竹取翁と万葉集のお勉強

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万葉雑記 色眼鏡 その壱 持統天皇と葛野王を考える

2012年09月09日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 その壱 持統天皇と葛野王を考える

 万葉集の特徴として他の古典和歌集とは違い、載せられる歌には生活や事件を詠うものが含まれています。そのため、万葉集を鑑賞する時、当時の風習や社会状況をどのように解釈するかが重要な課題となります。
 そうした時、古代最大の王都である藤原京を建設したとされる持統天皇について、解釈することを欠くことは出来ません。その持統天皇について考察する時、その諱の起因とも云える持統天皇と孫、軽皇子(即位して、文武天皇)との関係、皇統を継ぐと云う問題を外すことは出来ません。この皇統を継ぐと云う視点で歴史を考える場合、高市皇子の逝去の後の持統天皇が招集したと云う宮中御前会議が重要な歴史の要点となります。
 持統天皇の皇統を継ぐと云う問題の解釈と説明について、白川静氏の著書「初期万葉集」に次のような一節があります。

「『懐風藻』の葛野王略伝に、高市が薨じたときの宮中御前会議の様子がしるされている。その衆議紛々たるとき、葛野王が率先して『人事を以ちて推さば、聖嗣自然に定まれり』として、暗に女帝の意中の人である軽皇子を推した。このとき発言しようとした弓削を、葛野王は叱咤して口を封じたが、弓削はおそらくその同母兄長皇子を推挙しようとしたのであろう。持統は葛野王のはたらきを嘉して、『特閲して正四位を授け、式部卿に邦したまうと』という」

 実は歴史に於いて持統天皇と孫、軽皇子との関係を示すものとしては懐風藻に載る葛野王略伝(以下、懐風藻の序から「爵里」とします)ぐらいと思われ、そこからの想像やそれを下にした小説からかしか、その関係を覗い知るしか出来ません。つまり、我々が知る軽皇子へと皇統を継ぐ持統天皇の姿は、葛野王の爵里からの想像を膨らませたものです。そのため、持統天皇の人物像を考察するとき、葛野王の爵里を正しく読むことが重要になります。おおむね、飛鳥・奈良時代を解釈するとき、持統天皇の姿と影響力を認めますと、葛野王の爵里の解釈が重大な歴史での認識問題を孕むことになります。
 そこで、万葉集の時代の歴史解釈の原点に立つために、最初に懐風藻に載る葛野王の爵里の原文と訓読みを紹介します。
原文;
王子者、淡海帝之孫、大友太子之長子也。母淨御原之帝長女十市內親王。器範宏貌、風鑒秀遠、材稱棟幹、地兼帝戚、少而好學、博涉經史、頗愛屬文、兼能書畫。淨原帝嫡孫、授淨太肆、拜治部卿。
高市皇子薨後、皇太后引王公卿士於禁中、謀立日嗣。時群臣各挾私好、衆議紛紜。王子進奏曰、「我國家為法也、神代以此典。仰論天心、誰能敢測。然以人事推之、從來子孫相承、以襲天位。若兄弟相及、則亂。聖嗣自然定矣。此外誰敢間然乎」弓削皇子在座、欲有言。王子叱之乃止。皇太后嘉其一言定國、特閱授正四位、拜式部卿。時年三十七。
訓読;
王子は淡海帝の孫、大友太子の長子なり。母は淨御原の帝の長女十市內親王なり。器範は宏貌、風鑒は秀遠にして、材は棟幹に稱ひ、地は帝戚を兼ぬ。少くして學を好み、博く經史に涉る。頗る文を屬することを愛し、兼ねて書画を能くす。淨原帝の嫡孫にして淨太肆を授けられ、治部卿を拜せられる。
高市皇子薨じて後、皇太后、王公卿士を禁中に引きて、日嗣を立てむことを謀る。時に群臣は各私好を挾みて、衆議紛紜たり。王子進奏して曰く「我國家の法たるや、神代より此の典を以つて、仰いで天心を論す。誰か能く敢へて測らむ。然も人事を以つて之を推さば、從來子孫相承して、以て天位を襲ぐ。若し兄弟相及ぼさば、則ち亂れむ。聖嗣、自然に定まれり。此の外誰か敢へて間然せむや」と。弓削皇子座に在り、言ふこと有らむと欲す。王子これを叱して乃ち止む。皇太后、其の一言にて國を定むることを嘉して、特閱して正四位を授け、式部卿に拜す。時に年三十七。

 最初に、葛野王は正史には続日本紀に慶雲二年(七〇五)十二月丙寅の記事に「正四位上葛野王卒」とだけ記されるだけで、それ以外の情報はありません。この懐風藻に載る葛野王の爵里が大きな情報源となっています。
さて、紹介した懐風藻に載るこの葛野王の爵里を冷静に読んでください。皆さんには多くの疑問が湧くはずです。
 まず、爵里では葛野王は「淨原帝嫡孫」の立場での進奏となっていますが、これは間違いです。正しい漢文表記ですと嫡孫(正妻の児からの孫)の表記ではなく、嬪孫(嫁いだ娘からの孫)の表記となります。本来、葛野王は「淨原帝嬪孫」と表記される外孫の身分です。ただ、歴史と正確な姻戚関係を知らないと、この段階でだまされます。まず、改纂者は意図して誤記を行っています。
 さらに爵里では「特閱授正四位、拜式部卿」と記します。ところが同時に「授淨太肆、拜治部卿」とも記します。これらの記事で宮中御前会議の時、葛野王は淨太肆以上の位を持ち、治部卿であった(または経験していた)と思われます。つまり、葛野王は「卿」の身分相当であったと考えられます。ところが、現在、広く流布している説明では官位において「淨太肆」の位を「従五位上」相当と紹介しますから、「特閱授正四位」の意味を従五位上から正四位への五階級特進と解釈します。では、その五階級特進と理解する根拠となる浄御原令の「淨太肆」の位は養老令の「従五位上」相当と考えて良いのでしょうか。
 ここで広く流布している「淨太肆」を「従五位上」相当とする背景を説明しますと、浄御原令では皇孫・諸王の官位は明大壱から浄広肆までの十二階があります。これが、大宝令では皇孫と諸王とは分離され、諸王は浄冠正壱から浄冠従五位下までの十四階に変更となっています。話題の「淨太肆」は浄御原令では下から二番目です。この時、大宝令での諸王に与えられる官位で下から二番目を求めると「浄冠従五位上」となります。つまり、従来の説明者は浄御原令と大宝令とでは適応される官位は、その表記を変えただけで内容は同じと解釈していることになります。ここからの「従五位上」相当の判断です。ただし、従来の説明においても、大宝令での諸王にしか与えられない「浄冠従五位上」と奈良時代後期以降の養老令の官人全員への「従五位上」とは、全く違う叙位体系での官位であることを知っておいて下さい。大宝令と養老令では官位表が違います。
 さて、浄御原令や大宝令では皇孫・諸王と臣民では官位制度は別の系列で扱うため、養老令以降の皇孫・諸王と臣民とを同一とする官位制度と単純に比較をすることは出来ません。例えば、大宝令では皇孫・諸王の最下位の官位は浄冠従五位下であり、その朝服は臣民の正冠正二位から正冠従三位の者と同じ朝服色の官衣を着ることになっています。朝礼では浄冠者は臣民の卿に相当する身分です。
 参考に続日本紀の大宝元年三月甲午の記事からすると、正式には「授左大臣正広弐多治比真人嶋正正二位」と記すように、正冠正二位は正正二位と表記したようです。ただし、この記事以降、続日本紀では浄正三位、正正三位、直正四位などとは記述せずに、「浄」、「正」、「直」の身分区分を省略して記すために非常に判りにくいものになっています。このため「従五位○○王」とある場合は、当時の官人と同じように「浄冠従五位○○王」と理解して、それは臣民の正冠従三位相当の身分と理解する必要があります。
 ここで、皇孫・諸王と臣民との官位を単純に比較出来ないために、日本書紀から官職と官位の例を考察してみます。例として大宰師を取り上げます。養老律令の官位令では、この大宰師は従三位の役職です。就任例として浄御原宮から藤原宮の時代では浄広肆河内王や浄広肆三野王が大宰師に就任しています。つまり、ここからの類推で、およそ、皇孫・諸王の官位「浄広肆」は臣下の官位「正冠従三位」相当と考えても良いのではないでしょうか。これを覗わせるものに日本書紀の天武天皇五年九月丁丑の条に「筑紫大宰三位屋垣王」と云う記事があります。当然、天武朝は浄御原令の時代ですから「三位」と云う官位は存在しません。後年に改纂したときに紛れたものですが、改纂者は屋垣王の官位を三位相当と解釈したと思われます。
 およそ、浄御原令の「淨太肆」は大宝令では「浄冠四位」相当です。就く役職は臣民官位では「正冠三位」相当になりますので、葛野王の身分は「特閱」されての「正四位」ではないことがわかります。単に、大宝令施行により「淨太肆」を「浄冠正四位上」に読み替えただけとなります。これは特別待遇とはなりません。続日本紀によると、大宝令施行時に太政官は諸王十四人と諸臣百五人に対して、浄御原令からの切り替えで、その時の地位に応じて浄御原令と大宝令との官位区分のギャップを埋めるために位階を昇進させています。これは令施行での行政手続き上のことで、特別待遇ではありません。よしんば、浄御原令の「淨太肆」が大宝令の「浄冠正四位上」に相当しなくても、「特閱」の言葉を受け入れるためには治部卿経験者に対しての「浄冠正四位上」の待遇であったのか、どうかを検討する必要があります。
 当然、天平勝宝年間に懐風藻を編纂したのであれば、まだ、天平宝字元年(757)に施行された養老律令は公布されていません。従って、建前として懐風藻の載る記事は大宝令を下に官位を理解し、記述しているはずです。それなのに懐風藻に載るこの記事は、改纂者が「読者は浄御原令や大宝令の官位規定を知らないだろう」として記述しているとしか解釈できません。

 さて、ここまでは懐風藻に載る記事が、まるで懐風藻が編纂された当時のものとしてのように説明して来ました。厳密なことを云うと紹介した懐風藻の原文は現在に伝わるものを使用していて、本来の原文と同じものか、どうかは、現在では誰も判断が出来ません。
 実は、現在に伝わる懐風藻は奈良時代、天平勝宝年間に編纂されたものと同じかと云うと、そうではない可能性が非常に高いのです。序文を見て頂ければ判りますが、現在に伝わる懐風藻では序文の内容と本文となる内容物とが一致しません。そのため、懐風藻の漢詩研究者は懐風藻に載る漢詩を鑑賞・研究の対象にしても、歴史解釈の資料には使用しません。また、歴史解釈の第一次資料には使用できないことを知っています。漢詩の鑑賞・研究において懐風藻の爵里に「いかがわしさ」があっても漢詩文自体には実害はありませんし、その爵里は対象外の物です。そのため懐風藻の漢詩研究者にとって、爵里の正誤は彼らの学問分野では重要な事項ではありません。ただ、序文や爵里に対する「いかがわしさ」の存在が既知なだけです。
 問題は懐風藻の持つ「いかがわしさ」を知らない「歴史の専門家」による摘み食いです。いかがわしい資料からの摘み食いで歴史を解釈されると、「歴史の専門家」による実害が発生します。
 懐風藻に載る葛野王爵里は、改纂者が「読者は浄御原令や大宝令の官位規定を知らないだろう」として記述していると推定されます。こうした時、現代の「専門家」の立場は、どうでしょうか。インターネットが発達した条件下では、古典の原文の入手は非常に容易になっています。また、原文に対する訓読や解説なども、多く、インターネット上で入手が可能になりました。さらに学際研究のスタイルが進み、特定分野の権威が旧来のようにその分野を権威によって新説や対立説を押さえることが困難になって来ています。

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官位の理解 (しらかべ)
2018-07-26 07:06:06
やっとここまでたどり着きました
---「読者は浄御原令や大宝令の官位規定を知らないだろう」として記述している---
とありますが、当方には理解不能な官位などの話からなのでこれは800年代以後の読者を対象の お話 として理解してもよろしいものでしょうか。
ご来場のお礼 (作業員)
2018-07-28 07:06:04
いつも、ご来場していただきありがとうございます。
ご承知のように日本書紀の天武天皇紀や持統天皇紀は養老律令以降の官位規則を使い、記述している部分があることは有名です。
日本後記や日本紀私記の記事からしますと、桓武天皇から嵯峨天皇の時代に、そのような新しい歴史観で歴史の校訂が行われたようです。しかしながら、当時の読者(天皇)が飛鳥浄御原令・大宝律令に精通していたでしょうか、また、平城天皇の例を踏まえて淳和天皇が新しい歴史に異を唱えることができたでしょうか。
歴史は「是以官禁而令焚」と、その新しい朝廷の歴史と異なる歴史書は没収・焚書されたと記述します。当然、日本史の専門家はここで示したことは知っています。
弊ブログはこのような歴史観で万葉集を楽しんでいますが、一般には特異な解釈となります。
質問の答えとしては、その当時の人びととそれ以降の人びとです。それが新しい歴史に校訂した目的です。
日本紀から日本書紀 (しらかべ)
2018-08-01 17:28:48
 続日本紀によると、種継暗殺事件の直後の延暦4年(785年)11月条と6年11月条に、「天神を交野に祀る」とあり、中国の天子が国都の南郊に壇を築いて天地を親祭する郊祀(こうし)を現在の大阪府枚方市か交野市の地で行った。  6年の条、先帝の光仁天皇を天神と同じく祀ったとあり、光仁天皇から皇統が変わったことを強く意識していた。  郊祀を行ったのは桓武天皇が2回と、後の第55代文徳天皇が1回だけ。
文徳天皇の時も交野で行ったが、856年 文徳の時の郊祀においては、光仁以前の天皇達のうち、国忌として定めた天皇は 天智--白壁--桓武--諾楽--神野--大伴 淳和--正良 仁明--道康 文徳
このように桓武と異なるのは文徳までの間に天智が入り込んみました。 日本書紀は819年頃に現れると言う考証がありますので、この時に日本紀から日本書紀に改竄されたものと考えられそちらの云われる流れに合いますでしょうか。
御質問について (作業員)
2018-08-04 08:04:35
御質問について、弊ブログにて調べた内容を別途、万葉雑記 番外にて紹介いたします。
直接の回答にはなりませんが、弊ブログでの正史や歴史解釈を紹介していますので、そこから斟酌して頂ければ幸いです。
万葉集巻2 の不思議 (しらかべ)
2018-09-05 06:27:14
ありがとうございます。 畳み掛けて申し訳ありません。  万葉集巻2 の不思議 浅知恵をものともせず比較してみました。  巻1では13番の題詞で中大兄 本名の皇子、御歌を外して見せていました。  巻2では93-95番の歌で内大臣藤原卿として本名を伏せている。  藤原は死の枕元で与えられたもののはず、ことさらに藤原とするのはなぜ。  さらに111番では弓削皇子は額田王に贈与の歌は 御歌ではなく「歌」を与えています。  119では弓削皇子は紀皇女を思う歌は 御歌 4首 となる。 110では日並皇子には大名児と念押ししているのに対して藤原卿には安見児  そして95番 安身児得有、安見児衣多利とする念の入れよう。  103-104 では藤原夫人というのが出てきます。
このあたりの比較から万葉集編集者の意図とは何なのでしょうか   また額田王の 7-9と111-113を比較して、ホトトギスの声と113の題詞 読めないもの 
が9の莫囂円隣之に何か引っかかるのですが、どうなのでしょうか。

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