竹取翁と万葉集のお勉強

楽しく自由に万葉集を楽しんでいるブログです。
初めてのお人でも、それなりのお人でも、楽しめると思います。

資料編 文帝誄 (曹植)

2015年06月29日 | 資料書庫
資料編 文帝誄 (曹植)

 柿本人麻呂が詠う挽歌には、それ以前に行われていた舒明天皇の殯の様子、天武天皇の殯宮の様子や『日本書紀』でのそれらの葬送儀礼への記載を参考にしますと、詠う挽歌のその整った形式美を踏まえると、時に、文帝誄(曹植)の影響があるとします。ここではその参考資料として文帝誄の原文とその訓読みを紹介します。
 追記して、ご存知のように柿本人麻呂の時代、平仮名も片仮名もまだ存在しません。その時代の人は大唐からの漢詩漢文を直接に読解しなければなりませんでしたし、大和言葉に翻訳した書籍は存在しません。従いまして、柿本人麻呂の時代人たちは以下に紹介するものをそのままに受容していたことを再確認してください。万葉集に関する解説書を見ますと、このような文化的背景を知らない、無視したものが時に存在します。そのような学問的な背景がありますから、極力、そのようなものを排除するために調べた資料は公開するようにしております。
 なお、いつものことですが、正規の教育を受けていないものの作業です。そのため、漢文の句読点の位置が一般的なものとは違っておりますし、それに合わせて訓じも違っております。従いまして、ここでのものは読み流し程度でのものとして扱い、引用には向かないことをご了承下さい。


<原文>
文帝誄 (藝文類聚-巻第十三、魏文帝の項より) 曹植(曹子建)

魏陳王曹植文帝誄曰、
天震地駭、崩山隕霜。陽精薄景、五緯錯行。
哀殊喪考、思慕過唐。擗踴郊野、仰愬穹蒼。
考諸先紀、尋之哲言。生若浮寄、徳貴長伝。
朝聞夕逝、死志所存。皇雖殪没、天禄永延。
何以述徳、表之素旃。何以詠功、宣之管絃。
乃作誄曰、
元光幽昧、道究運遷。乾迴暦数、簡聖授賢。
乃眷大行、属以黎元。龍飛践祚、合契上玄。
五行定紀、改号革年。明明赫赫、授命自天。
風偃物化、徳以礼宣。詳惟聖質、岐嶷幼齢。
研機六典、学不過庭。潜心無内、抗志高明。
才秀藻朗、如玉如瑩。聴察無響、視睹未形。
其剛如金、其勁如瓊。如冰之潔、如砥之平。
爵功無重、戮違無軽。心鏡万機、鑑照下情。
宅土之中、率民以漸。道義是図、弗営厥険。
六合通同、斉契共検。導下以純、民由樸倹。
紼冕崇麗、衡紞惟新。尊肅礼容、瞻之若神。
方牧妙挙、欽於恤民。虎将荷節、鎮彼四隣。
朱旗所勦、九壤披震。疇克不若、孰敢不臣。
懸旌海表、万里無塵。回回凱風、祁祁甘雨。
稼惟歳豊、登我稷黍。家佩恵君、戸蒙慈父。
在位七載、九功仍挙。将承太和、絶跡三五。
宜作物師、長為神主。壽終金石、等算東父。
如何奄忽、摧身后土。俾我焭焭、靡瞻靡顧。
嗟嗟皇穹、胡寧忍予。明鑑吉凶、体達存亡。
深垂典制、申之嗣皇。聖上虔奉、是順是将。
乃啓玄宇、基于首陽。擬跡穀林、追堯纂唐。
合山同阪、不樹不疆。塗車蒭霊、珠玉靡蔵。
百神警侍、賓于幽堂。
於是、
侯大隧之致功、陳元辰之叔禎。
潜華体於梓宮、憑正殿以居霊。
悼晏駕之既俟、感容車之速征。
浮飛魂於軽霄、就黄墟以蔵形。
背三光之昭晰、帰窀穸之冥冥。
嗟一往之不返、痛閟闥之長扃。

<訓読>
魏陳王曹植の文帝に誄(るい)して曰く、
天は震え地は駭(おどろ)き、山は崩れ霜は隕(お)つ。陽精は薄景し、五緯は錯行す。
哀しみは殊(ことさら)に考(ちち)を喪い、思慕は唐を過ぐ。郊野に擗踴(へきよう)し、蒼穹を仰ぎて愬う。
諸(これ)を先紀に考(かむが)み、之の哲言を尋ぬる。生は浮寄の若く、徳貴は長く伝わりぬ。
朝に聞き夕に逝けども、死して志は所存すと。皇と雖(いへど)も殪(たお)れ没せとも、天禄は永延なり。
何を以って徳を述べ、之を素旃(そせん)に表わさん。何を以って功を詠み、之を管絃に宣べん。
乃(すなは)ち誄を作りて曰く、
元(はじ)め光は幽昧にして、道は究(きわ)まり運は遷り、乾の暦の数(わざ)を迴らせ、聖を簡(えら)びて賢に授く。
乃ち大行を眷(かえり)み、黎元を以って属す。龍飛(りゅうひ)して践祚(せんそ)し、上玄に合契す。
五行の紀を定め、改号し革(あらた)める年とす。明明(めいめい)赫赫(かくかく)とし、天命を自らに授く。
風を偃(ふ)して物と化(な)し、徳を以って礼を宣ぶ。惟れ聖質を詳しくし、嶷(ぎょく)は幼齢に岐(ひい)でる。
六典を研機し、学は庭に過ぎざる。心を潜ませ内を無(む)にし、志を高明に抗う。
才は秀で藻は朗かに、玉の如く瑩の如し。響(こえ)無きを聴きて察し、未だ形(あら)われざるを視睹す。
其の剛は金の如く、其の勁は瓊(たま)の如く、之の潔きは氷の如く、之の平らなるは砥(といし)の如し。
功を爵すに重きこと無く、違を戮するに軽きこと無し。心鏡(しんきょう)万機(まんき)、下情を鑑り照らす。
之の宅土の中、民を率ひて以って漸(すす)む。道義の是れを図り、厥(そ)の険を営せず。
六合を同じく通じ、斉(ひと)しく契り共に検(はか)らむ。下を導き以って純にし、民に由(なお)のこと倹樸す。
冕を紼(はら)ひて麗(れい)を崇(あが)め、紞して衡を惟れ新しむ。礼容を尊び肅み、之を瞻れば神の若し。
方牧(ほうぼく)を妙挙し、民を恤(あわれ)むを欽(うや)まふ。虎将は節を荷い、彼(か)の四隣を鎮む。
朱旗の勦(ほろぼ)す所、九壤は披震す。疇(たれ)か克く若(したが)わず、孰(たれ)か敢えて臣たらざらむ。
旌(はた)を海表に懸(かか)げば、万里に塵は無し。凱風は回回とし、甘雨は祁祁(きき)とす。
稼(みのり)は惟れ豊かに歳(めぐ)り、稷黍は我に登(みの)る。家は君の恵みを佩び、戸は慈父を蒙(こほむ)る。
在位すること七載、九功は仍(しき)りに挙ぐ。将(まさ)に太和を承り、跡を三五に絶つ。
宜しく作物を師し、長く神主を為す。壽は金石を終え、算を東父に等しくす。
如何ぞ奄忽(たちまち)に、身を后土(こうど)に摧(ほろぼ)し、我の焭焭(けいけい)たるを俾(いや)み、瞻(まば)るに靡き顧(み)るに靡く。
嗟嗟、皇穹よ、胡(なん)ぞ予寧(よねい)に忍(たへ)る。明は吉凶を鑑み、体は存亡に達す。
深く典制を垂れ、之を嗣皇に申す。聖上は虔(つつし)んで奉じ、是に順じ是に将(したが)う。
乃ち玄宇(げんう)を啓(ひら)き、基を陽に首(さら)す。跡を穀林に擬し、堯を追い唐を簒(ねら)う。
山に合(おな)じくし阪に同じくし、樹せず疆せず。塗車蒭霊、珠玉を蔵(しま)わず。
百神は警(そな)え侍り、幽堂に賓す。
是に於いて、
侯(きみ)の大隧(たいすい)を致功し、之の元辰(げんしん)の叔禎を陳(しめ)す。
華体を梓宮に於いて潜(かく)し、正殿に憑りて以って霊と居す。
晏駕(あんが)の既に俟(はや)きを悼み、之の容車(ようしゃ)の速く征くを感ず。
飛魂を軽霄(けいそう)に浮かべ、黄墟(こうきょ)に就いて以って蔵と形す。
三光の昭晰(しょうせき)に背き、窀穸(ちゅんせき)の冥冥たるに帰す。
一たび往きて返らざるを嗟(なげ)き、閟闥(ひたつ)の長く扃(とざ)すを痛む。
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万葉雑記 色眼鏡 百二四 誰が難訓歌を創ったのか

2015年06月27日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 百二四 誰が難訓歌を創ったのか

 万葉集には難訓歌と云うものが昭和時代まで存在しました。
 弊ブログでは万葉集と古今和歌集での重複歌の調べから、また後撰和歌集での万葉集との重複歌と推定されていたものは本歌取技法の歌であるとの近年の研究を紹介し、さらに源氏物語引き歌研究からも、平安中期までの貴族たちは万葉集を読解し、それを教養としていたことを紹介しました。
 一方、万葉集訓点研究家は「万葉集は平安時代には訓じることが困難になった詩歌集である」と云うことを前提として論を進めるようです。なぜ、紫式部や藤原道長の時代ごろまでは訓じることが出来たであろう万葉集に難訓歌が生じたのでしょうか。

 現在に伝わる万葉集写本に注記を行った平安時代中期から鎌倉時代初期の歌人は歌道に対して、そして自己の歌の解釈能力に対して誠実でした。その歌道に対する真摯な態度から万葉集に難訓歌が生じた事情を左注として後年に残してくれました。それが伝万葉集写本の左注に記す「今案不似反謌也」や「今案不似和謌」と云う言葉です。
 注釈者は「万葉集のオリジナルを尊重すると、自分が解釈した歌の世界と万葉集の構成が一致しない、これは不審だ」とします。実に誠実です。これを裏返せば、平安時代のある時点から、万葉集の詠う世界が理解出来なくなっています。ただ、困ったことに現代の万葉集の訓点根拠はその理解出来なった時代以降の訓点を重要な根拠とし、類型歌などから訓じの窓口を広げて行き、万葉集全体を訓じて行きます。
 万葉歌の訓じの最終目的は、その歌が詠われた時代のものとして鑑賞することにあるはずです。訓じは訓じが目的であり、歌としての解釈は別物と云う態度が許されるのです、それは訓じの結果に対しての検証を認めないという不遜な態度にも通じます。だからでしょうか、朝鮮語でなくては読めないとか、ポリネシア語でなくては読めないなどと云うものを許すのかもしれません。従いまして、訓じの行為とは歌の鑑賞を最終目的とするのでありますと、平安時代後期から鎌倉時代初期に付けられたであろう「今案不似反謌也」や「今案不似和謌」と云う言葉に対して回答を示すのが、誠実な万葉集研究者の責務です。
 今回は万葉集の巻一と巻二から「今案不似反謌也」や「今案不似和謌」と云うような言葉を持つ歌群六例を紹介します。紀貫之は歌心が同じであれば時空を超えて歌の世界や解釈は「身をあわせる」ことになると説明しますから、歌を正しく解釈しているのですと「今案不似反謌也」や「今案不似和謌」と云うような言葉が「なぜ、付けられたのか」とか、「本来の歌の世界はこのようなことを詠っていたのか」ということが判るのではないでしょうか。
 紹介します例歌六歌群はすべて訓じられている歌です。従いまして、訓じられている歌であっても基礎的な読解能力不足から「今案不似反謌也」や「今案不似和謌」と云う状態のままで放置されているのですと、当然、一首単独の歌に対しても、その漢語と万葉仮名と云う漢字だけで表現された歌を適切に読み解くのはその基礎能力からしますと容易ではないでしょう。
 まことに独尊状態ですが、今回紹介した例歌六歌群の世界を適切に鑑賞できないようでは、万葉集研究者と云うタイトルを持っていたらまるで己の読解能力不足を示すことにもなります。それはそれで恥ずかしいことですから万葉集難訓歌と云うものを創作して逃げ出すしかないのかもしれません。およそ、現代の万葉集難訓歌と云うものは万葉集を適切に鑑賞できない自称研究者が作り出した都市伝説程度なのかもしれません。あとは、漢詩体歌や非漢詩体歌を含む万葉歌の語尾活用変化の研究と云う、少し、空想科学に近い世界に入り込むのが良いのかもしれません。
 ただ、ご存知のように漢詩体歌や非漢詩体歌では語尾の「てにをは」の選定や解釈は解釈者の好みに委ねられますから、日本語か、朝鮮語か、ポリネシア語か、などと議論を広げることは可能ですし、それを試みるお方は多数に上ります。適切に万葉集歌を読解出来ないのでしたら、そのようなお方のものを「トンデモ研究」として切って捨てることは出来ません。まず、その前に「今案不似反謌也」や「今案不似和謌」と云うものへの答えを示すのが先です。それで初めて万葉集を編んだ奈良時代の歌人とそれが理解出来なくなった平安後期の歌人の解釈の相違や本来の万葉集歌を解釈すべき方向性が確認できます。

 弊ブログでは基本的に日本語(大和言葉)として解釈し、その時、万葉集中に難訓歌はありません。そして、その訓じたものには解釈と歌の世界を提示しています。


<例歌 一>
中大兄 近江宮御宇天皇 三山謌一首
標訓 中大兄 近江宮(おふみのみや)御宇(あめのしたしらしめし)天皇(すめらみこと) 三山の歌一首
集歌13 高山波 雲根火雄男志等 耳梨與 相諍競伎 神代従 如此尓有良之 古昔母 然尓有許曽 虚蝉毛 嬬乎 相挌良思吉
試訓 香具山(百済)は 畝傍(うねび)(大和)を雄々(をほ)しと 耳成(みみなし)(新羅)と 相争ひき 神代より 如(かく)にあるらし 古(いにしへ)も 然(しか)にあれこそ 現世(うつせみ)も 妻(の座)を 争ふらしき
試訳 香具山(百済)は畝傍山のように大和の国を男らしい立派な国であると耳成山(新羅)と相争っている。神代も、このような相手の男性の奪い合いがあったとのことだ。昔もそのようであったので、現在も百済と新羅が、そのように同盟国としての妻の座を争っているのだろう。

反謌
集歌14 高山与 耳梨山与 相之時 立見尓来之 伊奈美國波良
試訓 香具山(百済)と耳成山(新羅)と相(あひ)し時立見に来(き)らしいなみ国原(くにはら)
試訳 香具山である百済と耳成山である新羅が対面したときに、その様子を立ちて見に来た。稲穂の美しい大和の平原よ。

集歌15 渡津海乃 豊旗雲尓 伊理比祢之 今夜乃月夜 清明己曽
試訓 渡津海(わたつみ)の豊旗雲(とよはたくも)に入日(いりひ)みし今夜(こよひ)の月夜(つくよ)清(さや)明(あけ)くこそ
試訳 船を渡すような入江の水面に豊かに棚引く雲に夕陽を見た。今夜の月夜は清らかに明るいだろう。
右一首謌、今案不似反謌也。但、舊本以此謌載於反謌。故今猶載此次。亦紀曰、天豊財重日足姫天皇先四年乙巳立天皇為皇太子。
注訓 右の一首の歌は、今案(かむが)ふるに反歌に似ず。但し、旧き本にこの歌を以ちて反歌に載す。故に今なほ此の次(しだひ)に載す。また紀に曰はく「天豊財重日足姫天皇の先の四年乙巳に天皇を立てて皇太子となす」といへり。


<例歌 二>
額田王下近江國時謌、井戸王即和謌
標訓 額田王の近江國に下りし時の歌、井戸王の即ち和(こた)へる歌
集歌17 味酒 三輪乃山 青丹吉 奈良能山乃 山際 伊隠萬代 道隈 伊積流萬代尓 委曲毛 見管行武雄 數々毛 見放武八萬雄 情無 雲乃 隠障倍之也
訓読 味酒(うまさけ) 三輪の山 青(あを)丹(に)よし 奈良の山の 山し際(は)に い隠(かく)るまで 道し隈(くま) い積もるまでに 委(つば)らにも 見つつ行かむを しばしばも 見(み)放(は)けむ山を 情(こころ)なく 雲の 隠さふべしや
私訳 味酒の三輪の山が、青丹も美しい奈良の山の山の際に隠れるまで、幾重にも道の曲がりを折り重ねるまで、しみじみと見つづけて行こう。幾度も見晴らしたい山を、情けなく雲が隠すべきでしょうか。

反謌
集歌18 三輪山乎 然毛隠賀 雲谷裳 情有南畝 可苦佐布倍思哉
訓読 三輪山をしかも隠すか雲だにも情(こころ)あらなも隠さふべしや
私訳 三輪山をこのように隠すのでしょうか。雲としても、もし、情け心があれば隠すでしょうか。
右二首謌、山上憶良大夫類聚歌林曰、遷都近江國時、御覧三輪山御謌焉。
日本書紀曰、六年丙寅春三月辛酉朔己卯、遷都于近江。
注訓 右の二首の歌は、山上憶良大夫の類聚歌林に曰はく「都を近江國に遷す時に、三輪山を御覧(みそなは)す御歌(おほみうた)なり」といへり。
日本書紀に曰はく「六年丙寅の春三月辛酉の朔の己卯に、都を近江に遷す」といへり。

集歌19 綜麻形乃 林始乃 狭野榛能 衣尓著成 目尓都久和我勢
訓読 綜麻形(へそがた)の林しさきの狭野(さの)榛(はり)の衣(ころも)に著(つ)く成(な)す目につく吾(わ)が背
私訳 綜麻形の林のはずれの小さな野にある榛を衣に摺り著け、それを身に着けている。私の目には相応しく見えます。私が従う貴女よ。
右一首謌、今案不似和謌。但、舊本載于此次。故以猶載焉。
注訓 右の一首の歌は、今案(かむ)がふるに和(こた)ふる歌に似はず。但し、旧き本には此の次(しだひ)に載す。故に以つてなお載す。


<例歌 三>
麻續王流於伊勢國伊良虞嶋之時、人哀傷作謌
標訓 麻續王の伊勢国の伊良虞の嶋で(足を滑らして潮に)流さえし時に、人の(麻續王の)傷を哀みて歌を作れる
集歌23 打麻乎 麻續王 白水郎有哉 射等籠荷四間乃 珠藻苅麻須
訓読 打麻(うつそ)を麻續王(をみのおほきみ)白水郎(あま)なれや伊良虞(いらこ)に島の玉藻刈ります
試訳 麻を打ち神御衣を織る麻續王は海人なのだろうか、伊良湖の島の玉藻を刈っていらっしゃる

麻續王聞之感傷和謌
標訓 麻續王のこれを聞きて(磯に足を滑らした)傷みを感じ歌で和(こた)へる
集歌24 空蝉之 命乎惜美 浪尓所濕 伊良虞能嶋之 玉藻苅食
訓読 現世(うつせみ)し命を惜しみ浪に濡れ伊良虞(いらご)の島し玉藻刈り食(は)む
試訳 今の世での神の御言を大切にして、私は浪に濡れ神嘗祭の神餞に供える伊良湖の神島の玉藻を刈って奉じるのだ。
右、案日本紀曰、天皇四年乙亥夏四月戊戌朔乙卯、三位麻續王有罪、流于因幡。一子流伊豆嶋、一子流血鹿嶋也。是云配于伊勢國伊良虞嶋者、若疑後人縁歌辞而誤記乎。
注訓 右は、日本紀を案(かんが)ふるに曰はく「天皇四年乙亥の夏四月戊戌の朔の乙卯、三位麻續王罪有り、因幡に流す。一子を伊豆の嶋に流し、一子を血鹿(ちしか)の嶋に流す」といへり。ここに伊勢國の伊良虞の嶋に配すといふは、若(けだ)し疑(うたが)ふらくは後の人の歌の辞(ことば)に縁(より)りて誤り記せるか。


<例歌 四>
和銅五年壬子夏四月、遣長田王于伊勢齊宮時、山邊御井謌
標訓 和銅五年(712)壬子の夏四月、長田(おさだの)王(おほきみ)を伊勢の齊宮(いつきのみや)に遣はしし時に、山邊の御井の謌
集歌81 山邊乃 御井乎見我弖利 神風乃 伊勢處女等 相見鶴鴨
訓読 山し辺(へ)の御井(みゐ)を見がてり神風(かむかぜ)の伊勢処女(をとめ)どもあひ見つるかも
私訳 山の辺の御井を見たいと願っていたら思いもかけずも、神風の吹く伊勢の国へ赴く女性たち(長田王とその侍女たち)にお会いしました。
注意 原文の「伊勢處女」の「處女」には、親と共にその場所に居住する女性のような意味合いですから、「伊勢處女」とは斎宮で主に従う女達の意味になります。つまり、集歌81の歌は、一般の解釈とは違い、斎宮に仕える女性とそれを引率する長田王への餞別の歌です。

集歌82 浦佐夫流 情佐麻弥之 久堅乃 天之四具礼能 流相見者
訓読 心(うら)さぶる情(こころ)さ益(ま)やし久方の天し時雨(しぐれ)の流らふ見れば
私訳 うら淋しい感情がどんどん募って来る。遥か彼方の天空に時雨の雨雲が流れているのを眺めると。
注意 原文の「情佐麻弥之」の「弥」は、一般に「祢」と変え「情(こころ)さ数多(まね)し」と訓みます。感情の捉え方が違います。

集歌83 海底 奥津白波 立田山 何時鹿越奈武 妹之當見武
訓読 海(わた)し底(そこ)沖つ白波立田山いつか越えなむ妹しあたり見む
私訳 海の奥底、その沖に白波が立つ。その言葉のひびきではないが、その龍田山を何時かは越えて行こう。麗しい娘女の住むところを眺めるために。
右二首今案、不似御井所。若疑當時誦之古謌歟。
注訓 右の二首は今案(かむが)ふるに、御井の所に似ず。若(けだ)し疑ふらくに時に當りて誦(うた)ふる古き謌か。
注意 飛鳥・奈良時代は、御幸巡行の記事に示すように伊勢国への行き来には陸路の伊勢街道と海路の紀伊・熊野経由の二通りがあります。歌からは長田王一行は伊勢神宮に赴くに熊野経由で行かれたと推定されます。それで、これら三首はその予定行程での国境の龍田越えを詠ったものと思われます。推定で、左注は万葉集編纂時のものではなく、伊勢国への海路の歴史がなくなった平安時代中期から後期以降と思われます。


<例歌 五>
有間皇子自傷結松枝謌二首
標訓 有間皇子の自ら傷みて松が枝を結べる歌二首
集歌141 磐白乃 濱松之枝乎 引結 真幸有者 亦還見武
訓読 磐白(いはしろ)の浜松し枝(え)を引き結び真(ま)幸(さき)くあらばまた還り見む
私訳 磐代の浜の松の枝を引き寄せ結び、旅が恙無く無事であったら、また、帰りに見ましょう。

集歌142 家有者 笥尓盛飯乎 草枕 旅尓之有者 椎之葉尓盛
訓読 家にあれば笥(け)に盛る飯(いひ)を草枕旅にしあれば椎し葉に盛る
私訳 家にいたならば高付きの食器に盛る飯を、草を枕に寝るような旅なので椎の葉に盛っている。

長忌寸意吉麻呂見結松哀咽謌二首
標訓 長忌寸意吉麻呂の結び松を見て哀しび咽(むせ)べる歌二首
集歌143 磐代乃 岸之松枝 将結 人者反而 復将見鴨
訓読 磐代(いはしろ)の岸し松が枝(え)結びけむ人は反(かへ)りてまた見けむかも
私訳 磐代の海岸の崖の松の枝を結ぶ人は、無事に帰って来て再び見ましょう。

集歌144 磐代之 野中尓立有 結松 情毛不解 古所念
訓読 磐代(いはしろ)し野中に立てる結び松情(こころ)も解(と)けず古(いにしへ)念(おも)ほゆ
私訳 磐代の野の中に立っている枝を結んだ松。結んだ枝が解けないように私の心も寛げず、昔の出来事が思い出されます。

山上臣憶良追和謌一首
標訓 山上臣憶良の追(お)ひて和(こた)へたる謌一首
集歌145 鳥翔成 有我欲比管 見良目杼母 人社不知 松者知良武
訓読 鳥(とり)翔(かけ)り成(あ)り通(かよ)ひつつ見らめども人こそ知らね松は知るらむ
私訳 皇子の生まれ変わりの鳥が飛び翔けて行く。しっかり見たいと目を凝らして見ても、人も神も何があったかは知らない。ただ、松の木が見届けただけだ。
右件歌等、雖不挽柩之時所作、唯擬歌意。故以載于挽歌類焉。
注訓 右の件の歌どもは、柩(ひつぎ)を挽(ひ)く時に作る所にあらずといへども、、唯、歌の意(こころ)に擬(なぞら)ふ。故以(ゆゑ)に挽歌の類(たぐひ)に載す。


<例歌 六>
移葬大津皇子屍於葛城二上山之時、大来皇女哀傷御作謌二首
標訓 大津皇子の屍(かばね)を葛城の二上山に移し葬(はふ)りし時に、大来皇女の哀(かな)しび傷(いた)みて御(かた)りて作(つく)らしし歌二首
集歌165 宇都曽見乃 人尓有吾哉 従明日者 二上山乎 汝背登吾将見
試訓 現世の人にある吾や明日よりは二上山を汝背と吾が見む
試訳 もう二度と会えないならば、今を生きている私は明日からは毎日見ることが出来るあの二上山を愛しい大和に住む貴方と思って私は見ましょう。

集歌166 礒之於尓 生流馬酔木 手折目杼 令視倍吉君之 在常不言尓 
試訓 磯し上に生ふる馬酔木を手折らめど見すべき君し在りと言はなくに
試訳 貴方が住む大和から流れてくる大和川の岸の上に生える馬酔木の白い花を手折って見せたいと思う。以前のように見せる貴方はもうここにはいないのだけど。
右一首今案、不似移葬之歌。盖疑、従伊勢神宮還京之時、路上見花感傷哀咽作此歌乎。
注訓 右の一首は今(いま)案(かむが)ふるに、移し葬(はふ)れる歌に似ず。けだし疑はくは、伊勢の神宮(かむみや)より京(みやこ)に還りし時に、路の上(ほとり)に花を見て感傷(かんしょう)哀咽(あいえつ)してこの歌を作れるか。


 今回は、歌の背景の説明は端折りました。どのように弊ブログで解釈し、「今案不似反謌也」や「今案不似和謌」と云うものへの回答は、それぞれの歌の鑑賞で示しています。また、単純ではないものについては、「万葉集の歴史を推理する」という読み物を公表していますので参照を願います。
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資料編 蘭亭序と梅花謌卅二首の序文

2015年06月22日 | 資料書庫
資料編 蘭亭序と梅花謌卅二首の序文

 万葉集巻五に「梅花謌卅二首并序」と云う作品があり、その序文は大伴旅人の手によるものではないかとされています。そして、この漢詩文の構成や語句には王羲之の「蘭亭序」や王勃・駱賓王などの初唐の詩序などに学ぶところが多いと評論されます。
 そこで、その評論に資すためにここに王羲之の「蘭亭序」と大伴旅人の「梅花謌卅二首の序文」を連続して紹介いたします。二つの作品を連続して鑑賞するとき、場合によっては、なぜ、奈良時代の遣唐使大使たちが大唐に赴いたとき、大唐の皇帝や宮廷人から歓待されたり、士大夫として認められたりしたのかが判ると思います。「梅花謌卅二首の序文」は文章として美しく、それでいて格調高い文学論を展開しています。対して「蘭亭序」はどうでしょうか。非常に高度な教養の下、先行する作品群や語句への知識を見せますが、さてはて。
 標準的に漢詩文を作文する時のルールでは先行する作品の語句や構成スタイルを取り入れないものは、教養なしと切って捨てます。従いまして、先行する作品群の語句を取り入れた漢詩文を単なる模倣とみるか、高度な教養とみるかは、その作品の文章構成能力と内容に拠ることになります。ただ、西洋文学研究者から漢文学を見ればそこには独創性がないという無理難題であり、頓珍漢な評論をする可能性はあります。
 どうぞ、色眼鏡無しで、文章を味わって下さい。


蘭亭序           王羲之
永和九年歳在癸丑
暮春之初、會于會稽山陰之蘭亭。脩禊事也。群賢畢至、少長咸集。此地有崇山、峻領茂林脩竹、又有清流、激湍暎帶左右。引以爲流觴曲水、列坐其次。雖無絲竹管弦之盛、一觴一詠、亦足以暢叙幽情。是日也、天朗氣、惠風和暢。仰觀宇宙之大俯、察品類之盛。所以遊目騁懷、足以極視聽之娯、信可樂也。夫人之相與俯仰一世、或取諸懷抱悟言一室之内、或因寄所託、放浪形骸之外。雖趣舎萬殊、靜躁不同、當其欣於所遇、暫得於己、怏然自足、不知老之將至及。其所之既惓、情隨事遷、感慨係之矣。向之所欣、俛仰之、以爲陳迹、猶不能不以之興懷。況脩短隨化、終期於盡。古人云死生亦大矣。豈不痛哉。毎攬昔人興感之由、若合一契。未甞不臨文嗟悼。不能喩之於懷。固知一死生爲虚誕、齊彭殤爲妄作。後之視今、亦由今之視昔。悲夫、故列叙時人、録其所述。雖世殊事異、所以興懷、其致一也。後之攬者、亦將有感於斯文。

訓読 蘭亭序(らんていじょ)
永和九年、歳(とし)は癸丑(きちう)に在り。
暮春の初め、会稽山陰の蘭亭に会す。禊事(けいじ)を脩(をさ)むるなり。群賢(ぐんけん)畢(ことごと)く至り、少長(せうちやう)咸(みな)集まる。此の地に、崇山(すうさん)峻領(しゆんれい)、茂林(もりん)脩竹(しうちく)有り。又、清流激湍(げきたん)有りて、左右に暎帯(えいたい)す。引きて以て流觴(りゅうしよう)の曲水と為し、其の次(じ)に列坐す。糸竹管弦の盛(せい)無しと雖(いへど)も、一觴一詠、亦以て幽情を暢叙(ちょうじょ)するに足る。是の日や、天(てん)朗(ほが)らかに気清く、恵風(けいふう)和暢(わちょう)せり。仰いでは宇宙の大きなるを観(み)、俯しては品類の盛んなるを察す。目を遊ばしめ懐(おも)ひを騁(は)する所以(ゆゑん)にして、以て視聴の娯しみを極むるに足れり。信(まこと)に楽しむべきなり。夫(そ)れ人の相(あひ)与(とも)に一世(いつせい)に俯仰(ふぎょう)するや、或いは諸(これ)を懐抱(かいほう)に取りて一室の内に悟言(ごげん)し、或いは託する所に因寄(いんき)して、形骸の外(ほか)に放浪す。趣舎(しゅしゃ)万殊(ばんしゅ)にして、静躁(せいそう)同じからずと雖も、其の遇ふ所を欣び、暫(しばら)く己(おのれ)に得るに当たりては、怏然(あうぜん)として自(みづか)ら足り、老(おい)の将(まさ)に至らんとするを知らず。其の之(ゆ)く所は既に惓(う)み、情(じょう)は事(こと)に随ひて遷(うつ)るに及んでは、感慨(かんがい)は之(これ)に係(かか)れり。向(さき)の欣ぶ所は、俛仰(ふぎょう)の(かん)に、以(すで)に陳迹(ちんせき)と為る。猶ほ之(これ)を以て懐(おも)ひを興(おこ)さざる能はず。況んや脩短(しゅうたん)は化(か)に随ひ、終(つひ)に尽くるに期(き)するをや。古人云へり、死生も亦た大なりと。豈に痛ましからずや。毎(つね)に昔人(せきじん)の感を興(おこ)すの由(よし)を攬(み)るに、一契(いつけい)を合(あは)せたるが若(ごと)し。未(いま)だ甞(かつ)て文に臨んで嗟悼(さとう)せずんばあらず。之(これ)を懐(こころ)に喩(さと)ること能はず。固(まこと)に死生を一(いつ)にするは虚誕(きょたん)たり、彭殤(ぼうしょう)を斉(ひと)しくするは妄作(もうさく)たるを知る。後(のち)の今を視るも、亦(ま)た由(な)ほ今の昔を視るがごとくならん。悲しいかな。故に時人(じじん)を列叙し、其の述ぶる所を録す。世(よ)は殊に事(こと)を異(こと)なすと雖も、懐(おも)ひを興(おこ)す所以(ゆゑん)は、其の致(むね)は一(いつ)なり。後(のち)の攬(み)る者も、亦(ま)た将(まさ)に斯(こ)の文に感は有らん。


梅花謌卅二首并序
標訓 梅花の歌三十二首、并せて序
天平二年正月十三日、萃于帥老之宅、申宴會也。
于時、初春令月、氣淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香。加以、曙嶺移雲、松掛羅而傾盖、夕岫結霧、鳥封穀而迷林。庭舞新蝶、空歸故鴈。於是盖天坐地、促膝飛觴。忘言一室之裏、開衿煙霞之外。淡然自放、快然自足。若非翰苑、何以濾情。詩紀落梅之篇。古今夫何異矣。宜賦園梅聊成短詠。

序訓 天平二年正月十三日に、帥の老の宅に萃(あつ)まりて、宴會を申く。
時、初春の令月(れいげつ)にして、氣淑(よ)く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後(はいご)の香を薫(かをら)す。加以(しかのみにあらず)、曙の嶺に雲移り、松は羅(うすもの)を掛けて盖(きぬがさ)を傾け、夕の岫(くき)に霧結び、鳥は穀(うすもの)に封(こ)められて林に迷ふ。庭には新蝶(しんてふ)は舞ひ、空には故鴈は歸る。於是、天を盖(きにがさ)とし地を坐とし、膝を促け觴(さかずき)を飛ばす。言を一室の裏(うち)に忘れ、衿を煙霞の外に開く。淡然と自ら放(ほしきさま)にし、快然と自ら足る。若し翰苑(かんゑん)に非ずは、何を以ちて情を壚(の)べむ。詩に落梅の篇を紀(しる)す。古(いにしへ)と今とそれ何そ異ならむ。宜しく園の梅を賦(ふ)して聊(いささ)かに短詠を成すべし。

 参考として、伊藤博氏はその著書『万葉集釋注』で「梅花謌卅二首の序文」とは大伴旅人が記した「歌とは何であるか、文学とは何かの自覚を示す文章である」とされています。それほどの国文学において重要な歌論ですから、表面上の語句の比較だけでなく、文章として鑑賞して頂ければ幸いです。
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万葉雑記 色眼鏡 百二三 中大兄の歌を鑑賞する

2015年06月20日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 百二三 中大兄の歌を鑑賞する

 ずいぶんと昔に中大兄の歌を鑑賞しました。今回は話題が切れたので、その蒸し返しを致します。ですから、「なんだ、見たことがある。つまんないじゃないか」とのご批判があるようなものです。
 ただし、追記して案内いたしますが、以前にも説明しましたように「中大兄の歌を鑑賞する」と題名を付けていますが、だからと云って「中大兄=天智天皇」など云うような『日本書紀』の記事を無視するような決め付けは致しません。それでは国文学の研究者に大笑いされてしまいます。多少なりとも恥を知っていますから、大笑いされないように慎重に歌を鑑賞しています。

 さて、『万葉集』に「中大兄」が詠う「三山歌」と云う長歌と反歌二首とで出来た組歌があります。ただし、古くからこの組歌に対しては、その左注が語るようにこれらの長短歌三首が組歌であること自体を疑う解釈があり、現在では、この組歌の解釈は、組歌ではないことを前提に解釈されているようです。

後岡本宮御宇天皇代 天豊財重日足姫天皇、後即位後岡本宮
標訓 後の岡本宮に御宇天皇の代(みよ)
追訓 天豊財重日足姫天皇、後に後岡本宮に即位

中大兄 三山謌
標訓 中大兄 三山の歌
集歌13 高山波 雲根火雄男志等 耳梨與 相諍競伎 神代従 如此尓有良之 古昔母 然尓有許曽 虚蝉毛 嬬乎 相挌良思吉
訓読 香具山は 畝傍(うねび)を雄々(をほ)しと 耳成(みみなし)と 相争ひき 神代より 如(かく)にあるらし 古(いにしへ)も 然(しか)にあれこそ 現世(うつせみ)も 妻を 争ふらしき
私訳 香具山は畝傍山を男らしい立派な山であると耳成山と相争ったとのことだ。神代よりこのようなことらしい。昔もそのようであったので、現在もそのように妻の座を争っているのだろう。

反謌
集歌14 高山与 耳梨山与 相之時 立見尓来之 伊奈美國波良
訓読 香具山(かぐやま)と耳成山(みみなしやま)と相(あひ)し時立見に来(き)らしいなみ国原(くにはら)
私訳 香具山と耳成山が対面したときに、その様子を立て見にしに来た。この稲穂の美しい大和の平原よ。

集歌15 渡津海乃 豊旗雲尓 伊理比祢之 今夜乃月夜 清明己曽
訓読 渡津海(わたつみ)の豊旗雲(とよはたくも)に入日(いりひ)みし今夜(こよひ)の月夜(つくよ)清(さや)明(あけ)くこそ
私訳 船を渡すような入江の水面に豊かに棚引く雲に夕陽を見た。今夜の月夜は清らかに明るいだろう。
右一首謌、今案不似反謌也。但、舊本以此謌載於反謌。故今猶載此次。亦紀曰、天豊財重日足姫天皇先四年乙巳立天皇為皇太子。
注訓 右の一首の歌は、今案(かむが)ふるに反歌に似ず。但、旧本にこの歌を以ちて反歌に載す。故に今なほ此の次に載す。また紀に曰はく「天豊財重日足姫天皇の先の四年乙巳に天皇を立てて皇太子となす」といへり。

 さて、長歌となる集歌13の中大兄の詠う「三山の歌」に対して、『万葉集』の標題に従って集歌14と15の歌が反歌であると素直に解釈し、これらの長短歌三首は舒明天皇が香具山で国見を詠った集歌2の御製歌を踏襲していると推定しますと、これらの組歌の理解が容易になるのではないでしょうか。

天皇登香具山望國之時御製謌
標訓 天皇の、香具山に登りて望國(くにみ)したまひし時の御製歌
集歌2 山常庭 村山有等 取與呂布 天乃香具山 騰立 國見乎為者 國原波 煙立龍 海原波 加萬目立多都 怜可國曽 蜻嶋 八間跡能國者
訓読 大和には 群山(むらやま)あれど 取り装(よ)ろふ 天の香具山 騰(のぼ)り立ち 国見をすれば 国原(くにはら)は 煙立ち立つ 海原(うなはら)は 鴎立ち立つ うまし国ぞ 蜻蛉島(あきづしま) 大和の国は
私訳 大和には多くの山々があるが、美しく装う天の香具山に登り立って国見をすると、国の平原には人々の暮らしの煙があちこちに立ち登り、穏やかな海原にはあちこちに鴎が飛び交う。立派な国です。雌雄の蜻蛉が交ふような山波に囲まれた大和の国は。

 一方、元暦校本・類聚古集・紀州本等の解釈のように標題に対して「中大兄 三山謌一首」と「一首」の二文字を追記して集歌13の歌と集歌14と15の歌とには関連性を見ないとする立場もあります。そのような解釈では、当然、集歌13の三山の歌、集歌2の舒明天皇の御製、標題で反歌と題された集歌14と15の歌には、それぞれに関連性がないことになります。それは当たり前であって、集歌15の歌に付けられた左注の示す疑問を解消するために「中大兄 三山謌一首」と「一首」を追記して解釈し、関連性を切り捨てたのですから、そのようにならなければ支離滅裂です。解釈に合わせて語字を追記して、それでいてその目的が果たせないのでは子供の遊びになってしまします。
 おおよそ、集歌15の歌の左注は紀貫之たちによって付けられたものでしょうが、平安時代初期の段階では集歌15の短歌が集歌13の長歌が詠う大和の三山に対する反歌とは思えなかったのでしょう。現在の万葉集研究者が指摘するように大和にはため池のような湖水や湿地帯があったにせよ、琵琶湖や古代の巨椋池のような大きな湖はなかったとします。つまり、詠うべき湖水面がないことになります。それで集歌15の歌が大和の三山を詠う長歌の反歌として相応しくないとの判断です。
 そのような背景から、『万葉集』が好きな御方はご存知のように、およそ、集歌14の歌とは播州印南野の風景を詠ったものであり、集歌15の歌は斉明天皇・葛城皇太子の朝鮮出兵の一環である九州への航海での播磨から讃岐への渡海の一風景を詠ったものと解釈されています。およそこの解釈は「中大兄 三山謌一首」と「一首」の二文字を追記して集歌13の歌と集歌14と15の歌とには関連性を見ないとする立場を取る元暦校本等の解釈に沿ったものです。
 現代の常識的には、大和の香具山からは海原は見えないから、集歌15の歌での「渡津海の豊旗雲に」の風景は大和の国ではないと判断しますし、詠われた歌の時代推定から「百済の役」での斉明天皇・葛城皇太子の朝鮮出兵での播磨灘の一場面としています。そのために、集歌13の三山の歌と集歌15の歌との間には、関連性が無いことになります。そして、集歌15の歌が播磨灘の歌であるならば、集歌14の歌での「伊奈美國波良」は、「否なみ国原」や「稲美国原」ではなくて、播州の「印南国原」でなくてはならなくなります。これが伝統の解釈です。そして、この解釈ですと、奈良時代の編纂者の解釈ではなく、平安時代の左注を付けた評釈者と視線は一致します。ただし、その時、左注の「今案不似反謌也。但、舊本以此謌載於反謌。故今猶載此次」の文が示すように奈良時代の解釈とは違うものであることが確定します。さらに国文学の研究者に大笑いされてしまいますが、これらの解釈の背景には「中大兄=天智天皇」との暗黙の了解があり、集歌13の歌が詠われたのが「後岡本宮御宇天皇代 天豊財重日足姫天皇=斉明天皇」の時代である。従って、百済の役の時の出来事であろうとの推定が存在します。当然、日本書紀の記事に従って「中大兄=天智天皇」が否定されると、歌の解釈の根底は崩れます。つまり、一般に紹介される解釈は無理筋であり、誤解釈である可能性が非常に高いと云うことです。

 ここで、集歌2の舒明天皇の御製歌の世界が、万葉集の歌が詠われた時の大和の人々の間にあるのなら、集歌15の歌での「渡津海の豊旗雲」の風景は香具山や明日香から眺めた大和の風景となり、播磨灘の景色である必要はなくなります。すると、集歌13の三山の歌と集歌15の歌とが明日香から眺めた大和の風景ですと、集歌14の歌もまた大和の風景に成らざるを得ません。つまり、集歌2の舒明天皇の御製歌の世界が存在するならば、長歌の集歌13の三山の歌とその反歌となる集歌14と15の歌とは関連を持ち、集歌2の御製歌の世界と同じ「明日香の大和の風景」を元に詠っていることになります。
 集歌15の歌が詠われてから三十年ほど後の風景ですが、人々は飛鳥の前野の様子を次のように詠っていますから、藤原京建設の時に当たっても相当な湿地帯であったことは確かなようです。

壬申年之乱平定以後謌二首
標訓 壬申の年の乱の平定せし以後(のち)の謌二首
集歌4260 皇者 神尓之座者 赤駒之 腹婆布田為乎 京師跡奈之都
訓読 皇(すめらぎ)は神にし坐(ま)せば赤駒し腹這ふ田(た)為(い)を京師(みやこ)と成しつ
私訳 天皇は神であられるので、赤馬が腹をも漬く沼田を都と成された。
右一首、大将軍贈右大臣大伴卿作
注訓 右の一首は、大将軍にして贈右大臣大伴卿の作れる

集歌4261 大王者 神尓之座者 水鳥乃 須太久水奴麻乎 皇都常成通 (作者不詳)
訓読 大王(おほきみ)は神にしませば水鳥のすだく水沼(みぬま)を皇都(みやこ)と成しつ (作る者は詳(つばび)かならず)
私訳 大王は神であられるので、水鳥が棲みかとする水沼を都と成された。
右件二首、天平勝寶四年二月二日聞之、即載於茲也
注訓 右の件の二首は、天平勝寶四年二月二日に之を聞く、即ち茲(ここ)に載せるなり

 これらの歌からの帰結的に、集歌14の歌は集歌2の舒明天皇の御製歌の国見の国原に対応する稲穂の美しい立ち見を行うときの国原を誉める歌であり、集歌15の歌は海原(=大湿地帯)を誉める歌に近いものになります。集歌2の舒明天皇の御製歌の世界を虚構とみるか、自然風景と見るかで、万葉集巻一全体の解釈は大きく違います。
 大口叩きになりますが、普段に目にする万葉集の解説では集歌1の雄略天皇の御製や集歌2の舒明天皇の御製を理解していないと判断されます。それは平安時代の貴族が集歌15の歌に左注で「自分の理解とは違うが、反歌とするのがオリジナルの編纂」と困惑しているのと同じか、困惑をしていない分、さらに理解不足です。それで、集歌13の三山の歌も理解不能に陥っているのです。

 さて、日本書紀の天智天皇紀を見てみると次のような記事があります。

天智天皇六年(667)の記事
原文 春二月壬辰朔戊午。合葬天豊財重日足姫天皇与間人皇女於小市岡上陵。是日、以皇孫大田皇女葬於陵前之墓。高麗・百済・新羅、皆奉哀於御路。
訓読 春二月の壬辰の朔戊午。天豊財重日足姫天皇と間人皇女とを小市岡(をちのをかの)上陵(うへのみささぎ)に合せ葬(かく)せり。是の日に、皇孫(みまご)大田皇女を陵(みささぎ)の前の墓に葬す。高麗・百済・新羅、皆御路(おほち)に哀(みね)奉る。

 現在の専門家がする百済の役での「白村江の戦い」の評価において、まっとうな社会人の持つ常識的な戦史や戦術からの視線と常識からは大いに疑問はありますが、この天智天皇六年の記事からは白村江の戦いが過去となった天智六年の段階で、唐支配下の高麗と百済の代表と独立国新羅の代表とが、大和国の明日香で国運を賭けて大和との同盟を結べく、その外交を繰り広げていたことを推測することが出来ます。そして、歴史書は唐支配下の高麗と百済に肩入れしていた天智・大友朝が倒れ、朝鮮半島不介入政策を貫いた天武・持統朝の時代に、韓半島の独立国である新羅が南朝鮮半島の統一を果たしたことを伝えます。
 また、日本書紀には斉明天皇の時代に次のような記事を見ることが出来ます。

斉明天皇元年(655)の記事
是歳、高麗・百済・新羅並遣使進調
斉明天皇二年(656)の記事
是歳。於飛鳥岡本更定宮地。時高麗・百済・新羅並遣使進調

 こうしたとき、集歌13の歌は、朝鮮半島での覇権を賭けて唐の意向を受けた百済とそれに対抗する新羅とが大和の国を取り合っていたとする解釈は出来ないでしょうか。つまり、香具山を百済国、耳成山を新羅国、そして畝傍山を大和国と見立てることは出来ないでしょうか。そして、その時、大和盆地には地質調査記録が示すように大湿地がひろがり、その大湿地を囲むように深田の水田が広がっていたのではないでしょうか。

集歌13 高山波 雲根火雄男志等 耳梨與 相諍競伎 神代従 如此尓有良之 古昔母 然尓有許曽 虚蝉毛 嬬乎 相挌良思吉
訓読 香具山(百済)は 畝傍(うねび)(大和)を雄々(をほ)しと 耳成(みみなし)(新羅)と 相争ひき 神代より 如(かく)にあるらし 古(いにしへ)も 然(しか)にあれこそ 現世(うつせみ)も 妻(の座)を 争ふらしき
私訳 香具山(百済)は畝傍山のように大和の国を男らしい立派な国であると耳成山(新羅)と相争っている。神代も、このような相手の男性の奪い合いがあったとのことだ。昔もそのようであったので、現在も百済と新羅が、そのように同盟国としての妻の座を争っているのだろう。

集歌14 高山与 耳梨山与 相之時 立見尓来之 伊奈美國波良
訓読 香具山(百済)と耳成山(新羅)と相(あひ)し時立見に来(き)らしいなみ国原(くにはら)
私訳 香具山である百済と耳成山である新羅が対面したときに、その様子を立ちて見に来た。稲穂の美しい大和の平原よ。

集歌15 渡津海乃 豊旗雲尓 伊理比祢之 今夜乃月夜 清明己曽
訓読 渡津海(わたつみ)の豊旗雲(とよはたくも)に入日(いりひ)みし今夜(こよひ)の月夜(つくよ)清(さや)明(あけ)くこそ
私訳 船を渡すような入江の水面に豊かに棚引く雲に夕陽を見た。今夜の月夜は清らかに明るいだろう。


 ところで最初にも紹介しましたが、集歌13の長歌の標題に「中大兄 三山謌」とあります。ではさて、この「中大兄」とは誰を指すのでしょうか。慣習的に「中大兄」とは天智天皇の別称であるとの解釈もありますが、それは学問的には確定した事柄ではありません。天皇家や有力豪族家のそれぞれの一族の後継者の中で二番目に有力な候補者と云うのが「中+大兄」としての解釈です。
 そうした時、日本書紀には次のような文章があり、天智天皇は葛城皇子と云う名が正式な名前です。「中大兄」ではありません。

二年春正月丁卯朔戊寅、立寶皇女為皇后。后生二男一女。一曰葛城皇子。近江大津宮御宇天皇。二曰間人皇女。三曰大海皇子。淨御原宮御宇天皇。夫人蘇我嶋大臣女法提郎媛、生。更名大兄皇子。又娶吉備國蚊屋采女、生蚊屋皇子。

 さらにこの文から判るように、古人皇子=大兄皇子は夫人の御子であって、皇后の御子ではありません。古代では生まれの順番に長男、次男のように名称を与えるのではなく、生母の身分や出身により生まれてきた御子の立場が決まります。従いまして、夫人の御子でも長男だから大兄、皇后の御子でも次男だから中大兄となるなどと云うことはありません。
 では、集歌13の歌を詠った中大兄とは誰か?
 結論だけを紹介しますと、この中大兄は有馬皇子であろうと思われますし、集歌13の歌が詠われたのは斉明天皇二年のことと思われます。ただ、この推論の過程は長いので、別の機会に紹介致します。

 で、国文の研究者のお方、もう、これで「日本書紀を読んでないとか、万葉集を理解していない」などと大笑いはしないですよね。
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万葉雑記 色眼鏡 百二二 高田女王の歌を鑑賞する

2015年06月13日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 百二二 高田女王の歌を鑑賞する

 今回は高田女王の歌を鑑賞します。万葉集には短歌七首が載せられ、そのうち六首が大原今城に贈った相聞歌です。

高田女王謌一首  高安之女也
標訓 高田(たかたの)女王(おほきみ)の謌一首  高安の女(むすめ)なり
集歌1444 山振之 咲有野邊乃 都保須美礼 此春之雨尓 盛奈里鶏利
訓読 山吹し咲きたる野辺(のへ)の壷菫(つぼすみれ)この春し雨に盛(さか)りなりけり
私訳 山吹の花が咲いている野辺に咲く壷菫。この春の雨に遇って花盛りになったことです。

高田女王贈今城王謌六首
標訓 高田女王(たかたのおほきみ)の今城王(いまきのおほきみ)に贈りたる謌六首
集歌537 事清 甚毛莫言 一日太尓 君伊之哭者 痛寸取物
訓読 事(こと)清くいたも言ひそ一日(ひとひ)だに君いし無くは痛(いた)き招(まね)もの
私訳 貴方が為されたことを繕って言わないで下さい。一日だけでも貴方がいらっしゃらないことは私には辛い出来事です。

集歌538 他辞乎 繁言痛 不相有寸 心在如 莫思吾背
訓読 他辞(ほかこと)を繁み言痛(こちた)み逢はずありき心あるごとな思ひ我が背
私訳 他人の噂話がひどく煩わしいので逢わないでいました。他の人に思いを寄せているとは思わないで下さい。私の愛しい貴方。

集歌539 吾背子師 遂常云者 人事者 繁有登毛 出而相麻志呼
訓読 吾が背子し遂げむと云はば人事(ひとこと)は繁くありとも出でて逢はましを
私訳 私の愛しい貴方が恋の思いを遂げると云うのでしたら、人がするべき雑用が沢山あっても出かけて来て私に逢うでしょうに。

集歌540 吾背子尓 復者不相香常 思墓 今朝別之 為便無有都流
訓読 吾が背子にまたは逢はじかと思へばか今朝(けふ)し別れしすべなかりつる
私訳 私の愛しい貴方に再び逢うことがあるでしょうかと思うからか、今朝の貴方との別れがどうしようもなく切ない。

集歌541 現世尓波 人事繁 来生尓毛 将相吾背子 今不有十方
訓読 この世には人事(ひとこと)繁し来む生(よ)にも逢はむ吾が背子今ならずとも
私訳 この世の中は人がするべき雑用が沢山ある。この世だけでなく来世でも逢いましょう。私の愛しい貴方。今でなくても。

集歌542 常不止 通之君我 使不来 今者不相跡 絶多比奴良思
訓読 常やまず通ひし君が使(つか)ひ来ず今は逢はじとたゆたひぬらし
私訳 いつも絶えることなく私の許に通ってきた貴方の前触れの使いが来ません。今は私に逢わないと貴方の気持ちが揺らいでいるのでしょう。

 さて、高田女王は天武天皇の後胤にあたり、祖父が長皇子、父親が高安王です。この高田女王の父親である高安王は『続日本紀』と『万葉集』とで紹介される人物像が違います。
 まず、高田女王の父親である高安王について正史及び『万葉集』の標題や左注の記事から人物像を探ってみますと、正史などに表れる高安王の姿は和銅六年に従五位上に叙任され、養老三年以前に伊予守に任官した上で四国の按察使として阿波国・讃岐国・土佐国を管轄しています。その後、天平二年頃に攝津大夫(正五位上相当官)に、同四年に衛門督(正五位上相当官)に就任しています。その後、聖武天皇のゆかりの県犬養三千代と新田部親王の葬儀に関わっています。天平十一年には、高安王から大原真人に氏姓(うじかばね)が変っています。そして、天平十四年に正四位下の位で死去しています。なお、紹介しました官位が大宝律令に従うものですと、正四位下と云う位は正式には浄冠正肆位下と云う皇親諸王にだけに与えられるものであり、臣民の官位とは別体系のもので、臣民であれば正冠正二位相当の非常に高い位となります。
 一方、『万葉集』では集歌3098の歌の左注の記事からしますと紀皇女との不倫により伊予守に左遷されたことになっています。

集歌3098 於能礼故 所詈而居者 総馬之 面高夫駄尓 乗而應来哉
訓読 おのれゆゑ罵(の)らえに居(を)れば青馬し面高(おもたか)夫駄(ふた)に乗りに来(く)べきや
私訳 お前のために叱責を受けているのだから、青馬でも鼻面を上げた荷役に使うような駄馬に乗って私の許に来て良いものでしょうか。
漢文 右一首、平群文屋朝臣益人傳云、昔聞、紀皇女竊嫁高安王被嘖之時、御作歌。但、高安王、左降任伊与國守也。
注訓 右の一首は、平群文屋朝臣益人の傳へて云はく「昔に聞くには、紀皇女(きのひめみこ)、竊(ひそか)に高安(たかやすの)王(おほきみ)と嫁(あ)ひて嘖(ころ)はえらえし時、御(かた)りて作らしし歌」といへり。但し、高安王は、左降して伊与國守に任けらゆ。


 ところが、先に紹介したように正史に載る高安王は、中堅ところの行政官として順調な昇進をしていますし、飛鳥時代から前期平城京時代の伊予守兼按察使は四国では重要な役職です。そのため臣民では従五位上から正五位下の位を持つ官僚では左遷先とはならず、栄進とも云える地位です。按察使は時に従四位格の職です。従いまして、集歌3098の歌の左注の記事は奈良時代の律令政治を前提にした場合、不思議な注釈となります。なお、平安時代中後期のように任官しても赴任しない遥任を前提とした場合は、実際に伊予守として赴任したことが遠流刑のような感覚となり、「左降」と云う言葉を使ったのかもしれません。
 なお、高安王は宮中の歌サロンで宮中女官や女房たちと次のような性的に際どい歌を交わしていますから、そのような性格からの創作がされたのかしれません。ここで鮒とは生きのいい男性のシンボルで、藻とは、ズバリ、男性の陰毛を意味します。集歌625の歌とはそのような猥歌です。

高安王裹鮒贈娘子謌一首  高安王者後賜姓大原真人氏
標訓 高安王の裹(つつ)める鮒を娘子(をとめ)に贈れる謌一首  高安王は、後に姓(かばね)大原真人の氏(うぢ)を賜へり
集歌625 奥弊徃 邊去伊麻夜 為妹 吾漁有 藻臥束鮒
訓読 沖辺(おくへ)往(い)き辺(へ)を去(い)き今や妹しため吾が漁(すなど)れる藻(も)臥(ふ)し束鮒(つかふな)
私訳 沖に出たり岸辺を行ったりして、たった今、愛しい貴女のために私が捕まえた藻の間に隠れていた一握りの鮒です。


 一方、インターネット情報によりますと平群文屋朝臣益人と云う名が天平十七年の正倉院文書に残っているとのことですので、高安王と平群文屋朝臣益人とはほぼ同時代人となります。その平群文屋朝臣益人が「昔聞、紀皇女竊嫁高安王被嘖之時、御作歌」と語っているのは興味があるところです。
 また、その高安王は『万葉集』からしますと大伴旅人と親交が深かったと思われます。そして、歌の感覚からは大伴旅人が贈る規定に沿った朝服さえも粗末ではないかと心配するほどに高貴なお方で、おしゃれだったと思われます。なお、この時の袍は赤紫で染められた絹布を使います。

大納言大伴卿新袍贈攝津大夫高安王謌一首
標訓 大納言大伴卿の新しき袍(うへのきぬ)を攝津大夫(つのたいふ)高安王(たかやすのおほきみ)に贈れる謌一首
集歌577 吾衣 人莫著曽 網引為 難波壮士乃 手尓者雖觸
訓読 吾が衣(ころも)人にな著(き)せそ網引(あびき)する難波(なには)壮士(をとこ)の手には触るとも
私訳 私が送る任官の祝いの官衣を他の人には着させないで下さい。海辺で網を引く難波の男達がこんな粗末な衣はきっと自分の物だとして触れ汚したとしても。


 父親の高安王についてはこのように性格や生涯がある程度は判るのですが、その娘である高田女王については一切が不明です。
 その高田女王の恋の相手は先に示した歌の標題からしますと、今城王です。ところが、この今城王もまた良く判らない人物です。高安王は天平十一年に臣籍降下をし、大原真人の氏姓に変わっています。従いまして大原真人と云う氏姓は高安王を祖とする一族のものとなるはずです。

古謌一首(大原高安真人作) 年月不審。但随聞時記載茲焉
標訓 古謌一首(大原高安真人の作)
年月は審(つばひ)らかならず。但し、聞きし時のまにまにここに記し載す。
集歌3952 伊毛我伊敝尓 伊久里能母里乃 藤花 伊麻許牟春毛 都祢加久之見牟
訓読 妹が家に伊久里の杜(もり)の藤し花今(いま)来(こ)む春も常(つね)如此(かく)し見む
私訳 愛しい貴女の家に行く、その伊久里の杜にある藤の花よ、今やって来た春も、いつもこのように眺めましょう。
右一首、傳誦僧玄勝是也
注訓 右の一首は、傳へ誦(よ)めりは、僧玄勝これなり。

 そうしたとき、集歌519の歌の標題からしますと今城王は大伴郎女の子にあたり、その今城王は後に大原真人の姓を朝廷か賜っていますから、高安王一族に養子として入ることを許されたのかもしれません。または、高田女王の父親である高安王が大伴郎女に産ませた子供だったのかもしれません。判ったような判らない話です。今城王は王の敬称を持ちますから父親は皇親でなくてはいけません。従いまして、父親はやはり高安王でしょうか。

高田女王謌一首  高安之女也
標訓 高田(たかたの)女王(おほきみ)の謌一首  高安の女(むすめ)なり
集歌1444 山振之 咲有野邊乃 都保須美礼 此春之雨尓 盛奈里鶏利
訓読 山吹し咲きたる野辺(のへ)の壷菫(つぼすみれ)この春し雨に盛(さか)りなりけり
私訳 山吹の花が咲いている野辺に咲く壷菫。この春の雨に遇って花盛りになったことです。

大伴女郎謌一首  今城王之母也、今城王後賜大原真人氏也
標訓 大伴(おおともの)女郎(いらつめ)の謌一首  今城王の母なり、今城王は後に大原真人の氏(うぢ)を賜れり。
集歌519 雨障 常為公者 久堅乃 昨夜雨尓 将懲鴨
訓読 雨(あま)障(つつ)み常する君はひさかたの昨夜(きぞのよ)し雨に懲(こ)りしけむかも
私訳 雨の日は家に閉じ籠ることをいつもなさる貴方は、遥か彼方から降り来る昨夜の雨にすっかり懲りてしまったのでしょうか。


 おまけとして、この今城王は大伴女郎を母とする関係からか、大伴家持とは親しい関係があったようです。

七月五日、於式部少輔大原今城真人宅、餞因幡守大伴宿祢家持宴謌一首
標訓 七月五日に、式部少輔大原今城真人の宅(いへ)にして、因幡守大伴宿祢家持を餞(はなむけ)して宴(うたげ)せし謌一首
集歌4515 秋風乃 須恵布伎奈婢久 波疑能花 登毛尓加射左受 安比加和可礼牟
訓読 秋風の末吹き靡く萩の花ともにかざさず相(あひ)か別れむ
私訳 秋風が枝先に吹いて靡く萩の花、その花枝を共にかざしましょう。これから互いに別れて行くのだから。
右一首、大伴宿祢家持作之
注訓 右の一首は、大伴宿祢家持の之を作れり

 このような関係からか、二人は丹比国人の指揮のもと原万葉集の編纂作業を共同して執ったと思われます。歴史ではこの大原今城の孫に大原清子がおり、清子は嵯峨天皇の妃として入内します。源氏物語ではこの時、嵯峨天皇は四巻本万葉集を編ませたと記します。大原清子が嵯峨天皇の室に入ったことから考えますと、父親である大原家継の母親の格も高かったと思われますから、場合により家継の母親は高田女王であったかもしれません。
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