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竹取翁と万葉集のお勉強

楽しく自由に万葉集を楽しんでいるブログです。
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万葉集 万葉仮名の「之」の字はどのように訓むか

2011年12月18日 | 万葉集 雑記
万葉集 万葉仮名の「之」の字はどのように訓むか

はじめに
 この度は万葉仮名の「之」の字に注目して万葉集の歌を鑑賞します。例によって、紹介する歌は、原則として西本願寺本の原文の表記に従っています。そのため、紹介する原文表記や訓読みに普段の「訓読み万葉集」と相違するものもありますが、それは採用する原文表記の違いと素人の無知に由来します。
 最初に一般論ですが、校本万葉集を基にした訓読み万葉集の万葉集歌では万葉仮名の「之」の字は「し」、「の」、「が」等と訓みます。今回は恣意的な万葉集の歌の鑑賞から、この訓読み万葉集での万葉仮名の「之」の字の訓みについて「ある疑問」を紹介します。なお、今回は訓読みに焦点を当てるために、意訳文は割愛させて頂きました。

 万葉集の歌の表記方法において、略体歌、非略体歌、常体歌と万葉仮名歌の四つの区分があります。この中で、現代人がする歌の訓読みと万葉時代人との間でその訓みの相違が一番少ないと考えられるものは万葉仮名歌です。そこで、その万葉仮名歌を天平元年と天平二十年の時代から紹介し、歌で使われる万葉仮名の「之」の字の訓みを参考資料として紹介します。他の歌々を含め、調べた範囲において訓読み万葉集の解釈でも万葉仮名歌の「之」の字は「シ」と訓みます。ここから、万葉集の時代人もまた万葉仮名の「之」の字は「シ」の音字と解釈していたと推定します。
 当然ですが、万葉仮名の上代特殊仮名遣では「ノ」の甲音は主に「努」、乙音では主に「乃」、「能」の字を使い、「ノ」の音に「之」の字を使うことはありません。反って、万葉仮名の「之」の字は「シ」の音字に分類されます。ただ、ご存じのように上代特殊仮名遣は江戸時代には江戸学派とも分類される本居宣長等には認識されていましたが、近代的な古代言語学や万葉集学の分野では橋本進吉氏により大正年間に再発見されるまで注目されることなく放置されていました。つまり、万葉仮名での上代特殊仮名遣と云う規則に従って万葉仮名を使って表記された万葉集の歌を原文から鑑賞すると云うことは、非常に新しい試みなのです。そのため、平安後期から明治時代の和歌人が万葉仮名の「之」の字を「ノ」や「ガ」と訓むことは、近代の上代特殊仮名遣と云う規則に違反しますが、彼らの和歌の発声感覚からすると無理のないことです。そして、不思議なことに、校本万葉集を基にする訓読み万葉集では、この万葉仮名での上代特殊仮名遣と云う規則が再発見された後も、非略体歌や常体歌では万葉仮名の「之」の字を「ノ」の乙音と見做して万葉歌を解釈します。個人的な考えとして、専門研究者の方に異を唱えることになりますが、漢文の訓読みでは漢字の「之」は、便宜上、助詞として「ノ」と訓みますが、だからと云って、漢文訓読みと万葉集歌での万葉仮名の詠み下しとは同一にはならないと思います。憶測に推測ですが、ある一部の万葉集研究家には万葉仮名の「之」の字に対して「漢文の漢字」と「万葉音仮名」との区分と認識の自覚がなかったのではないでしょうか。
 先に弊ブログ「初めて万葉集に親しむために その五」で六百番陳状に載る万葉集の歌を紹介しました。そこで触れましたように、平安時代の和歌人は万葉集の原文の歌を正確に読み解くより、彼らの「平安時代の和歌」として詠んだ可能性があります。つまり、平安時代の和歌人は万葉仮名の「之」の字を「シ」と訓むことを承知していても、歌詠での口調・語調の要請から「の」や「が」等と訓んだ可能性があります。そして、万葉集の歌の歌意よりも調べでの口調・語調を優先した優艶な新古今調解釈の訓読み万葉集の歌を、江戸・明治時代人が佳しとした、または、それを伝統としたのではないかと、万葉集の歌を鑑賞する時に危惧します。ちょうど、明治時代の歌人が万葉集の歌での「未通女」と「処女」との言葉の区別と理解が出来なかったのと同じではないかと考えます。
 ここで、参照例題3として示す集歌324の山部赤人が詠う長歌を見て下さい。歌の一節では「春日者 山四見容之 秋夜者 河四清之」と対比表記をしていますから「春日は 山し見がほし 秋夜は 河し清けし」と訓むものと考えられます。奈良時代の人がこの口調を佳しとしたと想定して、参照例題4に示す山部赤人が詠う集歌372の長歌の一節「晝者毛 日之盡 夜者毛 夜之盡」を見て下さい。この一節は、一般には「昼はも 日のことごと 夜はも 夜のことごと」と訓みますが、赤人は「之」の字を「シ」と訓み「昼はも 日しことごと 夜はも 夜しことごと」と訓んだのではないでしょうか。この想定を進めますと、参照例題5に示す大伴旅人の集歌438の歌は語尾に「シ」の音が連続する歌になります。ここに、平安歌人が「ノ」の音を好むように、奈良歌人は「シ」の音を好んだ可能性が見えてきます。この鑑賞を踏まえて、校本万葉集を基にした訓読み万葉集において歌には表記されないが、短歌としての音字数構成から推定・付加して詠まれた助詞の「ノ」の音は「シ」の音に交換できると提案します。この例として、先の「春日は 山し見がほし 秋夜は 河し清けし」は、訓読み万葉集では「春の日は 山し見がほし 秋の夜は 河し清けし」と訓みますが、提案では「春し日は 山し見がほし 秋し夜は 河し清けし」と訓むとします。
 もし、この提案することが採用可能としますと、歌の「之」の字を「シ」と訓みことにより歌意が変わると思われる歌が現れてきます。その一例が参照例題6の集歌288の歌です。これは一例ですが、他にも歌意が変わるものがありますので、校本万葉集を基にした伝統の訓読み万葉集ではなく、今一度、原点に戻って、万葉集歌は漢語と万葉仮名と云う漢字だけで記述された歌であることを再認識する必要があるのではないでしょうか。
 なお、ここで紹介したものは、西本願寺本を底本として万葉集の歌を万葉仮名での上代特殊仮名遣等を考慮して原文から鑑賞する場合だけの、なにが万葉集の歌かと云う、特殊な社会人のする与太での問題です。つまり、ここでのものはアカデミーではありませんので、特に生徒・学生さんには誤解なきようにお願いします。

例題1
訓読み万葉集で「之」の字を「ノ」と訓むケース
集歌235 皇者 神二四座者 天雲之 雷之上尓 廬為鴨類
訓読 皇(すめらぎ)は神にし座(ま)せば天雲(あまくも)の雷(いかづち)の上(へ)に廬(いほ)らせかもる

上記で「之」の字を「シ」と訓む
訓読 皇(すめらぎ)は神にし座(ま)せば天雲(あまくも)し雷(かづち)し上(うへ)に廬(いほ)らせかもる
注意 古典では建御雷之男神を「たけみかづちしをかみ」と訓みます。

例題2
訓読み万葉集で「之」の字を「ガ」と訓むケース
集歌85 君之行 氣長成奴 山多都祢 迎加将行尓 待可将待
訓読 君が行き日(け)長くなりぬ山尋ね迎へか行かに待つか待たらむ

上記で「之」の字を「シ」と訓む
訓読 君し行き日(け)長くなりぬ山尋ね迎へか行かに待つか待たらむ
注意 原文の「迎加将行尓 待可将待」は、一般には「迎加将行 待尓可将待」とし、句切れの位置が違い「迎へか行かむ待ちにか待たむ」と訓みます。ここでは原文のままとします。

例題3 山部赤人の歌より
集歌324 三諸乃 神名備山尓 五百枝刺 繁生有 都賀乃樹乃 弥継飼尓 玉葛 絶事無 在管裳 不止将通 明日香能 舊京師者 山高三 河登保志呂之 春日者 山四見容之 秋夜者 河四清之 且雲二 多頭羽乱 夕霧丹 河津者驟 毎見 哭耳所泣 古思者
訓読 三諸(みもろ)の 神名備(かむなび)山(やま)に 五百枝(いほえ)さし 繁(しじ)に生(お)ひたる 栂(つが)の木の いや継ぎ飼(か)ひに 玉(たま)葛(かづら) 絶ゆることなく ありつつも 止(や)まず通(かよ)はむ 明日香の 旧(ふる)き都は 山高み 河雄大(とほしろ)し 春し日は 山し見がほし 秋し夜は 河し清(さや)けし 且(また)雲に 鶴(たづ)は乱れ 夕霧に かはづは騒く 見るごとに 哭(ね)のみし泣かゆ 古(いにしへ)思へば

例題4 山部赤人の歌より
集歌372 春日乎 春日山乃 高座之 御笠乃山尓 朝不離 雲居多奈引 容鳥能 間無數鳴 雲居奈須 心射左欲比 其鳥乃 片戀耳二 晝者毛 日之盡 夜者毛 夜之盡 立而居而 念曽吾為流 不相兒故荷
訓読 春日(はるひ)を 春日(かすが)し山の 高座(たかくら)し 御笠の山に 朝さらず 雲居(くもゐ)たなびき 貌鳥(かほとり)の 間(ま)無くしば鳴く 雲居(くもゐ)なす 心いさよひ その鳥の 片恋のみに 昼はも 日しことごと 夜はも 夜しことごと 立ちて居(ゐ)て 念(おも)ひそ吾がする 逢はぬ児故(ゆへ)に

例題5 大伴旅人の歌
歌で「之」の字を「シ」と訓むことで口調が佳いと思われるもの
集歌438 愛 人之纒而師 敷細之 吾手枕乎 纒人将有哉
訓読 愛(は)しきやし人し纏(ま)きてし敷栲(しきたへ)し吾が手枕(たまくら)を纒(ま)く人あらめや

例題6 歌の解釈が変わると思われるもの
訓読み万葉集で「之」の字を「ノ」と訓むケース
集歌288 吾命之 真幸有者 亦毛将見 志賀乃大津尓 縁流白波
訓読 吾が命(いのち)の真幸(まさき)くあらばまたも見む志賀(しが)の大津に寄する白波
意訳 私の寿命が平らかであったなら、再び眺めましょう。志賀の大津に寄せる白波を。

上記で「之」の字を「シ」と訓む
訓読 吾(あ)が命(みこ)し真幸(まさき)くあらばまたも見む志賀(しが)の大津に寄する白波
意訳 私の大切な大王よ。この旅が平穏であったなら、再び眺めましょう。志賀の大津に寄せる白波を。

注意 この歌は集歌287の歌で「幸志賀時石上卿作謌一首」の標を持つものとの組で詠われています。
集歌287 此間為而 家八方何處 白雲乃 棚引山乎 超而来二家里
訓読 ここにして家やはいづし白雲のたなびく山を越えて来にけり


参考資料として、
天平元年頃、巻五より
集歌796 伴之伎与之 加久乃未可良尓 之多比己之 伊毛我己許呂乃 須別毛須別那左
訓読 愛(は)しきよし如(か)くのみからに慕(した)ひ来(こ)し妹(いも)が情(こころ)の術(すべ)もすべなさ

集歌815 武都紀多知 波流能吉多良婆 可久斯許曽 烏梅乎乎岐都々 多努之岐乎倍米
訓読 正月(むつき)立ち春の来(き)たらば如(かく)しこそ梅を招(を)きつつ楽しきを経(へ)め

集歌819 余能奈可波 古飛斯宜志恵夜 加久之阿良婆 烏梅能波奈尓母 奈良麻之勿能怨
訓読 世間(よのなか)は恋繁しゑや如(かく)しあらば梅の花にも成らましものを

集歌820 烏梅能波奈 伊麻佐可利奈理 意母布度知 加射之尓斯弖奈 伊麻佐可利奈理
訓読 梅の花今盛りなり思ふどちかざしにしてな今盛りなり

集歌821 阿乎夜奈義 烏梅等能波奈乎 遠理可射之 能弥弖能々知波 知利奴得母與斯
訓読 青柳(あほやぎ)梅との花を折りかざし飲みての後(のち)は散りぬともよし

集歌824 烏梅乃波奈 知良麻久怨之美 和我曽乃々 多氣乃波也之尓 于具比須奈久母
訓読 梅の花散らまく惜しみ吾(わ)が苑(その)の竹(たけ)の林に鴬鳴くも

集歌828 比等期等尓 乎理加射之都々 阿蘇倍等母 伊夜米豆良之岐 烏梅能波奈加母
訓読 人ごとに折りかさしつつ遊べどもいや愛(め)づらしき梅の花かも

集歌829 烏梅能波奈 佐企弖知理奈波 佐久良婆那 都伎弖佐久倍久 奈利尓弖阿良受也
訓読 梅の花咲きて散りなば桜花継ぎて咲くべくなりにてあらずや

集歌830 萬世尓 得之波岐布得母 烏梅能波奈 多由流己等奈久 佐吉和多留倍子
訓読 万代(よろづよ)に年は来経(きふ)とも梅の花絶ゆることなく咲きわたるべし

集歌833 得志能波尓 波流能伎多良婆 可久斯己曽 烏梅乎加射之弖 多努志久能麻米
訓読 毎年(としのは)に春の来らばかくしこそ梅をかさして楽しく飲まめ

集歌835 波流佐良婆 阿波武等母比之 烏梅能波奈 家布能阿素比尓 阿比美都流可母
訓読 春さらば逢はむと思ひし梅の花今日(けふ)の遊びに相見つるかも

集歌842 和我夜度能 烏梅能之豆延尓 阿蘇比都々 宇具比須奈久毛 知良麻久乎之美
訓読 吾(わ)が屋戸(やと)の梅の下枝(しづゑ)に遊びつつ鴬鳴くも散らまく惜しみ

集歌843 宇梅能波奈 乎理加射之都々 毛呂比登能 阿蘇夫遠美礼婆 弥夜古之叙毛布
訓読 梅の花折りかさしつつ諸人(もろひと)の遊ぶを見れば都しぞ思(も)ふ

集歌848 久毛尓得夫 久須利波牟用波 美也古弥婆 伊夜之吉阿何微 麻多越知奴倍之
訓読 雲に飛ぶ薬食(は)むよは都見ば卑(いや)しき吾(あ)が身また変若(をち)ぬべし

天平二十年頃 巻十八より
集歌4032 奈呉乃宇美尓 布祢之麻志可勢 於伎尓伊泥弖 奈美多知久夜等 見底可敝利許牟
訓読 奈呉(なこ)の海に船しまし貸せ沖に出でて波立ち来(く)やと見て帰り来(こ)む

集歌4033 奈美多弖波 奈呉能宇良末尓 余流可比乃 末奈伎孤悲尓曽 等之波倍尓家流
訓読 波立てば奈呉の浦廻(うらみ)に寄る貝の実なき恋にぞ年は経(へ)にける

集歌4034 奈呉能宇美尓 之保能波夜非波 安佐里之尓 伊弖牟等多豆波 伊麻曽奈久奈流
訓読 奈呉の海に潮の早(はや)干(ひ)ばあさりしに出でむと鶴(たづ)は今ぞ鳴くなる

集歌4035 保等登藝須 伊等布登伎奈之 安夜賣具左 加豆良尓藝武日 許由奈伎和多礼
訓読 霍公鳥(ほとときす)いとふ時なし菖蒲(あやめくさ)蘰(かづら)に着む日こゆ鳴き渡れ

集歌4039 於等能未尓 伎吉底目尓見奴 布勢能宇良乎 見受波能保良自 等之波倍奴等母
訓読 音のみに聞きて目に見ぬ布勢の浦を見ずは上(のぼ)らじ年は経(へ)ぬとも

集歌4043 安須能比能 敷勢能宇良末能 布治奈美尓 氣太之伎奈可須 知良之底牟可母
訓読 明日の日の布勢の浦廻(うらみ)の藤波にけだし来鳴かす散らしてむかも

集歌4059 多知婆奈能 之多泥流尓波尓 等能多弖天 佐可弥豆伎伊麻須 和我於保伎美可母
訓読 橘の下(した)照(て)る庭に殿(との)建てて酒みづきいます我が大王(おほきみ)かも

集歌4065 安佐妣良伎 伊里江許具奈流 可治能於登乃 都波良都波良尓 吾家之於母保由
訓読 朝開き入江漕ぐなる楫(かぢ)の音(おと)のつばらつばらに吾家(わがへ)し思ほゆ

集歌4071 之奈射可流 故之能吉美良等 可久之許曽 楊奈疑可豆良枳 多努之久安蘇婆米
訓読 科(しな)ざかる越の君らとかくしこそ楊(やなぎ)蘰(かづら)き楽しく遊ばめ


おわりに
 恥ずかしい話ですが、今まで、相当の歌をブログで紹介してきましたが、現在、この「之」の字の解釈を考慮して、再度、読み直しを行っています。そして、こっそり、今までにUPしたものを、適時、紹介することなく修正を行っています。ただ、音字、口調及び解釈をも考慮して点検していますので、修正したものをUPするのに時間がかかっています。御来場のみなさんには申し訳ありませんが、このようなズルさをお許し下さい。
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万葉集 初めて万葉集に親しむために

2011年12月01日 | 万葉集 雑記
万葉集  初めて万葉集に親しむために

 私のような社会人で、また、初心者が初めて万葉集に親しむと云うことを思い立つ時、それは万葉集と云う和歌集の歌を鑑賞して楽しむことだと思います。その歌を鑑賞して楽しむと云うことは、万葉集と云う和歌集の歌を鑑賞する過程や結果として、日常から離れ、古典の言葉に親しみ、歌で表現される万葉時代の人々の生活や心の在り様を想像する楽しみに浸る時間を持つと云う、ある種の知的な遊びを楽しむことだと思います。
 入学試験の為に、又は、古典文学研究と云う生業の為とは違い、社会人がある種の知的な遊びを楽しむことを期待して万葉集と云う和歌集の歌に親しむのならば、万葉集の和歌を知っていると云う楽しみ方の他に、今一歩進んだ、社会人らしい万葉集と云う和歌集の歌の鑑賞方法があると考えます。普段の万葉集に親しむ方法としては、中高生の学業や入学試験対応、また、それから発展したもので、現代語に翻訳・アレンジされた万葉集の歌とその意訳を読む、知る、暗誦する等と云う楽しみ方がありますが、社会人がある種の知的な遊びを万葉集の歌に求めるのであれば、本来の万葉集の歌を親しむことを提案したいと思います。
 この本来の万葉集の歌に親しみ、そこから社会人が知的な遊びを楽しむと云うことへの提案とは「万葉集の歌は、漢字の単語(以下、漢語と称します)と万葉仮名と云う漢字で書かれた歌である」と云うことへの再認識を前提とします。その「漢語と万葉仮名と云う漢字で書かれた歌」とは何かと云うと、次のような形で表記された万葉集の歌です。また、それに添える訓読とは現代語アレンジし読み解かれた「歌」として詠むためのものです。その一例として有名な志貴皇子の懽(よろこ)びの歌を紹介します。

原文 石激 垂見之上乃 左和良妣乃 毛要出春尓 成来鴨
訓読 石(いは)はしる垂水(たるみ)の上(うへ)のさわらびの萌へ出づる春になりにけるかも
別訓 石(いは)激(たき)る垂水(たるみ)の上(うへ)のさわらびの萌よ出づる春になりにけるかも

 この訓読とは、万葉集の原文の歌を現代語に歌詠みとして読み解く作業です。そのため、原文の歌をその時代の言葉や理解で読み解く作業の宿命として、ここでの「石激」の読みに異訓を唱えることが出来るように、万葉集の歌を原文から楽しむ人が複数存在するならば、その歌の解釈により一つの原文に対して複数の訓読歌が存在する可能性があります。歴史では、万葉集の奈良時代の読みは平安中期の紀貫之の古今和歌集成立の直後に途切れて、多くの歌は解読不能になりました。現在の歌の読みは平安時代中後期以降に、改めて、平安和歌人たちにより提案されたもので、それが今日の万葉集の読みの底本として継がっています。この歴史が、村上天皇の梨壺の五人衆の伝えと云うものです。ここで、現代の万葉集の読みが平安時代の和歌人の読みが基盤であることを覚えておいてください。

 その「本来の万葉集の歌とは何か」と云う説明のために、万葉集の歌の表記方法について、少し説明をします。一般には、万葉集は万葉仮名で歌が書かれていると説明されることがありますが、それは万葉集の歌を知らない人がする過大な誇張か、不確かな伝聞です。確かに東歌、防人歌や大伴一族に関係するものでは一字一音の万葉仮名だけで書かれた歌もありますが、大多数は漢語と万葉仮名と云う漢字で書かれた歌です。つまり、端的に云うと「漢字だけで表現された和歌」です。そして、この万葉仮名とは、日本語の表記方法を持たなかった古代の日本人が漢字の持つ発音を利用して日本語発音の一音に漢字一字を割り当てたものです。万葉集の歌は、この漢語と万葉仮名と云う漢字との使用の割合で、まったく万葉仮名を伴わない漢詩のような表現を行う歌(これを略体歌と云います)、漢語が主体ですが一部に万葉仮名を使い歌意や漢語の解釈の振れを抑えるような表現を行う歌(これを非略体歌と云います)、漢語と万葉仮名とで現代の漢語交じり平仮名歌と同等の表現を行う歌(これを常体歌と云います)、全て万葉仮名だけで表現を行う歌(これを万葉仮名歌と云います)の四つの区分があります。例を示すと次のような表現方法です。最初の三首が柿本人麻呂で、最後の一首が山上憶良です。

略体歌    出見 向岡 本繁 開在花 不成不在
非略体歌   今造 斑衣服 面就 吾尓所念 未服友
常体歌    黄葉之 落去奈倍尓 玉梓之 使乎見者 相日所念
万葉仮名歌  伊毛何美斯 阿布知乃波那波 知利奴倍斯 和何那久那美多 伊摩陀飛那久尓

 万葉集の歌の本来の姿は句切れを入れずに連続して表記しますので、表記の中で句切れを見つけるのも研究となっています。つまり、上記の歌が万葉集の元歌として書写されているときは、次のような姿です。もし、万葉集原文と紹介されるもので区切りを持つものは、それは訓読者の歌の解釈を示すと云う意味として理解してください。従って、新たな訓読みが和歌として成り立つのであれば、句切れの位置が変わる可能性があります。

略体歌    出見向岡本繁開在花不成不在
非略体歌   今造斑衣服面就吾尓所念未服友
常体歌    黄葉之落去奈倍尓玉梓之使乎見者相日所念
万葉仮名歌  伊毛何美斯阿布知乃波那波知利奴倍斯和何那久那美多伊摩陀飛那久尓

 万葉集の歌は漢語と万葉仮名と云う漢字とで表現されますが、その表現に漢語と漢字を使うために万葉集の歌は古今和歌集以降の漢語(漢字)交じり平仮名歌とは違う複雑さを内包します。これをキャッチフレーズ的に表現しますと、万葉集の歌は「表記する歌」、古今和歌集以降の歌は「調べの歌」と表すことが出来ます。そうして、この万葉集の歌が「表記する歌」であるがために、社会人が、個人の歌への感性だけによらない、ある種の知的な遊びを楽しむことへの奥行きを持つことになります。
 ここで、紹介した「調べの歌」とは、漢語交じり平仮名でその歌が表現されるために、使う一字一字の平仮名自体(たとえ草仮名であったとしても)は意味を持たず、ただ、音を表します。つまり、歌はその平仮名の一字一字の意味合いを吟味することよりも和歌として歌を詠うことが重要となりますから、作歌においては歌詠での調べの雅びが特に求められることになります。この「調べの歌」となるものとしては、万葉集では万葉仮名歌が相当しますし、山部赤人の創る歌も内実において「調べの歌」に相当します。そして、現在の万葉集の歌は、この「調べの歌」を最重視した平安和歌人によって、改めて読み解かれていることを思い出して下さい。
 一方、万葉集の多くの歌は「表記する歌」です。この「表記する歌」が漢語と万葉仮名と云う漢字で表現されるために、使う表意文字である漢字の一字一字にその特性を利用して意味を持たすことが可能になります。つまり、万葉集の歌は、表意文字である漢字を使う限り、歌詠する歌として歌を楽しむ以前に、なぜ、その漢字が使われたのかを推理する必要と楽しみとが生じます。ここに、歌への感性に依存しない、大人の知的ゲームの可能性があるのです。歌の規定で感性を基準としますと、その感性は時代と社会環境で変化するものですから、「調べの歌」が歌への感性に依存する「相対的な歌」になります。一方、対する「表記する歌」は私たちが漢字文化を和歌の基盤としますと、それは時代と社会環境の変化を越えるものですから「表記する歌」は感性だけに依存しない「絶対的な歌」となります。
 感性だけに依存しない「絶対的な歌」である「表記する歌」が、表意文字である漢字の一字一字にその特性を利用して意味を持たした歌を紹介します。その有名な事例が「恋」と云う言葉に対するものです。

原文 玉葛 花耳開而 不成有者 誰戀尓有目 吾孤悲念乎
訓読 玉葛(たまかづら)花のみ咲きて成らざるは誰(た)が恋ならめ吾(あ)は恋念(も)ふを
歌詠 たまかづら花のみ咲きて成らざるは誰が恋ならめ我はこひもふを

 紹介する歌は先に説明した常体歌と云う表現形式を持つ歌ですから、全て万葉仮名だけで表現する万葉仮名歌ではありません。こうした時、歌では「恋」と云う言葉を表すのに、世間一般の「恋」と云う概念の表現には「恋」と云う定まった漢語を使いますが、自分の感情である「恋」を表す表現としては「孤悲」と云う漢字を選択して万葉仮名で表現しています。つまり、表意文字である漢字を選択して使うことで女性の複雑な感情を表しています。この歌を訓読や歌詠での表記だけで表したのでは、まず、歌の本質は伝わらないと思います。また、この歌詠表記された歌が、秀歌か、どうかは鑑賞するひとそれぞれの感性に依存します。ただし、「恋」と「孤悲」との漢字表現の違いから歌を鑑賞するのは理性です。この理性の鑑賞は、和歌の基盤に漢字文化を置くならば、奈良、平安、鎌倉、江戸、明治と時代を越えて普遍です。そして、この「孤悲」と云う漢字の選択を見つけ、理解するのも、万葉集を楽しむ大人のゲームです。
 次に、現在まで、その歌で使われる漢字の読み方の定まっていない歌を紹介します。この歌は三句目の「徃褐」をどのように読むかが問題となっています。

原文 玉垂之 小簀之垂簾乎 徃褐 寐者不眠友 君者通速為
訓読 玉垂(たまたれ)の小簾(をす)の垂簾(たれす)を往(い)き褐(かち)む寝(い)は眠(な)さずとも君は通はせ
歌詠 たま垂れのをすの垂れ簾をいきかちむ寝はなさずとも君はかよはせ

 さて、この歌が若い女性から恋人の男性の許に今夜に妻問うことを願う内容であることを踏まえて下さい。当時の決まり事として、身分ある男性が妻問う時には、先駆けとなる使者が男性の許から女性の家に送られ、その使者がもたらす先触れを受けて、女性はあれこれと準備をするのが通例です。こうした時、この歌が詠われた時間帯を想像します。「褐」の漢字を使う古語に「かちむ」と云う言葉があり、それは「赤みを帯びた黒色にする、だんだん暗くなる」のような意味合いを表す言葉です。およそ、装飾された垂簾の掛かった夕暮れ近い室内の状況を想像させられます。そうした時、若い女性の許には、前回、男が妻問ったときに約束した訪問の連絡がまだ遣って来きていないと思われます。そうした時間帯での、女が詠う歌です。男からの妻問ひの連絡を、今か今かと待つのに、だんだん、室内がほの暗くなっていく、その情景です。この想像で、一般には簾が動く風情として「往き勝(か)ちに」と読むところを「往き褐(かち)む」と読んで解釈しています。そして、さらにこの歌を鑑賞しますと、五句目の「君者通速為」の表現で「通はせ」と音表記するのに「速為」と万葉仮名の漢字を選択して表現しています。これは「速く来て下さい」と云う感情を表すためと思われます。これらを訓読や歌詠の形でだけで歌を鑑賞しますと、歌を詠った女性の男を待つ感情が十分に伝わらないと思います。そして、このように使われるキーワードとなる漢字に思いを馳せ、新たな歌の世界を見つけるのもまた、一つの万葉集を楽しむ大人のゲームです。
 さらに、同じ事物を示す時、万葉集では漢語や万葉仮名を使って異なる表記で表すことがあります。そして、時にはその異なる表記が重要な意味を持つ場合があります。ここで、その一例を紹介します。

原文 内日刺 宮庭有跡 鴨頭草之 移情 吾思名國
訓読 うち日さす宮にはあれど月草(つきくさ)のうつろふ情(こころ)吾(あ)が思はなくに
歌詠 うち日さす宮にはあれどつきくさのうつろふ心我思はなくに

原文 百尓千尓 人者雖言 月草之 移情 吾将持八方
訓読 百(もも)に千(ち)に人は言ふとも月草(つきくさ)のうつろふ情(こころ)吾(われ)持ためやも
歌詠 ももにちに人は言ふともつきくさのうつろう心我持ためやも

 最初の一首の三句目の「鴨頭草(つきくさ)」は、現在の露草(ツユクサ)を意味し、別に「空草」、「月草」、「鴨跖草」とも表記します。この鴨頭草の表記でツユクサを表す時は、言葉を使う意識の内にその花の形状があり、言葉の意味合いにおいて「男女の性交渉」を暗示します。つまり、宮仕えする女が男に対して、噂話に登るような気移りする尻軽女では無いと云う歌意になります。その応歌の三句目ではツユクサを鴨頭草の表記ではなく「月草」の表記に変えています。男女の恋歌では、女が性交をイメージさせる「鴨頭草」の表記を使って尻軽女では無いと云う歌を詠った時、その内容を踏まえて、性のイメージを取り除いて「月草」と表記を変えたことが風流人と思われます。そして、同時に月が雲に隠れるような疑念の気持は持たないと告げるのが大切です。この心の機微を示す「鴨頭草」と「月草」の表現を、同じ表記の「月草」の言葉で括ってしまっては万葉集の相聞歌の感情がなくなります。男女の相聞歌として並べられる二つの歌で、ほぼ同じような訓読みに対して、なぜ、違う鴨頭草と月草との表記の使い分けがあるのかと疑問を持つと、ここでのような個々の言葉の語源まで探って、心の機微を想像する云う万葉集を楽しむ大人のゲームとすることが出来ます。これもまた、一つの楽しみ方です。
 これらの「表記する歌」が内包する複雑さを踏まえた上で、歌で使われる漢字一文字の内の一画が違うために歌全体の歌意が変わる歌の事例を紹介します。それは有名な大津皇子と石川郎女との相聞歌とされるものです。最初に紹介するものが西本願寺本に載る歌で、次に紹介するものが校本万葉集の歌です。

西本願寺本の相聞歌
原文 足日木乃 山之四付二 妹待跡 吾立所沽 山之四附二
原文 吾乎待跡 君之沽計武 足日木能 山之四附二 成益物乎

校本万葉集の相聞歌
原文 足日木乃 山之四付二 妹待跡 吾立所沾 山之四附二
原文 吾乎待跡 君之沾計武 足日木能 山之四附二 成益物乎

 この二つの相聞歌の西本願寺本と校本万葉集とでの違いは、「沽」と「沾」との漢字の、ほんの僅かな漢字一字での一画の差です。ほんのわずかな相違と思われるでしょうが、そうではありません。それは「沽」と「沾」とでは漢字の意味が違うために「山之四付」や「山之四附」の解釈が変わるからです。それぞれの漢字に意味を確認しますと、「沽」の意味は「対価を払って手に入れる」ですが、「沾」の意味は「うるおう、しめり気をおびる」です。従って、「沽」に対して「山之四付」は「山の雌伏」と解釈し、「沾」に対しては「山之四付」は「山の雫」と解釈するようになります。この解釈に対応して、二首目の石川郎女が大津皇子の歌に答えた句の「山之四附二 成益物乎」の解釈が、劇的に相違します。「沽」では「貴方が待つ山の雌伏に行けたら良いのですが」と解釈しますが、「沾」では「貴方を濡らしたその山の雫に私が成れたら良いのですが」と解釈するようになります。当然、西本願寺本を下にしてこの歌を鑑賞する場合は、大津皇子と石川郎女との間に特別な男女関係は想定しません。一方、校本万葉集を下にしてこの歌を鑑賞する場合は二人の間に濃密な男女関係を想定しますし、二人の親密な肉体関係を理解することを歌の鑑賞の成果として要求します。このために、今日ではこの校本万葉集によって、石川郎女は恋多き女(宮武外骨に代表される明治から昭和の文化人は淫売女又は売春婦と云います)とみなされています。伝本としては元暦校本や仙覚本系が「沽」派で、金沢本や細井本が「沾」派です。ただし、平安中期以降に付けられた訓では「沽」の漢字に対して「ぬれぬ」ですから、万葉集が一度読めなくなった平安中期以降に訓を間違えたか、漢字の誤記なのかは難しいところです。本来、「沽」が正しいとしますと、平安中期以降に訓を間違え、その間違えた訓に合わせるために「沽」の字を「沾」へと直したとの推理が可能になります。
 万葉集が「漢字だけで表現された和歌」であると云う原点に立ち戻りますと、なぜ西本願寺本と校本万葉集とで漢字表記が違い、なぜ西本願寺本では「沽」の漢字に対して「ぬれぬ」の訓を与えたのかを考え時、ここに万葉集を楽しむ大人のゲームが現れます。

西本願寺本の相聞歌
訓読 あしひきの山の雌伏(しふく)に妹待つと吾立ち沽(か)れぬ山の雌伏に
私訳 「葦や檜の茂る山の裾野で愛しい貴女を待っている」と伝えたので、私は辛抱してじっと立って待っている。山の裾野で。
訓読 吾を待つと君が沽(か)れけむあしひきの山の雌伏に成らましものを
私訳 「私を待っている」と貴方がじっと辛抱して待っている、葦や檜の生える山の裾野に私が行ければ良いのですが。

校本万葉集の相聞歌
訓読 あしひきの山のしづくに妹待つと吾立ち濡れし山のしづくに
意訳 あしひきの山の雫に、妹を待つとて私は立ちつづけて濡れたことだ。山の雫に。
訓読 吾を待つと君が濡れけむあしひきの山のしづくに成らましものを
意訳 私を待つとてあなたがお濡れになったという山のしずくに、私はなりたいものです。

 色々と事例を挙げて説明してきました。社会人らしい万葉集と云う和歌集の歌の鑑賞方法について、ご理解いただけたでしょうか。
 もし、提示する歌の鑑賞方法についてご理解いただけたとすると、では、どのようにして、この万葉集を楽しむ大人のゲームを始めたら良いでしょうか。最初に、皆さんはこのブログを読まれていますから、コンピューターが使えるとして、話を進めます。当然、万葉集と云うゲームを始めるのですから、道具が必要です。その道具について、説明します。もし、予算が5千円ほど用意できるのですと、中古本で良いですから文庫版万葉集(中西進)を全五巻、全て揃えてください。それと高校生が使うような中古本の漢語辞典と古語辞典を購入してください。それでも、まだ予算が残れば中古本での文庫版万葉集(伊藤博)を全十巻、全て揃えてください。この二つの文庫版万葉集の本を推薦するのは理由があります。それは、このお二人は、万葉集が「漢字だけで表現された和歌」であり、万葉集全体が壮大な歌物語であると云う本質的な視点に立っていらっしゃいます。そして、その視点を下に万葉集の全歌に対して原文の漢字一字まで目を通した上で、訓読みと現代語訳を行われて、一般に万葉集を普及するために文庫版と云う手段で出版されています。さらに、もし、予算的に余裕があれば校本万葉集のテキストである万葉集(おうふう)の購入を推薦します。
 これらの道具が揃ったところで、インターネットの多くのHPの中から適当に万葉集の原文をダウンロードしてください。そうすれば、原文の漢字入力の手間が要りません。ただし、ダウンロードした時に、必ず、それは日本語であることを確認してください。一部のHPでは台湾繁体語で入力されていますので、語にルビを振る時に上手くいかないことがあります(Wordテキストなら簡単に日本語変換が出来ます)。そのダウンロードした原文と文庫版万葉集(中西進)の原文とを比較して、修正を行ってください。これが出来れば、貴方のCPに校本万葉集のWordテキストが取り入れられたことになります(この方法は著作権に抵触しないと思います)。当然、技術とお金があれば、校本万葉集のテキストをコピー・PDF化して、それをCPにWordテキストとして取り入れるのが一番お手軽です(ただ、著作権には注意ください)。
 これが出来れば、あとは中西万葉集や伊藤万葉集に載る訓読み、意訳文、解説を読み、好きな歌を捜してください。そして、先に紹介したような方法で、その好きな歌に西本願寺本と校本万葉集とで使われる漢字に相違がないか、また、使われる漢字の動詞の意味が漢語辞典や古語辞典に載るものと相違がないかなどを調べてみてください。きっと、万葉集を楽しむ大人のゲームにどっぷりと漬かってしまうはずです。参考に、ブログで紹介する万葉集の歌は、紹介した方法で鑑賞を行っています。

 最後になりますが、ここで、重要な御断りをします。「社会人らしい万葉集と云う和歌集の歌の鑑賞方法」と説明するように、ここでのものは趣味を許容出来る社会人のものであって、受験を控える生徒・学生や今後に文学の論文を書かなければならない御方には縁の無いものであることをご理解ください。万葉集が漢語と万葉仮名と云う漢字で書かれた歌と云う再認識は、万葉集の研究では非常に新しいことです。そして、万葉集が漢字だけで書かれていることを前提とした、ここで説明した相対的な「調べの歌」と絶対的な「表記する歌」との二つの異なる概念は研究者の間には存在しませんし、「表記する歌」で使う漢語や万葉仮名の漢字が選択されて使われていると云う事実はあまり注目されません。このような背景から、多くの研究者は、原文ではなく、校本万葉集の現代語訳された訓読み万葉集をもって「万葉集の歌」として、個々の研究をします。そこには原文での漢字選択の解釈によってその歌の感情が変わると云う万葉集の歌の本質は考慮されません。従って、同じ「万葉集の歌」と云っても、ここでの云う「万葉集」と多くの研究者の「万葉集」とは違うものであることをご理解ください。つまり、紹介した「多くの研究者の万葉集」とは違う「本来の万葉集」を楽しむ大人のゲームの成果は、アカデミーにはなりません。それは「トンデモ研究」と云うものです。
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万葉集 初めて万葉集に親しむために その二

2011年12月01日 | 万葉集 雑記
万葉集  初めて万葉集に親しむために その二

複数の歌を集まりとして楽しむ
 前回、万葉集が古今和歌集等の歌集とは絶対的に違う点として、万葉集の歌は漢語と万葉仮名と云う漢字で書かれた歌で、その使う漢字は表意文字の特性から一字一字に意味を持たして選択して使用が行われていると紹介しました。今回は、万葉集の歌が持つある特性に注目して万葉集の歌の鑑賞法を提案します。その特性とは、万葉集のある一定の歌では複数の歌を相聞歌群と云うような一つの集まりとして鑑賞できることです。
 伝統の歌道における和歌の鑑賞では、古今和歌集以来、この相聞歌群と云うような概念で複数の和歌を一つの集まりとして鑑賞を行うことは、まず、しません。その万葉集の歌の鑑賞とその他の和歌集の歌の鑑賞の違いを説明する前に、ここで云う相聞歌群を説明しますと、それは数首以上の歌で歌物語を形成するような歌の集合体のことを意味します。ある種の歌垣に相当すると思いますが、尻取り歌のような言葉だけを受け継ぐ連歌とは意味合いが違います。また、古今和歌集以降の歌は、平安時代などの歌合わせの宴で歌が相対で詠まれたとしても、それらの歌は互いの歌を対で一つの共通する内容として相聞歌群を形成することを前提としていません。ですから、和歌集に歌合わせの歌が対で採られたとしても、それはここでの相聞歌群と云う概念には相当しません。
 その相聞歌群と云う概念をもう少し紹介するため、歌垣歌を説明します。その歌垣歌のイメージとしては、中国や東南アジアに残る風習、日本での花一匁(はないちもんめ)の遊戯の童謡などを参照して、男女の集団が性別に相対し、伝承された集団歌を男女が掛け合い詠うもの(ある種の旋頭歌や歌謡)と、男女の代表が即興の掛け合い歌(短歌やごく短い長歌)で対話しつつ物語を紡いでいくものとの二種類を想定しています。この歌垣のイメージから説明する相聞歌群と云う概念とは、男女の代表が即興の掛け合い歌で対話しつつ物語を紡いでいくものの方の歌の集まりを意味します。参考で正史に残る歌垣歌を宝亀元年の例から紹介しますと、

続日本紀の歌垣歌の例;宝亀元年(770)三月廿八日の歌垣
乎止売良爾 乎止古多智蘇比 布美奈良須 爾詩乃美夜古波 与呂豆与乃美夜
をとめらに をとこたちそひ ふみならす にしのみやこは よろづよのみや
布知毛世毛 伎与久佐夜気志 波可多我波 知止世乎麻知弖 須売流可波可母
ふちもせも きよくさやけし はかたがは ちとせをまちて すめるかはかも

 この二首は公式の祝賀行事の一貫で詠われたため記事では歌垣歌ですが、祝賀行事の式次第による歌垣での詠い始めの独詠の寿歌として和歌の形になっていると考えます。集団での男女が掛け合い詠うものとしては人麻呂歌集に次のような歌があります。

旋頭歌の例;人麻呂歌集より未通女の腰巻祝いの集団歌謡
新室 壁草苅迩 御座給根 草如 依逢未通女者 公随
新室 踏静子之 手玉鳴裳 玉如 所照公乎 内等白世

訓読
新室(にひむろ)の壁草(かべかや)刈りしに坐(いま)し給はね 草(かや)の如寄り合ふ未通女(をとめ)は公(きみ)がまにまに
新室を踏む静む子が手玉(たたま)鳴らすも 玉の如照らせる公(きみ)を内(なか)にと申せ

 ここで、相聞歌群と云う概念に戻りますと、その相聞歌群の意味合いとは次のようなテーマ性を持つ歌の集まりです。

久米禅師、娉石川郎女時謌五首
水薦苅 信濃乃真弓 吾引者 宇真人作備而 不欲常将言可聞  (禅師)
三薦苅 信濃乃真弓 不引為而 強作留行事乎 知跡言莫君二  (郎女)
梓弓 引者随意 依目友 後心乎 知勝奴鴨  (郎女)
梓弓 都良絃取波氣 引人者 後心乎 知人曽引  (禅師)
東人之 荷向篋乃 荷之緒尓毛 妹情尓 乗尓家留香問  (禅師)

訓読
御薦(みこも)刈りし信濃(しなの)の真弓(まゆみ)吾が引かば貴人(うまひと)さびて否(いな)と言はむかも
御薦(みこも)刈りし信濃(しなの)の真弓(まゆみ)引かずして強(し)ひさる行事(わさ)を知ると言はなくに
梓(あずさ)弓(ゆみ)引かばまにまに依(よ)らめども後(のち)の心を知りかてぬかも
梓(あずさ)弓(ゆみ)弦(つら)緒(を)取りはけ引く人は後(のち)の心を知る人ぞ引く
東人(あずまひと)の荷前(のさき)の篋(はこ)の荷の緒にも妹は心に乗りにけるかも

また、阿倍女郎と中臣朝臣東人との貴族の集まりの宴での掛け合い歌では、次のような歌があります。

吾背子之 盖世流衣之 針目不落 入尓家良之 我情副 (阿倍女郎)
獨宿而 絶西紐緒 忌見跡 世武為便不知 哭耳之曽泣 (中臣朝臣東人)
吾以在 三相二搓流 絲用而 附手益物 今曽悔寸 (阿倍女郎)

訓読
吾が背子が著(け)せる衣(ころも)の針目(はりめ)落ちず入りにけらしも我が情(こころ)副(そ)ふ
独(ひと)り宿(ね)て絶えにし紐をゆゆしみと為(せ)むすべ知らに哭(ね)のみしぞ泣く
吾が持てる三相(みつあひ)に搓(よ)れる糸もちて附(つ)けてましもの今ぞ悔しき

 さらに人麻呂歌集には、次のような相聞歌群を進化させた歌物語的な歌があります。なお、万葉集ではこの歌群は挽歌のグループで扱われていますので、特別に現代語訳を添えます。

勿念跡 君者雖言 相時 何時跡知而加 吾不戀有牟 (女)
直相者 相不勝 石川尓 雲立渡礼 見乍将偲 (女)
天離 夷之荒野尓 君乎置而 念乍有者 生刀毛無 (女)
旦今日ゞゞゞ 吾待君者 石水之貝尓 交而 有登不言八方 (女)
鴨山之 磐根之巻 有吾乎 鴨不知等 妹之待乍将有 (男)
荒浪尓 縁来玉乎 枕尓置 吾此間有跡 誰将告 (男)

訓読
な念(おも)ひと君は言へども 逢はむ時何時と知りてかわが恋ひずあらむ
直(ただ)逢ひは逢はずに勝る 石川に雲立ち渡れ見つつ偲はむ
天(あま)離(さ)る夷(ひな)の荒野に君を置きて 思ひつつあれば生けりともなし
今日今日とわれ待つ君は 石見の貝(かひ)に交りてありといはずやも
鴨山の巌根し枕(ま)けるわれをかも知らにと妹の待ちつつあるらむ
荒波に寄りくる玉を枕に置き われこの間(ま)にありと誰か告げなむ

私訳
そんなに思い込むなと貴方は云いますが、貴方と逢うのは「今度は何時」と数えながら私は貴方に恋をしているのではありません。
直接、貴方に逢うことは、会わずに手紙を貰うことより勝ります。逢えない私は、雲が想いを届けると云う、あの石川精舎の大伽藍の上に立ち昇る雲を見ながら貴方を恋しく偲びましょう。
大和から遠く離れた荒びた田舎に貴方が行ってしまっていると思うと、私は恋しくて、そして、貴方の身が心配で生きている気持ちがしません。
貴方に再びお目に懸かれるのは今朝か今朝かと恋しく思っているのに、その貴方は、なんと、人の噂では、まだ石見の国にいて、女を抱いているというではありませんか。
丹比道の鴨習太(かもならいた)の神の杜(やしろ)のほとりで旅寝をする私を、そうとも知らないで私の愛しい貴女は私を待っているらしい。
石見の荒波の中から手にいれた真珠を枕元に置き、私はここに居ますよと、誰が貴女の耳元で告げるのでしょうか。

 このように、数首以上の歌で歌物語を形成するような掛け合いの歌の集合体を成しています。奈良時代の奈良の都では続日本紀に何度もその記事が載るように貴族階級から一般市民まで歌垣は大きな娯楽の一つです。人々の間での大きな娯楽として歌垣が屋外で男女二つの大集団に分かれ行われるものならば、夜間の明かりが自由に使え、男女が集うことができる大きな屋敷を所有する貴族の間では、歌垣と同様なものを屋内で行うことがなされたのではないでしょうか。つまり、飛鳥・奈良時代には、少人数で行う男女の室内での歌垣に相当する「歌会」が行われていたと思います。
 ここに万葉集の歌の特徴が現れます。古今和歌集以降の和歌が漢詩のように歌合わせでテーマが与えられたとしても、それぞれが単独に歌を詠います。一方、万葉時代は歌垣のスタイルを継承するような与えられたテーマに沿って相対する男女が歌を戦わせながらも、歌で物語を紡いでいくことが行われていたと思われます。そして、この歌垣風の歌会の歌々が万葉集の中で相聞歌群として載せられていると考えます。ここに万葉集の歌が持つ特性から万葉集の歌とその他の和歌集の歌の違いがあります。当然、一首一首を単独で鑑賞することを前提とするものと歌がある一定の集まりで鑑賞することを前提とするものでは、その歌の鑑賞方法は異なるはずです。ところが、平安中後期以降の和歌の鑑賞では、このような二つの異なるものの存在を考慮することなく、万葉集で相聞歌群に属すると思われる歌であっても一首単独に切り出し鑑賞することが行われています。なお、万葉集の筑波の「かがひ」の関わる歌から、歌垣を東国特有の夷の民俗と紹介するものもありますが、それは何かの伝聞の、その又聞きです。奈良時代では歌垣は朝廷の祝賀行事でたびたび行われ、また、常陸国、摂津国、筑後国などの地域には歌垣行事の記録があり、ほぼ、日本民族に共通する風習です。この事実を見誤ると、万葉集の相聞歌群の一部に歌垣歌が取られていると云う可能性への発想は現れてきません。
 さて、古今東西、若い男女の最大関心事は、恋愛です。従って、歌垣風の歌会の歌々は与えられたテーマがどうであれ、集う人々の希望と期待からも男女の恋愛を詠う相聞歌に収斂するでしょう。すると、ここに新たな社会人らしい万葉集と云う和歌集の歌の鑑賞方法が生まれます。それは、従来、専門家は万葉集の歌を古今和歌集以来の歌と同様に一首一首をその相互の関連性をさほど考慮せずに鑑賞して来ましたが、新たな認識下ではある種の歌は相聞歌群として鑑賞する必要がありことになります。つまり、初回で説明した「本来の万葉集の歌」からその歌を鑑賞すると共に、今回、説明する「周辺に配置されている歌々との関連性を想像する」と云う楽しみが生まれて来ます。この楽しみは、歌一首単独に鑑賞する手法での和歌への感性に依存する相対的な専門家の感覚によるものではなく、歌の内実を絶対的な理性で楽しむものですから一般の社会人向けの鑑賞方法です。ここに、万葉集の歌を鑑賞する時にその歌が相聞歌群を形成する可能性を考慮しますと、もう一つの社会人らしい歌を鑑賞する時に周辺に配置されている歌々との関連性を想像すると云う知的な楽しみが生まれます。

 ここで、お尋ねします。男女の恋愛の相聞歌が、どうして、万葉集に載せられているのでしょうか。貴女や貴方は、夜を共にすることを前提とする二人だけの愛の歌を、広く人々に公表しますか。この視線で万葉集の相聞歌群を鑑賞しますと、公表されるのを前提としたものと秘すべきものとに分けられると考えます。その二つに分けられる歌が万葉集に載る理由を想像すると、宮中等の宴会での歌垣風の歌会の歌々が記録に残った、また、人に秘している私的な記録が何らかの形で万葉集の編者の許に渡った、等の推理が出来ます。先に紹介した阿倍女郎と中臣朝臣東人との貴族の集まりの宴での掛け合い歌は、ある種、歌会の歌々の記録です。一方、私歌集である人麻呂歌集に載る歌の一部は、人麻呂と隠れ妻との人に秘すべき相聞歌ではないでしょうか。

秘すべき相聞歌 人麻呂歌集より抜粋、編集
剱刀 諸刃利 足踏 死々 公依 (女)
我妹 戀度 劔刀 名惜 念不得 (男)
我背子之 朝明形 吉不見 今日間 戀暮鴨 (女)
玉響 昨夕 見物 今朝 可戀物 (男)
我心 不望使念 新夜 一夜不落 夢見与 (女)
烏玉 間開乍 貫緒 縛依 後相物 (男)

訓読 
剣太刀(つるぎたち)諸刃(もろは)の利(と)きに足踏みて死なば死なむよ君に依(よ)りては
我妹子に恋ひしわたれば剣太刀(つるぎたち)名の惜しけくも思ひかねつも
我が背子が朝明(あさけ)の姿よく見ずて今日の間(あひだ)を恋ひ暮らすかも
玉(たま)響(とよ)む昨日(きのふ)の夕(ゆふべ)見しものを今日(けふ)の朝(あした)に恋ふべきものを
我が心見ぬ使(つかひ)思(も)ふ新夜(あらたよ)の一夜(ひとよ)もおちず夢(いめ)に見えこそ
烏玉(ぬばたま)の間(あひだ)開(あ)けつつ貫(ぬ)ける緒もくくり寄すれば後(のち)もあふものを

私訳 
二人で寝る褥の側に置いた貴方が常に身に帯びる剣や太刀の諸刃の鋭い刃に、私が足を踏んで死ぬのなら死にましょう。貴方のお側に寄り添ったためなら。
私の愛しい貴女を押し伏せて抱いていると、剣や太刀を付けている健男の名を惜しむことも忘れてしまいます。
私の貴方がまだ薄暗い朝明けの中を帰っていく姿がはっきりと見えなくて、おぼつかなく、今日の一日を恋しく暮らすのでしょうか。
美しい玉のような響きの声。昨日の夜に見たあなたの姿は、今日の朝には私が恋い慕うべき姿です。
私の気持ちは心を伝える貴方からの使いを見ることではなく、逢えない夜は一夜を欠けることなく夢の中に貴方の姿を見せてください。
漆黒の夜の間、解いた衣を通す紐の緒も、朝になり衣をくくり寄せれば結びあうように、再び、逢うものです。

 この例において、先の阿倍女郎と中臣朝臣東人との相聞歌と人麻呂と隠れ妻との相聞歌は、区分されるべきものと考えます。人麻呂歌集の歌々は、本来、公表される歌集ではなく、彼が長門国で海難死した後に周囲の人々による彼の身辺整理の過程で、有名歌人の私歌集として世に出たものと考えています。このように歌会での楽しみや風流としての相聞歌と秘すべき恋の相聞歌との区分はあると考えます。ところが、従来の万葉集の相聞歌の研究では歌垣風の歌会の歌々の相聞歌群のような発想や概念がないため、ほとんどの相聞歌の鑑賞において、初回に紹介した大津皇子と石川郎女の相聞歌に代表されるように、歌を交わす男女には性的交渉(=妻問ひの婚姻関係)を想定します。そうした時、万葉の女流歌人が多数の男性と相聞歌を詠う姿を下に、江戸時代から昭和時代の和歌研究家の理解である、宮武外骨に代表されるような万葉女流歌人売春婦説に継ながります。そして、この相聞歌を交わす男女には性的交渉(=妻問ひの婚姻関係)を認めることを前提として、万葉集の歌から想像される関係を一部取り入れて奈良時代の貴族の婚姻等の相関図が作成されています。もしここで、先に指摘した男女の恋愛の相聞歌群には秘すべき歌と歌垣風の歌会の歌々との二種類があるとすると、奈良時代前期における貴族の婚姻等の相関図が修正される可能性が出て来ます。つまり、「本来の万葉集の歌」に対して「その歌を相聞歌群」として社会人らしい知的な楽しみを行うと、専門家が示す歴史とは違う、十分、根拠ある別の歴史を貴女や貴方が造り上げると云う、もう一つの万葉集を楽しむことへの可能性があります。
 万葉集釋注を書かれた伊藤博氏は、その発刊に際して釋注一の本で「万葉集の従来の注釈書は、語釈を中心に一首ごとに注解を加えるのを習いとしている。しかし、万葉歌には、前後の歌とともに味わうことによって、はじめて真価を発揮する場合が少なくない。」(p503)と述べられています。今回は、この伊藤博氏が指摘した事実を下に、歌での歌群としての鑑賞について説明をしました。このような鑑賞方法もあるとして、社会人らしい知的な楽しみをしてみてください。
 最後に、初回にも述べましたが「社会人らしい万葉集と云う和歌集の歌の鑑賞方法」と説明するように、ここでのものは趣味を許容出来る社会人のものであって、受験を控える生徒・学生や今後に文学の論文を書かなければならない御方には縁の無いものであることをご理解ください。伝統的な万葉集の恋歌の鑑賞に相聞歌群と云う概念はありません。恋歌の鑑賞では歌の分類に相聞歌とある場合のみその相関を鑑賞しますが、原則は、一首一首の独立した歌として鑑賞します。つまり、歌の扱い方が違いますから、歌の解釈が変わる可能性があります。専門的になって来ると、先に説明したように歌を交わす男女には性的交渉(=妻問ひの婚姻関係)を想定することを前提に歌を解釈しますし、それに合わせて初回に説明したように原文訓読を行い、さらには解釈に合うように必要に応じて原文改字の改訂も行います。普段には、その成果である校本万葉集を下に一首一首独立して扱うことを原則にしていますから、万葉集のある種の歌々を歌群として鑑賞することから導き出されたものは俗に云う「トンデモ研究」にしかなりません。そこを、受験を控える生徒・学生の方々は特にご理解ください。
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万葉集 初めて万葉集を親しむために その三

2011年12月01日 | 万葉集 雑記
万葉集  初めて万葉集を親しむために その三

歌物語を楽しむ
 万葉集釋注を書かれた伊藤博氏は、その発刊に際して釋注一の本で「万葉集の従来の注釈書は、語釈を中心に一首ごとに注解を加えるのを習いとしている。しかし、万葉歌には、前後の歌とともに味わうことによって、はじめて真価を発揮する場合が少なくない。」(p503)と述べられています。この指摘から「初めて万葉集を親しむために その二」(以下、「その二」と云います)では、ある種の相聞歌を数首の歌群として楽しむことを提案しました。今回は「その二」で、少し紹介しましたが、社会人が万葉集の歌を親しむ時に、社会人らしい知的な楽しみとして万葉集の歌を歌物語のように楽しむことができる可能性を紹介しようと思います。
 従来の万葉集の鑑賞では、伊藤博氏が指摘するように万葉集の歌もまた一首ごとに鑑賞することを基本としているために、歌群と云う概念で万葉集の歌々を鑑賞することは行われていません。ところが、「その二」で紹介したように、歌垣歌のような感覚で歌群として万葉集の歌々を鑑賞できる可能性を紹介しました。この歌垣歌のような感覚での歌群は男女の相聞歌や相聞二首歌として万葉集に示されますが、これを少し進めて、一人の作歌者による相聞歌に似せた歌が歌群として展開していくと、それはある種の歌物語になるのではないでしょうか。
 そうした時、万葉集歌の中で一番判りやすい歌物語的な歌は、大伴旅人が詠う「遊松浦河」の歌です。この歌群は、最初に前置漢文の序文で物語の全景を紹介して、その全景に沿う形で物語を和歌で詠います。この遊松浦河の歌は、漢文で示す世界と和歌歌群が示す世界が相対していますので、最初に漢文の私訳を参照していただければこの歌物語の進行が掴み易いと思います。
 なお、従来からの訓読み万葉集の歌を一首ごとに鑑賞することを基本とする立場では、この遊松浦河の歌は山上憶良と大伴旅人など複数の人々が寄せた歌の集まりとして鑑賞することになっています。そして、その訓読み万葉集を研究する立場により、この歌の発起者を山上憶良とする説と大伴旅人とする説があるなど、複数の説が存在することを付け加えます。主流は集歌861の歌の標の「後人追和之謌三首 帥老」から発起を山上憶良とする説が有力です。このような訓読み万葉集を研究する立場では、前置漢文の序文と和歌歌群とは別々なものとして扱うのが伝統的な鑑賞方法ですし、歌の発起者を山上憶良等とする説の拠り所になります。

遊松浦河序
序訓 松浦(まつら)河(かは)に遊(あそ)ぶの序

(前置漢文 序)
余以暫徃松浦之縣逍遥 聊臨玉嶋之潭遊覧 忽値釣魚女子等也 花容無雙 光儀無匹 開柳葉於眉中發桃花於頬上 意氣凌雲 風流絶世 僕問曰 誰郷誰家兒等 若疑神仙者乎 娘等皆咲答曰 兒等者漁夫之舎兒 草菴之微者 無郷無家 何足稱云 唯性便水 復心樂山 或臨洛浦而徒羨王魚 乍臥巫峡以空望烟霞 今以邂逅相遇貴客 不勝感應輙陳歎曲 而今而後豈可非偕老哉 下官對曰 唯々 敬奉芳命 于時日落山西 驪馬将去 遂申懐抱 因贈詠謌曰

訓読 余(われ)暫(たまたま)松浦の縣(あがた)に徃きて逍遥し、聊(いささ)かに玉嶋の潭(ふち)に臨みて遊覧せしに、忽ちに魚を釣る女子らに値(あ)ひき。花のごとき容(かほ)雙(ならび)無く、光(て)れる儀(すがた)匹(たぐひ)無し。柳の葉を眉の中に開き、桃の花を頬の上に發く。意氣雲を凌ぎ、風流世に絶(すぐ)れたり。僕問ひて曰はく「誰が郷、誰が家の兒らそ。若疑(けだし)神仙ならむか」といふ。娘ら皆咲みて答へて曰はく「兒らは漁夫の舎の兒、草菴の微(いや)しき者にして、郷(さと)も無く家も無し。何そ稱(な)を云ふに足らむ。唯性(さが)水を便(つて)とし、復、心に山を樂しぶのみなり。或るは洛浦に臨みて、徒らに王魚(さかな)を羨み、 乍(ある)は巫峡(ふかふ)に臥して空しく烟霞(えんか)を望む。今邂逅(たまさか)に貴客(うまひと)に相遇(あ)ひ、感應に勝(あ)へずして、輙(すなわ)ち歎曲(くわんきょく)を陳ぶ。而(また)今(いま)而後(よりのち)、豈偕老にあらざすべけむ」といふ。下官對へて曰はく「唯々(をを)、敬みて芳命を奉(うけたまは)る」といふ。時に日山の西に落ち、驪馬(りば)去なむとす。遂に懐抱(くわいほう)を申(の)べ、因りて詠謌を贈りて曰はく、

私訳 私は、たまたま、松浦の地方に行きそぞろ歩きをし、少しばかり玉島川の淵に立って遊覧した時に、ちょうど魚を釣る少女たちに出会った。少女の花のような容貌は他と比べるものがなく、輝くような容姿も匹敵する者はいない。柳の葉を眉の中に見せ、桃の花を頬の上に披く。気分は雲を遥かに超え、風流は世に比べるものがない。僕は少女に問うて云うには「どこの里の、どこの家の少女ですか。もしかしたら神仙ですか」といった。少女たちは皆微笑んで答えて云うには「私たちは漁師の家の子供で、草生す家の身分低き者で、名の有る里もありませんし、屋敷もありません。どうして、自分の名を告げることが出来ましょう。ただ、生まれながらにして水に親しみ、また、気持ちは山を楽しむだけです。時には、洛浦のほとりに立って、ただ、美しい魚を羨み、またある時には、巫峡に伏して空しく烟霞を眺める。今、たまたま、立派な人に出会って感動にたえず、そこで、ねんごろに気持ちを伝えました。今後は、どうして、偕老の契(=夫婦になること)を結ばずにいられるでしょうか」と云った。私は「ああ、つつしんで貴女の想いを承りましょう」といった。時に、日は西の山に落ち、私と私を乗せる馬は帰らなければならない。そこで、心の内の想いを述べ、その想いに従って歌を詠い贈って云うには、

集歌853 阿佐里流須 阿末能古等母等 比得波伊倍騰 美流尓之良延奴 有麻必等能古等
訓読 漁(あさり)るす海人(あま)の子どもと人は云へど見るに知らえぬ貴人(うまひと)の子と

私訳 「漁をする漁師の子供」と貴女は私に告げるけれど、貴女に逢うと判ります。身分ある人の子であると。


答詩曰
標訓 答へたる詩に曰はく
集歌854 多麻之末能 許能可波加美尓 伊返波阿礼騰 吉美乎夜佐之美 阿良波佐受阿利吉
訓読 玉島(たましま)のこの川上(かはかみ)に家(いへ)はあれど君を恥(やさ)しみ顕(あらは)さずありき

私訳 玉島のこの川の上流に私の家はありますが、高貴な貴方に対して私の身分を恥じて、それを申し上げませんでした。


蓬客等更贈謌三首
標訓 蓬客(ほうかく)等(たち)の更(また)贈れる謌三首
集歌855 麻都良河波 可波能世比可利 阿由都流等 多々勢流伊毛河 毛能須蘇奴例奴
訓読 松浦川(まつらかは)川の瀬光り鮎釣ると立たせる妹が裳の裾濡れぬ

私訳 松浦川、その川の瀬で光る鮎を釣ろうとして、瀬にお立ちの愛しい貴女の裳の裾が濡れている。


集歌856 麻都良奈流 多麻之麻河波尓 阿由都流等 多々世流古良何 伊弊遅斯良受毛
訓読 松浦(まつら)なる玉島川(たましまかは)に鮎釣ると立たせる子らが家道(いへぢ)知らずも

私訳 松浦にある玉島川で鮎を釣ると川瀬にお立ちになっている貴女の、その家への道を私は知りません。

注意 女性が男性に家や名前を教えることは、その男性との共寝を受け入れたことを意味します。


集歌857 等富都比等 末都良能加波尓 和可由都流 伊毛我多毛等乎 和礼許曽末加米
訓読 遠人(とほつひと)松浦(まつら)の川に若鮎釣る妹が手本(たもと)を吾(わ)れこそ巻(ま)かめ

私訳 遠くからの人を待つ、その言葉のひびきのような松浦の川に若鮎を釣る愛しい貴女の腕を、私は絡み巻いて貴女をどうしても抱き締めたい。


娘等更報謌三首
標訓 娘等の更(また)報(こた)へたる謌三首
集歌858 和可由都流 麻都良能可波能 可波奈美能 奈美邇之母波婆 和礼故飛米夜母
訓読 若鮎(わかゆ)釣る松浦(まつら)の川の川浪(かはなみ)の並(なみ)にし思(も)はば吾(わ)れ恋ひめやも

私訳 若鮎を釣る松浦川の川浪の、その言葉のひびきのように、並の出来事と思うのでしたら、私はこれほど貴方を恋い慕うでしょうか。


集歌859 波流佐礼婆 和伎覇能佐刀能 加波度尓波 阿由故佐婆斯留 吉美麻知我弖尓
訓読 春されば吾家(わがへ)の里の川門(かはと)には鮎子(あゆこ)さ走る君待ちがてに

私訳 春がやって来れば私の家のある里の川の狭まった場所には子鮎が走り回る。まるで貴方を待ちわびる私の心のように。


集歌860 麻都良我波 奈々勢能與騰波 与等武等毛 和礼波与騰麻受 吉美遠志麻多武
訓読 松浦川(まつらかは)七瀬の淀は淀むとも吾(わ)れは淀(よど)まず君をし待たむ

私訳 松浦川の多くの瀬の淀の、その水が淀むとしても、私は心を淀ます(=逡巡する)ことなく貴方の訪れだけ(=貴方に抱かれること)を待っています。


後人追和之謌三首  帥老
標訓 後の人の追ひて和(こた)へたる謌三首  帥(そち)の老(をひ)
集歌861 麻都良河波 河波能世波夜美 久礼奈為能 母能須蘇奴例弖 阿由可都流良哉
訓読 松浦川(まつらかは)川の瀬早み紅(くれなゐ)の裳の裾濡れて鮎か釣るらむや

私訳 松浦川の川の瀬の流れが早く、その瀬に立つ乙女の紅の裳の裾は、あの時と同じように濡れて鮎を釣るのでしょうか。


集歌862 比等未奈能 美良武麻都良能 多麻志末乎 美受弖夜和礼波 故飛都々遠良武
訓読 人(ひと)皆(みな)の見らむ松浦(まつら)の玉島(たましま)を見ずてや吾(わ)れは恋ひつつ居(を)らむ

私訳 人が皆眺めているはずの、その松浦にある玉島を眺めることなく、私は大宰府でただ、貴女を思い焦がれています。


集歌863 麻都良河波 多麻斯麻能有良尓 和可由都流 伊毛良遠美良牟 比等能等母斯佐
訓読 松浦川(まつらかは)玉島(たましま)の浦に若鮎(わかゆ)釣る妹らを見らむ人の羨(とも)しさ

私訳 松浦川の玉島の浦で、今も若鮎を釣る愛しい貴女を見つめている(=抱いている)でしょう、その人がうらやましい。

 先に「その二」で紹介した「久米禅師、娉石川郎女時謌五首」もある種の歌物語の世界ですが、男女の相聞歌群の形態を取りながら実態は諧謔の歌物語と考えられる歌群があります。それが石川女郎と大伴田主との相聞歌です。一見、男女の相聞歌のように思えますが、集歌126の歌から集歌129の歌までを連続した相聞歌群として鑑賞すると、大伴宿奈麻呂が宮中のサロンで披露した歌物語であることが判ります。それで、集歌127の歌に付けられた前置漢文の序文が、これらの相聞歌群が男性歌人の手によるものであることを語っています。およそ、大伴旅人が詠う遊松浦河の歌と同じく前置漢文の序文を示すことで、設定する歌物語の世界を鑑賞する人達に示しています。ただし、この相聞歌の序文は、遊松浦河の序文とは違い物語の場を設定する設定だけで、物語の進行は和歌から楽しむことになります。その物語の進行から最後には男女がどのような関係になったのかを、想像して下さい。これが、万葉集での歌物語を鑑賞する時の楽しみでもあります。

石川女郎贈大伴宿祢田主謌一首 即佐保大納言大伴卿第二子 母曰巨勢朝臣也
標訓 石川女郎の大伴宿祢田主に贈れる歌一首
追訓 即ち佐保大納言大伴卿の第二子、母を巨勢朝臣といふ
集歌126 遊士跡 吾者聞流乎 屋戸不借 吾乎還利 於曽能風流士
訓読 遊士(みやびを)と吾は聞けるを屋戸(やと)貸さず吾を還せりおその風流士(みやびを)

私訳 風流なお方と私は聞いていましたが、夜遅く忍んで訪ねていった私に、一夜、貴方と泊まる寝屋をも貸すこともしないで、そのまま何もしないで私をお返しになるとは。女の気持ちも知らない鈍感な風流人ですね。


大伴田主字曰仲郎、容姿佳艶風流秀絶。見人聞者靡不歎息也。時有石川女郎、自成雙栖之感、恒悲獨守之難、意欲寄書未逢良信。爰作方便而似賎嫗己提堝子而到寝側、哽音蹄足叩戸諮曰、東隣貧女、将取火来矣。於是仲郎暗裏非識冒隠之形。慮外不堪拘接之計。任念取火、就跡歸去也。明後、女郎既恥自媒之可愧、復恨心契之弗果。因作斯謌以贈諺戯焉。

注訓 大伴田主は字(あざな)を仲郎(なかちこ)といへり。容姿佳艶しく風流秀絶れたり。見る人聞く者の歎息せざるはなし。時に石川女郎といへるもの有り。自(おのづか)ら雙栖(そうせい)の感を成して、恒(つね)に獨守の難きを悲しび、意に書を寄せむと欲(おも)ひて未だ良信(よきたより)に逢はざりき。ここに方便を作(な)して賎しき嫗に似せて己(おの)れ堝子(なへ)を提げて寝(ねや)の側(かたへ)に到りて、哽音蹄足して戸を叩き諮(たはか)りて曰はく「東の隣の貧しく女(をみな)、将に火を取らむと来れり」といへり。ここに仲郎暗き裏(うち)に冒隠(ものかくせる)の形(かたち)を識らず。慮(おもひ)の外に拘接(まじはり)の計りごとに堪(あ)へず。念(おも)ひのまにまに火を取り、路に就きて歸り去なしめき。明けて後、女郎(をみな)すでに自媒(じばい)の愧(は)づべきを恥ぢ、また心の契(ちぎり)の果さざるを恨みき。因りてこの謌を作りて諺戯(たはふれ)を贈りぬ。

私訳 大伴田主は呼び名を仲郎といった。容姿は美しく艶やかで風流は特別秀でていた。彼を見る人、噂を聞く人で、感嘆しない人はいない。ある時に石川女郎と云う女性がいた。自分から田主と同棲したい気持ちを起こし、常に一人身で居ることの辛さを悲しみ、気持ちを文に託そうとしても未だに良い機会がなかった。ここで、方便として賤しい嫗に風体を似せて自ら鍋を提げ、田主の寝屋の側に出かけて行って、皺柄声とたどたどしい足音をさせ戸を叩いて偽って云うには「東の隣の貧しい女です、火を貰いに来ました」といった。ここに仲郎は暗闇の中に隠した女の姿に気が付かない。思いも寄らない、その女が田主との男女の交わりを願うことに気付かなかった。云われるままに火を取り、同じ道を帰らせた。夜が明けた後で、女郎は、すでに自分から男に抱かれようとした想いを恥じ、また、願った男女の契の想いを果たせなかったことを恨んだ。そこで、この歌を作って、戯れて田主に贈った。


大伴宿祢田主報贈一首
標訓 大伴宿祢田主の報(こた)へ贈れる一首
集歌127 遊士尓 吾者有家里 屋戸不借 令還吾曽 風流士者有
訓読 遊士(みやびを)に吾はありけり屋戸(やと)貸さず還しし吾(われ)ぞ風流士(みやびを)にはある

私訳 風流人ですよ、私は。神話の伊邪那岐命と伊邪那美命との話にあるように、女から男の許を娉うのは悪(あし)ことですよ。だから、女の身で訪ねてきた貴女に一夜の寝屋をも貸さず、貴女に何もしないでそのまま還した私は風流人なのですよ。だから、今、貴女とこうしているではないですか。

注意 原文の「遊士」の「遊」には、あちらこちらを訪ね歩くと云う意味合いもありますし、楽しむと云う意味もあります。そうした時、大伴田主がどこでこの歌を詠ったのかという問題が起きます。さて、田主の自宅でしょうか、それとも石川女郎の耳元でしょうか。


同石川女郎更贈大伴田主中郎謌一首
標訓 同じ石川女郎の更に大伴田主中郎に贈れる歌一首
集歌128 吾聞之 耳尓好似 葦若未乃 足痛吾勢 勤多扶倍思
訓読 吾(わ)が聞きし耳に好(よ)く似る葦(あし)若未(うれ)の足(あし)痛(う)む吾が背(せ)勤(つと)め給(た)ふべし

私訳 私が聞くと発音がよく似た葦(あし)の末(うれ)と足(あし)を痛(う)れう、その足を痛める私の愛しい人よ。神話の伊邪那岐命と伊邪那美命との話にあるように、女から男の許を娉うのは悪(あし)ことであるならば、今こうしているように、風流人の貴方は私の許へもっと頻繁に訪ねて来て、貴方のあの逞しい葦の芽によく似たもので私を何度も何度も愛してください。

注意 原文の「勤多扶倍思」の漢字の選字が、恋する男女の関係の前では意味深長であること
を感じて下さい。ここでは、集歌127の歌が石川女郎の耳元で詠われたとの想定でこの歌を訳しています。

右、依中郎足疾、贈此謌問訊也
注訓 右は、中郎の足の疾(やまひ)に依りて、此の歌を贈りて問訊(とぶら)へり。


大伴皇子宮侍石川女郎贈大伴宿祢宿奈麻呂謌一首
女郎字曰山田郎女也。
宿奈麻呂宿祢者、大納言兼大将軍卿之第三子也
標訓 大伴皇子の宮の侍(まかたち)石川女郎(いらつめ)の大伴宿祢宿奈麻呂に贈れる歌一首
追訓 女郎は字(あざな)を山田の郎女(いらつめ)といへり。
補筆 宿奈麻呂宿祢は大納言兼大将軍卿の第三子なり。
集歌129 古之 嫗尓為而也 如此許 戀尓将沈 如手童兒
訓読 古(ふ)りにし嫗(おふな)にしてや如(か)くばかり恋に沈まむ手(た)童(わらは)の如(ごと)

私訳 私はもう年老いた婆ですが、この石川女郎と大伴田主との恋の物語のように昔の恋の思い出に心を沈みこませています。まるで、一途な子供みたいに。

一云、戀乎太尓 忍金手武 多和良波乃如
一(ある)は云はく、
訓読 恋をだに忍びかねてむ手(た)童(わらは)の如

私訳 恋の思い出に耐えるのが辛い。まるで、感情をコントロール出来ない子供のように。

こ の集歌126の歌から集歌128の歌までの石川女郎と大伴田主との相聞歌群は、集歌129の歌の標に示すように大伴宿奈麻呂が宮中のサロンで披露した戯れの歌物語です。近江朝の時代に大友皇子の宮で「石川女郎」と呼ばれ、今は、石川山田郎女と呼ばれる女性が、ちょうどその時に宮中のサロンに居て、まるで自分の出来事かのように物語が詠われたために、座の雰囲気を保つために歌物語の感想を述べたのが集歌129の歌と思って下さい。そのため、歌物語に関連を持たすために今は存在しない「大伴皇子宮侍石川女郎」と云う身分をわざわざ使って、感想の歌を大伴宿奈麻呂に贈ったと云うことが重要です。
 さて、この歌の序文で設定している場面は、貴族の生活ではありません。野良の庶民の生活を想定しています。本来は貴族階級で多くの召使いを使うはずの石川女郎や大伴田主が、召使いも置かず共に単身で隣り合う一軒家にそれぞれが生活していると云う設定です。この特別な舞台の設定を理解しないと、これらの相聞歌群が歌物語の世界であると云うことに疎くなります。また、集歌128の歌に作為と諧謔があるとすると、歌の主人公の「田主」が人名でなければ古語では「案山子」を意味しますし、四句めの「足痛吾勢」とは「一本足の貴方」を意味する可能性があります。大伴宗家の二男である大伴宿奈麻呂が歌の序文で「大伴田主字曰仲郎」と示せば、宮中のサロンの人々は「おやおや、にやにやしながら」と興味深く歌物語の世界を堪能したと思います。この歌物語の鑑賞では、当時に男女の関係で何が風流で何が風流でないのかが問題ですし、女性が「吾勢=私の愛しい人」と相手を呼ぶ集歌128の言葉遊びの歌が、女の恨みの歌になっているか、どうかを考えることが重要と思います。それらを咀嚼して、この歌物語を宮中のサロンで堪能したので、集歌129の歌でもって山田郎女が「昔は私も愛する殿御に抱かれたのでした」と思い出を語ったと云うわけです。
 当然、歌を一首毎に鑑賞する立場では、歌の解釈は変わります。歌物語ではなく実際の相聞歌として解釈し、そこから明治から昭和の歌人は、石川女郎を実在の人物として戀多き女性と解釈します。そして、斎藤茂吉氏や宮武外骨氏などの第一級の和歌を嗜む教養人は、さらに進めて、石川女郎を罵倒すべき売春婦と評価します。万葉集歌における歌物語の可能性を理解できないと、平安中後期以降に「即佐保大納言大伴卿第二子 母曰巨勢朝臣也」なる補筆を加えることになり、蔭位の資格を持つ旅人や宿奈麻呂に公卿補任などに載らない「田主」と云う新しい兄弟が生まれます。

 相聞歌が歌群として展開していくと、それはある種の歌物語になると云う視線から、社会人が楽しむ、もう一つの万葉集の歌の鑑賞法を提案しました。ここで紹介した二つの歌物語は、内容から一話完結の短編の歌物語とも分類できます。現在の小説に短編と長編があるように万葉集に長編の歌物語がないのかと云うと、実は長編の歌物語ではないかと思われる歌群があります。それが、このブログの中で取り上げている「山上憶良 日本挽歌を鑑賞する」や「竹取翁の歌を鑑賞する」で紹介する歌群です。これらを長編の歌物語と推定していますが、長編小説のようにその内容は非常に長いです。ここでは紙面の関係からも紹介ができませんが、興味があるお方はインターネット検索で探して頂ければ幸いです。

 最後に、初回にも述べましたが「社会人らしい万葉集と云う和歌集の歌の鑑賞方法」と説明するように、ここでのものは趣味を許容出来る社会人のものであって、受験を控える生徒・学生や今後に文学の論文を書かなければならない御方には縁の無いものであることをご理解ください。伝統的な和歌を一首一首の独立するものとして鑑賞する立場には、万葉集の歌に歌物語性が存在すると云う相対する概念はありません。普段には、校本万葉集を下にした訓読み万葉集の歌を一首一首独立して扱うことを原則にしていますから、万葉集のある種の歌々を歌物語として鑑賞することは俗に云う「トンデモ研究」にしかなりません。そこを、受験を控える生徒・学生の方々は特にご理解ください。
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万葉集 初めて万葉集に親しむために その四

2011年12月01日 | 万葉集 雑記
万葉集 初めて万葉集に親しむために その四

音仮名・訓仮名から考える万葉集の中の古事記物語

 最初にお断りします。ここで紹介する歌の解釈は、一般的な万葉集歌の理解では非常に特異な解釈と扱われます。また、紹介する解釈の根拠の説明は、特異な解釈と評価されるものを明らかにするものですので、一般の社会人の方には退屈なものになっています。それをお含み下さい。

 奈良の都への遷都以前の初期の万葉集の歌が詠われた時代は、古事記が編纂された時代と重なります。古事記は天武天皇から持統天皇時代に国家としてその編纂が計画された歴史書です。現代もそうですが、国家として歴史書を編纂すると云う事業は、その時代の一大関心事であったと思います。すると、万博博覧会やオリンピック毎に歌が創られ詠われるように、万葉集の歌の中に古事記に因むような歌がなかったのかと云うと、ちゃんとそれはあります。それも万葉集の巻頭を飾る歌として取り入れられています。それが泊瀬朝倉宮御宇天皇と称される雄略天皇御製歌です。

天皇御製謌
標訓 天皇(すめらみこと)の御(かた)りて製(つく)らしし謌
集歌1 籠毛與 美籠母乳 布久思毛與 美夫君志持 此岳尓 菜採須兒 家吉閑 名告沙根
虚見津 山跡乃國者 押奈戸手 吾許曽居 師告名倍手 吾己曽座 我許者背齒 告目 家呼毛名雄母

試訓 籠(こ)もと 御籠(みこ)持ち 布(ふ)奇(くし)もと 美夫君(みふきみ)し持ち この岳(をか)に 菜採(つ)ます児 家聞かむ 名 告(の)らさね
空見つ 大和の国は 押し靡びて 吾こそ居(を)れ 師告(しつ)為(な)べて 吾こそ座(ま)せ 吾が乞(こ)はせし 告(の)らめ 家をも名をも

試訳 貴女と夜を共にする塗籠(ぬりごめ)と 夜御殿(よんのおとど)を持ち 妻問いの贈物の布を掛けた奇(めずら)しい犬とを 貴女の夫となる私の主(あるじ)は持っています。この丘で 春菜を採むお嬢さん 貴女はどこの家のお嬢さんですか。名前を告げてください。そして、私の主人の求婚を受け入れてください。
仏教が広まるこの大和の国は 豪族を押し靡かせ私がこの国を支配し、軍を指揮して私がこの国を統率している。その大王である私が求めている。さあ、私の結婚の申し込みを受け入れて、告げなさい。貴女の家柄と貴女の本当の立派な名前も。


 さて、最初の段で万葉集の歌は漢語と万葉仮名と云う漢字で表記された歌と紹介しました。この雄略天皇御製歌は、その基本に従って歌を解釈しなければならない歌です。万葉集の歌の表記の特徴と云う基本に立ち、この歌を調べてみますと、この歌は十七句で構成され、その各句の最初の漢字は「籠」、「美」、「布」、「美」、「此」、「菜」、「家」、「名」、「虚」、「山」、「押」、「吾」、「師」、「吾」、「我」、「告」、「家」です。これらの漢字は漢語か訓仮名に区分される文字で、音仮名に分類される文字はありません。一般に雄略天皇御製歌の三句目の「布久思毛與」は「フクシモト」と訓み「掘串もと」と漢字で書く言葉として理解され、それを下にこの歌全体を解釈して、春菜摘みの予祝歌と解釈されています。ところが、この場合「布」の文字は音仮名として訓む必要が出てきます。すると、他の句頭の文字に音仮名が使われていないのに、この文字だけが音仮名として訓むことが正しいのかと云う問題が出てきます。例外なら、なぜこの文字だけが例外なのかと云う問題と、「掘串もと」と訓みたいのならそれに見合う漢語か訓仮名がないことを考察する必要があります。そうでないのなら「布」の文字は漢語か訓仮名として解釈する必要があります。ここで音仮名とは倭言葉の音を表す漢字に漢語としての意味を持たない仮名文字で、訓仮名とは倭言葉の音を表す漢字に漢語本来の言葉の意味を持たせた仮名文字です。例として織物の布の文字の意味を持たせて「布」を「フ」と訓む、美しいと云う意味を持たせて「美」を「ミ・ビ」と訓むようなものが訓仮名となります。
 注意:音仮名・訓仮名に対する説明が違う場合があります。インターネット検索でもデジタル大辞泉の訓仮名の説明と日本大百科全書(小学館)の万葉仮名の中での訓仮名の説明とでその定義が違います。ここでの説明は、日本大百科全書の沖森卓也氏の訓仮名の読みは訓音だけでなく漢語としての意味を持つ論に従っています。なお、賢明な社会人の方は、万葉集に特徴的に使われる万葉仮名自体の形態と定義が万葉集歌の研究において詳細では未だ定まっていないことに注目して下さい。日本大百科全書での訓仮名の例:矢(や)、目(め)
 そこで「布」の文字を漢語か訓仮名として解釈するとき、雄略天皇に関係して「布」と「クシ」との言葉で歴史を探ると、参考資料として示す古事記の雄略天皇と若日下部王との妻問い物語に辿り着きます。物語では白い犬に布を掛け、鈴を付けたものを「奇しきもの」と述べています。万葉集の歌は漢語と万葉仮名と云う漢字で表記された歌と云う原則を下に、万葉仮名には音仮名と訓仮名の区分があることを認識すると、この雄略天皇御製歌とは古事記の物語を題材に創られた歌物語であることが導き出されます。このように万葉集の歌の特徴をきちんと踏まえると、社会人らしい万葉集の歌の中にある種の言葉のゲームを楽しむことが出来ます。なお、原文の「布久思毛與」を「掘串もと」と訓む校本万葉集では、歌を春の菜摘みの予祝歌として歌意を取るために、それに合わせるように西本願寺本万葉集の原文底本に対して漢字を一部変更・校訂して鑑賞します。
 今回は万葉集の歌は漢語と万葉仮名と云う漢字で表記された歌と云う視線で万葉集歌を鑑賞する時に、その万葉仮名と云う漢字には音仮名と訓仮名との二つ区分があることを紹介しました。そして、万葉集歌を鑑賞する時に、万葉仮名が使われるその文字を音仮名と訓仮名とを区分することが歌の解釈において時には重要な問題を提起する可能性を紹介しました。参考に、この「初めて万葉集に親しむ」では紹介はしませんが、万葉仮名には上代仮名遣いと云う発音表記での区分があります。これも歌の解釈では重要な問題を提起しますが、甲・乙音の上代仮名遣い表に従って、使われる万葉仮名の漢字を当て嵌めればよいので音仮名と訓仮名区分よりは、取り付きやすいと思います。ただし、音仮名と訓仮名との使い分けには作歌者の明確な選字の意図がありますが、上代仮名遣いでの万葉仮名の選字は発音がベースですから、そこには作歌者の意図の関与は薄いと考えます。
 なお、古事記の話題に戻りますと、雄略天皇御製歌と同じように万葉集の中に人麻呂歌集から採歌したものの中などにも古事記を題材にした歌などを見つけることできます。もし、興味がお有りでしたら、万葉集と古事記、特に雄略天皇紀や仁徳天皇紀を中心に比べてみて下さい。また、万葉集の挽歌では古事記に載る倭建命の故事を引用する場合があります。なぜ、柿本人麻呂が詠う近江海で千鳥が鳴くと昔を偲ぶのかを、倭建命の故事と天智天皇の倭皇后の詠う歌から考えてみるのも、万葉集の歌の中での言葉のゲームとして良い題材ではないでしょうか。こうした時、古事記に「和加久佐能 都麻能美許登」と云う歌の句があり、ここから夫も古語では「つま」と読むことになっています。伝統ではこの句を「若草の夫(つま)の命(みこと)」と読みますが、一方では万葉集の慣用句である「吾妹」と同じ意味合いで「若草の妻の命」と読み「若草のような若々しい貴方の妻である私の貴方」と解釈し、沼河日賣が妻問ひの場面で、夫に歌を詠いかけるときに自分が貴方の妻であると云うこと強調していると解釈することも可能ですから、古語で「つま」と云う言葉が「夫」も示すと決めつけるのはどうでしょうか。このように源流をたどると古語では夫も「つま」と読むと云う説の根拠が確定出来なくなる可能性があります。時に、歌を解釈していて伝統的な言葉の定義がしっくりこない時、その語源まで考えることが出来るのは社会人の特権です。
 参考として、個人的には万葉集歌の集歌153の歌は古事記の倭建命の故事を踏まえていて、さらに、その集歌153の歌を踏まえて集歌266の歌が詠われたと解釈しています。そのため、みなさんが普段に目にする現代語訳万葉集の解説とは違っています。そして、伝統では集歌153の歌の「若草乃 嬬之」の「嬬」を古事記の「和加久佐能 都麻能美許登」を引用して男性の「つま」と解釈します。

集歌153 鯨魚取 淡海乃海乎 奥放而 榜来舡 邊附而 榜来船 奥津加伊 痛勿波祢曽 邊津加伊 痛莫波祢曽 若草乃 嬬之 念鳥立

訓読 鯨魚(いさな)取り 淡海(あふみ)の海(うみ)を 沖放(さ)けて 漕ぎ来る船 辺(へ)附きて 漕ぎ来る船 沖つ櫂(かひ) いたくな撥ねそ 辺(へ)つ櫂 いたくな撥ねそ 若草の 嬬(つま)の 念(おも)ふ鳥立つ

私訳 大きな魚を取る淡海の海を、沖遠くを漕ぎ来る船、岸近くを漕ぎ来る船、沖の船の櫂よそんなに水を撥ねるな、岸の船の櫂よそんなに水を撥ねるな、若草のような妻が思い出を寄せる八尋白智鳥が飛び立つ


集歌266 淡海乃海 夕浪千鳥 汝鳴者 情毛思奴尓 古所念
訓読 淡海(あふみ)の海夕浪(ゆふなみ)千鳥(ちどり)汝(な)が鳴けば情(こころ)もしのに古(いにしへ)念(おも)ほゆ

私訳 淡海の海の夕波に翔ける千鳥よ。お前が鳴くと気持ちは深く、この地で亡くなられた天智天皇がお治めになった昔の日々を思い出す。


 最後に、初回にも述べましたが「社会人らしい万葉集と云う和歌集の歌の鑑賞方法」と説明するように、ここでのものは趣味を許容出来る社会人のものであって、受験を控える生徒・学生や今後に文学の論文を書かなければならない御方には縁の無いものであることをご理解ください。伝統的な歌道として和歌を鑑賞する立場では、万葉集の歌は漢語と万葉仮名と云う漢字で表記された歌で、その使われる万葉仮名と云う漢字には音仮名と訓仮名との二つ区分があると云うことを踏まえて歌を鑑賞することや、万葉集歌には歌物語性が存在し古事記等の伝承を題材にするものが少なくないと云う観点で鑑賞することは本流ではありません。従って、ここでの鑑賞方法は俗に云う「トンデモ研究」にしかなりません。それで、万葉集巻頭の雄略天皇御製歌の解釈が教科書的ではないのです。この教科書的ではないことを、受験を控える生徒・学生の方々は特にご理解ください。

参考資料 古事記 雄略天皇紀より 抜粋読み下し
初め大后(おほきさき)の日下(くさか)に坐(いま)します時に、日下の直(ただ)越(こ)への道より河内に幸行(いでま)しき。爾(ここ)に山の上(うへ)に登りて國の内を望めば、堅魚(かつを)を上げて舎屋(や)を作れる家有り。天皇(すめらみこと)の其の家を問わさしめて云はく「其の堅魚(かつを)を上げて作れる舎(や)は誰が家(いへ)ぞ」といへり。答えて白(もう)さく「志幾(しき)の大縣主(おほあがたぬし)の家そ」といへり。爾に天皇の詔(の)らさくに「奴(やつこ)や、己(おの)が家の天皇の御舎(みあから)に似せて造れり」といへり。即ち人を遣りて、其の家を燒かしめむ時に、其の大縣主の懼(お)じ畏(かしこ)みて稽首(ぬかつ)きて白さく「奴(やつこ)に有れば、奴(やつこ)隨(なが)ら覺(さと)らずて過ち作れるは甚(いと)畏(かし)こし。故(かれ)、能美(のみ)の御幣物(みまいもの)を獻(たてまつ)らん(能美の二字は音を以ちてす)」といへり。布を白き犬に懸け、鈴を著(つ)けて、己が族(うがら)、名は腰佩(こしはき)と謂う人に犬の繩を取らしめて以ちて獻上(たてまつ)りき。故、其の火を著くるを止めしむ。
即ち其の若(わか)日下部(くさかべ)の王(おほきみ)の許に幸行(いでま)して、其の犬を賜い入れ詔(の)らさくに「是の物は、今日、道に得たる奇(くし)しき物ぞ。故、都麻杼比(つまとひ)(此の四字音を以ちてす)の物ぞ」と云いて賜い入れき。ここに若日下部の王、天皇に奏(もう)さしめしく「日に背きて幸行(いでま)す事、甚(いと)恐(かしこ)し。故、己(おのれ)、直(ただ)に參い上りて仕え奉(まつ)らん」といへり。是を以ちて宮に坐(ま)す時に、其の山の坂の上(ほとり)に行き立ちて歌いて曰く、
日下部の 此方(こち)の山と 畳薦(たたみこも)平群(へぐり)の山の 此方(こち)此方(ごち)の 山の峡(かひ)に立ち栄ゆる 葉広(はひろ)熊(くま)白檮(かし) 本(もと)には い茂(く)み竹生(お)ひ 末辺(すえへ)には た繁(し)み竹生ひ い茂(く)み竹 い隠(く)みは寝ず た繁(し)竹 確(たし)には率(い)寝(ね)ず 後も隠(く)み寝む 其の思ひ妻 あはれ
即ち、此の歌を持たしめて使を返しき。
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