たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

「惚れたもん負け」と「惚れたもん勝ち」

2016-01-15 00:38:25 | Weblog
 人が冷酷になって何かを選び出すときに使う能力は、思考と直観の2つ。
 思考は論理によって言葉として理解できる。一方で直観は、サイエンティフィックでないもののように感じるかもしれないが、経験則を論理化せずに適応しているだけなので、(再現性という意味で)実はものすごくサイエンスだ。そして、当然のことながら、直観の精度を高めるためには、論理を使うときに比べて、データ数がものを言うのだ。
 ビッグデータから論理を使わずに、関連させていったり、認識させていったりしていくのは、まさに、機械学習が行っていることである。ただし、機械は一個人よりもデータ数が圧倒的に多いので、人が直観を働かせるよりも、遥かに正確であるというだけである。

 とにかく何かを判断させるのであれば、機械にやらせたほうが絶対に正確だ、ということが当たり前の時代になってしまうだろう。そこに説明が必要だったりするときは、言語化するために思考力が高い人間が必要なことはあるかもしれないが、たいていのことはただ判断すればいいので、人が冷酷になる瞬間というのは、これからの時代、非常に限られたシーンになってくるのかもしれない。
 冷酷になる、っていうのは、言い換えれば、気持ちに多様性がなくなるということだ。目的のために冷酷、っていうのは、とてもロボット的に感じるかもしれないが、実はそうではなくて、その目的を達成したいという気持ち以外の気持ちを排除する行為を冷酷と呼ぶのだから、気持ちそのものは存在するわけで(ロボットはそれすらない)、これはこれで人の一側面である。だから、気持ちのベースになってくる価値観というものは、まだまだ(少なくとも俺らが生きてる間くらいは)人がオリジナルでできる、非常にヒトらしいことだと思う。もしかしたら、それこそが「生命らしい」ということなのかもしれない。

 ところで、何かを判断するときの「何か」について時間依存性を加味することがほとんどであり、思考力をもってしても、あまりに不確定要素や攪乱要素が多すぎるために、あんまりアテにならない。だから、「考えすぎだよ」と、まるでそのほうが考えているかのような意見が流行るわけで、だから、サイエンスの中のことであっても「分野が違うし、そんなことまで考えても仕方ないじゃん」というような、自らの思考力の低さを肯定化する発言を好む研究者が(それなりの割合で)いたりするわけである。
 確かに、これから買おうとしている服を何年着るかなんてわからないし、これから何年日本にいるかわからないし、その職が安定しているのか不安定なのかなんてわからないし、今これを読んでる貴女と将来結ばれるのかもしれない。不確定要素が多すぎる事柄について予測することは不可能だし、考えても仕方がないことなのかもしれない。
 考えてもわからないと決めつけているから、多くの人は大きな力に縋ろうとする。それが両親だったり、権威だったり、マジョリティだったり、宗教だったり、先生や上司だったりする。日本人の多くは、先生や上司を神として崇める宗派なので(笑、、エナイ?笑)、それがマジョリティになって、両親もそこにアジャストするように勧めるから、その縦社会に権威が集中し、結局これらの例はすべて同じことなのかもしれないけど。

 でね、この「マクロからの要請」からの価値観に従いまくる判断をあまりにも取り続けるのって、俺らはヒト(っていう生命現象)なのに、本当にただの物理現象みたいになっていく。周囲に反応だけしていくから、単純で、年もとりやすい。
 これまでだったら、これでやっていっても、表面上は良いかもしれない。目に見える小さな小さな成果をあげることもできるだろうし、いわゆる中流の夢を手にできる可能性は高かっただろう。これからは(おそらくそれ以上の攪乱が来つつあるから)どうか知らないけど。
 その多くの人が何の根拠もなくイイと信じている小さな小さな「成果」を出すために、自分固有の価値観や気持ちを押し殺していくことが習慣化することは、ヒトを早く老化させる。当たり前だよね、だって(ミクロ状態の)圧倒的にありふれた性質が平衡状態を作っていくわけで、平衡状態になりゃ死ぬのだから。

 だとしたら、自分が心から本当に好きだと思う対象が存在するのであれば、飛び込みまくって、すり減らして、最終的に奴隷のように搾取されまくったとしても、単純な無難さのみを判断の主軸に持っていることを信念とする人よりも、生命らしい?だとしたら、現実的には「惚れたもん負け」だけど、気持ちの上では「惚れたもん勝ち」?

 特に対ヒトの場合、思考力と直観力をフルに使って、好きな対象をリアルタイムにとことん解析していったときに、相手の本当の気持ちが見えていなかったから「自分の好きは間違いだった」と判断するのは良いことだが、何かの現実的な要因によって「自分の好きは間違いだ!」とするのは間違いだと俺は思う。
 そして、気持ちを気持ちで評価し、気持ちを気持ちで評価するためだけに思考力と直観力を使い続けている限り、身を滅ぼすということまでにはならないのだと思う。確かに(自分も含め)誰かの気持ちを無理矢理に変えることは決してできないが、環境と習慣を現実的に変えてしまうことはいくらでもできる!(ま、だからこそ、片想いは、原理的に面白く、また残酷なのである(笑))

 だから、世の中が悪いと思った時に、自分一人の責任をどれほど感じることができるか、ということだ。
 例えば、俺が、ここで、もっともっとイイ文章を書けていれば、少なくとも研究社会程度なら、ここ数年の間に、もっともっと、より良く変えられていたはずだ!、とどれだけ心から本気で思えるか?ということだ。だって、研究に携わる人というのは、どんなに無能でバカに見えても、どんなに性格が悪いクソヤローにみえたとしても、ちゃんと思考力と直観力を使って解析すれば、みんな、とっても優秀で、とってもイイ人たちなのだから。

 それは即ち、自分にとってリスクがあることを、世間のために行い続けるということに他ならない。自分のリスクと世間のベネフィットの駆け引き計算を繰り返すリスク論から、決して逃げないということだ。だから周囲が自然と助けてくれる。かといって、他人任せにはなれないのだけど。
 最近、その「世間」というヤツは、種々の事象ごとに、自分の周囲から選出された「たった一人」を代表としても構わないんだ、と思いつつある。なんやったらそれこそが、ありふれていない状態を維持する、マクロからの要請に従いすぎない、ということ。

 その意味で、俺は、ものすごく冷酷だと思う。それだけは、時代がいくら進んでも、カワラナイんだろうなぁと、最近悩んでいたりする。
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