竹取翁と万葉集のお勉強

楽しく自由に万葉集を楽しんでいるブログです。
初めてのお人でも、それなりのお人でも、楽しめると思います。

万葉雑記 色眼鏡 二〇五 今週のみそひと歌を振り返る その二五

2017年02月25日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 二〇五 今週のみそひと歌を振り返る その二五

 弊ブログでは素人の怖いもの知らずと云うことで、西本願寺本万葉集の原歌に従えば万葉集に訓じが得られていない歌は無いとしています。ただし、インチキな話ですがその正誤は弊ブログではあずかり知らぬこととしています。実にいい加減で困ったものです。

 さて、古事記や万葉集でどのように扱ってよいのか難しい言葉に「月讀」と云うものがあります。伊勢内宮月讀神は弊ブログでは『皇太神宮儀式帳』に載る「月讀命。御形ハ馬ニ乗ル男ノ形。紫ノ御衣ヲ着、金作ノ太刀ヲ佩キタマフ」の記事に『日本書紀』の「因賜鞍馬。悉授軍事」の記事を重ね合わせて高市皇子を祀るものと考えていますが、一般には。天照大神(天照大御神・あまてらす)の弟神にあたり、須佐之男(建速須佐之男命・たけはやすさのお)の兄神にあたるとされています。ただ、弊ブログでは諸般の事情から伊勢内宮は天武天皇を、外宮は草壁皇子を祀ると考えていますので、日本神話での天地創造と飛鳥浄御原宮での御三方の立ち位置からすると似たものがあります。
 この月讀については日の神である天照大神と対となる夜の神であると云う説、その夜の神のシンボルから月を化身とし、そこから月の神とする説、さらには、天照大神は高天原の支配者との対比から滄海原の支配者と云う説もあります。このような所論があるために「月讀」と云う言葉は難しいとなります。

 このような難しい言葉ですが、今週は次の月讀を詠う歌を取り上げました。ここでは「月の神」として「月讀」と云う言葉を捉えています。以下の鑑賞は「月の神」と云う解釈から話を膨らませています。

湯原王謌一首
標訓 湯原王(ゆはらのおほきみ)の謌一首
集歌670 月讀之 光二来益 足疾乃 山乎隔而 不遠國
訓読 月読(つくよみ)し光りに来(き)ませあしひきの山を隔(へな)りて遠からなくに
私訳 月讀命(=月の神)、その月の神が輝かせる月明りを頼りにやって来て下さい。足を引きずるような険しい山を隔てていますが、遠くはありませんから。

和謌一首  不審作者
標訓 和(こた)へたる謌一首  作る者は審(つばび)らかならず
集歌671 月讀之 光者清 雖照有 惑情 不堪念
訓読 月読(つくよみ)し光りは清く照らせれど惑(まと)へる情(こころ)甚(あ)へず念(おも)ほゆ
私訳 月讀命(=月の神)、その月の神が輝かせる月明りは神の光であるが故に清らかに照らしていますが、行くべきかとの思い迷う気持ちにひどく悩んでいます。

 湯原王は志貴皇子の御子ですから天智天皇の孫にあたりますし、以前に紹介しました湯原王と娘子が宮中の宴会で歌垣のように歌を戦わせ相聞問答を行ったように、父親志貴皇子に劣らず和歌の名手です。
 その湯原王が月光美しい夜に「ある人」を宴会に誘っています。一方、「ある人」はその誘いを躊躇しています。そうした時、巻六にその湯原王が月讀と云う言葉を使って詠った歌があります。

湯原王月謌二首
標訓 湯原王の月の謌二首
集歌985 天尓座 月讀牡子 幣者将為 今夜乃長者 五百夜継許増
訓読 天に坐(ま)す月読(つくよみ)牡士(をとこ)幣(まひ)は為(せ)む今夜(こよひ)の長さ五百夜(いほよ)継ぎこそ
私訳 天にいらっしゃる月読男子よ、進物を以って祈願をしよう。七夕の今夜の長さが、五百日もの夜を足したほどであるようにと。

集歌986 愛也思 不遠里乃 君来跡 大能備尓鴨 月之照有
訓読 愛(は)しきやし間(ま)近き里の君来むと大(おほ)のびにかも月し照りたる
私訳 愛おしいと思う、間近い里に住む貴方が来るかのように、甚だ間延びしたように月が照って来た。

 この歌二首の前後に置かれた歌からしますと雰囲気的に大伴坂上郎女、豊前娘子、湯原王、藤原八束達たちが集って持たれた宴会であったようです。大伴坂上郎女が詠う集歌981の歌に「猟高の高円山」と云う句で奈良の都の東、志貴皇子ゆかりの高円山と云う地名が詠み込まれていますから、高円山近辺の屋敷で宴は持たれたのでしょうか。
 もし、湯原王が詠う集歌985や集歌986の歌が集歌670の歌と関係があるとしますと、場合により次の歌から湯原王の誘いに躊躇したのは藤原八束なのかもしれません。このような発想で集歌987の歌の初句と二句目「待難尓余為月者」に対して「為の解釈」を行いました。まず、ここでのものは正統な解釈ではありません。

藤原八束朝臣月謌一首
標訓 藤原八束朝臣の月の謌一首
集歌987 待難尓 余為月者 妹之著 三笠山尓 隠而有来
訓読 待ちかてに余(あ)がする月は妹し著(き)る三笠し山に隠(こも)りにありけり
私訳 貴方達を待ちぼうけに私がさせた、その話題の月は、まだ、恋人が著ける御笠のような、三笠山に隠れていますよ。
正統 私がこんなに待ちかねていた月は、(あの子が着る“笠”という)御笠の山に隠っていたのだなあ

 非常に馬鹿馬鹿しい解釈を下敷きとした鑑賞ですが、万葉集を俯瞰した時、時にこのような遊びができる可能性があります。



 別件ですが文末を使いまして、お礼を申し上げます。
 現代は貧乏な人間にも「書き物」を世に残すのに優しい時代になりました。その時代とサービスを利用して「書き物」を国立国会図書館と高岡市万葉歴史館に収蔵して頂くことを目的に自費出版ですが、さらに簡便なアマゾン・ペーパーバック版でISBN番号を取り、出版物の体裁を整えたものを作りました。当然、アマゾンで出版物として購入は可能ですが、目的は紹介しました二つの図書館に所蔵して頂くことです。つまり、皆様方に購入して頂けるとは、思ってもみないことです。ところが、少しは売れているようで、うれしいような、ですが、困惑しています。
 書き物は土方賀陽と云う名で出していますが、その背景はブログです。そして、元となっている弊ブログは建設作業員と云う部外者が与太話を垂れ流しているものであって、正統な学問でも、きちんとしたお金を払うようなエッセイでもありません。書き物はそれを作業員と云う個人一人で編集・校正したもので、費用の関係から専門家の目が入ったものではありません。私は日給月給の建設作業員をしており、お金の厳しさを重々承知しています。そのため、アマゾン・ペーパーバック版と云うものに大金三千円近くものお金を投じて頂くことに、非常に心苦しく思っています。
 重ねて、そのような書き物に大金を投じて頂いたお方に感謝いたすとともに、お金に見合わないことへのお詫びを申し上げます。

 最後に恥ずかしい言訳として、
 自費出版では、印刷と云うタイプを除きますと、図書館収蔵規定を満たす条件での30部程度の最小ロット部数として、制作過程を節約したとしても出版費用として約30~40万円ほどが必要です。つまり、1冊1万円程度の原価となります。それに対して大手流通出版物との比較から1冊1200~1500円程度の定価をつけてアマゾンだけでネット販売する例が大半です。ある種、記録や記念としての出版と云うことになります。
 一方、アマゾン・ペーパーバック版は出版への最低費用はPDF原稿の登録費用(約5000円)だけで、後はアマゾンが印刷実費と販売手数料を載せて、アマゾンが販売価格を設定します。つまり、一般の自費出版物では著者がほとんどの費用を負担しますが、アマゾン・ペーパーバック版では読者がほとんどの費用を負担すると云うことになっています。その差で価格が大きく違う形になっています。
 「お金はありません。でも、書き物として世に残したい」 その欲の始末がこのようなザマです。以上、言訳です。ご容赦ください。
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万葉雑記 色眼鏡 二〇四 今週のみそひと歌を振り返る その二四

2017年02月18日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 二〇四 今週のみそひと歌を振り返る その二四

 今週の鑑賞に難訓歌に分類される歌があります。ただ、その難訓歌は大伴駿河麿と大伴坂上郎女とが相聞を行い、その中で詠われた大伴駿河麿が詠う組歌三首の中の一首です。従いまして、難訓歌の解釈は相聞関係での話題に沿うものであり、かつ、大伴駿河麿が詠う組歌三首で違和感を持たない解釈でなければいけません。

大伴宿祢駿河麿謌三首
標訓 大伴宿祢駿河麿の謌三首
集歌653 情者 不忘物乎 儻 不見日數多 月曽經去来
訓読 情(こころ)には忘れぬものをたまさかに見ぬ日(ひ)数多(まね)きて月ぞ経(へ)にける
私訳 心の底では貴女を忘れるはずがないのですが、たまたま逢わない日々が重なって月が経ってしまった。

集歌654 相見者 月毛不經尓 戀云者 乎曽呂登吾乎 於毛保寒毳
訓読 相見ては月も経(へ)なくに恋(こひ)云へばをそろと吾を念(おも)ほさむかも
私訳 貴女に逢ってから一月も経ってないのに、貴女を恋い慕っていると云うと「気が軽い」と私のことを思われるでしょうか。

集歌655 不念乎 思常云者 天地之 神祇毛知寒 邑礼左變
訓読 念(おも)はぬを思ふと云はば天地し神祇(かみ)も知るさむ邑(さと)し礼(いや)さへ
私訳 慕ってもいないのに慕っていると云うと、天地の神々にもばれるでしょう。お愛想で慕っていると云うのが里の習いとしても。

大伴坂上郎女謌六首
標訓 大伴坂上郎女の謌六首
集歌656 吾耳曽 君尓者戀流 吾背子之 戀云事波 言乃名具左曽
訓読 吾しみぞ君には恋ふる吾が背子し恋(こひ)云ふ事(こと)は言(こと)の慰(なぐさ)ぞ
私訳 私だけが貴方をお慕いしているのです。私の愛しい貴方よ。「慕っている」とただ云うだけは、うわべの言葉だけの気休めです。

集歌657 不念常 日手師物乎 翼酢色之 變安寸 吾意可聞
訓読 念(おも)はじと言ひてしものを朱華(はねず)色(いろ)し変(うつろ)ひやすき吾し意(こころ)かも
私訳 貴方をお慕いすまいと誓ってみたものを、はねず色のようにすぐに変わってしまう私の気持ちです。


 この難訓歌は弊ブログで既に何度も取り上げていますが、おさらいの為に歴史的な解釈と近々の専門家の解釈を紹介致します。


藤原定家風解釈
原歌 不念乎 思常云者 天地之 神祇毛知寒 邑礼左變
訓読 おもはぬを おもふといはば あめつちの かみもしらさむ あれもとがめむ
解釈 想はぬを 想ふと言はば 天地の 神も知らさむ 吾れもとがめぬ

間宮厚司氏解釈
原歌 不念乎 思常云者 天地之 神祇毛知寒 邑礼左變
訓読 念(おも)はぬを 思(おも)ふと云はば 天地の 神祇(かみ)も知(し)らさむ 邑(くに)こそ境(さか)へ
解釈 思っていないのに思っていると言ったら天地の神もお見通しでしょう。国こそ境をつけて隔たっていますが。

 ここで、すこし後出しのインチキですが、大伴駿河麿と大伴坂上郎女との相聞の出だしの部分を紹介致します。この駿河麿は坂上郎女の二女坂上二嬢と婚姻関係があったと思われ、この相聞問答歌は坂上二嬢が嫁いでしばらくたって大伴一族の宴があり、そこで互いの消息を尋ね合ったようなものとされています。奈良の都では大伴一族は佐保近辺に住んでいたのではないかと思われますが、日々、旧旅人家の刀自や忙しい高級官僚などの立場からして頻繁に顔を合わす関係でもなかったと思われます。万葉集の作歌者の名を持つ歌はその人々の背景や社会環境を知る必要があり、そこが古今和歌集以降の和歌の鑑賞態度とは違います。

大伴宿祢駿河麿謌一首
標訓 大伴宿祢駿河麿の謌一首
集歌648 不相見而 氣長久成奴 比日者 奈何好去哉 言借吾妹
訓読 相見ずて日(け)長(なが)くなりぬこの頃はいかに幸(さき)くやいふかし吾妹(わぎも)
私訳 貴女にお逢いしないままに日々は長くなりました。この頃はいかに無事にお過ごしでしょうか。私の愛しい貴女。

大伴坂上郎女謌一首
標訓 大伴坂上郎女の謌一首
集歌649 夏葛之 不絶使乃 不通者 言下有如 念鶴鴨
訓読 夏(なつ)葛(ふぢ)し絶えぬ使(つかひ)のよどめれば言(こと)しもあるごと念(おも)ひつるかも
私訳 夏の藤蔓のように絶えることなくやって来た使いも滞ると、貴方が他の女性に愛を誓ったのだろうと確信していました。
右坂上郎女者、佐保大納言卿之女也。駿河麿、此高市大卿之孫也。兩卿兄弟之家、女孫姑姪之族。是以、題謌送答、相問起居。
注訓 右の坂上郎女は、佐保大納言卿の女(むすめ)なり。駿河麿は、この高市大卿の孫なり。両卿は兄弟の家、女孫は姑(をば)姪(をひ)の族(うから)。ここを以ちて、謌(うた)を題(しる)し送り答へ、起居を相(あひ)問(と)へり

 弊ブログではおおよそ解説していますが、弊ブログは西本願寺本万葉集に載る原歌をそのままに、改変することなく歌を歌として鑑賞していますし、短歌だからと云って鎌倉時代以降の歌一首単独で鑑賞することは、まず、しません。相聞ならばその前後の歌と併せて鑑賞しますし、反歌であれば長歌や前置漢文と共に鑑賞します。また、歌は漢語と万葉仮名と云う漢字だけで表記されたものとして使う漢字と云う文字を大切にして鑑賞します。漢字交じり平仮名歌に翻訳されたものを「定訓」と云う術語の下、テキストとして扱うことは一切しません。さらに音韻は『宋本廣韻』に示すものを尊重します。つまり、藤原定家や間宮氏とは違う方向から万葉集の歌を鑑賞しています。
 なお、弊ブログは、難訓歌読解の正誤や最適解と云うものとは距離があります。ここで提案する訓じで歌を解釈すると、私にとってその歌が楽しく、歌の風景がより想像できることが基準です。私には学問からの甲音乙音解析や古語語尾活用などの知識や理解はありません。ただ、酔論や与太話が基準です。そこは十分にご理解をお願い致します。なお、弊与太話からしますと「左變」に対する間宮氏の音韻解釈は『宋本廣韻』からすると、疑義が残る問題です。
 ただ、藤原定家の名誉からからすれば「邑礼左變」は難訓でなくてはいけません。前後の相聞和歌を持つ組歌でも「えぇ、定家って、これも訓じられないの?」では、元暦校本を重要視する校本万葉集の立場がなくなります。今回取り上げました集歌655の歌は前後の歌から内容が想像できますが、そのような指摘は「野暮」でしょう。
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万葉雑記 色眼鏡 二〇三 今週のみそひと歌を振り返る その二三

2017年02月11日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 二〇三 今週のみそひと歌を振り返る その二三

 今回は万葉集の歌ですが、ある種、掛詞の面白みを詠った歌を鑑賞します。本来ですと二週に渡る順番配置となっていますが、それを跨いで全部紹介します。

湯原王贈娘子謌二首  志貴皇子之子也
標訓 湯原王の娘子(をとめ)に贈れる謌二首  志貴皇子の子なり
集歌631 宇波弊無 物可聞人者 然許 遠家路乎 令還念者
訓読 表辺(うはへ)無きものかも人は然(しか)ばかり遠き家路(いへぢ)を還(かへ)す念(おも)へば
私訳 愛想もないのだろうか。あの人は。このように遠い家路を帰してしまうとは。
<別解釈>
試訓 上辺(うはへ)無き物聞きし人は然(しか)しこそ遠き家路(いへぢ)を還(かへ)しむ念(も)へば
私訳 話の初めも終わりも聞かないような野暮な人は、だからこそ、遠い道をはるばるやって来たのに逢いもせずに帰そうとするのを思うと。(=歌の表と裏とが判らない野暮な人は気付かずに歌を放置する)

集歌632 目二破見而 手二破不所取 月内之 楓如 妹乎奈何責
訓読 目には見に手には取らえぬ月内(つきなか)し楓(かつら)しごとき妹をいかにせむ
私訳 目には見ることが出来ても取ることが出来ない月の中にある桂(=金木犀)の故事(=嫦娥)のような美しい貴女をどのようにしましょう。
<別解釈>
試訓 目には見に手には取らえぬ月内(つきなか)し楓(かつら)しごとき妹を啼かせむ
私訳 目には見ることが出来ても取ることが出来ない月の中にある桂の故事、その嫦娥のような美しい貴女を閨で抱き臥し、玉のような夜声を上げさせましょう。

娘子報贈謌二首
標訓 娘子の報(こた)へ贈れる謌二首
集歌633 幾許 思異目鴨 敷細之 枕片去 夢所見来之
訓読 幾許(ここだく)も思ひけめかも敷栲し枕(まくら)片(かた)去る夢そ見えける
私訳 しきりに恋いこがれていたからでしょうか。栲を敷いた床の枕が一つではなく、貴方との二つになる、そのような情景が夢に見えました。
<別解釈>
試訓 幾許(ここだく)も思ひ異めかも敷栲し枕(まくら)片(かた)去る夢そ見えける
試訳 まぁ、どうしたことでしょう。貴方と想いが違っていたようです。私には貴方が私の閨からお帰りになる姿を夢の中に見ましたが。

集歌634 家二四手 雖見不飽乎 草枕 客毛妻与 有之乏左
訓読 家にして見れど飽かぬを草枕旅しも妻(つま)とあるし乏(とも)しさ
私訳 我が家でお逢ひしても、私はいつも飽き足りませんのに、旅にまでも奥様と一緒とは、そのような関係がうらやましい。
<別解釈>
試訓 家にして見れど飽かぬを草枕度(たび)しも端(つま)とあるし乏(とも)しさ
試訳 屋敷の中に居て眺めていても飽きることのないその満月を、遠くからやって来て何度も軒先から眺めるとはうらやましいことです。

湯原王亦贈謌二首
標訓 湯原王のまた贈れる謌二首
集歌635 草枕 客者嬬者 雖率有 匣内之 珠社所念
訓読 草枕旅には妻は率(ゐ)たれども匣(くしげ)し内し珠こそ念(おも)ふ
私訳 草を枕の旅に妻を連れてはいるが、宝物を納める箱の中の珠をこそ大切と思います。
<別解釈>
試訓 草枕旅には妻は率(ゐ)たれども奇(く)しけしうちし偶(たま)こそ念(おも)ふ
試訳 確かに草を枕にするような苦しい旅に妻を連れていきましたが、それは特別なことで、偶然なことですよ。

集歌636 余衣 形見尓奉 布細之 枕不離 巻而左宿座
訓読 余(あ)が衣(ころも)形見に奉(まつ)る敷栲し枕し放(さ)けず纏(ま)きにさ寝(ね)ませ
私訳 私を偲ぶ衣をさし上げましょう。貴女の床の枕もとに離さず身に着けておやすみなさい。
<別解釈>
試訓 余(あ)が衣(ころも)形見に奉(まつ)る布細(くは)し枕し放(さ)けず巻(ま)きにさねませ
私訳 私の衣を想い出として差し上げましょう。その衣の布は美しいので木枕の飾りに使って下さい。

娘子復報贈謌一首
標訓 娘子の復(ま)た報(こた)へ贈れる謌一首
集歌637 吾背子之 形見之衣 嬬問尓 身者不離 事不問友
訓読 吾が背子し形見し衣(ころも)妻問(つまと)ひに身は離(はな)たず事(こと)問(と)はずとも
私訳 私の愛しい貴方がくれた思い出の衣。貴方の私への愛の証として、私はその形見の衣をこの身から離しません。貴方から「貴女はどうしていますか」と聞かれなくても。
<別解釈>
試訓 吾が背子し片見し衣(ころも)妻問(つまと)ひに身は離(はな)たず言(こと)問(と)はずとも
試訳 私の愛しい貴方のわずかに見たお姿。貴方がする妻問いの時に。でも、私は貴方に身を委ねません。(本当に私を愛しているのと)愛を誓う言葉をお尋ねしなくても。

湯原王亦贈謌一首
標訓 湯原王のまた贈れる謌一首
集歌638 直一夜 隔之可良尓 荒玉乃 月歟經去跡 心遮
訓読 ただ一夜(ひとよ)隔(へだ)てしからにあらたまの月か経(へ)ぬると心(こころ)遮(いぶ)せし
私訳 たった一夜だけでも逢えなかったのに、月替わりして一月がたったのだろうかと、不思議な気持ちがします。
<別解釈>
試訓 ただ一夜(ひとよ)隔(へだ)てしからにあらたまの月か経(へ)ぬると心(こころ)遮(いぶ)せし
試訳 (貴女は昨夜は身を許しても、今日は許してくれない) たった一夜が違うだけでこのような為さり様ですと、貴女の身に月の障り(月経)が遣って来たのかと、思ってしまいます。

娘子復報贈謌一首
標訓 娘子の復た報へ贈れる謌一首
集歌639 吾背子我 如是戀礼許曽 夜干玉能 夢所見管 寐不所宿家礼
訓読 吾が背子がかく恋ふれこそぬばたまの夢そ見えつつ寝(い)し寝(ね)らずけれ
私訳 愛しい貴方がそんなに恋い慕ってくださるので、闇夜の夢に貴方が見えるので夢うつつで眠ることが出来ませんでした。
<別解釈>
試訓 吾が背子がかく請(こ)ふれこそぬばたまの夢そ見えつつ寝(い)し寝(ね)るずけれ
試訳 愛しい貴方がそれほどまでに妻問いの許しを求めるから闇夜の夢に貴方の姿は見えるのですが、でも、まだ、貴方と夜を共にすることが出来ません。

湯原王亦贈謌一首
標訓 湯原王のまた贈れる謌一首
集歌640 波之家也思 不遠里乎 雲井尓也 戀管将居 月毛不經國
訓読 愛(はしけ)やし間(ま)近き里を雲井(くもゐ)にや恋ひつつ居(を)らむ月も経(へ)なくに
私訳 (便りが無くて) いとしい貴女が住む遠くもない里を、私は雲居の彼方にある里のように恋い続けています。まだ、一月と逢うことが絶えてもいないのに。
<別解釈>
試訓 はしけやし間(ま)近き里を雲井(くもゐ)にや恋ひつつ居(を)らむ月も経(へ)なくに
試訳 ああ、どうしようもない。出掛ければすぐにも逢える間近い貴女の家が逢うことが出来なくてまるで雲井(=宮中、禁裏のこと)かのように思えます。私は貴女を恋焦がれています。まだ、貴女の身の月の障りが終わらないので。

娘子復報贈和謌一首
標訓 娘子の復た報(こた)へ贈れる和(こた)ふたる謌一首
集歌641 絶常云者 和備染責跡 焼太刀乃 隔付經事者 幸也吾君
訓読 絶ゆと云(い)ふは侘(わび)しみせむと焼太刀(やきたち)のへつかふことは幸(さ)くや吾が君
私訳 二人の間も終りだといったら、私が辛い思いをするだろうと思われて、焼いて刃を鋭くした太刀の、端だけを使うような役にも立たない言葉でおっしゃるのならば、それで本当に私が幸せでしょうか。ねぇ、私の貴方。
<別解釈>
試訓 絶ゆと云(い)ふは詫(わび)そせむと焼太刀の経(へ)つ古(ふ)ることは避(さ)くや吾が君
試訳 共寝することがここのところ絶えていると云うことに詫びる気持ちを見せるとしても、焼太刀の端(へ)、その言葉の響きではありませんが、二人の仲が古びてしまう(=関係が終わる)ことは避けるのではありませんか。ねぇ、私の貴方。

湯原王謌一首
標訓 湯原王の謌一首
集歌642 吾妹兒尓 戀而乱在 久流部寸二 懸而縁与 余戀始
訓読 吾妹子に恋ひて乱(みだ)らば反転(くるべき)に懸(か)けて縁(よ)せむと余(あ)し恋ひそめし
私訳 貴女に恋して心も乱して、糸巻きの糸にかけて引き寄せるようと思って、私は恋を始めたのだろうか。
<別解釈>
試訓 吾妹子に恋に未(み)足(た)らば狂(く)るべきにかけに寄せむと余(あ)が恋ひそめし
試訳 愛しい私の貴女との恋の行い(=夜を共にすること)に貴女が満ち足りないのなら、きっと、心は動転してしまうでしょう。ですが、心にかけて貴女の気持ちを引き寄せようと、それほどまでに私は貴女に恋をしてしまった。


 以上、紹介しました。
 さて、一般に掛詞技法の歌は万葉集中に極少数を見ることが出来ると解説されます。ただ、そのような解説において、今回、紹介しました湯原王と娘子との相聞問答歌をその極少数の掛詞技法を使う歌の一部とは紹介しません。漢語と万葉仮名と云う漢字だけで表記された歌を掛詞技法の歌と認識することは「訓読み万葉集」と云う「漢字交じり平仮名歌」に翻訳したものを定訓と称して処理を行った後では、まず、認知不可能です。
 例えば、集歌632の歌の「楓如 妹乎奈何責」を「楓しごとき 妹をいかにせむ」と翻訳してこれを定訓としますと「妹乎奈何責」に対して「妹を奈何責(なかせむ=泣かせむ)」と云う別の訓じ発想は出て来ないと考えます。しかしながら、それでは紹介しましたように二つの歌意を持つ遊び歌を定訓だけでもってして歌を鑑賞したとは言えないのではないでしょうか。

 当然、専門書にはここでの訳は一切紹介されていません。つまり、専門家が認めもしない素人の酔論やトンデモ論であって、それ以外のなにものでもないのです。そこは、素人の素人たる所以としてご了解下さい。
 なお、先週に紹介した本歌取技法の歌やここでの掛詞技法、また縁語技法は万葉集の時代では標準的に確認できる技法です。ただ、それを認めますと困ると云う人々との多数決で、一般には古今和歌集の歌から使われる技法とします。そこでは類型歌の事例とか、例外先駆的に詠われた歌のような形で処理します。万葉集時代に和歌の技法が完成していたとしますと、古今和歌集を最大のバイブルとする関係者から大顰蹙を受けてしまいます。

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万葉雑記 色眼鏡 二〇二 今週のみそひと歌を振り返る その二二

2017年02月04日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 二〇二 今週のみそひと歌を振り返る その二二

 今週は万葉集中に本歌取技法の歌を楽しみます。
 さて、歌の技法に本歌取と云う古歌を引用して歌を詠むと云う技法があります。一般には、紀貫之が額田王の歌を引用して詠った歌でもって、本歌取技法の最初に位置付けるようです。

万葉集
巻一 集歌18 額田王
原歌 三輪山乎 然毛隠賀 雲谷裳 情有南畝 可苦佐布倍思哉
訓読 三輪山をしかも隠すか雲だにも情(こころ)あらなも隠さふべしや

古今和歌集
巻二 歌番94 紀貫之
和歌 三輪山を しかも隠すか 春霞 人に知られぬ 花や咲くらむ

 では、古今和歌集の時代まで本歌取の技法の歌が無かったかと云うと、そうではありません。万葉集時代にも本歌取の技法の歌は詠われています。しかしながら、現在に伝わる本歌取の技法の定義は鎌倉時代初期に藤原定家が提唱したものが基準となっていますが、当時でも本歌取の技法の歌は「盗古歌」(こかをとる)との批判があり、無名人の歌を発掘し、さも自分の歌のように示すことは、さほど誉められることではありませんでした。現代でのそれはパクリか、パロディかと云う問題です。

<定家が唱える本歌取り技法>
 本歌と句の置き所を変えないで用いる場合には2句未満とする。
 本歌と句の置き所を変えて用いる場合には2句+3・4字までとする。
 著名歌人の秀句と評される歌を除いて、枕詞・序詞を含む初2句を 本歌をそのまま用いるのは許容される。
 本歌とは主題を合致させない。

 「盗古歌」の批判を浴びないためにも、藤原定家は、本歌として採用するのは三代集(『古今和歌集』『後撰和歌集』『拾遺和歌集』)・『伊勢物語』・『三十六人家集』から採ることを推薦しています。逆に見れば定家の時代、これら五歌集は歌人の共通の教養水準であり、知っていることが前提と云うことになります。
 追記して、ここで三代集の定義は時代により変化し、定家より一世代前の藤原清輔の時代では『万葉集』『古今和歌集』『後撰和歌集』を三大集と認識していたようです。つまり、知るべき古歌集が相違しています。

 ところで、藤原定家は三代集などの有名な古歌集のる歌から本歌取の技法を使うことを推薦していますが、これはこのような古歌集が広く人々に知られていると云うことが前提となっています。この立場からしますと、万葉集に本歌取の技法の歌が存在することは、その歌に先行して本歌が広く人々に知られていたと云うことになります。例えば、柿本人麻呂の歌に対する類型歌が多数存在することは、万葉集の左注に現れる「柿本人麻呂歌集」は早い時期に世に出て、人々はそれを広く楽しんでいたと云うことになります。
 理屈はさて置きとして、次の歌を楽しんでみて下さい。

笠女郎贈大伴宿祢家持謌廿四首より

集歌591 吾念乎 人尓令知哉 玉匣 開阿氣津跡 夢西所見
訓読 吾が思(も)ひを人に知るれか玉匣(たまくしげ)開き明(あ)けつと夢(いめ)にし見ゆる
私訳 私の思いを貴方に知られたからか、櫛を入れる美しい匣の蓋を開いてあけた(藤原卿と鏡王女の相聞のように、貴方に抱かれる)と夢に見えました。
本歌
集歌93 玉匣 覆乎安美 開而行者 君名者雖有 吾名之惜裳
訓読 玉(たま)匣(くしげ)覆ふを安(やす)み開けて行(い)なば君が名はあれど吾(わ)が名し惜しも
私訳 美しい玉のような櫛を寝るときに納める函を覆うように私の心を硬くしていましたが、覆いを取るように貴方に気を許してこの身を開き、その朝が明け開いてから貴方が帰って行くと、貴方の評判は良いかもしれませんが、私は貴方との二人の仲の評判が立つのが嫌です。


集歌593 君尓戀 痛毛為便無見 楢山之 小松之下尓 立嘆鴨
訓読 君に恋ひ甚(いた)も便(すべ)なみ平山(ならやま)し小松し下(した)に立ち嘆くかも
私訳 貴方に恋い慕ってもどうしようもありません。(人麻呂が詠う集歌2487の歌のように)奈良山に生える小松の下で立ち嘆くでしょう。
本歌
集歌2487 平山 子松末 有廉叙波 我思妹 不相止看
訓読 奈良山し小松し末(うれ)しうれむそは我が思(も)ふ妹に逢はず看(み)む止(や)む
私訳 奈良山の小松の末(うれ=若芽)、その言葉のひびきではないが、うれむそは(どうしてまあ)、成長した貴女、そのような私が恋い慕う貴女に逢えないし、姿をながめることも出来なくなってしまった。


集歌603 念西 死為物尓 有麻世波 千遍曽吾者 死變益
訓読 念(おも)ふにし死にするものにあらませば千遍(ちたび)ぞ吾は死に返(かへ)らまし
私訳 (人麻呂に愛された隠れ妻が詠うように)閨で貴方に抱かれて死ぬような思いをすることがあるのならば、千遍でも私は死んで生き返りましょう。
本歌
集歌2390 戀為 死為物 有 我身千遍 死反
訓読 恋するに死するものしあらませば我が身千遍(ちたび)し死にかへらまし
私訳 貴方に抱かれる恋の行いをして、そのために死ぬのでしたら、私の体は千遍も死んで生き還りましょう。


集歌604 劔太刀 身尓取副常 夢見津 何如之恠曽毛 君尓相為
訓読 剣(つるぎ)太刀(たち)身(み)に取り副(そ)ふと夢(いめ)し見つ如何(いか)し怪(け)そも君に相(あ)はむため
私訳 (人麻呂に抱かれた隠れ妻が詠うように)貴方が身につける剣や太刀を受け取って褥の横に置くことを夢を見ました。この夢はどうしたことでしょうか。貴方に会いたいためでしょうか。
本歌
集歌2498 釼刀 諸刃利 足踏 死ゞ 公依
訓読 剣太刀(つるぎたち)諸刃(もろは)し利(と)きに足踏みて死なば死なむよ君に依(よ)りては
私訳 貴方が常に身に帯びる剣や太刀の諸刃の鋭い刃に足が触れる、そのように貴方の“もの”でこの身が貫かれ、恋の営みに死ぬのなら死にましょう。貴方のお側に寄り添ったためなら。

 紹介しました「笠女郎贈大伴宿祢家持謌廿四首」は、一般には笠女郎と大伴家持とが恋愛関係にあり、大伴家持の手元に残された笠女郎からの恋文を後に二人の縁が切れた後に、家持が二人の出会いから別れまでを編集して、万葉集に載せたのではないかと推測し、実話として考えます。ただ、弊ブログでは笠女郎と大伴家持との年齢差、歌を交わした時の家持の推定実年齢などから推定して、この「笠女郎贈大伴宿祢家持謌廿四首」とは「戀歌の教則本」のようなものと考えています。そのため、内大臣藤原卿と鏡王女との相聞歌や柿本人麻呂と隠れ妻との相聞歌を本歌として歌を詠ったと思います。つまり、大伴家持は神亀・天平初期には知られていた古歌集を教養として勉強しなければいけなかったと思われます。
 当然、笠女郎が詠う歌にふんだんに本歌取りの技法が取り入れられていることを認識しなければ、「なぜ、ずいぶん、歳下の家持に恋歌を贈ったのか」と云う根本的な疑問すら気が付かないのではないでしょうか。
 万葉集の巻十四「東歌」には人麻呂歌集の異伝として四首、巻十五「遣新羅使歌」にも異伝として五首載ります。およそ、神亀・天平年間には大和朝廷に関わる人々で宴に招待されるような立場であれば、柿本人麻呂歌集は教養であり、それを教本として歌を詠うことを求められていたのではないでしょうか。本歌取りの技法の歌と云うか、教本模倣の歌と云うか難しい点ではありますが、奈良時代初期の時点で鑑賞に堪えるレベルでの本歌取りの技法の歌は詠われていたと考えるべきではないでしょうか。
 最後に万葉集編纂の歴史では、元明天皇時代に藤原京時代までの和歌を類聚した現在の万葉集の源流となるような原初万葉集や柿本人麻呂歌集は存在していたと推定します。そのような観点からしますと、今回紹介しました「笠女郎贈大伴宿祢家持謌廿四首」で引用する古歌はその説を補強する位置にあります。

 弊ブログは酔論と与太話で成り立っていますが、時に「それらしい」話題も提供します。関西の千三ではない、千無ですが、騙されたと思いつつ、このような視点から歌を楽しんでみて下さい。
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