竹取翁と万葉集のお勉強

楽しく自由に万葉集を楽しんでいるブログです。
初めてのお人でも、それなりのお人でも、楽しめると思います。

万葉集 集歌1643から集歌1647まで

2021年03月31日 | 新訓 万葉集巻八
若櫻部朝臣君足雪謌一首
標訓 若櫻部(わかさくらべの)朝臣(あそみ)君足(きみたり)の雪の謌一首
集歌一六四三 
原文 天霧之 雪毛零奴可 灼然 此五柴尓 零巻乎将見
訓読 天(あま)霧(き)らし雪も降らぬかいちしろくこの斎柴(いつしば)に降らまくを見む
私訳 空を霧に立ち込めて、そこに雪も降ってこないだろうか。ひたすらにこの厳かな斎柴に雪が降り包むのを見たい。

三野連石守梅謌一首
標訓 三野連(みののむらぢ)石守(いはもり)の梅の謌一首
集歌一六四四 
原文 引攀而 折者可落 梅花 袖尓古寸入津 染者雖染
訓読 引き攀(よ)ぢて折(を)らば落(ち)るべし梅の花袖に扱入(こき)れつ染(し)まば染むとも
私訳 引き捩って枝を折れば花は散るでしょう。その梅の花を袖に枝からしごき入れた。衣が梅の花に染まるなら染まるのも良い。

巨勢朝臣宿奈麻呂雪謌一首
標訓 巨勢朝臣(こせのあそみ)宿奈麻呂(すくなまろ)の雪の謌一首
集歌一六四五 
原文 吾屋前之 冬木乃上尓 零雪乎 梅花香常 打見都流香裳
訓読 吾が屋前(やど)し冬木(ふゆき)の上に降る雪を梅し花かとうち見つるかも
私訳 私の家の冬枯れした樹の上に降る雪を、梅の花かとつい見間違えた。

小治田朝臣東麻呂雪謌一首
標訓 小治田朝臣(をはりたのあそみ)東麻呂(あづままろ)の雪の謌一首
集歌一六四六 
原文 夜干玉乃 今夜之雪尓 率所沾名 将開朝尓 消者惜家牟
訓読 ぬばたまの今夜(こよひ)し雪にいざ濡れな明(あ)けむ朝(あした)に消(け)なば惜しけむ
私訳 漆黒の今夜の雪に、さあ、濡れよう。夜が明ける朝に雪が融け消えていたら心残りでしょう。

忌部首黒麻呂雪謌一首
標訓 忌部首(いむへのおひと)黒麻呂(くろまろ)の雪の謌一首
集歌一六四七 
原文 梅花 枝尓可散登 見左右二 風尓乱而 雪曽落久類
訓読 梅の花枝にか散ると見るさへに風に乱れて雪ぞ降り来る
私訳 梅の花、枝にと花が散っていると眺めるのにまして、風に交じって雪が降って来た。

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万葉集 集歌1638から集歌1642まで

2021年03月30日 | 新訓 万葉集巻八
天皇御製謌一首
標訓 天皇(すめらみこと)の御製歌(おほみうた)一首
集歌一六三八 
原文 青丹吉 奈良乃山有 黒木用 造有室者 雖居座不飽可聞
訓読 あをによし奈良の山なる黒木(くろき)もち造れる室(むろ)は座(ま)せど飽かぬかも
私訳 木々の葉色も青々と匂うように美しい奈良の山にある黒木を使って造った大嘗の室は、このように建てられていても見飽きることはありません。
左注 右、聞之御在左大臣長屋王佐保宅肆宴御製。
注訓 右は、聞かく「左大臣長屋王の佐保の宅(いへ)に御在(いでま)せる肆宴(とよのあかり)のきこしめす御製(おほみうた)なり」といへり。
注意 続日本紀とは相違しますが、この二首は神亀元年十一月二十三日の大嘗祭が完了した時の歌です。

太宰帥大伴卿冬日見雪憶京謌一首
標訓 太宰帥大伴卿の冬の日に雪を見て京(みやこ)を憶(おも)へる謌一首
集歌一六三九 
原文 沫雪 保杼呂保杼呂尓 零敷者 平城京師 所念可聞
訓読 沫雪(あわゆき)しほどろほどろに降り敷しけば平城(なら)し京(みやこ)し思ほゆるかも
私訳 沫雪が庭にまだら模様に降り積もると、奈良の京を思い出されます。

太宰帥大伴卿梅謌一首
標訓 太宰帥大伴卿の梅の謌一首
集歌一六四〇 
原文 吾岳尓 盛開有 梅花 遺有雪乎 乱鶴鴨
訓読 吾が岳(おか)に盛(さか)りに咲ける梅の花残れる雪を乱(まが)へつるかも
私訳 私が眺める岳に花の盛りとばかりに咲いている梅の花よ。枝に融け残った雪を梅の花と間違えたのだろうか。

角朝臣廣辨雪梅謌
標訓 角朝臣(つのあそみ)廣辨(ひろべ)の雪の梅の謌
集歌一六四一 
原文 沫雪尓 所落開有 梅花 君之許遣者 与曽倍弖牟可聞
訓読 沫雪(あわゆき)に落(ふ)らえて咲ける梅し花君し許(と)遣(や)らばよそへてむかも
私訳 沫雪に降られたか、だから咲いている梅の花。その花を貴方の許に贈ったなら、花にこの見る風景を想像されるでしょうか。

安倍朝臣奥道雪謌一首
標訓 安倍朝臣(あべのあそみ)奥道(おきみち)の雪の謌一首
集歌一六四二 
原文 棚霧合 雪毛零奴可 梅花 不開之代尓 曽倍而谷将見
訓読 たな霧(き)らひ雪も降らぬか梅の花咲かぬし代(しろ)に擬(そ)へてだに見む
私訳 地には霧が一面に広がり、そこに雪も降って来ないだろうか。梅の花が咲かない代わりに、雪を梅の花に擬えてだけでも、この景色を眺めたい。

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万葉集 集歌1633から集歌1637まで

2021年03月29日 | 新訓 万葉集巻八
或者贈尼謌二首
標訓 或る者の尼に贈りたる謌二首
集歌一六三三 
原文 手母須麻尓 殖之芽子尓也 還者 雖見不飽 情将盡
訓読 手もすまに植ゑし萩にや還(か)へりては見れども飽かず情(こころ)尽さむ
私訳 手を休めずに植えた萩においては、何度も振り返って眺めますが、眺め飽きることなく、その萩の花に情が移ってしまうでしょう。

集歌一六三四 
原文 衣手尓 水澁付左右 殖之田乎 引板吾波倍 真守有栗子
訓読 衣手(ころもて)に水(み)渋(しぶ)付くまで植ゑし田を引板(ひきた)吾(あ)が延(は)へ守(まも)れる苦(くる)し
私訳 衣の袖が水渋に染まるほどに植えた田を、紐に付けた鳴子の板を私が張り巡らして、獣から守るのは辛い。

尼作頭句、并大伴宿祢家持、所誂尼續末句等和謌一首
標訓 尼の頭(かしら)の句を作り、并せて大伴宿祢家持、尼の續く末(もと)の句を所誂(あとら)ひて和(こた)へたる謌一首
集歌一六三五
原文 佐保河之 水乎塞上而 殖之田乎  (尼作)
苅流早飯者 獨奈流倍思  (家持續)
訓読 佐保川(さほかは)し水を堰(せ)上げて殖(う)ゑし田を  (尼作る)
訓読 刈れる早飯(わさいひ)は独(ひと)りなるべし  (家持續ぐ)
私訳 佐保川の流れを堰き止めて育てた田を・・・・
(その返歌を創る途中を)刈り取って早々と飯(いい:云い)にするのは私なのでしょう。

冬雜謌
標訓 冬の雑歌(くさぐさのうた)
舎人娘子雪謌一首
標訓 舎人(とねりの)娘子(おとめ)の雪の謌一首
集歌一六三六 
原文 大口能 真神之原尓 零雪者 甚莫零 家母不有國
訓読 大口(おほくち)の真神(まかみ)し原に降る雪はいたくな降りそ家もあらなくに
私訳 大口の真神の野原に降る雪は、そんなにひどく降らないで。貴方が途中で宿るような家がないので。

太上天皇御製謌一首
標訓 太上(おほき)天皇(すめらみこと)の御製歌(おほみうた)一首
集歌一六三七 
原文 波太須珠寸 尾花逆葺 黒木用 造有室者 迄萬代
訓読 はだ薄(すすき)尾花(おばな)逆葺(さかふ)き黒木(くろき)もち造れる室(むろ)は万代(よろづよ)までに
私訳 はだすすきの尾花を逆さに葺いて黒木で造った大嘗の室は、永遠であれ。
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資料編 墨子 巻六 節葬下

2021年03月28日 | 墨子 原文と訓じ
資料編 墨子 巻六 節葬下
PDFのリンク先;
https://drive.google.com/file/d/1zKw52JVwFSWfpKMcaga9jJHUhdDMRzH1/view?usp=sharing

《節葬下》
子墨子言曰、仁者之為天下度也、辟之無以異乎孝子之為親度也。今孝子之為親度也、将柰何哉。曰、親貧則従事乎富之、人民寡則従事乎衆之、衆乱則従事乎治之。當其於此也、亦有力不足、財不贍、智不智、然後己矣。無敢舍餘力、隱謀遺利、而不為親為之者矣。若三務者、孝子之為親度也、既若此矣。
雖仁者之為天下度、亦猶此也。曰、天下貧則従事乎富之、人民寡則従事乎衆之、衆而乱則従事乎治之。當其於此、亦有力不足、財不贍、智不智、然後已矣。無敢舍餘力、隱謀遺利、而不為天下為之者矣。若三務者、此仁者之為天下度也、既若此矣。
今逮至昔者三代聖王既沒、天下失義、後世之君子、或以厚葬久喪以為仁也、義也、孝子之事也、或以厚葬久喪以為非仁義、非孝子之事也。曰二子者、言則相非、行即相反、皆曰、吾上祖述堯舜禹湯文武之道者也。而言即相非、行即相反、於此乎後世之君子、皆疑惑乎二子者言也。若苟疑惑乎之二子者言、然則姑嘗傳而為政乎國家萬民而観之。計厚葬久喪、奚當此三利者。我意若使法其言、用其謀、厚葬久喪實可以富貧衆寡、定危治乱乎、此仁也、義也、孝子之事也、為人謀者不可不勧也。仁者将興之天下、誰賈而使民誉之、終勿廃也。意亦使法其言、用其謀、厚葬久喪實不可以富貧衆寡、定危理乱乎、此非仁非義、非孝子之事也、為人謀者不可不沮也。仁者将求除之天下、相廃而使人非之、終身勿為。
且故興天下之利、除天下之害、令國家百姓之不治也、自古及今、未嘗之有也。何以知其然也。今天下之士君子、将猶多皆疑惑厚葬久喪之為中是非利害也。故子墨子言曰、然則姑嘗稽之、今雖毋法執厚葬久喪者言、以為事乎國家。此存乎王公大人有喪者、曰棺槨必重、葬埋必厚、衣衾必多、文繡必繁、丘隴必巨、存乎匹夫賤人死者、殆竭家室、乎諸侯死者、虛車府、然後金玉珠璣比乎身、綸組節約、車馬蔵乎壙、又必多為屋幕。鼎鼓几梴壺濫、戈剣羽旄歯革、挾而埋之、満意。若送従、曰天子殺殉、衆者數百、寡者數十。将軍大夫殺殉、衆者數十、寡者數人。處喪之法将柰何哉。曰哭泣不秩聲翁、縗絰垂涕、處倚廬、寢苫枕塊、又相率強不食而為飢、薄衣而為寒、使面目陷陬、顏色黧黒耳目不聰明、手足不勁強、不可用也。又曰上士之操喪也、必扶而能起、杖而能行、以此共三年。若法若言、行若道使王公大人行此、則必不能蚤朝、五官六府、辟草木、實倉廩。使農夫行此。則必不能蚤出夜入、耕稼樹藝。使百工行此、則必不能修舟車為器皿矣。使婦人行此、則必不能夙興夜寐、紡績織紝。細計厚葬。為多埋賦之財者也。計久喪、為久禁従事者也。財以成者、扶而埋之、後得生者、而久禁之、以此求富、此譬猶禁耕而求穫也、富之説無可得焉。
是故求以富家而既已不可矣、欲以衆人民、意者可邪。其説又不可矣。今唯無以厚葬久喪者為政、君死、喪之三年、父母死、喪之三年、妻與後子死者、五皆喪之三年、然後伯父叔父兄弟孽子其、族人五月、姑姊甥舅皆有月數。則毀瘠必有制矣、使面目陷陬、顏色黧黒、耳目不聰明、手足不勁強、不可用也。又曰上士操喪也、必扶而能起、杖而能行、以此共三年。若法若言、行若道、苟其飢約、又若此矣、是故百姓冬不仞寒、夏不仞暑、作疾病死者、不可勝計也。此其為敗男女之交多矣。以此求衆、譬猶使人負剣、而求其壽也。衆之説無可得焉。
是故求以衆人民、而既以不可矣、欲以治刑政、意者可乎。其説又不可矣。今唯無以厚葬久喪者為政、國家必貧、人民必寡、刑政必乱。若法若言、行若道、使為上者行此、則不能聴治、使為下者行此、則不能従事。上不聴治、刑政必乱、下不従事、衣食之財必不足。若苟不足、為人弟者、求其兄而不得不弟弟必将怨其兄矣、為人子者、求其親而不得、不孝子必是怨其親矣、為人臣者、求之君而不得、不忠臣必且乱其上矣。是以僻淫邪行之民、出則無衣也、入則無食也、内續奚吾、並為淫暴、而不可勝禁也。是故盜賊衆而治者寡。夫衆盜賊而寡治者、以此求治、譬猶使人三還而毋負己也、治之説無可得焉。
是故求以治刑政、而既已不可矣、欲以禁止大國之攻小國也、意者可邪。其説又不可矣。是故昔者聖王既沒、天下失義、諸侯力征。南有楚、越之王、而北有齊、晋之君、此皆砥礪其卒伍、以攻伐并兼為政於天下。是故凡大國之所以不攻小國者、積委多、城郭修、上下調和、是故大國不耆攻之、無積委、城郭不修、上下不調和、是故大國耆攻之。今唯無以厚葬久喪者為政、國家必貧、人民必寡、刑政必乱。若苟貧、是無以為積委也、若苟寡、是城郭溝渠者寡也、若苟乱、是出戦不克、入守不固。
此求禁止大國之攻小國也、而既已不可矣。欲以干上帝鬼神之福、意者可邪。其説又不可矣。今唯無以厚葬久喪者為政、國家必貧、人民必寡、刑政必乱。若苟貧、是粢盛酒醴不淨潔也、若苟寡、是事上帝鬼神者寡也、若苟乱、是祭祀不時度也。今又禁止事上帝鬼神、為政若此、上帝鬼神、始得従上撫之曰、我有是人也、與無是人也、孰愈。曰、我有是人也、與無是人也、無擇也。則惟上帝鬼神降之罪厲之禍罰而棄之、則豈不亦乃其所哉。
故古聖王制為葬埋之法、曰、棺三寸、足以朽體、衣衾三領、足以覆悪。以及其葬也、下毋及泉、上毋通臭、壟若参耕之畝、則止矣。死則既以葬矣、生者必無久哭、而疾而従事、人為其所能、以交相利也。此聖王之法也。
今執厚葬久喪者之言曰、厚葬久喪雖使不可以富貧衆寡、定危治乱、然此聖王之道也。子墨子曰、不然。昔者堯北教乎八狄、道死、葬蛩山之陰、衣衾三領、榖木之棺、葛以緘之、既窆而後哭、満陥無封。已葬、而牛馬乗之。舜西教乎七戎、道死、葬南己之市、衣衾三領、榖木之棺、葛以緘之、已葬、而市人乗之。禹東教乎九夷、道死、葬會稽之山、衣衾三領、桐棺三寸、葛以緘之、絞之不合、通之不陥、土地之深、下毋及泉、上毋通臭。既葬、收餘壤其上、壟若参耕之畝、則止矣。若以此若三聖王者観之、則厚葬久喪果非聖王之道。故三王者、皆貴為天子、富有天下、豈憂財用之不足哉。以為如此葬埋之法。
今王公大人之為葬埋、則異於此。必大棺中棺、革闠三操、璧玉即具、戈剣鼎鼓壺濫、文繡素練、大鞅萬領、輿馬女楽皆具、曰必捶涂差通、壟雖凡山陵。此為輟民之事、靡民之財、不可勝計也、其為毋用若此矣。是故子墨子曰、郷者、吾本言曰、意亦使法其言、用其謀、計厚葬久喪、請可以富貧衆寡、定危治乱乎、則仁也、義也、孝子之事也、為人謀者、不可不勧也、意亦使法其言、用其謀、若人厚葬久喪、實不可以富貧衆寡、定危治乱乎、則非仁也、非義也、非孝子之事也、為人謀者、不可不沮也。是故求以富國家、甚得貧焉、欲以衆人民、甚得寡焉、欲以治刑政、甚得乱焉、求以禁止大國之攻小國也、而既已不可矣、欲以干上帝鬼神之福、又得禍焉。上稽之堯舜禹湯文武之道而政逆之、下稽之桀紂幽厲之事、猶合節也。若以此観、則厚葬久喪其非聖王之道也。
今執厚葬久喪者言曰、厚葬久喪、果非聖王之道、夫胡説中國之君子、為而不已、操而不擇哉。子墨子曰、此所謂便其習而義其俗者也。昔者越之東有輆沐之國者、其長子生、則解而食之。謂之宜弟、其大父死、負其大毋而棄之、曰鬼妻不可與居處。此上以為政、下以為俗、為而不已、操而不擇、則此豈實仁義之道哉。此所謂便其習而義其俗者也。楚之南有炎人國者、其親戚死朽其肉而棄之、然後埋其骨、乃成為孝子。秦之西有儀渠之國者、其親戚死、聚柴薪而焚之、燻上、謂之登遐、然後成為孝子。此上以為政、下以為俗、為而不已、操而不擇、則此豈實仁義之道哉。此所謂便其習而義其俗者也。若以此若三國者観之、則亦猶薄矣。若以中國之君子観之、則亦猶厚矣。如彼則大厚、如此則大薄、然則葬埋之有節矣。故衣食者、人之生利也、然且猶尚有節、葬埋者、人之死利也、夫何獨無節於此乎。子墨子制為葬埋之法曰、棺三寸、足以朽骨、衣三領、足以朽肉、掘地之深、下無菹漏、気無発洩於上、壟足以期其所、則止矣。哭往哭来、反従事乎衣食之財、佴乎祭祀、以致孝於親。故曰子墨子之法、不失死生之利者、此也。
故子墨子言曰、今天下之士君子、中請将欲為仁義、求為上士、上欲中聖王之道、下欲中國家百姓之利、故當若節喪之為政、而不可不察此者也。

字典を使用するときに注意すべき文字
辟、法也。又明也。 あきらかにする、の意あり。
姑、息、休也。 しばらく、ときに、の意あり。
苟、且也。又但也。 ただ、まことに、の意あり。
干、求也 もとめる、の意あり。
便、順也、宜也。又習也。 したがう、ならひ、の意あり。


《節葬下》
子墨子の言いて曰く、仁者の天下の為に度(はか)るや、之を辟(あき)らかにするを以って孝子が親の為に度(はか)るに異なるは無し。今、孝子の親の為に度(はか)るや、将に柰何(いかむ)せむとするや。曰く、親が貧(ひん)なれば則ち之を富ます事に従(したが)い、人民が寡(すくな)ければ則ち之を衆(おお)くする事に従い、衆(しゅう)が乱れれば則ち之を治める事に従う。當(まさ)に其の此に於いてするに、亦た力は足らずは有り、財は贍(た)らず、智(ち)は智(し)らず、然る後に己(や)む。敢(あへ)て餘力(よりょく)隱謀(いんぼう)遺利(いり)を舍(お)き、而して親の為に之を為さざる者は無し。三務(さんむ)の若(かくのごと)きは、孝子が親の為に度(はか)るに、既に此の若(ごと)き。
仁者が天下の為に度(はか)ると雖(いへど)も、亦た猶此のごとし。曰く、天下の貧しきは則ち之を富ますことに従い、人民の寡(すくな)きは則ち之を衆(おお)くする事に従い、衆(しゅう)の而して乱るるは則ち之を治める事に従う。當(まさ)に其の此に於いて、亦た力は足らず有り、財は贍(た)らず、智は智らず、然る後に已(や)む。敢(あえ)て餘力、隱謀、遺利を舍(す)て、而して天下の為に之を為す者は無し。三務の若(かくのごと)きもの、此の仁者が天下の為に度(はか)るに、既に此の若(ごと)し。
今、昔の三代の聖王は既に沒し、天下の義を失うに至るに逮(およ)び、後世の君子の、或(ある)いは以って厚葬久喪を以って仁なり、義なり、孝子の事なりと為し、或(ある)いは以って厚葬久喪を以って仁義に非ず、孝子の事に非ずと為すなり。曰く二子のものの、言(げん)は則ち相(あい)非(ひ)とし、行(こう)は即ち相(あい)反(はん)とし、皆曰く、吾の上には堯舜禹湯文武の道を祖述(そじゅつ)する者なり。而して言(げん)は即ち相(あい)非(ひ)とし、行は即ち相(あい)反(はん)とし、此に於いて後世の君子の、皆二子の言(げん)に疑惑(ぎわく)す。若(も)し苟(いやしく)も之の二子の言に疑惑せば、然らば則ち姑(しばら)く嘗(こころ)みに傳(ひ)いて而して政(まつりごと)を國家萬民に為さしめ而して之を観む。厚葬久喪は、奚(なむ)ぞ當(まさ)に此の三利なるを計(はか)る。我(おのれ)の意(おも)うに若(も)し其の言に法(の)っとり、其の謀(はかりごと)を用い、厚葬久喪が實(まこと)に以って貧(ひん)を富(と)まし寡(か)を衆(おお)くし、危(き)を定め乱を治め可(べ)から使(し)めむか、此の仁なり、義なり、孝子の事なり、人の為に謀(はか)るものは勧めざる可からずなり。仁者の将に之を天下に興(おこ)し、誰か賈(つと)めて而して民をして之を誉め、終(つい)に廃すること勿(な)から使(し)めむ。意(おも)うに亦た其の言に法(の)っとらして、其の謀(はかりごと)を用い、厚葬久喪の實(まこと)に以って貧(ひん)を富ませ寡(か)を衆(おお)くし、危を定め乱を理(おさ)む可からざら使(し)めむ、此は仁に非ず義に非ず、孝子の事に非ずなり、人の為に謀る者の沮(はば)まざる可(べ)からず。仁者は将に之を天下に除き、相(あい)廃(はい)して而して人をして之を非とし、終(つい)に身に為すこと勿(な)から使(し)めむことを求めむ。
且(さら)に故に天下の利を興し、天下の害を除き、國家百姓をして之の治まらざら令(し)むるは、古(いにしへ)自り今に及び、未だ嘗(か)って之の有らざるなり。何(なん)ぞ以って其の然(しか)るを知るや。今、天下の士君子の、将に猶(なお)皆の厚葬久喪の之を為すに中(あた)り是の利害に非ずの疑惑は多し。故に子墨子の言いて曰く、然らば則ち姑(しばら)く嘗(こころ)みに之を稽(はか)り、今、雖毋(ただ)厚葬久喪を執る者の言に法(の)っとり、以って事を國家に為す。此れ王公大人の喪(そう)に有る者に在りては、曰く、棺槨(かんかく)は必ず重く、葬埋(そうまい)は必ず厚く、衣衾(いきん)は必ず多く、文繡(ぶんしゅう)は必ず繁(おお)く、丘隴(きゅうろう)は必ず巨(きょ)にし、匹夫(ひっぷ)賤人(せんじん)の死する者に在りては、殆(ほとん)ど家室を竭(つく)し、諸侯の死する者は、車府(しゃふ)を虚(むなし)くし、然る後に金玉(きんぎょく)珠璣(しゅき)は身に比(あまね)くし、綸組(りんそ)節約(せつやく)し、車馬は壙(こう)に蔵(ぞう)し、又た必ず屋幕(あくばく)を為すは多し。鼎鼓(ていき)几梴(きれん)壺濫(こかん)、戈剣(じゅうけん)羽旄(うぼう)歯革(しかく)、挾(お)びて而して之を埋め、満意(まんい)す。若(も)し送(そう)に従(したが)はば、曰く、天子の殉(じゅん)として殺すは、衆(おお)くは數百、寡(すくな)くは數十。将軍大夫の殉(じゅん)として殺すは、衆(おお)くは數十、寡(すくな)くは數人。喪(そう)の此の法(のり)に處(よ)るところは将に柰何(いかん)せむや。曰く、哭泣(こくきゅう)すること秩(つね)ならず聲は翁(ろう)し、縗絰(さいてつ)に涕(なみだ)は垂れ、倚廬(いろ)に處(お)り、苫(とま)に寢(ゐ)ね塊(かい)に枕(まくら)し、又た相(あい)率(ひき)いて強(し)いて食はず而して飢と為し、薄衣し而して寒と為し、面目をして陷陬(かんさい)し、顔色をして黧黒(りこく)し、耳目をして聰明ならずし、手足をして勁強(けいきょう)ならずして、用ふる可からざら使(し)めむ。又た曰く、上士の喪を操(と)るや、必ず扶(たす)けられて而して能く起(た)ち、杖(じょう)して而して能く行き、此れを以って共(きょう)すること三年。若(かくのごと)き法(のり)若(かくのごとき)き言、若(かくのごと)き道を行い王公大人をして此を行(おこな)は使(し)めば、則ち必ず蚤(はや)く朝(ちょう)し、五官六府し、草木を辟(ひら)き、倉廩(そうりん)を實(みた)すは能(あた)はざらむ。農夫をして此れを行は使(し)めむば、則ち必ず蚤(はや)く出(ゐ)で夜に入り、耕稼(こうか)樹藝(じゅげい)するは能(あた)はずなり。百工をして此れを行(おこな)は使(し)めれば、則ち必ず舟車を修(おさ)め器皿(きべい)を為(つく)ることは能はずなり。婦人をして此れを行は使(し)むれば、則ち必ず夙(つと)に興(お)き夜(よい)に寐(ゐ)ね、紡績(ぼうせき)織紝(しょくじん)することは能はずなり。細(さい)に厚葬を計るに、多く賦(ふ)の財を埋めると為すものなり。久喪(きゅうそう)を計るに、久しく事に従う禁を為すものなり。財の以(すで)に成るものは、扶(ふ)して而して之を埋め、後に生を得るものは、而して久しく之を禁じ、以って此の富(と)まむことを求(もと)むるは、此を譬へば猶(なお)耕(こう)を禁じて而して穫(かく)を求めるなり、富の説は得(う)可(べ)きこと無し。
是の故に以って家を富むことを求めるも而して既已(すで)に不可なり、以って人民を衆(おお)くすと欲すに、意(おも)うに可なるか。其の説くところ又た不可なり。今、唯無(ただ)厚葬久喪のものを以って政(まつりごと)を為すに、君の死すれば、之の喪(そう)するに三年、父母の死すれば、之の喪するに三年、妻と後子の死し、五の皆の之の喪するに三年、然る後、伯父(はくふ)叔父(しゅくふ)兄弟(けいてい)孽子(げつし)は其(き)、族人は五月(ごつき)、姑姊(こし)甥舅(せいきう)の皆は月の數(かず)有り。則ち毀瘠(きせき)必ず制は有り、面目をして陷陬(かんさい)し、顔色をして黧黒(りこく)し、耳目をして聰明ならず、手足をして勁強(けいきょう)ならずして、用い可からざら使(し)めむ。又た曰く、上士の喪(そう)を操(と)るに、必ず扶(たす)けて而して能(よ)く起ち、杖(じょう)して而して能(よ)く行き、以って此を共すること三年。若(かくのごと)き法(のり)若(かくのごと)き言(げん)、若(かくのごと)き道を行(おこな)はば、苟(まこと)に其の飢(き)は約(やく)され、又た此れは若(かくのごと)きなり、是の故に百姓は冬に寒を仞(しの)げず、夏に暑を仞(しの)げず、疾病を作(な)して死する者、勝(あ)げて計る可からずなり。此の其の男女の交(まじわり)を敗(やぶ)ることを為すこと多し。以って此れを衆に求めることは、譬へば猶(なお)人をして剣(たたかい)を負(お)はせ、而して其の壽(じゅ)を求め使(し)めるがごとし。衆(しゅう)の説は得(う)可(べ)きこと無きなり。
是の故に以って人民を衆(おお)くすることを求めるも、而して既以(すで)に不可なり、以って刑政を治めむと欲するは、意(おも)ふに可なるや。其の説くところ又た不可なり。今、唯無(ただ)厚葬久喪のものを以って政(まつりごと)を為すに、國家は必ず貧しく、人民は必ず寡(すくな)く、刑政は必ず乱れむ。若(かくのごと)き法(のり)若(かくのごと)き言、若(かくのごと)き道を行い、上を為す者をして此れを行は使(し)めば、則ち治を聴くことは能(あた)はず、下を為すものをして此れを行は使(し)むれば、則ち事に従うことは能(あた)はず。上の治を聴かずば、刑政は必ず乱れ、下の事に従はずば、衣食の財は必ず足らず。若(も)し苟(いや)しくも足ざれば、人の弟と為(な)る者は、其の兄に求め而して得ずば、不弟となり、弟は必ず将に其の兄を怨(うら)まむ、人の子と為(な)る者は、其の親に求め而して得ずば、不孝となり、子は必ず是に其の親を怨(うら)まむ、人の臣と為る者は、之を君に求め而して得ずば、不忠となり、臣は必ず且(まさ)に其の上を乱さむ。是の以って僻淫(へきいん)邪行(じゃこう)の民、出でて則ち衣(い)無く、入りて則ち食(しょく)無し、内に奚吾(けいご)を續(う)み、並びに淫暴を為し、而して勝(あえ)て禁ず可からず。是の故に盜賊の衆(おお)くして而して治(おさま)るは寡(すくな)し。夫れ盜賊の衆(おお)くして而して治(おさま)るの寡(すくな)くすは、此れを以って治を求め、譬へば猶(なお)人をして三還(さんかん)せしめて而して己(おのれ)に負(そむ)くこと毋(な)から使(し)むるがごときなり、治の説くところ得(う)可(べ)きこと無しなり。
是の故に以って刑政を治めむことを求めるも、而して既已(すで)に不可なり、以って大國が小國を攻むるを禁止せむと欲っするは、意(おも)ふに可なるか。其の説くところ又た不可なり。是の故に昔の聖王は既に沒し、天下は義を失い、諸侯は力征(りきせい)す。南に楚、越の王有り、而して北に齊、晋の君有り、此の皆は其の卒伍(そつご)を砥礪(しれい)し、以って攻伐(こうばつ)并兼(へいけん)し政(まつりごと)を天下に為す。是の故に凡そ大國が小國を攻めざる所以(ゆえん)は、積委(しゐ)は多く、城郭は修(おさ)まり、上下は調和す、是の故に大國は之を攻むるを耆(たし)まずも、積委(しゐ)は無く、城郭は修(おさ)まらず、上下は調和せず、是の故に大國は之を攻めるを耆(たし)む。今、唯無(ただ)厚葬久喪のものを以って政(まつりごと)を為すは、國家は必ず貧しく、人民は必ず寡(すくな)く、刑政は必ず乱れむ。若(かくのごと)く苟(まこと)に貧しければ、是を以って積委(しゐ)を為すは無し、若(かくのごと)く苟(まこと)に寡(すくな)ければ、是れ城郭(じょうかく)溝渠(こうきょ)は寡(とぼ)し、若(かくのごと)く苟(まこと)に乱れれば、是の出でて戦(たたか)はば克(か)たず、入りて守れば固(かた)からず。
此の大國が小國を攻めむを禁止するを求むるは、而して既已(すで)に不可なり。以って上帝鬼神の福(さいわい)を干(もと)めむと欲すば、意(おも)ふに可なるか。其の説くところ又た不可なり。今、唯無(ただ)厚葬久喪のものを以って政(まつりごと)を為せば、國家は必ず貧しく、人民は必ず寡(すくな)く、刑政は必ず乱れむ。若(かくのごと)く苟(まこと)に貧しければ、是の粢盛(しせい)酒醴(しゅれい)は淨潔(じょうけつ)ならず、若(かくのごと)く苟(まこと)に寡(すくな)ければ、是の上帝鬼神に事(つかえ)る者は寡(すくな)し、若(かくのごと)く苟(まこと)に乱れれば、是の祭祀は時に度(わた)らず。今、又た上帝鬼神に事(つかふ)るを禁止するは、政(まつりごと)を為すことの此れの若(ごとく)くなれば、上帝鬼神の、始め上(かみ)従(よ)り之を撫(ぶ)せむを得むとして、曰く、我が是の人有りと、是の人無しと、孰(いず)れか愈(まさ)れる。曰く、我が是の人有りと、是の人無しと、擇(えら)ぶこと無し。則ち上帝鬼神と惟(いへど)ども之に罪厲(ざいれき)の禍罰(かばつ)を降し而して之を棄(す)てむ、則ち豈に亦た乃(すなは)ち其の所(ところ)ならずや。
故に古の聖王は葬埋(そうまい)の法(のり)を為(つく)りて、曰く、棺は三寸、以って體(たい)を朽(きゅう)するに足り、衣衾(いきん)は三領、悪(を)を覆うに足るを制(さだ)めむ。以って其の葬(ほうむ)るに及びては、下は泉に及ぶこと毋(な)く、上は臭(しゅう)を通ずること毋(な)く、壟(ろう)は参耕(さんこう)の畝(ほ)の若(ごと)くなれば、則ち止む。死すれば則ち既以(すで)に葬(ほうむ)り、生くる者は必ず久哭(きゅうこく)すること無く、而して疾(と)く而(すで)に事に従い、人の其の能(よ)くする所を為し、以って交(こもご)も相(あい)利(り)するなり。此れ聖王の法(のり)なり。
今、厚葬久喪を執(と)る者の言いて曰く、厚葬久喪は以って貧(ひん)を富まし寡(か)を衆(おお)くし、危を定め乱を治む可からざら使(し)むと雖(いへど)も、然れども此れ聖王の道なり。子墨子の曰く、然らず。昔の堯は北の八狄(はちてき)を教え、道に死し、蛩山(きょうざん)の陰(かげ)に葬る、衣衾は三領、榖木(こくぼく)の棺、葛を以って之を緘(かん)し、既に窆(へん)して而して後に哭(こく)し、陥(かん)を満たして封は無し。已(すで)に葬(ほうむ)りて、而して牛馬は之に乗る。舜は西に七戎(しちじゅう)を教え、道に死し、南己の市に葬る、衣衾三領、榖木(こくぼく)の棺、葛を以って之を緘(かん)し、已(すで)に葬る、而して市の人は之に乗る。禹は東に九夷(くい)を教え、道に死し、會稽の山に葬る、衣衾三領、桐棺(きりかん)は三寸、葛を以って之を緘(かん)し、之を絞れども合わず、之を通るも陥(かん)せず、土地の深きは、下は泉に及ぶは毋(な)く、上は臭(しゅう)の通るは毋(な)し。既に葬れば、餘壤(よじょう)を其の上に収(おさ)め、壟(ろう)は参耕(さんこう)の畝(ほ)の若(ごと)くなれば、則ち止む。若(も)し此の若(ごと)く三聖王のものを以って之を観れば、則ち厚葬久喪は果して聖王の道に非ず。故に三王は、皆貴(とうと)きこと天子と為(な)り、富は天下に有る、豈に財用の足らざるを憂(うれ)へむや。以って此の如く葬埋の法(のり)を為す。
今、王公大人の葬埋を為すは、則ち此れに異る。必ず大棺(たいかん)中棺(ちゅうかん)、革闠(かくき)三操(さんそう)、璧玉(へきぎゃく)は即に具(そな)はり、戈剣(じゅうけん)鼎鼓(ていき)壺濫(こかん)、文繡(ぶんしゅう)素練(それん)、大鞅(たいおう)萬領(ばんりょう)、輿馬(よば)女楽(にゅがく)は皆具(そな)なり、曰く必ず捶涂(すいと)差通(さつう)し、壟(ろう)は雖(ただ)凡(ぼん)たる山陵とならむ。此れ民の事を輟(とど)め、民の財を靡(つく)すことを為し、勝(あ)へて計る可からざるなり、其の用(よう)毋(な)きを為すこと此の若(ごと)きなり。是に故に子墨子の曰く、郷(さき)に、吾が本言(ほんげん)に曰く、意(おも)ふに亦た其の言の法(のり)をして、其の謀(はかりごと)を用い使(し)むれば、厚葬久喪を計るに、請(まこと)に以って貧を富まし寡(か)を衆(おお)くし、危を定め乱を治む可きか、則ち仁なり、義なり、孝子の事なり、人の為に謀(はか)る者は、勧めざる可からず、意(おも)ふに亦た其の言の法をして、其の謀(はかりごと)を用い使(し)むれば、若(かくのごと)く人の厚葬久喪、實(まこと)に以って貧を富ませ寡(か)を衆(おお)くし、危を定め乱を治む可からざるか、則ち仁に非ず、義に非ず、孝子の事に非ず、人の為に謀(はか)る者は、沮(はば)まざる可からず。是の故に以って國家の富まさむことを求めて、甚(はなは)だ貧を得、以って人民を衆(おお)くせむことを求めて、甚(はなは)だ寡を得、以って刑政を治めむことを求めて、甚(はなは)だ乱を得る、以って大國が小國を攻めるを禁止するを求めて、而して既已(すで)に可ならず、以って上帝鬼神の福を干(もと)めむと欲し、又た禍(わざわい)を得む。上の之を堯舜禹湯文武の道に稽(かむが)へて而して政(まこと)に之に逆(さから)ひ、下の之の桀紂幽厲の事に稽(かむが)へて、猶(なお)節は合するがごとき。若(も)し以って此れを観れば、則ち厚葬久喪は其れ聖王の道に非ずなり。
今、厚葬久喪を執る者の言いて曰く、厚葬久喪は、果して聖王の道に非ざれば、夫れ胡(なに)の説ありて中國の君子の、為して而して已(や)まず、操(と)りて而して擇(えら)ばざるや。子墨子の曰く、此の所謂(いわゆる)其の習(ならい)を便(よろし)として而して其の俗を義とするものなり。昔の越の東に輆沐(かいもく)の國なるもの有り、其の長子に生るれば、則ち解(かい)して而して之を食(く)う。之は弟に宜(よろ)しと謂う、其の大父(たいふ)の死すれば、其の大母(たいほ)を負(お)いて而して之を棄(す)つ、曰く鬼妻は與に居處(きょしょ)す可からず。此れ上は以って政(まつりごと)を為し、下は以って俗(ぞく)を為す、為(な)して而(しか)るに已(や)まず、操(と)りて而(ま)た擇(えら)ばず、則ち此れ豈に實(まこと)に仁義の道ならむや。此の所謂(いわゆる)其の習(ならい)を便(よろし)として而して其の俗(ぞく)を義とするものなり。楚の南に炎人の國なるもの有り、其の親戚の死すれば其の肉を朽(きゅう)して而(すで)に之を棄(す)つ、然る後に其の骨を埋め、乃ち孝子と為(な)ることは成る。秦の西に儀渠の國なるもの有り、其の親戚の死すれば、柴薪(さいしん)を聚(あつ)め而して之を焚(や)き、燻上(くんじょう)せしめて、之を登遐(とうか)と謂い、然る後に孝子と為ることは成る。此の上は以って政(まつりごと)を為し、下は以って俗(ぞく)を為す、為(な)して而(しか)るに已(や)まず、操(と)りて而(しか)るに擇(えら)ばず、則ち此の豈に實(まこと)に仁義の道ならむや。此の所謂(いわゆる)其の習(ならい)を便(よろし)として而して其の俗を義とするものなり。若し此の若(ごと)くの三國の者を以って之を観れば、則ち亦た猶(なお)薄し。若し中國の君子を以って之を観れば、則ち亦た猶(なお)厚し。彼(か)の如くなれば則ち大いに厚し、此の如くなれば則ち大いに薄し、然らば則ち葬埋の節は有るならむ。故に衣食は、人の生利なり、然れども且(ひとま)ず猶尚(なお)節は有り、葬埋は、人の死利なり、夫れ何ぞ獨り此れに節は無(なか)らむや。子墨子の葬埋の法(のり)を制為(せいゐ)して曰く、棺は三寸、以って骨を朽(きゅう)するに足り、衣三領、以って肉の朽(きゅう)するに足り、地を掘る之の深さは、下は菹漏(しょろう)無く、気の上に発洩(はつえい)すること無く、壟(ろう)は以って其の所を期するに足れば、則ち止む。往を哭(こく)し来を哭(こく)し、反(かへ)りて衣食の財に従事し、祭祀を佴(じ)し、以って孝を親に致す。故に曰く、子墨子の法(のり)は、死生(しせい)の利を失はずとは、此(これ)なり。
故に子墨子の言いて曰く、今、天下の士君子の、請(せい)に中(あた)たり将に仁義を為し上士に為らむことを求め、上は聖王の道に中(あた)らむと欲し、下は國家百姓の利に中(あた)らむと欲す、故に當(まさ)に節喪の政(まつりごと)を為すが若(ごと)きは、而して此を察せざる可からざるものなり。
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万葉雑記 番外雑話 万葉時代の中国古典思想

2021年03月27日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 番外雑話 万葉時代の中国古典思想

 弊ブログの悪い所で、万葉集の歌を当時の時代を想像しながら眺めています。さらに、たちが悪いのは、世の中の解説をそこで示す根拠や理由をその原資料から確認し、それが正しいと確認したものだけから歌を眺めます。そのために標準的なものと比べ、ほぼ、眉唾のような眺め方になっています。それも弊ブログ単独の作業ですから富山大学の「トンデモ論」の定義そのものです。ただ、眉唾・与太話の垂れ流しでは申し訳ありませんから、その眉唾となった背景を弊ブログの資料庫に資料として収容しています。そこを確認していただければ眉唾・与太が、なるほど、与太だと判るようになっています。
 例えば、律令制度と当時の出納帳などの実録から街道での野垂れ死について考えますと、その多くは朝廷が「浮浪」と区分する里や一族内での集団生活に馴染まず、そこから溢れ出た人の可能性の方が高いと思われます。律令時代の郡衙・国衙などの出納帳に残す食料等の支給記録からすると、制度的にそれらの支給や救護を受ける公用の運脚・庸役の人々が野垂れ死する場面は非常に限定的です。また、通説とは違い、飛鳥浄御原宮から平城京神亀時代の郡司は世襲ではなく、国擬・式部省銓擬制度に従い能力考課により選抜された郡司候補を国司が推薦し、式部省で登用考課を行います。公用街道で運脚などの公用旅人に多数の野垂れ死を出すような郡からの郡司候補には相当なプレッシャーになるのではないでしょうか。なお、この制度運用は藤原氏が政権を握る天平時代以降、別勅から考課規定を変更して終身・世襲任命へと変化します。一般にはこの特例施行以降から終身と考えます。なお、藤原宇合は式部卿としてこの制度変更を指揮します。
 また、江戸末期から昭和時代の古典専門家は、平安時代の宮中女房達は訓点付きであっても万葉集が読めず、古今和歌六帖などのひらがな表記和歌から万葉集の歌を知ったとします。ところが平成時代の源氏物語引き歌研究書は逆に宮中女房達が訓点を持った二十巻本万葉集から十分に楽しんでいたことを報告します。
 このように色々ありますが、根拠や理由を多方面から確認しますと、弊ブログ程度の眉唾・与太話程度のものを専門書の中でも眺めることが出来ます。

 令和三年になって、墨子や楊朱で遊んでいます。背景として、昨年の秋、聖徳太子の万葉集歌について確認している作業の中で、季節性から「聖徳太子は大工さんの神様」と云う話題にぶつかりました。確認作業で、「大工さんの神様」から「規矩の統領」へ展開し、次いで古代中国での規矩、幾何学、建築土木技術と眺め、結果、『墨子』に行きつきました。ただ、日本人向けのものがネット上に無く、個人作業で整備した『墨子』の訓読を備忘として弊ブログに載せる次第です。
 さらに、整備した『墨子』を与太的に眺めている過程で、孟子が「聖王不作、諸侯放恣、處士橫議、楊朱墨翟之言盈天下。天下之言、不歸楊、則歸墨。(聖王は作さず、諸侯は放恣し、處士は橫議して、楊朱・墨翟の言、天下に盈つ。天下の言、楊に歸せずんば、則ち墨に歸す。)」と、周代・戦国時代初頭の言論界を評論しているものにぶつかりました。その二大思想を比較・確認する作業の中で楊朱を理解する必要となり、ネットなどから弊ブログレベルで収集可能なものを点検し、備忘として『楊朱』の形で原文と訓読を資料庫に収容しました。ただ、この過程で、弊ブログで眺めた楊朱の姿と一般的な儒学者側から評論した姿が相当に違う為に、さらに雑記として、なぜ、楊朱と墨子とが儒学者にとって都合が悪いのかと云う視点から、楊朱に対する与太話を雑記として載せました。
 紹介するように日本では墨子や楊朱は有名ではありません。墨子は漫画の「墨攻」から多少は有名ですが、そこで描く姿は儒学者側から近世の西洋思想との比較を通じて眺めたもので、墨子の本質ではありません。思想『墨子』が生まれた時代、周代・戦国時代初期にあって、弱肉強食の戦乱の最中です。その時代、自分の命を賭けた勝ち抜き戦を戦う君王・諸侯が、なぜ、『墨子』を選択したかを考える必要があります。キャッチ―な「兼愛」や「非攻」の言葉に惹かれて選択したのではありません。具体的な富国強兵の政策として採用したのです。『墨子』の半分は言葉の定義と論理的思考方法の提示に加え具体的な軍事技術方法論です。論理的思考方法から『墨子』を眺めれば、どのような統治論が展開しているか明白です。荀子がいやいやながら認めるように富国強兵の基礎は皆兵制度の国民軍です。
 非熟練兵を前提とした集団戦闘の国民軍と儒学が強調する身分階層を絶対的に区分する「分」と「礼」の理論は相性が悪いのです。戦闘中に友軍内での彼我の関係を「分」と「礼」から厳密に行っては自分の生命を守ることも困難となります。『墨子』が示すように、集団戦闘では彼我間での相互信頼=兼愛が重要になります。『墨子』では旅行中(徴兵中)に残置する家族の保護を彼我の関係での例としていますが、これを戦闘状況で置き換えるとさらに理解が進みます。三人一組の隊にあって前方攻撃担当と側方防護担当との間に信頼関係が無いと、前方攻撃担当は攻撃に専念できません。疑心暗鬼では側方防御の二人が前方攻撃をおとりとして逃げるかもしれませんし、寝返って後ろから撃たれるかもしれません。ただし、このような状況は儒学が区分する被支配者層の労働や兵役での同輩共同作業などの場で現れ、他方、常に競争や個の存在が問われる諸侯や士大夫などの階層では同輩共同作業は想定しにくいものです。その分、儒学は、外国人と自国民、辺境民と近隣民、他人と家族の例を挙げて、それぞれでの愛情/信頼性の多寡や濃度は違うと反論します。日本人では墨子の指摘も儒学の反論も共に納得し、それでも実務的には墨子の相互信頼の必要性を優先的に理解します。一方、大陸では2500年に渡って、未だ、同輩共同作業での墨子の指摘と家族中心主義からの儒学による反論の間で議論が行われています。実に国民性です。
 視線を変え、昭和期の思想家の好みを踏まえて、古代大和と儒学の関係について遊んでみます。弊ブログの理解で、古い時代の儒学は物事での調和・秩序を大切にしますが、その調和・秩序は厳格な長幼・父子・君臣などの上下関係を本にした礼によって保たれる必要があると説きます。それもそれぞれの心の中で思うのではなく、正しい形で礼儀として行われ、それを人々に示し、判らせることを基本とします。ここで、弊ブログの理解で儒学は、前秦時代、前漢時代末期以降、唐代末期以降など、時代に合わせて変化したと考えます。この理解の下、今回の与太話は唐代末期以前の万葉集時代に関わる古い時代の儒学、孔丘の『論語』を対象としています。つまり、近世からの新解釈による孔子の『論語』は対象外ですのでご理解下さい。
 弊ブログが示す古い時代の儒学に対する理解が正しいのなら、標準的な古代史研究者の指摘とは違い、聖徳太子の憲法十七条の基本精神に儒学はありません。一般に、『礼記』の「礼之以和為貴」、『論語』の「礼之用和為貴」の文節から、その表記からすると憲法十七条の「以和為貴」はそれらと同じだから、憲法十七条は儒学の影響を受けたとします。ところが、文に示すように儒学の「和」は上下関係を基準にした「礼」による調和、つまり社会秩序を指します。一方、一般に憲法十七条の「和」の理解は大和言葉のやわらぎ(和らぎ)からの仲間内感覚や融和を指すと解説します。人間関係において大陸の上下の縦と、大和の対等の横との違いがあります。根本思想が違うのです。
 このように単純な表記比較で話題とするか、本質的な内容比較で話題とするかで、結論は違います。ただ、古代史研究者にとって内容比較を話題とすると、聖徳太子や日本書紀が儒学以外のどこから大和言葉「やわらぎ」の漢字表記となる「和」と云う思想を得たかを示すことは難しくなります。また、憲法十七条に『墨子』の「尚同」と「兼愛」とを合わせたような独自の統治哲学を認めますと、飛鳥時代に大和の人々が大陸とは違う独自の統治哲学を持ち、それを文字で示したことになり、従来の大和が儒学の四書五経により統治哲学を学んだという仮定が崩壊します。加えて、その時、大和と隋帝国との間で日出国の「以和為貴」と日没国の「礼之用和為貴」とで重大な統治論への論争があったことになり、歴史の解釈が大きく変わります。もし、隋の学者がこの統治の本質論議に気付いていたら、当然、地理的距離に関わらずに視察団を派遣しても不思議ではありません。返書に示すように隋の学者や隋使は確かに大和の天皇と大王とによる二元統治に興味を示しています。歴史的に見ると隋と大和が連絡を取り合った時代、大和は半島への軍事派兵能力では渤海湾や山東半島の東海の渡海を求められる隋と同等の能力を有する軍事大国です。
 昭和時代の論議は別として、古事記や延喜式祝詞が大和の書物としますと、それが示すように大和は合議により仲間内から有能な代表者を互選し、その有能な代表者の指導に従うと云う社会です。万葉集で柿本人麻呂は草壁皇子の挽歌で「天の河原に 八百万 千万神の 神集ひ 集ひ座して 神分ち 分ちし時に 天照らす 日女の尊 天をば知らしますと 葦原の 瑞穂の国を 天地の 寄り合ひし極 知らします 神の命と 天雲の 八重かき別けて 神下し 座せまつりて 高照らす 日の皇子は 飛鳥の 浄の宮に 神ながら 太敷きまして」と詠います。そこでは、天界の神々が天の河原で集会を開き、天界の指導者は天照大神が、地界は天武天皇が執ると定めたとします。柿本人麻呂が示す社会は儒学が求める君王・諸侯・士大夫・官吏・民百姓と云うような絶対的な階層社会ではありません。確かに天界の神々は天武天皇を地界の指導者と定めましたが、思想は仲間内の合議制による互選です。当然、「仲間内」の範囲の考え方で儒学的な扱いも可能ですが、大和では皇族を除くと部民/賤民以外の国民は階層を持たない同じ良民に区分される仲間内です。
 さらに、祈年祭の祝詞の一節「手肱に水沫畫き垂り、向股に泥畫き寄せて、取作らむ奥津御年」と示すように天皇は祭祀に捧げる豊穣物のために泥田に入り稲作と云う肉体労働を行います。これは、孔丘が「人」と「民」とを絶対的に区分した『論語』の世界ではありません。また、孟子や荀子が求めた社会での役割と立場からのそれぞれの「分」を説くものからすると君王たる天皇が絶対にしてはいけない「肉体労働」の姿です。つまり、柿本人麻呂が示す合議制の社会と同じように延喜式祝詞の祈年祭が示す貴人勤労の世界は儒学的な社会ではありません。これが大和の同じ仲間内と云う「和」なのです。
 また、大化の改新以降、大和は支配者階層で行われていた規模を持つ古墳墓から薄葬へ転換し、これを人倫とします。この薄葬は一時的なものではなく奈良時代には仏教と結びつき、さらに先鋭化すると嵯峨天皇の檀林皇后九相図の世界として現れます。大化の改新までには儒教の影響があったとする立場からすると、大変に説明困難な大和朝廷による薄葬への転換と定着です。そこで、その時代性から唐の高宗の葬儀を参考にしたのではないかとの説を提示します。その根拠として高宗の葬儀に関して儀礼を取り仕切る立場の秘書監 虞世南は薄葬方針で行いたいとの意見を述べた上奏文「其略日、昔堯葬壽陵、因山爲禮、無封樹、無立寝殿園邑、爲棺桿足以藏骨、爲衣衾足以朽肉(その略に曰く、むかし堯、壽陵に葬られ、山によりて鰐をなし、封樹なく、寝殿園邑を立つることなく、棺桿をつくるは、以て骨を藏するに足り、衣衾をつくるは、以て肉を朽ちさせるに足るなり。)」を提示します。つまり、大和は大唐の最新葬儀に模倣したとの主張です。ただ、なぜ、この時期から急に模倣が必要となったかは示しません。
 なお、その虞世南は『墨子・節用中』の一節「古者聖王制為節葬之法曰、衣三領、足以朽肉、棺三寸、足以朽骸、堀穴深不通於泉、流不発洩則止。(古の聖王は節葬の法を制為して曰く、衣三領、以って肉の朽るに足り、棺三寸、以って骸の朽るに足り、堀穴の深さは泉に通ぜす、流は発洩せずば則ち止む。)」を引用する雰囲気があります。先に聖徳太子は「規矩の統領」の話題を提案しましたが、その憲法十七条では第八条の「群卿百寮、早朝晏退。公事靡監、終日難盡。是以、遲朝不逮于急、早退必事不盡。」は、『墨子・非楽上編』に載る「王公大人蚤朝晏退、聴獄治政。此其分事也。」や「今唯母在乎王公大人説楽而聴之、則必不能蚤早朝晏退聴獄治政。」を参考にした姿があります。聖徳太子の時代、人々は十分に『墨子』を理解しているのです。そのため、大和朝廷の薄葬への転換が大唐の最新葬儀に模倣だけなのか、『墨子』の思想を取り入れたものなのかの判断は難しいものがあります。いずれにせよ、儒者が一番に活躍する場となるはずの葬儀に儒学は関与していないのです。結果、日本では葬儀を仏教僧侶が主業務として扱うようになります。
 参考情報として、墨翟は『墨子』の中で厚葬は中華中原地域の風習であって、中国南方の国や西方の国では別の風習があると指摘し、人の死を悼む人倫の現れとして中原地域の風習が絶対的に正しいものではないと主張します。楊朱は葬儀では死者を悼む気持ちが重要であって、儒者後進派が重要視する「礼=形式」ではないと非難します。このように葬儀に地域性が出るとしますと、先に唐高宗の葬儀の薄葬を話題にしましたが、隋・唐は北方民族・鮮卑族が漢化した人たちにより建国したとしますから、その鮮卑族の葬儀は中原の風習からすると薄葬スタイルです。可能性として、大陸にあっても漢民族でない王朝では葬儀で儒学が求める厚葬を行わない可能性があるのかもしれません。おまけで、大化以降の大和の薄葬は男帝天皇以外を制限するのが本来で、皇位継承のごたごたで天武天皇以外、立派な墳墓を築く天皇が現れなかった結果論かもしれません。
 額田王の時代から橘諸兄の時代までを万葉時代と呼びますと、弊ブログの知識程度では、この時代に儒学の影響を見つけることは困難です。「以和為貴」と同様に、表層的に語句の比較を行えば孟子や荀子に載る単語との共通点を見つけることは可能と思いますが、儒学を前提として万葉集和歌を鑑賞しなければいけないと云う可能性は少ないと考えます。逆に大伴旅人や山上憶良などを宋代以降の新しい儒学思想から眺めると誤解する可能性があると危惧します。例えば、旅人や憶良の時代、旅人たち高度な知識階級が僧侶に仏教哲学を教授する時代で、まだ、念仏仏教の時代ではありません。旅人たちの仏教は哲学として理解する必要があり、大和哲学のような形態を持ちます。また、令和で有名になった梅花三十二首の前置漢文の辞に蘭亭序の影響を指摘する人もいますが、梅花辞の目的は一字一音の万葉仮名だけで表記する大和歌による文学創作の表明文で、漢文学からの影響離脱宣言です。ただし、漢文作辞では先行する多くの文章を引用して綴るのが作辞技法としますから、技法上、言葉の類似が現れますし、それを知識とします。引用に新奇を組み込むのが漢文作辞法です。その分、内実まで踏み込まないと影響評価は出来ません。
 弊ブログの考えでは古語解説を除いて、万葉集の歌は現代日本人でも特別に語句への術語解釈の教育を受けなくても眺めることは可能と思います。逆に日本人の生活の中にどれほど唐代以前の古い儒学が浸透しているでしょうか。ほぼ、影響は無いと思います。万葉集時代、儒学の基本テキストは前漢代編纂の古い『論語』が中心と思いますが、その『論語』を原文直読した場合と近世以降の思想で解釈した場合とで内容理解が大幅に違う可能性があります。時代として、人間・孔丘の『論語』で扱う「人」の意味合いは士大夫以上の男子を意味し、近世以降の解釈「国民」や「民衆」を意味しません。近世以降の解釈となる「民衆」に相当するものは「民」で表現しますが、人間・孔丘の『論語』で扱う礼儀や精神論の対象は「人」です。
 さらに、人間・孔丘の考える「民」は馬や羊の家畜と同類程度の扱いと理解する必要があります。中国共産党の「人民」と「国民」との基本概念の違いよりもさらに大きなものがあります。次の世代、そのような思想に反発した墨学が世に受け入れられるようになり、「民」は家畜と同類程度の扱いから「人間」に昇格します。現実的な統治論として、その社会を構成する大多数の「人間」を対象として為政を行わないと戦争に勝つための富国強兵策が実施出来ないことを君王や諸侯階級に理解されるようになります。「戦争に勝つ」、これを主題とする墨学が世の中の思想の中心になります。
 統治スタイルの差から国力の差が決定的になった周代・戦国時代末期、荀子は諸国への視察旅行を行い、「人間」を対象とする為政を唱える墨学を国家運営の基本概念とした秦国が非熟練の国民兵で組成した大軍団と斉などの旧来の選抜精鋭部隊を中核とする軍団との比較を行い、大国同士の戦争では選抜精鋭部隊では国民兵の大軍団には勝てないと結論します。このような現実を理解しても特権階級に属する荀子は指導者層と被指導者層とを「分」の思想で機能分離し、指導者層には「礼」の思想に従った仁と徳を教育することが必要とします。同時に指導者層には秦国視察で無視された賢学者への厚礼を、正しく行うことを求めます。
 荀子の前、墨学が世に受け入れられた時代、儒学側で墨学に習い最初に為政の対象に「民」を含めるように変更して「民爲貴、社稷次之、君爲軽」 と述べて思想を展開したのが孟子です。ただ、その孟子は秦朝時代でも儒学八派の一つに留まり、儒学に「民=人間」の思想を取り入れた孟子が世の中で評価されるようになるのは唐代の韓愈による再発見以降です。孟子の時代では、「民爲貴」なら墨学で十分だったのでしょう。精神論としての再発見は安禄山たちの安史の乱(755~763)以降の古文復興運動の中での儒学復興の動きによると解説しますから、万葉集の時代より下った時代の出来事です。反って、儒学側から儒学復興の必要性が強調されるように韓愈以前では唐の思想界に儒学の影響は薄かったと思われます。それに、日本と大陸は安史の乱以降は遣唐使による公式の交流が途絶えますから、韓愈による孟子再発見の情報伝達は遅れたと考えます。
 加えて、万葉時代、特に額田王や柿本人麻呂の時代、『日本書紀』の天武天皇二年の詔「又婦女者。無問有夫無夫及長幼。欲進仕者聴矣。其考選准官人之例」に示すように、女性は男性と同等に官人採用され、天武天皇十一年の詔「婦女乗馬如男夫」に前年の天武天皇十年の記事「而検校装束鞍馬」を重ね合わせると、高貴な女性の警備を担当する女武芸者でなくても任官し出世した女性官人は縦乗り騎乗で観閲式に参加しています。その時代、万葉集には但馬皇女に「朝、川を渡る」と詠う歌(歌番号116)がありますから、女性官人だけでなく若い皇女もまた日常に騎乗します。しかしながら、このような女性官人や皇女が騎乗する姿は、時に年配の男性より女性の頭の位置が高いこととなり、「礼」を基準とする儒学の世界での風景ではありません。
 色々と、万葉時代を眺めると、そこには儒学はありません。他方、当時有力な仏教は国家運用への具体的な方法論を示すものではありません。僧侶の中に仏教装置となる寺や仏像関係の建築や製造技術者がいますが、仏教の経典体系に統治論を示すことはありません。それは仏教が目指す現世解脱の世界とは逆の方向です。古代中国にあって商鞅、李斯、韓非たちを儒学者と考えないのと同じです。
 史実として飛鳥浄御原宮から飛鳥藤原京の時代に大和は実質的な天皇/大王を頂点とする最初の中央集権国家として成立しました。東は関東北部地域から西は九州北部地域までを行政区域とする中央集権国家ですから、一定の統治思想に従った統一した法治が行われていたと考えられます。このときに、どのような考えで国家運営のグランドデザインを描いたのでしょうか。従来は儒学思想で国家運営の大本を描いたと想定していたと思いますが、日本書紀、古事記、延喜式祝詞、万葉集などを眺めますと根本部分に儒学思想はありません。加えて、万葉時代の大和朝廷の中枢部の人々は非常に若いのです。政権首班の高市皇子、法務整備担当の忍壁皇子、藤原一族代表の藤原不比等など、活躍の中心時代は20代から30代です。遣唐使副使などを執った藤原宇合は10代で既に頭角を現します。この時代、平安時代とは違い、畿内中心ではありますが、多くの氏族の中から有能者が男女を問わずに登用され、完全な実力主義からの適材適所で政権は運営されています。これでは儒学の長幼の秩序を唱える訳にもいきませんし、旧習を乗り越えて登用された若い世代が改めて「分」と「礼」の理論による政治を選択したでしょうか。
 672年の壬申の乱から729年の長屋王の変までの約60年間は、それ以降の激動の奈良時代とは違い、大津皇子の事件に蝦夷や隼人との行政区拡大紛争を例外とすると平穏な統治が行われています。その中心時代となる飛鳥浄御原宮から飛鳥藤原京の時代、天武天皇と高市皇子はどのような施政方針や思想で国家運営のグランドデザインを描いたのでしょうか。天武天皇や高市皇子は仏教を統治の道具と考えるような功利的な親子ですから、仏教ではありません。では、道教でしょうか。従来の研究では古代大和に道教や墨学の姿は無いと報告します。それで古代史研究では、ほぼ、道教・道師や墨子は扱いません。
 さらに目先を変えて、文化を「流民」と云う視線から見た時、万葉時代以前の大陸は周代・春秋期以来の「流民」の時代です。支配者は土地に縛られず地域を移動し適地を見つけ根を張ります。それでも状況により地域を移動します。非支配者となる民も土地に縛られることなく、生活に適した地域を求め一族や縁者で移動し適地に根を張ります。また、支配者と同様に土地に執着を持たずに状況により地域を移動します。背景の一部に、『孔子家語』の「子路覆醢」や『荀子・正論篇』の「故脯巨人、而炙嬰兒矣」が示すように中華中原の食人文化があり、逃げ遅れ捕まると脯や醢に加工され「礼」の人牲や食料にされてしまいます。それで地域防衛が出来ないとき、土地を棄て流民となり逃げ出します。基本的に大和では理解できない流民文化です。唯一の例外が士農工商の身分差を建前とした江戸期の248件の事例を示す藩主改易です。この藩主改易でのみ、土地の歴史に基づかない支配者・非支配者関係が現れます。その時、儒学特有の支配者・非支配者を厳格する統治精神論が有効だったのかもしれません。儒学は流民文化の中で「権力の大きさの見える化=礼」から生まれた中華中原の統治思想と思われ、それなら大和文化には不要ですし、差別・区別を原則とする儒学は大和の「和」を基本とする統治では逆に邪魔です。
 古代から現代までの日本人の本質が主義主張的なものよりも「良いものは良い」と云う日々の生活を優先する長期視線の功利的なものとしますと、「和」を基準とした現実優先主義の「良いものは良い」が大和人特有の根本思想だったのかもしれません。空理な思想哲学よりも実務方法論を優先し、墨学や法家の良い所だけを採用したのかもしれません。これはこれで立派な方法論哲学ですが、海外の先行する哲学を基準に類型となるように「形」や「形式」を求める哲学思想家から見ると「日本人には哲学が無い」と見えるかもしれません。
 近代思想者が求める理想類型に当てはまらない社会を、時に衆愚社会や衆愚政治と分類しますが、結果において民が平穏無事に生活し社会秩序が保たれているなら、そこには最大公約数的な成功した統治があります。壬申の乱から長屋王の変までの約60年間、豊かな食糧増産を背景に人口は約400万人から約550万人に増加し、同時に豊前国企救郡から伊豆国三島郡までを繋ぐ船舶交通網が統治や文化を支え、板葺の宮殿が豪華とされたものが一般の役人の住宅であっても瓦葺へと変わる、万葉時代とはそのような時代です。
 堂々巡りをしましたが、結果、飛鳥浄御原宮から飛鳥藤原京の時代に当時の人々がどのような思想・哲学で国家運営のグランドデザインを描いたのか、判りません。ただ、そのグランドデザインにより現在までの皇室を除けば固定した階級・階層を持たない平坦な日本と云う骨格を作っています。逆に1300年に渡り根本的な社会構造に変化が無いことにより、現代人でも日本古典は理解が容易なのかもしれません。ただ、芯となるような思想や哲学は不明です。ただただ、それは長期視線の功利主義なのでしょうか。
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