「時間依存性のないものこそがホンモノ」なんて簡単に言っているけど、実は「時間の定義」というものは、未開であり、難解であり、時間に関するアポリアは挙げればキリがない。
実のところ、物理学では、絶対時間を大前提としているため、「時間の定義」について曖昧になってしまっている。これまでと同じような時間の流れ(これも時間論でいうところの現在主義的に解釈すれば、俺らの脳が想起し続けているだけに過ぎないのだが…)が、今この瞬間以降も絶対に続くとは限らないのだが、そんな大前提をひっくり返したら、俺らはまともに待ち合わせをすることもできない。
物理屋は、時間というものの一方向性にとりあえず着目し、時間反転対称性(時刻;t→-tにしても同じ式が出てくるって性質)というもので時間の性質を説明したがる。古典力学(ニュートン力学)において運動方程式は時間反転対称性を有しているし、量子力学における時間発展を記述するシュレディンガー方程式についても時間反転対称性を有している。つまり、一体系においては、時間の方向など存在しなくても良いように思えるのである。
ところが多体系になると、不可逆性が生じる。エーレンフェストの壺の議論は有名だが(知らない人は各自ググってね笑)、よーするに、数が増えるとめっちゃ戻りにくいよね、ってことで、時間の一方向性の発生を説明しているのだ。
(このカッコ内は俺の(特に)専門外なので、間違いがあれば教えてほしいし、↑で書いたことすらよくわからなかった人は読まなくていいです。上の説明では、多体系だからこそ不可逆性が発生し、それを時間に向きがあることの説明としていますが、弱い相互作用の研究において、CPT定理より、CP対称性が破れているとき、それを補うようにT対称性が破れるとの議論があります。よーするに、一体系においても時間反転対称性の破れが起こり、時間の向きが発生しうるのかなぁと勝手に思っていますが、何せ私は場の量子論が勉強不足でして、あまりテキトーなことは言えない気がするので、そんなんもあったよねぇー、的な注意だけにしておきます。この文章では別に物理を語りたいわけではありませんので、そろそろ本文に戻ります。)
でも、不可逆性が俺らが実際に感じている時間なのかどうかは、全く説明しない。
さて、ここまで、時間の一方向性などと、時間を一次元で扱うことを当然視してしまったわけですが、物理が専門だったら、一度はその解釈に躓く概念として「虚時間」がありますよね。ローレンツ変換の不変量である4次元距離の式に虚時間を導入すると、虚時間と空間に対称性が生まれる、という、なんともわからない概念です。
虚時間は実時間と直交している特徴を持っており、虚時間では空間と同じように行ったり来たりということが可能です。
こういう話をすると、一般の人は、「現実の話をして欲しい」と思うのでしょうが、あくまでもめちゃくちゃ現実の話をしています。
だって、この虚時間という概念が、我々の身の回りの出来事を間違いなく規定しているのですから。でも、だからといって、それが、俺らが感じている「時間」とどのように関連しているのかは、いまいちよくわからない(多分、誰にもわからない。わかる人がいたら俺に教えて)。
でも、一つ言えることは、俺らは日常生活において自然と、時間は行ったり来たりすることのできるものだ、と考えていることに、虚時間は性質上、ちょっと近いかもしれない、ということ。
え?「時間を行ったり来たりできるなんて思ったことない」って?そんなことはないと思いますよ。
例えば、「ラブ★コン」という少女漫画に次のようなシーンが出てきます。
主人公の小泉リサの彼氏である大谷敦士が、大学受験の合格発表に出かけるとき、小泉はつい「がんばれー!!」と言ってしまいます。それを大谷は呆れたように「いや、結果はもう出とんねん…」と言うのです。
作者の中原アヤ氏にどのような意図があるのかは不明ですが、小泉は大谷の"相対的非決定論的過去"に対して、何らかの意義を与えようとしたことに他ならないんじゃないかと思います。もっとちゃんと言ってしまえば、客観的には確かに定まっている過去なのだが、自分たちにとっての未計測な過去に対して、祈りを捧げたわけです。
(こういうのが虚時間とつながっていたら面白いけどなぁと思うけど、そんなに単純ではないだろうなぁと思います)
この小泉の行為を笑う者は、テレビでサッカー観戦して本気で応援をしてはいけないです。
野球なら(100歩譲って)まだわかりますが、サッカーのような、コンマ数秒の判断を競う競技においては特にです。なぜなら、現在の技術では、生中継には約0.5秒以上の時差がどうしても発生しています。これが5Gになると、1m秒にまで短縮することができるそうですが、それでも、自分たちにとっての非決定論的過去に対して、祈りをささげていることには他なりません(でも、5Gだったら、もう少しテレビでのサッカー観戦に意味がある気がするよね笑)。
ね?決定してしまっている過去に遡って何らかの意義を与えようともがくこと、あるでしょ?
決して揺るがない決定論的過去における、何らかの不一致によって生じてしまった決別を、俺らは単純に「タイミングが悪かった」と口にすることがある。衝突は、同時刻同座標。確かに、そんなに簡単には起きないからね。
でも俺は、そこに何らかの本気の想いや"キュン死に"が介在しているなら、それはもう一過性でもホンモノで良いと思うのですよ。ここまでを省略して、「時間依存性のないものこそがホンモノ」と(昔から)言ってるわけです。
だから、ただタイミングが悪かったくらいで、運命じゃないなんて言わないで。"命"を"運"んで、本気の気持ちであった限り、「運命」で良いじゃないか。ただ、この世界の不合理な物理法則の中で定義される、もう一段上の概念である「結ばれる運命」ではなかっただけ。そう、俺はタイミングという言葉は嫌いだけど、この世界に生きている限り、その重要性は最も深く認識していると思う。
そのことをきちんと認識すると、ほんの少しだけ、過去の事実そのものに、何らかの寄与が与えられている気がするのだけど、、まぁ、それは俺だけかもね。
実のところ、物理学では、絶対時間を大前提としているため、「時間の定義」について曖昧になってしまっている。これまでと同じような時間の流れ(これも時間論でいうところの現在主義的に解釈すれば、俺らの脳が想起し続けているだけに過ぎないのだが…)が、今この瞬間以降も絶対に続くとは限らないのだが、そんな大前提をひっくり返したら、俺らはまともに待ち合わせをすることもできない。
物理屋は、時間というものの一方向性にとりあえず着目し、時間反転対称性(時刻;t→-tにしても同じ式が出てくるって性質)というもので時間の性質を説明したがる。古典力学(ニュートン力学)において運動方程式は時間反転対称性を有しているし、量子力学における時間発展を記述するシュレディンガー方程式についても時間反転対称性を有している。つまり、一体系においては、時間の方向など存在しなくても良いように思えるのである。
ところが多体系になると、不可逆性が生じる。エーレンフェストの壺の議論は有名だが(知らない人は各自ググってね笑)、よーするに、数が増えるとめっちゃ戻りにくいよね、ってことで、時間の一方向性の発生を説明しているのだ。
(このカッコ内は俺の(特に)専門外なので、間違いがあれば教えてほしいし、↑で書いたことすらよくわからなかった人は読まなくていいです。上の説明では、多体系だからこそ不可逆性が発生し、それを時間に向きがあることの説明としていますが、弱い相互作用の研究において、CPT定理より、CP対称性が破れているとき、それを補うようにT対称性が破れるとの議論があります。よーするに、一体系においても時間反転対称性の破れが起こり、時間の向きが発生しうるのかなぁと勝手に思っていますが、何せ私は場の量子論が勉強不足でして、あまりテキトーなことは言えない気がするので、そんなんもあったよねぇー、的な注意だけにしておきます。この文章では別に物理を語りたいわけではありませんので、そろそろ本文に戻ります。)
でも、不可逆性が俺らが実際に感じている時間なのかどうかは、全く説明しない。
さて、ここまで、時間の一方向性などと、時間を一次元で扱うことを当然視してしまったわけですが、物理が専門だったら、一度はその解釈に躓く概念として「虚時間」がありますよね。ローレンツ変換の不変量である4次元距離の式に虚時間を導入すると、虚時間と空間に対称性が生まれる、という、なんともわからない概念です。
虚時間は実時間と直交している特徴を持っており、虚時間では空間と同じように行ったり来たりということが可能です。
こういう話をすると、一般の人は、「現実の話をして欲しい」と思うのでしょうが、あくまでもめちゃくちゃ現実の話をしています。
だって、この虚時間という概念が、我々の身の回りの出来事を間違いなく規定しているのですから。でも、だからといって、それが、俺らが感じている「時間」とどのように関連しているのかは、いまいちよくわからない(多分、誰にもわからない。わかる人がいたら俺に教えて)。
でも、一つ言えることは、俺らは日常生活において自然と、時間は行ったり来たりすることのできるものだ、と考えていることに、虚時間は性質上、ちょっと近いかもしれない、ということ。
え?「時間を行ったり来たりできるなんて思ったことない」って?そんなことはないと思いますよ。
例えば、「ラブ★コン」という少女漫画に次のようなシーンが出てきます。
主人公の小泉リサの彼氏である大谷敦士が、大学受験の合格発表に出かけるとき、小泉はつい「がんばれー!!」と言ってしまいます。それを大谷は呆れたように「いや、結果はもう出とんねん…」と言うのです。
作者の中原アヤ氏にどのような意図があるのかは不明ですが、小泉は大谷の"相対的非決定論的過去"に対して、何らかの意義を与えようとしたことに他ならないんじゃないかと思います。もっとちゃんと言ってしまえば、客観的には確かに定まっている過去なのだが、自分たちにとっての未計測な過去に対して、祈りを捧げたわけです。
(こういうのが虚時間とつながっていたら面白いけどなぁと思うけど、そんなに単純ではないだろうなぁと思います)
この小泉の行為を笑う者は、テレビでサッカー観戦して本気で応援をしてはいけないです。
野球なら(100歩譲って)まだわかりますが、サッカーのような、コンマ数秒の判断を競う競技においては特にです。なぜなら、現在の技術では、生中継には約0.5秒以上の時差がどうしても発生しています。これが5Gになると、1m秒にまで短縮することができるそうですが、それでも、自分たちにとっての非決定論的過去に対して、祈りをささげていることには他なりません(でも、5Gだったら、もう少しテレビでのサッカー観戦に意味がある気がするよね笑)。
ね?決定してしまっている過去に遡って何らかの意義を与えようともがくこと、あるでしょ?
決して揺るがない決定論的過去における、何らかの不一致によって生じてしまった決別を、俺らは単純に「タイミングが悪かった」と口にすることがある。衝突は、同時刻同座標。確かに、そんなに簡単には起きないからね。
でも俺は、そこに何らかの本気の想いや"キュン死に"が介在しているなら、それはもう一過性でもホンモノで良いと思うのですよ。ここまでを省略して、「時間依存性のないものこそがホンモノ」と(昔から)言ってるわけです。
だから、ただタイミングが悪かったくらいで、運命じゃないなんて言わないで。"命"を"運"んで、本気の気持ちであった限り、「運命」で良いじゃないか。ただ、この世界の不合理な物理法則の中で定義される、もう一段上の概念である「結ばれる運命」ではなかっただけ。そう、俺はタイミングという言葉は嫌いだけど、この世界に生きている限り、その重要性は最も深く認識していると思う。
そのことをきちんと認識すると、ほんの少しだけ、過去の事実そのものに、何らかの寄与が与えられている気がするのだけど、、まぁ、それは俺だけかもね。