竹取翁と万葉集のお勉強

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万葉雑記 色眼鏡 百二 遊仙窟伝承と日本貴族 (光儀から楽しむ)

2015年01月31日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 百二 遊仙窟伝承と日本貴族 (光儀から楽しむ)

 前に『遊仙窟』のテーマで遊びました。今回はそこからさらに展開した妄想の与太話です。実に内容はありません。
 繰り返しですが、鎌倉時代からの『万葉集』訓点作業において、次の大伴坂上大嬢に贈った大伴家持が詠う歌には『遊仙窟』の「少時坐睡、則夢見十娘。驚覚攬之、忽然空手」の一節があるとします。

集歌741 夢之相者 苦有家里 覺而 掻探友 手二毛不所觸者
訓読 夢し逢ひは苦しかりけり覺(おどろ)きて掻(か)き探れども手にも触れづそは
私訳 夢の中で抱き合うことは苦しいものです。ふと目覚めて手探りに探っても貴女の体が私の手にも触れないので。

集歌742 一重耳 妹之将結 帶乎尚 三重可結 吾身者成
訓読 一重(ひとへ)のみ妹し結ばむ帯(おび)をすら三重(みへ)結ぶべく吾が身はなりぬ
私訳 一重だけで貴女が私の体を結ぶでしょう、その帯でも、三重に結べるような私の体に成ってしまった。

 従来の解釈からすると、その説を唱える人や同意する人々には、歌を詠う大伴家持もその歌を贈られた大伴坂上大嬢(又は付き人)も和歌を鑑賞するためにその典拠である『遊仙窟』の内容を十二分に理解していたとの認識のはずです。
 与太話はここを出発点とします。

 ここで、「鴨頭」に続き『万葉集』に載る「光儀」と云う言葉を紹介しようと思います
 さて、漢語において美しい女性の姿を意味するとして「光儀」と云う言葉が使われたのは『遊仙窟』の一節「敢陳心素、幸願照知。若得見其光儀、豈敢論其萬一」で使われたのを最初の事例とすると思われ、同じ意味合いでの「光儀」と云う言葉は『万葉集』でも六首ほどを見ることが出来ます。
 その『万葉集』の中でも、推定で「光儀」の言葉を持つ一番早い時期の歌は和銅四年(711)との年号の標題を付けられた集歌229の歌です。こうした時、粟田朝臣真人を遣唐大使とする第七次遣唐使の帰国は慶雲元年(704)ですし、この時、秘書の職務で山上憶良が同行しています。その山上憶良は「沈痾自哀文」の作品で『遊仙窟』に載る節を引用していますから、まず、第七次遣唐使の帰国時に『遊仙窟』は将来されたのでしょう。

集歌229 難波方 塩干勿有曽祢 沈之 妹之光儀乎 見巻苦流思母
訓読 難波潟(なにはかた)潮干(しほひ)なありそね沈みにし妹し光儀(すがた)を見まく苦しも
私訳 難波潟よ、潮よ引かないでくれ。水に沈んだ貴女の姿を見るのが辛いから。

集歌1622 吾屋戸乃 秋之芽子開 夕影尓 今毛見師香 妹之光儀乎
訓読 吾が屋戸(やと)の秋し萩咲く夕影(ゆふかけ)に今も見てしか妹し姿を
私訳 私の屋敷に秋の萩の花が咲きました。その夕日に照らされる萩の花の姿に今も見出すでしょう、愛しい貴方の恋人の姿を。

集歌2284 率尓 今毛欲見 秋芽子之 四搓二将有 妹之光儀乎
訓読 ゆくりなに今も見が欲(ほ)し秋萩ししなひにあるらむ妹し姿を
私訳 突然ですが、今も眺めて見たい。秋萩のようなあでやかでしなやかな体をしているでしょう、その貴女の姿を。

 ここで、「光儀」と云う言葉を歴史に探りますと、漢代では「光儀」と云う言葉は、「鸚鵡賦(禰衡、東漢)」に載る一節「背蠻夷之下國、侍君子之光儀」や「漢武帝内伝」で武帝の生母に対する形容として示す「文彩鮮明、光儀淑穆」の節に示すように非常に高貴な人物への美称です。従いまして、おおむね、皇帝や王、またはそれに準ずる人に対する言葉でした。また、『日本書紀』(養老四年、720成立)にこの「光儀」の言葉を求めましても巻一の天孫降臨の前段で天稚彦が天上からの返矢で亡くなり、その弔いに訪れた高彦根神に対して「光儀華艶」と使われるだけです。つまり、相手は文を奉る人より身分が上となりますから、必然、古代では基本的に公的立場の高貴な男性となります。
 ところが、『遊仙窟』では屋敷の女主人ですが公式では官位を持たない若き女性に対して、美しい姿と云うことを主体とした美称として使っています。従来からの儒教等の尊卑思想を背景とした「高貴の御姿は眼にするのも畏れ多い」と云う定型用語からしますとイレギュラー的な使い方となっています。参考情報として『続日本紀』には「光儀」と云う言葉は使われていません。奈良時代後期では既に尊称用語ではなくなっていたのでしょう。
 そうしたとき、『万葉集』に「光儀」と云う言葉を求めますと、その典拠であろうと推定される『遊仙窟』が将来されてから数年も経たない間に大和の貴族たちには広く知られる言葉となっていたようです。コピー技術や印刷も無い時代ですから借用・写本が唯一の手段です。それを思うと言葉の伝播速度にはびっくりします。他方、『日本書紀』での用法からしますと、奈良時代の貴族は本来の「光儀」と云う言葉の用法は承知していたと考えられます。ところが『万葉集』に六首も載ると云うことからしますと自分より身分や立場が下であろう若き女性に対して違和感を持つことなくその言葉を使っていますから、平城京貴族と大陸の貴族たちとでは女性に対する感覚が違っていたと推測されます。個人の考えとして、言葉に違和感を持てばその言葉は流行らないと思います。流行語となるには違和感を持たずに新奇性を感じることが必要と考えます。この女性に対する感覚の相違が、日本に『遊仙窟』を残させた理由なのかもしれません。
 こうしたとき、日本文学に『遊仙窟』が与えた影響を考察するのですと、本質的な内容からの影響と、内容も分からずに有名な作品や流行からの単なる語字列を引用したものとに分け、それを確認するのが良いのではないでしょうか。影響考察はそれからです。偶然の類似かもしれず、はたまた将来時期とで齟齬がある「千遍死」のような単純な語字列の類似を以って影響があったと述べるようなものには、何か物足りなさと悲しさを感じます。
 一つ参考として、奈良時代の貴族たちが享受したことについて、註釈者は『遊仙窟』は唐初時代の妓楼(遊郭)への登楼の手引書であったためではないかとも評論します。つまり、文中の「余」が妓楼の客、「十娘」が妓女(高級遊女、江戸期吉原遊郭の大夫に相当)、「五嫂」が妓楼のやり手女将と云う見立てです。また、内容も登堂(ある種、登楼)から宿泊翌朝までの一連を紹介していますので、この見立てですと、大和国への遣大和使に対する酒令(食事の後の酒席とそこでの遊び)と云う歓待を行う時の手引き書や参加する人々への教育資料となるのかもしれません。それであれば、急速に国際化しつつある平城京でのある種、重要な教育資料となるでしょうし、さらに次期遣唐使や遣新羅使一行がその渡航までに学ぶべき教養であったかもしれません。ある種、当時の士大夫階級が学ぶべき夜のハウツー本と云う評論です。

 さて、その『遊仙窟』と云う書物に目を向けますと、日本では平安末期に平康頼が編んだ仏教説話集『宝物集』や鎌倉初期に藤原成範がまとめたとする中国逸話集『唐物語』に『遊仙窟』の話題があり、そこでは作者である張文成が為した則天武后との情事を書き綴り小説としたものが『遊仙窟』だと述べています。およそ、平安末期頃の日本の文化人の認識としては実話です。ただ、その『遊仙窟』は唐初期の則天武后の時代の書物ですが、中国では早期に散逸し伝わらないものですので、『宝物集』や『唐物語』がどこまで真実を伝えているかは不明です。
 さらに面白いことに、日本では雅楽の一つである三臺塩急の伝来について次のような伝承があります。

一名、天寿楽(てんじゅらく)ともいわれ、唐楽の平調の曲です。中国唐の則天武后(在位690〜704)の作と伝えられ、張文成が『遊仙窟』という恋愛小説を書いて則天武后に献上したところ、大変喜び、その本の内容を曲にしたとされています。
曲は犬上是成により伝えられ、舞もありましたが、現在では絶えてしまい、急の楽曲のみが残されています。

 実に不思議な伝承です。
 このように日本では、なぜか、『遊仙窟』は則天武后と深く関わると信じられて来たようです。なぜでしょうか、そこに興味が湧きます。
 この点については、『遊仙窟』を紹介するものでは、つぎのように解説しています。

<解説文>
醍醐寺本「遊仙窟」奥書や「明文抄」には、以下のような話が伝わっています。大江維時が天皇に「遊仙窟」の読み方を講義するよう求められたが誰も読み方を知らない。そんな時に木古嶋の神主が読み方を伝授され知っていると聞いて訪れ、教わり改めて天皇に侍読したというのです。慶安五年本「遊仙窟」には同様の話に尾鰭がつき、維時は七日間精進潔斎してから神主に教わり、その後神主は姿を消したため恐らく神の化身であろうという内容になっています。記された年号からは、十四世紀にはそうした誇張された伝説が生まれていた可能性があるようです。

 およそ、『遊仙窟』と云う書物が後期平安貴族たちの教養レベルでは難解であり理解が難しかったことや、その成立年代がちょうど則天武后の統治と重なることにあるようです。それと、『遊仙窟』は特徴的に快楽を求める場面では女性の求めを中心に据えたようなところがあるため、儒教の影響下、男性中心の古代では特異な位置にあります。以下に紹介しますが、『遊仙窟』中に示す詩文問答での男女和合の様を実践した日本の貴族たちは、『遊仙窟』とは女性の求めを中心に据えたようなものであることを体感したと想像します。するとそこから、どちらがより楽しむものであるかと云う視線からしますと、作品が誕生した時に絶対の権力を持ち、国家の女主人であった則天武后を想い浮かべたのかもしれません。
 また、日本ではそのような風習はありませんが、和合で女性に快楽を与えると云う行為をある種の労働と捉えると儒教の影響下では士大夫階級が行うべきものではなくなります。極端な例ですが、過去の朝鮮半島では貴族は筆より重いものは持たないと云う風潮がありました。このような思想下では相手となる女性は身分的に上位でなくてはならなくなります。

<詩文1>
自憐膠漆重、相思意不窮。可惜尖頭物、終日在皮中。
數捺皮應緩、頻磨快轉多。渠今拔出後、空鞘欲如何。
<詩文2> 
摧毛任便點、愛色轉須磨。所以研難竟、良由水太多。
嘴長非為嗍、項曲不由攀。但令脚直上、他自眼雙翻。
<詩文3>
舊来心肚熱、無端強熨他。即今形勢冷、誰肯重相磨。
若冷頭面在、生平不熨空、即今雖冷惡、人自覚残銅。 (銅と洞は同音)
<詩文4>
尾動惟須急、頭低則不平。渠今合把爵、深淺任君情。
發初先向口、欲竟漸昇頭。従君中道歇、到底即須休。
<詩文5>
平生好須弩、得挽即低頭。聞君把提快、更乞五三籌。
縮幹全不到、抬頭剰大過。若令臍下入、百放故籌多。

 こうしたとき、歌を詠う大伴家持もその歌を贈られた大伴坂上大嬢(又は付き人)も『遊仙窟』の内容を十二分に理解していたと、そのように平安貴族が思うならば、その平安貴族たちの知的会話のパートナーとなる紫式部や清少納言たち、宮中女房たちもまた『遊仙窟』の内容を享受していたのでしょう。『遊仙窟』は女性の求めの下、男性が女性に対して為す和合の行為を中心に具体的に記述しますから、パトロンを必要とした平安貴族の二男や三男などの人々は必ず知るべき教養であったのかもしれません。平安時代中期以降、男はパトロンの女性の援助の下、朝廷で出世し地位を固め、次いで有力者の娘と婚姻するのが理想のコースだったようです。そのパトロンの為にも、これは則天武后の好みであったと云う伝承の下、『遊仙窟』の教えは重要だったのでしょうか。
 ただ、日本の伝承では『遊仙窟』は張文成が為した則天武后との情事を書き綴り小説としたものとなっていますが、その内容からしますと張文成個人特有の好みを下にしたものかもしれません。

 おまけとして、
 第七次遣唐使の随員であった山上憶良は『万葉集』から推定して『遊仙窟』を読み解き、また、唐滞在中に格式高い妓楼への登楼経験(少なくとも送別の宴で一回)があったと推定されます。さらに『万葉集』歌番号1537と1538の七草の歌からしますと大陸で行われていた宮中行事(乞功奠など)の日本への将来とその整備に関わっていたとも推定することが可能です。もし、『遊仙窟』が遣唐使や遣新羅使として赴く大使が学ぶべき酒令や夜のハウツー本であるならば、その翻訳・整備を行った中心人物に山上憶良がいるのかもしれません。それやこれやで第八次遣唐大使である多治比縣守が唐への渡航に際し山上憶良の許を訪れたのでしょうか。


 『遊仙窟』の訓読整備で時間を取られ、他で遊ぶことが出来ませんでした。そのため、卑怯にも『遊仙窟』を題材として時間稼ぎをしてしまいました。実に反省です。なお、告知はしませんが、『遊仙窟』原文とその訓読は、適宜、訂正をしています。コピペをされる場合はご注意ください。
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資料編 遊仙窟から見る唐代初期の服装

2015年01月24日 | 資料書庫
資料編 遊仙窟から見る唐代初期の服装

はじめに
 注意事項として、唐代初期の服装への資料は『遊仙窟』と云う小説から取材をしたものです。そのため、引用元には性描写を含みます。従いまして、低年齢者の参照には向きませんので、速やかな退場を勧めます。

遊仙窟から見る唐代初期の服装
 『遊仙窟』と云う小説に唐代初期の服装についての記事がありますので、参考資料として紹介いたします。
 御承知のように服装は身分や職務により変わり、また、季節により異なります。その身分や職務について、小説では男は士大夫階級出身で関内道の小県尉と云う官職にあり、女は建前では士大夫階級に属する十七歳の戦争未亡人となっています。ただし、女については、実質上、妓楼の妓女(江戸期の吉原遊郭の大夫に相当)に相当する立場と理解して頂き、紹介する男女の服装はそのような立場の人々のものと解釈して下さい。ここで小県尉は科挙合格の将来を約束された官人であり、唐の州県制度における県の軍事担当武官で副官に相当します。現在の日本に置き換えますと、国家公務員上級甲種試験に合格し、警察庁から出向して来た若い県警副本部長に相当します。
 また、季節としては小説の設定では蜂や燕が飛び交い、花が咲き乱れるような季節としますが、同時に真夏ではないとしています。裸になるほどの暑さではありませんが、服を着込まなければいけないような涼しさでもありません。日本の初夏と想像して下さい。

 ここで、『遊仙窟』から服装に関するものを抜き出しますと、次のような言葉を見ることが出来ます。
 主に男の服装を記述したもの
靴履 靴履(くつはき)
靴を履いているさま
袍衣 袍衣(ほうい)
表衣(うえのきぬ)ともいう。束帯および衣冠着用のときのガウン状の上着。両脇が閉じられ、すそに襴 (らん) という別布のついた縫腋の袍 (ほうえきのほう) と、襴がなく両脇が開いたままの闕腋の袍 (けってきのほう) とに分れ、前者はおもに文官用、後者は武官用。
幞頭 幞頭(ぼくとう)
律令制で、朝服に用いたかぶり物。中国唐代に士大夫などが着用した頭巾(ずきん)。
腰帶 腰帶(こしおび)
ここでは正装でのものを想定して宛帯(あておび)の解説を採用した。衫(さん)の上に締める帯。腰に当て、前に回して結ぶ。

 主に女を中心に服装を記述したもの
綾被 綾被(あやのかづき)
綾織製法の被のこと。被は顔を隠すため頭上から衣をかぶるためのもの。ここでは領巾(ひれ)のようにして肩からストールのように纏う。
羅裙 羅裙(らのくん)
羅(うすもの)の襞付きの巻スカート状のもの。裳に相当し、紐で前を結ぶ。
紅衫 紅衫(くれないのさん)
紅色の(上半身に着る)一重の着物(上着に相当)。万葉集では衣と称するもの
緑袜 緑袜(みどりのばつ)
緑色の靴下
紅褌 紅褌(くれないのくん)(褌;「はかま」の訓もあるが採らない)
紅色の胸から下腹部を覆う一枚布の女性の下着。後のお腰と同様なものを胸高で結んだもの。
男性の場合は褌(はかま)と訓じ、ズボン形式のもので膝下を紐で括ったもの。後の股引に類似している。

 次いで、その服装の脱着の順についても『遊仙窟』に文章がありますので、それを紹介します。
 最初に男女が女の寝室に入る場面から、状況は進みます。まず、脱着の順では初めに寝台のそばで男女は靴を脱ぎます。ついで、男の脱着の順では袍衣と云う上着を取り、次いで幞頭を外し、衣を纏める腰帯を取り去ります。この時点で男性は衫と云う一重の着物と袜と云う靴下を着けていることになります。なお、乗馬を行う場合には下着に褌(はかま)を着ける可能性もありますが、『遊仙窟』ではそれが確認出来ません。
 一方、女については小説では男の手を借りて肩から綾被を取り去り、つぎに羅裙を脱ぐとなっています。この時点では衫と云う一重の着物、褌の下着に袜と云う靴下と云う姿です。士大夫階級に属する女と云う設定ですから使われる布地が薄い絹布であると考えますと、すべてを着ていても女の肩から胸元までが透けて見えるような服装です。それほど着込んでいると云う姿ではありません。なお、上古の解説では唐初の時代性から女が襦(じゅ)と云う半袖の上着を着ている可能性もありますが、襦は普段着的に肌を隠し保温を目的とするところから、場面の設定を考えると、あえて、薄物で肌を透けて見せることを主眼にした服装の設定をしている可能性があります。
 この後、男女は互いに衫と云う一重の着物を脱がし、次いで袜と云う靴下を取ります。当時、女性は褌(こん)と云う下着を着けますが、男は騎乗のような場合でないと下着を着る風習はなかったようで、袜を脱いだ段階で男は素肌と云うことになります。また、女は褌一枚と云うことになります。
 以上が、『遊仙窟』に載る唐代初期の服装と脱着の順です。

 参考として、万葉時代の日本では朝廷に仕える官人は唐の服装様式へ転換することを制度的に整えていた時代です。また、ある一定の身分以上の妻女も宮中に官人である夫に同伴する形で朝参する必要があり、その時の朝服は唐の服装に準ずるものです。そして、宮中女官もしかりです。従いまして、奈良時代の日本の貴族もまたここで紹介した服装を身に着けており、その脱着の順も似たようなものであったと考えられます。また、屋敷自宅でもそれに準じた服装であったと考えられます。ただし、奈良時代の女が褌(こん)と云う下着を着けていたかどうかは不明です。可能性として衫と云う一重の着物だけであったと思われます。



 以下に『遊仙窟』から参照とした文章の原文を紹介します。引用元が漢文章であることに鑑み、紹介した服装についての記述箇所の確認や着ている服装の要因となった住居や場面の背景について確認したいと云う希望の便を図っています。
 なお、文章はある種、唐初時代の妓楼での様を示すものですから、語字解説では酷く性的な描写があります。そのため、年齢的に相応しくない方は、ここで、退場して下さい。別途、弊ブログでは『遊仙窟』の原文と語字解説なしの訓読文を紹介していますので、自己判断での対応をお願い致します。

十娘即喚桂心、並呼芍藥、與少府脱靴履、疊袍衣、閣幞頭、掛腰帶。然後自與十娘施綾被、解羅裙、脱紅衫、去緑袜。花容満目、香風裂鼻。心去無人制、情来不自禁。插手紅褌、交脚翠被。両唇對口、一臂支頭。拍搦奶房間、摩挲髀子上。一齧一快意、一勒一傷心、鼻裏痠痜、心裏結繚。少時眼華耳熱、脈脹筋舒。始知難逢難見、可貴可重。俄頃中間數廻相接。


<補足として語字の解説>
語字の解説は漢語訳文を基本としており、市販本などでの標準的な訳文で採用する直接的な表現を避け、緩やかな表現へ直す創意工夫作業を行っていません。そのため、非常に直接的な表現となっています。

施綾被 綾の被を施(ゆる)める
「施」はゆるめると訓じるが、相手に委ねると云う意味もあり、男の手で被を取り去るというさまを示す。
交脚翠被 脚を交わして翠(ひたれ)を被ふ
「翠」とは鳥の尾の脂肉を指し、ここでは女の柔らかな下腹部を示すため、女の陰部を男の脚を交差させて覆うさまを示す。
両唇對口 両唇對口(りょうしついこう)
互いの唇を合わせること。口付け。
一臂支頭 一臂支頭(いつぴしとう)
片手を相手の頭に添える。ここでは男の頭に手を添えるさまを示す。
拍搦奶房間 奶房に拍搦する間
両手で女の乳房をからめ取るさまから、両手で行う乳房への愛撫を示すが、文章からは拍搦奶房と摩挲髀子とを同時に行っているとも解釈できるので、ここでは片手での愛撫とする。
摩挲髀子上 髀子の上(ほとり)に摩挲する
「挲」は手を水につけてすすぐように動かす、「髀子」は脚の付け根を示すことから、女性器への手または指による愛撫のさまを示す。
一齧一快意 一齧一快の意
対句表現での「拍搦奶房間」から判断して、女の乳首を甘噛みし、それに対して女が好ましい気持ちを起こしたさまを示す。
一勒一傷心 一勒一傷の心
対句表現での「摩挲髀子上」から判断して、交接での男根の挿入と、それにより女性器が押し開くさまを示し、そのときの感情のさまを表す。なお、口にくわえさせるを意味する「勒」に対して「傷」に開くと云う意味合いを持たすが、同時に交接を行った行為での痕と云う意味合いも示す。
鼻裏痠痜 鼻の裏は痠痜しい
鼻が興奮により膨れ疼くさまを示す。
心裏結繚 心の裏は結繚する
心の内が千路に乱れて絡み合うさまを示す。
眼華耳熱 眼は華き耳は熱する
目は見開き、耳は熱を帯びると興奮したさまを示す。
脈脹筋舒 脈は脹り筋は舒ぶ
男性器が興奮により血管を浮き出させ脈動し、太長く膨張したさまを示す。
數廻相接 數(まね)く廻(めぐ)りて相ひ接する
「數」は数多いさま、「廻」は元に戻るさまを示すことから、射精後の男性器機能の回復に任せて数多く交接を重ねたさまを示す。
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万葉雑記 色眼鏡 百一 遊仙窟の享受と万葉人の好み (鴨頭草から楽しむ)

2015年01月23日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 百一 遊仙窟の享受と万葉人の好み (鴨頭草から楽しむ)

 以前、『万葉集』に収容される柿本人麻呂歌集に載る歌で使われる句「千遍死」は『遊仙窟』を典拠とすると云う解説を確認するため、典拠と示された『遊仙窟』について原文を整備した上で、それを眺めました。いつものことですが、我ながら馬鹿げたことをしています。当然、典拠を述べる時、一番簡単なのは先行する権威の論説を無批判で使うことです。次いでは論説を参考として表面上の文字列の比較を行うことです。似た文字列が認められればそれを典拠とすればいい訳ですから、非常に楽です。ただ、古典作品の享受とその影響を云う場合は、それでは社会人のする鑑賞にはならないのではないでしょうか。
 もし、『遊仙窟』で使われる文字列で、先行する古典で用いられる語法とは違うものや創語であるもの、その特別な文字列と同じものが『万葉集』にあり、かつ、同じような意味合いで使われていることが示せれば、その時、『遊仙窟』の読書経験があると云うことになるのでしょう。さらに、特別な文字列で示す内容を踏まえ、それを発展していることを認めれば、享受・受容していると指摘が出来ると考えます。ただ、それを示すことが出来ないのですと、偶然の一致かもしれませんし、他の古典や古い時代の漢漢辞典からの引用かもしれません。同じ類似の文字列と云う視線からしますと『遊仙窟』と『万葉集』とに「光儀」や「鴨頭」などと云う同じ特殊用法の文字列がありますが、なかなか、このような言葉は取り上げることはしないようです。

 与太話はさておき、『遊仙窟』に載る次の詩文を紹介しようと思います。この詩文の前提として、詩文が詠われた場の設定は、唐初時代の「酒令」と云う、正式の着座での食事の後に行われる男女が入り乱れくだけた酒や歌舞を伴う教養人たちの宴会です。そのような場での遊びとして参加する人々の教養水準を競う詩文ですので、参加者の設定もまた士大夫階級の男とそれに見合う特別な教育を受けた妓女と云うことになります。従いまして、小説の進行から淫靡な場面を暗示するものと思われても表面上は建て前の顔を示します。逆に淫靡と思えるような表現であっても建て前の顔で詩文を解釈するのが大人の決まりです。
 ここで『遊仙窟』から紹介する次の詩文はそのようなものであることを了解して下さい。

<例題詩文>
于時、硯在床頭、下官因詠筆硯曰、摧毛任便點、愛色轉須磨。所以研難竟、良由水太多。
十娘忽見鴨頭鐺子、因詠曰、嘴長非為嗍、項曲不由攀。但令脚直上、他自眼雙翻。

 漢詩文の読解の手間を省くために翻訳文を紹介しますが、先に述べた”建前の顔”を持つと云う背景がありますから、表の顔を優先するか、裏の顔をも考慮するかにより訳文の表現は変わります。それを踏まえて比較的安価で入手が容易な『遊仙窟』の訳本から訳文を三つほど紹介します。

<漆山又四朗訳註、岩波文庫;訓読みスタイル> 注:原文は訓読文とは別に解説に掲載
摧毛任便點 毛を摧きて便りに任して點す
愛色轉須磨 色を愛して轉た須らく磨すべし
所以研難竟 研りて竟り難き所以のものは
良由水太多 良に水の太だ多きに由る
嘴長非為嗍 嘴の長きは嗍はんが為に非ず
項曲不由攀 項の曲れるは攀づるに由らず
但令脚直上 但だ脚をして直ちに上げしめば
他自眼雙翻 他も自も眼雙び翻らん

<今村与志雄訳、岩波文庫;意訳文スタイル> 注:原文は詩文だけを掲載
摧毛任便點 毛を抜いて使いよくさせる
愛色轉須磨 色をめでて、かえってすらなきゃならない
所以研難竟 だから、すりおわるのがむずかしい
良由水太多 まったく水気が多すぎるせいだ
嘴長非為嗍 口が長いのは、吸われるためではなく
項曲不由攀 うなじが曲がっているのは、手をかけられたからでもない
但令脚直上 脚をまっすぐ上にあげさえしたら
他自眼雙翻 あれは眼のたまがひっくりかえる

<前野直彬訳、東洋文庫;意訳文スタイル> 注:原文の掲載は一切無し
毛をおさえ、筆をおとさば落すまま
濃き色は、磨るほどいいよあらわるる
墨をとる、わが手のとどめあえざるは
げにやこの、水のあまりに多ければこそ
くちばしの、長きは吸われんためならず
ほそくびの、曲るも抱かるるゆえならず
この足を、真上にあげしときのみぞ
かの人は、双の眼を見はりなむ

とあります。
 それぞれ、訳者の研究態度と出版趣旨により訳文スタイルは違いますし、使う原文典拠もそれぞれに違います。ただし、三人の共通点として、この詩文は表と裏の二つの顔を持ちますが、原則として表の顔だけを紹介して、裏の顔(洒落)を示していません。特に前野直彬氏のものは使った原文自体を書籍中に紹介していませんから、その書籍だけでは詩文に表裏二面の顔を持っていると云うことを知ることは出来ません。さらに意訳文の解説でも詩文が表裏二面を持つことを示唆しませんから、一般の人がそれに気付くことは難しいのではないでしょうか。一方、今村与志雄氏は判る人は判ると云う態度で、地文は訳文のみで原文紹介はありませんが、詩文は原文を優先して訳文は従と云う立場です。読者が原文から自己責任で裏の顔(洒落)に気付く必要がありますし、編集態度がそれを示唆しています。なお、漆山又四朗氏のものは原文からの忠実な訓読を試みたものですので、すべては鑑賞者の自己責任と能力で、原文が示す唐初時代の読書階級向けのポルノ小説をポルノ小説として鑑賞する責任があります。
 今村与志雄氏が示唆するように詩文には裏の顔(洒落)もありますから、参考として紹介を試みます。注意事項として、詩文で使われている「摧」、「研」、「攀」などの語字について『漢辞海』以上の漢字辞典などから調べて頂くと、標準的な意味合いの他に特殊な意味を持つ言葉であることに気付くと思います。その特殊な意味から詩文が持つ“洒落”を探りますと、次のようなものとなります。

摧毛任便點 和毛(にこげ)を分け、お核(さね)に気持ちよくすることに身を任せ
愛色轉須磨 愛される気分からか、かえって愛撫を求めてしまう
所以研難竟 それを求めるから、じっくり見つめるのを止められない
良由水太多 気持ちがいいからか、愛液がたっぷり溢れ出ている
嘴長非為嗍 唇を長くするのはあそこを吸うためだけではなく
項曲不由攀 項(うなじ)を曲げるのはあそこに顔を添えたいからではない
但令脚直上 もし、脚を大きく開かせられたら
他自眼雙翻 貴方も私も眼の玉がひっくりかえってしまう

 紹介した裏の解釈は特別、恣意的な創訳ではありません。例えば「研」と云う語に「とぐ」だけではなく「深く究める」や「じっくり見つめる」の意味があるようにそれぞれに別な意味があり、巧みにそのような語字が使われています。これが酒令でも特別に雅飲と称される宴会での詩文です。逆の裏の顔が判っても、表の顔として理解していると示すのが大人の酒宴です。およそ、表面上のものだけでなく、洒落として裏のものも楽しめないようでは筆よりも重たいものを持たないと云うような士大夫階級では教養的に落第なのでしょう。当然、「眼雙翻」の句は“する男”と“される女”では様子は違います。興奮で目を見開くか、快感に白目を剥くかの違いです。これもまた文士たる人々の遊びです。
 『遊仙窟』にこのような洒落があると認めますと、その詩文の題目として付けられた「鴨頭鐺子」もまた洒落を持つ言葉であろうと推測させます。「鐺子」は一般には三本足を持つナベや液体を入れる容器を意味しますから、ここでは硯に添える小さな水差しです。一方、そのような場合、水差しの頭と首はその目的からしますと、先を細くしほっそりしている鶴の首を比喩や意匠にするのが相応しいはずです。ですから、日本ではそれをそのものずばり“鶴首”と呼びます。ところが、『遊仙窟』では先太りで頭がずんぐりの“鴨の頭”と云う表現を使っています。およそ、この「鴨頭」と云う表現は詩文が示す洒落からしますと、”先が丸く太く、茎がずんぐりしている“とイメージを示し、勃起した男根を想像させる洒落であろうと考えます。つまり、「鴨頭」とは隠語です。

 これを踏まえて、『万葉集』で遊びたいと思います。
 さて、『万葉集』には「鴨頭鐺子」ではありませんが「鴨頭草」と云う言葉を使う歌が四首あります。それが次の歌です。「鴨頭草」については『本草和名』に「都岐久佐」と訓じるとの解説から「ツキクサ」と読み、現在の露草と推定されています。掲載の順とは違いますが『万葉集』の巻十二に載る集歌3058の歌の句「鴨頭草之 移情 吾思名國」と集歌3059の歌の「月草之 移情 吾将持八方」の対比関係からも「鴨頭草」は「月草」と同じ読みを行い「ツキクサ」の訓じと推定出来るのではないでしょうか。ただ、中国では薬草として扱うときの露草の名称は「鴨跖草」と表記し、それは正面から見た花の形が鴨の固い足の裏の姿を示しているところからのものです。つまり、「鴨頭草」は日本で創られた漢字表記なのです。そのため、どうして「鴨頭草」と表記するのかと云う語源は良く判っていないようです。

集歌1339 鴨頭草丹 服色取 揩目伴 移變色登 称之苦沙
訓読 鴨頭草(つきくさ)に衣(ころも)色どり揩(す)らめども移(うつ)ろふ色と称(い)ふし苦しさ
私訳 ツユクサで衣を色取り摺り染めたのだけど、移り変わりやすい色とあてこするのが残念です。

集歌2281 朝露尓 咲酢左乾垂 鴨頭草之 日斜共 可消所念
訓読 朝露に咲きすさびたる鴨頭草(つきくさ)し日くたつなへに消(け)ぬべく思ほゆ
私訳 朝露の中に咲き誇っているツユクサが、日が傾いていくにつれしぼむように、気持ちがしぼむように感じられます。

集歌2291 朝開 夕者消流 鴨頭草 可消戀毛 吾者為鴨
訓読 朝(あした)咲き夕(ゆうへ)は消(け)ぬる鴨頭草(つきくさ)し消(け)ぬべき恋も吾はするかも
私訳 朝に咲き、夕べにしぼむツユクサのように、心がしぼむような私の命、そして恋も、私はするのでしょう。

集歌3058 内日刺 宮庭有跡 鴨頭草之 移情 吾思名國
訓読 うち日さす宮にはあれど鴨頭草(つきくさ)しうつろふ情(こころ)吾が思はなくに
私訳 きらきらと日の射す大宮に居て多くの殿方と接するけども、ツユクサのように褪せやすい気持ちを私は思ってもいません。

<関連参考歌>
集歌3059 百尓千尓 人者雖言 月草之 移情 吾将持八方
訓読 百(もも)に千(ち)に人は言ふとも月草(つきくさ)しうつろふ情(こころ)吾持ためやも
私訳 あれやこれやと人はうわさ話をするけれど、ツユクサが褪せやすいと云うような、そんな疑いを、私が持っていましょうか。

 以下は妄想です。いつものように学問ではありませんので宜しくお願いします。
 文学史での典拠の研究では山上憶良、大伴旅人、大伴家持等、彼らの作品に『遊仙窟』を取材したものを認めることが出来、他にも巻十六に無名歌人の作品ですが集歌3857の歌の左注にも取材を見つけることが出来ます。このような事例から『遊仙窟』は平城京時代以降の日本文学史に多大な影響を与えた中国伝奇小説と扱います。
 すると、この認識では平城京時代の貴族たちは『遊仙窟』を享受していたと仮定することは、それほどの冒険ではないことになります。そうした時、集歌1339の歌を口唱では;

口唱) つきくさに ころもいろどり すらめども うつろふいろと いふしくるしさ

と高々と詠いあげますが、宴会で回覧する木笏(又は木簡)に次のように表記してあれば、さて、平城京貴族たちはこの歌をどのように受け取ったでしょうか。

表記) 鴨頭草丹服色取揩目伴移變色登称之苦沙

 まず、近々の漢方薬と染色を目的とした輸入植物である「つきくさ」は漢語表記では鴨跖草と表記するのを知っているとしますと、回覧された木笏に墨書された鴨頭草は言葉の洒落であろうと気付くと考えます。すると新規渡来で評判の『遊仙窟』では「鴨頭」とは勃起した男根を示す隠語ですから勘の鋭い人は何事かに気付くはずです。その『遊仙窟』の詩文では「硯」に対して「研」の用字ですが、ここでは「服」に対して「揩」の用字です。そのとき、「研」の語字は洒落では「じっくり見つめる」とも解釈出来、同様に「揩」の語字も「手でなすりつける」と云う意味を持つものです。和歌である集歌1339の歌に対して漢詩文的な解釈をしますと「色」と云う言葉の意味の取り方一つで、ある種、隠語を持つ詩文として鑑賞が可能となります。

原文 鴨頭 草丹服色 取揩目伴 移變色登 称之苦沙
訓訳 鴨頭に、丹は草(は)へ色は服(つ)き、取りて揩(すりつ)け伴に目(も)くすれば、移(うご)き變(みだれ)て色(おもひ)は登(の)る、之を称へて沙するは苦(ひど)しと云う (沙;数が多い様 また 沙と射は同音)

 紹介したものは少し酔い加減な訓訳文ですが、『遊仙窟』には次のような詩文もありますので「移變色登 称之苦沙」と「若令臍下入 百放故籌多」とを比べた時、裏の歌の解釈では良い勝負ではないでしょうか。

平生好須弩、得挽即低頭
聞君把提快、更乞五三籌
縮幹全不到、抬頭剰大過
若令臍下入、百放故籌多

 判ったような判らないような話となりましたが、この妄想があり得るものですと、集歌1339の歌には『遊仙窟』があることになります。そうしますと、この作歌者が万葉集中では一番『遊仙窟』を理解していた人物かもしれません。
 当然、集歌1339の歌は口唱での表の歌と墨書での裏の歌とが極端に違いますし、裏の歌は新規渡来の『遊仙窟』に典拠したものだとすると、非常な評判になったのではないでしょうか。すると、平城京貴族の教養と見栄で「鴨頭草」を「つきくさ」と訓じることが流行になったと思います。しかしながら、裏の歌を訓じる為の洒落からの当て字ですから、時代の流れと共に平安時代初期には語源不詳となったのではないでしょうか。ただし、ここでの鑑賞態度からしますと、集歌1339の歌以外のもの、残り三首の「鴨頭草」の表現を持つ歌もまた万葉時代の約束として「鴨頭草」には勃起した男根のイメージを持たせて詠っていると解釈すべきものと考えます。

 おまけとして、平城京時代の日本からの遣唐使一行は多くの諸外国からの遣唐使に比べ、格段に中華文明に対する消化能力が高かったようです。皇帝の囲碁の相手となるもの、科挙に合格するもの、風雅を特別に認められるものなど、多く中国正史に記録を残します。
 逆に見れば、大唐で本場の士大夫階級の人々と対等に付き合うことが出来たと云うことは、平城京時代の遣唐使に選抜されるような人物は『遊仙窟』程度の娯楽書は自在に読み解く能力は十分にあったと推定されます。従いまして、このような平城京貴族たちが楽しんだ『万葉集』に載るある種の歌は『遊仙窟』の裏の顔をホイホイと読み解くほどでなければ楽しむことが難しいのかもしれません。
 で、『遊仙窟』に載る次の文章、十分に楽しまれましたか。

插手紅褌、交脚翠被。両唇對口、一臂支頭。拍搦奶房間、摩挲髀子上。一齧一快意、一勒一傷心、鼻裏痠痜、心裏結繚。少時、眼華耳熱、脈脹筋舒。始知難逢難見、可貴可重。俄頃中間數廻相接。

 なお、「翠被」は緑色の布団と訳するようじゃ、面白くありません。また、「數廻」は数回じゃ、ありません。
 もし、上記の文章を十分に楽しまれていて万葉人は『遊仙窟』を享受したと云うのですと、次の『万葉集』巻十二に載る集歌2925の歌もまた「拍搦奶房間、一齧一快意」と「摩挲髀子上、一勒一傷心」の対句からヒントを得たと唱えることが出来るのではないでしょうか。このように古典享受は、けっこう、思い付きでも説は唱えることが可能かもしれません。

集歌2925 緑兒之為社乳母者求云乳飲哉君之於毛求覧
訓読 緑児(みどりこ)し為こそ乳母(おも)は求むと云ふ乳(ち)飲めや君し乳母(おも)求むらむ
私訳 「緑児の為にこそ、乳母は探し求められる」と云います。でも、さあ、私の乳房をしゃぶりなさい。愛しい貴方が乳母(乳房)を求めていらっしゃる。


 最後に、少し卑怯ですが参考情報として。
 中唐の詩人李白が詠う「襄陽歌」に「遙看漢水鴨頭緑(遙かに看る漢水の鴨頭の緑)と云う一節があります。ここでは真鴨の頭部の色合いを以って、彼方に見える大河の景色を表しています。この表現は明朝時代でも汪廣洋が詠う「晩晴江上」に「江水鴨頭緑、楚山螺髻青(江水は鴨頭の緑にして、楚山は螺髻の青たり)」と云う一節がありますから、「鴨頭緑」と云う定型表現を踏まえた上のものであれば「鴨頭草」の表現は単に「緑草」の洒落となります。その場合は実に申し訳ない話です。ただし、『万葉集』と李白との時代の先後を考えますと集歌1339の歌が先に詠われた可能性が高く、玄宗皇帝時代に世に出た李白の詠う漢詩の日本への将来は遣唐使の往来を考えますと天平宝字三年(759)の「迎入唐大使使」以降であろうと思われます。
 補足情報として、色調において中古代では「緑」は時に現代人にとって「青」とも思える色をも指しますから、この時、「緑→青→空」という連想ゲームでの「空草(ツキクサ)」と云う洒落が生まれます。この場合は、上記の話は全くの酔いかげんの与太話だけです。

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万葉雑記 色眼鏡 百 『遊仙窟』と万葉集

2015年01月17日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 百 遊仙窟と万葉集

 前回、『遊仙窟』と集歌2390の歌の句「千遍死」との関係について触れ、それは『遊仙窟』の創作年代と日本への将来時期を無視した大正時代までに行われた誰かの単なる思い付きからの典拠説であることを小島憲之氏の研究などにより示しました。
 今日、師弟関係にない第三者が相互の古典原文を使って全文検索での比較を行うことは現代では非常に容易であり、短時間での出来事です。さらにインターネットを使うと、その検索比較に対する参照文献を見つけ出すことも容易です。その例として『遊仙窟』の将来時期の見当と万葉集作品の典拠時期を前回に検討しました。
 さて、ここのところテーマが見つからない関係で、今回もまた、もう少し、『遊仙窟』と万葉集の関係から遊ばせて貰います。こうした時、巻四から大伴家持が詠う集歌741の歌と集歌742の歌を紹介します。これらの歌は家持から若き恋人である坂上大嬢へ贈った歌群の中でのもので、二首は一般には鎌倉時代からの伝承で『遊仙窟』の影響を多大に受けたものとされています。

集歌741 夢之相者 苦有家里 覺而 掻探友 手二毛不所觸者
訓読 夢し逢ひは苦しかりけり覺(おどろ)きて掻(か)き探れども手にも触れづそは
私訳 夢の中で抱き合うことは苦しいものです。ふと目覚めて手探りに探っても貴女の体が私の手にも触れないので。

集歌742 一重耳 妹之将結 帶乎尚 三重可結 吾身者成
訓読 一重(ひとへ)のみ妹し結ばむ帯(おび)をすら三重(みへ)結ぶべく吾が身はなりぬ
私訳 一重だけで貴女が私の体を結ぶでしょう、その帯でも、三重に結べるような私の体に成ってしまった。

 この二首における『遊仙窟』の影響について『萬葉集釋注』では次のように解説します。
 唐代の伝奇小説『遊仙窟』に「夢ニ十娘ヲ見ル。驚キ覚サメ之ヲ攪レバ忽然トシテ手ヲ空シクス」とあり、これに拠った歌である。
 七四二の歌もまた『遊仙窟』の「日々衣寛ビ、朝ナ朝ナ帯緩ブ」を踏まえる。

 こうした時、大伴家持は日本に大量の漢籍をもたらした第八次遣唐使が帰朝した養老二年(718)以降の人物ですから、『遊仙窟』と云う書物に触れる機会は否定できません。また、第七次遣唐使の一員として山上憶良が将来した可能性もありますが、この場合も、慶雲元年(704)となりますので、時間軸において典拠としても問題は生じないことになります。
 ところで類型歌と云う視点から見てみますと、集歌741の歌と詠う世界が類似するものが巻十六にあります。それが集歌3857の歌です。歌自体と云うより、その歌に付けられた左注と集歌741の歌が同じ情景を示します。

戀夫君謌一首
標訓 夫(せ)の君を戀ふる謌一首
集歌3857 飯喫騰 味母不在 雖行徃 安久毛不有 赤根佐須 君之情志 忘可祢津藻
訓読 飯(いひ)食(は)めど甘(うま)くもあらず寝(ゐ)ぬれども安くもあらず茜(あかね)さす君の情(なさけ)し忘れかねつも
意訳 飯を食べても美味しいと感じられない。寝たとしても安眠も出来ない。私の体を朱に染める貴方の愛撫を、忘れることが出来ない。
左注 右謌一首、傳云佐為王有近習婢也。于時、宿直不遑、夫君難遇、感情馳結、係戀實深。於是當宿之夜、夢裏相見、覺寤採抱、曽無觸手。尓乃哽咽歔欷、高聲吟詠此謌。因王聞之哀慟、永免侍宿也
注訓 右の謌一首は、傳へて云はく「佐為王(さゐのおほきみ)に近習の婢(まかたち)あり。時に、宿直(とのゐ)遑(いとま)あらずして、夫(せ)の君に遇(あ)ひ難く、感情(おもひ)馳せ結ばれ、戀の係(かかは)り實(まこと)に深し。ここに當宿(とのゐ)の夜、夢の裏(うち)に相見、寤(ね)を覺(さ)め採(と)り抱(むだ)くに、曽(そ)の手に觸(ふ)れるはなし。乃(すなは)ち哽咽(むせ)び歔欷(なげ)きて、高き聲に此の謌を吟詠(うた)へり。因りて王(おほきみ)聞きて哀(かな)しび慟(いた)みて、永く侍宿(とのゐ)を免(ゆる)しき」といへり。
注訳 右の歌一首は、伝えて云うには「佐為王に近く仕える下女がいた。ある時、宿直が続いて夫と逢うことが出来ずに、夫への思いだけがただ結ばれ、夫を愛する想いが実に深かった。ある宿直の夜に、夢の中で夫に逢い、目覚めて夫を採り抱こうとしても、その手に触れるものはなかった。そこで咽び泣き悲しみ、高い声でこの歌を口ずさんだ。それで、王は聞いて哀れみ同情し、永く宿直を免除した」という。

 『萬葉集釋注』で示すこの集歌3857の歌の解説では、句中の「係戀實深」は『遊仙窟』の一節「芙蓉生於澗底、蓮子實深、木棲出於山頭、相思日遠」に類似を見出し、また、「ここに當宿の夜、夢の裏に相見、寤を覺め採り抱くに、曽の手に觸れるはなし」に対しては『遊仙窟』の一節「少時ニシテ座睡スレバ、則チ夢ニ十娘ヲ見ル。驚キ覚サメ之ヲ攪レバ忽然トシテ手ヲ空シクス。心ノ中悵佒ミテ、マタ何ゾ論フベケンヤ」との類似を見出し、その典拠とします。
 また、『萬葉集釋注』ではさらに『日本文学古典大系』の補注を引用して和歌の句「飯喫騰 味母不在 雖行徃 安久毛不有」と『日本書紀』景行天皇四十年の「寝不安席、食不甘味」や欽明天皇二年「所食不甘味、寝不安席」との共通点を見出します。
 このような指摘を下に、無名歌人の作品である集歌3857の歌の作者に『萬葉集釋注』は漢籍や『日本書紀』に造詣が深い人物として山上憶良ではないかと疑惑の目を向けます。確かに山上憶良はその「沈痾自哀文」の作品で「遊仙窟曰、九泉下人、一錢不直」と記しますし、これは『遊仙窟』の一節「少府謂言兒是九泉下人、明日在外談道兒一錢不値」から要約引用したものです。ただし、これは「沈痾自哀文」に載る多くの古典の一部ですので中国一流の漢文作成時での美句修辞にすぎません。
 ここでもし、山上憶良が『遊仙窟』の確実な読者であることを推認しますと、万葉歌人の中では山上憶良がその筆頭となります。そして、集歌3857の歌の作歌者が山上憶良でしたら、集歌741の歌は『遊仙窟』を直接の典拠としたのか、それとも集歌3857の歌を典拠としたのかは難しい判断となります。さらに、問題提起として、青年期の大伴家持が『遊仙窟』を十二分に享受できたかどうかには多少の疑問が残ります。さらに、単なる用字の類似からしますと「光儀」と記述して「恋人の姿」を暗示させる用法は『遊仙窟』と『万葉集』とに共通します。これは「すがた」と訓じますが、この類似を指摘した人はいたでしょうか。なお、この「光儀」と云う言葉は『遊仙窟』以前の東漢時代などでは王などの高貴な人物を示し、恋人と云う用法ではありません。
 雑談として明治から大正期の『万葉集』研究では、やや苦しいのですが、他に巻五に載る大伴旅人の作品「遊松浦河序」の前置漢文で使われる「下官對曰」や「娘等皆咲答曰」の表現が『遊仙窟』での「下官答曰」や「五嫂笑曰」などと似た表現としてその影響を想定します。時代背景として魯迅が中国帰国後に日本で入手した『遊仙窟』版本を中国での最古に位置する小説として校訂し、紹介して文学的な話題となっており、その余波として日本でも評判となりました。つまり、ある種の流行として『遊仙窟』と『万葉集』とを、そこで使われる文字比較から結びつけることがあったようです。ただ、それらは早く、鎌倉時代には指摘されており、そのままでは進歩がないのではと考えます。
 参考情報として『遊仙窟』は、一番官能的な文章である次に示す段を理解できて初めて、そこまでの文章を遡り、僕(余、下官、少府の別称あり)と十七歳の乙女である十娘とが一夜を共にするまでの経緯を、(その多くは比喩を持つ漢詩で語られています)、鑑賞できることになります。従いまして、相当な学識がなければ作品を享受出来ないものです。例として、小説の最初の方での下官と十娘との間で交わされた「梨を剥く小刀」を題材とした詩文で「自憐膠漆重、相思意不窮。可惜尖頭物、終日在皮中」と「數捺皮應緩、頻磨快轉多。渠今拔出後、空鞘欲如何」と云う有名な問答があります。ここで、『遊仙窟』は唐初の中国小説ですので詩中の「梨」は中国原産の鴨梨です。(その画像や解説はインターネットで検索・確認下さい)つまり、詩で云う「尖頭物」は当然のこと「刀」ではなく、芳しく果汁たっぷりの「梨」の一部分です。そうした時、この詩文問答の下品さが楽しめるか、どうかですし、詩文の鑑賞者が経験で「それ」をちゃんと観察出来ているか、どうかです。
 また、中盤の場面では「下官因詠筆硯曰、摧毛任便點、愛色轉須磨。所以研難竟、良由水太多」と云う「硯」を題材とした詩文があります。これを下品なポルノと鑑賞できるか、どうかにあります。なぜか。それを解説しますと「研」と云う漢字の意味は「硯で墨を摺る」と云うのが本来ですが、別に「とぎすまして見る」と云う意味もあります。そうした時、相手の十娘は硯で墨を摺るときに使う水差しである「鴨頭鐺子」を題材に取り、「硯」の詩文の返歌として「嘴長非為嗍、項曲不由攀。但令脚直上、他自眼雙翻」と詠います。
 このように詩文は裏の顔をも持つと認めますと、現代人の感覚からしますと、当時の国家最高の学識者が大真面目に、発行された国では評判だがそれは非常に下品なポルノ小説として認定された作品に対して、広く一般のために翻訳・伝授をするか、どうかです。それも、例に示したように『遊仙窟』の建前での日本語直訳ではそれほどのポルノ小説にはなりません。文中で言葉が暗示する意味を十分に吟味して解釈した時、初めて、きわどいポルノ小説となります。つまり、翻訳においてその翻訳・意訳を行う者の経験や体験をも取り入れて行わなくてはいけないような「研難竟」などの表現を持ち、明らかな性行為を記す作品に対して、そのような暗示する言葉の内容までを解説するのか、どうかです。なお、先の詩文問答の落ちは共に「向来漸漸入深也」です。
 他例として、『遊仙窟』での一番のクライマックスを以下に示しますが、その文中の「摩挲髀子上」と云う句の「髀」の漢字は「太もも」と云う体の部位を表します。つまり、「摩挲髀子上」とは「女性の太ももの上の方を手で撫でる=愛撫する」ことを示します。ただその解釈において「髀子上」とは女性のどこを比喩するのかは解説者の好みと判断になります。ここで「挲」の漢字には「手を水につけてすすぐように動かす」との意味がありますから、その“水につけて”の意味合いを重視すると、「髀子上」とは女性のどこを示すでしょうか。さらにその鑑賞では先ほど紹介しました「數捺皮應緩、頻磨快轉多」や「良由水太多」などの文章が効いて来ます。これが、『遊仙窟』と云う作品です。さてはて、律令体制での選ばれし大学教授級の人物がこのような伝授を行ったでしょうか。さらに、平安時代中期には、すでに『遊仙窟』は少々の学識では解釈出来ない漢籍となっており、伝説では訓じるには潔斎沐浴して神の手助けを必要としたとされています。
 なお、紹介した文中の桂心と芍藥とは女召使いの名前ですが、同時に滋養強壮の生薬名からのパロディーです。これもまた『遊仙窟』が持つ遊びです。

<遊仙窟 後半一部抜粋>
於時夜久更深、情急意密。魚燈四麵照、蠟燭両邊明。十娘即喚桂心、並呼芍藥、與少府脱靴履、疊袍衣、閣襆頭、掛腰帶。然後自與十娘施綾被、解羅裙、脱紅衫、去襪。花容満麵、香風裂鼻。心去無人製、情来不自禁。插手紅褌、交脚翠被。両唇對口、一臂支頭。拍搦奶房間、摩挲髀子上。一齧一快意、一勒一傷心、鼻裏酸庳、心中結繚。少時眼華耳熱、脈脹筋舒。始知難逢難見、可貴可重。俄頃中間、數回相接。誰知可憎病鵲、夜半驚人、薄媚狂雞、三更唱曉。遂則被衣對坐、泣涙相看。

 ここで、今一度、集歌741の歌と集歌742の歌に戻りますと、歌は標題「更大伴宿祢家持贈坂上大嬢謌十五首」で括られる、家持から年下の若い坂上大嬢へ贈ったものです。一般にこの二首を『遊仙窟』を典拠とするものとするなら、歌を贈られた坂上大嬢がその歌を理解したかどうかが問題となります。
 寝とぼけてはいけないのですが、『古今和歌集』以降の表舞台に残る歌は実際の恋愛関係なんぞは無視した職業歌人の技巧を凝らした業務上の歌です。公式の歌合や私邸での準公式の場である宴会で鑑賞者に和歌を披露するものであって、現代でのアカデミーの場で公表しそれを鑑賞するような作品ですから、歌を鑑賞する受け手はいかに高度な技巧を凝らしたものや中国古典を引いたものであってもその歌を理解する義務があります。また、それが出来ると認定された人だけが歌合や宴に参加出来るのです。つまり、詠い手にも、鑑賞者にも、参加資格が求められます。
 一方、『万葉集』の世界において実際の恋愛相手への贈答歌では歌を贈る相手が容易に歌意を理解出来なければ歌を贈る意味がありません。特にこの集歌741の歌や集歌742の歌は標題で坂上大嬢へ贈るとあるのですから、鑑賞に参加資格は求められていません。ここが重要です。
 では、坂上大嬢は『遊仙窟』原典を読み解くほどの才媛であったのでしょうか、それとも「右謌一首傳云」と記すように歌サロンでは知られていた集歌3857の歌の鑑賞者だったのでしょうか。個人の感想からすると坂上大嬢は『遊仙窟』原典を読み解くほどの才媛ではなかったと考えます。もし、そのような真摯な読者としますと、『遊仙窟』が示す内容は二人の共通認識であったと考えられますので、坂上大嬢は家持に『遊仙窟』に載る愛撫の方法を容認し、二人してそれを楽しんでいたことになります。だから、奈良と富山とで別れて暮らす坂上大嬢に家持は『遊仙窟』から引用して歌を詠ったと云うことになります。それはそれで万葉時代の貴族階級がする性戯の内容と家持夫婦の好みを具体的に想像させる例となりますので学術的には非常に貴重な資料です。ただ、そのような指摘は見たことがありません。(どのような性戯かは、『遊仙窟』を参照下さい)
 このような空想は暇潰しや遊びとしては良いのですが、本格的に『万葉集』を鑑賞し、その作品は誰が享受するのかと云う視線で鑑賞や検証を進めますと、従来のものが正しいのかどうか、いろいろな素人考えが現れます。『遊仙窟』の臭いがあるとするならば、最低限、『遊仙窟』を原文から点検するのがマナーではないでしょうか。単なる文字列の一致程度では悲しくなります。でなければ、引用を用いずに個人の趣味での鑑賞とするのが良いのではないでしょうか。

 今回も訳の判らない、変なものとなりました。反省です。
 ところでいま、前回の「千遍の歌を鑑賞する」を勉強した関係で『遊仙窟』の原文を眺めています。もう少し理解が進み掲載の準備が出来ましたら、少し時間は掛かりますが、検索の便を図る為に『遊仙窟』の訓読みを資料として載せたいと思っています。(ただし、硬い方の訓です、具体的な性戯の方法は漢文からどうぞ、)
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『遊仙窟』原文並びに訓読 <訓読篇 後篇>

2015年01月10日 | 資料書庫
『遊仙窟』原文並びに訓読 <訓読篇 後篇>

十娘、香兒を喚び、少府の為に樂を設け、金石並び奏なで、簫管の間に響く。蘇合は琵琶を弾き、緑竹は篳篥を吹き、仙人は瑟を鼓し、玉女は笙を吹く。玄鶴は俯して琴を聽き、白魚は躍りて節に應ふ。清音咷叨として、片時(しばらく)は則ち梁上の塵は飛び、雅韻鏗鏘として、卒爾にして則ち天邊に雪は落つ。一時に味ひを忘れ、孔丘の留滯せること虚しからず、三日梁を繞むる韓娥が餘音は是れ實(まこと)なり。
十娘の曰はく「少府、稀に来れり、豈、樂しみを盡くさざるや、五嫂、大ひに能く舞を作(な)し、且た一曲の作くるを勸めむ」と。
亦た辭し憚らず。遂に即ち逶迤として起ち、婀娜として徐ろに行かむ。蟲蛆たる面子は、陽城を妬殺し、蠶賊の容儀は、下蔡をも迷はし傷めむ。舉手頓足、雅に宮は商ふに合ひ、後を顧み前を窺ひ、深く曲節を知れり。蟠龍の婉轉たると、野鵠の低昂とに似せむと欲す。面を廻らせば則ち日は蓮花を照し、身を翻せば則ち風は弱柳を吹く。斜眉盜盼、異種にして音姑(あんぞ)、緩歩急行、窮奇にして造鑿なり。羅の衣は熠(て)り耀(かがや)きて、翠鳳の雲に翔けるに似、錦の袖は紛披(ひらめ)きて、青鷥の水に映えるが若し。千嬌の眼子は、天上に其の流星を失ひ、一搦りの腰支は、洛浦に其の廻雪を愧ず。前を光(て)らし後を艶(いろど)り、遇ひ難く逢ひ難し、進退去来、希に聞き希に見む。両人の俱に起ちて舞ひ、共に下官に勸む。
下官の遂に作して謝して曰はく「滄海の中には水を為し難く、霹靂の後には雷の為り難し。敢へて推辭せずして、定めて醜(みにく)く拙(つた)なく為(な)からむ」と。
遂に起ちて舞を作(な)す。桂心、咥咥、然(ぜん)として頭を低(た)れて笑(え)む。
十娘の問ふて曰はく「何事かを笑ふ」と。
桂心の答へて曰はく「兒等、能く音聲を作すを笑む」と。
十娘の曰はく「何處ぞ、能きこと有らむ」と。
答へて曰はく「若し其れ能くせずんば、何に因りてか百獣を率ひ舞はむ」と。
下官の笑みて曰はく「是れ百獣を率ひて舞はず、乃ち是れ鳳凰の来儀なり」と。
一時に大ひに笑ふ。五嫂の桂心に謂ひて曰はく「曲をして誤らしむること莫れ、張郎頻りに顧みる」と。
桂心の曰はく「辭せず歌ふ者の苦しきを、但だ傷(おし)むらくは音を知るは稀なり」と。
下官の曰はく「路に西施に逢ひ、何ぞ必すしも須(また)識るべき」と。
遂に舞ひ、詞を著(な)して曰はく「従来(さきより)、四邊に巡繞して、忽ちに両個の神仙に逢へり。眉上は冬天に柳を出だし、頰中には旱地に蓮を生ず。千看すれば千處に嫵媚にして、萬看すれば萬種は便妍(べんけん)たり。今宵、若し其れ得ずんば、命を刺(い)め過ぎて黄泉に與(おも)むかむ」と。(柳と留は同音、蓮と憐は同音)
又一時に大ひに笑ふ。舞ひ畢りて、因つて謝して曰はく「僕、實に庸才にして、清賞に陪するを得て、音樂を垂れ賜はり、荷ふに勝さざるを慙ず」と。
十娘の詠ひて曰はく「意を得れば鴛鴦に似、情に乖(そむ)けば胡越の若し。君が邊に向ひて盡くさずんば、更に知らむ何れの處にか歇(や)まむか」と。
十娘の曰はく「兒等、並びに收采すべきは無く、少府公の云ふ『冬天に柳を出だし、旱地に蓮を生ず』と、総べて是れ相ひ弄ぶなり」と。(柳と留は同音、蓮と憐は同音)
下官の答へて曰はく「十娘の面上、春に非ずして柳葉は生え翻がる」と。
十娘の聲に應へ、答へて曰はく「少府の頭中に水有り、何そ蓮華は生ぜざる」と。
下官の笑みて曰はく「十娘、機警なり、異同は便(よきおり)に著く」と。
十娘の答へて曰はく「便(よきおり)を得ても與(とも)すること能はず、明年は何處に有らむを知らむや」と。
その時、硯の床頭に在り、下官、因りて筆と硯を詠ひて曰はく「毛を摧きて便(おり)に任せて點じ、色を愛して轉た須らく磨(と)ぐべし。研(すず)りて竟り難き所以は、良く水の太(はなは)だ多きに由る」と。
十娘忽ち鴨頭の鐺子(みずさし)を見、因りて詠ひて曰はく「嘴の長きは嗍(す)はむを為すに非ずて、項の曲れるは攀じるに由らず。但だ脚を直ちに上げしめば、他も自も雙つの眼は翻らむ」と。
五嫂の曰はく「向来、太大(はなはだ)遜はず、漸漸して入ること深し」と。
その時、乃ち雙つの燕子有り、梁の間に相ひ逐ひて飛ぶ。僕、詠ひて曰はく「雙つの燕子は聯聯たり、翩翩として幾萬ぞ廻る。強ちに知る人は是れ客なるを、方便にして他を悩まし来たる」と。
十娘の詠ひて曰はく「雙つの燕子、可可として風流を事とす。即ち人をして伴に得らしめ、更に亦た相ひ求めず」と。
酒の巡り十娘に到りて、僕、酒と杓子を詠ひて曰はく「尾の動くとき惟だ須らく急なるべし、頭の低くするは則ち平らかならず。渠(きみ)、今、爵(さかずき)を合ひ把るべくは、深淺は君が情に任す」と。
十娘の即ち盞(さかずき)を詠ひて曰はく「初めて發して先ず口に向ひ、竟らむと欲して漸く頭に昇り、君に従ひて中に道(おさめ)むを歇(や)み、底に到りて即ち須く休むべし」と。
下官の翕然(きんぜん)として起ちて謝して曰はく「十娘の詞句、事は盡く神に入いり、乃ち是れ天に生じ、人の學ぶに関からわず」と。
五嫂の曰はく「張郎、新たに到りて情を散ずべき無く、且た後園に遊びて暫く懷抱を釋はせよ」と。
其の時、園内に雑(くさぐ)さの菓は萬株にして、を含み緑を吐き、叢花は四を照し、紫を散じて紅を翻す。石に激する鳴泉、巌を疏し磴を鑿む。冬無し夏無し、嬌鶯は錦枝に亂れ、古に非ず今に非ず、花魴は銀池に躍り。婀娜たる蓊茸、清冷として瑟日(しゅついつ)たり、鵝鴨は分れ飛び、芙蓉は間に出でたり。大竹小竹は渭南の千畝に誇り、花は含み花開き河陽の一縣に笑む。青青たる岸柳の絲條は武昌を拂ひ、赫赫たる山楊の箭幹は董澤に稠し」と。
僕、乃ち花を詠ひて曰はく「風吹いて樹に紫は遍き、日照りて池に丹は満つ。若為(いかばかり)か交は暫く折り、撃ちて掌中に就きて看む」と。
十娘の詠ひて曰はく「水に映じて俱に笑むことを知り、蹊を成して竟(つい)に言はず、即ち今自在なるは無く、高下は渠が攀づるに任す」と。
下官の即ち起ちて謝して曰はく「君子は遊言を出ださず、意言、再びするに勝へずて、娘子の恩は深し。請ふ五嫂等の各(おのおの)の一篇を製(な)すを」と。
下官の先に詠ひて曰はく「昔時、小苑に過ぎ、今朝、後園に戲むる。両歳の梅花は匝(ひら)き、三春の柳色は繁し。水明らかにして魚影は靜か、林翠にして鳥歌は喧し。何ぞ杏樹の嶺を須(もち)ひずんば、即ち是れ桃花の源なり」と。
十娘の詠ひて曰はく「梅蹊は道士に命(ゆだ)ね、桃澗に神仙を佇(ま)つ。舊き魚は大劍を成し、新しき龜は小錢に類(に)たり。水の湄(ほとり)には唯だ柳を見、池の曲りに且た蓮を生ず。賞心の處を知らむと欲し、桃花は眼前に落つ」と。
五嫂の詠ひて曰はく「目を極めて芳苑に遊び、相ひ將に花林に對へり。露は淨くして山光に出で、池は鮮にして樹影を沈めり。落花は時に酒に泛び、歌鳥惑は琴を鳴らす。是れ時に日は將に夕れなむとし、樽を携へて樹陰に就く」と。
當時、樹上に忽ち一つの李子有りて、官の懷中に落下し、下官の詠ひて曰はく「問ふ李樹、如何ぞ意同じからず、應に主の手の裏に来るべきに、翻つて客の懷中に入れる」と。
五嫂の即ち詩に報へて曰はく「李樹の子(み)、元来是れ偏らず、巧みに娘子の意を知りて、果を擲つて渠が邊に到る」と。
その時、忽ち一つの蜂子の有りて、十娘の面上に飛び上れり、十娘の詠ひて曰はく「蜂子に問ふ、蜂子、太だ情は無し、飛び来たりて人の面を蹈み、欲ふに意は相ひ輕るんずるに似る」と。
下官の蜂子に代りて答へて曰はく「處に觸れて芳樹を尋ね、都盧(すべ)て物花は少く、試みに香處に従ひて覚め、正に可憐の花に値す」と。
眾人皆掌を拊(う)ちて笑む。其の時、園中に忽ち一つの雉有り、下官弓箭を命じて之を射、弦に應じて倒る。
五嫂の笑みて曰はく「張郎の才器、乃ち是れ曹植が天然。今、武功を見、又た、複た子南が夫なり。今、娘子と共に相ひ配するに、天下に惟だ両人有るのみ」と。
十娘の雉を射るを見るに因りて、詠ひて曰はく「大夫は麥隴を巡り、處子は桑間に習ふ。若し一箭の由にあらずんば、誰か能く為に顏を解かむ」と。
僕の答へて曰はく「心緒は恰も相ひ當れり、誰か能く短長を護らむ、一床に両好無く、半醜亦た何ぞ妨へむ」と。
五嫂の曰はく「張郎の長垛を射むは如何」と。
僕の答へて曰はく「且た闕かざる事を得るのみ」と。
遂に之を射、三たび發つて皆繞遮すること齊して、眾人好しと稱す。
十娘の弓を詠ひて曰はく「平生に好みて弩を須し、挽くことを得て即ち頭を低くす。君が把提の快きを聞き、更に五三の籌を乞はむ」と。
下官の答へて曰はく「縮まれる幹は全く到れず、頭を抬げて剰へ大きに過ぐ。若し臍下をして入らしめば、百たび放たば故に籌は多からむ」と。
その時、日は西淵に落ち、月は東嶺に臨む。
五嫂の曰はく「向来、調謔(ちょうきゃく)は處として佳からざる無く、時は既に曛黄(ゆふくれ)にて、且た房室に還らむ。庶はくは張郎、娘子と安(やす)じ置(お)れ」と。
十娘の曰はく「人生れて相ひ見、且た杯酒を論じ、房中は小小にして、何の暇ありては怱怱たる」と。
遂に少府を引ひて、十娘の臥處に向ふ。屏風は十二扇にして、畫障は五三に張り、両頭に綵幔を安んじ、四角に香囊を垂れ、檳榔と荳蔻子、蘇合と緑沈香ありて、織文は枕席を安んじ、亂彩は疊衣の箱にある。相ひ隨つて房裏に入り、縦に羅綺を照らし、蓮花は鏡台に起ち、翡翠は金履に生じ、帳の口は銀虺を裝ひ、床の頭には玉の師子ありて、十重の蛩駏を氈き、八疊の鴛鴦を被り、數個の袍袴、異種の妖嬈、姿質は天に生が有り、風流の本性は饒かにして、紅衫は窄く裹みて小さき臂に擷(くく)り、緑の袂は帖みて亂れて細く腰を纏ひ、時に帛子を將つて拂ひ、還へして和香を投じて焼き、妍華は天性に足り、由来能く裝束して、笑みを斂めて金釵を正しくして、嬌を含みて繡褥を累ね、梁家は妄りに髪を梳づるの緩きを稱ゆて、京兆何ぞ曾て眉の曲を畫かむ。十娘因りて後に在りて、沈吟し久しうして来らず。
余の五嫂に問ひて曰はく「十娘、何處にか去る、應に別人の邀ふる有るなるべし」と。
五嫂の曰はく「女人は自ら嫁ぐを羞じ、方便にして渠が招きを待つならむ」と。
言語の未だ畢らずして、十娘の則ち到る。
僕の問ひて曰はく「旦、来たりて霧を披き香處に花を尋ね、忽ち狂風に遇ひ蓮中に藕を失ふ。十娘、何處に漫行して来たる」と。(注意:蓮は憐と同音、藕は偶の同音)
十娘の頭を廻らして笑みて曰はく「星の織女を留めて、遂に人間に處り、月は恒娥を待ちて、暫く天上に歸る。少府の何ぞ須くも苦(はなは)だ相ひ怪む」と。
その時、両人は對坐するも、未だ敢へて相ひ觸れず、夜は深くして情は急(せわし)くして、死を透りて生を忘る。
僕、乃ち詠ひて曰はく「千たび看れば千たび意は密にして、一たび見(まみ)えれば一へに憐みは深し。但だ當に手子を把りて、寸斬せらるるも亦た甘心(あまむ)ぜむ」と。
十娘の色を斂めて卻(しりぞ)き行く。
五嫂の詠ひて曰はく「他家は事を解るの在りて、未だ肯へて輒(すなは)ち相ひ嗔らず。徑(ただ)ちに須らく剛(た)だ捉り著くべく、遮へぎりて精神(こころ)を造るを莫ささざるを」と。
余の時に手子に把り著き、心の忍ぶを得ず。
又た詠ひて曰はく「千たび思ふて千たび腸(はらわた)は熱く、一たび念ふて一へに心は焦る。若し求守を得るを為さば、暫くも可憐なる腰を借らむ」と。
十娘の又た肯べずて、余は手を捉りて挽くに、両人力を争ふ。
五嫂の詠ひて曰はく「巧みに衣を將りて口を障り、能く被を用つて身を遮る。定めて知るべし心の肯ふこと在るを、方便にして強ひへ人を邀るなり」と。
十娘の聲を失ひて笑ひを成し、婉轉として懷中に入りき。當時、腹裏は癲狂として、心中は沸き亂る。
又た詠ひて曰はく「腰支の一遇を勒(たま)はれば、心中の百處は傷む。但だ若し口子を得れば、餘事は承け望まず」と。
十娘の嗔りて詠ひて曰はく「手子は君に従ひて把られ、腰支も亦た廻すに任す。人家の中る物あらずて、漸漸に他に逼り来る」と。
十娘の曰はく「拒張を作すと雖も、又た他の口子を輸(ささ)げるを免れず」と。
口子は鬱鬱として、鼻はり穿たるが似、舌子は芬芳にして、頰は鑽り破れむかと疑ふ。
五嫂の詠ひて曰はく「自は風流を隱(たのし)んで到り、人前に法用(みずくろひ)多し。時を計るに應に拒み得ねきを、佯り作して他を禁はず」と。
十娘の曰はく「昔日は曾て經に自ら他を弄び、今朝は並びに複た人の弄ぶに従ふ」と。
下官の起ちて諮請うて曰はく「十娘の一つの思ふ事有りて、亦た申論はむと擬ひ、猶は自ら敢へて即ち道(い)はず、請ふ五嫂、處分(とりはから)へ」と。
五嫂の曰はく「但だ道(い)へ、『須しく避け諱むべからず』」と。
余、因りて詠ひて曰はく「藥草は俱に嚐むること遍く、並びに悉く相ひ宜からず。惟だ一箇の物を須でば、道(い)はざるも自ら應に知るべし」と。
十娘の答へて詠ひて曰はく「素(しろ)き手は曾つて捉はふるを經、纖き腰は又た將(きみ)を被ふむる。即ち今、口子は輸(ささ)げ、餘事は平章すべし」と。
下官の頓首して答へて曰はく「向来、惶れ惑ひ、實に畏る参差(かたたがひ)せるを。十娘は客人を憐憫み、其の死命を存らしめば、白骨の再び宍つき、枯樹は重ねて花くと謂ふべし。地に伏し頭を叩き、殷勤に死罪」と。
五嫂、因りて起ちて謝して曰はく「新婦、曾て聞く『線は針に因りて達り、針に因らずして縫はれんや、女は媒に因りて嫁し、媒に因ずは親しみえんや。新婦は向来心を專らにして勾當(とりはからひ)を為せり、已後の事は、敢へて預り知らず。娘子安穩せよ、新婦は房に向いて臥に去らむ』と。
その時、夜は久しく更(よる)は深け、情は急(せま)り意は密なり。魚燈は四面を照らし、蠟燭は両邊を明るくす。十娘の即ち桂心を喚び、並た芍藥を呼びて、少府と與に靴履を脫ぎ、袍衣を疊み、幞頭を閣き、腰帶を掛けしむ。然る後、自ら十娘と綾の被を施(ゆる)め、羅の裙を解き、紅き衫を脫ぎ、緑の袜を去る。花容は目に満ち、香風は鼻を裂く。心は去りて人の制する無く、情は来たりて自ら禁ぜず。手を紅き褌に插み、脚を交わして翠(ひたれ)を被ふ。両唇は口に對へ、一臂は頭を支ふ。奶房の間を拍搦し、髀子の上を摩挲す。一齧一快の意、一勒一傷の心、鼻の裏は痠虎(いきだは)しく、心の裏は結繚れり。少時にて眼は華き耳は熱し、脈は脹(ふく)れ筋は舒(の)ぶ。始めて知るぬ逢ひ難く見難くして、貴むべく重んずべきを。俄頃(しばし)の中間(あひだ)に數(まね)く廻(もど)りて相ひ接す。誰か知らむ憎むべきの病鵲、夜半に人を驚かし、薄媚の狂雞、三更に曉を唱ふ。遂に則ち衣を被り對坐して、泣涙して相ひ看む。
下官の涙を拭ひて言ひて曰はく「恨むる所は別れ易く會ひ難く、去留は乖き隔たらむことを、王事は限り有りて、敢へて稽(とど)まり停まらず。毎に一たび尋ねんと思ふに、痛みは骨髓に深し」と。
十娘の曰はく「兒と少府は平生に未だ展まず。邂逅に新たに交りて未だ歡娯を盡さずて、忽ちに別離せんことを嗟き、人生の聚散、知らむ複た如何かせんことを」と。
因ちて詠ひて曰はく「元来、相ひ識らずは、判めて自ら知聞を断ち、天公の強ちに多事にして、今遣りて為てか分れしむの若し」と。
僕、乃ち詠ひて曰はく「愁を積んで腸は已に断えなんとして、懸かに望んで眼は應に穿りぬべし。今宵は戸を閉じること莫くして、夢裏は渠が邊に向はむ」と。
少時にして天は曉け、已の後、両人は俱に泣き、心中は哽咽(むせ)びて、自ら勝ゆる能はず。侍婢の數人、並びに皆は歔(すすりな)き欷(なげ)きて、仰ぎ視ること能はず。
五嫂の曰はく「同じきこと有れば必ず異なることありて、自ら數(せわし)く然(しか)るを攸(も)つて惜む。樂み盡きて哀み生じるは、古来、常の事なり。願はくは娘子の稍(まさ)に自ら割きて捨てよ」と。
下官、乃ち衣袖を將つて娘子と與に涙を拭ふ。
十娘、乃ち別れの詩を作りて曰はく「別るる時には終に是れ別れ、春心、春に値はざる。羞づらくは孤鸞の影を見、悲むらくは一騎の塵を看るのみ。翠柳は眉の色を開き、紅桃は臉の新なるを亂る。此の時、君の在らざらば、嬌鶯、人を弄び殺せむ」と。
五嫂の詠ひて曰はく「此の時に一たび去ることを經、誰か知らん幾年を隔て、雙鳧は別緒を傷み、獨鶴は離弦を慘く。怨みは起る移酲の後、愁は生る落醉の前。若し人の心を密からしめば、惜む莫れ馬蹄の穿たんことを」と。
下官の詠ひて曰はく「忽ちに然ち別るると道(い)ふを聞き、愁ひ来りて自ら禁ぜず。眼下に千行の涙、腸に懸く一寸の心。両劍は俄に匣を分ち、雙鳧は忽ちに林を異にす。殷勤に玉體を惜み、外人をして侵さしむること勿れ」と。
十娘の小名は瓊英にして、下官、因りて詠ひて曰はく「卞和も山は未だ斫らず、羊雍の地は耕さず。自ら憐む玉子の無きを、何れの日にか瓊英を見む」と。
十娘の聲に應へ詠ひて曰はく「鳳錦は行くに贈るべし、龍梭は久しく聲を絶てり。自ら恨む機杼の無きを、何れの日か文成を見む」と。
下官、瞿然として愁を破り笑みを成し、遂に奴(やつこ)の曲琴を喚び相思の枕を取らしめ、留めて十娘に與へて以つて記念と為す。
因りて詠ひて曰はく「南國は椰子を傳へ、東家に石榴を賦す。聊か將つて左腕に代へ、長き夜に渠が頭の枕とせよ」と。
十娘の報ふるに雙履を以ちて、詩に報へて曰はく「對鳧は乍ち伴を失ひ、両燕は還つて相ひ屬す。聊か以つて兒が心に當て、竟日、君が足を承(うけ)たまはりけむ」と。
下官は又た曲琴を遣はし揚州の青銅鏡を取り、之を留めて十娘に與へ、並びに詩を贈りて曰はく「仙人は負局を好くし、隱士は屢に潛みて觀る。水に映して菱光は散じ、風に臨みて竹影は寒し。月下、時に鵲は驚き、池邊、獨り鸞は舞はむ。若し人の心の變ると道(い)ふものならば、渠に従りて膽を照らし看む」と。
十娘、又た手中の扇を贈りて詠ひて曰はく「歡に合ひ璧水に遊び、心を同じくして華闕に侍す。颯颯として朝風に似、團團として夜月の如し。鸞の姿は霧を侵して起ち、鶴の影は空を排して發つ。希(のぞ)むらくは君が掌中に握り、恩情をして歇かしむこと勿れ」と。
下官の辭謝すること訖り、因りて左右を遣はして益州の新樣の錦一匹を取り、直ちに五嫂に奉り、因りて詩を贈りて曰はく「今、片子(いささか)なる信を留め、以つて佳期に贈るべし。裁つて八幅の被と為し、時に複た一たび相ひ思へ」と。
五嫂は遂に金釵を抽いて張郎に送り、因りて報へて詠ひて曰はく「兒、今、君が別れに贈り、後會の難きを知るを情(おも)ふ。言ふこと莫れ釵意の小なるを、以つて渠が冠に掛くべし」と。
更に滑州に小綾子一匹を取りて、留めて桂心・香兒數人に與へて共に分るる。桂心より已より下、或は銀の釵を脫し、金の釧を落し、帛子を解き、羅巾を施き、皆、張郎を送り白して曰はく「好し去け。若し行李に因みあらば、時に複た相ひ過(よぎ)れ」と。
香兒、因りて詠ひて曰はく「丈夫は行跡に存りて、殷勤に數来を為す。浮萍草と作し、浪を逐ひて廻るを知らざること莫かれ」と。
下官の涙を拭ひて言ひて曰はく「犬馬の何ぞ識る、尚ほ離るるを傷むことを解し、鳥獣の情(こころ)無くも、由に別れを怨むを知る。心は木石に非ずて、豈、深恩を忘れむや」と。
十娘の報へて詠ひて曰はく「他の道はく『愁は死に勝れり』と、兒の言はく『死は愁に勝れり』と。愁は来りて百處を痛ましめ、死し去りて一時に休まん」と。
又た詠ひて曰はく「他の道(い)はく『愁は死に勝れり』、兒の言はく『死は愁に勝れり』と。日夜、心に懸け憶ふに、幾年の秋(とき)を隔だてむを知らむ」と。
下官の詠ひて曰はく「人去つて悠悠として両天を隔て、未だ審らじして迢迢として幾年を度り、使に縦(したが)ひ身を萬裏の外に遊ぶとも、終に歸して意は十娘の邊に在らむ」と。
十娘の詠ひて曰はく「天涯地角、何かなる處か知らむ、玉體と紅顏は再び遇ひ難く、但だ翅羽をして人の為に生じせしめば、會些(かならず)高く飛びて君と共に去かむ」と。
下官の相ひ看ることを忍びずて、忽ち十娘の手子を把りて別る。行きて二三里に至りて、頭を廻らして看るに、數人猶ほ舊の處に立ちて在る。余、時に漸漸にして遠きに去り、聲は沈み影は滅へて、顧み瞻るに見えずて、惻愴として去る。
行きて山の口に至り、舟を浮べて過る。夜は耿耿して寐らず、心は焭焭として托るところに靡(なび)く。既に啼猨にも悵恨にて、又た別鵠に淒傷す。気を飲み聲を吞み、天道人情、別れ有るは必ず怨みあり、怨み有れば必ず盈つ。去りし日は一に何ぞ長く、来たりし宵は一に何ぞ短かき。比目の對は絶へ、雙鳧は伴を失ひ、日日に衣はぎ、朝朝に帶は緩し。口上の唇は裂け、胸間の気は満ち、涙は臉に千行し、愁ひは腸を寸断す。端坐して琴をふれば、涕血は襟に流れ、千の思ひは競ひて起き、百慮は交り侵す。獨り眉を顰めて永く結び、空しく膝を抱えて長吟す。神仙を望めども見るべからず、普く天地、余の心を知り、神仙を思ふて得べからず、十娘を覚るも知聞は断へ、此れ聞かむと欲して腸は亦た亂れ、更に此れを見て余が心を悩ます。

以上、訓じました。
 なお、語句の典拠を調べられる時は個人として『遊仙窟(張文成作、漆山間又四朗訳註;岩波文庫)』や『遊仙窟(張文成作、今村与志雄訳;岩波文庫)』などを参照されることを推薦いたします。また、次の詩文は酒令でも雅飲の遊びでのものですので、表の意味と裏の意味は違います。そこで個別に語字の意味を『漢辞海』のような辞書から確認することを薦めます。
<詩文1>
自憐膠漆重、相思意不窮。可惜尖頭物、終日在皮中。
數捺皮應緩、頻磨快轉多。渠今拔出後、空鞘欲如何。
<詩文2> 
摧毛任便點、愛色轉須磨。所以研難竟、良由水太多。
嘴長非為嗍、項曲不由攀。但令脚直上、他自眼雙翻。
<詩文3>
舊来心肚熱、無端強熨他。即今形勢冷、誰肯重相磨。
若冷頭面在、生平不熨空、即今雖冷惡、人自覚残銅。 (銅は洞と同音)
<詩文4>
尾動惟須急、頭低則不平。渠今合把爵、深淺任君情。
發初先向口、欲竟漸昇頭。従君中道歇、到底即須休。
<詩文5>
平生好須弩、得挽即低頭。聞君把提快、更乞五三籌。
縮幹全不到、抬頭剰大過。若令臍下入、百放故籌多。
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