万葉雑記 色眼鏡 百二 遊仙窟伝承と日本貴族 (光儀から楽しむ)
前に『遊仙窟』のテーマで遊びました。今回はそこからさらに展開した妄想の与太話です。実に内容はありません。
繰り返しですが、鎌倉時代からの『万葉集』訓点作業において、次の大伴坂上大嬢に贈った大伴家持が詠う歌には『遊仙窟』の「少時坐睡、則夢見十娘。驚覚攬之、忽然空手」の一節があるとします。
集歌741 夢之相者 苦有家里 覺而 掻探友 手二毛不所觸者
訓読 夢し逢ひは苦しかりけり覺(おどろ)きて掻(か)き探れども手にも触れづそは
私訳 夢の中で抱き合うことは苦しいものです。ふと目覚めて手探りに探っても貴女の体が私の手にも触れないので。
集歌742 一重耳 妹之将結 帶乎尚 三重可結 吾身者成
訓読 一重(ひとへ)のみ妹し結ばむ帯(おび)をすら三重(みへ)結ぶべく吾が身はなりぬ
私訳 一重だけで貴女が私の体を結ぶでしょう、その帯でも、三重に結べるような私の体に成ってしまった。
従来の解釈からすると、その説を唱える人や同意する人々には、歌を詠う大伴家持もその歌を贈られた大伴坂上大嬢(又は付き人)も和歌を鑑賞するためにその典拠である『遊仙窟』の内容を十二分に理解していたとの認識のはずです。
与太話はここを出発点とします。
ここで、「鴨頭」に続き『万葉集』に載る「光儀」と云う言葉を紹介しようと思います
さて、漢語において美しい女性の姿を意味するとして「光儀」と云う言葉が使われたのは『遊仙窟』の一節「敢陳心素、幸願照知。若得見其光儀、豈敢論其萬一」で使われたのを最初の事例とすると思われ、同じ意味合いでの「光儀」と云う言葉は『万葉集』でも六首ほどを見ることが出来ます。
その『万葉集』の中でも、推定で「光儀」の言葉を持つ一番早い時期の歌は和銅四年(711)との年号の標題を付けられた集歌229の歌です。こうした時、粟田朝臣真人を遣唐大使とする第七次遣唐使の帰国は慶雲元年(704)ですし、この時、秘書の職務で山上憶良が同行しています。その山上憶良は「沈痾自哀文」の作品で『遊仙窟』に載る節を引用していますから、まず、第七次遣唐使の帰国時に『遊仙窟』は将来されたのでしょう。
集歌229 難波方 塩干勿有曽祢 沈之 妹之光儀乎 見巻苦流思母
訓読 難波潟(なにはかた)潮干(しほひ)なありそね沈みにし妹し光儀(すがた)を見まく苦しも
私訳 難波潟よ、潮よ引かないでくれ。水に沈んだ貴女の姿を見るのが辛いから。
集歌1622 吾屋戸乃 秋之芽子開 夕影尓 今毛見師香 妹之光儀乎
訓読 吾が屋戸(やと)の秋し萩咲く夕影(ゆふかけ)に今も見てしか妹し姿を
私訳 私の屋敷に秋の萩の花が咲きました。その夕日に照らされる萩の花の姿に今も見出すでしょう、愛しい貴方の恋人の姿を。
集歌2284 率尓 今毛欲見 秋芽子之 四搓二将有 妹之光儀乎
訓読 ゆくりなに今も見が欲(ほ)し秋萩ししなひにあるらむ妹し姿を
私訳 突然ですが、今も眺めて見たい。秋萩のようなあでやかでしなやかな体をしているでしょう、その貴女の姿を。
ここで、「光儀」と云う言葉を歴史に探りますと、漢代では「光儀」と云う言葉は、「鸚鵡賦(禰衡、東漢)」に載る一節「背蠻夷之下國、侍君子之光儀」や「漢武帝内伝」で武帝の生母に対する形容として示す「文彩鮮明、光儀淑穆」の節に示すように非常に高貴な人物への美称です。従いまして、おおむね、皇帝や王、またはそれに準ずる人に対する言葉でした。また、『日本書紀』(養老四年、720成立)にこの「光儀」の言葉を求めましても巻一の天孫降臨の前段で天稚彦が天上からの返矢で亡くなり、その弔いに訪れた高彦根神に対して「光儀華艶」と使われるだけです。つまり、相手は文を奉る人より身分が上となりますから、必然、古代では基本的に公的立場の高貴な男性となります。
ところが、『遊仙窟』では屋敷の女主人ですが公式では官位を持たない若き女性に対して、美しい姿と云うことを主体とした美称として使っています。従来からの儒教等の尊卑思想を背景とした「高貴の御姿は眼にするのも畏れ多い」と云う定型用語からしますとイレギュラー的な使い方となっています。参考情報として『続日本紀』には「光儀」と云う言葉は使われていません。奈良時代後期では既に尊称用語ではなくなっていたのでしょう。
そうしたとき、『万葉集』に「光儀」と云う言葉を求めますと、その典拠であろうと推定される『遊仙窟』が将来されてから数年も経たない間に大和の貴族たちには広く知られる言葉となっていたようです。コピー技術や印刷も無い時代ですから借用・写本が唯一の手段です。それを思うと言葉の伝播速度にはびっくりします。他方、『日本書紀』での用法からしますと、奈良時代の貴族は本来の「光儀」と云う言葉の用法は承知していたと考えられます。ところが『万葉集』に六首も載ると云うことからしますと自分より身分や立場が下であろう若き女性に対して違和感を持つことなくその言葉を使っていますから、平城京貴族と大陸の貴族たちとでは女性に対する感覚が違っていたと推測されます。個人の考えとして、言葉に違和感を持てばその言葉は流行らないと思います。流行語となるには違和感を持たずに新奇性を感じることが必要と考えます。この女性に対する感覚の相違が、日本に『遊仙窟』を残させた理由なのかもしれません。
こうしたとき、日本文学に『遊仙窟』が与えた影響を考察するのですと、本質的な内容からの影響と、内容も分からずに有名な作品や流行からの単なる語字列を引用したものとに分け、それを確認するのが良いのではないでしょうか。影響考察はそれからです。偶然の類似かもしれず、はたまた将来時期とで齟齬がある「千遍死」のような単純な語字列の類似を以って影響があったと述べるようなものには、何か物足りなさと悲しさを感じます。
一つ参考として、奈良時代の貴族たちが享受したことについて、註釈者は『遊仙窟』は唐初時代の妓楼(遊郭)への登楼の手引書であったためではないかとも評論します。つまり、文中の「余」が妓楼の客、「十娘」が妓女(高級遊女、江戸期吉原遊郭の大夫に相当)、「五嫂」が妓楼のやり手女将と云う見立てです。また、内容も登堂(ある種、登楼)から宿泊翌朝までの一連を紹介していますので、この見立てですと、大和国への遣大和使に対する酒令(食事の後の酒席とそこでの遊び)と云う歓待を行う時の手引き書や参加する人々への教育資料となるのかもしれません。それであれば、急速に国際化しつつある平城京でのある種、重要な教育資料となるでしょうし、さらに次期遣唐使や遣新羅使一行がその渡航までに学ぶべき教養であったかもしれません。ある種、当時の士大夫階級が学ぶべき夜のハウツー本と云う評論です。
さて、その『遊仙窟』と云う書物に目を向けますと、日本では平安末期に平康頼が編んだ仏教説話集『宝物集』や鎌倉初期に藤原成範がまとめたとする中国逸話集『唐物語』に『遊仙窟』の話題があり、そこでは作者である張文成が為した則天武后との情事を書き綴り小説としたものが『遊仙窟』だと述べています。およそ、平安末期頃の日本の文化人の認識としては実話です。ただ、その『遊仙窟』は唐初期の則天武后の時代の書物ですが、中国では早期に散逸し伝わらないものですので、『宝物集』や『唐物語』がどこまで真実を伝えているかは不明です。
さらに面白いことに、日本では雅楽の一つである三臺塩急の伝来について次のような伝承があります。
一名、天寿楽(てんじゅらく)ともいわれ、唐楽の平調の曲です。中国唐の則天武后(在位690〜704)の作と伝えられ、張文成が『遊仙窟』という恋愛小説を書いて則天武后に献上したところ、大変喜び、その本の内容を曲にしたとされています。
曲は犬上是成により伝えられ、舞もありましたが、現在では絶えてしまい、急の楽曲のみが残されています。
実に不思議な伝承です。
このように日本では、なぜか、『遊仙窟』は則天武后と深く関わると信じられて来たようです。なぜでしょうか、そこに興味が湧きます。
この点については、『遊仙窟』を紹介するものでは、つぎのように解説しています。
<解説文>
醍醐寺本「遊仙窟」奥書や「明文抄」には、以下のような話が伝わっています。大江維時が天皇に「遊仙窟」の読み方を講義するよう求められたが誰も読み方を知らない。そんな時に木古嶋の神主が読み方を伝授され知っていると聞いて訪れ、教わり改めて天皇に侍読したというのです。慶安五年本「遊仙窟」には同様の話に尾鰭がつき、維時は七日間精進潔斎してから神主に教わり、その後神主は姿を消したため恐らく神の化身であろうという内容になっています。記された年号からは、十四世紀にはそうした誇張された伝説が生まれていた可能性があるようです。
およそ、『遊仙窟』と云う書物が後期平安貴族たちの教養レベルでは難解であり理解が難しかったことや、その成立年代がちょうど則天武后の統治と重なることにあるようです。それと、『遊仙窟』は特徴的に快楽を求める場面では女性の求めを中心に据えたようなところがあるため、儒教の影響下、男性中心の古代では特異な位置にあります。以下に紹介しますが、『遊仙窟』中に示す詩文問答での男女和合の様を実践した日本の貴族たちは、『遊仙窟』とは女性の求めを中心に据えたようなものであることを体感したと想像します。するとそこから、どちらがより楽しむものであるかと云う視線からしますと、作品が誕生した時に絶対の権力を持ち、国家の女主人であった則天武后を想い浮かべたのかもしれません。
また、日本ではそのような風習はありませんが、和合で女性に快楽を与えると云う行為をある種の労働と捉えると儒教の影響下では士大夫階級が行うべきものではなくなります。極端な例ですが、過去の朝鮮半島では貴族は筆より重いものは持たないと云う風潮がありました。このような思想下では相手となる女性は身分的に上位でなくてはならなくなります。
<詩文1>
自憐膠漆重、相思意不窮。可惜尖頭物、終日在皮中。
數捺皮應緩、頻磨快轉多。渠今拔出後、空鞘欲如何。
<詩文2>
摧毛任便點、愛色轉須磨。所以研難竟、良由水太多。
嘴長非為嗍、項曲不由攀。但令脚直上、他自眼雙翻。
<詩文3>
舊来心肚熱、無端強熨他。即今形勢冷、誰肯重相磨。
若冷頭面在、生平不熨空、即今雖冷惡、人自覚残銅。 (銅と洞は同音)
<詩文4>
尾動惟須急、頭低則不平。渠今合把爵、深淺任君情。
發初先向口、欲竟漸昇頭。従君中道歇、到底即須休。
<詩文5>
平生好須弩、得挽即低頭。聞君把提快、更乞五三籌。
縮幹全不到、抬頭剰大過。若令臍下入、百放故籌多。
こうしたとき、歌を詠う大伴家持もその歌を贈られた大伴坂上大嬢(又は付き人)も『遊仙窟』の内容を十二分に理解していたと、そのように平安貴族が思うならば、その平安貴族たちの知的会話のパートナーとなる紫式部や清少納言たち、宮中女房たちもまた『遊仙窟』の内容を享受していたのでしょう。『遊仙窟』は女性の求めの下、男性が女性に対して為す和合の行為を中心に具体的に記述しますから、パトロンを必要とした平安貴族の二男や三男などの人々は必ず知るべき教養であったのかもしれません。平安時代中期以降、男はパトロンの女性の援助の下、朝廷で出世し地位を固め、次いで有力者の娘と婚姻するのが理想のコースだったようです。そのパトロンの為にも、これは則天武后の好みであったと云う伝承の下、『遊仙窟』の教えは重要だったのでしょうか。
ただ、日本の伝承では『遊仙窟』は張文成が為した則天武后との情事を書き綴り小説としたものとなっていますが、その内容からしますと張文成個人特有の好みを下にしたものかもしれません。
おまけとして、
第七次遣唐使の随員であった山上憶良は『万葉集』から推定して『遊仙窟』を読み解き、また、唐滞在中に格式高い妓楼への登楼経験(少なくとも送別の宴で一回)があったと推定されます。さらに『万葉集』歌番号1537と1538の七草の歌からしますと大陸で行われていた宮中行事(乞功奠など)の日本への将来とその整備に関わっていたとも推定することが可能です。もし、『遊仙窟』が遣唐使や遣新羅使として赴く大使が学ぶべき酒令や夜のハウツー本であるならば、その翻訳・整備を行った中心人物に山上憶良がいるのかもしれません。それやこれやで第八次遣唐大使である多治比縣守が唐への渡航に際し山上憶良の許を訪れたのでしょうか。
『遊仙窟』の訓読整備で時間を取られ、他で遊ぶことが出来ませんでした。そのため、卑怯にも『遊仙窟』を題材として時間稼ぎをしてしまいました。実に反省です。なお、告知はしませんが、『遊仙窟』原文とその訓読は、適宜、訂正をしています。コピペをされる場合はご注意ください。
前に『遊仙窟』のテーマで遊びました。今回はそこからさらに展開した妄想の与太話です。実に内容はありません。
繰り返しですが、鎌倉時代からの『万葉集』訓点作業において、次の大伴坂上大嬢に贈った大伴家持が詠う歌には『遊仙窟』の「少時坐睡、則夢見十娘。驚覚攬之、忽然空手」の一節があるとします。
集歌741 夢之相者 苦有家里 覺而 掻探友 手二毛不所觸者
訓読 夢し逢ひは苦しかりけり覺(おどろ)きて掻(か)き探れども手にも触れづそは
私訳 夢の中で抱き合うことは苦しいものです。ふと目覚めて手探りに探っても貴女の体が私の手にも触れないので。
集歌742 一重耳 妹之将結 帶乎尚 三重可結 吾身者成
訓読 一重(ひとへ)のみ妹し結ばむ帯(おび)をすら三重(みへ)結ぶべく吾が身はなりぬ
私訳 一重だけで貴女が私の体を結ぶでしょう、その帯でも、三重に結べるような私の体に成ってしまった。
従来の解釈からすると、その説を唱える人や同意する人々には、歌を詠う大伴家持もその歌を贈られた大伴坂上大嬢(又は付き人)も和歌を鑑賞するためにその典拠である『遊仙窟』の内容を十二分に理解していたとの認識のはずです。
与太話はここを出発点とします。
ここで、「鴨頭」に続き『万葉集』に載る「光儀」と云う言葉を紹介しようと思います
さて、漢語において美しい女性の姿を意味するとして「光儀」と云う言葉が使われたのは『遊仙窟』の一節「敢陳心素、幸願照知。若得見其光儀、豈敢論其萬一」で使われたのを最初の事例とすると思われ、同じ意味合いでの「光儀」と云う言葉は『万葉集』でも六首ほどを見ることが出来ます。
その『万葉集』の中でも、推定で「光儀」の言葉を持つ一番早い時期の歌は和銅四年(711)との年号の標題を付けられた集歌229の歌です。こうした時、粟田朝臣真人を遣唐大使とする第七次遣唐使の帰国は慶雲元年(704)ですし、この時、秘書の職務で山上憶良が同行しています。その山上憶良は「沈痾自哀文」の作品で『遊仙窟』に載る節を引用していますから、まず、第七次遣唐使の帰国時に『遊仙窟』は将来されたのでしょう。
集歌229 難波方 塩干勿有曽祢 沈之 妹之光儀乎 見巻苦流思母
訓読 難波潟(なにはかた)潮干(しほひ)なありそね沈みにし妹し光儀(すがた)を見まく苦しも
私訳 難波潟よ、潮よ引かないでくれ。水に沈んだ貴女の姿を見るのが辛いから。
集歌1622 吾屋戸乃 秋之芽子開 夕影尓 今毛見師香 妹之光儀乎
訓読 吾が屋戸(やと)の秋し萩咲く夕影(ゆふかけ)に今も見てしか妹し姿を
私訳 私の屋敷に秋の萩の花が咲きました。その夕日に照らされる萩の花の姿に今も見出すでしょう、愛しい貴方の恋人の姿を。
集歌2284 率尓 今毛欲見 秋芽子之 四搓二将有 妹之光儀乎
訓読 ゆくりなに今も見が欲(ほ)し秋萩ししなひにあるらむ妹し姿を
私訳 突然ですが、今も眺めて見たい。秋萩のようなあでやかでしなやかな体をしているでしょう、その貴女の姿を。
ここで、「光儀」と云う言葉を歴史に探りますと、漢代では「光儀」と云う言葉は、「鸚鵡賦(禰衡、東漢)」に載る一節「背蠻夷之下國、侍君子之光儀」や「漢武帝内伝」で武帝の生母に対する形容として示す「文彩鮮明、光儀淑穆」の節に示すように非常に高貴な人物への美称です。従いまして、おおむね、皇帝や王、またはそれに準ずる人に対する言葉でした。また、『日本書紀』(養老四年、720成立)にこの「光儀」の言葉を求めましても巻一の天孫降臨の前段で天稚彦が天上からの返矢で亡くなり、その弔いに訪れた高彦根神に対して「光儀華艶」と使われるだけです。つまり、相手は文を奉る人より身分が上となりますから、必然、古代では基本的に公的立場の高貴な男性となります。
ところが、『遊仙窟』では屋敷の女主人ですが公式では官位を持たない若き女性に対して、美しい姿と云うことを主体とした美称として使っています。従来からの儒教等の尊卑思想を背景とした「高貴の御姿は眼にするのも畏れ多い」と云う定型用語からしますとイレギュラー的な使い方となっています。参考情報として『続日本紀』には「光儀」と云う言葉は使われていません。奈良時代後期では既に尊称用語ではなくなっていたのでしょう。
そうしたとき、『万葉集』に「光儀」と云う言葉を求めますと、その典拠であろうと推定される『遊仙窟』が将来されてから数年も経たない間に大和の貴族たちには広く知られる言葉となっていたようです。コピー技術や印刷も無い時代ですから借用・写本が唯一の手段です。それを思うと言葉の伝播速度にはびっくりします。他方、『日本書紀』での用法からしますと、奈良時代の貴族は本来の「光儀」と云う言葉の用法は承知していたと考えられます。ところが『万葉集』に六首も載ると云うことからしますと自分より身分や立場が下であろう若き女性に対して違和感を持つことなくその言葉を使っていますから、平城京貴族と大陸の貴族たちとでは女性に対する感覚が違っていたと推測されます。個人の考えとして、言葉に違和感を持てばその言葉は流行らないと思います。流行語となるには違和感を持たずに新奇性を感じることが必要と考えます。この女性に対する感覚の相違が、日本に『遊仙窟』を残させた理由なのかもしれません。
こうしたとき、日本文学に『遊仙窟』が与えた影響を考察するのですと、本質的な内容からの影響と、内容も分からずに有名な作品や流行からの単なる語字列を引用したものとに分け、それを確認するのが良いのではないでしょうか。影響考察はそれからです。偶然の類似かもしれず、はたまた将来時期とで齟齬がある「千遍死」のような単純な語字列の類似を以って影響があったと述べるようなものには、何か物足りなさと悲しさを感じます。
一つ参考として、奈良時代の貴族たちが享受したことについて、註釈者は『遊仙窟』は唐初時代の妓楼(遊郭)への登楼の手引書であったためではないかとも評論します。つまり、文中の「余」が妓楼の客、「十娘」が妓女(高級遊女、江戸期吉原遊郭の大夫に相当)、「五嫂」が妓楼のやり手女将と云う見立てです。また、内容も登堂(ある種、登楼)から宿泊翌朝までの一連を紹介していますので、この見立てですと、大和国への遣大和使に対する酒令(食事の後の酒席とそこでの遊び)と云う歓待を行う時の手引き書や参加する人々への教育資料となるのかもしれません。それであれば、急速に国際化しつつある平城京でのある種、重要な教育資料となるでしょうし、さらに次期遣唐使や遣新羅使一行がその渡航までに学ぶべき教養であったかもしれません。ある種、当時の士大夫階級が学ぶべき夜のハウツー本と云う評論です。
さて、その『遊仙窟』と云う書物に目を向けますと、日本では平安末期に平康頼が編んだ仏教説話集『宝物集』や鎌倉初期に藤原成範がまとめたとする中国逸話集『唐物語』に『遊仙窟』の話題があり、そこでは作者である張文成が為した則天武后との情事を書き綴り小説としたものが『遊仙窟』だと述べています。およそ、平安末期頃の日本の文化人の認識としては実話です。ただ、その『遊仙窟』は唐初期の則天武后の時代の書物ですが、中国では早期に散逸し伝わらないものですので、『宝物集』や『唐物語』がどこまで真実を伝えているかは不明です。
さらに面白いことに、日本では雅楽の一つである三臺塩急の伝来について次のような伝承があります。
一名、天寿楽(てんじゅらく)ともいわれ、唐楽の平調の曲です。中国唐の則天武后(在位690〜704)の作と伝えられ、張文成が『遊仙窟』という恋愛小説を書いて則天武后に献上したところ、大変喜び、その本の内容を曲にしたとされています。
曲は犬上是成により伝えられ、舞もありましたが、現在では絶えてしまい、急の楽曲のみが残されています。
実に不思議な伝承です。
このように日本では、なぜか、『遊仙窟』は則天武后と深く関わると信じられて来たようです。なぜでしょうか、そこに興味が湧きます。
この点については、『遊仙窟』を紹介するものでは、つぎのように解説しています。
<解説文>
醍醐寺本「遊仙窟」奥書や「明文抄」には、以下のような話が伝わっています。大江維時が天皇に「遊仙窟」の読み方を講義するよう求められたが誰も読み方を知らない。そんな時に木古嶋の神主が読み方を伝授され知っていると聞いて訪れ、教わり改めて天皇に侍読したというのです。慶安五年本「遊仙窟」には同様の話に尾鰭がつき、維時は七日間精進潔斎してから神主に教わり、その後神主は姿を消したため恐らく神の化身であろうという内容になっています。記された年号からは、十四世紀にはそうした誇張された伝説が生まれていた可能性があるようです。
およそ、『遊仙窟』と云う書物が後期平安貴族たちの教養レベルでは難解であり理解が難しかったことや、その成立年代がちょうど則天武后の統治と重なることにあるようです。それと、『遊仙窟』は特徴的に快楽を求める場面では女性の求めを中心に据えたようなところがあるため、儒教の影響下、男性中心の古代では特異な位置にあります。以下に紹介しますが、『遊仙窟』中に示す詩文問答での男女和合の様を実践した日本の貴族たちは、『遊仙窟』とは女性の求めを中心に据えたようなものであることを体感したと想像します。するとそこから、どちらがより楽しむものであるかと云う視線からしますと、作品が誕生した時に絶対の権力を持ち、国家の女主人であった則天武后を想い浮かべたのかもしれません。
また、日本ではそのような風習はありませんが、和合で女性に快楽を与えると云う行為をある種の労働と捉えると儒教の影響下では士大夫階級が行うべきものではなくなります。極端な例ですが、過去の朝鮮半島では貴族は筆より重いものは持たないと云う風潮がありました。このような思想下では相手となる女性は身分的に上位でなくてはならなくなります。
<詩文1>
自憐膠漆重、相思意不窮。可惜尖頭物、終日在皮中。
數捺皮應緩、頻磨快轉多。渠今拔出後、空鞘欲如何。
<詩文2>
摧毛任便點、愛色轉須磨。所以研難竟、良由水太多。
嘴長非為嗍、項曲不由攀。但令脚直上、他自眼雙翻。
<詩文3>
舊来心肚熱、無端強熨他。即今形勢冷、誰肯重相磨。
若冷頭面在、生平不熨空、即今雖冷惡、人自覚残銅。 (銅と洞は同音)
<詩文4>
尾動惟須急、頭低則不平。渠今合把爵、深淺任君情。
發初先向口、欲竟漸昇頭。従君中道歇、到底即須休。
<詩文5>
平生好須弩、得挽即低頭。聞君把提快、更乞五三籌。
縮幹全不到、抬頭剰大過。若令臍下入、百放故籌多。
こうしたとき、歌を詠う大伴家持もその歌を贈られた大伴坂上大嬢(又は付き人)も『遊仙窟』の内容を十二分に理解していたと、そのように平安貴族が思うならば、その平安貴族たちの知的会話のパートナーとなる紫式部や清少納言たち、宮中女房たちもまた『遊仙窟』の内容を享受していたのでしょう。『遊仙窟』は女性の求めの下、男性が女性に対して為す和合の行為を中心に具体的に記述しますから、パトロンを必要とした平安貴族の二男や三男などの人々は必ず知るべき教養であったのかもしれません。平安時代中期以降、男はパトロンの女性の援助の下、朝廷で出世し地位を固め、次いで有力者の娘と婚姻するのが理想のコースだったようです。そのパトロンの為にも、これは則天武后の好みであったと云う伝承の下、『遊仙窟』の教えは重要だったのでしょうか。
ただ、日本の伝承では『遊仙窟』は張文成が為した則天武后との情事を書き綴り小説としたものとなっていますが、その内容からしますと張文成個人特有の好みを下にしたものかもしれません。
おまけとして、
第七次遣唐使の随員であった山上憶良は『万葉集』から推定して『遊仙窟』を読み解き、また、唐滞在中に格式高い妓楼への登楼経験(少なくとも送別の宴で一回)があったと推定されます。さらに『万葉集』歌番号1537と1538の七草の歌からしますと大陸で行われていた宮中行事(乞功奠など)の日本への将来とその整備に関わっていたとも推定することが可能です。もし、『遊仙窟』が遣唐使や遣新羅使として赴く大使が学ぶべき酒令や夜のハウツー本であるならば、その翻訳・整備を行った中心人物に山上憶良がいるのかもしれません。それやこれやで第八次遣唐大使である多治比縣守が唐への渡航に際し山上憶良の許を訪れたのでしょうか。
『遊仙窟』の訓読整備で時間を取られ、他で遊ぶことが出来ませんでした。そのため、卑怯にも『遊仙窟』を題材として時間稼ぎをしてしまいました。実に反省です。なお、告知はしませんが、『遊仙窟』原文とその訓読は、適宜、訂正をしています。コピペをされる場合はご注意ください。