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竹取翁と万葉集のお勉強

楽しく自由に万葉集を楽しんでいるブログです。
初めてのお人でも、それなりのお人でも、楽しめると思います。

万葉雑記 色眼鏡 二五一 今週のみそひと歌を振り返る その七一

2018年01月27日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 二五一 今週のみそひと歌を振り返る その七一

 最初に変化球ですが、インターネット上でHP「鳥便り」と云う鳥に関わる幅広い話題と知識を提供するものがあります。そこでは知識として鳥の古名の情報も提供しています。万葉集や古今和歌集を鑑賞する時、手軽に参考とすることが出来ます。大学などの大規模図書館とは縁がない私のようなものにとって大変にありがたいHPの一つです。そのHP「鳥便り」の「鳥へぇ・古名」のホルダーで「犬鶯:おおよしきり」と紹介します。その「おおよしきり」は“体の色がオリーブ褐色でウグイスに似ているが、体はやや大きい。四月下旬に河川やため池などのヨシ原に渡来し、繁殖する。雄は、ヨシの先にとまり、口の中の橙赤色を見せて「ギョギョシ、ギョギョシ」と囀る”と紹介され、鳴き声を聞かなければ鶯の仲間と思われるような大きさと姿をしています。鳥名表記については、江戸時代ではその啼き声から「行行子」や「仰仰子」の当て字で表記され、現代では「大葭切」や「大葦切」と読み易い当て字で表記されています。このオオヨシキリは、春、東南アジアの越冬地から子育てのために日本に飛来し繁殖を行います。そのため、春告げ鳥でもあり、営巣地はその名の通りに葦原です。そのため、湿地帯で稲作をする農民には身近な春告げ鳥と云うことになります。追記参考として、古い図鑑などではオオヨシキリはウグイス科の一種として分類していると思いますが、現代ではヨシキリ科を新たに作り分離したそうです。つまり、古代から近世ではヨシキリとウグイスは区別が難しい近類と考えていたのです。

 さて、鎌倉時代に「犬鶯」と表記する言葉は無いと評論され、歌が変更されたものが万葉集にあります。それが次の歌です。非常に有名な歌で、この歌から色々な場面で使われる「泣き別れ」と云う言葉が生まれています。

校本 春日野 友鶯 鳴別 眷益間 思御吾
訓読 春日野の友鶯の鳴き別れ帰ります間も思ほせわれを
意訳 春日野の妻を求めて鳴く鶯のように泣き別れて、お帰りになる間でも、お思いください。私のことを。

 一方、この歌の校本される前の西本願寺本万葉集での原歌表記は次のようになっています。

集歌1890 春日野 犬鶯 鳴別 春眷益間 思御吾
試訓 春日(はるひ)野(の)し去(い)ぬ鶯(うぐいす)し鳴き別れ春眷(み)ます間(ま)も思(おも)をせわれを
試訳 春の日の輝く野で鶯に似た犬鶯(おおよしきり)が鳴いて飛び去るように、過ぎゆく春をしみじみ懐かしく思う、その折々にも思い出し話題としてください、貴方からは見て身分が低くつまらない私ですが。

 校本歌と集歌で示す原歌を比べて見ますと、斯様に歌の原歌表記も歌が示す世界もまったくに違います。示した校本歌は鎌倉時代からの和歌道に叶うもので、集歌で示す原歌は平安時代中期までのものです。
 新点の歴史からしますと平安時代最末期から鎌倉時代に、犬鶯と云う漢語はない。だから、友鶯の誤記であろうと類聚古集を引用する形から原歌を校訂する作業が始まりました。一方、古語で犬鶯の意味をオオヨシキリのことと認めますと、歌の作歌者柿本人麻呂は「犬鶯」と云う漢字文字に、1.本物では無い偽物の鶯に似た大葦切(オオヨシキリ)と云う鳥の名前、2.「犬」に「去ぬ」の発声を持たした掛詞的な扱いで作歌した可能性、3.本物ではないという意味合いの「犬」から「偽物・つまらないもの」の意味合いを示し相手から見た「吾」をへりくだっているのなどが見出せます。加えて、ウグイスとオオヨシキリとは似た姿をしていますが、オオヨシキリの鳴き声はけたたましく美しくありません。ここから人麻呂は歌を高貴な人に献上していますが言外に作歌した歌が美しくはありませんがとの謙譲の意味合いを持たしている可能性もあります。このように解釈しますと無理に誤記説を導入することなく、歌は原歌表記のままで鑑賞が可能となりますし、その奥行きは校本のものより深くなります。
 他方、校本では犬鶯を友鶯と校訂したため、四句目「春眷益間」の「春」と云う文字は初句の「春日野」と云う言葉からすると和歌として美しくないし、歌意からしても変だとして削ります。結果、校本では二句目と四句目とを校訂して新たに実に新古今和歌調の歌として相応しいものを創りました。これは万葉集の歌が原歌表記から読解できなくなった鎌倉時代、原歌表記に忠実に読み解くよりも藤原定家たちの感覚に叶うようにと歌を詠った結果です。

 さらに追記参考として、歌の末句「思御吾」で使われる「御」と云う漢字文字において、後漢時代に編まれた漢字字典「釋名」では「御、語也」と解説しています。ここから現代日本語において「御」を尊敬語の意味合いを持たせての動詞「かたる=語る」と解釈できると考えます。現代での修飾語「御(おん、ぎょ)」と云う漢字の使い方とは違いますが、柿本人麻呂が生きた時代の万葉時代の漢字用法としてこのような解釈が可能と考えます。およそ、「思御吾」は発声の言葉としますと「おもをせわれを」と尊敬語として解釈できますが、同時に表語文字の力を利用して「私のことを思い出し、話題として下さい」と云う意味合いも導き出されます。これは人麻呂特有の漢字文字の用法と考えます。
 さらに「御、語也」の解説から派生しまして、万葉集の標題に使われる詞「御製歌」は「御(かた)りて製(つく)らしし歌」と訓じるものですし、「御歌」は「御(かた)りしし歌」と訓じるものと考えます。従来的な解釈とは違いますが、漢語・漢字本来の語源からしますと、このような解釈の展開が可能となります。

 ご存じのように万葉集は漢語と表語文字である万葉仮名と云う漢字だけで表現された和歌です。意味を持つ表語文字である漢字文字の力を完全に排除し、音漢字となる万葉仮名だけで表記した古今和歌集や後撰和歌集とは違います。その万葉集の歌の中でも柿本人麻呂の作歌は漢字文字の扱いが独特です。ここでは集歌1890の歌を中心に紹介しましたが、今週に扱った歌でも次のような歌々があり、漢字文字の解釈により大きく歌意が揺らぎます。

集歌1889 吾屋前之 毛桃之下尓 月夜指 下心吉 菟楯項者
訓読 吾(あ)が屋前(やと)し毛桃(けもも)し下に月夜(つくよ)さし下心(したこころ)良(よ)しうたてし今日(けふ)は
私訳 私の家の前庭にある毛桃の木の下に月明りが射し、気分は良い。日頃と違い今日は。
注意 原歌の「菟楯項者」の「項」は一般に「頃」の誤字として「うたてこのころ」と訓みますが、ここでは「項」の漢字が持つ音の「キョウ」と意味の「うなじ、くび」から、ままに訓みました。なお、万葉集では室原の毛桃が有名で、この室原は現在の宇陀市室生と推定されています。すると、末句「菟楯項者」の「菟」と「楯」には菟田で詠われた久米歌「楯並(たたなめ)て伊那佐(いなさ)の山の・・・」があるかもしれません。

集歌1895 春去 先三枝 幸命在 後相 莫戀吾妹
訓読 春さればまづ三枝(さきくさ)し幸くあらば後(ゆり)にも逢はむな恋そ吾妹(わぎも)
私訳 春がやって来ると、まず咲く、その言葉のひびきではないが、率川の三枝神社の百合が咲くように、その言葉のように、二人の仲に幸(さく)があるならば、また後(ゆり)に逢いましょう。恋しい私の貴女。
注意 原歌の「三枝」については「ミツマタ」、「ユリ」等の諸説がありますが、ここでは言葉遊びからも古語に“後”の意味をも持つ「ユリ」を採用しています。三枝神社の御神体である媛蹈韛五十鈴姫命縁起からしますと「ユリ」は笹ユリを示すようです。

 今回もまた与太話です。標準訓でも一般的な解釈でもありません。あくまでも学問から切り離された社会人の与太話、遊びとしてご笑納下さい。学生さんには、このような遊びは向きません。
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万葉雑記 色眼鏡 二五〇 今週のみそひと歌を振り返る その七〇

2018年01月20日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 二五〇 今週のみそひと歌を振り返る その七〇

 今回は巻十に載る次の集歌1859の歌に遊びます。弊ブログでは、時々、話題にしています。香具山の雪をテーマにするもので、飛鳥・奈良時代に和歌に「見立て」技法を認めるかどうかにより歌の鑑賞態度が左右されます。教科書的には万葉集時代には「見立て」技法を認めません。時代として早く、歌にそのようなものがあっても技法と云うよりも、たまたまの所産と考えます。

集歌1859 馬並而 高山乎 白妙丹 令艶色有者 梅花鴨
訓読 馬並(な)めに天香具山(あまかぐやま)を白栲ににほはしたるは梅し花かも
私訳 馬を並べて行った、天の香具山を白い栲のように彩っているのは、梅の花でしょうか。
注意 原歌の「高山乎」を、集歌13及び集歌14の歌の「高山」を「香具山」と訓む例から「天香具山」と訓んでいます。

参考歌
集歌13 高山波 雲根火雄男志等 耳梨與 相諍競伎 神代従 如此尓有良之 古昔母 然尓有許曽 虚蝉毛 嬬乎 相挌良思吉
訓読 香具山は畝火ををしと耳梨と相あらそひき神代よりかくにあるらし古昔も然にあれこそうつせみも嬬をあらそふらしき

集歌14 高山与 耳梨山与 相之時 立見尓来之 伊奈美國波良
訓読 香具山と耳梨山とあひし時立ちて見に来し印南国原

 最初に参考歌を紹介しましたが、巻一に載る集歌13及び集歌14の歌の「高山」と云う表記をを「香具山」と訓じます。古来、香具山、畝火山、耳梨山を大和三山と称していましたから、集歌13の長歌では雲根火(畝火)と耳梨とが詠われていますので、バランスから高山は香具山と推定され、訓じられてきました。これはある種の慣用句とも考えられます。
 万葉集中で集歌13と集歌14の歌を含め「高山」と云う表記を持つ歌は全二十首あり、紹介しました集歌13と集歌14の歌の他に「高山」を「かぐやま」と訓じるものとして、校本万葉集では集歌2455の歌を挙げます。

集歌2455 我故 所云妹 高山之 峯朝霧 過兼鴨
訓読 我がゆゑし云はれし妹し高山(かくやま)し峯(みね)し朝霧過ぎにけむかも
私訳 私のために色々噂された貴女は、天の香具山の峰に朝霧が晴れるように噂も通り過ぎたでしょうか。

 他の歌では富士の高嶺の表記を高山とするものや、明らかに高い山の風景を詠うものが大半です。その点、今回、取り上げました集歌1859の歌は馬を並べて野駆けして行く先の風景です。ほぼ、里山でしょう。遥か彼方の山並みの頂と云う感覚ではないと思います。ここから高い山と云うよりも「高山」=「香具山」と云う訓じが導かれます。およそ、集歌2455の歌が里山の景色から「高山」=「香具山」と訓じるのですと、集歌1859の歌も同様と考えます。

 ここまでが出発点です。
 すると、集歌1859の歌では香具山の枝に積もる雪を「白梅の花」と見立てていることになります。では、香具山の雪をそのものずばり歌う集歌28の歌はどうのように解釈しましょうか。

参考歌
天皇御製謌
標訓 天皇の御(かた)りて製(つく)らせしし謌
集歌28 春過而 夏来良之 白妙能 衣乾有 天之香来山
訓読 春過ぎに夏来(き)るらし白栲の衣(ころも)乾(ほ)したり天し香来山(かくやま)
私訳 もう、寒さ厳しい初春が終わって夏がやってきたようです。白栲の衣を干しているような白一面の天の香具山よ。

 この集歌28の歌は伝統の解釈では「見立て」技法の適用を認めません。伝統の解釈の背景には「見立て」とするには時期が早すぎると云う判断があるとします。この歌は持統天皇の作品と伝わるものですが、実際の作歌者は御付の女官でしょう。ただ、実作歌者が和歌を良くする近習の者の作品であったとしても、作品は持統天皇元年から二年頃までのものですので伝統の和歌技法成立年代としては時期が早すぎるします。標準的には平安時代初期、伊勢物語や古今和歌集の頃を技法成立の時期と考えます。
 一方、不思議な話ですが、現代の鑑賞では巻十四に載る次の歌では遠方の筑波山の雪景色を日晒しの布の様子とする「見立て」技法を認めます。つまり、従来の有識者の鑑賞態度は非常に恣意的なのです。有識者において、当時の陸奥の下級官吏や庶民は一字一音万葉仮名歌による表記ではありますが「見立て」技法の歌を詠えたとし、片や飛鳥の都の皇族・貴族はまだまだ和歌技法において「見立て」技法の歌を詠うのは早いとします。

参考歌の参考歌
雪を木々に干す布と見立てた例
集歌3351 筑波祢尓 由伎可母布良留 伊奈乎可母 加奈思吉兒呂我 尓努保佐流可母
訓読 筑波嶺(つくばね)に雪かも降らる否(いな)をかも愛(かな)しき児ろが布(にの)乾(ほ)さるかも
私訳 筑波の嶺に雪が降ったのでしょうか。違うのでしょうか。愛しい貴女が布を乾かしているのでしょうか。

 有識者で通用する与太話はさて置き、巻十四に載る集歌3351の歌に「見立て」技法があるならば、公平に集歌28の歌にも「見立て」技法の可能性を認めるべきでしょう。すると、集歌1859の歌にも「見立て」を認めるべきとなります。つまり、高山が香具山を意味するのですと、時に集歌1859の歌は集歌28の歌の世界観を引歌している可能性があります。
 このように考えますと、集歌1859の歌は枝に積もる雪を集歌28の歌から白妙の布と見立て、さらに、いやいや、白梅の花でしょうかと、新たな見立てを行っていることになります。従来の建前では万葉集中に見立て技法の歌は僅かで、可能性で比喩歌はあるとします。もし、次の歌が見立てで詠われた歌としますと、万葉集では白梅の花が散る様やその白い花を雪と見立てるのは定型ですから、さて、どうしましょうか。

駿河采女
標訓 駿河(するがの)采女(うねめ)
集歌1420 沫雪香 薄太礼尓零登 見左右二 流倍散波 何物之花其毛
訓読 沫雪(あわゆき)かはだれに降ると見るさふに流らへ散るは何物(なにも)し花ぞも
私訳 沫雪なのでしょうか、まだら模様に空から降ると見るほどに空から流れ散るのは何の花でしょうか

大伴宿祢村上梅謌二首
標訓 大伴宿祢村上(むらかみ)の梅の謌二首
集歌1436 含有常 言之梅我枝 今旦零四 沫雪二相而 将開可聞
訓読 含(ふふ)めりと言ひし梅が枝(え)今朝(けさ)降りし沫雪(あわゆき)にあひて咲きぬらむかも
私訳 蕾が膨らんでいると云った梅の枝。今朝降った泡雪に出会って、その白い花を咲かせたのでしょうか。

 このように万葉集に遊びますと、飛鳥浄御原宮時代には既に「見立て」という技法は確立していて、さらに奈良時代には引歌・本歌取の技法も成立していたと考えるのが良いようです。別のところで触れましたが、天平元年には既に意図して訓文字を使用しないで音文字だけの一字一音万葉仮名だけで和歌を詠う実験は為されており、このときには掛詞技法や縁語関係も成立していたと思われます。古今和歌集から万葉集を眺めるか、はたまた、万葉集から古今和歌集を眺めるか、その立場で色々あります。ただ、従来の学説や解説が正しいかどうかは立場ですし見識です。
 雑談ついでに、万葉集は漢語と万葉仮名と云う漢字だけで表記された和歌集ですが、その漢語と漢字をどのように発音するかと云う問題があります。今日、日本漢音の発声研究と云うものが進んでおり、従来から区分されてきた古音・呉音、漢音、唐音、宋音と云う発声区分だけではないようですし、日本で奈良時代、平安初期、平安中期、平安後期ではそれぞれの漢字への発声が違うことが明らかにされて来ているようです。これも従来の学説や解説と齟齬が存在するようです。
 作歌技法において万葉集では古今和歌集での掛詞技法や縁語関係のものに加えて漢字と云う表語文字の力を利用するものがありますから、万葉集全盛期の歌は古今和歌集のものに比べてさらに複層的な構造を持つ可能性があります。さらに、漢字文字の発声において、現在に通じる万葉集の訓点が鎌倉時代初期のものに依存しているとしますと、同じ漢字表記ですが現代の発声表記(ひらがな・かたかな)に直した時、奈良時代から平安時代初期の原歌と鎌倉時代の訓点物とで一致しない可能性が存在することになります。

 脱線に継ぐ脱線の雑談に終始しましたが、時に一般的な解説の根拠を疑うと、万葉集の中で斯様に面白く遊ぶ事が出来ます。本ブログは高等教育を受けていない者のものですから、従来の解釈ルールには縛られません。原歌から面白可笑しく鑑賞するだけです。そこが与太話たる所以です。
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万葉雑記 色眼鏡 二四九 今週のみそひと歌を振り返る その六九

2018年01月13日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 二四九 今週のみそひと歌を振り返る その六九

 今回は巻十の中から次の歌で遊びます。

集歌1835 今更 雪零目八方 蜻火之 燎留春部常 成西物乎
訓読 今さらに雪降(ふ)らめやもかぎろひし燃ゆる春へとなりにしものを
私訳 今さらに、雪が降ると云うのでしょうか。陽炎が燃え立つ春の季節へとなっているのに

 これを選択した理由は単純です。単に「蜻火之 燎留春部常」の表現からの選択です。さて、巻一に柿本人麻呂が詠う次のような歌があります。なお、訓じは弊ブログ独自ですので、一般のものとは、多少、相違しています。

集歌48 東 野炎 立所見而 反見為者 月西渡
訓読 東(ひむがし)し野(の)し炎(かぎろひ)し立つそ見にかへり見すれば月西渡る
私訳 夜通し昔の出来事を思い出していて、ふと、東の野に朝焼けの旭光が雲間から立つのが見えて、振り返って見ると昨夜、一夜中、照らした月が西に渡って沈み逝く。

 ご存じのように集歌48の歌は、時には難訓歌(または未定訓歌)と評論されます。その背景は集歌48の歌の上句「東野炎立所見而」において「炎」と云う漢字の訓じをどのように評価するかによって、歌の情景が大きく変わるからです。「炎」を火炎に関わるものとしますと「ホノケ(火気)」に関係する言葉となり、そこから鎌倉時代初期の歌人たちの語感を下に「ケブリ(煙)」の方向に訓じを展開します。一方、朝の赤焼や朝日などから旭日旗に代表される旭光をイメージして「カゲロヒ」と訓じを与える考え方もあります。現在の標準的な鑑賞は江戸期に提案された旭光をイメージした「カゲロヒ」を採用するのが有力です。
 当然、「カゲロヒ」は江戸期からの新訓ですから異論はあります。その異論の根拠として、今回、紹介しました集歌1835の歌の「蜻火之 燎留春部常」、集歌210の長歌の「蜻火之 燎流荒野尓」、集歌213の長歌の「香切火之 燎流荒野尓」などを下に「蜻火(カギロヒ)」は「燎(もゆる)」との表現が一般的で、「炎」と云う言葉に対して「立」と云う漢字表現を与えるのは不自然と論難します。背景として、この論者は万葉集中で詠われる「蜻火」と「炎」とは同じものであって、それは現在の「カゲロウ=陽炎」を意味するとして言葉が意味するものの定義を明確にすることなく暗黙内に伝統の議論を行っています。もし、現代語での「カゲロウ=陽炎」と「カゲロヒ=旭光」は別物としますと「蜻火」は「カゲロウ=陽炎」を意味し、集歌48の歌の「炎」は「カゲロヒ=旭光、曙の光」を意味すると定義しますとその論議の根拠は成立しません。ある種、あやふやな言葉遊びでの頓珍漢な論難と云うことになります。伝統や和歌道に縛られない現代社会人は「カゲロウ=陽炎」と「カゲロヒ=旭光」とを混同する人は稀です。
 ただ、万葉集中では集歌1047の長歌に「炎乃 春尓之成者(カゲロフの春にしなれば)」、と云う表現があり、ここでは「炎」は「陽炎」を示しています。なお、この「炎」に「燎」や「もゆる」のような訓じを与えるケースはありませんから、「炎」に「立」との表現するのは不自然と論難する作業は、あくまで、漢字交じり仮名に翻訳されたもので論議する時、場合によっては成立するかも知れませんが、原歌表記から論議する場合には対象外の説です。
 こうした時、歌を読解するという本質からしますと、「炎」は「カゲロウ=陽炎」か「カゲロヒ=旭光」かと云う論議において、「集歌48の歌が詠われた時間帯はいつかと云うことが議論の前提に無ければいけないことになります。自然現象としての「カゲロウ=陽炎」は局所的に密度の異なる大気が混ざり合うことで光が屈折し、起こる現象ですから、日の出前後の早朝には生じない現象です。もし、集歌48の歌が詠う世界が日の出前の時間帯ですと、歌中の「炎」は「カゲロウ=陽炎」ではありません。日の出直前の旭光が有力な候補となり、同時に訓じが「カゲロウ」ではなく「カゲロヒ」が相応しくなります。加えて、一首単独で歌を鑑賞する立場では歌が詠われた時間帯は遠景視野が確保された早朝であり、山端から光線が立上がるのが観測される薄暮のような時間帯ではないとします。これを前提に朝の食事準備の風景を詠い、仁徳天皇の故事にちなんで民生が整った象徴として村里の人家に立つ炊飯の煙を「炎」と詠い「ケムリ」と訓じ、そのように意訳するようです。
 ただ、和歌道からの相伝を根拠とせず、万葉集の歌と云うものを長歌一首、短歌四首の群歌となる原歌表記から鑑賞しますと、歌の世界が大きく変化します。芸道として万葉集を鑑賞するか、文学作品として学術的に鑑賞するかは、それぞれの立場です。ただ、アカデミーに関与されるお方は和歌道と云う芸道から万葉集を鑑賞するのが身の為と思案します。学術的に鑑賞するのは主流ではありません。参考として集歌48の歌は「軽皇子宿干安騎野時」と云う標題に含まれるものであって「安騎野」は日本書紀で「菟田吾城」と紹介される地名ですし、これらの群歌には狩の様子はまったくに詠われていません。しかし、伝統では狩の歌として解釈します。和歌道からの相伝の力は原歌の内容を凌駕するものがあります。そこを配慮下さい。

 ここで、今回、取り上げました歌に戻ります。
 集歌1835の歌は「蜻火之 燎留春部常」と詠いますが上句では「今更 雪零目八方」と詠います。そろそろ、春うららの日が延びて来た季節の中で、戻り寒波ではありませんが、急に冷え込んできて雪模様になったと思われます。そのような寒さ恨めしい歌です。現代ですと二月下旬から三月上旬で、旧暦ですと一月中旬から二月下旬となるでしょうか。そのような時間帯での歌です。
 歌としては、ただ、それだけです。集歌48の歌の上句「東野炎立所見而」での論争がなければ、まず、注目もされない歌と考えます。人麻呂の集歌48の歌を鑑賞するとき、歴史的論争の背景として知るべき歌となります。

 今回は、紹介した歌よりも柿本人麻呂が詠うものを中心に扱いました。それも素人の与太話です。ご迷惑でしょうが、週に一度の酔っ払い論にお付き合い頂ければ幸いです。
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万葉雑記 色眼鏡 二四八 今週のみそひと歌を振り返る その六八

2018年01月06日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 二四八 今週のみそひと歌を振り返る その六八

 今回は巻九の中から次の歌二首で遊びます。この歌は「田邊福麻呂之謌集」に載る「思娘子作謌一首并短謌」と云う標題を持つ集歌1792の長歌に付けられた反歌二首です。前後しますが、最初に短歌である反歌二首、次いでその本となる長歌を参考資料として載せます。

集歌1793 垣保成 人之横辞 繁香裳 不遭日數多 月乃經良武
訓読 垣ほなす人し横辞(よここと)繁みかも逢はぬ日数多(まね)く月の経ぬらむ
私訳 垣根を作るような多くの人々が、妬みや噂を多くするからでしょうか、逢えない日々が重なり、ただ月日が経っていくのでしょう。

集歌1794 立易 月重而 難不遇 核不所忘 面影思天
訓読 たち替わり月(つき)重(かさ)なりに逢はねどもさねそ忘れず面影(おもかげ)にして
私訳 この月も替わり月が積み重なり、貴女には逢えないけども、貴女をどうしても忘れることが出来ない。貴女の姿を思い浮かべると。

思娘子作謌一首并短謌
標訓 娘子を思ひて作れる謌一首并せて短謌
集歌1792 白玉之 人乃其名矣 中々二 辞緒不延 不遇日之 數多過者 戀日之 累行者 思遣 田時乎白土 肝向 心摧而 珠手次 不懸時無 口不息 吾戀兒矣 玉釧 手尓取持而 真十鏡 直目尓不視者 下桧山 下逝水乃 上丹不出 吾念情 安虚歟毛
訓読 白玉し 人のその名を なかなかに 辞(こと)し緒延(は)はず 逢はぬ日し 数多(まね)く過ぐれば 恋ふる日し 累(かさ)なり行(い)けば 思ひ遣(や)る たどきを知らに 肝(きも)向(むか)ふ 心(こころ)摧(くだ)けに 玉襷(たまたすき) 懸(か)けぬ時なく 口(くち)息(や)まず 吾が恋ふる児を 玉釧(たまくしろ) 手に取り持ちに 真澄鏡(まそかがみ) 直目(ただめ)に見ずば 下(した)桧山(ひやま) 下(した)逝(ゆ)く水の 上(うへ)に出(い)ず 吾が念(も)ふ情(こころ) 安きそらかも
私訳 美しい真珠のような貴女のその名を大切にして言葉の端々に出すことなく、貴女に逢えない日々が続くので、貴女を慕うだけの日々が積み重なってしまって、私の気持ちを伝える方法も無くて、肝が集る心臓も張り裂けて、神に願う玉襷を懸けない日々はなく、常に神に願って、私が恋い慕う貴女を、美しい釧のように手に取り持って願えばその姿を見せると云う真澄鏡でも、貴女の姿に直接に逢えないので、色づく桧の茂る山の隠れて流れる水のように、表には気持ちを表さず、忍ぶ私の恋い慕う気持ちは、落ち着かない。

 さて、ここで紹介するものは宴で与えられたテーマ「思娘子」に沿って歌を詠ったと思われる作品です。特定の女性を愛し、贈った作品ではありません。宴での知的遊戯としての酒の肴となる作品です。これを前提に妄想しますと、長歌は別として反歌となる短歌二首は木簡などに記述され、回し読みされたのではないでしょうか。結果、そのような回し読みされた木簡などが宴の後、宮中の歌舞所などの部署で保管され、後年に伝わったと考えます。
 この木簡に記述され回し読みされたとの妄想を下に歌を鑑賞しますと、集歌1794の歌の「難不遇 核不所忘」と云う表記が気に掛かります。「核」は古語「さね」と訓みますが、名詞として扱うか、副詞として扱うかで、歌の意味合いは大きく変わります。一般的には副詞としてあつかい、否定語と組み合わせて「決して○○ではない」と云うような解釈を行います。ここでは「決して、忘れられるものではない」と云う意味合いとなります。では名詞として解釈できないかと云うとそれも可能ですし、その時、歌は砕けた宴でのバレ歌となります。現代では「さね」に陰核と云う意味合いがありますが、古代でも果物の種、物事の中核のような意味合いがありますし、歌は数回は出会った(=肌を重ねた)女性が忘れられないことを詠うものですから、「核(さね)」については副詞的扱いではなく、名詞的扱いで素肌の女性の陰核が忘れられないとの解釈が可能となります。大人でしたらご理解いただけると思いますが、バレ歌とはそういう内容のことです。このような解釈が出来るため、宴で酒の肴として詠われたものと云う妄想が現れます。

 実はこの記事を書くために女性の「さね」と云う言葉の歴史を調べましたが江戸期までしか辿れませんでした。淫語を扱う辞典では古語として扱われていますが確実に飛鳥・奈良時代に使われていた言葉かどうかは不明です。なお、「核」を「さね」と訓じる例として万葉集には次のような歌があります。参考に集歌11の歌は比喩歌としますと、「草」は鄙の女性を意味し「小松」は若々しい私と云う女を意味します。ある種、宴でのバレ歌です。参考として「さね」と云う言葉は、万葉集中、万葉仮名では「左祢」、「佐祢」や「狭根」と表記するのが多数です。

集歌11 吾勢子波 借廬作良須 草無者 小松下乃 草乎苅核
訓読 吾が背子は仮廬(かりほ)作らす草(くさ)無くは小松が下の草を刈らさね
私訳 私の愛しい貴方が仮の宿を作る草が無いならば、小松の下の草をお刈りなさい。
裏訳 鄙の旅路で仮の粗末な宿で満足するような女がいないのなら、この私を抱きなさい。

 また、「実」の意味合いで「さね」と云う言葉を使う歌があります。

集歌3750 安米都知乃 曽許比能宇良尓 安我其等久 伎美尓故布良牟 比等波左祢安良自
訓読 天地の底(そこ)ひのうらに吾(あ)がごとく君に恋ふらむ人は実(さね)あらじ
私訳 天地の底のその裏まで、そんな果てしない世界中に私のように貴方を尊敬して慕っている人はけっしていません。

 一方、女性の全体部位を示すものとして古語では「ホト」と云う言葉はある種、女陰や凹みを意味するものとして古事記などに載ります。また、奈良時代から平安時代になりますと、中国医学書が多数もたらされ、多くの医学用語が貴族の間に浸透していきます。例として平安初期の言語辞典「和名抄」に「揚子漢語抄云吉舌和名比奈佐岐」との記述があります。なお、語源的には和名抄の「ヒナサキ」よりも「ヒイナ+サキ(=小さい尖り)」がより古い言葉となるようです。
 今回の歌の鑑賞とは直接には関係しませんが、その「さね」と云う言葉の確認作業では奈良時代までに将来された中国医学書を集めて編集された『医心方』の「巻第二十八 房内」や艶本「遊仙窟」を含めて検索を行いました。実際、この房内や遊仙窟に「核(さね)」と云う漢字・言葉の記述はありませんでした。
 参考資料として、その房内の一部を抜粋して紹介します。以下に紹介するものは中医学書で滋養強壮の療法として推薦する男女交合での体位九種を解説するものです。なお、漢文解釈において、文中の「刺其穀實」は「その穀實(=陰核)を指で愛撫する」と解釈します。隋唐時代までの古語において「刺」は「殺」でもありますが「責」でもあり、その「責」は「求む」でもありますから、刀をイメージして指一・二本で責めるでしょうか。およそ、一部に見られる「玉茎を穀實まで刺し込む」という解釈ではありません。同じように「刺其中極」や「刺其琴弦」は小陰唇部分を刺激するですし、「刺其臭鼠」は大陰唇で代表される全体です。さらに「刺嬰女」や「刺其昆石」は陰核を強く愛撫すると解釈すべきものでしょう。また、「刺麥歯」は「在於琴弦、麥歯之間、陽困昆石之下、陰困麥歯之間」の文章からしますと「膣口部」と推定されます。一部の解説に見られる挿入時の没入深さではありません。例えば龍翻の体位での「刺其穀實、又攻其上」の意味は正常位で交合するとき、男は陰核部からその上部の陰毛の生える恥丘部までも指で愛撫しなさいと指示しています。さらに補足しますとその龍翻の体位での「熱壮且強」の「且」は古語漢字で徂であり、その意は往くです。つまり、交合の最後に熱い玉茎で力強く深く挿入する、又は勢いよく精を放つという意味になります。ここでの「刺」や「且」は古語漢字の用法で、現代漢字用法ではありません。さらに「行五八」は四十回行う、「行六九」は五十四回行うと解釈します。およそ、万葉集とここでの房内での漢字用法・漢語解釈には共通するものがあり、近代漢語・漢字解釈と相違するものもあります。その分、現代人と違って飛鳥・奈良時代の貴族には読み易い漢文となります。

第十二 九法
《玄女経》云、黄帝曰、所説九法、未聞其法、願為陳之、以開其意、藏之石室、行其法式。 玄女曰、九法、第一曰龍翻。令女正偃臥向上、男伏其上、股隱於床、女挙其陰以受玉茎、刺其穀實、又攻其上、疏緩動搖、八浅二深、死往生返、熱壮且強、女則煩悅、其楽如倡、致自閉固、百病消亡。
第二曰虎歩。令女俯俯、尻仰首伏、男跪其後、抱其腹、乃納玉茎、刺其中極、務令深密。進退相薄、行五八之數。其度自得、女陰閉張、精液外溢、畢而休息、百病不発、男益盛。
第三曰猿搏。令女偃臥、男擔其股、膝還過胸、尻背俱挙、乃納玉茎、刺其臭鼠、女煩動搖、精液如雨、男深按之、極壮且怒、女快乃止、百病自愈。
第四曰蝉附。令女伏臥、直伸其軀、男伏其後、深納玉茎、小挙其尻、以扣其赤珠、行六九數、女煩精流、陰裏動急、外為開舒、女快乃止、七傷自除。
第五曰亀騰。令女正臥、屈其両漆、男乃推之、其足至乳、深納玉茎、刺嬰女、深浅以度、令中其實、女則感悅、軀自搖挙、精液流溢、乃深極納、女快乃止。行之勿失精、力百倍。
第六曰鳳翔。令女正臥、自挙其脚、男跪其股間、両手授席、深納玉茎、刺其昆石、堅熱内牽。令女動作、行三八之數、尻急相搏、女陰開舒、自吐精液、女快乃止、百病消。
第七曰兔吮毫。男正反臥、直伸脚、女跨其上、膝在外邊、女背頭向足、據席俯頭、乃納玉茎、刺其琴弦、女快、精液流出如泉、欣喜和楽、動其神形、女快乃止、百病不生。
第八曰魚接鱗。男正偃臥、女跨其上、両股向前、安徐納之、微入便止、才授勿深、如兒含乳、使女獨搖、務令遅久、女快男退、治諸結聚。
第九曰鶴交頸。男正箕坐、女跨其股、手抱男頸、納玉茎、刺麥歯、務中其實。男抱女尻、助其搖挙、女自感快、精液流溢、女快乃止、七傷自愈。

 飛鳥・奈良時代から平安時代中期までは、このような房内などの中医学書は貴族たちの基本的な教養でした。また、漢文が行政での標準文章であった飛鳥・奈良時代において、この程度の漢文読解は宮中貴族や女房たちにとって難しいものではありませんでした。そこが血筋最優先で文盲の公卿が存在した平安時代後期以降とは違います。
 さらに、医心方に示す房中術と云う医学療法では中高年の男性には若い女性を、高齢な女性には若い男性を滋養強壮の薬として処方します。そして、一部抜粋として紹介しました「九法」はその滋養強壮のために実践すべき医学療法での服用法です。歴史において、どうも房中術で定める正しい服用法を実地に指導する施術師として夫人宮子には玄昉が、阿倍内親王には道鏡があたっていたのではないかと考えます。心身不良を訴える患者にとっては医療先進国である大唐からもたらされた大真面目な治療方法ですが、外野から見た時、男女交合との区別はつきません。
 この医心方 房内の内容を前提にすると次の歌々がなぜ雑歌と云う部立に含まれているのかと云うことが理解しやすいのではないでしょうか。ある種、発声での言葉と表記での漢字文字との二面性を持つ漢字文字を使った言葉遊びのバレ歌です。つまり、酔いが回った時に書記して回し読みする宴会歌です。まず、鎌倉時代以降の漢字交じり仮名表記に翻訳された訓読み万葉集歌では見えて来ない世界です。

<例一>
詠和琴
標訓 和琴(やまとこと)を詠める
集歌1129 琴取者 嘆先立 盖毛 琴之下樋尓 嬬哉匿有
訓読 琴取れば嘆き先立つけだしくも琴し下樋(したひ)に妻や匿(こも)れる
試訳 琴(=陰核)を奏でるとその響す音色に賞讃の想いがまず現れ、覆う和毛、さらにその先の、素晴らしい音色を響す琴(=陰核)から樋(=陰唇)を下へと辿って行くと、そこには妻(=膣)が隠れています

<例二>
寄日本琴
標訓 日本琴に寄せる
集歌1328 伏膝 玉之小琴之 事無者 甚幾許 吾将戀也毛
試訓 伏す膝(ひざ)し玉し小琴(をこと)し事無くはいたく幾許(ここだく)し吾恋ひめやも
試訳 伏した膝、そうして、美しい貴女のかわいい琴(=陰核、陰唇)に、なにもしなければ、これほども、何度でも、貴女との愛の営みをしたいと思うでしょうか。
注意 小琴は若い女性の女性器陰核部を示すと思われますが、場合により女性器全体を示す可能性があります。

<例三>
集歌2664 暮月夜 暁闇夜乃 朝影尓 吾身者成奴 汝乎念金丹
訓読 夕(ゆふ)月夜(つくよ)暁(あかとき)闇(やみ)の朝影(あさかげ)に吾(あ)が身はなりぬ汝(な)を念(おも)ひかねに
私訳 煌々と輝く夕刻に登る月夜の月が暁に闇に沈むような朝の月の光のように私は痩せ細ってしまった。貴女への想いに耐えかねて。
裏歌の解釈
試訳 夕暮れの月夜から明け時の闇夜まで(愛を交わして)、その明け時の光が作る影のように弱々しくなるほどに私の身は疲れてしまった。あぁ!貴女、それでも、私は貴女の“あそこ=金丹”を求めてしまう。

 補足として、近代文学史においてこの房内篇は明治時代に医学書ではなく性交手引書に位置する淫書として発禁指定を受けていて昭和後期に改めて発刊されるまで世に出回っていませんでした。そのため、万葉集と医心方とを関連させて研究することは、まず、行われていないと考えます。従いまして、文献参照として先行する研究書を探されたとしても見つけられないと考えます。万葉集、房内をキーワードとして行うネット検索では、その検索筆頭に弊ブログの記事がヒットするように、ある種、新しい研究分野です。

 今回は取り止めのない話で大脱線をしてしまいました。ただ、紹介しましたものは表の歴史には出て来ませんが、今日まで日本だけに残された房内と云う医学書をどれほど飛鳥・奈良時代の貴族・女房たちが大切にしていたかを感じていただければ幸いです。それを反映しての馬鹿話ですし鑑賞です。

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