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資料編 楊朱 原文並びに訓読 上

2021年03月13日 | 資料書庫
資料編 楊朱 原文並びに訓読

 中国最初の統一王朝である秦朝が成立する前、周代 戦国期の思想家 孟子が指摘するように中国知識人の間には楊朱(楊子)と墨翟(墨子)の思想が主流を占めていました。ここではその楊朱の資料を提供するものです。
 紹介するものは『列子』全八巻に載る、巻七 楊朱篇を中心に示し、他の巻に載るものは楊朱に係る部分を抜粋しています。また、参考資料として『孟子』、『荘子』、『荀子』、『韓非子』に載る楊朱(楊子・陽子)に関わるものも抜粋して紹介します。紹介する原文は原則として中国哲学書電子化計画に載るものを底本とし維基文庫により校訂を行っています。その校訂作業では日本で出版している図書類からの補足校訂は行っていません。また、底本の繁体字及び旧字体漢字を適宜、日本語新字漢字に置き換えています。原文に対応するように訓読を付けていますが、これは弊ブログ管理者単独の行いで、先行する訓読や解釈の引き写しではありません。このようなものですので笑本類として使ってください。何らかの引用には全くに向きません。
 周代 戦国時代初期に活躍した楊朱や墨翟に対し、戦国時代前期の中国古典思想家の孟子は「聖王不作、諸侯放恣、處士橫議、楊朱墨翟之言盈天下。天下之言、不歸楊、則歸墨。(聖王は作(な)さず、諸侯は放恣し、處士は橫議して、楊朱・墨翟の言、天下に盈つ。天下の言、楊に歸せずんば、則ち墨に歸す。)」と述べるように、東周代の戦国時代前期にあっては楊朱と墨翟の思想が中心的なものとされています。ところが、彼らは儒学者ではありませんから、日本ではこの楊朱と墨翟の両者の思想は有名ではありませんし、研究もこれからの段階です。
 楊朱は現代中国にあっても歴史の闇に埋もれた人物として扱われており、前漢時代以降では、ほぼ無名人です。この楊朱については、『孟子』の「楊朱墨翟之言盈天下」の言葉から孔子より後の人物と推定され、孟子よりも前の人物と考えられています。ほぼ、墨翟と同時代の人と推定されています。老子とは違い、この楊朱も墨翟も一人の人間として実存は確実視されていますが、生年、生国、死没年代については未解決となっています。墨翟は秦・前漢時代に『墨子』が編まれ、現代までその思想が伝わっていますが、楊朱は各種の古典に彼の発言が引用される形で伝わるだけで、後年に弟子たちによる独立した『楊子』のような編纂本は伝わっていません。主たるものとして中国戦国時代の列禦寇が著した『列子』の巻七に独立した楊朱篇があり、それは『漢書』芸文志に『列子』の一部として紹介されています。
 楊朱が生きた周代 戦国時代初期、幼年期を生き延びた人たちの平均寿命は各種の資料などから30~40歳程度と推定されています。また、周代 春秋時代、春秋左氏伝に載る約140の諸国は戦乱や下克上などを繰り返すことで戦国期初期までには戦国七雄と称される7国に集約していきます。楊朱は確実に識字階級であり、王侯貴族階級との面談・議論を行う人物ですから、それ相当の語彙力と面談作法を持つ人です。この人物像からすれば、一定の教育機会が得られる王族・士族に属する人物像が現れます。しかしながら、所属していた国が強国に吸収されることにより職を失い、わずかな領地を所有する小荘園主のような立場です。
 戦国七雄に集約する直前、墨翟が指導する墨学徒により強国は支配地に対し「墨家の法」に類似した法治と徴兵制度を施行するようになってきています。周代 戦国時代とは戦国七雄が勝ち抜き戦を戦い、最終的に秦国に吸収されていく過程の時代です。勝ち抜き戦に勝ち抜くために、それぞれの強国は法治・徴兵制度から支配地域の小荘園主に対しそれぞれの配下の小作農民から兵卒を選抜し参戦することを求めます。拒否すればその小荘園主を逆賊として抹殺します。
 強国が小国を併呑する戦争や強国同士の勝ち抜き戦争は、楊朱が属する小荘園主たちにとっては所属する国の制度の中で栄進や名誉を求めなければ関係のない世界です。弊ブログ独特の解釈ですが、楊朱は人生がたかだか40年なら、生きている内に人生を楽しみたい。国王たちが唱える国の利は自分には関係ない。増して、そのような関係のない国の利の為に自らの命を賭けて戦場に赴くのはまっぴら御免であると考えたようです。この態度を孟子は「楊子取為我、拔一毛而利天下不為也。(楊子は我の為を取り、一毛を拔き而して天下を利することも為さず)」と評論します。なお、楊朱は戦争では友軍の立場で少人数ですが部隊を率いて戦う必要がある内部者で、一方の孟子は礼仁の教授と云う学者として戦争を評論する外部者です。命のやり取りの切迫感は全くに違います。
 ただし、同じ時代の墨翟は強国が小国を併呑する戦争や強国同士の勝ち抜き戦争での生き残り方策を提案します。そこが世に背を向けた楊朱と問題解決に立ち向かって突き進んだ墨翟との差があるようです。孟子は楊子への評論に加えて「墨子兼愛。摩頂放踵利天下、為之。(墨子は兼愛し、摩頂放踵して天下の利、之を為す。)とします。
 戦国時代の最終盤に位置する韓非子の主張からしますと、戦国七雄のそれぞれの地域支配が強固に進む周代 戦国時代中後期までには周代以来の没落王族・士族たちの小荘園は消えて行き、個人の才覚で財を成した富農や商工者が新たな農場経営者として小作人を扱うようになってきたようです。この富農や商工者は、自身と家族の徴兵免除を求めた上で私有財産を守るためにも富国強兵に賛同し、墨学者たちが唱える公平な法治体制と徴兵制度の施行を求める立場です。このような社会情勢の変化から周代 戦国時代中後期までには旧士族小荘園主たちが消えると同時に彼らが賛同した楊朱の説は廃れていったと考えます。
 なお、ここまでの紹介に反しますが、『韓非子』の「顕学篇」に「不以天下大利易其脛一毛」以下の文節、また『荘子』に楊朱の思想を反映した「盗跖篇」が、前漢時代中期までに編まれたと推定されていますから、やはり、「楊朱墨翟之言盈天下」だったのです。

参照資料:
① 中国哲学書電子化計画 https://ctext.org/zh
② 維基文庫 https://zh.wikisource.org/wiki/Wikisource
③ 新釈漢文大系 列子(明治書院)
④ 列子(岩波文庫)
⑤ 中国の思想 第6巻 老子・列子(徳間書店)

列子 卷第七 楊朱篇
第一章
楊朱游於魯、舍於孟氏。孟氏問曰、人而已矣、奚以名為。曰、以名者為富。既富矣、奚不已焉。曰、為貴。既貴矣、奚不已焉。曰、為死。既死矣、奚為焉。曰、為子孫。名奚益於子孫。曰、名乃苦其身、燋其心。乗其名者澤及宗族、利兼郷黨、況子孫乎。凡為名者必廉廉斯貧、為名者必讓讓斯賤。
曰、管仲之相斉也、君淫亦淫、君奢亦奢、志合言従、道行国霸。死之後、管氏而已。田氏之相斉也、君盈則己降、君歛則己施。民皆歸之、因有斉国、子孫享之、至今不絶。
若實名貧、偽名富。曰、實無名、名無實、名者偽而已矣。昔者堯舜偽以天下讓許由、善巻、而不失天下、享祚百年。伯夷、叔斉實以孤竹君讓、而終亡其国、餓死於首陽之山。實偽之辯、如此其省也。

楊朱の魯に游び、孟氏に舍(やど)る。孟氏の問ひて曰く、人は而(おのれ)のみ、奚ぞ以(ま)た名を為す。曰く、以(ゆえ)に名は富を為す。既に富ならば、奚ぞ已(や)まむ。曰く、貴の為なり。既に貴ならば、奚ぞ已まむ。曰く、死の為なり。既に死せば、奚ぞ為さむ。曰く、子孫の為なり。名は奚ぞ子孫を益するや。曰く、名は其の身を苦しめ、其の心を燋く。其の名に乗(よ)らば澤(たく)は宗族に及び、利は郷黨を兼ね、況(いは)むや子孫においておや。凡そ名を為す者は必ず廉廉し貧を斯(わか)ち、名を為す者は必ず讓讓し賤を斯(わか)つ。
曰く、管仲が斉を相(うけつ)ぐや、君が淫ならば亦た淫をなし、君が奢ならば亦た奢をなし、志を合せ言に従がひ、道を行ひ国を霸す。死する後、管氏は而(ま)た已(や)む。田氏が斉を相(うけつ)ぐや、君は盈(のぞ)みて則ち己から降り、君は歛(のぞ)みて則ち己から施す。民は皆之に歸し、因りて斉国は有る、子孫は之を享し、今に至るも絶えず。
若(かくのごと)く貧を名して實ならば、富を名すれば偽なり。曰く、名の無しが實ならば、實の無しは名なり、名は偽にして而に已む。昔の堯・舜は偽を以つて天下の讓許を由(おこな)ひ、善を巻(たわ)むも、而に天下を失わず、祚百年を享す。伯夷・叔斉は實(まこと)を以つて孤竹君を讓(さけ)るも、而に其の国は終(つい)に亡(う)せ、首陽山に餓死す。實偽の辯、此の如し、其を省みむや。

第二章
楊朱曰、百年、壽之大斉。得百年者千無一焉。設有一者、孩抱以逮昏老、幾居其半矣。夜眠之所弭、晝覚之所遺、又幾居其半矣。痛疾哀苦、亡失憂懼、又幾居其半矣。量十數年之中、逌然而自得、亡介焉之慮者、亦亡一時之中爾。
則人之生也、奚為哉、奚楽哉。為美厚爾、為聲色爾。而美厚復不可常厭足、聲色不可常翫聞。乃復為刑賞之所禁勧、名法之所進退、遑遑爾競一時之虛譽、規死後之餘栄、偊偊爾順耳目之観聴、惜身意之是非、徒失當年之至楽、不能自肆於一時。重囚纍梏、何以異哉。
太古之人知生之暫来、知死之暫往。故従心而動、不違自然所好、當身之娛非所去也、故不為名所勧。従性而游、不逆萬物所好、死後之名非所取也、故不為刑所及。名譽先後、年命多少、非所量也。

楊朱の曰く、百年は壽の大斉なり。百年を得る者は千に一は無し。設(も)し一有るとするも、孩抱を以つて昏老に逮ぶまで、幾(ほとん)ど其の半は居すのみ。夜は眠する所のみにして、晝に覚する所を遺すも、又た幾(ほとん)ど其の半は居すのみ。痛疾哀苦、亡失憂懼すも、又た幾(ほとん)ど其の半は居するのみ。十數年の中を量るに、逌然(ゆうぜん)として而るに自得し、介焉(かいえん)の慮の亡きものは、亦た一時の中に亡きことしかり。
則ち人の生くるや、奚(なに)をか為すや、奚(なに)をか楽しまむや。美厚を為すのみ、聲色を為すのみ。而ち美厚は復た常に厭足(えんそく)すべからず、聲色は常に翫聞(がんぶん)すべからず。乃ち復た刑賞の禁勧する所、名法の進退する所を為し、遑遑(こうこう)として、爾(なんじ)、一時の譽を競い、死後の餘栄を規(はか)かり、偊偊(ぐうぐう)として、爾(なんじ)、耳目の観聴に順ひ、身意の是非を惜しみ、徒(いたず)らに當年の至楽を失ひ、自ら一時に肆(ほしいまま)にすること能はず。重囚(ちょうしゅう)纍梏(るいこく)して、何を以つて異ならむや。
太古の人は生の暫来するを知り、死の暫往することを知る。故に心に従いて而に動き、自然の好む所に違わず、當に身の娛するを去る所に非ずなり、故に名を為す所を勧めず。性に従いて而に游び、萬物の好む所に逆らわず、死後の名を取る所に非ずなり、故に刑を為す所に及ばず。名譽の先後、年命の多少、量る所に非らざるなり。

第三章
楊朱曰、萬物所異者生也、所同者死也。生則有賢愚貴賤、是所異也、死則有臭腐消滅、是所同也。雖然、賢愚貴賤非所能也、臭腐消滅、亦非所能也。故生非所生、死非所死、賢非所賢、愚非所愚、貴非所貴、賤非所賤。然而萬物斉生斉死、斉賢斉愚、斉貴斉賤。十年亦死、百年亦死、仁聖亦死、凶愚亦死。生則堯舜、死則腐骨、生則桀紂、死則腐骨。腐骨一矣、孰知其異。且趣當生、奚遑死後。

楊朱の曰く、萬物の異(い)なる所のものは生なり、同(どう)なる所のものは死なり。生と則(な)れば賢愚貴賤が有り、是の所は異なり、死と則(な)れば臭腐消滅が有り、是の所は同なり。雖だ然るに、賢愚貴賤は能(およ)ぶ所に非ずなり、臭腐消滅、亦た能(およ)ぶ所に非ずなり。故に生は生ずる所に非ず、死は死する所に非ず、賢は賢なる所に非ず、愚は愚なる所に非ず、貴は貴なる所に非ず、賤は賤なる所に非ず。然らば而ち萬物は斉生し斉死し、斉賢し斉愚し、斉貴し斉賤なり。十年亦た死(う)せ、百年亦た死(う)せ、仁聖も亦た死(う)せ、凶愚も亦た死(う)す。生きて堯舜と則(な)るも、死すれば腐骨と則(な)り、生きて桀紂と則(な)るも、死すれば腐骨と則(な)る。腐骨は一なり、孰(いず)れぞ其の異を知らむ。且た當生を趣(そく)し、奚ぞ死後に遑(こう)せむや。

第四章
楊朱曰、伯夷非亡欲、矜清之卸、以放餓死。展李非亡情、矜貞之卸、以放寡宗。清貞之誤善之若此。

楊朱の曰く、伯夷は欲を亡(なく)すに非ず、清を矜(ほこ)りて之を卸(かた)り、以つて餓死に放(おわ)る。展李は情を亡(なく)すに非ず、貞を矜(ほこ)りて之を卸(かた)り、以つて寡宗に放(おわ)る。清貞の誤善、之は此の若し。

第五章
楊朱曰、原憲窶於魯、子貢殖於衛。原憲之窶損生、子貢之殖累身。然則窶亦不可、殖亦不可、其可焉在。曰、可在楽生、可在逸身。故善楽生者不窶、善逸身者不殖。

楊朱の曰く、原憲(げんけん)は魯に窶(ひん)し、子貢(しこう)は衛に殖(しょく)なり。原憲の之の窶は生を損なひ、子貢の之の殖は身を累(わずらわ)す。然らば則ち窶は亦た可ならず、殖も亦た可ならず。其の可は焉(いずく)むぞ在らむや。曰く、可は楽生に在り、可は逸身に在り。故に善く楽生する者は窶ならず、善く逸身する者は殖ならず。

第六章
楊朱曰、古語有之、生相憐、死相捐。此語至矣。相憐之道、非唯情也、勤能使逸、饑能使飽、寒能使溫、窮能使達也。相捐之道、非不相哀也。不含珠玉、不服文錦、不陳犧牲、不設明器也。

楊朱の曰く、古語に之有り、生は相ひ憐(あはれ)み、死は相ひ捐(す)つ。此の語は至らむや。相憐(そうりん)の道は、唯だ情に非ずなり、勤に能く使逸し、饑に能く使飽し、寒に能く使溫し、窮に能く使達するなり。相捐(そうえん)の道は、相ひ哀しまざるに非ずなり。珠玉を含ませず、文錦を服(き)せず、犧牲を陳(つら)ねず、明器を設けずなり。

第七章
晏平仲問養生於管夷吾。管夷吾曰、肆之而已、勿壅勿閼。晏平仲曰、其目柰何。夷吾曰、恣耳之所欲聴、恣目之所欲視、恣鼻之所欲向、恣口之所欲言、恣體之所欲安、恣意之所欲行。夫耳之所欲聞者音聲、而不得聴、謂之閼聰、目之所欲見者美色、而不得視、謂之閼明、鼻之所欲向者椒蘭、而不得嗅、謂之閼顫、口之所欲道者是非、而不得言、謂之閼智、體之所欲安者美厚、而不得従、謂之閼適、意之所欲為者放逸、而不得行、謂之閼性。
凡此諸閼、廢虐之主。去廢虐之主、熙熙然以俟死、一日一月一年十年、吾所謂養。拘此廢虐之主、錄而不舍、戚戚然以至久生、百年千年萬年、非吾所謂養。管夷吾曰、吾既告子養生矣、送死柰何。晏平仲曰、送死略矣、將何以告焉。
管夷吾曰、吾固欲聞之。平仲曰、既死、豈在我哉。焚之亦可、沈之亦可、瘞之亦可、露之亦可、衣薪而棄諸溝壑亦可、袞文繡裳而納諸石椁亦可、唯所遇焉。管夷吾顧謂鮑叔黃子曰、生死之道、吾二人進之矣。

晏(あん)平仲(へいちゅう)の生を養うを管(かん)夷吾(いご)に問う。管夷吾の曰く、之を肆(ほしいまま)にするのみ、壅(ふさ)ぐこと勿かれ閼(さへぎ)ること勿かれ。晏平仲の曰く、其の目は柰何(いかん)や。夷吾の曰く、耳の聴くを欲する所を恣(ほしいまま)にし、目の視るを欲する所を恣(ほしいまま)にし、鼻の向くを欲する所を恣(ほしいまま)にし、口の言うを欲する所を恣(ほしいまま)にし、體の安するを欲する所を恣(ほしいまま)にし、意の行うを欲する所を恣(ほしいまま)にす。
夫れ耳の聞くを欲する所のものは音聲なり、而に聴くを得ずを、之を閼聰(あつそう)と謂ふ、目の見るを欲する所のものは美色なり、而に視るを得ずは、之を閼明(あつめい)と謂ふ、鼻の向くを欲する所のものは椒蘭(しょうらん)なり、而に嗅ぐを得ずは、之を閼顫(あつせん)と謂ふ、口の道するを欲する所のものは是非なり、而に言ふを得ずは、之を閼智(あつち)と謂ふ、體の安するを欲する所のものは美厚なり、而に従ふことを得ずは、之を閼適(あつてき)と謂ふ、意の為すを欲する所のものは放逸なり、而に行ふを得ずは、之を閼性(あつせい)と謂ふ。
凡そ此の諸(もろもろ)の閼(えん)、廢虐の主なり。廢虐の主を去り、熙熙(きき)、然として以つて死を俟(ま)たば、一日一月一年十年、吾が養と謂ふ所なり。此の廢虐の主に拘われ、錄して而に舍てず、戚戚(せきせき)、然として以つて久生に至らば、百年千年萬年、吾が養と謂ふ所に非ず。
管夷吾の曰く、吾は既に子に生を養うを告げたり、死を送るは柰何(いかん)。晏平仲の曰く、死を送るは略なり、將に何ぞ以つて告げむ。管夷吾の曰く、吾は固(ふたた)び之を聞くを欲す。平仲の曰く、既に死すれば、豈に我は在らむや。之を焚くも亦た可なり、之を沈むも亦た可なり、之を瘞(うず)むるも亦た可なり、之を露(さら)すも亦た可なり、衣薪して而に諸(これ)を溝壑に棄つるも亦た可なり、袞文(こんい)繡裳(しゅうしょう)して而に諸(これ)を石椁に納むも亦た可なり、唯だ遇(かな)ふ所なり。管夷吾は顧みて鮑叔・黃子に謂ひて曰く、生死の道、吾は二人に之を進めむ。

第八章
子産相鄭、專国之政三年、善者服其化、悪者畏其禁、鄭国以治。諸侯憚之。而有兄曰公孫朝、有弟曰公孫穆。朝好酒、穆好色。
朝之室也、聚酒千鐘、積麴成封、望門百步、糟漿之気逆於人鼻。方其荒於酒也、不知世道之安危、人理之悔吝、室内之有亡、九族之親踈、存亡之哀楽也。雖水火兵刃交於前、弗知也。
穆之後庭、比房數十、皆擇稚歯娞媠者以盈之。方其聃於色也、屏親昵、絶交游、逃於後庭、以晝足夜、三月一出、意猶未愜。郷有處子之娥姣者、必賄而招之、媒而挑之、弗獲而後已。
子産日夜以為戚、密造鄧析而謀之。曰、喬聞治身以及家、治家以及国、此言自於近至於遠也。喬為国則治矣、而家則乱矣。其道逆邪。將奚方以救二子、子其詔之。鄧析曰、吾怪之久矣。未敢先言。子奚不時其治也、喩以性命之重、誘以禮義之尊乎。
子産用鄧析之言、因閒以謁其兄弟、而告之曰、人之所以貴於禽獣者智慮、智慮之所將者禮義。禮義成、則名位至矣。若触情而動、聃於嗜慾、則性命危矣。子納喬之言、則朝自悔、而夕食祿矣。
朝、穆曰、吾知之久矣、擇之亦久矣、豈待若言而後識之哉。凡生之難遇、而死之易及。以難遇之生、俟易及之死、可孰念哉。而欲尊禮義以夸人、矯情性以招名、吾以此為弗若死矣。為欲盡一生之歓、窮當年之楽。唯患腹溢而不得恣口之飲、力憊而不得肆情於色、不遑憂名聲之醜、性命之危也。且若以治国之能夸物、欲以説辭乱我之心、栄祿喜我之意。不亦鄙而可憐哉。我又欲與若別之。
夫善治外者、物未必治、而身交苦、善治内者、物未必乱、而性交逸。以若之治外、其法可蹔行於一国、未合於人心。以我之治内、可推之於天下、君臣之道息矣。吾常欲以此術而喩之、若反以彼術而教我哉。
子産忙然無以應之。他日以告鄧析。鄧析曰、子與真人居而不知也、孰謂子智者乎。鄭国之治偶耳、非子之功也。

子産(しさん)は鄭の相にして、国の政を專すること三年、善者は其の化に服し、悪者は其の禁を畏れ、鄭国は以つて治まる。諸侯は之を憚る。而(ま)た兄有りて曰く公孫朝、弟有りて曰く公孫穆。朝は酒を好み、穆は色を好む。
朝の室や、聚酒千鐘、積麴成封、門を望むこと百步にして、糟漿の気は人鼻に逆(むか)ふ。方(まさ)に其は酒に荒(おぼ)れ、世道の安危を知らず、人は之の悔吝を理(さと)し、室内に之の亡は有り、九族は之を親踈し、之の哀楽に亡は存す。雖だ前に水火兵刃の交わるを、知らず。
穆の後庭、房は數十を比べ、皆、稚歯娞媠なる者を擇(えら)びて以つて之を盈(みた)す。方(まさ)に其は色に聃(ふ)け、屏は親昵にして、游を交へるを絶ち、後庭に逃げ、晝を以つて夜に足し、三月に一も出ず、意は猶ほ未だ愜(みちた)らず。郷に處子の娥姣(がこう)の有るは、必ず賄(まいな)いて而して之を招き、媒(なかだち)して而して之に挑み、獲ずして而して後に已む。
子産は日夜を以つて戚(うれい)を為し、密かに鄧析を造(おく)り而して之を謀(はかりごと)す。曰く、喬(きょう)は、家に及ぶを以つて身を治め、国に及ぶを以つて家を治むと聞き、此の言は近き自り遠きに至る。喬(きょう)は、国を為し則ち治まるも、而(しかる)に家は則ち乱れむ。其の道は逆邪なり。將に奚(なむ)ぞ方(まさ)に以つて二子を救ひ、子は其の之を詔(め)さむ。鄧析の曰く、吾は之を久しく怪しまむ。未だ敢て先を言はず。子は奚ぞ其の治むる時はあらざるや、性命の重きを以つて喩し、禮義の尊きを以つて誘はむ。
子産は鄧析の言を用い、閒(ひま)に因り以つて其の兄弟に謁(えつ)し、而た之を告げて曰く、人の禽獣に於いて貴しを以つてするものは智慮する所、智慮の之(おこな)ふ所は將に禮義なり。禮義は成り、則ち名位は至る。若(なむ)ぞ情に触れ而た動かむ、嗜慾に聃(ふ)けば、則ち性命は危し。子は喬(きょう)の之の言を納(い)れ、則ち朝には自らを悔ひ、而(しかる)に夕には祿を食むや。
朝、穆の曰く、吾は之の久しを知る、之を擇び亦た久し、豈に若(なんじ)の言を待ち而して後に之を識らむや。凡そ生は遇(あ)ひ難く、而(しかる)に死は及び易し。難遇の生を以つて、易及の死を俟(ま)たむ、孰か念ず可し。而(なんじ)、禮義を尊ぶを以つて人に夸(おご)り、情性を矯むを以つて名を招(まね)かむを欲すも、吾は以つて此を為すも若(かくのごと)く死なず。一生の歓を盡し、當年の楽を窮めむを欲するを為す。唯だ腹溢を患ひ而して恣(ほしいまま)に口に飲むを得ず、力は憊(つか)れ而して肆(ほしいまま)に色に情を得ず、名聲の醜きと性命は危きことの憂ふを遑(こう)せずなり。且(か)つ、若(なんじ)、国を治める能を以つて物を夸(おご)り、説辭を以つて我が心を乱し、栄祿をして我の意を喜ばさむを欲す。亦た鄙(いやし)くして而(しかる)に憐れむ可きにあらずや。我は又た若(なんじ)の之を別(ときあか)さむを欲す。
夫れ善く外を治める者は、物は未だ必ずしも治まらずして、而に身は交(こもご)も苦しみ、善く内を治める者は、物は未だ必ずしも乱れずして、而に性は交(こもご)も逸(らく)す。若(なんじ)、外を治むるを以つてするは、其の法は蹔く一国に於いて行ふ可くも、未だ人の心に合わず。我の内を治むるを以つてすれば、天下に之を推(およぼ)すべく、君臣の道は息(や)む可し。吾、常に此の術(すべ)を以つてし而して之を喩すを欲するに、若(なんじ)、反りて彼の術を以つて而して我に教えむとするや。
子産は忙然として以つて之に應ふは無し。他日、以つて鄧析に告ぐ。鄧析の曰く、子は真人と居りて而に知らずや、孰ぞ子を智者と謂はむ。鄭国の治は偶(たまたま)のみ、子の功に非ずなり。

第九章
衛端木叔者、子貢之世也。藉其先貲、家累萬金。不治世故、放意所好。其生民之所欲為、人意之所欲玩者、無不為也、無不玩也。牆屋臺榭、園囿池沼、飲食車服、聲楽嬪御、擬斉楚之君焉。至其情所欲好、耳所欲聴、目所欲視、口所欲嘗、雖殊方偏国、非斉土之所産育者、無不必致之、猶藩牆之物也。及其游也、雖山川阻険、塗逕脩遠、無不必之。猶人之行咫步也。
賓客在庭者日百住、庖廚之下、不絶煙火、堂廡之上、不絶聲楽。奉養之餘、先散之宗族、宗族之餘、次散之邑里、邑里之餘、乃散之一国。行年六十、気幹將衰、棄其家事、都散其庫藏、珍寶、車服、妾媵、一年之中盡焉、不為子孫留財。及其病也、無薬石之儲、及其死也、無瘞埋之資。一国之人、受其施者相與賦而藏之、反其子孫之財焉。
禽骨釐聞之、曰、端木叔狂人也、辱其祖矣。段干生聞之、曰、端木叔達人也、徳過其祖矣。其所行也、其所為也、聚意所驚、而誠理所取。衛之君子多以禮教自持。固未足以得此人之心也。

衛の端(たん)木叔(ぼくしゅく)は、子貢の世(よつぎ)なり。其の先貲(せんし)を藉(たよ)り、家に萬金を累ねむ。世故を治めず、意は好む所に放つ。其の生民の為すを欲する所、人意の玩(もてあそ)ぶを欲する所のもの、為さざるは無く、玩(もてあそ)ばざるは無しなり。牆屋臺榭、園囿池沼、飲食車服、聲楽嬪御、斉・楚の君に擬(なぞ)らえむ。其の情の好を欲する所、耳の聴くを欲する所、目の視るを欲する所、口の嘗(な)めむるを欲する所に至るも、雖だ殊方(しゅほう)、偏国(へんこく)、斉土の之を産育する所に非ずもの、之を致すを必(な)さざるは無く、猶ほ藩牆(はんしょう)の物なり。其の游に及ぶや、雖だ山川阻険、塗逕脩遠、之を必(な)さざるは無し。猶ほ人の之を咫步して行くがごとし。
賓客の庭に在る者は日に百をもて住(かぞ)へ、庖廚の下、煙火は絶えず、堂廡の上、聲楽は絶えず。奉養の餘、先に之を宗族を散じ、宗族の餘、次に之を邑里を散じ、邑里の餘、乃ち之を一国を散ず。行年六十、気幹は將に衰へ、其の家事を棄て、都(ことごと)く其の庫藏、珍寶、車服、妾媵を散じ、一年の中に盡し、子孫に留財を為さず。其の病に及ぶや、薬石の儲(そなえ)は無く、其の死に及ぶや、瘞埋(えいまい)の資は無し。一国の人、其の施を受くる者は相ひ賦(わか)ちて與に而(ま)た之を藏(う)め、其の子孫に之の財を反(かへ)す。
禽(きん)骨釐(こつり)の之を聞き、曰く、端(たん)木叔(ぼくしゅく)は狂人なり、其の祖を辱(はずかしめ)む。段(だん)干生(かんせい)の之を聞き、曰く、端木叔は達人なり、徳は其の祖を過ぐ。其の行ふ所や、其の為す所や、聚意の驚する所にして、而た誠理の取る所なり。衛の君子は多いに以つて禮教を自ら持す。固(なむ)ぞ未だ以つて此の人の心を得るを足らざらむや。

第十章
孟孫陽問楊子曰、有人於此、貴生愛身、以蘄不死、可乎。曰、理無不死。以蘄久生、可乎。曰、理無久生。生非貴之所能存、身非愛之所能厚。且久生奚為。五情好悪、古猶今也、四體安危、古猶今也、世事苦楽、古猶今也、変易治乱、古猶今也。既聞之矣、既見之矣、既更之矣、百年猶厭其多、況久生之苦也乎。
孟孫陽曰、若然、速亡愈於久生、則踐鋒刃、入湯火、得所志矣。楊子曰、不然。既生、則廢而任之、究其所欲、以俟於死。將死則廢而任之、究其所之、以放於盡。無不廢、無不任、何遽遅速於其閒乎。

孟(もう)孫陽(そんよう)の楊子に問いて曰く、此に人有り、生を貴とび身を愛し、以つて不死を蘄(き)すは、可なるか。曰く、不死に理は無し。以つて久生を蘄すは、可なるか。曰く、久生に理は無し。生は之の存を能くする所を貴しとするに非ず、身は之の厚く能くする所を愛するに非ず。且た久生は奚(なに)を為さむ。五情好悪にして、古は猶ほ今なり、四體安危にして、古は猶ほ今なり、世事苦楽にして、古は猶ほ今なり、変易治乱にして、古は猶ほ今なり。既に之を聞き、既に之を見、既に之を更(あらた)め、百年猶ほ其の多を厭ひ、況や久生は之を苦しまむ。
孟孫陽の曰く、然るが若く、速かに久生に亡愈(ぼうゆ)するは、則ち鋒刃を踐(ふ)み、湯火に入り、志す所を得む。楊子の曰く、然らず。既に生くば則ち廢し而た之を任せ、其の欲する所を究め、以つて死を俟(ま)つ。將に死せば則ち廢し而た之を任せ、其の之(かな)ふ所を究め、以つて盡くるに放(まか)す。廢せずは無く、任せずは無し、何遽ぞ其の閒に遅速はあらむや。

第十一章
楊朱曰、伯成子高不以一毫利物、舍国而隱耕。大禹不以一身自利、一體偏枯。古之人損一毫利天下不與也、悉天下奉一身不取也。人人不損一毫、人人不利天下、天下治矣。
禽子問楊朱曰、去子體之一毛、以済一世、汝為之乎。楊子曰、世固非一毛之所済。禽子曰、假済、為之乎。楊子弗應。禽子出、語孟孫陽。
孟孫陽曰、子不達夫子之心、吾請言之。有侵若肌膚獲萬金者、若為之乎。曰、為之。孟孫陽曰、有斷若一節得一国、子為之乎。禽子默然。有閒、孟孫陽曰、一毛微於肌膚、肌膚微於一節、省矣。然則積一毛以成肌膚、積肌膚以成一節。一毛固一體萬分中之一物、柰何軽之乎。禽子曰、吾不能所以荅子。然則以子之言問老聃、關尹、則子言當矣、以吾言問大禹、墨翟、則吾言當矣。孟孫陽因顧與其徙説他事。

楊朱の曰く、伯成(はくせい)子高(しこう)は一毫を以つて物を利せず、国を舍て而に隱れ耕せり。大禹は一身を以つて自ら利せず、一體を偏枯(へんこ)せり。古の人の一毫を損して天下を利するも與(くみ)せざるなり、天下を悉(つく)して一身に奉ずるも取らざるなり。人人、一毫を損せず、人人、天下を利せざれば、天下は治まる。
禽子(きんし)の楊朱に問ひて曰く、子が體の一毛を去りて、以つて一世を済(すく)ふならば、汝は之を為さむか。楊子の曰く、世は固(もとよ)り一毛の済(すく)ふ所に非ず。禽子の曰く、假(かり)に済(すく)はば、之を為すか。楊子は應へず。禽子は出でて、孟孫陽に語る。
孟孫陽の曰く、子は夫子の心に達せざるなり、吾は請ひて之を言ふ。若(なんじ)の肌膚を侵して萬金を獲(え)ること有らば、若(なんじ)は之を為すか。曰く、之を為す。孟孫陽の曰く、若(なんじ)の一節を斷ちて一国を得ること有らば、子は之を為すか。禽子は默然たり。閒(ま)有りて、孟孫陽の曰く、一毛は肌膚より微なり、肌膚は一節より微なり、省(あき)らかなり。然らば則ち一毛を積みて以つて肌膚を成し、肌膚を積みて以つて一節を成す。一毛は固(もと)より一體の萬分中の一物なり、柰何(いかん)ぞ之を軽むぜむや。禽子の曰く、吾は以つて子に荅(こた)ふる所は能はず。然らば則ち子の言を以つて老聃(ろうたん)・關尹(かんいん)に問はば、則ち子の言は當たらむ、吾が言を以つて大禹(たいう)・墨翟(ぼくてき)に問はば、則ち吾の言は當たらむ。孟孫陽は因りて顧みて其の徙と與に他事を説く。

第十二章
楊朱曰、天下之美歸之舜、禹、周、孔、天下之悪歸之桀、紂。然而舜耕於河陽、陶於雷澤、四體不得蹔安、口腹不得美厚、父母之所不愛、弟妹之所不親。行年三十、不告而娶。及受堯之禅、年已長、智已衰。商鈞不才、禅位於禹、戚戚然以至於死、此天人之窮毒者也。
鯀治水土、績用不就、殛諸羽山。禹纂業事讎、惟荒土功、子産不字、過門不入、身體偏枯、手足胼胝。及受舜禅、卑宮室、美紱冕、戚戚然以至於死、此天人之憂苦者也。
武王既終、成王幼弱、周公攝天子之政。邵公不悅、四国流言。居東三年、誅兄放弟、僅免其身、戚戚然以至於死、此天人之危懼者也。
孔子明帝王之道、應時君之聘、伐樹於宋、削迹於衛、窮於商周、圍於陳蔡、受屈於季氏、見辱於陽虎、戚戚然以至於死、此天民之遑遽者也。
凡彼四聖者、生無一日之歓、死有萬世之名。名者、固非實之所取也。雖稱之弗知、雖賞之不知、與株塊無以異矣。
桀藉累世之資、居南面之尊、智足以距群下、威足以震海内、恣耳目之所娛、窮意慮之所為、熙熙然以至於死。此天民之逸蕩者也。
紂亦藉累世之資、居南面之尊、威無不行、志無不従、肆情於傾宮、縱欲於長夜、不以禮義自苦、熙熙然以至於誅。此天民之放縱者也。
彼二凶也、生有従欲之歓、死被愚暴之名。實者固非名之所與也、雖毀之不知、雖稱之弗知、此與株塊奚以異矣。彼四聖雖美之所歸、苦以至終、同歸於死矣。彼二凶雖悪之所歸、楽以至終、亦同歸於死矣。

楊朱の曰く、天下の美(よし)、之は舜・禹・周・孔に歸す、天下の悪(あし)、之は桀・紂に歸す。然らば舜は河陽に耕し、雷澤に陶し、四體は蹔安を得ず、口腹は美厚を得ず、父母は之を愛(いつく)しまず所、弟妹は親しまず所なり。行年三十にして、告せずして娶る。堯の禅を受くに及び、年は已に長し、智は已に衰える。商鈞は不才にして、禹に禅位し、戚戚、然として以つて死に至る、此は天人の窮毒者なり。
鯀は水土を治め、用を績(つむ)ぐも就(と)げず、諸(これ)を羽山に殛(ちゅう)す。禹は業(ぎょう)を纂(つ)ぎ讎(にん)を事す、惟だ荒土に功(いそし)み、子を産むも字(あい)せず、門を過ぎるも入らず、身體は偏枯し、手足は胼胝す。舜の禅を受けるに及び、宮室は卑(おとろ)へ、紱冕(はいべん)は美(おほい)なり、戚戚、然として以つて死に至る、此は天人の憂苦者なり。
武王は既に終え、成王は幼弱、周公は天子の政を攝(と)る。邵公は悅(よろこ)ばず、四国は言を流す。東に三年居し、兄を誅し弟を放ち、僅に其の身を免れ、戚戚、然として以つて死に至る、此は天人の危懼者なり。
孔子は帝王の道を明らかにし、時君の聘(へい)に應じ、樹を宋に伐(き)られ、迹(おこない)を衛に削(けず)られ、商周に窮(きわ)み、陳蔡に圍(かこ)まれ、屈(くつじょく)を季氏に受け、陽虎に辱(はずかしめ)を見、戚戚、然として以つて死に至る、此は天民の遑遽者なり。
凡そ彼の四聖は、生きて一日の歓無く、死して萬世の名有り。名は、固より實の取る所に非ず。之の稱(ほむる)を知らずと雖(いえ)ども、之の賞(しょうする)を知らずと雖ども、株塊(しゅかい)と與に以つて異は無し。
桀は累世の資を藉(せき)し、南面の尊に居し、智は以つて群下を距(ふせ)ぐに足り、威は以つて海内を震(ふる)はすに足る、耳目は之の娛する所を恣(ほしいまま)にし、意慮の為す所を窮め、熙熙、然として以つて死に至る。此は天民の逸蕩者なり。
紂は亦た累世の資を藉(せき)し、南面の尊に居し、威を行はずは無く、志の従はずは無く、傾宮に情を肆(ほしいまま)にし、長夜に欲を縱(ほしいまま)にし、禮義を以つて自ら苦まず、熙熙、然として以つて誅に至る。此は天民の放縱者なり。
彼は二凶なり、生きて歓の欲に従うは有り、死して愚暴の名を被むる。實は固より名は之を與にする所に非ずなり、毀(そしる)は之を知らずと雖(いえ)ども、稱(ほむる)は之を知らずと雖ども、此の株塊(しゅかい)と與に奚(なむ)ぞ以つて異ならむや。彼の四聖は雖だ美の歸する所、苦は以つて終に至り、同(とも)に死に歸す。彼の二凶は雖だ悪の歸す所にして、楽は以つて終に至り、亦た同(とも)に死に歸すなり。

第十三章
楊朱見梁王、言治天下如運諸掌。梁王曰、先生有一妻一妾而不能治、三畝之園而不能芸。而言治天下如運諸掌、何也。
對曰、君見其牧羊者乎。百羊而群、使五尺童子荷箠而隨之、欲東而東、欲西而西。使堯牽一羊、舜荷箠而隨之、則不能前矣。且臣聞之、吞舟之魚、不游枝流、鴻鵠高飛、不集汙池。何則、其極遠也。黃鐘大呂不可従煩奏之舞。何則、其音䟽也。將治大者不治細、成大功者不成小、此之謂矣。

楊朱は梁王に見(まみ)えて、天下の諸(これ)を掌(たなごころ)に運(めぐら)すが如く治むと言う。梁王の曰く、先生に一妻一妾有るも而(しかる)に能く治さめず、三畝の園も而(しかる)に能く芸(う)へず、而(しかる)に天下の諸(これ)を掌(たなごころ)に運(めぐら)すが如く治めると言う、何ぞや。
對へて曰く、君は其の牧羊者を見るか。百羊の群するに、五尺の童子を使て荷(はっか)を箠(ふ)きて而して之を隨(したが)はせしめ、東を欲せば而(ま)に東、西を欲せば而(ま)に西。堯をして一羊を牽(ひ)かせ、舜をして荷(はっか)を箠(ふ)きて而に之を隨(したが)は使しめむも、則るに能く前(すす)めずなり。且だ臣は之を聞く、吞舟の魚、枝流に游(およ)がず、鴻鵠(こうこく)は高く飛ぶも、汙池(おち)に集(つど)らず。何と則(な)る、其は極めて遠(かなは)ずなり。黃鐘大呂は煩奏の舞に従う可からず。何と則(な)る、其の音は䟽なり。將に大を治める者は細を治めず、大功を成す者は小を成さず、此は之を謂ふなり。

第十四章
楊朱曰、太古之事滅矣、孰誌之哉。三皇之事、若存若亡、五帝之事、若覚若夢、三王之事、或隱或顯、億不識一。當身之事、或聞或見、萬不識一。目前之事或存或廢、千不識一。太古至于今日、年數固不可勝紀。但伏羲已来三十餘萬歲、賢愚好醜、成敗是非、無不消滅、但遅速之閒耳。矜一時之毀譽、以焦苦其神形、要死後數百年、中餘名、豈足潤枯骨。何生之楽哉。

楊朱の曰く、太古の事は滅し、孰か之を誌(し)るすや。三皇の事、存の若(ごと)く亡の若し、五帝の事、覚(うつつ)の若く夢(ゆめ)の若し、三王の事、或は隱(かく)れ或は顯(あらわ)れるも、億の一も識らず。當身の事、或は聞き或は見るも、萬の一も識らず。目前の事、或は存し或は廢すも、千の一も識らず。太古より今日に至るも、年の數は固より紀を勝(まさ)る可からず。但だ伏羲、已来(いらい)、三十餘萬歲にして、賢愚好醜、成敗是非の、消滅せずは無く、但だ之の遅速の閒(かん)のみ。一時の毀譽を矜(ほこ)り、以つて其の神形を焦苦し、死後に數百年を要し、名を餘くに中(あ)てる、豈に枯骨を潤するに足らむや。何ぞ生に之を楽しまむや。

第十五章
楊朱曰、人肖天地之類、懷五常之性、有生之最靈者人也。
人者、爪牙不足以供守衛、肌膚不足以自捍禦、趨走不足以従逃利害、無毛羽以禦寒暑、必將資物以為養、性任智而不恃力。故智之所貴、存我為貴、力之所賤、侵物為賤。
然身非我有也、既生不得不全之、物非我有也、既有不得而去之。身固生之主、物亦養之主。雖全生身、不可有其身。雖不去物、不可有其物。有其物、有其身、是橫私天下之身、橫私天下之物。不橫私天下之身、不橫私天下物者、其唯聖人乎。公天下之身、公天下之物、其唯至人矣。此之謂至至者也。

楊朱の曰く、人は天地の類に肖(に)て、五常の性を懷(いだ)き、有生の最も靈なる者は人なり。
人は、爪牙は以つて守衛に供するに足らず、肌膚は以つて自ら捍禦するに足らず、趨走は以つて利害を従逃するに足らず、毛羽は以つて寒暑を禦するは無し、必ず將に資物を以つて養を為し、性は智に任かせ而た力に恃まず。故に智は貴き所にして、我の存するを貴と為し、力は賤なる所にして、物を侵すを賤と為す。
然れども身は我が有に非ざるにして、既に生ずれば、之を全ったくせざるを得ず、物は我が有に非ずして、既に有を得れば而た之を去らず。身は固り生の主にして、物は亦た養の主なり。全ったく身を生かすと雖(いえ)ども、其の身を有す可からず。物を去らずと雖ども、其の物を有する可からず。其の物を有し、其の身を有するは、是は天下の身を橫私し、天下の物を橫私するなり。天下の身を橫私せずして、天下の物は橫私せずするは、其は唯だ聖人か。天下の身を公(おおやけ)にし、天下の物を公にするは、其は唯だ至人なり。此を至至(しし)の者と謂ふなり。

第十六章
楊朱曰、生民之不得休息、為四事故、一為壽、二為名、三為位、四為貨。有此四者、畏鬼、畏人、畏威、畏刑。此謂之遁人也。
可殺可活、制命在外。不逆命、何羨壽。不矜貴、何羨名。不要勢、何羨位。不貪富、何羨貨。此之謂順民也。
天下無對、制命在内、故語有之。曰、人不婚宦、情欲失半、人不衣食、君臣道息。
周諺曰、田父可坐殺。晨出夜入、自以性之恆、啜菽茹藿、自以味之極、肌肉麁厚、筋節巻急、一朝處以柔毛綈幕、薦以粱肉蘭橘、心厭體煩、内熱生病矣。商魯之君與田父侔地、則亦不盈一時而憊矣。
故野人之所安、野人之所美、謂天下無過者。昔者宋国有田夫、常衣縕蕡、僅以過冬。届春東作、自曝於日、不知天下之有廣廈隩室、綿纊狐狢。顧謂其妻曰、負日之煊、人莫知者、以獻吾君、將有重賞。里之富室告之曰、昔人有美戎菽、甘枲莖、芹萍子者、對郷豪稱之。郷豪取而嘗之、蜇於口、惨於腹。衆哂而怨之、其人大慚。子、此類也。

楊朱の曰く、生民の休息するを得ざるは、四事の故なり、一は壽なり、二は名なり、三は位なり、四は貨なり。此の四の有る者は、鬼を畏れ、人を畏れ、威を畏れ、刑を畏る。此は之を遁人(とんじん)と謂ふなり。
殺す可し活す可し、命を制すること外に在り。命に逆らわずば、何ぞ壽を羨(うらや)まむ。貴に矜(ほこ)らずは、何ぞ名を羨(うらや)まむ。勢を要せずば、何ぞ位を羨(うらや)まむ。富を貪(むさぼ)らずば、何ぞ貨を羨(うらや)まむ。此は之を順民(じゅんみん)と謂ふなり。
天下に對するは無く、命を制すること内に在り、故に語に之は有り。曰く、人の婚宦せざれば、情欲は半ばを失ひ、人の衣食せざれば、君臣の道は息(や)まむ。
周の諺に曰く、田父は坐殺(ざさつ)す可し。晨(あした)に出で夜に入り、自ら以(おも)へらく性は之を恆(つね)にし、菽(しょく)を啜(くら)ひ藿(くわく)を茹(くら)ひて、自ら以つて味は之を極め、肌肉(きにく)麁厚(そうこう)、筋節(きんせつ)巻急(けんきゅう)にして、一朝、處(お)らしむに柔毛(じゅうもう)綈幕(ていまく)を以つて、薦(すす)むるに粱肉(りょうにく)蘭橘(らんきつ)を以つてすれば、心は厭(むすぼ)れ體は煩(つか)れ、内熱して病を生ぜむ。商魯の君と與に田父は地を侔(おなじ)くし、則ち亦た一時に盈さずして而して憊(つか)れむ。
故に野人の安むずる所、野人の美しとする所、謂く天下に過ぐる者無きなり。昔に宋国に田夫有り、常に縕蕡(おんひ)を衣(き)て、僅に以つて冬を過ぐ。春に届(およ)びて東作し、自ら日に曝らし、天下に廣廈(こうかい)隩室(くしつ)、綿纊(めんこう)狐狢(こうかく)の有るを知らず。顧(かえり)みて其の妻に謂ひて曰く、日を負ひて煊(あたたか)し、人の知るもの莫し、以つて吾が君に獻じ、將に重賞は有らむ。里の富室は之を告げて曰く、昔の人に戎菽(じゅうしゅく)・甘枲莖(かんしけい)・芹萍子(きんへいし)を美(うま)しとするもの有り、郷豪に對に之を稱(すす)む。郷豪は取りて而して之を嘗むも、口を蜇(さ)し、腹は惨(いた)む。衆は哂(わら)ひて而るに之を怨む、其の人は大ひに慚ず。子、此の類なり。

第十七章
楊朱曰、豊屋美服、厚味姣色、有此四者、何求於外。有此而求外者、無猒之性。無猒之性、陰陽之蠹也。
忠不足以安君、適足以危身。義不足以利物、適足以害生。安上不由於忠、而忠名滅焉、利物不由於義、而義名絶焉。君臣皆安、物我兼利、古之道也。
鬻子曰、去名者無憂。老子曰、名者實之賓。而悠悠者趨名不已。名固不可去。名固不可賓邪。今有名則尊栄、亡名則卑辱、尊栄則逸楽、卑辱則憂苦。憂苦、犯性者也、逸楽、順性者也、斯實之所係矣。名胡可去。名胡可賓。但悪夫守名而累實。守名而累實、將恤危亡之不救、豈徒逸楽憂苦之閒哉。

楊朱の曰く、豊屋美服、厚味姣色、此の四つのもの有らば、何ぞ外に求めむ。此を有りて而(ま)た外に求める者は、猒(あ)く無きの性(さが)なり。猒く無きの性は、陰陽の蠹(しみ)なり。
忠は以つて君を安(やす)むに足らず、適(とき)に、以つて身の危(あやう)くするに足る。義は以つて物を利するに足らず、適に、以つて生を害するに足る。上を安(やす)むずるに忠に由(したが)はずば、而た忠の名は滅し、物を利するには義に由(したが)はずば、而た義の名は絶える。君臣の皆は安むじ、物我を兼ね利するは、古の道なり。
鬻子(いくし)の曰く、名を去る者は憂ひ無し。老子の曰く、名は實(まこと)にして之に賓(したが)ふ。而た悠悠、名に趨(おもむ)くは已まず。名は固(もと)より去る可からず。名は固(もと)より賓邪する可からず。今、名を有(たも)つは則ち尊栄、名を亡(う)すは則ち卑辱、尊栄は則ち逸楽、卑辱は則ち憂苦なり。憂苦は、性を犯すものなり、逸楽は、性に順ふものなり、斯(すなは)ち實(まこと)の係る所なり。名は胡(なむ)ぞ去る可けむや。名は胡(なむ)ぞ賓(したが)ふ可けむや。但だ夫の名を守り而た實(まこと)に累(わずら)ふものを悪(にく)まむ。名を守るは而た實(まこと)に累(わずら)ひ、將に危亡に之を救はずを恤(あわれ)み、豈に徒(いたずら)に逸楽憂苦するを、之を閒(うかが)はむや。

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現代語訳文について (作業員)
2022-06-23 05:57:02
現代語訳文について、ここのブログ機能制限のために
https://note.com/masachan5/n/nce06da7fb485
にPDFで載せています。
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