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資料編 奈良時代の租庸調 調布について考える

2018年03月04日 | 資料書庫
資料編 奈良時代の租庸調 調布について考える

 最初に、この記事は弊ブログ特有の個人の備忘録のようなものになっています。そのため、万葉集の歌の鑑賞には直接に影響しません。また、今回のものは「奈良時代の租庸調 税制について考える」の続編にあたります。そのため、「奈良時代の租庸調 税制について考える」も参照いただければ幸いです。

 日本の古代 律令時代の税制である租庸調については平安時代初期に編まれた律令・格式の解説書である『令義解』や『令集解』に載る『養老律令』の条文から養老律令の大枠が復元されており、その条文と日本書紀に載る大化二年の大化の改新の詔・続日本紀に載る各種の詔や太政官布との比較などを通じて養老律令と大宝律令とにおいて大差はなく、養老律令は大宝律令を施行して判明した不都合を修正したものと考えられています。このような推定の背景から平城京時代を通じて、復元された養老律令を以って租庸調の税制体系を議論しても大枠では正しいであろうと弊ブログでは考えています。確かに田租税率や庸税率の詳細・細目では大宝律令と養老律令では違う可能性がありますが、養老律令の正式の公布以前に詔や太政官通知として大宝律令での施行細目の一部は修正がなされていますから、以下に述べる与太話や馬鹿話は養老律令を基準としていますが大筋で正しいものとしています。この点を最初にご了承下さい。
注意:大宝律令の公布・施行は大宝元年(701)、養老律令の原案完成は養老六年(722)でその公布・施行は天平宝字元年(757)

 なお、学術と云う立場から研究者が厳密に論議するとしますと大宝律令の復元が出来ていませんから天平宝字元年(757)以前での確実に施行された税制は不明となります。日本書紀に載る大化の改新での税制がどこまで施行されたか、また、どの地域や被支配者層に対して為されたのかについても実態は不明です。なお、次の時代である斉明天皇時代の白村江の戦を含む百済の役での動員状況を考えますと、その斉明天皇の時代でも豪族の連合体の形態と思われますから、少なくとも公地公民は屯倉などに対する、極、限定的な施行と考えます。
 話題としています租庸調税制の根拠となる律令体制の基本は公地公民です。しかしながら、どのような形で公地公民になったのか、いつ、それが全国規模で実効的に為されたのかは、まったくに不明です。少なくとも天智天皇の時代でも、壬申の乱でのそれぞれの陣営での募兵状況を鑑みますと全国規模での公地公民ではありません。律令体制での公地公民が為されていますとそれぞれの国での軍の徴兵と指揮は国司か、それに準ずる官人が執ることになります。しかし、壬申の乱での徴兵と指揮体系はそうではありません。特に大海人皇子軍はそれぞれの支配地域を持つ王族・豪族の集合体です。ある種、反乱義勇軍ですが政府軍と対等に戦線を張れるだけの軍事動員能力と武装がありましたから、その住民(多くは農民)に対する動員権限と税及びその施行と云う面から考えたとき、日本の古代史は非常に不思議ですし、その不思議への研究は・・・と云う状況です。確かに律令制度を支える公地公民の言葉は美しいのですが、そこへ到達するまでの方法・実行論や移行の時代の検証は???の状況です。現実利益を追求する会社勤め人では有り得ないような、方法論と作業工程を持たない地に足を付けていない宙に浮いた公地公民の議論です。
 また、公地公民の基礎となる戸籍と諸国・郡での会計帳簿(計帳)・土地台帳はすべて紙に漢文で記載する必要がありますが、さて、大化二年(646)時点ですべての地方の郡司に対する漢文及び会計記帳の教育がなされていたのでしょうか。奈良時代初期ですが対象となる郡は全国で三千を越えます。
 ただもし、全国各地に点在する屯倉から大化の改新の戸籍令と税制がスタートしたのですと、それは支配被支配関係での貢物の風習を成文・制度化しただけで、それは律令体系での公地公民とは違うものです。漢字は同じ「貢」でも支配関係での貢物と律令の貢雑物とは違います。なおややこしいのですが、天平年間以降では朝集使を地方に派遣し地方から朝集使へのお土産(貢物)扱いでの朝集使貢献物と云う地方特産品の納付制度が出来ますから、中央・地方での支配被支配関係は確かに存在はしています。ただ、律令体制は建前としても公地公民からの租庸調の税体系です。

 気を取り直して。
 古い教育では、一般に良民に属する成人男子は租庸調税制体系において、調税は布で納め、庸税も年10日を基準とする歳役に就かなかった場合、日割り換算で布を代償税として納税すると解説します。この解説が正しいかと云うと、正しい場面もあるし、そうでは無い場面もあるとしか答えようがありません。
 まず、律令時代の「布」は麻布が基準ですが、調税で定める調物は「絹・絁・糸・綿・布」が並立で規定され、布は標準調物では最後に紹介されます。朝廷は基本的に絹製品である「絹・絁・糸・綿」を最初に求め、最後に麻製品である「布(麻布)」を指定します。そしてこれらの繊維製品類が其の地の特産で無い場合は、特産の代替となる雑物での納付を求めます。ここで綿とは真綿を意味し絹繊維製品の一種で蚕の繭を煮た物を引き伸ばして綿にした物です。およそ、調の布とは麻製の布であり、綿は絹繊維の真綿を示します。調税に云う「布」は一般名称の布ではありません。
 また、調物となる布製品は規格が定められ絹と絁は正丁六人分で一疋、特に最高級品とされた美濃絁は正丁八人分で一疋の製品となります。同様に麻布は正丁二人分で一端、麻布での最高級品である上総国望陀郡特産の望陀布は正丁四人分で一端となります。布幅は共に二尺二寸です。斯様に賦役令で繊維製品の規格を規定に示すように個々人で半端な長さの調布を調製し納入するのではありません。延喜式 主税寮で会計帳簿記載例である某國司解申收納某年正税帳事に示すように専門の工人が調製し、納税者は人頭割りで割り当てられた調達費用を稲束で供出します。

養老令 賦役令
賦役令第一 調絹韃條:
凡調絹・絁・糸・綿・布、並隨郷土所出。正丁一人、絹・絁八尺五寸、六丁成疋 (長五丈一尺。廣二尺二寸)。美濃絁、六尺五寸、八丁成匹 (長五丈二尺。廣同絹絁)。糸八両。綿一斤。布二丈六尺、並二丁成韶屯端 (端長五丈二尺。廣二尺四寸)。其望陀布、四丁成端 (長五丈二尺。廣二尺八寸)

延喜式 主税寮:某國司解申收納某年正税帳事より抜粋
 織諸羅綾料若干束(羅・綾を例としたもの)
 羅機若干具、綜料絲若干絇、價若干束(絇別若干束。諸色准此、各為一項)
 羅若干疋(疋別織若干日)、織単若干人、粮料若干束(人別若干束。諸色准此、各為一項)
 替綜若干具(經若干年替)料若干束
 某羅綾綜若干具料絲若干絇。價若干束。(絇別若干束)
 作単若干日粮料若干束(日若干把)
 纏紡単若干日
 作綜単若干日

 年料交易雜物價料若干束(東絁を例としたもの)
 東絁若干束(諸色准此、各為一項)價若干束(疋別若干束)
 運駄若干疋(疋別負某色若干疋)
 功若干束(疋別若干束)
 裹料雜物價若干束。某物若干枚、價若干束(枚別若干束。諸色准此、各為一項)

 依某年月日符交易、進上絹若干疋(絹を例としたもの)
 價若干束(疋別若干束)
 擔夫若干人功粮若干束。功若干束(人別若干束)
 粮料若干束(向京若干日、日別若干把。還郷若干日、日別若干把)

 次に延喜式 主計寮に載る調庸の納税規定を見てみます。例として、弊ブログに合わせ万葉集では有名な大伴家持が治めた越中国の調庸税は次のように規定されています。調の割り当ては白畳の真綿二百帖で、正丁、次丁、中男の合計した調物への納税代価が真綿二百帖を越える場合はその超過原資で白く細い絹繊維の真綿を調達し納めることになっています。この規定では従来に説明する麻製の布と云うものは出て来ません。調や庸の基準規定の「布」は、基準通貨が無かった時代での納税での価格換算基準でしかありません。複雑な社会経営を行うことを前提にすれば当たり前のことで、朝廷が全国から麻布を集め、それを自ら他の商品との等価交換を行うより、納税者に必要とする物資を割り当て、それを調税の麻布と等価交換させて納めさす方が簡便で楽です。たぶん、このような運営に気付かない昭和時代の研究者や文科省の役人よりも奈良時代の主計寮の役人の方が優秀で実務的だったのでしょう。先に延喜式 主税寮で会計帳簿記載例である某國司解申收納某年正税帳事を紹介しましたが庸雑物や中男作物などの貢雑物でも朝廷が納付すべき物品と数量を割り当て、諸国はそれを専門の職人たちに調製させ、中男たちはその代価を稲束で納付します。

越中國(行程上十七日,下九日)海路廿七日。
• 調:白疊綿二百帖。自餘輸白細屯綿。(浮浪人別輸商布二段)
• 庸:韓櫃卌六合。(塗漆著鎖五合、白木卌一合)自餘輸綿。(韓櫃便盛疊綿及白綿、其櫃底各敷布一段、折庸綿充布價、段別二屯)
• 中男作物:紙、紅花、茜、漆、胡麻油、鮭楚割、鮭鮨、鮭冰頭、鮭背腸、鮭子、雜醋。

 また、養老令 賦役令で定める調物の絹や絁には一疋を長五丈一尺・広二尺二寸とする規定が、布には長五丈二尺・広二尺二寸とする製品規定があります。紡織技術からしますと布の幅が規定されていることは織機で使う筬(おさ)の長さが全国で統一されており、同時に筬を使う織機で布を織る必要があります。藤ノ木古墳出土品などからの織機の研究では飛鳥・奈良時代では傾斜機に類する織機を使って平織りの織物を織ったのではないかと推定しますから、麻布であっても全国の一般家庭に据え付けるような原始機のような自家用向けの機織り機ではありません。専門の工人が織る機械です。
 さらに遺跡に残された布片や正倉院御物からの機織り機の研究では経錦(たてにしき)はそれ専用の経錦機が使われ、奈良時代までに登場する紋織物、錦、綾は空引機と云う機で織られたと推定します。この空引機は現代でも使用される機織機であって、これらの布は高度な織機技術を必要としますから、その織機には挑文師(あやのし)と云う専門指導員による手引きと空引機自体を木材や竹から作り出す必要があります。続日本紀には各地に技術を普及するために和銅四年(711)閏六月に「遣挑文師于諸国。始教習織錦綾」と云う太政官命令が出されています。
 他方、駿河国に調物として各種の窠紋(かもん:円弧文様)の綾や白い絹である帛(はく)など各種の絹織物が割り当てられていますが、これらは専門の機織工人が織るものであって、一般の農民では織ることが出来ないものです。従いまして調物や庸物は麻布で納める必要があったと云うのは、ある種の妄信です。麻布と云うものの経済価値を基準に朝廷が指定した物を等価で納めると云うのが正しいと思います。まず、専門の研究者でない一般の社会人は誠実に養老律令規定を各種の資料から確認する必要があります。

駿河國(行程上十八日,下九日)
• 調:一窠綾六疋、二窠綾五疋、三窠綾四疋、小鸚鵡綾一疋、薔薇綾三疋、帛一百廿疋、橡帛十三疋、縹帛八疋、皂帛十疋、倭文卅一端、煮堅魚二千一百卅斤十三両、堅魚二千四百十二斤。自餘輸絁。
• 庸:白木韓櫃廿合。自餘輸布。
• 中男作物:手綱鮨卅九斤十三兩二分、紙、紅花、火乾年魚、煮鹽年魚、堅魚煎汁、堅魚。

 ではなぜ過去の解説で調税は布(麻布)で納めるという誤解説が生まれたのでしょうか。不思議に大化の改新の詔による税制でも調税では「凡絹・絁・糸・綿、並随郷土所出」と規定し、布は製品規格の場で「布四丈、長・広同絹・絁、一町成端」と規定するだけです。その改新の詔では麻製の布とシナノキの皮を細く紡いで織った布である貲布(さいみ)とを区分していますが、「別収戸別之調、一戸貲布一丈二尺」の一文から戸別に割り当てられる調は貲布の布なので、ここから調は布であるとの解説が生まれたのでしょうか。ただ、大化二年の時点では調税課税において耕作地に対するもの(絹・絁・糸・綿)と大家族集団である戸に対するもの(貲布)が並列していますから、大宝律令(浄御原宮令も含む?)以降のものと改新の詔とを同一視することは出来ません。また、改新の詔での釆女・仕丁は被支配地からの貢の人間ですが、大宝律令での法体系での賦役は良民正丁による公への勤務です。そのため、養老律令では無報酬役務期間超過後の役務に対し明確に賃金支払いの規定があります。被支配者への奴隷規定ではありません。
 およそ、大化年間から大宝年間のどこかの時点で支配被支配関係での貢物制度から公地公民と班田収受の口分田制度での公平な租庸調の税制への大変革があったと考えられます。過去の研究者はこの税体系 根本での相違が理解出来なかったのではないでしょうか。そのために混同や誤解釈が生じ、その誤解釈を板書から無批判拝受した門弟により世に広まったと考えます。弊ブログでは藤原京時代にこの大変革がなし崩し的に行われたと推定します。

 調庸税の納付規定について、現代人らしく貨幣価値と云う視点から眺めてみますと、確かに飛鳥浄御原宮時代には富本銅銭が発行され流通を開始していたと思われますが、ほぼ、畿内の一部地域に限定した流通と思われます。本格的な貨幣の流通は和銅年間の和同開珎まで待つ必要がありますが、それでも和銅五年(712)十月の詔「随役夫到任令交易。又令行旅人必齎銭為資。因息重担之労。亦知用銭之便」を参考としても、全国規模での貨幣の交換価値への認知・普及には時間が掛かったようです。正税帳にも示すように、地方では奈良時代を通じて売買・交換の基準は重荷に分類される穀(もみ米)や稲束です。地方広域では可能性として運搬が容易な軽荷に分類される布(麻布)です。しかしながら政府への納税としては別物です。調物や庸雑物は指定された物品を換算された価格相当の数量で納める必要がありました。なお、価格換算基準は賦役令に定めるレートを使用しますが、これはある種の布(麻布)本位制です。近世の金本位制下でも納税等を金で納めないように、布本位制での納税もまた布だけではありません。
 そうしたとき、和銅年間に和同開珎銅銭が広く流通するようになり、朝廷は銭と物品との公式の交換比率を規定しています。つまり、和銅四年、和銅五年の太政官通知により全国規模での和同開珎銅銭の公定交換価格が制定されるまでは、一部畿内の地域を除き、ある種 慣習法での布(麻布)と云うもの以外に経済市場には交換レートの基準が無かったと云うことになります。大宝律令制定はその和同開珎発行以前ですから銅銭・銀銭でもって納税規定を定める事が出来なかったと考えます。つまり、穀(稲束)と布が基準通貨です。さらに養老律令は大宝律令制定以降に顕われた不都合を詔や太政官布告で修正したものを改めて改訂律令として公布したような感がありますし、天平時代後半頃から急激にインフレーションが進み 銭交換レートは大きく揺れ動きました。これらから大宝律令で定めた実物物価基準となる穀や布をそのままにして養老律令を公布・施行したものと考えます。
 ちなみに和銅年間では公定レートとして麻布一端(五丈二尺)が銭二百文、もみ米である穀六升が銭一文でした。なお、もみ米六升は精米すると白米三升になり、律令の一升は現代の四合のため、概算で一文で白米約2kgが買えたことになります。一方、庸の歳役不足での庸布の日割りは二尺六寸ですからこれは銭十文に相当します。他方、天平時代中頃には寺院などの会計帳簿などから、公設市場での麻布一端(五丈二尺)の販売価格が銭三百五十文に跳ね上がったと報告します。政府としてはインフレに弱い貨幣本位制よりもインフレに強い布本位制の方が実質税収入では安定的ですから、養老律令で納税規定を貨幣本位制に改める意思はなかったものと思います。参考として藤原氏の政治が本格的に始まる天平年間からインフレが急速に進み、天平宝字四年(760)三月に万年通宝銅銭を発行し十分の一のデノミを実施せざるを得ないほどになります。
 ただし、穀(稲束)と布が基準通貨の場合、その弱点は品質とサイズのばらつきです。物不足の時代では問題は顕在化しませんがある程度の市場流通があり消費者に選択の余地が生まれますと、商品である穀(稲束)や布には品質などにより市場価格の差が生まれます。どうも天平時代末期頃からこの品質と市場価値と云う次なる経済問題が生じたようです。天平宝字四年の記録で同じ絹製品である絁の産地別価格差は上級ランク丹波産(一疋:680文)と下級ランク安芸産(一疋:600文)では13%前後の差がありました。同じ納付量としたとき納税価値は13%も違うと云うことになります。ずるをするなら丹波国の人は丹波産を都の市場で売り、安芸産を買って納税すれば13%の差益が生まれます。そこで養老令 賦役令で「不得襍勾隨便糴輸(実物を運ばずに、京内での品物の売買によってまかなった物を提出してはならない)」と規定したのでしょうが、斯様に経済活動が高度化すると品質差からくる不公平感が醸し出され、それが租庸調制度崩壊への一端となったかもしれません。

日本書紀 大化二年(646)正月甲子朔の詔より抜粋:
其三曰、初造戸籍・計帳。班田収授之法、凡五十戸為里、毎里置長一人。掌按検戸口・課殖農桑・禁察非違・催駆賦役。若山谷阻険・地遠人稀之処、随便量置。凡田長三十歩・広十二歩為段、十段為町。段租稲二束二把・町租稲二十二束。
其四曰、罷旧賦役、而行田之調。凡絹・絁・糸・綿、並随郷土所出。田一町絹一丈、四町成疋。長四丈・広二尺半。絁二丈、二町成疋、長・広同絹。布四丈、長・広同絹・絁、一町成端。(糸・綿絇屯、諸処不見)別収戸別之調、一戸貲布一丈二尺。凡調副物塩贄、亦随郷土所出。凡官馬者、中馬毎一百戸輸一疋。若細馬毎二百戸輸一疋。其買馬直者、一戸布一丈二尺。凡兵者、人身輸刀・甲・弓・矢・幡・鼓。凡仕丁者、改旧毎三十戸一人(以一人充廝也)、而毎五十戸一人(以一人充廝)。以死諸司、以五十戸死仕丁一人之糧、一戸庸布一丈二尺・庸米五斗。凡釆女者、貢郡少領以上姉妹及子女形容端正者(従丁一人・従女二人)。以一百戸充釆女一人糧、庸布・庸米、皆准仕丁。


 ここで目先を変えて、「布」と云う繊維製品に焦点を当てますと、繊維と機織りの研究では藤ノ木古墳副葬品が色々な情報を与えるとします。この藤ノ木古墳は敏達天皇四年(575)から推古天皇八年(600)となる六世紀 第四四半期の円墳と推定されています。副葬品で発見された布類の分析からそれらの布類は、以下に紹介する織り機により織られたと推定されています。この内、傾斜機の発展系が現在でも徳島県の太布と云うもので使われていますし、奈良時代から登場と思われる空引機は一部の京都西陣織に現在も使われています。趣味の世界になりますが市販されています卓上型の手織り平織り機は布機の改良型です。
 手織りでの機織り機は奈良時代までに基本構造と手法は固まったと思われますから、現在に残るものから飛鳥・奈良時代の手織り織物の調度・製作は復元が可能のようです。逆に考えますと奈良時代初頭に日本全国のすべての家に布機や傾斜機が普及していたのでしょうか。従来の調庸の納付の解説ですと、個々人で規定された幅、織目、長さを持った製品である布を織る必要がありますから、ここで示す専用の織り機は必須と云うことになります。
 およそ奈良時代の役人は現実的・実務的なのでしょう。郡の人々が専門の機織り職人を雇い、その賃金を稲束で支払うような運営をしていますから、登録された「戸」全戸がそれぞれに機織り機を持つ必要はありません。この場合、職人は機織りに専念し、農民は稲作に専念することになります。つまり、近代的な分業制です。この発展系が奈良時代までに現れた美濃の絁であり、上総の望陀布なのでしょう。

• 布機(地機):台架と呼ばれる経巻保持具を使う織機です。
• 傾斜機:経糸の開口を助けるために織機全体が上から下へと傾斜しており、この為に経糸の張力を掛ける体の動きがスムーズとなり機織の労力が半減し、機台と呼ばれる台が付属した織機です。
• 経錦機:二~四色の経糸を使い分けて柄を織り出すという織物専用の織機です。なお、織色が限定され織法が難しいため、唐から最新の空引機が導入された後、奈良時代中期までには姿を消します。
• 絹機:平織を織り出す絹織機をいいます。布巻が機台に固定されていて、開口は踏木を使うことにより綜絖が上下し緯打ちは筬で行います。
• 空引機:紋織物を織り出す機で、模様を織り出すには、空引工という人が必要な通糸を引き揚げ、織工が下にあって緯糸を織込みます。

 先に述べた復習のようなものとなりますが、布とそれを織る機具との関係において、日本では古墳時代中期頃に原始的な経糸の端を木や杭などに括りつけて織る原始機と云うものから、架台を持ち筬(おさ)で布目を整える平織の布機が登場するようです。また、古墳時代中期以降の古墳副葬品から錦や綾が目立つようになるとの報告がありますから、三~四世紀頃に専門技術を持つ織工が渡来し技術が普及したのではないでしょうか。加えて古墳時代中期頃の遺跡調査からは布機の部品などは渡来系の人々が住んでいたと推定される場所からの出土例が多いとしますから、まだまだ普及期で大和全体には及んでいなかったと考えられています。調製された布は高級な貢物の段階で、税として納める代替通貨的地位までは降りて来ていなかったと思われます。
 技術と製品と云う観点から考えますと、古墳時代最末期に当たる大化年間に全国規模で布機による機織技術が普及していたかは疑問が残るところです。一方、奈良時代 大宝年間までには美濃の絁、上総の麻布と云う高級特産品が各地に誕生していますから、飛鳥岡本宮・近江大津宮時代から藤原京時代の間に急速に機織物の技術が進み、同時に全国規模で養蚕などの原料供給面を中心として普及したものと考えられます。そして、この社会経済状況を背景に租庸調の税体系が整備されたのではないでしょうか。ちなみに大化の改新の詔に「課殖農桑」と記すように桑の殖産を推薦していますから、律令時代の絹製品は屋内飼育の家繭による養蚕製品だったと思われます。


 ここでおまけとして、弊ブログとして万葉集に話題を振りますと、相聞歌などに白栲(白妙)と云う衣が詠われます。一方、調庸物には樹木繊維からの白栲と云うものはなく、せいぜいが大化時代の古風な貲布(さいみ)です。それより上等な布は律令では「布」と規定される麻布です。貴族や官人に給与として配られる布は下等品で麻布、上等品で絹や絁です。これらは規格を持つ手工業製品であって、無規格の民芸品ではありません。さらに身分によっては麻布でも最高級品とされる上総国望陀郡特産の望陀布です。すると、万葉時代の白栲の衣は、ある種、特注品になるのでしょうか。例として、フィリピンでのパイナップルやバナナの葉の繊維で織られた布を使ったバロン・タガログと云う上着は伝統の庶民が着た正装ですが、今日ではすべて専門技能士の手作業による伝統繊維製品のものは特注の高級正装の位置付けにあります。同じようなことが万葉時代にもあったのでしょうか。
 伝統の正装を考える時、日本書紀 天武天皇紀に「蓁指御衣」と云う衣が登場し、これは延喜式 衣服令に示す榛摺り染めの御衣と思われ、古来からの木葉の摺り染めの技法で作られた神事や朝儀の儀礼で着服する礼服を示します。つまり、飛鳥浄御原宮時代ごろから貴族は日常的に絹や絁の布で縫われた衣を着用しますが、神事などの伝統行事では和妙の白栲に木葉の摺り染めの技法で調度された衣を身に纏ったと思われます。なお、平安時代初頭では宮中での神道神事の比重が落ち、白栲の榛摺り染めの御衣は延喜式 衣服令に記録されるだけのものになったようです。そのため今日では言葉すら忘れ去られた神事衣装です。ただ、伝統と云うものからしますと飛鳥浄御原宮から前期平城京時代の人々にとって白栲の衣は神聖で特別な着物と云う位置付けになるのかもしれません。ある種、女性が成人式に伝統の和装を望む姿に似たものがあるのかもしれません。
 そうしたとき、もし、その白栲の衣が奈良時代にあってはもう神聖な儀式の時にしか着ない衣としますと、妻問いを待つ若い女性にとって白栲の衣は特別な意味合いを持つことになるのではないでしょうか。妻問いは恋人同士が夜を共にする行為を指しますが、野良での行為では無く、屋敷内での行為です。つまり、妻問いとは若い女性が特別の個室を持つような貴族階級の世界です。その特別の部屋での調度品や衣装は若い女性の親が準備します。この通い婚を前提とした準備作業での白栲の衣と云う意味合いです。
 白栲の衣について万葉集に歌を求めますと、集歌1675の歌は有馬皇子が殺されたと云う紀国 藤白御坂での鎮魂儀礼の時の歌ですから礼服を着たと見なしての歌です。一方、集歌2023の歌は初めての妻問いの朝の風景です。女歌としますと、現在の新婚初夜に等しい状況ですから愛を神に誓うような大切な夜と云う意味合いが「白栲」に込められているかもしれません。ある種、昭和期まで見られた白無垢の花嫁衣裳です。

集歌1675 藤白之 三坂乎越跡 白栲之 我衣手者 所沾香裳
訓読 藤白(ふぢしろ)し御坂を越ゆと白栲し我が衣手(ころもて)は濡れにけるかも
私訳 藤白の御坂を越えると、有馬皇子の故事を思うと白栲の私の衣の袖は皇子を思う涙に濡れるでしょう。

集歌2023 左尼始而 何太毛不在者 白栲 帶可乞哉 戀毛不遏者
訓読 さ寝(ね)そめに幾許(いだく)もあらねば白栲し帯(おび)乞(こ)ふべしや恋も遏(とど)めずば
私訳 抱き合って寝てそれほどでもないのに、身づくろいの着物の白栲の帯を求めるのでしょうか。恋の行いを抑えきれないのに。

 今回も往ったり来たりの酔い加減の与太話であり馬鹿話です。最後には妻問いの歌にまで大脱線してしまいました。そのため、表面上、内容はいかにもの風情をしていますが、小学生の学習帳のようなもので内実はありません。真に受けないようにお願い致します。


 おまけのおまけ
 三回に別け、奈良時代の稲作、租庸調の税制およびその調布について、馬鹿話を展開してきました。背景として柿本人麻呂が生きた時代についての社会構成や税体系などを個人的に納得がいく形で再構成をしているためです。紹介しましたように昭和期までと研究が進んだ平成期では相当に古代税制の解釈に相違があります。また、昭和時代の論文・学説などは一般に公衆には公表しない状況が過去にあり、研究と思想・想像とが区別されないようなものまでが学説として扱われていたようです。それが公費による研究は広く公衆に公表すると云う近々の政府決定から表に出てくるようになり、従来の一部の学説・定説の根拠が非常に怪しいものであることが判明し、同時に驚きがあります。其の典型が小学校の授業でも教える調税は布で納めるというものです。誰が、どのようにして製作し、どこに納めるのかと云う問題を律令制度での「調の布」とは何かと云う定義とその製法から始めますと、従来の説明は実に空想的な「トンデモ論」だったことが判ります。
 律令体制での租庸調は税制の根本であり、統治の大本です。奈良時代の水田稲作での品種・育成法・農機具・単位面積当たりの収穫量などを確認しますと、租税が江戸期から昭和初期の農民ほどは過酷ではないことが判明しました。調庸税での都への納付経費は自弁との従来説明は律令制度ではなんら根拠が無いことも判明しましたし、調物や庸雑物は朝廷が品目と数量を指定するもので、勝手に布(麻布)を納付すると地方の国司・郡司や農民が決めてしまえるものではないことも判りました。さて、昭和期までの研究者とは何者だったのでしょうか。

 歴史観として弊ブログでは原始神道とは違う国家神道は天武天皇の時代頃から全国規模に広がり、全国の祝(はふり)が中央で行われる国家神道の祈年祭や新嘗祭に招聘され、そこで幣物として朝廷から鉄刃先の鍬や品種改良された優秀品種の初穂が下し渡されたと推定します。この推測は奈良時代だけに現れる全国統一規格の新U字形鉄刃鍬や遠く離れた地域で栽培された同一品種名を持つ水稲が根拠です。延喜式では天皇が招聘する全国の祝(郡司・里長)について記述し、その人数は三千百三十二人です。これだけの人々が毎年 国司たちに引率され、中央へと集まります。これを背景にそれぞれの地域での風土や慣習に拠らない、全国各地の神社の拝殿や祝詞などが規格化されたと考えます。
 他方、古代では中央の大王に招聘された地方の豪族たちはその土地の特産品を手土産の贈り物(貢)として携え献上するのが習いです。それを朝廷が賦役令 調物で「隨郷土所出」と規定するように手土産となる物品の種類と数量を地域や郡の規模に応じて公平に指定しますと、律令制での調物との区別はつきません。また、国租である稲の収穫物は単位収穫の3~5%に相当し、その地域に備蓄米として保管されますから農民たちにとって長い目では救荒米として地域利益になっても特段の負担になるようなものではありません。さらに農民は従来から共有物となる水路を引く・畦を作る・道を作るなど、その建設と維持・管理などを共同で行っており、そのような共同の労働奉仕を成文化したところで生活が大きく変わるものではありません。庸である歳役や雑徭は地域内での道路整備・水田や水路の新規開発や整備・郡衙や倉庫の建設や整備などが主な使役としますと、これもまた中央の官に頼ることなく明治から昭和初期に地域の小学校などの校舎がその地域の寄付と労働奉仕で建てられたという古来からの地域自治精神からすれば特段の負担とはなりません。また、地方農村では今日でも農業用の畦道普請・草刈や水路清掃などは組内の寄合作業としてその慣習が残っています。都での歳役についてそれが本国出発日から役をカウントされますと満三十日で租調税免除となり、それ以降は日当が支払われますし、食料は官支給で調理人は歳役の中から最大十人に一人が就きます。近隣国からの超短期役務で無い限り、往復の路程を考えると都での歳役は租調税免除となります。すると場合により、大家族制の下では地方で農作業をするよりその無税となる口分田を家族に預け都で役務に就くほうが経済的に有利と成ります。従いまして、正規の規定での庸役が農民たちの負担になったのかどうかは不明です。ただし、これらは前期平城京ぐらいまでの話です。中央や地方での華美・豪奢な装飾を求める寺院や僧侶の増加などにより雑税扱いの新たな税が誕生した時、重税路線へと転げ落ちて行きます。
 なお都での歳役について面白いことに奈良時代中期までには地方農民が国に戻らず、そのまま都で労働に従事した場合、正丁一人につき雇用税(三百七十五文)を納めてその雇用実態を認めて貰う制度が出来ます。本国に戻らない理由は口分田での重税なのか、都会暮らしなのか、さて、理由はどこにあったのでしょうか。

延喜式 主計 左右京、五畿内國での調庸税より抜粋
其外國百姓逃亡居住畿内,一丁輸錢二百五十文,庸一百廿五文

 およそ、飛鳥浄御原宮から藤原京の時代になし崩しに古代の慣習や地方自治実態を律令と云う枠の中に組み込んだのではないかと想像します。そのなし崩し的な制度移行を持統天皇から文武天皇の時代に成文化したものが大宝律令の租庸調の税制と考えます。現在、公地公民と学問的に名称を付けますが、当時の農民たちにはそのような実感や実態はなかったのではないでしょうか。さらに、従来から地域で神事取り纏めや世話役を執る祝(はふり)は村の長(おさ)から律令で定める里長や郡司の立場を公的・世襲的に与えられ、地域での律令管理者・責任者へとその性格を変えたと考えます。
 実利としてそれぞれの村は朝廷から鉄製農機具の貸与や良質な水稲品種の配布、さらには家蚕の種繭の配布と養蚕技術やその後の絹・麻製品の手工業化や須恵器・土師器などを初めとする最新の技術指導などを受けられ、里長や郡司は世襲的にその地域支配者の身分を保証されました。また、時に凶作時には朝廷によって当座の食料と翌年の作付け用の種籾を近隣の郡や諸国から応援を受けることも出来ました。一方、その代償として政府運用費用として調庸雑物の中央政府への納付義務が課されたと考えます。租税は原則的に地域行政の運営費用です。斯様な利害を天秤に架けますと、飛鳥浄御原宮から藤原京の時代では地方の祝にとって中央政府の影響下・管理下に入るほうが利が多かったのではないでしょうか。さらに穀物が得にくい漁村・山村では調物・庸雑物の公定レートで其の地の産品(魚介類・塩・繭玉・樹木油・薬草など)を確実に穀(もみ米)に交換して貰えるルートが保障されたことになります。これも重要な実利ではないでしょうか。
 其の時代、日本書紀や続日本紀に従えば中央政府は近江・但馬・備前などに大規模な官営製鉄所を運営していますし、また、倭飛鳥・播磨・長州・豊前などに銀を副産物として生む規模を持つ銅製錬所を運営しています。銀は新羅や大唐からの先進技術者招聘の原資になりますし、鉄は地方農民が渇望する鉄製農機具の源です。そして、銅は通貨の源です。さらに全国規模で各地の優良稲種を中央に報告・提出することを求め 実行しています。これらの先端技術の伝授・鉄製農機具の貸与・優良水稲品種の配布・大災害時の広域相互扶助などを梃子に大和朝廷は経済的に地方を支配下に置いたと考えます。政治体制的には従来の祝(里長)と村民との関係に大和の朝廷は乗っかっただけですから地方自治では従来からの変更はありません。およそ、蝦夷・熊襲地域を除くと律令体制での全国統一は武力ではなかったと考えます。このマジックのような国家神道による幣物下賜と云う分配と実利と云うもので擬似公地公民が進んだのではないでしょうか。
 さらなる妄想として、藤原京から前期平城京時代では容易に開墾できる未開発地が広く残されており、地域で新たに生まれる子の数よりも鉄製農機具などを使い開拓される農地の方が多かったのではないでしょうか。これですと口分田制度は維持され破綻しません。ただし、公共による水田開発速度が人口増加に負けたとき、口分田制度は崩壊します。鬼頭宏やビラベンの推定では近江大津宮・飛鳥浄御原宮時代の人口は四百万人前後ですが奈良時代後期までには五百五十万人~六百万人ほどに急激に増加したとしますから、農地は40%前後の増加がないとバランスが取れないことになります。それに前期平城京時代まででは中央で生活する世襲皇族の人数や役人・僧侶の人数も少なく、農民にかかる調庸雑物の納付圧力も少なかったのではないでしょうか。ちなみに水田開発は私有となる墾田三世一身法・墾田永世私有法や土地不足の西日本の人々を土地が広い東日本への移住促進などの政策を動員しても水田面積の増加は鈍く、奈良時代中期までには新規開墾は人口増加に負けます。人口推計を行った鬼頭たちは水田耕地面積は奈良時代後期にピークを迎え、律令制度の崩壊と共に口分田となる水田も荒れ平安時代初頭にはその水田耕地面積は減少へと向かったと報告します。
 加えて、延喜式 主税寮に載る会計帳簿記載例である某國司解申收納某年正税帳事を参考にしますと仏教関係費用の項目が目に付きますから、仏教と云う華美・奢侈を求める宗教が地方経済の疲弊を招いた根本原因なのかもしれません。ご存じのように律令制崩壊と共に一部の地方を除き、国分寺・国分尼寺はその姿を消しますから宗教としては民衆の信仰・支えは無かったと考えます。
 以上が弊ブログの歴史への憶測であり、酔論です。弊ブログはこのような視線から柿本人麻呂が生きた時代を眺めていますし、万葉集を鑑賞しています。



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