万葉雑記 色眼鏡 二五一 今週のみそひと歌を振り返る その七一
最初に変化球ですが、インターネット上でHP「鳥便り」と云う鳥に関わる幅広い話題と知識を提供するものがあります。そこでは知識として鳥の古名の情報も提供しています。万葉集や古今和歌集を鑑賞する時、手軽に参考とすることが出来ます。大学などの大規模図書館とは縁がない私のようなものにとって大変にありがたいHPの一つです。そのHP「鳥便り」の「鳥へぇ・古名」のホルダーで「犬鶯:おおよしきり」と紹介します。その「おおよしきり」は“体の色がオリーブ褐色でウグイスに似ているが、体はやや大きい。四月下旬に河川やため池などのヨシ原に渡来し、繁殖する。雄は、ヨシの先にとまり、口の中の橙赤色を見せて「ギョギョシ、ギョギョシ」と囀る”と紹介され、鳴き声を聞かなければ鶯の仲間と思われるような大きさと姿をしています。鳥名表記については、江戸時代ではその啼き声から「行行子」や「仰仰子」の当て字で表記され、現代では「大葭切」や「大葦切」と読み易い当て字で表記されています。このオオヨシキリは、春、東南アジアの越冬地から子育てのために日本に飛来し繁殖を行います。そのため、春告げ鳥でもあり、営巣地はその名の通りに葦原です。そのため、湿地帯で稲作をする農民には身近な春告げ鳥と云うことになります。追記参考として、古い図鑑などではオオヨシキリはウグイス科の一種として分類していると思いますが、現代ではヨシキリ科を新たに作り分離したそうです。つまり、古代から近世ではヨシキリとウグイスは区別が難しい近類と考えていたのです。
さて、鎌倉時代に「犬鶯」と表記する言葉は無いと評論され、歌が変更されたものが万葉集にあります。それが次の歌です。非常に有名な歌で、この歌から色々な場面で使われる「泣き別れ」と云う言葉が生まれています。
校本 春日野 友鶯 鳴別 眷益間 思御吾
訓読 春日野の友鶯の鳴き別れ帰ります間も思ほせわれを
意訳 春日野の妻を求めて鳴く鶯のように泣き別れて、お帰りになる間でも、お思いください。私のことを。
一方、この歌の校本される前の西本願寺本万葉集での原歌表記は次のようになっています。
集歌1890 春日野 犬鶯 鳴別 春眷益間 思御吾
試訓 春日(はるひ)野(の)し去(い)ぬ鶯(うぐいす)し鳴き別れ春眷(み)ます間(ま)も思(おも)をせわれを
試訳 春の日の輝く野で鶯に似た犬鶯(おおよしきり)が鳴いて飛び去るように、過ぎゆく春をしみじみ懐かしく思う、その折々にも思い出し話題としてください、貴方からは見て身分が低くつまらない私ですが。
校本歌と集歌で示す原歌を比べて見ますと、斯様に歌の原歌表記も歌が示す世界もまったくに違います。示した校本歌は鎌倉時代からの和歌道に叶うもので、集歌で示す原歌は平安時代中期までのものです。
新点の歴史からしますと平安時代最末期から鎌倉時代に、犬鶯と云う漢語はない。だから、友鶯の誤記であろうと類聚古集を引用する形から原歌を校訂する作業が始まりました。一方、古語で犬鶯の意味をオオヨシキリのことと認めますと、歌の作歌者柿本人麻呂は「犬鶯」と云う漢字文字に、1.本物では無い偽物の鶯に似た大葦切(オオヨシキリ)と云う鳥の名前、2.「犬」に「去ぬ」の発声を持たした掛詞的な扱いで作歌した可能性、3.本物ではないという意味合いの「犬」から「偽物・つまらないもの」の意味合いを示し相手から見た「吾」をへりくだっているのなどが見出せます。加えて、ウグイスとオオヨシキリとは似た姿をしていますが、オオヨシキリの鳴き声はけたたましく美しくありません。ここから人麻呂は歌を高貴な人に献上していますが言外に作歌した歌が美しくはありませんがとの謙譲の意味合いを持たしている可能性もあります。このように解釈しますと無理に誤記説を導入することなく、歌は原歌表記のままで鑑賞が可能となりますし、その奥行きは校本のものより深くなります。
他方、校本では犬鶯を友鶯と校訂したため、四句目「春眷益間」の「春」と云う文字は初句の「春日野」と云う言葉からすると和歌として美しくないし、歌意からしても変だとして削ります。結果、校本では二句目と四句目とを校訂して新たに実に新古今和歌調の歌として相応しいものを創りました。これは万葉集の歌が原歌表記から読解できなくなった鎌倉時代、原歌表記に忠実に読み解くよりも藤原定家たちの感覚に叶うようにと歌を詠った結果です。
さらに追記参考として、歌の末句「思御吾」で使われる「御」と云う漢字文字において、後漢時代に編まれた漢字字典「釋名」では「御、語也」と解説しています。ここから現代日本語において「御」を尊敬語の意味合いを持たせての動詞「かたる=語る」と解釈できると考えます。現代での修飾語「御(おん、ぎょ)」と云う漢字の使い方とは違いますが、柿本人麻呂が生きた時代の万葉時代の漢字用法としてこのような解釈が可能と考えます。およそ、「思御吾」は発声の言葉としますと「おもをせわれを」と尊敬語として解釈できますが、同時に表語文字の力を利用して「私のことを思い出し、話題として下さい」と云う意味合いも導き出されます。これは人麻呂特有の漢字文字の用法と考えます。
さらに「御、語也」の解説から派生しまして、万葉集の標題に使われる詞「御製歌」は「御(かた)りて製(つく)らしし歌」と訓じるものですし、「御歌」は「御(かた)りしし歌」と訓じるものと考えます。従来的な解釈とは違いますが、漢語・漢字本来の語源からしますと、このような解釈の展開が可能となります。
ご存じのように万葉集は漢語と表語文字である万葉仮名と云う漢字だけで表現された和歌です。意味を持つ表語文字である漢字文字の力を完全に排除し、音漢字となる万葉仮名だけで表記した古今和歌集や後撰和歌集とは違います。その万葉集の歌の中でも柿本人麻呂の作歌は漢字文字の扱いが独特です。ここでは集歌1890の歌を中心に紹介しましたが、今週に扱った歌でも次のような歌々があり、漢字文字の解釈により大きく歌意が揺らぎます。
集歌1889 吾屋前之 毛桃之下尓 月夜指 下心吉 菟楯項者
訓読 吾(あ)が屋前(やと)し毛桃(けもも)し下に月夜(つくよ)さし下心(したこころ)良(よ)しうたてし今日(けふ)は
私訳 私の家の前庭にある毛桃の木の下に月明りが射し、気分は良い。日頃と違い今日は。
注意 原歌の「菟楯項者」の「項」は一般に「頃」の誤字として「うたてこのころ」と訓みますが、ここでは「項」の漢字が持つ音の「キョウ」と意味の「うなじ、くび」から、ままに訓みました。なお、万葉集では室原の毛桃が有名で、この室原は現在の宇陀市室生と推定されています。すると、末句「菟楯項者」の「菟」と「楯」には菟田で詠われた久米歌「楯並(たたなめ)て伊那佐(いなさ)の山の・・・」があるかもしれません。
集歌1895 春去 先三枝 幸命在 後相 莫戀吾妹
訓読 春さればまづ三枝(さきくさ)し幸くあらば後(ゆり)にも逢はむな恋そ吾妹(わぎも)
私訳 春がやって来ると、まず咲く、その言葉のひびきではないが、率川の三枝神社の百合が咲くように、その言葉のように、二人の仲に幸(さく)があるならば、また後(ゆり)に逢いましょう。恋しい私の貴女。
注意 原歌の「三枝」については「ミツマタ」、「ユリ」等の諸説がありますが、ここでは言葉遊びからも古語に“後”の意味をも持つ「ユリ」を採用しています。三枝神社の御神体である媛蹈韛五十鈴姫命縁起からしますと「ユリ」は笹ユリを示すようです。
今回もまた与太話です。標準訓でも一般的な解釈でもありません。あくまでも学問から切り離された社会人の与太話、遊びとしてご笑納下さい。学生さんには、このような遊びは向きません。
最初に変化球ですが、インターネット上でHP「鳥便り」と云う鳥に関わる幅広い話題と知識を提供するものがあります。そこでは知識として鳥の古名の情報も提供しています。万葉集や古今和歌集を鑑賞する時、手軽に参考とすることが出来ます。大学などの大規模図書館とは縁がない私のようなものにとって大変にありがたいHPの一つです。そのHP「鳥便り」の「鳥へぇ・古名」のホルダーで「犬鶯:おおよしきり」と紹介します。その「おおよしきり」は“体の色がオリーブ褐色でウグイスに似ているが、体はやや大きい。四月下旬に河川やため池などのヨシ原に渡来し、繁殖する。雄は、ヨシの先にとまり、口の中の橙赤色を見せて「ギョギョシ、ギョギョシ」と囀る”と紹介され、鳴き声を聞かなければ鶯の仲間と思われるような大きさと姿をしています。鳥名表記については、江戸時代ではその啼き声から「行行子」や「仰仰子」の当て字で表記され、現代では「大葭切」や「大葦切」と読み易い当て字で表記されています。このオオヨシキリは、春、東南アジアの越冬地から子育てのために日本に飛来し繁殖を行います。そのため、春告げ鳥でもあり、営巣地はその名の通りに葦原です。そのため、湿地帯で稲作をする農民には身近な春告げ鳥と云うことになります。追記参考として、古い図鑑などではオオヨシキリはウグイス科の一種として分類していると思いますが、現代ではヨシキリ科を新たに作り分離したそうです。つまり、古代から近世ではヨシキリとウグイスは区別が難しい近類と考えていたのです。
さて、鎌倉時代に「犬鶯」と表記する言葉は無いと評論され、歌が変更されたものが万葉集にあります。それが次の歌です。非常に有名な歌で、この歌から色々な場面で使われる「泣き別れ」と云う言葉が生まれています。
校本 春日野 友鶯 鳴別 眷益間 思御吾
訓読 春日野の友鶯の鳴き別れ帰ります間も思ほせわれを
意訳 春日野の妻を求めて鳴く鶯のように泣き別れて、お帰りになる間でも、お思いください。私のことを。
一方、この歌の校本される前の西本願寺本万葉集での原歌表記は次のようになっています。
集歌1890 春日野 犬鶯 鳴別 春眷益間 思御吾
試訓 春日(はるひ)野(の)し去(い)ぬ鶯(うぐいす)し鳴き別れ春眷(み)ます間(ま)も思(おも)をせわれを
試訳 春の日の輝く野で鶯に似た犬鶯(おおよしきり)が鳴いて飛び去るように、過ぎゆく春をしみじみ懐かしく思う、その折々にも思い出し話題としてください、貴方からは見て身分が低くつまらない私ですが。
校本歌と集歌で示す原歌を比べて見ますと、斯様に歌の原歌表記も歌が示す世界もまったくに違います。示した校本歌は鎌倉時代からの和歌道に叶うもので、集歌で示す原歌は平安時代中期までのものです。
新点の歴史からしますと平安時代最末期から鎌倉時代に、犬鶯と云う漢語はない。だから、友鶯の誤記であろうと類聚古集を引用する形から原歌を校訂する作業が始まりました。一方、古語で犬鶯の意味をオオヨシキリのことと認めますと、歌の作歌者柿本人麻呂は「犬鶯」と云う漢字文字に、1.本物では無い偽物の鶯に似た大葦切(オオヨシキリ)と云う鳥の名前、2.「犬」に「去ぬ」の発声を持たした掛詞的な扱いで作歌した可能性、3.本物ではないという意味合いの「犬」から「偽物・つまらないもの」の意味合いを示し相手から見た「吾」をへりくだっているのなどが見出せます。加えて、ウグイスとオオヨシキリとは似た姿をしていますが、オオヨシキリの鳴き声はけたたましく美しくありません。ここから人麻呂は歌を高貴な人に献上していますが言外に作歌した歌が美しくはありませんがとの謙譲の意味合いを持たしている可能性もあります。このように解釈しますと無理に誤記説を導入することなく、歌は原歌表記のままで鑑賞が可能となりますし、その奥行きは校本のものより深くなります。
他方、校本では犬鶯を友鶯と校訂したため、四句目「春眷益間」の「春」と云う文字は初句の「春日野」と云う言葉からすると和歌として美しくないし、歌意からしても変だとして削ります。結果、校本では二句目と四句目とを校訂して新たに実に新古今和歌調の歌として相応しいものを創りました。これは万葉集の歌が原歌表記から読解できなくなった鎌倉時代、原歌表記に忠実に読み解くよりも藤原定家たちの感覚に叶うようにと歌を詠った結果です。
さらに追記参考として、歌の末句「思御吾」で使われる「御」と云う漢字文字において、後漢時代に編まれた漢字字典「釋名」では「御、語也」と解説しています。ここから現代日本語において「御」を尊敬語の意味合いを持たせての動詞「かたる=語る」と解釈できると考えます。現代での修飾語「御(おん、ぎょ)」と云う漢字の使い方とは違いますが、柿本人麻呂が生きた時代の万葉時代の漢字用法としてこのような解釈が可能と考えます。およそ、「思御吾」は発声の言葉としますと「おもをせわれを」と尊敬語として解釈できますが、同時に表語文字の力を利用して「私のことを思い出し、話題として下さい」と云う意味合いも導き出されます。これは人麻呂特有の漢字文字の用法と考えます。
さらに「御、語也」の解説から派生しまして、万葉集の標題に使われる詞「御製歌」は「御(かた)りて製(つく)らしし歌」と訓じるものですし、「御歌」は「御(かた)りしし歌」と訓じるものと考えます。従来的な解釈とは違いますが、漢語・漢字本来の語源からしますと、このような解釈の展開が可能となります。
ご存じのように万葉集は漢語と表語文字である万葉仮名と云う漢字だけで表現された和歌です。意味を持つ表語文字である漢字文字の力を完全に排除し、音漢字となる万葉仮名だけで表記した古今和歌集や後撰和歌集とは違います。その万葉集の歌の中でも柿本人麻呂の作歌は漢字文字の扱いが独特です。ここでは集歌1890の歌を中心に紹介しましたが、今週に扱った歌でも次のような歌々があり、漢字文字の解釈により大きく歌意が揺らぎます。
集歌1889 吾屋前之 毛桃之下尓 月夜指 下心吉 菟楯項者
訓読 吾(あ)が屋前(やと)し毛桃(けもも)し下に月夜(つくよ)さし下心(したこころ)良(よ)しうたてし今日(けふ)は
私訳 私の家の前庭にある毛桃の木の下に月明りが射し、気分は良い。日頃と違い今日は。
注意 原歌の「菟楯項者」の「項」は一般に「頃」の誤字として「うたてこのころ」と訓みますが、ここでは「項」の漢字が持つ音の「キョウ」と意味の「うなじ、くび」から、ままに訓みました。なお、万葉集では室原の毛桃が有名で、この室原は現在の宇陀市室生と推定されています。すると、末句「菟楯項者」の「菟」と「楯」には菟田で詠われた久米歌「楯並(たたなめ)て伊那佐(いなさ)の山の・・・」があるかもしれません。
集歌1895 春去 先三枝 幸命在 後相 莫戀吾妹
訓読 春さればまづ三枝(さきくさ)し幸くあらば後(ゆり)にも逢はむな恋そ吾妹(わぎも)
私訳 春がやって来ると、まず咲く、その言葉のひびきではないが、率川の三枝神社の百合が咲くように、その言葉のように、二人の仲に幸(さく)があるならば、また後(ゆり)に逢いましょう。恋しい私の貴女。
注意 原歌の「三枝」については「ミツマタ」、「ユリ」等の諸説がありますが、ここでは言葉遊びからも古語に“後”の意味をも持つ「ユリ」を採用しています。三枝神社の御神体である媛蹈韛五十鈴姫命縁起からしますと「ユリ」は笹ユリを示すようです。
今回もまた与太話です。標準訓でも一般的な解釈でもありません。あくまでも学問から切り離された社会人の与太話、遊びとしてご笑納下さい。学生さんには、このような遊びは向きません。