛しい貴女。

集歌2610 夜干玉之 吾黒髪乎 引奴良思 乱而反 戀度鴨
訓読 ぬばたまし吾(あ)が黒髪(くろかみ)を引きぬらし乱れてさらに恋ひわたるかも
私訳 漆黒の私の黒髪の束ねを引き抜き髪を解き放ち、貴方の手で私の髪も体も乱れて、そして恋と云う愛の営みをしましょう。

集歌2718 高山之 石本瀧千 逝水之 音尓者不立 戀而雖死
訓読 高山(かくやま)し岩もと激(たぎ)ち行く水し音には立てじ恋ひに死ぬとも
私訳 天の香具山の岩の淵に水しぶきを上げて流れ行く水のように、音(=声)を立てません。床で貴方に抱き伏せられ、愛の営みで死んだとしても。

集歌1328 伏膝 玉之小琴之 事無者 甚幾許 吾将戀也毛
訓読 膝(ひざ)に伏す玉し小琴(をこと)し事無くはいたく幾許(ここだく)し吾恋ひめやも
私訳 膝に置く美しい小さな琴の、(貴女の)音を聞くことが無かったならならば、これほどひどく、私は恋い焦がれるでしょうか。

集歌2962 白妙之 袖不數而 烏玉之 今夜者不寐 明将開
訓読 白栲し袖數(な)めづてぬばたまし今夜は寝ずも明けば明けなむ
私訳 白い栲の夜着の袖を交わした数(=貴女と情を交わした回数)を数えず、また、漆黒の今夜は寝なくても、夜が明けるなら明けるがよい。

集歌2807 可旭 千鳥數鳴 白細乃 君之手枕 未厭君
訓読 明けぬべく千鳥(ちどり)數(しば)鳴く白栲(しらたへ)の君し手枕(たまくら)いまだ飽かなくに
私訳 もう夜が明けると、千鳥がしきりに鳴く。白い栲の夜着を着る貴方が私の体を抱くことに、私はまだ満足してもいないのに。
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万葉雑記 色眼鏡 その卅 処女な女の歌を鑑賞する

2013年06月08日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 その卅 処女な女の歌を鑑賞する

 最初にお詫びいたします。標題がこのようなものになっていますが、ここは万葉集の歌の鑑賞をするブログです。そのため、初めて御来場する御方で、万葉集の歌の鑑賞を目的にしない人には、その御期待に応えられないものとなっていますので、宜しく、お願いいたします。今回は、標題にありますように万葉集での「処女な女」について鑑賞したもので、この「処女」は「をとめ」と訓みます。

 さて、「処女な女」についてですが、最初に万葉集で処女と認定された女性をリストアップしたいと思います。以外かと思われるでしょうが、集中で名前が特定出来る女性で処女と認識されている人物はわずかに二人、集歌22の歌の十市皇女ともう一人、菟名日處女(うなひをとめ;葦屋處女や菟原處女での別称有り)だけです。それ以外の女性については名前が特定は出来ませんが、集歌5の歌の讃岐国の海辺の娘たち、集歌53の歌の藤原宮御井謌の娘、集歌81の歌の山邊御井謌の娘たち、集歌2360の歌の娘、集歌2415の歌の石上神宮の娘たち、集歌3084の歌の海辺の娘たち、集歌3243の歌の阿胡の海辺の娘たち、集歌3255の歌の奈良の都の娘など、一般名称のような使い方で八名(グループ)の娘たちが処女と称されています。
 一方、年頃の娘を意味する言葉の表記としては万葉集では感嬬(感は当て字、女+感)、未通女、娘子、娘、童女、少女、女、乎等女、遠等、越等賣、尾迹女などがあり、これらは全て訓読万葉集などでの訓みでは「をとめ」です。万葉集の歌の中でのこれらの表記の使用頻度を調べてみますと、漢語表記では未通女を十七首、感嬬を十五首で見ることが出来、他の表記はそれぞれ一、二首です。真仮名表記では乎等女が九首中に見ることが出来、他の表記は一首単独で特別に使われたような表記です。およそ、万葉集中、その歌数上での比較では処女は少数派ですし、逆に少数派であるが故にその女性が処女と特定されたことが特別であったとも推定されます。(注意として、標では「娘子」の言葉が多数、使われていますが、これは調査の対象とはしていません)
 なお、先ほどの処女もまた訓読万葉集では「をとめ」と訓みます。従いまして、原文を紹介しない万葉集歌の解説本で、これらの表記の違いを書き分けていない場合、紹介しました「をとめ」の発音に対する多くの表記が「娘女(または娘子や乙女)」などの表記へと統一して、歌を紹介する可能性や危険があります。御承知のように万葉集の歌で表記の書き分けがある場合、そこには作歌者の表記への意図がありますから、それぞれの意味合いは違うと推定するのが現代の正しい万葉集解釈と考えます。つまり、表記を統一した場合、歌の解釈が十分では無い可能性が生じます。

 雑談が過ぎました。
 ここは万葉集の歌を鑑賞するブログですので、まず、「処女なる女」の歌を紹介しようと思います。以前、紹介しましたが、現在、生活の緊急要請から遠い場所に出稼ぎをしており、手持ちの資料が限られています。そこで万葉集の処女なる女の歌をインターネットから引用させて頂きます。引用先は有名な千人万首からです。(原文付加し、体裁を変更しています)

十市皇女、参赴於伊勢神宮時、見波多横山巌吹黄刀自作謌
標訓 十市皇女の伊勢神宮に参り赴(おもむ)く時に、波多(はた)の横山の巌(いはほ)を見て、吹黄刀自の作る歌
原文 河上乃 湯津盤村二 草武左受 常丹毛冀名 常處女煮手 (1-22)
訓読 河の上(へ)のゆつ磐群(いはむら)に草むさず常にもがもな常(とこ)処女(をとめ)にて
意訳 川のほとりの神々しい岩々に草が生えないように、変わらずにいてください、いつまでも若い乙女のままで。

 また、菟名日處女は多くの長歌、短歌がありますが恣意的に高橋虫麻呂から短歌一首を選び出し、ネットで有名な千人万首の訓読と意訳を紹介します。

原文 葦屋之 宇奈比處女之 奥槨乎 徃来跡見者 哭耳之所泣 (9-1810)
訓読 葦屋の菟原処女(うなひをとめ)の奥つ城(き)を行き来(く)と見れば哭のみし泣かゆ
意訳 葦屋の菟原処女の墓を、往き来のたびに見れば、声を上げて泣かれてならない

 この千人万首での意訳を見てみますと、おおむね、校本万葉集が「娘子」へと集約しているものと同じ視線での解釈と想像させられます。同じように参照として伊藤博の萬葉集釋注から集歌22の歌を紹介しますと、

訓読 川の上(うへ)のゆつ岩(いは)群(むら)に草(くさ)生(む)さず常(つね)にもがもな常(とこ)処女(をとめ)にて
意訳 川中の神聖は岩々に草も生えないように、いつも不変であることができたらなあ。そうしたら常(とこ)処女(をとめ)でいられるように。
注意 言葉の解釈として「常処女」は永遠に若く清純なおとめ。

と解釈されています。伊藤氏は十市皇女が子を持つ女性であったために「処女」の意味を性交経験の無い娘の意味ではなく、清純なおとめと解釈しているようです。しかしながら、これは性交経験の有無を基準とする同じ視線上での解釈と考えます。
 同様な解釈はインターネットのウィキペディアの十市皇女の解説に見ることが出来ます。

なお、『万葉集』巻1によれば、この際に吹芡刀自(ふふきのとじ:侍女と思われる)が十市の歌を作ったとある。また、前年の10月にも十市皇女が伊勢に赴いたという説もある[1]が、ちょうどそのころ大来皇女が伊勢斎宮となり伊勢へ群行したと日本書紀に書かれていることから、これに同行した可能性がある。
その後、未亡人であったにもかかわらず、泊瀬倉梯宮の斎宮となることが決定するが、天武天皇7年(678年)、まさに出立の当日である4月7日朝に急死。日本書紀には「十市皇女、卒然に病発して、宮中に薨せぬ」と記されていた。4月14日に大和の赤穂の地に葬られた。この際、父の天武天皇が声を出して泣いたという。
そもそも、未亡人であり出産も経験したにもかかわらず、未婚の女性(=処女)でなくてはならない斎宮になぜ選ばれたのか。これについて、乱後7年経って大友皇子の喪が明けることと関係があるとみなす見方もある。死亡時、十市皇女はまだ30歳前後であり、この不審な急死に対しては、自殺説・暗殺説もある。

 この解説では明確に未婚の女性=処女と記しています。また、明治から昭和初期に活躍したマルチタレントの折口信夫氏の解説に「この河のほとりにある、沢山かたまり合うた巌の上には、一本の草も生えていない。何時迄も古めかず、新しう見える。その様に、我が皇女も、齋宮になってお下りだから、いつまでも年とらず、処女で入らせられることでありたいものだ」と云う意訳文があるそうです。これらの意味するところは処女の言葉とは性交経験の無い女性と推定されます。これが標準的な解釈であり、理解なのでしょう。


 ここで、話題を変えたいと思います。
 現代日本語に「窓際」と云う言葉があります。私的な話ですが、この言葉は私にとって一生、忘れられない言葉です。ただ、御存じのように「窓際」と云う言葉本来には、余剰人員とか、退職勧奨対象者のような意味合いは有りませんでした。雑誌のキャッチコピーであった「窓際族」の言葉が広く一般に認知され、その新たな意味合いが加わって、現代語としての「窓際」と云う言葉が出来ました。例文として「リゾートホテルの窓際の席」と云うのが古いスタイルでしょう。どちらかと云うと「あの人は窓際なの」と云う使い方が今日的ではないでしょうか。
 現代はカタカナ日本語、つまり、造語が溢れている時代です。これを日本語の乱れと嘆く人もいます。ところが、現代より格段に造語が溢れた時代がありました。それが明治初期から中期にかけてです。西洋文明と本格的に接し、その文明・文化を吸収する時、それを紹介する言葉が必要でした。ただ、現代で日本語の乱れと嘆く人が失念していることに、明治期に創られた言葉は漢字表記でした。当時の人々の言語表記のベースとなるものは漢語・漢文でしたから造語が共通認識となる言葉であるがためには漢字表記が必要でした。一方、現代日本では漢語・漢文が言語表記のベースとなる人は少数派であって、逆に英語がベースとなる人が多数派でしょう。つまり、今、創られる言葉はカタカナ表記を選択せざるを得ないのです。これを日本語の乱れと云うかというと、当然、違います。そのように考える人は揺れ動く時代に生きていない人です。その発想と意見は文化的交流と進歩を否定した時だけに成り立つ感情です。
 明治時代、日本は西洋文明と本格的に接しました。一方、西洋もまた日本と云う国に接しました。例として、その時、西洋にとって日本はvirgin countryでありましたし、その国土の多くはvirgin forestで覆われていると紹介されたようです。幕末以前にこのvirginと云う英語に相対する翻訳語はありませんでした。そこで明治時代人はthe Virgin, Mary, the mother of Christやpureとかfirstなどの意味を参照にvirginと云う英語に対して処女という造語(訳語)を作りました。つまり、この時、virgin countryが未開地でなく処女地となり、virgin forestが原生林でなく処女林と云う名称が与えられたのです。
 この処女という言葉は江戸期にもありました。漢語としては読んで字の如く、「所に居る女」です。つまり、実家に暮らす女の意味です。当時、女性は適齢期になれば婚姻して夫の家に入るのが社会の認識でしたから、社会通念として「所に居る女」なる言葉、処女は未婚女性の意味を持つことになります。先の「窓際」と同じです。そして、儒教の解釈と男の願望から女性は夫以外の男性とは性交渉をしないとの迷信が生まれ、そこから未婚女性は性交渉をしたことがないとの付随した意味が生まれました。これをインターネットで調べますと、

漢語の「処女」の「処」は「居る」の意味であり、本来は「結婚前で実家に居る女性」という意味であった。当時の中国の社会通念として当然ながら処女は「性交の経験のない女性」という意味にもなるが、こちらは引伸義である。「性交の経験がない」ことを表わす言葉として「童貞」があった。童貞は、本来は男女の区別なく使う言葉である。
・・中略・・
漢文では、上述の「処女」に対し、男性の場合の言葉は「処士」であって「童貞」ではない。処士とは「仕官前で実家に居る男性」の意である。これに対し「童貞」とは男女にかかわらず「性交の経験がない」ことをいい、結婚や仕官とは関係がない。

とあります。
 万葉集の歌は明治以降に出来た歌集ではありません。つまり、明治時代の造語または付加された意味を持つ「処女」の理解で万葉集の歌を解釈してはいけないのです。処士と同じ処女として解釈しなければいけないのです。
 ここで重要な事を思い出して下さい。万葉集の時代は妻問い婚で夫なる男は女の家に婿入りします。この場合、家産は産まれて来る娘が継ぎます。武家社会以降の一所懸命の時代は武力を持つ者だけが家産を保全維持することが出来ました。つまり、必然的に男から男へと家産が引き継がれます。しかし、万葉時代はまだ母系氏族社会が色濃く残っていますから、場合により処女が家督相続者となります。つまり、江戸期以降に処女に性交をしたことが無い娘との意味が付け加えられたとの裏返しに、万葉時代では漢語の「処女」に家督を相続する娘とか一族を束ねとなる女(刀自)の候補者のような意味が加わっていた可能性があります。
 古事記で例を採りますと、神武天皇の皇后となる伊須氣余理比賣が他の六人の娘たちを率いて高佐士の野を行く風景です。神武天皇はその伊須氣余理比賣に求婚として家と名を確認します。雄略天皇とその皇后となる若日下部王との出会いの場面もまた同じです。古代には娘の背景にはその娘が属する氏族がありますから、もし、娘が「処女」であり、その娘と婚姻する場合、婚姻する男が有力者であれば処女が所属または後に刀自として引率することになる一族や氏族は、必然的にその男の支配下に入ることを意味します。

 少し、雑談が過ぎたようです。しかしながら、万葉の時代に「処女」と云う言葉に性交経験の有無にかかわるイメージが無いとすると、先の十市皇女へ歌で使われる「常処女」とはどのような意味があるのでしょうか。伊藤博氏は萬葉集釋注で歌を奉げた吹芡刀自の人物像を、次のように推定されています。

高貴な女性に付けられた女たちは、一様にしっかりした人びとであったはずで、そういう女たちを代表してこうした呪歌を詠んだ吹芡刀自は、おそらく四十歳を超えていたであろう。

 十市皇女や吹芡刀自が生きた天武天皇の時代、女性三十歳は老女と認識するような区切りの年だったようで、三十歳を超えた女性は髪結いや乗馬法など宮中女官が守るべき服装規定などの適用除外として扱われていました。この吹芡刀自の年齢を四十歳を超えるような女性と考えますと、天武天皇の時代では老女の域に入るわけです。十市皇女と吹芡刀自との間に長い年月の関係があったとしますと、伊勢国への旅は飛鳥から大津へと王宮が遷った時以来の旅となります。そうした時、吹芡刀自が己の年齢を踏まえた時、あとどれほどの間、十市皇女に仕えることが出来るのかとの感慨が生まれたとしても不思議ではないのではないでしょうか。つまり、この常処女とは常久しい女主人と云う意味合いの方が強いと考えます。
 私訳はその視線に立って鑑賞したものです。およそ、日本古来の万葉集の鑑賞に西洋流の聖処女伝説は不要なものと考えます。

十市皇女、参赴於伊勢神宮時、見波多横山巌吹芡刀自作謌
標訓 十市皇女の、伊勢の神の宮に参(まゐ)赴(おもむ)きし時に、波多の横山の巌を見て吹芡(ふふきの)刀自(とじ)の作れる謌
集歌22 河上乃 湯津盤村二 草武左受 常丹毛冀名 常處女煮手
訓読 河し上(へ)のゆつ磐(いは)群(むら)に草生(む)さず常にもがもな常(とこ)処女(をとめ)にて
私訳 流れる川の磐に草が生えないのと同じで、これからも雑念が生じないようにずっと一生懸命にお側でお仕えしたいので私の十市皇女であってほしい


 一方、菟名日處女(葦屋處女や菟原處女)は兵庫県芦屋地方の豪族の娘で、実家で暮らす中、二人の男に妻問いされる関係にありました。この二人の男に挟まれる関係を苦にし、娘は自殺し、二人の男もまたそれぞれ娘を追うように自殺します。これが菟名日處女の伝説で、この伝説の下、多くの歌が詠われました。ここでの処女の意味は、明らかに家に居る娘であって、性交をしたことが無いという意味ではありません。

 みなさんの思いに「では、万葉集の時代、性交をしたことがない若い娘をどのように称したのか」と云う疑問が生じたと思います。実は、万葉集では、そのような娘を未通女や童女と表記しました。つまり、万葉集の原文の文字を読んで字の如く、男性経験の無い娘は未通女であり、まだ、そのような年齢に満たない娘は童女です。一方、男性経験の有無に関わらず家に居る娘や家付きの女性は処女なのです。そこが万葉集の歌は漢語と音を借りた真仮名で表記されている特性です。その表記には作歌者の意図がきちんと示されています。そのため原文表記を伴わない訓読万葉集だけでは万葉集は鑑賞出来ません。問題は一部の訓読万葉集ではこの区分を無視して、表記の統一を行っているものがあることや現代語から古語を解釈しようとする態度です。そのため、処女なる女の歌を解釈することが出来なくなってしまいました。
 参考として男性経験の無い娘である未通女の歌を、少し、紹介します。集歌501の歌は石上神宮での神事の風景を詠ったものです。神事で袖振りの舞を舞う娘たちは、現在で云う早乙女です。次の集歌1244の歌の娘は放髪(おかっぱ)姿ですから、現在では十一、二歳ぐらいの女の子を想像すればいいと思います。まだ、初潮前で裳着の儀式も迎えてはいません。三首目の集歌2351の歌は娘が腰巻祝いをするときの祝い歌です。ちょうど、この日、娘は女へと公の導きで羽化します。ここらあたりの事情は、弊ブログ「初夜の儀」を参照下さい。

集歌501 未通女等之 袖振山乃 水垣之 久時従 憶寸吾者
訓読 未通女等(をとめら)し袖布留山の瑞垣(みずかき)し久しき時ゆ思ひき吾は
私訳 未通女(おとめ)たちが霊寄せの袖を振る布留山の瑞垣の久しい時よ。昔を思い出したよ。私は。

集歌1244 未通女等之 放髪乎 木綿山 雲莫蒙 家當将見
訓読 未通女(をとめ)らし放(はなり)し髪を木綿(ゆふ)し山雲な蒙(おほ)ふな家しあたり見む
私訳 未通女(おとめ)たちがお下げ髪を結う、その言葉のひびきのような、木綿を垂らす山に、雲よ覆うな。恋人の家の辺りを見つめたい。

集歌2351 新室 壁草苅迩 御座給根 草如 依逢未通女者 公随
訓読 新室(にひむろ)し壁草刈りしに坐し給はね 草し如寄り合ふ未通女(をとめ)は公(きみ)しまにまに
私訳 新室の壁を葺く草刈りに御出で下さい。刈った草を束ね寄り合うように寄り添う未通女は貴方の御気の召すままに。


 参考知識として、次に紹介する集歌1512の歌は大津皇子の御歌とされる未通女の言葉を取り入れた歌です。ただ、歌の表記には少し違和感があります。
 本来ですと発音の「も」には「母」の方が相応しいのですが「毛」の方の真仮名を使っています。未通女がどのような娘かと思う時、「毛無」とか、「毛不定」という表記はどうなのでしょうか。毛不定からは毛がまばらと云う意味が取れますし、毛無は読んで字の如くです。これは、今まで説明しました処女なる女の歌と云う視線から想像しますと、御歌と云うより宴会での良く出来たバレ歌です。もし、皇子の女性への好みが歌に出ているとしたら、それは大和氏族の風習ではありません。違反です。(弊ブログ「初夜の儀」で未通女と娘子との違いをご確認ください)

大津皇子御謌一首
標訓 大津皇子の御謌(おほみうた)一首
集歌1512 經毛無 緯毛不定 未通女等之 織黄葉尓 霜莫零
訓読 経(たて)もなく緯(よこ)も定めず未通女(をとめ)らし織る黄葉(もみぢは)に霜な降りそね
私訳 どれが縦糸、どれが横糸ということを定めずに天の乙女たちが織り成す色取り取りの黄葉の葉を、白一色に隠す霜よ降らないでくれ


 最後に話題提供として、現在の万葉集の歌の解釈では童女、未通女、娘子、処女などの漢字表記に対して同じ「をとめ」の訓みを与えています。異なる漢字表記に対して同じ「をとめ」の訓みですが、これは大和言葉の語彙不足を補うために漢字が持つ表示文字の性質を用いて、作歌者が歌で詠う女性の区分を示したものと解釈されています。逆に万葉集の漢字表記の童女や未通女に「をとめ」の訓が与えられているから「をとめ」とは男性経験の無い女性と解説するのは本末転倒です。ここでは、「逆も真なり」とはなりません。
 もう少し。「をとめ」の語源を考えますと、「をとめ」や「をとこ」の「をと」の言葉は若返ると云う意味を持つ言葉である「をつ」が関連語と推定されています。言葉として「をとめ」は「をと+め」であり、「をとこ」は「をと+こ」とその語源が推定されていて、「め」は女性一般を意味し、「こ」は「彦(ひこ)」で代表されるように男性一般を意味すると解釈されています。つまり、「をとめ」や「をとこ」は生殖能力=子を作る能力で区分された言葉と思われます。これとは別に古代では女性一般を「をみな」と称していたようですので、「をとめ」と「をみな」とは対象と性別での人の区分がほぼ重なる言葉だったと思われます。ちなみに「をみな」は大切なものや小さいものを意味する接頭語「を」+女性一般を意味する「み」+相手を意味する「な」で出来た言葉のようで、対立語では男性を指す「をぐな」があります。言葉の歴史では「をとめ」と「をとこ」、「をみな」と「をぐな」の組み合わせですが、それが次第に「をとめ」と「をぐな」、「をみな」と「をとこ」の組み合わせに変わり、「をみな」が「おんな」、「をとこ」が「おとこ」へと変わっています。一方の「をとめ」は「おとめ=乙女」、「をぐな」は「おぐな=童男」となりました。
 古代では成人した者だけを人と認識していたと云う説があります。場合によっては、古代、成人前の童女や童男は性別を区分すること無く、「わらわ」とか「よちこ」と呼ばれていたかもしれません。一方、可能性として集歌3871の角嶋の歌から想像して未通女には「わかめ」の訓みがあるかもしれません。

 今回はとりとめの無い話となりました。反省するところです。ただ、言語学とか、万葉集の歌の鑑賞を説明するものの根拠をクロスオーバー的に調べますと、通説や学会で信じられているのが、相当いい加減なものであることが判ります。特に通説での十市皇女の人物像への理解は、いけません。
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万葉雑記 色眼鏡 その廿九 私は誰の子、古日の歌を楽しむ

2013年06月01日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 その廿九 私は誰の子、古日の歌を楽しむ

 万葉集巻五に「戀男子名古日謌」と標題を持つ歌があります。この歌の作歌者について、万葉集には直接の記述はありません。ただ、長歌に添えられた反歌の左注に「但以裁歌之體似於山上之操載此次焉」との論評があるため、古くから山上憶良の作品と推定されて来ました。
 今回はこの「戀男子名古日謌」を鑑賞します。鑑賞では先に原文、試訓、試訳を紹介して、その後にこの歌を紹介した理由を説明したいと思います。なお、現在、精神的に不安定なため、説明に幾分、悪意の悪臭が漂うものとなっています。それを先にお詫びいたします。

戀男子名古日謌三首
標訓 男子(をのこ)の名は古日に戀ひたる謌三首
集歌904 世人之 貴慕 七種之 寶毛我波 何為 和我中能 産礼出有 白玉之 吾子古日者 明星之 開朝者 敷多倍乃 登許能邊佐良受 立礼杼毛 居礼杼毛 登母尓戯礼 夕星乃 由布弊尓奈礼波 伊射祢余登 手乎多豆佐波里 父母毛 表者奈佐我利 三枝之 中尓乎祢牟登 愛久 志我可多良倍婆 何時可毛 比等々奈理伊弖天 安志家口毛 与家久母見武登 大船乃 於毛比多能無尓 於毛波奴尓 横風乃尓 覆来礼婆 世武須便乃 多杼伎乎之良尓 志路多倍乃 多須吉乎可氣 麻蘇鏡 弖尓登利毛知弖 天神 阿布藝許比乃美 地祇 布之弖額拜 可加良受毛 可賀利毛 神乃末尓麻尓等 立阿射里 我例乞能米登 須臾毛 余家久波奈之尓 漸々 可多知都久保里 朝々 伊布許等夜美 霊剋 伊乃知多延奴礼 立乎杼利 足須里佐家婢 伏仰 武祢宇知奈氣 古手尓持流 安我古登波之都 世間之道

試訓 世間(よのなか)し 貴(たふと)び慕(した)ふ 七種(ななくさ)し 宝しもがは 何為(なにせ)むに 吾(わ)が中(うち)の 産(あ)れ出(い)でたる 白玉し 吾が子古日(ふるひ)は 明星(あかほし)し 明(あ)くる朝(あした)は 敷栲の 床の辺(へ)去(さ)らず 立てれども 居(を)れども ともに戯(たふれ)れ 夕星(ゆふつつ)の 夕(ゆふべ)になれば いざ寝(ね)よと 手を携(たづさ)はり 父母も 上は勿放(なさが)り 三枝(さきくさ)し 中にを寝(ね)むと 愛(うつく)しく 幟(し)が語らへば 何時(いつ)しかも 人と成り出でて 悪(あ)しけくも 吉(よ)けくも見むと 大船の 思ひ憑(たの)むに 思はぬに 邪(よこ)しま風のに 覆(おほ)ひ来れば 為(せ)む術(すべ)の 方便(たどき)を知らに 白栲の たすきを掛け 真澄鏡(まそかがみ) 手に取り持ちて 天つ神 仰ぎ祈(こ)ひ祷(の)み 国つ神 伏して額(ぬか)つき かからずも かかりも 神のまにまにと 立ちあざり 吾(わ)れ祈(こ)ひ祷(の)めど 須臾(しましく)も 吉(よ)けくは無しに 漸漸(やくやく)に 容貌(かたち)くつほり 朝(あさ)な朝(さ)な 言ふこと止み たまきはる 命(いのち)絶えぬれ 立ち躍り 足(あし)摩(す)り叫び 伏し仰ぎ 胸打ち泣き 小手(こて)に持てる 吾が児飛(と)ばしつ 世間(よのなか)し道

試訳 世の中の人が貴んで手に入れたいと願う仏の七種の宝であったとしても今の私には何になるでしょう。私の時代に生まれなさった真珠のように尊い皇孫の私たちの古日は、明け星の輝く夜明けとなると、夫婦の敷栲を敷く床から離れず、立っていても座っていても一緒に戯れ、宵の明星を見る夕方になると、さあ寝ようと手を携えて「お父さんもお母さんも傍を離れず、三枝のように真ん中に寝よう」と愛らしく貴方が語っていると、何時の間にかに、立派な指導者たる「人」として成長して来て、世の悪いこと、良いことを引き受けてこの国を治めると、大船を頼もしく思うように信頼していたのに、世の中が邪な風で覆って来ると、どうして良いのか、その方法を知らないので、邪気を払うと云う白栲のたすきを掛け真澄鏡を手に持って、皇祖(すめおや)の天の神を仰ぎ祈り願い、皇神(すめがみ)の国の神に伏して額ずき、どのようにあっても神の思し召しのままにと、立ったり座ったりして、私は祈り願うのですが、暫くも良いことは無くて、次第に御姿への思いは崩れていき、朝毎にお言葉を下されることはなくなり、魂の期限を刻むその命が絶えてしまうと、立ち跳び上がり足摺りして叫び、倒れ伏して空を仰いで胸を打って泣き、手にまとわりつく我が子を投げ飛ばした。この嘆きは、世の中の人の取るべき姿です。

反謌
集歌905 和可家礼婆 道行之良士 末比波世武 之多敝乃使 於比弖登保良世
訓読 稚(わか)ければ道行き知らじ幣(まひ)は為(せ)む従(した)への使(つか)ひ負(お)ひて通らせ
私訳 まだ稚いので、死出の道を知らないでしょう。神への祈りの捧げ物をしましょう。あの世へと連れて行く使いよ、責任を持って稚き御方をあの世への道を通らせなさい。

集歌906 布施於吉弖 吾波許比能武 阿射無加受 多太尓率去弖 阿麻治思良之米
訓読 布施(ふせ)置きて吾(わ)れは祈(こ)ひ祷(の)む欺(あざむ)かず直(ただ)に率(ゐ)去(ゆ)きて天道(あまぢ)知らしめ
私訳 仏への祈りの布施を捧げ置いて、私は祈り願いましょう。願いを欺くことなく、稚き御方を尊い仏である貴方が率いて、あの世への天上の道をお授けなさい。

右一首作者未詳 但以裁歌之體似於山上之操載此次焉
注訓 右の一首の作る者は未だ詳(つばび)らかならず。 但し、裁歌(さいか)の體(てい)の山上の操(みさを)に似(に)たるを以ちて、此の次(しだひ)に載せる。


 最初に案内しましたように愚案の試訓と試訳を紹介しました。ずいぶんと普段に紹介される現代語訳とは違っています。その理由については、順次、説明をいたします。
 さて、その説明の最初として、長歌原文の最初の部分「世人之 貴慕 七種之 寶毛我波 何為 和我中能 産礼出有 白玉之 吾子古日者」の標準的な解釈を「コレクション日本歌人選 山上憶良 著者;辰巳正明(笠間書店)」から紹介します。

原文 世人之 貴慕 七種之 寶毛我波 何為 和我中能 産礼出有 白玉之 吾子古日者
訓読 世(よ)の人の 貴(たふと)び願ふ 七種(ななくさ)の 宝もわれは 何為(なにせ)むに わが中の 生(うま)れ出(い)でたる 白玉(しらたま)の わが子古日(ふるひ)は
意訳 世間の人が高価で、身に着けたいと願う金や銀や真珠などの宝物は、私に何のたしになろうか。我が子として生まれて来た、白玉のような我が子の古日は、

 コレクション日本歌人選ではこのように紹介されています。この原文とその訓読とに何か問題があるのかと問われたら、何も問題はありません。先に紹介した愚案の試訓と同じです。
 次に、伊藤博の萬葉集釋注から、伊藤博氏の解釈を紹介したいと思います。

原文 世人之 貴慕 七種之 寶毛我波 何為 和我中能 産礼出有 白玉之 吾子古日者
訓読 世(よ)の人(ひと)の 貴(たふと)び願(ねが)ふ 七種(ななくさ)の 宝(たから)も 我(わ)れは何(なに)せむ 我(わ)が中(なか)の 生(うま)れ出(い)でたる 白玉(しらたま)の 我(あ)が子(こ)古日(ふるひ)は
意訳 世間の人が貴び願う七種の宝、そんなものも私にとって何になろうぞ。われわれ夫婦の間の、願いに願ってようやく生まれてきてくれた白玉のような幼な子古日は、

と解釈されています。お判りのように辰巳正明氏と伊藤博氏では「古日」と名付けられた児の親の解釈が違います。ただし原文に対する訓読は同じです。ところが児の親の解釈は、ある種、真反対の解釈となっています。そこが不思議とは思いませんか。
 現在の標準的な解釈の立場は辰巳正明氏のものにあり、「古日」と名付けられた児の親は歌を詠っている人物、つまり、山上憶良と想像して解釈します。世の大勢からすると伊藤博氏の解釈である山上憶良の友人と解釈することは異端の部類に入ります。そのため、伊藤博氏は、この解釈の理由を詳しく説明しています。萬葉集釋注では長文ですので摘み食いではありますが、次のように紹介します。

ここには、長歌の本質にかかわる重要な表現が、最小限度二つばかりある。
一つは「我が中の 生れ出でたる 白玉の 我が子古日は」の四句である、日本語の通常の構文としては、ここは「我が中に 生れ出でたる  白玉の 我が子古日は」(われら夫婦の間に生まれ出た云々)とでもあってほしい気のするところで、従来、さまざまな言及がある。しかし、憶良がここで、「我が中に」と言わず「我が中の」と述べた真意は未解決のままで、通常の構文と同様に理解されているのが現状である。
・・・中略・・・
こうして、「生れ出でたる」が表わす内容は、「人の子としてついにこの世に生まれ出た」という意に相違ないことが知らされる。
・・・中略・・・
右のように見てくると、ここに、男の子「古日」の素性について重大な事柄を知ることができる。それは、この夫婦が婚を結んでからかなり遅くにできた子で、しかも、「一人子」であったにちがいないということである。

 このように伊藤博氏は解説され、男の子「古日」とは山上憶良が慰めの挽歌を贈るほどの親しい関係を持つ夫婦の子、それも遅くに出来た一人子であったと想定されています。
 つまり、原文に対する訓読までは同じですが、その同じ訓読である「我が中の 生れ出でたる」の句の解釈の違いによって、「古日」と名付けられた児の親が真反対になった訳です。こうしますと、原文「吾子古日者」の「吾」と云う人物について「憶良」とする場合と「憶良の友人」とする場合との二つの解釈が存在することになります。どうです、面白いと思いませんか。同じ日本語の文章ですが、読みようによっては「自分の子」か、「他人の子」かとの真反対の解釈が成り立つようなことはあまり無いのではないでしょうか。

 言葉の解釈です。場合により水掛け論に陥る可能性もあります。そこで、一端、ここの解釈の判断を中断して、今一度、長歌の句を見てみます。すると、末句に「安我古登波之都 世間之道」と云う表現があります。この「安我古登波之都」は真仮名での表現とすると、これは「あがことはしつ」としか訓めません。それでこの句は古くから「吾が児飛ばしつ」と解釈します(一般には「我が子飛ばしつ」と表記します)。すると、この長歌には「あがこ」と云う言葉に対して、「吾子」と云う表現と「安我古」と云う表現が混在していることになります。
 こうした時、歌をまとめる部分となる「古手尓持流 安我古登波之都 世間之道」と云う一節をどのように解釈しているかを先のお二人のもので確認してみます。

辰巳正明氏 コレクション日本歌人選 山上憶良
訓読 手に持てる 吾(あ)が児(こ)飛ばしつ 世間(よのなか)の道
意訳 大切に手の中で守ってきた我が児を、亡くした。これが世間に生きるということなのだ。

伊藤博氏 萬葉集釋注
訓読 手に持てる 我(あ)が子飛ばしつ 世の中の道
意訳 この手に握りしめていた我が幼な子を飛ばしてしまった。ああ、これが世の中を生きていくということなのか。

 ここでも辰巳正明氏と伊藤博氏では訓読は同じなのですが、現代語意訳文の内容は相当に違います。この意味合いが違う二つの意訳文について少し説明しますと、実は伊藤博氏のものが直訳からすると一般的な解釈であって、辰巳正明氏のものはそれを判った上で敢えて直訳に近い形での意訳を避けられています。その理由として「吾が児飛ばしつ」の状況を説明する時、おおむね、悲しみのあまりの精神錯乱によって死んだ子供の遺体を思わず投げたのであろうと解釈せざるを得ません。そこに心理的な抵抗があると思われることと、想定するコレクション日本歌人選の購読者のレベルを踏まえるとそのような心理的に抵抗のある厳密な解釈を要求しないであろうと判断されたと思えるからです。このような事情があるため、親が死んだばかりの子の体を投げると云う精神錯乱の状態でなければ説明できない「吾が児飛ばしつ」の言葉を解説するために、伊藤博氏は古代の葬儀ではその悲しみを表すために、葬儀に参列する人々は己の身を傷つけ血を流し慟哭をしたと云う風習を紹介し、その延長線にある行為と説明されています。つまり、「吾が児飛ばしつ」と云う言葉に真っ直ぐに正対すると、その解釈は非常に難しいものなのです。
 さて、少し、視線を変えてみてみましょう。「吾が児飛ばしつ」と云う難しい解釈の原因となっている「あがこ」と云う言葉に対して、先に見た表記の書き分けの中に作歌者である憶良の歌への意図はないのでしょうか。真仮名の「古」は甲音の「コ」ですから「子」や「児」と同じ分類です。場合により憶良は「吾子」と「吾児」との書き分けを意図して「吾児」と記すところを、「吾子」の表記の比較において「安我古」とした可能性はないでしょうか。以前、弊ブログの万葉雑記人麻呂歌集の「兒」と「子」の記事で、愚案ではありますが人麻呂の歌には「兒」と「子」の漢字の使い分けがあり、その時、吾妹子と吾妹児とでは意味する人物が違う可能性を示しました。復習のようですが、吾妹子は尊敬と敬愛の感情を持って「私の愛しい貴女」であり、吾妹児は「私の妻の子供」と解釈することが出来るとしました。その視線からしますと、「安我古」が「吾児」であることを意図した記述と考えた場合、この「児」は自分の子供であることになります。つまり、「安我古」とは歌を詠っている本人、憶良の子供となります。
 先ほど「吾子古日者」の「吾」と云う人物が「憶良」である場合と「憶良の友人」である場合との二つの解釈が存在することを確認しました。ここでは「安我古」の「吾」と云う人物は「憶良」自身と解釈すべきだとの愚案を示しました。すると、可能性として歌には死んでしまった友人の子供と己が腕に纏わり付く生きている自分の子供とが詠われていることになります。当然、組み合わせで自分の死んだ子供と己が腕に纏わり付く子供と云う可能性もあります。この場合は子供の表記が「子」と「古(=児)」との違いから、身分=母親の身分や性別・年齢が大きく違うという推測が成り立ちます。ただ、「兒」と「子」との違いに注目するのであれば、死んでしまった友人の子供と己が腕に纏わり付く生きている自分の子供の組み合わせの方が自然だと考えます。

 この前提で歌の場面を想像する時、子供同士の遊び友達にある関係で、自分の子供を連れて相手の子供の病気見舞いに行ったところ、ちょうど、その子供の急死の場面に出会ったと云うところでしょうか。自分の子供は事情が判らず、ぐずり纏わり付いて来ても、その姿は子供を亡くした両親から見れば切なく辛い光景です。その両親の姿を見れば、纏わり付く自分の子供を振り払っても児を亡くした両親に同情して涙するのが人の道でしょう。憶良の感覚では、ぐずり纏わり付く子供をあやして場を取り繕うのは己の事情が中心にあるから、お悔やみをするのであれば相手の立場に立ち、全てを人が死んだと云う悲しみの中にぶつけるのが正しいことのようです。
 万葉集の歌は漢語と真仮名と云う万葉仮名で記述してあると云う基本に立ち戻り、歌での「吾子」と「安我古」との表記の違いや「和我中能 産礼出有」の表現に注目する時、歌はこのように解釈することも可能です。そのため、ずいぶんと普段の解釈と違うものになり、それが愚案の試訳で示したものとなっています。この歌に解釈の難しい精神錯乱の状況を作り出す必要はないと思います。万葉集の歌は、原則に従って素直に解釈するのが良いと思います。今回もまた校本万葉集を下にした解釈は、不可思議なものと指摘をしたい気持ちです。

 もし、この歌が死んでしまった友人の子供と生きている自分の子供との対比を比喩として、人の死へのお悔やみの態度について人倫を説くものとしますと、歌の解釈にさらに深みが出て来ます。
 この「戀男子名古日謌」は万葉集巻五を閉めるために巻末に置かれた歌です。歌が現実に幼子を亡くした両親に対するお悔やみの挽歌として観賞するのか、それとも子を亡くした親に対するお悔やみの気持ちを示す人倫を説くものかの解釈の相違で、巻五での編纂と歌の解釈が変わる可能性があります。
 巻五は大伴旅人の詠う報凶問歌で巻が開かれ、憶良の詠う日本挽謌へと続きます。報凶問歌と日本挽謌とは奈良の都で若き夫婦の死亡を悲しみ、それを弔う挽歌です。およそ、死亡した若き夫婦の妻たる女性は大伴旅人の娘と思われ、また、夫である男性は憶良が見知る人物です。(詳しくは、弊ブログ「日本挽歌を観賞する」を参照下さい) その時、大伴旅人は子を亡くしたばかりの親であり、それを聞き悼む憶良には成長してもなお憶良を煩わせる生きている子供たちが居ます(万葉集巻五、老身重病經年辛苦及思兒等謌より)。心を煩わせる(=精神的に纏わり付く)状況を物理的な姿に置き換えれば、歌で詠う「小手に持てる吾が児」と同じではないでしょうか。そこには、なにか、この「戀男子名古日謌」と重なるものがあるような気がします。
 そして、長歌の初めの部分の一節「七種之 寶毛我波 何為(七種(ななくさ)し 宝しもがは 何為(なにせ)むに)」は、子を亡くした悲しみに浸る大伴旅人が詠う讃酒十三首の歌と重なり、

集歌345 價無 寳跡言十方 一坏乃 濁酒尓 豈益目八
訓読 価(あたひ)なき宝といふとも一杯(ひとつき)の濁れる酒にあにまさめや
私訳 価格を付けようもない貴い宝といっても、一杯の濁った酒にどうして勝るでしょう。

また、山上憶良本人が詠う思子等謌の世界とも重なるような気がします。

反謌
集歌803 銀母 金母玉母 奈尓世武尓 麻佐礼留多可良 古尓斯迦米夜母
訓読 銀(しろがね)も金(くがね)も玉も何せむに勝(まさ)れる宝(たから)子に及(し)かめやも
私訳 銀も金も珠も、何になるのであろうか。それら特別に優れた宝が亡くなった子に及ぶことはあるでしょうか。

 このように大伴旅人や山上憶良の歌々に彷徨いますと、何かこの「戀男子名古日謌」に辿り着くような感覚があります。巻五を閉める歌として、再度、報凶問歌と日本挽謌とで醸し出す巻五の世界を確認したような気がします。万葉集を編纂した人は、今一度、「紅顏共三従長逝、素質与四徳永滅」と憶良に詠われた非業な死でこの世を逝った若き夫婦に悲しみの涙を求めたのではないでしょう。日本挽謌は妻に重きを置き、この戀男子名古日は夫に重きを置いたような感覚があります。

 最後に、長歌で得られた視線で反歌を観賞してみますと、その二首の反歌の最初の集歌905の歌が神道の神に幣を手向け、次の集歌906の歌が仏教の仏に布施を喜捨し、亡くなった子が無事にあの世へと辿り着くことを願っています。(この解釈のため、集歌905の歌の「之多敝乃使」を「下辺の使い=地下への使い=黄泉の国への使い」とは解釈せずに「従への使い=連れ去るための使い」と解釈しています)
 その神仏帰依の姿からすると、ちょうど、皇族や高貴な人々の葬儀に似た様相を呈しています。人麻呂の妻への挽歌を見てみますと、人麻呂の妻は火葬・散骨のスタイルで仏教による葬儀です。ところが、続日本紀によると持統天皇へは穂積皇子たちが作殯宮司に任命されていますから、神道による葬儀が行われています。殯宮の後、持統天皇の遺体は火葬され、天武天皇の御陵である大内陵に埋葬されています。つまり、持統天皇は神道と仏教の両方で葬儀が行われたことになります。葬儀の順番も反歌の順と同じです。この天皇が神道を祀り、また、同時に仏教に帰依する姿は持統天皇から江戸末期まで続くものとなりました。つまり、歴代の天皇は亡くなられた後、神道の神と同時に仏教の仏として祀られることになりました。一方、人麻呂の妻が仏教だけの葬儀と思われるところから、普通の人々は、神道か、仏教かのどちらかだけで葬儀がおこなわれるのが普通だったと想像します。こうしてみますと、この亡くなった子は高貴な身分の子で、神道と仏教とで葬儀を行うような人であったと推定されます。ただし、人倫を踏まえての歌と解釈する場合、それは比喩ですから、その亡くなられた子の年齢は幼児期だとは定まりません。およそ、大伴旅人に関わる男子であろうと云うことだけです。
 なお、この「古日」と云う名前についての研究では、標の記述スタイルから作歌者は「古日」の身内の者ではない可能性が高いこと、「古日」と云う名前は男性では非常に古風であり、奈良時代では逆に女性的な名前であるとの報告があります。また、「古」は「(霊)振る」や「(天)降る」に通じ、「日」は宮中の日奉部に通じるとの研究もあります。つまり、男子で「古日」と云う名前からは「皇祖の名を受け継ぐ宮中奥深き所に関係する若き男性」と云う人物像が導き出されるようです。名前からの推定と反歌からのものとが導き出される人物像において重なりますが、これは偶然の一致でしょうか。

 今回も中途半端で、悪臭の漂うものになってしまいました。反省です。
 ただ、これに懲りずに伊藤博氏の萬葉集釋注を見てみて下さい。古本も出回る文庫本ですが、非常に勉強になりますし、はっとさせられることがたびたびです。
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