竹取翁と万葉集のお勉強

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笠朝臣金村歌集を鑑賞する  神亀二年(725)の歌 幸于芳野離宮

2010年12月30日 | 柿本朝臣人麻呂歌集及び万葉集に載る歌集
神亀二年(725)の歌 幸于芳野離宮
 万葉集ではこの神亀二年五月の吉野宮への御幸を紹介していますが、続日本紀には神亀二年五月の記事はなく、神亀元年三月一日の記事があるだけです。万葉集に載るこの神亀二年五月の吉野宮への御幸では山部赤人も歌を寄せていますから、続日本紀の編者の記事の取捨は別として、規模としては相当なものであったと推定が可能です。
 ここで、笠金村や山部赤人の詠う歌が奉呈歌であるとしますと、おもしろいことに気が付きます。それは、神亀元年の紀伊国への御幸の主体は笠金村が詠うように「天皇之行幸」ですが、この神亀二年の芳野御幸の主体は「和期大王」です。奉呈歌であるならば、高貴な人物の表記や尊称は定まっていると思うのが自然です。そうした時、さて、天皇と大王は同じ人物を示すのでしょうか。それとも政教分離が行われていて、宗教の天皇と政治の大王とは別な人物を示すのでしょうか。
 なお、神亀元年三月一日の時のものは大伴旅人の歌(集歌315)を見ることが出来ますが、その御幸の主体の表現は省かれ不明です。

神龜二年乙丑夏五月、幸于芳野離宮時、笠朝臣金村作謌一首并短謌
標訓 神亀二年乙丑夏五月に、芳野の離宮に幸しし時に、笠朝臣金村の作れる謌一首并せて短謌

集歌920 足引之 御山毛清 落多藝都 芳野川之 河瀬乃 浄乎見者 上邊者 千鳥數鳴 下邊者 河津都麻喚 百礒城乃 大宮人毛 越乞尓 思自仁思有者 毎見 文丹乏 玉葛 絶事無 萬代尓 如是霜願跡 天地之 神乎曽祷 恐有等毛
訓読 あしひきの 御山もさやに 落ち激(たぎ)つ 吉野の川の 川の瀬の 清きを見れば 上辺(かみへ)には 千鳥しば鳴く 下辺(しもへ)には かはづ妻呼ぶ ももしきの 大宮人も をちこちに 繁(しじ)にしあれば 見るごとに あやに羨(とも)しみ 玉葛(たまかづら) 絶ゆることなく 万代(よろづよ)に かくしもがもと 天地(あまつち)の 神をぞ祈(いの)る 恐(かしこ)くあれども

私訳 足を引きずるような険しい御山も清らかにあり、川の水が流れ落ちてたぎる芳野の川の、その川の瀬の清らかな様をみると、上流には千鳥がさえずり、下流には蛙が妻を呼ぶように啼く。たくさんの岩を積み上げる大宮に侍う大宮人も、あちらこちらに多くにいらっしゃるので、その姿を見るたびに、ひどく心を引かれ吾を忘れてしまい、美しい蔦葛の蔓が絶えることのないように、万代までもこのように在って欲しいと、天地の神々に確かにお願いする。私の身分では、恐れ多くはあるが。


反謌二首
集歌921 萬代 見友将飽八 三芳野乃 多藝都河内乃 大宮所
訓読 万代(よろづよ)に見とも飽かめやみ吉野の激(たぎ)つ河内(かふち)の大宮所

私訳 万代までに見ていても飽きることのないでしょう、この芳野の水が激しく流れる河内にある大宮のある場所は。


集歌922 人皆乃 壽毛吾母 三芳野乃 多吉能床磐乃 常有沼鴨
訓読 人(ひと)皆(みな)の命(いのち)も吾れもみ吉野の瀧(たぎ)の常磐(ときは)の常ならぬかも

私訳 ここに集う人が皆の寿命も、私もそうだが、この芳野の水が激しく流れる床岩のようにいつまでもあってほしいものです。


参考歌 山部赤人
山部宿祢赤人作謌二首并短謌
標訓 山部宿祢赤人の作れる謌二首并せて短謌
集歌923 八隅知之 和期大王乃 高知為 芳野宮者 立名附 青垣隠 河次乃 清河内曽 春部者 花咲乎遠里 秋去者 霧立渡 其山之 弥益々尓 此河之 絶事無 百石木能 大宮人者 常将通

訓読 やすみしし 吾(わ)ご大王(おほきみ)の 高知らす 芳野の宮は たたなづく 青垣(あおかき)隠(こも)り 川なみの 清き河内(かふち)ぞ 春へは 花咲きををり 秋されば 霧(きり)立ち渡る その山の いやますますに この川の 絶ゆることなく ももしきの 大宮人は 常に通はむ

私訳 四方八方をあまねく御承知なれれる吾々の大王が天まで高く知らせる芳野の宮は、立ち並び名を付けられるような緑豊かな山並みに囲まれ、多くの河の集まる清らかな河の内にある。春にはたくさんの花が咲き乱れ、秋には霧が立ち渡る。その山のように一層盛んに、この河の流れが絶えることがないように、たくさんの岩を積み上げる大宮に侍う大宮人は、常に通って来ましょう。

反謌二首
集歌924 三吉野乃 象山際乃 木末尓波 幾許毛散和口 鳥之聲可聞
訓読 み吉野の象(さき)の山の際(ま)の木末(こぬれ)には幾許(ここだ)も騒く鳥の声かも

私訳 み吉野の象山の山際の梢には、多くの啼き騒ぐ鳥の声が聞こえます


集歌925 烏玉之 夜之深去者 久木生留 清河原尓 知鳥數鳴
訓読 ぬばたまの夜の更けぬれば久木(ひさき)生(お)ふる清き川原に千鳥しば鳴く

私訳 漆黒の夜が更けていくと、橡の木が生える清らかな川原に千鳥がしきりに鳴く


集歌926 安見知之 和期大王波 見吉野乃 飽津之小野笶 野上者 跡見居置而 御山者 射目立渡 朝猟尓 十六履起之 夕狩尓 十里さ立 馬並而 御狩曽立為 春之茂野尓

訓読 やすみしし 吾(わ)ご大王(おほきみ)は み吉野の 秋津の小野の 野の上(へ)には 跡見(とみ)据ゑ置きて み山には 射目(いめ)立て渡し 朝猟(あさかり)に 鹿猪(しし)踏み起し 夕狩(ゆふかり)に 鳥踏み立て 馬並(な)めて 御狩ぞ立たす 春の茂野(しげの)に

私訳 世の中を平らく統治される吾らの大王は、み吉野の秋津の小野にある野の丘に跡見を据えて置き、山には射目を立たせ置いて、朝の狩りには鹿や猪を野に踏み込み追い立てて、夕方の狩りでは鳥を巣から追い立てて、馬を連ねて御狩りを起こさせることです。春の草木の茂る野に。


反謌一首
集歌927 足引之 山毛野毛 御狩人 得物矢手挟 散動而有所見
訓読 あしひきの山にも野にも御狩人(みかりひと)得物矢(さつや)手挾(たばさ)み散(さ)動(わ)きたり見ゆ

私訳 足を引きずるような険しい山にも野にも、御狩りに従う人々が手に得物や矢を持ち、あちらこちらを動き廻るのが見える。

右、不審先後。但、以便故載於此歟。
注訓 右は、先後を審(つまび)らかにせず。ただ、便(たより)を以(もち)ての故にここに載せるか。


参考歌 大伴旅人
暮春之月幸芳野離宮時中納言大伴卿奉勅作謌一首并短謌未逕奏上謌
標訓 暮春の月に芳野の離宮に幸しし時に、中納言大伴卿の勅を奉りて作れる謌一首

并せて短謌、未だ奏上を逕ざる謌
集歌315 見吉野之 芳野乃宮者 山可良志 貴有師 永可良思 清有師 天地与 長久 萬代尓 不改将有 行幸之処
訓読 み吉野の 吉野の宮は 山柄(やまから)し 貴(たふと)くあらし 永からし 清(さや)けくあらし 天地と 長く久しく 万代(よろづよ)に 変はらずあらむ 行幸(いでまし)の処

私訳 美しい吉野の草木の香しい芳野の宮は、山のゆえからか貴くあるようで、永遠にあるようで、そして、清らかにあるようです。天と地が長く久しく万年の後まで変わらずに貴くあるでしょう。この御幸なされた土地は。


反謌
集歌316 昔見之 象乃小河乎 今見者 弥清 成尓来鴨
訓読 昔見し象(きさ)の小河(をかは)を今見ればいよよ清(さや)けくなりにけるかも

私訳 昔見た象の小川を、天皇の御幸の今見ると、ますます清らかになっているようです。

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笠朝臣金村歌集を鑑賞する  養老七年の芳野離宮への御幸の歌

2010年12月27日 | 柿本朝臣人麻呂歌集及び万葉集に載る歌集
養老七年の芳野離宮への御幸の歌
 巻六の巻頭を飾る養老七年(723)五月九日の元正天皇の吉野御幸の折の歌です。この巻六は平城京の時代から難波宮までの歌を取り上げますので、巻一が橿原・飛鳥京から平城京までの歌を取り上げるのと対を成します。
 この芳野離宮の場所としては、歌では「三芳野之 蜻蛉乃宮」を詠いますから雄略天皇の秋津野の故事を引いてのものと思われます。そこから、普段の解説の「宮瀧」の地よりも、畝傍神事を含めて神功皇后・応神天皇ゆかりの「阿知賀(あちか)」の地の方が相応しいと思っています。そこで、集歌907 の歌の「神柄加」は吉野の山々の国つ神々よりも、神武天皇・雄略天皇・神功皇后・応神天皇の皇祖ゆかりの意味合いでの「神柄加」と鑑賞しています。
 なお、集歌907の歌は、音律上は異例な形を示します。「貴将有」や「見欲将有」と比較して「如是二三知三」もまた誤字説を採らずに、ままに訓んでいます。普段の解説では「如是二二知三」の誤字として、二二は四の戯訓と考えて「如是(かく)二二(し)知(しら)三(さむ)」と訓みます。また、末三句は七音となっています。


養老七年癸亥夏五月、幸于芳野離宮時、笠朝臣金村作謌一首并短歌
標訓 養老七年癸亥夏五月に、芳野の離宮に幸しし時に、笠朝臣金村の作れる謌一首并せて短歌

集歌907 瀧上之 御舟乃山尓 水枝指 四時尓主有 刀我乃樹能 弥継嗣尓 萬代 如是二三知三 三芳野之 蜻蛉乃宮者 神柄香 貴将有 國柄鹿 見欲将有 山川乎 清々 諾之神代従 定家良思母

訓読 瀧(たぎ)の上(へ)の 三船の山に 瑞枝(みずえ)さし 繁(しじ)に主(ぬし)あり 栂(つが)の樹の いや継ぎ継ぎに 万代(よろづよ)に かくに御(み)知(し)らさむ み吉野の 蜻蛉(あづき)の宮は 神柄か 貴(たふと)くあるらむ 国柄か 見が欲(ほ)しくあらむ 山川を 清(きよ)み清(さや)けみ うべし神代ゆ 定めけらしも

私訳 急流の上流に見える三船の山に、美しい枝を茂らせた山の主のような栂の樹が、ますます継ぎ継ぎと茂るように、継ぎ継ぎと万代までにこのように統治なされる吉野の蜻蛉の宮は、皇祖である神々が宿る由縁か、貴くあるのでしょう。土地柄か、心を引かれるのでしょう。山や川は清く清々しく、誠に皇祖である神の時代からこの地を吉野の蜻蛉の宮と定めて来たのでしょう。


反謌二首
集歌908 毎年 如是裳見牡鹿 三吉野乃 清河内之 多藝津白浪
訓読 毎年(としのは)にかくも見てしかみ吉野の清き河内の激(たぎ)つ白浪

私訳 毎年のように、今、私が見るように見ていたのでしょう。吉野の清らかな河内に飛沫をあげる白波は。


集歌909 山高三 白木綿花 落多藝追 瀧之河内者 雖見不飽香聞
訓読 山高み白(しろ)木綿花(ゆふはな)に落(ふ)り激(たぎ)つ瀧(たぎ)の河内(かふち)は見れど飽かぬかも

私訳 山容が高い。白い幣の木綿の花のように白い飛沫を降らす激流の河内は、見ていても飽きることがありません。


或本反謌謌曰
標訓 或る本の反謌の謌に曰はく、
集歌910 神柄加 見欲賀藍 三吉野乃 瀧河内者 雖見不飽鴨
訓読 神からか見が欲(ほ)しからむみ吉野の瀧(たぎ)の河内(かふち)は見れど飽かぬかも

私訳 皇祖である神々が宿る由縁からか眺めたいと思うのでしょう。吉野の激流の河内は、見ていても飽きることはありません。


集歌911 三芳野之 秋津乃川之 万世尓 断事無 又還将見
訓読 み吉野の秋津(あきつ)の川の万世(よろづよ)に絶ゆることなくまた還(かへ)り見む

私訳 吉野の秋津を流れる川が万世までも絶えることがないように、再び、やって来て眺めましょう。


集歌912 泊瀬女 造木綿花 三吉野 瀧乃水沫 開来受屋
訓読 泊瀬女(はつせめ)の造る木綿花(ゆふはな)み吉野の瀧(たぎ)の水沫(みなわ)に咲きにけらずや

私訳 泊瀬女が造る木綿の花よ。その白い木綿の花が、吉野の激流の飛沫に咲いているのでしょうか。

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笠朝臣金村歌集を鑑賞する  神亀二年(725)の歌 幸三香原離宮

2010年12月27日 | 柿本朝臣人麻呂歌集及び万葉集に載る歌集
神亀二年(725)の歌 幸三香原離宮
 集歌543の歌で説明しましたが、三香原の離宮への御幸の主体は大王の長屋王であって首王(聖武天皇)ではありません。この三香原の離宮は、現在の京都府木津川市加茂町付近とされていて、後には恭仁京(くにのみや)が建設された場所です。この恭仁京の建設は、集歌543の歌が詠われた十五年の後の天平十二年(740)から始まりますが、建設半ばで紫香楽宮の建設が始まり完成をしないままに終わっています。
 さて、この集歌543の歌も、さきの集歌543の歌と同様に御幸における奉呈歌ではありません。御幸に従駕した時に出会った女性との笠金村自身の出来事を詠ったものです。ただし、笠金村は都から訪れた従駕する人々の中でも上位に位置するようで、三香原の離宮では笠金村にも夜伽の女性と寝所が用意されていたようです。その夜伽の女性たちと夜を過ごす前に、随行者たちが旅の宴を開いたのでしょうか。その旅の宴で歌を披露したような感覚があります。このような御忍びでの遊興の旅の背景のためでしょうか、神亀二年三月のこの三香原離宮への御幸で詠われた歌は、この他にありません。ただし、天平十二年からの恭仁京建設に大伴家持が参加しているため、恭仁京に関する歌は残っています。

二年乙丑春三月、幸三香原離宮之時、得娘子作謌一首并短謌  [笠朝臣金村]
標訓 二年乙丑春三月に、三香原の離宮に幸(いで)しし時に、娘子(をとめ)を得て作れる謌一首并せて短謌  [笠朝臣金村]

集歌546 三香之原 客之屋取尓 珠桙乃 道能去相尓 天雲之 外耳見管 言将問 縁乃無者 情耳 咽乍有尓 天地 神祇辞因而 敷細乃 衣手易而 自妻跡 憑有今夜 秋夜之 百夜乃長 有与宿鴨

訓読 三香(みか)の原 旅の宿りに 玉桙の 道の行き逢ひに 天雲の 外(よそ)のみ見つつ 言問(ことと)はむ 縁(よし)の無ければ 情(こころ)のみ 咽(む)せつつあるに 天地の 神辞(こと)寄せて 敷栲の 衣手(ころもて)易(か)へて 自妻(おのつま)と 頼める今夜 秋の夜の 百夜(ももよ)の長さ ありこせぬかも

私訳 三香の原での旅の宿りの折に、美しい桙を立てる公の道で行き逢った貴女を、天の雲を遠くから眺めるように、誓いの言葉をかける縁もないので、心の内で悲しんで泣いていたのだが、天と地の神の思し召しに従って、床に敷く栲の上で互いの衣を互いの体に掛け合って、貴女は「貴方の妻」だと、私のことを頼るこの夜。秋のこの夜が百日程の夜の長さにならないでしょうか。


反謌
集歌547 天雲之 外従見 吾妹兒尓 心毛身副 縁西鬼尾
訓読 天雲の外(よそ)に見しより吾妹子に心も身さへ寄りにしものを

私訳 天の雲のように遠くから眺めた時から、愛しい貴女に心も体も貴女に吸い寄せられたようです。


集歌548 今夜之 早開者 為便乎無三 秋百夜乎 願鶴鴨
訓読 今夜(こよひ)の早く明(あ)けくればすべを無み秋の百夜(ももよ)を願ひつるかも

私訳 貴女と共にする今夜が早くも明けていくので、どうしようもない。この秋の夜が百日の夜のような長さであることを願いたい。

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笠朝臣金村歌集を鑑賞する  神亀元年(724)の歌

2010年12月25日 | 柿本朝臣人麻呂歌集及び万葉集に載る歌集
神亀元年(724)の歌
 神亀元年は続日本紀では首王(聖武天皇)の即位の年となっていますが、万葉集の大和歌や懐風藻の漢詩などからは、首王ではなく長屋王の大王への就任ではないかと思われます。ここでは、独自の視点から長屋王の紀伊国への御幸と捉えています。当時は、大王に就任すると神武天皇ゆかりの熊野へ報告に行くことが慣わしだったようです。
 歌は御幸に従駕する人に、奈良の都に残る女性の気持ちに成り代わって作り贈ったものです。したがって、奉呈歌の物でもありませんし、笠金村が紀国への御幸に従駕したかどうかも不明です。

神龜元年甲子冬十月、幸紀伊國之時、為贈従駕人、所誂娘子笠朝臣金村作謌一首并短謌
標訓 神亀元年甲子の冬十月に、紀伊國(きのくに)に幸(いでま)しし時に、従駕(おほみとも)の人に贈らむがために、娘子(をとめ)に誂(あとら)へて笠朝臣金村の作れる謌一首并せて短謌

集歌543 天皇之 行幸乃随意 物部乃 八十伴雄与 出去之 愛夫者 天翔哉 軽路従 玉田次 畝火乎見管 麻裳吉 木道尓入立 真土山 越良武公者 黄葉乃 散飛見乍 親 吾者不念 草枕 客乎便宜常 思乍 公将有跡 安蘇々二破 且者雖知 之加須我仁 點然得不在者 吾背子之 徃乃萬々 将追跡者 千遍雖念 手嫋女 吾身之有者 道守之 将問答乎 言将遣 為便乎不知跡 立而爪衝

訓読 天皇(すめろぎ)の 行幸(みゆき)のまにま 物部(もののふ)の 八十伴(やそとも)の雄(を)と 出で去(ゐ)きし 愛(うつく)し夫(つま)は 天飛ぶや 軽の路より 玉(たま)襷(たすき) 畝傍を見つつ 麻(あさ)裳(も)よし 紀路(きぢ)に入り立ち 真土山(まつちやま) 越ゆらむ君は 黄葉(もみぢは)の 散り飛ぶ見つつ 親(にきびに)し 吾は思はず 草枕 旅を宜(よろ)しと 思ひつつ 君はあらむと あそそには かつは知れども しかすがに 點然(もだ)もありえねば 吾が背子が 行きのまにまに 追はむとは 千遍(ちたび)思へど 手弱女(たわやめ)の 吾が身にしあれば 道(みち)守(もり)の 問はむ答へを 言ひ遣(や)らむ 術(すべ)を知らにと 立ちて爪(つま)づく

私訳 天皇の行幸に随って、たくさんの武官の者と共に出発して行った私が愛する夫は、雁が空を飛ぶ軽の道から美しい襷を懸けたような畝傍の山を見ながら、麻の裳も良い紀伊の国への道に入っていく。真土山を越えていくでしょうあの御方は、黄葉の葉々が散り飛ぶのを見ながらそれを親しみ、私はそうとは思いませんが、草を枕にする苦しい旅も好ましい常のことと思いながら、あの御方は旅路にいらっしゃると、私はぼんやりとは想像しますが、しかしながら何もしないではいられないので、愛しい貴方が出かけていったように追いかけて行こうと千度も思いますが、手弱女である女である私は、道の番人が旅行く私に浴びせかける質問に答えるすべも知らないので、旅立とうとしてためらってしまう。


反謌
集歌544 後居而 戀乍不有者 木國乃 妹背乃山尓 有益物乎
訓読 後れ居て恋ひつつあらずは紀伊(き)の国の妹背(いもせ)の山にあらましものを

私訳 後に残されて一人で貴方を恋い慕っていないで、紀伊の国にある妹背の山の名に因んだ貴方に愛される妹背でありたいものです。


集歌545 吾背子之 跡履求 追去者 木乃關守伊 将留鴨
訓読 吾が背子が跡(あと)踏(ふ)み求め追ひ行かば紀伊(き)の関守(せきもり)い留(とど)めてむかも

私訳 私の愛しい背の君の跡を辿って追いかけて行けば、紀伊の関の番人は私を関の内に留めるでしょうか。
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笠朝臣金村歌集を鑑賞する  蝦夷慰撫への旅か、越前への旅か

2010年12月23日 | 柿本朝臣人麻呂歌集及び万葉集に載る歌集
蝦夷慰撫への旅か、越前への旅か
 ここでは、普段の「訓読み万葉集」の解説とは違い、奇を衒った解釈を行っています。

塩津山と伊香山の歌
 集歌365の歌に登場する塩津山は、滋賀県の浅井から福井県敦賀へと抜ける街道にある峠の山と推定します。また、普段の解説では集歌368の歌が石上朝臣乙麿の越前国守として赴任するときの歌と解釈する関係で、集歌364の歌から集歌369の歌までの一連の歌々を石上乙麿の越前国守赴任の折の越の国への道中の歌と見ています。もし、この推定が成立しますと、笠金村が国守である石上乙麿の随員と推定する場合は、普段の解説に従うと地方官任官の期限の規定からおよそ六年を越前国で過さなければいけないことになります。
 ここで集歌364と365の歌に関連すると思われる歌が万葉集にあり、それが集歌1532の歌と集歌1533の歌で伊香山を詠う歌です。この伊香山は塩津山の東南の位置にあり賤ヶ岳の南嶺を形成しますので、集歌364の歌と集歌365の歌との組歌と集歌1532の歌と集歌1533の歌との組歌は、ともに同じ旅での歌と思われます。
 こうした時、素人考えで集歌368の歌を、普段の解説で採用する推定とは違い、和銅七年(714)に石上朝臣豊庭が右将軍に任じられ陸奥の蝦夷の慰撫に出向いた時の歌と考えます。この推定の関係上、集歌364の歌から始まり集歌369の歌までの六首と、集歌1532の歌と集歌1533との歌二首は、和銅七年の歌と推定しています。年代としては、ちょうど、先の霊亀元年(715)の志貴親王への挽歌が詠われた前年に当たります。
 このように推定しますと、集歌364の歌などは、蝦夷を慰撫に向かう勇壮な右将軍石上朝臣豊庭の姿にふさわしくなるのではないでしょうか。この推定では、笠金村は和銅七年に越の国に赴き、翌年霊亀元年正月以前に奈良の京に戻っていることになります。


笠朝臣金村塩津山作謌二首
標訓 笠朝臣金村の塩津山にて作れる謌二首
集歌364 大夫之 弓上振起 射都流矢乎 後将見人者 語継金
訓読 大夫(ますらを)の弓上(ゆづゑ)振り起し射つる矢を後(のち)見む人は語り継ぐがね

私訳 塩津山の峠で立派な大夫が弓末を振り起こして射った矢を、後にそれを見る人はきっと語り継いでしょう。


集歌365 塩津山 打越去者 我乗有 馬曽爪突 家戀良霜
訓読 塩津山(しほつやま)打ち越え行けば我が乗れる馬ぞ爪(つま)づく家恋ふらしも

私訳 塩津山を越えて行こうとすると、私が乗る馬がつまずく。家に残す人が私を慕っているようです。


参考歌
笠朝臣金村伊香山作謌二首
標訓 笠朝臣金村の伊香山にて作れる謌二首
集歌1532 草枕 客行人毛 徃觸者 尓保比奴倍久毛 開流芽子香聞
訓読 草枕旅行く人も行き触れば色付(にほひ)ぬべくも咲ける萩かも

私訳 草を枕にするような苦しい旅を行く人も、道を行き道の傍らの花に触れただけでも着る衣が染まってしまうほどに咲いている萩の花です。


集歌1533 伊香山 野邊尓開有 芽子見者 公之家有 尾花之所念
訓読 伊香山(いかごやま)野辺(のへ)に咲きたる萩見れば公が家なる尾花(をばな)し念(おも)ほゆ

私訳 伊香山の野辺に咲いている萩の花を見ると、同行するこの御方の家にある尾花を思い出します。



塩焼炎をどのように訓むか
 この集歌366の長歌に詠われる「塩焼炎」をどのように訓むかで、柿本人麻呂が詠う軽皇子の安騎野の歌の解釈が変わって来る事で有名な歌です。
 ここでは、素人らしく「塩焼く炎(ほむら)」と訓んでいますが、専門家の間では「塩焼く炎(けぶり)」と訓むのが正しいとする説が有力です。素人の訓みの根拠として参考の歌を以下に掲げますが、それぞれの歌には遠近感があります。集歌366の歌は焚き火に立つ娘女の腕輪を見つめて、故郷の女への想いを募らせます。一方、集歌354の歌や集歌1246の歌は、遠望した山に棚引く煙を詠ったものです。ただし、和歌の専門家は、歌詞における歌の表情が違うのは明らかですが、なぜか伝承文献を重要視して「燒塩煙」、「塩焼火氣」、「塩焼炎」の訓みと意味合いは同じとします。そこから、柿本人麻呂が詠う軽皇子の安騎野の歌の「野炎立所見而」を「野に炎(かげろひ)の 立つ見えて」ではなく、「野に炎(けぶり)立つ ところ見し」と訓むことになります。煙に咽びながら娘女の腕輪を見つめるか、夕刻の塩を煮る釜の脇から立ち上がる炎のゆらぎ越しに相対する娘女の腕輪を見つめるかは、読み手の感性です。素人は後者の解釈です。同じように、集歌354の歌の「山尓棚引」に引きずられて集歌1246の歌の「山尓軽引」を「山に棚引く」と訓む人もいますが、漢字の「軽」には幽かなさまを意味す場合がありますから、「山尓軽引」の表記からは山に煙が流れ行き、そして薄れ行く様を味合うべきと思います。つまり、集歌1246の歌の「山尓軽引」は、そのままに「山に軽引く」と訓むのが良いのではないでしょうか。これが認められると「燒塩煙」、「塩焼火氣」、「塩焼炎」が同じ訓みであるとする説は成り立たないのは明らかになります。
 当然、伝承文献の参照を学問とする専門家の立場からすると、素人がよくする歌の表情や漢語本来の意味から、その漢字の標準の和訓である「塩焼く火氣(ほのけ)」や「塩焼く炎(ほむら)」と訓まれては困ることになりますし、人麻呂の歌での「炎」論争の存在自体が、下品ですが、朝顔が仰ぎ見る朝立のような様相になります。
 なお、集歌366の歌は、敦賀から越前武生方面に旅して、敦賀市田結の海岸に上陸しての歌ではないでしょうか。そのときの景色が、明石方面から大和方面を眺めたときの景色に似ていての感想と思われます。これからも先の長い旅の途中で、故郷に帰る道順で見る景色に似た情景を見た人の、思わず感じた望郷の歌です。目的は、まだ、先のようです。
 この感覚からも、笠金村は石上乙麿の越前国守赴任に随行したのではなく、右将軍石上朝臣豊庭の陸奥・出羽の蝦夷慰撫に随行したと考えています。


角鹿津乗船時笠朝臣金村作謌一首并短謌
標訓 角鹿の津で船に乗れる時に、笠朝臣金村の作れる謌一首并せて短謌

集歌366 越海之 角鹿乃濱従 大舟尓 真梶貫下 勇魚取 海路尓出而 阿倍寸管 我榜行者 大夫乃 手結我浦尓 海未通女 塩焼炎 草枕 客之有者 獨為而 見知師無美 綿津海乃 手二巻四而有 珠手次 懸而之努櫃 日本嶋根乎

訓読 越の海の 角鹿(つぬが)の浜ゆ 大船に 真梶(まかぢ)貫(ぬ)き下(さ)し 鯨魚(いさな)取り 海道(うみぢ)に出でて 喘(あへ)きつつ 我が榜ぎ行けば 大夫(ますらを)の 手結(てゆひ)が浦に 海(あま)未通女(をとめ) 塩焼く炎(ほむら) 草枕 旅にしあれば ひとりして 見る験(しるし)なみ 海神(わたつみ)の 手に纏(ま)かしたる 玉(たま)襷(たすき) 懸(か)けて偲(しの)ひつ 大和島根を

私訳 越の海の角鹿の浜辺から、大船に立派な梶を挿し下ろして鯨を取るという海原に海路を取り出航して、喘ぎながら船を操って行くと、立派な大夫が手に結ぶと云う、手結の浜辺で漁師の娘女達が塩水を煮て塩を焼く炎の中に、草を枕にするような苦しい旅の途中であるので、娘女の手結から独りで見ても思いはどうしようもない。海の神が授けて漁師の娘女の手に巻かせている玉、その玉の襷を懸け下げて思い出しましょう。大和の島のような山並みを。


反謌
集歌367 越海乃 手結之浦矣 客為而 見者乏見 日本思櫃
訓読 越の海の手結(たゆひ)が浦を旅にして見れば乏(とも)しみ日本(やまと)思(しの)ひつ

私訳 越の海にある手結の浜辺を旅の途中で見ると気持ちがおろそかになり、大和の風景を思い出します。


参考歌 その一
日置少老謌一首
標訓 日置少老(へきのをおゆ)の謌一首
集歌354 縄乃浦尓 塩焼火氣 夕去者 行過不得而 山尓棚引
訓読 縄(なは)の浦に塩焼く火気(ほのけ)夕されば行き過ぎかねて山にたなびく

私訳 縄の浦で塩を焼くその煙は、夕方になると流れ行くことなく山に棚引く。


参考歌 その二
集歌1246 之加乃白水郎之 燒塩煙 風乎疾 立者不上 山尓軽引
訓読 志賀の白水郎(あま)の塩焼く煙(けぶり)風をいたみ立ちは上(のぼ)らず山に軽引(かるひ)く

私訳 志賀の海人の塩を焼く煙は、風が強いので真っ直ぐには立ち上らずに山に薄く流れる。

右件謌者、古集中出
注訓 右の件(くだり)の謌は、古き集(しふ)の中に出(い)ず。



和銅七年の時の歌か
 集歌368の歌の左注の解釈とは違い、和銅七年(714)に石上朝臣豊庭が右将軍に任じられ陸奥の蝦夷の慰撫に出向く時の歌と解釈しています。
 和銅七年十一月に大伴旅人が左将軍に、石上朝臣豊庭が右将軍に任じられた、その翌年の霊亀元年正月に、皇太子の就任を祝う式典に奄美・屋久等の南の諸島の人々と陸奥・出羽の蝦夷が招かれています。ここから、石上朝臣豊庭は和銅七年の秋に陸奥(越後・出羽)の蝦夷の慰撫と出迎えの使者であったのではないかと推測しています。


石上大夫謌一首
標訓 石上大夫の謌一首
集歌368 大船二 真梶繁貫 大王之 御命恐 礒廻為鴨
訓読 大船に真梶(まかじ)繁(しじ)貫(ぬ)き大王(おほきみ)の命(みこと)恐(かしこ)み磯廻(いそみ)するかも

私訳 大船に立派な梶を貫き下ろして、大王のご命令を恭みて従って陸奥の蝦夷の慰撫への航海をしましょう。

右今案、石上朝臣乙麿任越前國守 盖此大夫歟
注訓 右は今案(かむが)ふるに、石上朝臣乙麿の越前國守に任けらる。盖し此の大夫か。


和謌一首
標訓 和(こた)ふる謌一首
集歌369 物部乃 臣之壮士者 大王 任乃随意 聞跡云物曽
訓読 物部(もののふ)の臣(おみ)の壮士(をとこ)は大王(おほきみ)の任(ま)けのまにまに聞くといふものぞ

私訳 大楯を立てる物部一族の大王に仕える男子とは、大王が任じるままに従うと云うものです。

右作者未審。但、笠朝臣金村之謌中出也
注訓 右は作る者、未だ審(つま)びらかならず。但し、笠朝臣金村の謌の中に出ず。

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