竹取翁と万葉集のお勉強

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万葉雑記 色眼鏡 七三 「あかしの浦」の歌を鑑賞する

2014年06月21日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 七三 「あかしの浦」の歌を鑑賞する

 今回は『万葉集』に載る歌ではありませんが、兵庫県明石市にある柿本神社創建にもかかわる有名な歌を取り上げます。紹介する作品は、人によっては柿本人麻呂の作品ではなく、『古今和歌集』の標題に従い無名人の作品としますが、平安時代からの伝統と伝承では柿本人麻呂の作品です。ただ、その紹介する歌が初めて世に知られたのは『古今和歌集』羇旅歌の部立に載せられてからですし、作者比定については平安時代中期以降になって柿本人麻呂の代表作品とされた経緯があります。この歴史があるがため、今日でも作歌者は柿本人麻呂ではないとの議論があります。つまり、柿本人麻呂の代表作品と認定されるまでには、人麻呂の死没後、およそ、二百五十年以上の時の流れがあることになります。
 もったいぶりました。『古今和歌集』羇旅歌の部立に載る、その歌を次に紹介します。

題しらず よみ人しらず
歌番409 ほのほのと あかしのうらの あさきりに しまかくれゆく ふなをしそおもふ
このうた、ある人のいはく、かきもとのひろまろがうたなり

 ただ、一般には最初に紹介したものではなく、次のような表記のものが有名だと思いますので、それも紹介致します。歌の表記は近代的な「漢字交じり平仮名」となっています。ただし、この近代的な歌の景色は『古今和歌集』のものとは全くに違います。それは近代歌道の基本にも通じる鎌倉時代以降の藤原定家風の好みによる解釈です。

ほのぼのと 明石の浦の 朝霧に 島隠れ行く 舟をしぞ思ふ

 ここで『古今和歌集』の方の、この歌の評価ついてインターネットで調べて見ますと、次のような評価を見ることが出来ます。

 これは昔のよき歌なり(藤原公任・新撰髄脳)。
 上品上。これは言葉妙にして余りの心さへあるなり(藤原公任・和歌九品)。
 柿本朝臣人麿の歌なり。この歌、上古、中古、末代まで相かなへる歌なり(藤原俊成・古来風躰抄)。

 この藤原公任や藤原俊成の評価により、ほぼ、この歌の価値が決定されたと考えられます。紹介しました藤原俊成の『古来風躰抄』は鎌倉時代初期となる1197年頃の歌学書です。他方、藤原公任の『新撰髄脳』や『和歌九品』の歌論書は1041年の彼の死去以前に編まれたものですので、少なくとも、十一世紀初頭には「ほのぼのとあかしの浦の」の歌は人麻呂の代表作と目されています。
 『万葉集』に関係するところでは、万葉集研究者の契沖が次のような解説を残しています。契沖は江戸時代前期に活躍した人物ですので、歌は平安時代中期から江戸時代前期まで安定して評価されていたと考えられます。

人丸の哥にて和歌九品にも上々とし、これはことばもたへにして、あまりの心さへあるなりといはれたるほどの哥なればとおもひて、しひていふなるべし。此集の肝要の哥ならばいかでかこれをもらさるべきや。但是は哥の玄々にあらざるにはあらず。

 ところで、最初に紹介しましたように、この作品の作者について一部の早とちりの人の誤解釈から別人説があります。その別人説では『今昔物語集』巻第二十四に載る「小野篁被流隠岐国時読和歌語第四十五」の説話を根拠として、紹介した「ほのぼのとあかしの浦の」の歌を「小野篁」の作品で、彼が隠岐島へ流刑に処せられたときに、その道中で詠われたものと紹介します。
 しかしながら、真面目に作品の歴史を調べますと、この「ほのぼのとあかしの浦の」の歌の初出は平安初期(905年)の『古今和歌集』であり、平安末期から鎌倉時代初期の作品(推定で1120年代ごろ)とされる『今昔物語集』との間には二百年もの時間の流れがあります。その間、小野篁作品説を説くものはありません。反って、多くの歌論書は『古今和歌集』や『拾遺和歌集』などから柿本人麻呂の作品とします。およそ、「ほのぼのとあかしの浦の」の歌が小野篁の作品とするには、慎重にその根拠と考察を行うことが求められます。手始めに、まず、『古今和歌集』に載る左注の記事を否定することから始めなくてはいけませんから、学問的には、小野篁作品説とは、そのような話題が『今昔物語集』に載っているとするのが良いようです。このあたりの事情については徳原茂実氏の「小野篁の船出―『わたの原八十島かけて』考―」にも示されていますので、インターネット検索で確認下さい。なかなか、その背景の解説には興味深いものがあります。
 参考として、稿では、小野篁は隠岐国配流に際し延喜式に載る公式官道に従い平安京から陸路、山陰道を使い、丹波国、但馬国、因幡国、伯耆国を経て出雲国千酌駅(松江市美保関町)の船着場から隠岐島へと渡海したであろうと紹介しています。つまり、小野篁は伝統の『今昔物語集』の解説で示される攝津国川尻の湊や明石沖合の航行とは関係が無いことは明らかです。
 当然、官僚・貴族が公務以外で畿外に旅することは禁止されていますから、隠岐国配流とは別に明石を訪れる可能性として私的な旅行を行ったと云う想定も難しいと考えます。いわゆる、「まぎれ」の可能性です。小野篁が明石を詠う可能性が隠岐国配流の時ではないとすると、唯一の可能性として考えられるのが遣唐使副使として唐への渡海の時です。その時、条件として遣唐使の大船が明石の浦に停泊していないといけないことになります。これですと、可能性はありますが『今昔物語集』とはまったく違う背景となります。確かに、小野篁は有名な遣唐使の騒動によると、二往復ほど明石を通過しています。しかし、このことから『今昔物語集』の記事が真実であるとすることは難しいと考えます。
 今日のインターネットの時代は、このような調査がわずかな時間で行えますし、その裏付け調査も容易であると云うことは、一面、便利ですが、恐ろしいものがあります。およそ、現代ですと小説と史実の区分することは重要ですが、室町時代や昭和の時代ではそれを咎めることもなかったでしょう。ただ、現代で『今昔物語集』と云う小説集を下にして小野篁作品説を唱えることは、文学研究者が行うのですと大変な勇気がいる行為と推察します。政府の方針で公金に関わる研究や職務からの研究書や論文等はインターネット上に公開することが求められ、それは未来に渡り消せない公開記録です。およそ、従来のような学内紀要として仲間内だけでの秘匿された公開書として処理が出来ないのです。困ったことです。
 当然、ここまでの話を了解した上で、なお、小野篁作品説を唱える人は『古今和歌集』編纂以前から、表には知らされない隠された伝承が存在し、それが鎌倉時代になって初めて世に示されたのであると説明します。つまり、この歌には小野篁に関係する怨念、陰謀、等々の渦巻く歴史があり、藤原氏が主導権を握っていた平安時代には小野篁作品説は公表出来ず、柿本人麻呂に仮託したとします。この論説を裏付けるものはありませんが、実に大変な解釈です。

 さて、この「ほのぼのとあかしの浦の」の歌は、一般では小野篁に関係する伝統の解説から現在の兵庫県明石市の海岸の風景を詠った歌と解釈されています。ところが、『古今和歌集』が編まれた平安時代初期の人々がこの歌を明石地方の風景を詠ったものと解釈していたかと云うとその確証はありません。先に紹介しましたように『古今和歌集』のものと近代解釈のものとで歌の表記方法が違いますので、その表記の相違から歌の解釈が変質します。重要な指摘として、『古今和歌集』などの平安時代中期までの古今和調の短歌は一字一音の万葉仮名や変体仮名で表記されますから、現在のような歌の表記において「明石」と云う漢字二文字の表記を使う可能性はありません。
 この『古今和歌集』に載る和歌の表記問題について、筑波大学で行われた高野切本古今和歌集復元事業の報告によりますと、少なくとも、『高野切本古今和歌集』では「歌中に漢字を交えないのが原則」とされています。つまり、「あかしの浦」は「あかしのうら」と表記されるものであり、そこから古今和歌集好みの掛詞技法の下、「明しの浦」、「赤しの浦」、「飽かしの浦」、「明石の浦」などと複数に解釈されるものであって、もし、「あかしの浦」が「ほのぼのと」と形容されるのであれば朝焼けや夜明けを示す「明しの浦」や景色に堪能したと云う意味合いでの「飽かしの浦」の解釈の方が相応しいものとなります。その時、歌は写実の歌ではなく、回想の歌である可能すら浮かんで来るのです。時に、歌の中に前日の風光明媚な海辺の景色が示されている可能性があるのです。そこに藤原公任が云う「言葉妙にして余りの心さへある」が示されていると考えます。紀貫之の死没が945年で、藤原公任の死没は1041年ではありますが、まだまだ、『古今和歌集』の歌の世界の伝統は藤原公任の生きた時代には引き継がれていたと想像します。
 余談として歌の表記を紹介しますと、次のようになっています。歌を解釈した人により、歌の表記が変化していることが理解できるのではないでしょうか。伝統において「あかしのうら」を「明石の浦」と表記してはいけないことだけは理解していただけると思います。もし、論文などで『古今和歌集』の歌を引用する場合、本来はすべて清音の平仮名表記であるべきと考えます。漢字交じり平仮名表記を採用する場合、それを採用した歌の景色とその解釈を紹介しなければ、不十分と考えます。

『古今和歌集』の表記
ほのほのと あかしのうらの あさきりに しまかくれゆく ふねをしそおもふ
『和歌九品』の表記
ほのほのと あかしのうらの あさきりに しまかくれゆく ふねをしそおもふ

インターネット検索での調べた歌の表記
例1、「古今和歌集の部屋」より
ほのぼのと 明石の浦の 朝霧に 島隠れ行く 舟をしぞ思ふ

例2、「平安朝の人麻呂像形成 吉村誠」(山口大学研究論叢. 人文科学・社会科学巻 : 58 号)より
A ほのぼのと明石の浦の朝霧に島隠れ行く舟をしぞ思ふ (本文中)
B ほのゝゝとあかしの浦の朝霧にしまかくれゆく舟をしぞ思 (文中「古今著聞集」引用)
C ホノゝゝトアカシノ浦ノアサギリニ嶋カクレ行ク舟ヲシゾオモフ (文中「古今物語」引用)


 ついでに、言葉を確認しますと、歌の初句の「ほのぼの」の言葉は「仄仄」と漢字表記され、「ほのかに。かすかに。ほんの少し」と云う意味合いで解釈します。それは、現代用語では「ほのぼの」の言葉を「ほんのりと暖かい、ほんのりと心暖まる」と云うような例文で解説されるものとは語感が違っていることを確認する必要があります。
 ここで、当然、伝承では柿本人麻呂の歌とされているのですから、『古今和歌集』に載る歌番409の歌は略体歌か、非略体歌かと称される漢語と漢字だけで表記された歌から翻訳されたものであろうと推定しなければいけません。およそ、短歌三十一文字全部を万葉仮名で表記を行うようになるのは大伴旅人が大宰府の彼の役宅で開催した天平二年の梅花の宴以降です。つまり、時代性と日本語表記の歴史からすると、柿本人麻呂が歌番409の歌を現在に伝わるような「一字一音の変体仮名表記」で歌を詠った可能性はありません。
 そうした時、『万葉集』の表記を確認しますと「仄」と云う漢字を使った歌は万葉集中にはありません。一方、『万葉集』の訓読み和歌に「ほのか」と詠うものは存在します。おおむね、万葉集中では「ほのか」は「髣髴」と表記するものが多く、特殊な表記として集歌2394の歌では「風所」と表記して「ほのかに」と訓みます。さらに「あかし」の「あか」は「暁」や「明」の漢字が使われた可能性が高く、集歌3035のような「暁之」なる表記を使った歌もあります。

「髣髴」の用例
集歌3085 朝影尓 吾身者成奴 玉蜻 髣髴所見而 徃之兒故尓
訓読 朝影(あさかげ)に吾(あ)が身はなりぬ玉かぎるほのかに見えて去(い)にし子ゆゑに
私訳 朝の影法師のように私の体は痩せ細ってしまった。玉がきらめくようにわずかに姿を見せて行ってしまったあの娘子のために。

「風所」の用例
集歌2394 朝影 吾身成 玉垣入 風所見 去子故
訓読 朝影(あさかげ)し吾(わ)が身はなりぬ玉(たま)垣(かき)るほのかに見えて去(い)にし子ゆゑに
私訳 光が弱々しい日の出のように私は痩せ細ってしまいました。大宮へ入って行く風のように、ほんの少し姿を見せて行きすぎて行った貴女のために。

「暁之」の用例
集歌3035 暁之 朝霧隠 反羽二 如何戀乃 色舟出尓家留
試訓 暁(あかとき)し朝霧隠(こも)りかへらばに何しか恋の色付(にほひ)出でにける
試訳 暁の朝霧に何もかにもが立ち隠っているように、想いを隠していたのに、反って、どうした訳か、霧の中を舟出するように恋い焦がれる雰囲気がほのかに立ち上ってしまいました。
注意 原文の「色舟出尓家留」を、一般には「色丹出尓家留」と「舟」は「丹」の誤記とします。ここでは、原文のままに「舟」の音の「フ」から「付」を起こして「色付」と訓んでいます。

 遊びですが、可能性として次のような歌が人麻呂時代に存在すると「ほのぼのと・・・」のような歌に翻訳されることがあったかもしれません。

髣髴之暁之浦之朝霧二従嶋隠去船所念

 『古今和歌集』編纂の直前に編まれた歌集に『新撰万葉集』があり、それは菅原道真の遣唐使一員として大唐への渡航に備え、日本文化を紹介するために平仮名で表記・記録された当時に詠われた和歌に対し、万葉集風に漢語と万葉仮名だけで表現したものを作歌するのと同時に和歌の景色を漢詩で表現すると云う試みをしたものです。その作業の逆の行為として『万葉集』の漢語と万葉仮名だけで表現したものを平仮名表記に翻訳することは、極、自然に行われていたと推測されます。
 裏返せば、『古今和歌集』に載る歌番409の歌の原歌は『万葉集』の漢語と万葉仮名だけで表現したものと想像しても、それはそれほど特異な推論ではないことになりますし、そのような推論を行う必然性があります。

新撰万葉集 下 歌番196 柿本人麻呂
和歌 秋之野丹 立麋之聲者 吾曾鳴 獨寢夜之 數緒歴沼禮者
読下 あきののに たつしかのねは われそなく ひとりぬるよの かすをへぬれは
漢詩 秋夜麋處處響 毎山蟲咽數數聒 月光飛落照黄菊 濤花開来解池怨

 さて、表記での遊びの続きで、瀬戸内海は新暦の五月から六月頃が海霧発生の時期に当たります。『万葉集』に載る柿本人麻呂が歌う海辺の歌で、時期も新暦五月から六月の景色を詠うものとしては「羇旅歌八首」が有名です。抜粋しますと、次のような歌があります。従いまして、『古今和歌集』歌番409の歌は「明石」の風景ではありませんが、播磨国印南郡から加古郡の海岸線から見た景色、それも加古川河口の砂州付近の歌であったかもしれません。
 人麻呂が詠う集歌253の歌の「可古の嶋」は、現在のところ確定した場所や島はありません。ただ、古代から播磨国と但馬国とを結ぶ交通の要所であった加古川の河口に築かれた湊付近が候補に登り、およそ、それは加古川河口右岸の砂州ではないかと推定されています。

集歌251 粟路之 野嶋之前乃 濱風尓 妹之結 紐吹返
訓読 淡路し野島し崎の浜風に妹し結びし紐吹きかへす
私訳 淡路の野島の崎に吹く浜風に貴女が結んだ約束の紐が貴女の想いを載せて吹き返す。

集歌253 稲日野毛 去過勝尓 思有者 心戀敷 可古能嶋所見
訓読 稲日野も行き過ぎかてに思へれば心恋しき可古の島見ゆ
私訳 稲美野も行き過ぎてしまって、ふと思うと目的としていた加古の島が見える。

 なお、表記について遊びを行いました歌に、さらなる可能性がある場合、時に「ほのぼのと・・・」の歌は奥琵琶湖の海津大崎付近の景色かもしれません。柿本人麻呂は、若い時代、近江国高島地方を訪れて歌を残していますので、その可能性から高島市マキノの「海津大崎の暁霧」の風景を詠ったかもしれません。奥琵琶湖もまた春から梅雨時が湖水霧のシーズンのようです。この時、「あかしのうら」は「払暁の光が明るい浦」、「夜を明かした浦」、「景色に飽かした浦」などの意味合いを持つことになります。地名ではありません。
 参考に近江高島で人麻呂が詠った歌を紹介します。

集歌1690 高嶋之 阿渡川波者 驟鞆 吾者家思 宿加奈之弥
訓読 高島し阿渡(あと)川波(かわなみ)は騒くともわれは家(いへ)思(も)ふ宿(たび)し悲しみ
私訳 高島の阿渡川の川浪が音高く騒いでいても、それでもしみじみ、私は家を思い出します。旅の辛さに。

集歌2436 大船 香取海 慍下 何有人 物不念有
訓読 大船し香取(かとり)し海し慍(いかり)下(おろ)しいかなる人か物(もの)思(も)はずあらむ
私訳 大船が高島の香取の入江に碇を下ろす。その言葉のひびきではないが、逢えないことへの怒りを下す。どのような人が、逢えない恋人に物思いをしないことがあるでしょうか。


 ずいぶんと、一般に思われている歌の景色や歴史とはかけ離れたものになりました。ただ、世間に紹介されているもので信頼性のあるものを集めるとこのような歌の鑑賞になります。小野篁は有名人物でその生涯も十分に研究された人物です。従いまして彼を題材として作られた小説と史実との区別は容易なことと考えます。それに反して小説を史実として受け入れる態度は、繰り返します、いかがなものでしょうか。ただ、不遜な感想ではありますが文学研究分野において『古今和歌集』もまた『万葉集』と同様にきちんとは鑑賞されない歌集なのかもしれません。『万葉集』の歌の感覚や紀貫之の歌風が好みではなかった藤原定家の解釈がすべて正しいかのような前提条件はある種の色眼鏡ではないでしょうか。
 終わりに、最後まで遊びに付き合って頂きありがとうございました。このような遊びは暇な社会人に許された特権です。

資料として「海津大崎の暁霧」の写真を添付します。

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3 コメント

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追記のお知らせ (作業員)
2015-03-14 10:23:47
参考資料として海津大崎付近を写したものをのせます
明かしのうら (久保 公)
2017-03-07 00:00:21
はじめまして
膨大な力作ですね。老眼と呆け脳に悩む77歳のわたくしには、レベルが高すぎますが たいへん参考になります。
「柿本人麻呂」は、「古今伝授」の世界では、最高位で、「神」「磐古」になぞらえられていたようです。「盤古」というものが「柿本人麻呂」という人格を纏っていたと云うべきかもしれません。
わたくしは、その「盤古」とは、大物主が隠し妻として伝えてきた「神宝」「和御霊代」であり、それは「玉」であり、貝桶に入っている故に「貝」ともよばれ、衣とよばれる袋の上から五色の絹糸でまるで手毬のように絡げてあるゆえに「紐解」かずしては合うこともできません。
日光東照宮やその他の東照宮の拝殿には三十六歌仙の額が掛けられていますが、その筆頭に「ほのぼのと 明かしのうらの・・・・」の歌が掲げられています。東照宮によっては、「ほのぼの戸」となっており、「天岩戸」の戸を連想させます。そしてその船とは「聖王」のことであると古今伝授は伝えていますが、たぶん「聖王」は「羅馬船あめのかがみのふね」で来た少彦名のことであろうとおもいます。
「ほのぼのと…」の歌は、「あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の ながながし夜(代)を ひとりかも寝む」の歌と一対です。その寝ている隠し妻(神宝=日本のアイデンティティー)鳥とかくれ島(日本のアイデンティティー)が同じです。
しだり尾は山鳥や雉だそうですが鶏にも鴨に鶴にもあてられていて、式年遷宮の時にカケコーと鳴くのは鶏がその役目をつとめて、天岩戸の故事をさそっています。
ちなみに、その紐で「八十結び」にて「久堅」く封印された御袋は東京以北の思いがけないところにあります。
万葉集や百人一首の「恋」「寝」「手枕」の歌は殆どがこの「吾妻」の歴史や背景を詠ったものですが、それを包んでいる古新聞や週刊誌の切れ端級のものもまざっているからこそ万人が楽しめると言えるのではないでしょうか。
竹取の翁が少彦名だと思っています。
勿論、時代は後代にずらして物語ってありますが・・・
それで、コメントさせていただきました。
ご来場のお礼 (作業員)
2017-03-11 08:17:38
諸般の事情があり、出稼ぎをして時に管理が不行届きになっております。申し訳ありません。

古今和歌集などの古典は藤原定家の写しを正統なものとして鎌倉時代以降、研究や伝承がなされてきましたが、近年の研究で、それは定家の解釈による翻訳本であることが明確になってきました。
およそ、多くの古典研究は定家の解釈・翻訳をテキストにしてきたわけで、本来の原典にもどりますと、・・・
と云う状況です。
弊ブログは極力、原典に戻ることを原則としており、一般のものとは違って居ります。

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