竹取翁と万葉集のお勉強

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資料編 墨子 巻十 経下

2021年06月13日 | 墨子 原文と訓じ
資料編 墨子 巻十 経下

《経下》
止、類以行之。説在同。
推類之難、説在之大小。
物盡同名、二與門、愛、食與招、白與視、麗與、夫與履。
一偏棄之、謂而固是也、説在因。
不可偏去而二、説在見與俱、一與二、廣與修。
不能而不害。説在害。
異類不吡、説在量。
偏去莫加少、説在故。
假必誖、説在不然。
物之所以然、與所以知之、與所以使人知之、不必同。説在病。
疑、説在逢、循、遇、過。
合、與一、或復否、説在拒。
歐物一體也、説在俱一、惟是。
宇、或徙、説在長宇久。
不堅白、説在無久與宇。
堅白、説在因。
在諸其所然未者然、説在於是推之。
景不徙、説在改為。
景二、説在重。
景到、在午有端與景長、説在端。
景迎日、説在慱。
景之小大、説在地正遠近。
臨鑒而立、景到。多而若少、説在寡区。
鑒位、景一小而易、一大而正、説在中之外内。
鑑團、景一天、而必正、説在得。
負而不撓、説在勝。
契與枝板、説在薄。
倚者不可正、説在剃。
推之必往、説在廃材。
買無貴、説在仮其賈。
賈宜則讐、説在盡。
無説而懼、説在弗心。
或、過名也、説在實。
知知之否之足用也誖、説在無以也。
謂辯無勝、必不當。説在辯。
無不讓也、不可。説在始。
於一、有知焉、有不知焉、説在存。
有指於二、而不可逃、説在以二累。
所知而弗能指、説在春也、逃臣、狗犬、貴者。
知狗而自謂不知犬、過也、説在重。
通意後對、説在不知其誰謂也。
所存與者、於存與孰存、駟異説。
五行毋常勝、説在宜。
無欲悪之為益損也、説在宜。
損而不害、説在餘。
知而不以五路、説在久。
必熱、説在頓。
知其所以、不知、説在以名、取。
無不必待有、説在所謂。
擢慮不疑、説在有無。
且然不可正、而不害用工、説在宜。
均之絕不、説在所均。
堯之義也、生於今而處於古。而異時。説在所義二。
狗、犬也、而殺狗非殺犬也、可。説在重。
使、殷、美、説在使。
荊之大、其沈淺也、説在具。
以檻為摶、於以為、無知也。説在意。
意未可知、説在可用過仵。
一少於二而多於五、説在建住。
非半、弗著、則不動。説在端。
可無也、有之而不可去。説在嘗然。
正而不可擔、説在摶。
宇進無近、説在敷。
行循以久、説在先後。
一法者之相與也盡、若方之相召也。説在方。
狂挙不可以知異、説在有不可。
牛馬之非牛、與可之同、説在兼。
循此循此與彼此同。説在異。
唱和同患、説在功。
聞所不知若所知、則両知之、説在告。
以言為盡誖、誖。説在其言。
惟吾謂非名也、則不可。説在仮。
無窮不害兼、説在盈否。
不知其數而知其盡也、説在明者。
不知其所處、不害愛之。説在喪子者。
仁義之為内外也、内、説在仵顏。
学之益也、説在誹者。
誹之可否、不以衆寡。説在可非。
非誹者諄、説在弗非。
物甚不甚、説在若是。
取下以求上也、説在澤。
是是與是同、説在不州。


《経下》
止(し)、類を以って之を行う。説は同じきに在り。
類(るい)を推(くらぶ)の之は難し、説は之の大小に在り。(推、排也、猶列也)
物は盡(ことごと)く名を同(とも)にし、二(わか)つに與(したが)ひ門(き)き、愛す、食ふに與(したが)ひ招(もと)め、白(みなもと)に與(したが)ひ視(あきらか)にし、麗(ぜん)に與(したが)ひて、夫(そ)に與(したが)ひ履(さいわい)す。(同、共也、又聚也。二、分而爲二。與、又許也,従也。門、聞也。招、又求也。白、素也。視、明也。麗、美也、猶善也。履、又祿也、猶福也)
一(いち)、之(これ)を偏棄(へんき)し、謂ひて而して固(もと)より是(ぜ)なり、説は因に在り。
偏去(へんきょ)して而して二(わか)つ可(べ)からず、説は、見(けん)の俱(つまびらか)にするに與(したが)ひ、一(いち)は二(に)に與(したが)ひ、廣(ひろさ)は修(ながさ)に與(したが)ふに在り。(二、分而爲二。俱、具也。修、又長也。)
能(あた)はずして而して害(がい)あらず。説は害に在り。
異類は吡(そし)らず、説は量に在り。
偏去するも少(すくな)きを加えるは莫し、説は故(こ)に在り。
假(か)は必ず誖(たが)ふ、説は然(しか)らざるに在り。
物の然(しか)る所以(ゆえん)と、之を知るの所以(ゆえん)と、人をして知ら使(し)らしむ所以(ゆえん)と、必ずしも同じからず。説は病に在り。
疑(ぎ)、説は逢(ほう)、循(じゅん)、遇(ぐう)、過(か)に在り。
合して一と與(な)す、或(ある)いは復(ふく)するか否(いな)か、説は拒(きょ)に在り。
歐物(くぶつ)は一體なり、説は一を俱(つまびらか)にすると是を惟(おもむはか)るに在り。(俱、具也。惟、凡思也。)
宇(う)、或は徙(うつ)る、説は長宇(ちょうう)の久(きゅう)に在り。
堅白(けんぱく)ならず、説は久と宇の無きに在り。(注;堅白異同説)
堅白、説は因に在り。(注;堅白異同説)
諸(もろもろ)の其の然(しか)る所と未だ然らざるものを在(あき)らかにす、説は是(ここ)に於いて之を推(しりぞけ)るに在り。(推、排也。)
景(かげ)は徙(うつ)らず、説は改め為すに在り。
景(かげ)は二(わか)ちて、説は重なるに在り。(二、分而爲二。)
景(かげ)の到(さかしま)なるは、午(さかさま)に在りて端は有り景の長さに與(したが)ふ、説は端に在り。(到、異体字;倒。午、屰也。與、又許也、從也。)
景は日に迎ふ、説は慱(てん)に在り。
景の小大、説は地正(ちせい)遠近(えんきん)に在り。
鑒(かがみ)に臨み而して立てば、景は到(さかしま)なり。多(ながく)して而(しかる)に少(しょう)の若(ごと)し、説は区(わか)ちて寡(しょう)に在り。(到、異体字:倒。多、長也。区、分也。寡、少也。)
鑒(かがみ)の位、景の一(ある)は小にして而して易(ぼやけ)、一(ある)は大にして而して正(あきらか)、説は之の中(ちゅう)の外内に在り。(位、又所也。中、中心也)
鑑(かがみ)の團(えん)、景は一(いち)にして天(たおれる)、而(しかる)に必ず正(ながい)、説は得(ためす)に在り。(天、顚也。正,長也。得、又賦受)
負(お)ひて而(しかる)に撓(たわ)まず、説は勝(たえ)るに在り。
契と枝は板(はん)す、説は薄に在り。(契、合也。枝、又支持也。板、反也。薄、又集也。)
倚(い)なる者は正(ただ)す可(べ)からず、説は剃(てい)に在り。(剃、或作剔。)
之を推(うつ)せば必ず往(さ)る、説は材を廃するに在り。(推、又移也。往、去也。)
買(ばい)には貴(こう)は無し、説は其の賈(か)を仮(やめ)るに在り。(貴、高也。賈、猶買賣也。仮、覆也。)
賈(か)は宜(よろ)しければ則ち讐(ととの)う、説は盡(つく)すに在り。(賈、猶買賣也。。讐、猶齊也。)
説無くして而して懼(おそ)れ、説は弗心(ふつしん)に在り。
或(まよひ)は、名を過(あやま)るなり、説は實(じつ)に在り。
知(ち)、之を知り之を否とし用ふるに足るは誖(もと)る。説は以ってすること無きに在り。
謂(い)、辯(べん)の勝ち無きは、必ず當(あた)らず。説は辯に在り。
譲(ゆず)らざる無きや、可(べ)からず。説は始に在り。
一に於いて、知る有りや、知らず有りや、説は存に在り。
二に於いて指(のぞ)くが有るは、而して逃(の)がれ可(べ)からず、説は二(わか)つを累(かさ)ねるを以って在り。(指、斥也。二、分而爲二。)
知る所にして而(しかる)に指(のぞ)くは能(あた)はず、説は春(おしはかる)に在り、逃臣(とうしん)、狗犬(くけん)、貴者(きしゃ)なり。(指、斥也。春、推也。)
狗(く)を知り而して自から犬(けん)を知らずと謂う、過(あやま)ちなり、説は重に在り。
意(い)を通じ後に對(こた)ふ、説は其(そ)を誰か謂ふを知らずに在るなり。
所存(しょぞん)と者(しゃ)、存(ぞん)と孰存(しゅくぞん)に於いて、異説を駟(か)る。
五行(ごぎょう)に常勝は毋(な)し、説は宜(ぎ)に在り。(宜、事也。)
欲悪(よくお)の之の益損(やくそん)を為すこと無きなり、説は宜(ぎ)に在り。(宜、事也。)
損して而(しかる)に害せず、説は餘に在り。(餘、饒也、又益也)
知(ち)するに而(しかる)に五路(ごろ)を以ってせず、説は久(なか)に在り。(久、常於中也。)
必は熱(あつ)し、説は頓に在り。(必、又專也。熱、溫也、溫、仁也。頓、遽也。)
知は其の所を以って、知らず、説は名を以って在り、取るなり。
無は必ずしも有を待たず、説は謂ふ所に在り。
擢(てき)は慮(おもんばか)って疑(うた)がわず、説は有無に在り。(擢、引也。)
且(まさ)に然(しか)らば正(ただ)す可(べ)からず、而して工を用いるに害せず、説は宜(ぎ)に在り。(宜、事也。)
均(きん)の之を絶(はか)るか不(いな)か、説は均(はか)る所に在り。(均、平也。絶、度也。)
堯(ぎょう)の義や、今(いま)に於いて生(せい)ありて而(ま)た古(いにしえ)に於いて處(お)る。而(しかる)に時は異なる。説は義を二(わか)つ所に在り。(二、分而爲二。)
狗(く)、犬なり、而して狗を殺し犬を殺さずに非ずや、可なり。説は重に在り。
使(し)、殷(せい)は美(ぜん)なり、説は使に在り。(使、令也,役也。殷、正也。美、善也、又好也。)
荊(けい)、之は大いなり、其の沈は淺なり、説は具に在り。(沈、或作湛。具、辦也)
檻(かん)を以って摶(ばく)と為し、於いて為(い)を以って、知る無きなり。説は意に在り。
意(い)は未だ知る可(べ)からず、説は用(もち)うる可(べ)くして、過仵するに在り。(仵、偶敵也。)
一(いち)は二(に)に於いて少(しょう)にして而(しかる)に五(ご)に於いて多(かさな)る、説は住(じゅう)を建(けん)するに在り。(多、重也。住、立也,居也。)
半(はん)に非ず、著(き)らずば、則ち動かず。説は端に在り。
無(な)かる可(べ)きなり、之有りて而して去る可からず。説は嘗然(しょうぜん)に在り。
正(せい)にして而して擔(にな)う可からず、説は摶に在り。
宇(う)は進み近(きん)は無し、説は敷(ふ)に在り。
循(じゅん)を行(おこな)ふには久(きゅう)を以ってし、説は先後に在り。(循、行順也。久、常於中也。)
一(ある)法(のり)のものを相(あい)與(とも)にするや盡(ことごと)し、方(ほう)を相(あい)召(ひょう)するが若(ごと)くなり。説は方(ほう)に在り。(方、又術也,法也。召、評也。)
狂挙(きょうきょ)は以って異を知る可からず、説は不可(ふか)の有るに在り。
牛馬(ぎゅうば)は之(これ)は牛(うし)に非ず、之を可とすると同じ、説は兼に在り。
此(し)を循(めぐ)り此に循(よ)ると彼(か)と此(し)は同じ。説は異に在り。(循、依也。又巡也。)
和(わ)を唱え患を同じくす、説は功に在り。
知らざる所を聞くは知る所の若(ごと)し、則ち両(とも)に之を知る、説は告ぐに在り。
言を以って盡(ことごと)く誖(もと)るを為すは誖(もと)る。説は其の言に在り。
惟(ゐ)、吾の名(めい)に非ずを謂うなり、則ち可からずなり。説は仮(くつがえす)に在り。(惟、念思也。名、自命也。仮、覆也。同反。)
無窮(むきゅう)は兼を害せず、説は盈(えい)を否するに在り。(経上;盈、莫不有也。)
其の數を知らず而(しかる)に其の盡(つく)すを知るなり、説は明かなるものに在り。
其の處(お)る所を知らずも、之を愛するを害せず。説は子を喪(うしな)う者に在り。
仁義の之を内外に為すや、内なり、説は顔(ひたい)の仵(おな)じきに在り。(顔、顙也。仵、同也。)
之を学ぶは益なり、説は誹(そし)る者に在り。
之を誹(そし)るは否する可べき、衆寡(しゅうか)を以ってせず。説は非とす可(べ)きに在り。
誹(ひ)を非(ひ)するは諄(もと)る、説は非とせずに在り。
物の甚(はなは)だしきと甚(はなは)だしからずは、説は是(これ)の若(ごと)くに在り。
下を取って以って上を求むなり、説は澤(てん)に在り。(易経;澤上于天:君子以施禄及下)
是是(ぜぜ)と是(ぜ)は同じく、説は州(ことさら)にせずに在り。(州、疇也、殊也。)
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万葉雑記 番外雑記 万葉時代、都市庶民の食事に遊ぶ

2021年06月12日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 番外雑記 万葉時代、都市庶民の食事に遊ぶ

 今回も万葉集の歌には直接に関係しませんが、万葉集の歌が詠われた時代の庶民の生活を一番に代表する食事について、改めて、妄想して見ました。つまり、いつもの与太話です。ただ、結論として、弊ブログは明確な根拠を持つ与太ですが、従来の昭和以来の「学説」は全くのフェイクニュースの類です。

 万葉時代を主に飛鳥藤原京の時代から前期平城京時代とすると、この時代の庶民の食事風景は「かしはら探訪ナビ・貴族・役人と庶民の食卓」で、検索を行うことにより容易に復元写真付きの解説を見ることが出来ます。ただし、この復元された食事献立に学問上の信頼できる根拠が有るかと云うと全くありません。現在では、立派なフェイクニュースの類なものです。単純に正倉院文書や造石山寺所関係文書に示す当時の建設時の記録に朝廷が定めた日当支給規定と同等の支給品目・分量による舂米と塩の記事があり、その記録と万葉集に載る集歌3829の歌などから副菜を加えたものから庶民が食した食材を組立、さらに調理方法を想像した上でのものとなっています。なお、その時、本来求められる、民俗学、栄養学、歴史学、生物学、地理学などからの検証・検討は行っていないようです。

詠酢醤蒜鯛水葱謌
標訓 酢、醤(ひしほ)、蒜(ひる)、鯛、水葱(なぎ)を詠める歌
集歌3829 
原文 醤酢尓 蒜都伎合而 鯛願 吾尓勿所見 水葱乃煮物
訓読 醤酢(ひしはす)に蒜(ひる)搗(つ)きかてて鯛願ふ我れにな見えそ水葱(なぎ)の羹(あつもの)
私訳 醤と酢に蒜を混ぜ合わせて鯛で作ったご馳走を食べたいと空想しているのだから、私の目の前に現実に引き戻すような水葱の煮物を持って来るな。

 紹介したものは、一見、根拠が有るように思えますが、一方、この研究・調査には重大な欠点があり、担当した研究者は「人間は生物・動物に分類され、摂取カロリーが不十分だと生存できない」と云う栄養学での基本中の基本について、まったく検討をしていないのです。このモデル食事献立で得られるカロリー摂取量と人間の基礎代謝量との問題は、平成初期の段階で栄養学や医学方面から肉体労働時の最低摂取カロリー量の評価を含めて指摘されています。それで栄養学から見れば立派なフェイクニュースの類の分類です。
 参考に、朝廷からお金が支給される貴族や寺社には公務員に準じた家司などの使用人がおり、それらの人々は朝廷からのお金の管理義務から調達した物資や食料などについて、搬入元・数量・金額などを記帳し会計簿を作成しています。そのため、古文書や木簡などを通じて貴族たちの食生活の復元は容易です。
 一方、庶民生活の記録はほとんどないために、わずかに造石山寺所関係文書などに頼ることになります。その資料からすると一般の賃労働者へは労働報酬として舂米と塩だけが支給されます。他方、当時の賃労働者への舂米と塩との支給量は一日で全量が消費出来ないほどの分量(現在量で、米八合、塩30g)です。周辺農民が必須的に購入品目になる塩を見てみると大正から昭和初期の近畿圏の塩消費量が23g/日・人と云う数字がありますから、賃労働者に30g/日・人の支給があれば余剰が出ることになります。賃労働者たちは、その余剰となった塩などを使い、農村民との物々交換により川魚、川蜷、野菜、獣肉などを調達する可能性がありますし、それを行っていたと考えられています。奈良の都には東西に公設の市場があり、朝廷はそのような物々交換の場を提供しています。また、庸役務として原住地出発から服務日数が満30日を越えた労働者には「直」という賃金支払い制度があり、日当一日銅銭1文が支払われますから、日当を使い公設市場などから食料を調達することは可能です。ただし、庶民が日常に行う物々交換などは文字を使った購入記録を残しません。それを承知している昭和時代の研究者は文字による購入記録が確認出来ないものは未確定として、意図して摂取目的の食料品目から外します。それが先に紹介した「かしはら探訪ナビ・貴族・役人と庶民の食卓」で示すものです。その結果、庶民の食生活は、いかにも貧弱で貧困であったと紹介が可能となります。
 他方、人の生活を前提とした食料品目の研究者は物々交換の可能性を踏まえていますが、食事を復元した研究者はその未確定の物々交換による食料品目の可能性の指摘を受け入れず、結果、確定品目の食材だけで食事を復元する為に、学術的にフェイクニュースの類となってしまいます。また、それが昭和時代に要請された「農民は搾取され、貧困であった」という前提への答えです。
 このようにフェイクニュースの類として確定しているカロリー摂取量と食料品目の問題とは別に、次の疑問として指摘されている事項に、日本の庶民の食事風景で一番重要な問題となる米の調理方法についての疑問があります。
 現代の日本人の大多数は粳(うるち)米種のお米を水と一緒にお釜に入れて「炊く;炊飯調理」を行い「ご飯」として、主に箸を用いて食べます。ところが、従来からの研究者の主張は、奈良時代の庶民の米の調理方法は「蒸す;蒸飯調理」を行い、現在の赤飯のような「おこわ飯」として食べていたとします。これを反映して、「かしはら探訪ナビ」は粳米種のお米を蒸飯調理した「おこわ飯(強飯)」を高坏に円錐形に盛ったスタイルを示します。
 ここで、そのような研究者の学問からの逃亡を阻止する為に奈良時代のお米の品種を木簡や古文書から確認すると、当時の主力品種は中世に繋がる粳米種のお米(品種名:古僧子、地蔵子、狄帯建、畦越、稲益、白稲、女和早、白和世、須留女、小須流女など)で、糯(もち)米種のお米ではありません。ここでの話は日常生活の中でのお米の調理法を扱っていて、非日常の儀式や祭り、貴人歓迎などの特別な場面での糯米の調理法にすり替えての話は許さないことにします。つまり、粳米種のお米の調理方法について話題としています。補足として、「正倉院文書」から奈良時代の写経生に「粳米」を支給していますが、この粳米種のお米は蒸飯調理法には適さないと報告します。食文化研究者も、日常で主に粳米を食べていたとすると調理方法に不合理性が生まれ、困惑するのです。そのため、派生研究として「粳米種のお米の蒸飯調理法の再現」と云うものが食文化研究者の研究テーマとして誕生しています。例の藻塩研究と同じです。考古学の遺物や文献では、飛鳥・奈良時代には塩は石釜、鉄釜、土師器壷により、海水から直接に煮詰めて製塩したことが判っていますし、薪コストからすると、それが当時としてはもっとも経済性があったとします。ところが、昭和の研究者が製法は不明だが、藻塩というものが食用塩であったと論文を書いた為に、藻塩製法が研究テーマになってしまいました。奈良時代に製鉄・製銅のための低品質の工業塩が必要との認識が無かったためです。
 一方、ネット上に西南学院大名誉教授の高倉洋彰氏が「炊くか蒸すか、それが問題だ」との記事を載せ、遺跡調査から「弥生時代には、炊いたご飯を食べていたと考えるのが自然だし、通説となった。」と指摘しています。別の民族学の報告では、平安時代の庶民のお米の調理法は「炊き込みご飯」や「おじや」のような調理方法で、土師器の煮炊具である鍋の中にお米と副材を一緒に入れる調理方法:「糧飯」だったと報告します。この糧飯スタイルは、農村・漁村部では昭和初期まで続いています。つまり、従来の学説に遺跡調査の結果を重ねると、弥生時代まではお米と副材を一緒に入れる調理方法:糧飯であり、平安時代以降は再び糧飯調理法となります。加えて、奈良時代の遺跡から糧飯調理法を示唆する土鍋に吹きこぼれのオコゲが付着した調理土器が発掘されていますから、本当に従来学説のように庶民が古墳時代から奈良時代までの期間だけ、全国一斉に甑による蒸飯調理方法に変えたのか疑問があります。米に蒸飯調理方法を採用すると、副菜を加熱調理で調えるためには竈は甑竈と副菜調理の竈との複数必要で、非常に手間がかかるものとなります。これを全国の女性が受け入れたのでしょうか。そして、平安時代になると、再び、全国規模で蒸飯調理方法を炊飯調理法へと変えたとすると、「ナゼ、変えたのか」と云う大きな疑問が残ります。人類学や言語学などからすると、弥生時代、古墳時代、飛鳥・奈良時代、平安時代以降に渡って、大多数が同じ大和民族に属し、朝鮮半島や中国大陸のような大規模に民族が入れ替わるような歴史イベントは生じていません。炊飯調理方法の変化を歴史イベントによる民族入換えに求めるのは困難です。
 結果として、遺跡調査や民俗学研究成果からすると、奈良時代の庶民が蒸飯調理した「おこわ飯(強飯)」を食べていたというのは、これまた、フェイクニュースの類です。昭和時代中期に東南アジア方面を研究した人が、日本人と日本語の起源、さらに稲作のルーツをラオスからミャンマーの山岳部に求め、その地域に居住する山岳民族の調理方法が蒸飯調理だと思い込んだので、「日本も蒸飯調理だったはずだ」と類推し、その類推を強硬に主張した影響が大きいようです。
 今日、ジャポニカ稲種の故郷は長江(揚子江)にほぼ確定していますし、東南アジア方面の人種や言語は縄文人とも、弥生人とも直接の関係が無いことが明らかになっています。お米の調理方法でも、日本の炊飯方法は「炊干し法」に分類され、この調理方法は長江(揚子江)流域のものと同じです。別に、鍋で米を焚き上げる途中、その鍋の粘り成分を持ったお湯を棄て、お米に残った水分を利用して蒸す調理法の「湯切り法」があり、歴史的には黄河地方や朝鮮半島に見られるとのことです。
 また、2000年以降に実施された東南アジアから南西アジアでのコメの調理法の調査では、甑のような蒸し器を使用した蒸飯調理ではなく、「湯切り法」による粘りを取り除いたパサパサの飯にする調理法と判明しています。東南アジアでも日本と同様に粳米種のお米と糯米種のお米があり、その東南アジアでも日本と同様に糯米種のお米は甑のような蒸し器による蒸飯調理法で調理します。調査員が現地調査をする前に一定の結論を決めてから行うと、粳米種ともち米種とで調理方法が違っていても、もち米種の蒸飯調理法だけを報告する可能性もありますし、粳米種の「湯切り法」による調理は近世になって生まれた調理法と判定する可能性もあります。また、調査員は現地では賓客ですので、現地でも特別食となる糯米の料理を提供する可能性もあります。高倉洋彰氏が指摘するように、山上憶良の貧窮問答に出て来る場面は国司巡視と云う賓客に対する特別食の料理の場面を詠ったものと同様な可能性です。
 先ほどの「炊干し法」の調理法の一種、糧飯調理法は非常に手軽な調理法ですし、貧乏人の調理法です。同じ鍋の中にお米と副材を入れ、調理しますから、煮炊具の鍋は一つで良いので、薪などの節約になります。また、沿岸部以外の人たちは「購入」しなければいけない、貴重な調味料である「塩」も、一つの鍋だけの味付けだけですから大変な節約になります。つまり、鍋一つで手間が省け、薪や塩の節約になります。その超節約なため糧飯調理法は昭和時代初期まで伝わって来たのです。
 ここまでの確認作業で、万葉時代の庶民は生活環境の周囲で採取できる食材を使い、糧飯調理法で土師器の煮炊具を使って調理を行い、食事を取っていたと推測されることになります。

 奈良時代の食文化を紹介するものとして、『食の万葉集 古代の食生活を科学する』(廣瀬卓、中公新書)と云う有名な書籍があります。この本の特徴は万葉集の歌に出て来る食材を中心に置き、さらに奈良時代から平安時代初期の多くの書籍を使い、具体的に書籍類から引用しながら奈良時代に食されていた食材を紹介します。非常に信頼性のある、奈良時代の食文化の紹介本です。
 この「食の万葉集」から、奈良の京の庶民の食事風景を考えてみたいと思います。ただ実際は、庶民の食事の調理方法は土師器の煮炊具を使った糧飯が主体で、おなかが膨れれば良い的なもので、経験的に栄養失調からの疾病にならないように副材を調達していたと思われます。つまり、庶民の食事風景の再現とは、ほぼ、副材を探すことと同じようなものです。ちなみに、考古学などの成果で万葉時代人の体格は昭和中期ごろの体格と同等で、上古代から昭和期に渡る日本の歴史の中では、一番、体格が大きい時代です。体重計で有名なタニタは、万葉時代人の体格が大きかった理由として、十分な食料と魚介類・獣肉などのタンパク質などの摂取のバランスが良かったためではないかと推測するようです。
 万葉時代人の庶民の食事を類推する上で、現代の禅僧の食事を研究した人の報告を参考としますと、禅僧の通常の生活時期では約2070kcalを摂取し、栄養素区分での摂取の状況は一般男性の摂取に比べ蛋白質は65%、脂質は36%、炭水化物は123%だそうです。カルシウム等のミネラルは野菜、海藻、大豆などから摂取していると報告しています。
 さらに報告者は蛋白質や脂質の摂取量が少なくてもカルシウムが十分に摂取出来る理由として、食品100gに含まれるカルシウムの量は、牛乳が110mgなのに対して、油あげ310mg、がんもどき270mg、厚揚げ240mg、木綿豆腐93mg、小松菜150mg、春菊120mgの数値を上げ、禅僧の精進料理でも十分に健康的な食生活が可能とします。
 他方、「食の万葉集」では、万葉時代の農村・山村部での日常的な蛋白質・脂質の供給源として川魚や貝類を指摘しています。河川に生息する魚で古くから食用とされてきたのは、鮎、イワナ、ヤマメ、カジカ、ウグイ、サワガニなどで、また、平地の田んぼや堰、沼に生息する魚では、ウナギ、ドジョウ、コイ、フナ、ナマズ、モクズガニなどです。この他にシジミ、タニシ、カラスカイなどの貝類があります。
 万葉集に鮒を詠った歌を探しますと、集歌625の歌や集歌3828の歌があります。集歌625の歌は平安時代には根こそぎ漁獲するとして禁止された藻場を巻網で囲って魚を取る藻巻漁で鮒を取ったことに絡めて詠ったものですし、集歌3828の歌は生活圏の水路で小鮒を取って食べていた風景からのものです。

集歌625
原文 奥弊徃 邊去伊麻夜 為妹 吾漁有 藻臥束鮒
訓読 沖辺(おくへ)往(い)き辺(へ)を去(い)き今や妹しため吾が漁(すなど)れる藻(も)臥(ふ)し束鮒(つかふな)
私訳 沖に出たり岸辺を行ったりして、たった今、愛しい貴女のために私が捕まえた藻の間に隠れていた沢山の鮒です。

集歌3828
原文 香塗流 塔尓莫依 川隈乃 屎鮒喫有 痛女奴
訓読 香(こり)塗(ぬ)れる塔(たふ)にな寄りそ川隈(かはくま)の屎鮒(くそふな)食(は)めるいたき女(め)奴(やつこ)
私訳 好い匂いのする香を塗った貴い仏塔には近寄るな。川の曲がりにある厠から流れる屎を餌に育った鮒を食べたような臭いがきつい女の召使よ。

 次に集歌3649の歌は巻貝を茹でて貝の内臓が黒く変化した色変から髪毛の色の比喩として詠うものですから、日常的にタニシのような巻貝を食べていたことが判ります。

集歌3649
原文 可母自毛能 宇伎祢乎須礼婆 美奈能和多 可具呂伎可美尓 都由曽於伎尓家類
訓読 鴨じもの浮寝(うきね)をすれば蜷(みな)の腸(わた)か黒(かぐろ)き髪に露ぞ置きにける
私訳 鴨のように浮寝をすると、蜷の腸のような真黒な髪に波飛沫で露が降りたようです。

 また、集歌3853の歌のように万葉時代からの土用の鰻を詠う歌があります。

集歌3853 
原文 石麿尓 吾物申 夏痩尓 告跡云物曽 武奈伎取食 (賣世反也)
訓読 石麿(いしまろ)に吾(われ)物申す夏(なつ)痩(やせ)に告(つ)くといふものぞ鰻(むなぎ)捕り食(め)せ (「めせ」の反なり)
私訳 石麿様に私は申し上げます。夏痩せにお勧めしますと云います。鰻を捕ってお召し上がりなさい。

 さらに集歌387の歌や集歌1717の歌から、日常的に川漁で簗漁や網漁を行っていたことが判ります。現代のアユ釣りやヘラブナ釣りのような趣味での川漁ではありませんから、獲物は食べることが目的です。およそ、河川や湖沼の状況に合わせて、多様な漁法が行われ魚、カニ、貝などが収穫されていたと考えます。

集歌387
原文 古尓 楔打人乃 無有世伐 此間毛有益 柘之枝羽裳
訓読 古(いにしへ)に梁(やな)打つ人の無かりせば此処(ここ)もあらまし柘(つみ)し枝(えだ)はも
私訳 昔に川に梁を作る人も居なかったら、今でもここにあるでしょう、柘の枝は。

集歌1717
原文 三川之 淵瀬物不落 左提刺尓 衣手湖 干兒波無尓
訓読 三川(みつかは)し淵(ふち)瀬(せ)もおちず小網(さで)さすに衣手(ころもて)湖(ひづ)き干(ほ)す兒はなみに
私訳 三川で淵や瀬も残さずに小さな網を刺すと、袖は水が溜まるほどに濡れても、それを乾かす子供達は居ない。

 万葉集の歌と近世の川魚の図鑑とを合わせれば、庶民は種類豊かに川魚を食べていたと推定ができるはずですが、「かしはら探訪ナビ・貴族・役人と庶民の食卓」にはそのようなシーンはありません。日本書紀の持統六年(692)の閏五月に、洪水災害に遭遇した地域に対し朝廷は次のような指示をしています、「大水。遣使、循行郡国、禀貸災害不能自存者。令、得漁採山林池沢。」この指示では、洪水で種籾を失った者には種籾を貸出、また、禁漁区を開放して山野の植物と池沢の魚を獲って急場を凌げとしています。逆に考えますと、山野の植物や池沢の魚を獲って食べるのが、当時の庶民の生活です。
 ちなみに日本原産の野菜として、フキ・セリ・ウド・ハマボウフウ・タデ・ジュンサイ・アサツキ・ラッキョウ・ニラ・ダイコン(ナズナ)・ミョウガ・サンショウ・ワサビ・ジネンジョ・ヒシ・マコモ・クロクワイ・ヒユ・ヤブカンゾウ・オニユリ・コオニユリ・ヤマユリ・アシタバ・ミツバ・ツルナ・ゴボウアザミ・シュンランが紹介されており、これとは別に食べられる野草としてヨモギ・タンポポ・ハハコクサ・クズ・ノイバラ・ノビル・スイバ・マタケ・ヒメタケなどが紹介されています。また、各種の春の木芽も立派な食材です。
 先の川魚の内、大量に獲れる小鮒やオイカワなどの小魚は干物に加工しておけば、糧飯の出汁とたんぱく源に持ってこいですし、マタケやヒメタケのタケノコは塩漬けや乾燥させれば保存食になります。西日本圏ならヨモギ、タンポポ、ノビルなどは年中、生活圏で採取が容易です。これらをお米、魚、野菜を一緒に土鍋に煮れば、糧飯となります。
 庶民の日常の食事について、「農村の『食』の変容からみた近代史―農村調査資料に聴く」(野本京子;2019年9月)と云う、研究論文があります。そこから近世の農村部の食事状況を説明する部分を抜粋し、紹介します。

明治期に行われた食にかかわる調査として、資料①②③の調査がある。②と③が「常食」という語を用いているのに対し、1918(大正 7)年と1919年段階の調査(④⑤)では、「主食物」ないし「主要食料」へと調査の名称が変わっている。⑥(調査時点は1918年)も該当項目を見ると、「主食物調査と副食物調査」を用いている。資料①の調査は、明治11(1868)年3月から翌年10月にかけて吏員1~2名が一組になり、地方に赴いて各地の食料について調査したものである。食物の構成比を示しているのだが、一例として静岡県についてみてみよう。
 駿河 米百分の二十九、麦百分の三十七、稗百分の十二、粟百分の十二、雑類(甘藷・南瓜等)百分の十
 遠江 上等(全住民の三割)皆米、中等(同三割)米五・麦五、下等(同二割)米三・麦七、最下等(同二割)米二・麦その他八
 伊豆 米七、麦・稗・粟三
数字自体はおよその目安だと思われるが、食べ方としては、糧飯(米に麦や稗・粟・甘藷などをまぜて炊いたもの)や、大根や大根葉などの野菜を炊き込んだ雑炊のように、かさを増やす工夫がなされた。当時は主食の占める比重が非常に高く、また雑炊のように、農村地域では主食に対し副食(おかず)が明確に区分されにくい食事情があった。

参照資料:
① 1879(明治 12)年 地租改正事務局『各地方歴観記』(大蔵省「震災焼残文書」)中の「農民食料」に関する記述。各地の調査資料中「農民食料」の部分を抜粋したものが、小野武夫(1944)に収録されている。
② 1881(明治14)年 農商務省農務局『第二次農務統計表』中の「人民常食種類比例」
③ 1888(明治21)年 大日本農会『農事統計表』中の「常食物種別及ヒ米麦供需」
④ 1918(大正7)年 内務省衛生局保健衛生調査会『全国主食物調査
⑤ 1939(昭和14)年 大正八年臨時産業調査局調『道府県に於ける主要食料の消費状況の変遷』農林省米穀局。『長期経済統計』第 13 巻 梅村又次ほか『地域経済統計』(東洋経済新報社、1983 年)に概要が採録されている。
⑥ 1929(昭和4)年 内務省衛生局『農村保健衛生実地調査成績』


 紹介しました野本京子氏が研究に使用した基礎資料は国の調査記録ですから、専門家には十分に知られた資料と思います。ところが、「糧飯」文化と云うものは歴史では扱われないのが実に不思議です。
 最後の補足として、江戸時代の江戸市中や大阪市中では野菜はありましたが、農村部とは違い、現金購入品目です。二八そばが一杯24文の時代に大根一本10文程度だったとします。そのため、農村・漁村では生活圏の周辺自然から獲れる食材で糧飯を調理するのが安価で簡便なのに対し、江戸市中や大阪市中では一日一回、炊いたご飯に漬物とわずかな干物が安価で簡便です。また、江戸市中の大工職人などの間に職場へお弁当持参の風習が生まれた為、必然、お弁当のために炊いたご飯に漬物と云う食文化が特殊に生まれています。明治以前の日本全国からすれば、江戸町人の炊いたご飯に漬物と云う姿は、非常に特殊な食事文化です。それが「江戸患い」という言葉が示すように、ご飯に漬物と云う食文化が生んだ脚気という江戸特有の疾病として現れて来ます。
 フェイクニュースは意図した作為のものですから、作為に都合の悪いことは採用しませんし、取り上げません。確かにそのようなものでしょうが、それを教育の現場に持ち込むのは、さて。

 おまけとして、昭和中期までに活躍した古典・上古の研究者は、戦前までの知識階級として儒学思想からの漢文・国語の教育を受けています。問題は、儒学と言うものは庶民は生産装置として扱い、社会を構成する平等な人間として扱いません。そのため、昭和中期以前の研究では庶民の生活と言うものを扱うことはあまりありません。あくまで、上級市民以上が対象です。
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万葉集 集歌1907から集歌1912まで

2021年06月11日 | 新訓 万葉集巻十
集歌一九〇七 
原文 如是有者 何如殖兼 山振乃 止時喪哭 戀良苦念者
訓読 かくしあらば何か植ゑけむ山吹の止(や)む時もなく恋ふらく念(おも)へば
私訳 このようなことならどうして植えたのでしょう、山吹(ヤムフキ)の花。その言葉のひびきではありませんが、止む時もなく山吹の花の咲く時を恋しく願うのなら。

寄霜
標訓 霜に寄せる
集歌一九〇八 
原文 春去者 水草之上尓 置霜乃 消乍毛我者 戀度鴨
訓読 春されば水草(みくさ)し上に置く霜の消(け)つつも我は恋わたるかも
私訳 春がやって来ると水草の上に置く霜が融け消えるように、儚く成就の希望も失くしながらも私は貴女に恋い慕っています。

寄霞
標訓 霞に寄せる
集歌一九〇九 
原文 春霞 山棚引 欝 妹乎相見 後戀毳
訓読 春霞山したなびきおほほしく妹を相見て後(のち)恋ひむかも
私訳 春霞が山に棚引きぼんやりとした山を眺めるように、幽かに美しい貴女と知り合った後は恋い慕ってしまうでしょう。

集歌一九一〇 
原文 春霞 立尓之日従 至今日 吾戀不止 本之繁家波
訓読 春霞立ちにし日より今日までし吾(あ)が恋やまず本(もと)し繁けば
私訳 貴女に幽かに出会った春霞がたった日から今日まで、私の恋心は止みません。恋い慕う思いが激しいので。
左注 一云 片念尓指天
注訓 一(ある)は云はく、片念(かたもひ)にして

集歌一九一一 
原文 左丹頬經 妹乎念登 霞立 春日毛晩尓 戀度可母
訓読 さ丹つらふ妹を念(おも)ふと霞立つ春日(はるひ)も暗(くれ)に恋ひわたるかも
私訳 頬ほんのりと赤みが挿す愛しい貴女を思い浮かべると、霞が立つ春の一日も暗く感じるほどに思いつめて恋い慕います。
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万葉集 集歌1902から集歌1906まで

2021年06月10日 | 新訓 万葉集巻十
集歌一九〇二 
原文 春野尓 霞棚引 咲花乃 如是成二手尓 不逢君可母
訓読 春し野に霞たなびき咲く花のかくなるまでに逢はぬ君かも
私訳 春の野に霞が棚引き、咲く花がこのように満開になるまで、逢えない貴兄よ。

集歌一九〇三 
原文 吾瀬子尓 吾戀良久者 奥山之 馬酔花之 今盛有
訓読 吾(あ)が背子に吾(あ)が恋ふらくは奥山(おくやま)し馬酔木(あしび)し花し今盛りなり
私訳 私の愛しい貴方に私が恋い慕う、その思いは、奥山に咲く馬酔木の花のように今が盛りです。

集歌一九〇四 
原文 梅花 四垂柳尓 折雜 花尓供養者 君尓相可毛
訓読 梅の花しだり柳に折り交(まじ)へ花に供養(たむけ)なば君に逢はむかも
私訳 梅の花をしだれ柳に手折り交ぜて、花祭りに仏に供え祈ったなら貴方に逢えるでしょうか。

集歌一九〇五 
原文 姫部思 咲野尓生 白管自 不知事以 所言之吾背
訓読 女郎花(をみなえし)咲く野に生(お)ふる白つつじ知らぬこともち言(い)はえし吾(あ)が背
私訳 女郎花が咲く野に生える白つつじ、その言葉のひびきではありませんが、知(し)らないことで噂された私の愛しい貴方。

集歌一九〇六 
原文 梅花 吾者不令落 青丹吉 平城之人 来管見之根
訓読 梅の花吾(われ)は散らさじあをによし平城(やまと)し人も来つつ見るしね
私訳 梅の花、私はそれを散らすことはしません。青葉が照り輝く奈良の都にいる人もやって来て眺めるようにと。
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万葉集 集歌1892から集歌1901まで

2021年06月09日 | 新訓 万葉集巻十
集歌一八九七 
原文 春之在者 伯勞鳥之草具吉 雖不所見 吾者見遣将 君之當婆
訓読 春しあば百舌鳥(もず)し草(くさ)潜(く)き見えずとも吾(あれ)は見やらむ君し辺(あたり)をば
私訳 春なので百舌鳥が草むらに潜って見えないように、貴女にはそうは思えなくても私は見つめています、貴女の住むあたりを。

集歌一八九八 
原文 容鳥之 間無數鳴 春野之 草根乃繁 戀毛為鴨
訓読 貌鳥(かほとり)し間(ま)無く數(しば)鳴く春し野し草根(くさね)の繁き恋もするかも
私訳 「カツコヒ(片恋)、カツコヒ」と貌鳥が絶え間なく数多く鳴く、その春の野の草の根が繁茂するような、そんな恋心の募る恋をしている。

寄花
標訓 花に寄せる
集歌一八九九 
原文 春去者 宇乃花具多思 吾越之 妹我垣間者 荒来鴨
訓読 春されば卯の花ぐたし吾(あ)が越えし妹が垣間(かきま)は荒(あ)れにけるかも
私訳 春がやって来ると卯の花(有の花)を損ねては私が飛び越えた愛しい貴女の家の垣根は、今は、飛び越える人もなく荒れてしまったようです。

集歌一九〇〇 
原文 梅花 咲散苑尓 吾将去 君之使乎 片待香花光
訓読 梅の花咲き散る苑(その)に吾(われ)行かむ君し使(つかひ)を片待ちがてり
私訳 梅の花が咲き散る貴女の庭園に私は行きましょう。貴女からの使いをひたすら待ちながら。

集歌一九〇一 
原文 藤浪 咲春野尓 蔓葛 下夜之戀者 久雲在
訓読 藤波(ふぢなみ)し咲く春し野に蔓(つる)葛(ふぢ)し下よし恋ひば久しくもあらむ
私訳 一面に藤の花房が浪のように咲く春の野で、その藤蔓の下のように、表に顕わさずに恋い慕っていると思いが届くのに時間がかかるでしょう。

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