たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

"能力と評価"を超えて

2019-01-07 22:35:05 | Weblog
 政治力学や即物的なパラメータを除き、自分の本当の能力だけで評価されたいと願っている人は、案外多い。
 権威に媚び諂っていたからとか、若いからとか、逆に年齢を重ねているからとか、性差による差別とか、そういった理不尽な事象を排除して、個々人の能力に即してのみ、成果や仕事を評価してほしいと願うことは、ある意味では自然なことである。

 しかし、実際に、能力だけで評価されてしまったら、なんとも理不尽なのではないだろうか。

 個々人の明確な違いは遺伝情報であるSNPsによって規定される。ヒトであるというだけで、DNAは99.9%同じであり、わずか0.1%の差異によってここまで個性豊かな振る舞いを保持しているのだ。
 DNAと周囲の環境は個人の力では絶対に変えることはできない。だから、単純にどれだけ時間をかけたか?によって、評価される世界。これは、かなり理不尽に思えるのだが、果たして、みんな、そんな世界を本当に求めているの?

 理不尽な評価は世の常である。評価はどこまででも理不尽であり、能力とは一切相関が無いかのようにさえ思える。
 でも、能力だけで正しく評価されることは、果たして本当に平等なのだろうか?高い能力を正しく評価することは、それほどに人類全体にとってより良く仕向けるものなのか?

 10年以上前に聴いた話だが、ドイツのある医学部の入学試験では、定員100名に対して、50名までは学科試験の成績のみで通過させるが、学科試験の成績51-150位からは、まったくのランダムに50名選ぶそうだ。これは、入学試験の評価基準そのものに対する疑いを反映させたシステムであり、かなり示唆的な取り組みに思える。

 極限に公平な評価というのは、評価方法そのものが精緻でなくてはならない。これを審査側にすべて託そうとするのは、理不尽な評価以上に、極めて理不尽である。
 精緻ではない評価方法から承認されることについてself-consistentに解こうとすることを、「頑張った」とか「対策をきちんと練った」と呼ぶのは、ただの最適化に過ぎず、その信仰そのものにそこまでの価値があると、誰が定義できよう?

 そう、我々は、理不尽だからこそ頑張る。理不尽だからこそ、その事実を変えようと、進捗していけるのである。
 そして、もっと言ってしまえば、世の中に理不尽な評価があってくれるおかげで、頼んでもいないのに、この世に突然生まれさせられて、絶対に死んでしまうという圧倒的な理不尽を、一時的に忘れることができるのである。

 そのような圧倒的な理不尽を目の前に、そこにどのような物理現象が潜んでいたとしても、俺個人としてはあまり興味が湧かない。だから、、俺のことを能力で評価されるのは、大っ嫌い。
 承認や評価されてきたという実績なんかよりも、俺が胸をはって誇れるものは、目の前で困っている、自分の改善できる範囲についてはきちんと直向きに改善を促し、誰かにとってより良くしようとしてきた回数である。それは、誰にも評価されなくても、誰からも認めてもらえなくても、この圧倒的に理不尽な世の中を生きていくだけのモチベーションになる。

 貴女が自信にすべき事柄も、実績でも能力でも承認でもない、それ以外の何かなんじゃないかな?
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする