たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

微積物理と仕組まれた自由

2024-03-12 02:17:38 | 自然科学の研究
 高校物理の内容を(高校で習う)微積分を使って理解することを「微積物理」と呼ぶらしい。
 本来、微積分(というか解析学)は物理学の理解に必要不可欠であり、微積分を使わないで物理学を理解することなどありえない。しかしながら、高等学校の理科の学習指導要領では、高校数学で微積分を習いたての生徒に配慮しているためか、高校物理で陽に微積分を使って説明することを避けている。

 これは一部の意欲的な生徒たちには歯痒いことであろう。特に難関大学を理系で目指す高校生たちは物理学に憧れを持っていることが少なくないため、高等学校の指導要領に従った指導では満足できないことが多々見られる。
 私自身も高校生・浪人生の頃(ちなみにこのブログは私が浪人生の時から書いている)、微積分を使って高校物理を理解することを試みていた。単振動や回路など、暗記に頼らず、微分方程式を用いて記述することで体系的に理解することに深く感動していたのだ。特に浪人生の時には、大学レベルの微分積分学の教科書や演習書を図書館から借りてきて、減衰振動の一般解を自分なりに求めてみるなどしていた。当時の自分の気持ちを想像するに、「自分は浪人しているが、大学レベルの物理学を理解するまでに達している」と自由を求めての行いであったように思う。

 今から考えてみると、受験対策として、高校レベルを逸脱して理解することに何の意味もない。そりゃ変位を微分したら速度になる、くらいはパサパサ使ったら良いと思うが、、上記したような基礎を確立していない上での「自分なりの研究」をやっている暇があるなら、有機反応を一つでも覚えるとか英単語やコロケーションを一つでも覚えるとか、当時の自分にとって無意味であるような勉強(別に今でも多少そう思っているけど笑)をしたほうがよほどに実益であろう。
 けれど、若い頃というのは「将来のため」に生きているわけではない。そんな腑抜けた受験に即した勉強をするくらいだったら、第一志望(東工大であった)に受からなくても良い、と思っていた。

 さて、その求めていた「自由」は、本当に「自由」だったのであろうか。
 自分なりに微積分を使って高校物理の範囲から足を踏み出して、自分なりの丘陵から自分なりの物理学を眺めることは、どれほど有意義であったのだろうか。

 確かにその「熱さ」が今に活きていることはあるだろう。だが、若者がすべきことは、物理学を理解することだけではない。若い時にしかできないことは沢山ある。
 もっと他の教科を真剣に勉強していたらどうだったろうか。そもそも勉強じゃなく、バンドや歌を思い切りやっていたらどうだったろうか。友達ともっと本気でぶつかり合ったらどうだったろうか、気がつかぬフリをし続けた恋愛をあの時に思いっきりしていたらどうだったろうか。
 私は物理学科に入ってからのほうが、高校物理の参考書を開く回数が多かったように思う。それは私が定性的な理解を置き去りにして、微積分を使って、(自分にとっての)複雑な計算をしている自分に酔っていたからである。結局、高校物理を完全にマスターしたと強く自信を持って思えたのは、大学を卒業してからであったと思う。

 そう思い、以下のポストを投げた(同じようなことは前にも言っているが)。特に「微積物理」をやたらに持ち上げる大人を目にすると、「本当にそうだろうか?」という気持ちになってしまうのである。
 
 “高校物理を微積で理解するというのは、「よちよち。高校生なのに偉いね。そんな本質的に理解してるんだぁ」で9割以上の子が満足するので、もはや好きにすれば良いと思う。どーせベクトル解析やってないでしょ?高校数学の微積しか使わないんでしょ?とか本当のこと言うと嫌われるので”
 https://x.com/KayT0309/status/1765667542335389708?s=20

 もちろんネタというか、言い回しが冗談だろうということは明らかにわかると思うのだが(マジに捉えた人すみません。だって、こう思っちゃったんだもん)、本当の本当に物理学を心から理解したいのであれば、大学以降の「ただの物理学」をやるべきで、高校の範囲を意識した理解にはならないはずなのである。せめて、ベクトル解析には手がつくはずだ。
 これはお節介な老婆心というよりも、自分自身の失敗を、今また複雑な数式や実験手法に酔いそうになる自分への戒めとしてのポストに近かったのだが、思いのほか心ないコメントが受験生や大学生、大学院生、また研究者からも届いてきた。達観視している自分もいながらも、大学院生以上の人からの心ないコメントには、正直久しぶりにネットの反応で悲しい気持ちになった。なぜなら「多かれ少なかれ物理学を志している人たちのはずでしょ?」と思うからである。言い回しが下品というのはあるのかもしれないが、それにしてもこの感覚を理解してもらえないということは、指差している物理学がお互いにかなり違うものなのであろうなと思ってしまうからである。

 またそれ以上に、昨今は「競争に勝って自分自身の自由をとにかく最大化したい」という気持ちも強いのだろうと思う。自由主義は、自分とその他の人の自由を最大化したいわけであるが、自由主義の皮を被った自分勝手を自由主義の文脈で肯定化してくる態度を当然にとる人が多くなっているのかもしれない。
 そりゃ、高校物理でも微積をガンガン使った方が自由であるし、掛け算の順序はないほうが自由である。しかしながら、それは本当に自由なんだろうか?「仕組まれた自由」なのではないだろうか?

 社会人になって分かったことの一つに、世の中には「起業させられている人」というのが沢山いる、ということがある。経営者になれば自由になれる、だから、このフランチャイズ登録して、独立してみませんか。という甘い文句は沢山ある。果たしてそれは、本当に自由なのだろうか?

 自由を求めながら勝利することで他者を管理したがる人は「じゃああなたもやれば良いじゃん」「勝てば良かったじゃん」と言いたがる。転売ヤーっていうけどさ、うちらだけが儲けてるのが悔しいんでしょ?あなたもやれば良いじゃん?やれないわけだよね?それは能力がないってことじゃん?認めろよ?
 こういう人は、微積物理をやや批判的に書いただけで「学部で東大に落ちたからそう言ってるだけだろ」「理科大のくせに」と言ってくる人に似ている。18歳時点での評価を絶対視している愚かさを脇に置いておいても、関係のない文脈で「自由競争で圧倒的に勝てなかったくせに」と自分の価値観のままにこちらに問いかけてしまう的外れさに気がつけない。多くの人にとって高校物理は「どうであるべきか」という美徳性を主張しているわけで、今の場合、自由度や競争はどうでも良い。

 ちなみに関連している人のためにも一応言っておくと、今回、理科大の貶められ方にも驚いた。私は東京理科大学の理学部第一部物理学科出身で、大学院は東京大学大学院の総合文化研究科広域科学専攻で博士号を取得した。東大の内部について普通よりはよく知っているつもりであるが、はっきりいえば、東大のある学部学科よりも理科大の物理学科のほうが教育的にはかなり良いのではないか、と思っているので、そんなに入るのが簡単でもない理科大に対してクソでしょ的な扱いをするのは、とても違和感がある(ただ理科大がダサいというのは多分にある笑)。

 あくまで微積物理は一部の生徒のためであって、それをスタンダードにはできない。自分がその一部の生徒であったとしても、「自分なりの理解」をすることはとても危険である(予備校講師が先導していても同じ。定式だったものとは呼べないから)。自分なりの理解をするよりも、高校レベルは、教科書に書かれている内容をきちんと正確に理解することの方が遥かに大事である。
 というのが、私の(おふざけなしの)意見である。

 “微積物理”というのは、高校の範囲という鎖ありきの「仕組まれた自由」であり、そこに本質もなければ、勝利もない。
 では、物理学に意欲的な受験生はどうするべきか。中途半端だからいけないだけである。大学以降の物理学をガチでやってやるという覚悟があれば、いつだって「自由」よ。受験は時間がないというなら微積物理なんて中途半端さを捨てて、若い頃の熱さを認めてくれという甘えも捨てて、覚悟を持って大学物理をやること。

 まぁ40年前、夜の校舎の窓ガラスを割ることで、仕組まれた自由に気がつかずに足掻いていた頃なんかよりも、自分の覚悟の無さと甘さに気がつかずに「微積物理やらせろ!!」と足掻いているのは、人類の青春の迎え方として進歩しているとも言えるんだけどね。
 そんな足掻きを実はとても可愛く思っているんだけど、別にそんなことは伝わらなくて良い。なぜなら、顔も名前も知らない後輩たちに興味を持ちようがないから。
コメント
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