以下はフィクションです。実在の人物や団体などとはいっさい関係ありませんし、サイエンティフィックな内容についても実際には正しいことではないことも含まれます。
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2016年1月9日(土)
「これマジか?!おい戸山、これ見てみろよ。お前にこれ良いんじゃね?ほら、年収2000万円ってやばくね?」
村川のこの一言がことのはじまりだった。慣れないスーツを着ながら山手線で去年の10月のことを俺は一人思い出していた。
あのとき、同じ研究科内で唯一の友達である村川晋也と二人で飲んでいると、彼は自分のスマートフォンを俺に見せつけながら、いつものノリの良さで話しをふってきた。俺ら二人は都王大学大学院修士課程2年に在籍している大学院生だ。俺は生物物理学の研究室に在籍していて、彼は素粒子の分野を研究している。俺と村川は、今はほぼ同じ状況だが、来年度からお互いの立場はまったく異なってしまう。村川は来年度から大手企業で技術営業職に就く予定だが、俺は博士課程進学予定でこれからまだ3年間も不安定な学生生活が続くことが決まっている。天下のナンバーワン国立大学、都王大学の大学院生なんだから安泰だとか世間から思われているようだが、実際はそんなことはない。同年代の殆どが働きだしているのに、大学院で博士課程まで進んでしまう者はストレートの大卒よりも5年も長く社会に出ずに学生のまま。そもそも俺は学部は地方公立大学出身だし、世間で思われているよりも遥かにリスクが高い。しかも、博士号がストレートで取れるとも限らない。さらに、博士課程修了後の就職先は全然ないし、就職先のほとんどが有期雇用のアカデミックポストだ。
そんな博士課程という名の、ある種の絶望的なモラトリアム期間に突入していく感覚を少しだけ払拭してくれるのが、学術推進会の特別研究員だ。通称、学推。有能な博士課程の学生に博士課程3年間の間に月20万円支給してくれる素晴らしい制度が学推だ。修士課程2年の5月に研究計画書やこれまでの研究内容をまとめた書類を提出して審査され10月に結果が出るのだが、残念ながら俺は落ちてしまった。そういえばあの時は、そんな俺を慰めてくれようとして、村川が飲んでくれてたんだっけ。
村川が見せてくれたのはただの広告だった。この手の募集のわりには派手な広告だ。SNSで出回っている「学推に落ちたヤツ必見!年収2000万!」という文章。そのウェブサイトをクリックすると
『RC研究振興補助制度。来年度博士課程に進学予定の現在修士課程2年に在学している優秀な理系大学院生に平成28年度より最大で3年間、年額2000万円支給します。研究費も支給します。定員は若干名。希望者はCurriculum VitaeをこちらのE-mailアドレスまで提出してください。Curriculum Vitaeのフォーマットはこちら。〆切は2015.11.30.まで』
文字にしてこれだけの内容。あとは真ん中にビーカーとか数式とかサイエンスっぽい広告があるだけだ。全体にポップな広告で、はっきり言って怪しい。これなんなんだろう?来年度から就職予定で本来関係ないはずの村川に尋ねてみた。
「これ、どこが主宰しているんだ?」
「え?そんなの学推かJTSか、わからんけど。RCって書いてあるけど、これじゃね?」
「なんの略だろう?リサーチコマンダー?」
「ちげーよ、Resistor–Capacitorだろ」
「もっとちげーだろ笑」
あぁ、話が逸れてしまった。こういうところが村川の良いところであり悪いところだ。ノリが良い分すぐに関係のない方向に行ってしまう。仕方ないので少し自分で考えていると、村川が空気を察して若干の真剣な表情をしながら語りだした。
「でもさ、お前が落ちた学推って月20万だろ。ってことは年240万円にしかならない。それに比べてこれは年2000万円。超イイじゃん。通れば普通に勝ち組じゃん。出してみろよ」
「確かに。だけど怪しいなぁ」
「いや、お前、さっき学推あんなに否定してたんじゃん。あんなの、研究室のPI(Principal Investigator; 研究室のトップの先生のこと)が誰かで選んでるとか、出身大学がどこかで選んでるとか。でも、これは、」
「ちげーのかよ?」
「そりゃ知らねーけど。待てよ。ほら、フォーマットダウンロードしてやるから」
スマホでpdfを読むのは本当に見にくい。読みにくいpdfビューワーでゆっくり拡大しながら見てみると、A4でたった2枚。業績項目を書くところも無ければ、出身大学を書く欄もない。学推では指導教員の評価書が必要だが、これにはそれもない。というか自分の指導教員が誰かすら書く項目が無い。さすがに住所や所属している大学院と研究科を書く欄はあり、修士論文の(予定している)タイトルを書く項目はあったが、あまりにも研究に関することが少なくないか?逆に学推には無かった項目で、このフォーマットにあった項目で気になったのはHobby or Special Skill。
「これって、"趣味や特技"って意味で良いんだよな?」
「たぶん。お前ならプログラミングって書けばいいんじゃない?」
「俺の研究に関係あるかなぁ」
「あるある。あと、合気道も書いとけ」
「いや、それはあまりにも研究に関係なさすぎるんじゃ」
と言ってはみたが、体力があって沢山実験するぜ!ってアピールするために、大学時代ずっとやっていた合気道は確かに妥当な気もしてきた。完全に酔っている。それにしても、英語で書くのは少々面倒くさいが、あまりにも応募書類が簡単すぎやしないか。だが、そんなこと、酔っていたし、学推にムカついていたし、どうでもいいやっと思っていた。俺はえいや!と書いて、それを募集の公告に書いてあったE-mailアドレスに投げた。翌日、自分の応募書類を見直してみるとほぼ完璧ではあったが、完全に酔った勢いだったので、名前だけ「戸山渉」って日本語で書いてしまったのが心残りだ。だがどうせ怪しいし、どっちにしてもあまり期待していなかった。
12月、俺はこの出来事をすっかり忘れていて修士論文を書き上げるのに必死だった。そんな矢先、12/25のクリスマスにメールが入った。件名は「RC研究振興補助制度の結果」と書いてある。俺は一応おそるおそるメールを開いた。本文は短かった。
「貴殿はRC研究振興補助制度の一次選考を通過いたしました。二次審査を行いますので、きたる平成28年1月9日13時、品川区大崎6-10-2の3階に来てください。二次審査は面接です。持ち物は特に不要です。厳密に審査する関係から、この件については他言しないことを厳守してください。交通費は当日支給します。以上」
いったいどれくらいの人が一次通過しているのだろうか?応募した直後、「RC研究振興補助制度」で検索してみたが、何もでなかった。SNSでも「これは釣りだ」という流れだったし、11月に入ってすぐ、まだ〆切の期日を過ぎていないにも拘らず、募集のウェブページも消されていた。だから、俺は二次審査に行くかどうか決めかねていた。修士論文で忙しいし、この怪しい感じはなんとなくイヤな予感がする。正月休みが終わってすぐ、俺は彼女の綾瀬香奈を自分の家に呼び、相談することにした。彼女とは2年前から付き合っている。俺より1つ年上で美大出身。現在はデザイン会社に勤めている。はっきり言って何も考えていないヤツだが、それなりに可愛いし、極たまに秒速で的を射たコメントをする。念のためにとパソコンに保存しておいた応募内容を見せながら、彼女に話しかけると香奈は、
「うーん、確かに怪しいけど、修論ってそんなに大変なの?」
と言ってきた。
「そりゃもう。こんなに文章書くのは初めてだし。あー、ダメもとの割に、なんか知らんけど通っちゃったからなぁ」
「でもさぁ、これって、ただ行くだけでしょ?で、どーせダメもとだったんでしょ?土曜日って、どーせ、渉、寝てるだけじゃん」
「そうだけど、1/9は修論提出間際だから、なんとなく」
「ふーん、まぁ私、理系じゃないからよくわかんないけど。もし2000万円ゲットできたら、なんか高いもの奢ってね」
これだから頭の悪い女は嫌なのだ。2000万円ゲット、ってそういう感覚しか無い。しかも、「美味しいもの奢ってね」じゃなくて「高いもの奢ってね」ってなんだよ。お前、芸術系だろ。もっと自分の価値観に自信を持てよ!と心の中で彼女へのやり取りの不満を呑み込んでいると、ふいに彼女が真剣な表情でこう言ってきた。
「あとさぁ、最初のこの募集の背景にある絵。これって、そんなに、ぱぱっと作った感じじゃないと思うよ?」
そうなのか?さすが芸術系、香奈。ならまぁ行く価値はあるか。
「わかった、ありがとう。微妙だけど、行くだけ行ってみるわ。gogle mapで調べてみたら、大崎駅から徒歩5分くらいで、近いし。絶対になんか無理そうだったり、怪しかったりしたら、途中で帰ってくりゃいいし」
やはり彼女は何も考えていないように見せかけて、洞察力というか判断力というか、なんというか、そういう類いの才能がある。これからもよろしくお願いしまーす。なんて、調子良すぎるか?
そんなことを思い出しながら、いよいよ大崎駅に着いた。メールに書いてあった住所に到着すると、そこはかなり古びたビルだった。土曜日ということもあってか大崎駅周辺は閑散としており、都内とは思えないほど周囲に人がいなかったが、間違いなく面接会場はここだ。3階まで階段で登ると、「RC制度面接会場」と書かれた部屋の前まで着いた。明るい日差しが差し込むが、全体に暗いビルの中はかなり冷えこんでいる。そういえば就職活動ではコートは脱いでからビルに入るんだっけ?ま、いいか。誰も見ていないだろう。12時45分。13時まで15分早いがノックして部屋に入ってみるか。怪しかったら帰らなくちゃいけないし。俺は思い切って扉を叩いた
「失礼します!」
ドアを開けるとそこには、一人の男が座っていた。年齢は30代?いや20代にも見えるほど若い。座っているがかなり長身なのがわかる。しかし気怠そうな雰囲気で、こちらをまったく見ない。終止、身につけている腕時計のベルトのあたりをいじってる。もしかして俺は部屋を間違えたか?
「あ、早かったですね、戸山渉さん。まぁ座ってください。他の2人が来たら始めましょう」
部屋はここで良いみたいだ。俺は左端の席についた。あれ?応募書類には写真を貼るところはなかったはずだぞ?それにあと2人しか候補者がいないのか。っていうか、よく見るとコイツ、どこかで見たことある顔だ。だから、俺のことを知っているのか・・・?
「失礼します!」
突然扉が開いた。ドスが効いた声。先ほどの俺の「失礼します!」もこんな感じだったんだろうか。いや、俺はもう少し遠慮がちだったはずだ。入ってきた男は、肩幅がでかくて、筋肉質な色黒。はっきり言って恐ろしい風貌。絶対にコイツを怒らせてはいけない。まぁ背が低いのがせめてもの救いだ。
「帝都工業大学の吉岡剛志さんですね。どうぞ、座ってください。あと1人か。これなら時間前に始められそうだ」
吉岡と呼ばれた男は真ん中の席についた。落ち着いたところで沈黙が流れる。部屋は高校とかで使う教室くらいの大きさ。太陽の光がホワイトボードに反射して眩しい。しかしそれ以外は少し暗い部屋だ。電気は着いているが、光が弱い。そのせいか、面接官の男がよりいっそう気怠そうに見える。
「失礼します、日本茶大の斉藤結衣佳です」
女性の声が響いた。意を決して扉を叩いたが、途中で恥ずかしくなり、語尾の音が擦れてしまった印象だ。いかにも弱々しい世間知らずのお嬢様って感じの女性がそこには立っていた。よくこんなお嬢がこの古いビルに1人で入ってきたな。ノーメイク。高級そうなコートを手に持ち、これまた高級感があるスーツを着ている。顔はかなり可愛い部類なのに、オシャレにいっさい気を使わないであろう日常が、その所作からスーツ姿でもわかってしまう。雰囲気美人という言葉があるが、その真逆。・・・雰囲気ブス。いや、そういう言葉はよくない。
「皆さん、そろいましたね。斉藤さん、どうぞ座ってください」
正面の面接官が喋りだした。俺は次に続く展開がまったく読めず、彼の言葉を待った。
「さて、皆さんのなかで私をご存知の方はいらっしゃいますか?」
「はい!」
「はい、斉藤さん。どうぞ、仰ってください。私は誰でしょう?」
「貴方は研究コンサルタントで有名な野崎正洋先生です」
「その通りです。斉藤さんには10ポイントだな」
面接ということを忘れていた。コイツのことを知らないと落とされるかもしれない。一瞬そんなことを思って、我に返った俺は「そんなわけあるか!何だコイツ、遊んでいるのか」と思った。このやり取りをしている間も、野崎は誰とも目を合わせず、腕時計のベルトばかりをいじっている。それにしても、そうか、コイツは野崎とかいう研究評論家か。研究不正とかあったときに、テレビでコイツがコメントしているのを見る。本職は研究コンサルタント。研究コンサルタントとして、様々な研究室をそれなりに立て直してきた逸材だ。彼が手がけた研究室は必ずしも論文が量産されるようになるわけじゃないが、質の高い研究に従事するようになると言われている。確か野崎のもともとの専門は応用数学で、大学院生の頃から頭がものすごく良かったが、あまりに頭が良すぎて博士号をとるのがばかばかしくなってしまった、とどこかに書いてあった。テレビのときはもっと堂々としているが、実際に会うとこんなにも弱々しいヤツなのか。そんな野崎がまた予想外のことを話し始めた。
「さて、私が誰かわかったところで、皆さんから何か質問はありますか?」
面接にも拘らず、最初から候補者に「質問はありますか?」と訊く面接官はまずいないだろう。すると、吉岡がゴツい右手を高らかに挙げた。
「えーっと、途中で募集をやめたのはなぜですか?」
「早い者勝ちにしたかったからです」
野崎はあっさり答えた。吉岡は不満そうだ。「それはなぜ?」と訊きたかったが、それより重要なことを俺は訊いてみることにした。
「候補者はこの3名だけですか?」
「そうです。そして、あなた達でほぼ決定です。よほどのことがなければね」
またも野崎はあっさり答えた。この面接の雰囲気でよほどのこととはどういう事態が想定されるのだろう?
「他に何か質問はあります?そんなもんですかね」
「まだあります!」
吉岡が野崎の質問コーナーの収束に待ったをかけた。
「そもそも、資金はどこからでているのですか?面接官は野崎先生、貴方だけなのでしょうか?」
「資金は私の依頼人から出ています。私の依頼人は、是非この資金で、非常に価値のある、この研究目的を達成してくれ、と仰っており、私に一任されました。ですから、面接官および審査官は私だけです。どうぞご心配なく」
「ちょっと待ってください。研究目的がすでにあるってことは、遂行すべき研究内容は決まっているんですか?」
「そうです。研究テーマはこちらから強制的に与えます。そもそも、どこぞの審査でもよく行われているように、あなた方にこちらが求めているモノを予測してもらって、プレゼンという大義名分のもと、あなた方がその予測に対してあたかも本当に興味を持っているかのような演技をわざわざしてもらって、その予測と演技を観察することで、私ども年上の人間があなた方の上位互換になれているかどうかを確認する、なんて審査方法、まどろっこしいし、時間の無駄でしょう?だいいち、誰が、学推も取れない、論文も一本も書いてない、博士課程進学予定者と名前がついている、ただの社会不適合者たちが提案する研究内容に、無制限の研究費を渡すと思うんですか?」
「え?研究費は無制限なんですか?」
途中までかなりムカついて訊いていたが、最後の言葉が意外すぎて俺は思わず声をだしてしまった。
「あれ?募集に書きませんでしたっけ?そうか。ポケットマネーの額は書いたけど、研究費は書かなかったのか。まぁ私を通さなくちゃいけませんが、事実上無制限ですよ」
そんなプロジェクト、他に聞いたこと無い。どんなに大御所の教授でも無制限と言うことは無いはずだ。すると、しばらく黙っていた斉藤が話し始めた。
「私、確かに自分には能力が足りないとは思いますけど、自分で主体的に研究できないなら、この話からは降ります。そもそも野崎先生は博士号を持っていないじゃないですか?」
「勇み足は危険ですよ。最後まで話をしましょうよ」
「でも!」
「まぁまぁ、とりあえず待ってくださいよ。ところで、あなた方の研究の目的はなんですか?戸山さんから訊いてみようかな」
いきなり自分に話をふられたので、びくっとしながら俺は答えた。
「えーっと、大腸菌の分裂に関するタンパク質でMinファミリーと呼ばれる一連のタンパク質があるんですけど、それらの遺伝子の欠損株で・・・」
「待って」
「はい?」
「細かいことはどうでもいい。貴方の研究テーマに私はいっさい興味ないから。意味も無いと思うし。そうじゃなくって、どうして博士まで行って研究したいの?ってことを普通に教えてください」
研究の目的、と言った場合、研究内容の詳しい説明をするのが普通だと思うが、本格的に、なんなんだ?こいつ。待て待て、落ち着け、俺。こいつは煽っているだけだ。これはあくまで面接。怒ってはいけない。
「わかりました。僕のモチベーションをお話しさせていただきます。僕の所属している渡辺研究室では、古典的な分子生物学の手法だけでなく、生物物理学的な視点で生命を観察してタンパク質の性質を明らかにすることが、僕にとって非常に斬新で・・・」
「ダウト!」
今までそっぽ向いて話していた野崎が、急にこちらを見つめ、人差し指で俺を指しながらそう言ってきた。他の2人も驚いている様子だ。さらに、口調をがらりと変えて野崎は続けた。
「私が突然予想外のことを喋りだして、答えなくてはいけなくなってから約1.5秒間。右側をチラ見して私の足のあたりを見ながら話し始めた。君は嘘をついている可能性が高い」
野崎の言う通り、生物物理学的な視点が俺にとって斬新だ、なんて確かに嘘だ。だが、そういう場だろ?興味あるフリをする場だろ?それとも、もしかして、取り繕う場ではないのか?野崎はまた自分の腕時計のベルトのあたりをいじりはじめた。
「私が訊いているのは、君の本当の進学理由や進学目的だ。博士号取得者の8%は死亡または行方不明、という有名な文章もネットに出回っている。それなのに君は博士課程に行こうとしているんだろう?それを踏まえた上で、もう一度答えてもらおう」
こうなったら一か八か。
「そうですね。まぁなんというか。環境ですかね。うち、姉も博士課程に在籍していまして・・・」
「なるほど。わかりました。最初からそうやって答えてくれれば良いんですよ。私は貴方の能力や貴方が興味を持っていると言っていることに対して、まったく関心は無いんですから。次は吉岡くんですね。貴方は酵母を使って研究してるんですね。まぁ当然、そんなこともどうでもいいですが」
おい、野崎、待て。俺はまだ答え終わっていないぞ?それだけで何がわかったというのだ?俺の気持ちを無視して吉岡は答えた。
「僕は死ぬのが怖いんです。だから生命の研究を選びました」
「おお。まともな理由だねぇ」
「死ぬのが怖くて仕方ない。だから身体を鍛えることと生命の神秘を探究することの2つを選んできました。でも生物系の研究って、タンパク質の性質を解明するだけで、とてもじゃないけど生命の神秘までたどり着く気はしません。そう思って最近は物理を少しずつ勉強していますが・・・」
この筋肉質の男が、死ぬのが怖いだと?予想に反してまっすぐなモチベーションで、俺はちょっとビックリした。
「オーケー。わかった。まぁ、斉藤さんは、別に答えなくていいや」
「な、なんでですか?!」
「君の研究テーマはゲルの有機合成か。新しいゲルを作ることに理学的な意味なんてないでしょうし。どーせ、両親ともに博士号持っててアカポスだから、自分も、ってだけですよね?」
斉藤は何も言わなかった。俺は流石に苛立ちが抑えきれなくなって野崎に言い返した。
「野崎さん、いいかげんにしてください!俺たちは選ばれているはずなのに、なんでそんなに他人の研究を『興味がない、価値がない』って言いまくるんですか?僕らは僕らなりに、誰もまだ知らないことに対して挑戦して邁進しようとしているんです!」
「じゃぁ」と野崎が切り出し、
「少しは能力も試されてみる?」
「望むところです」
「そこにさ、ホワイトボードがあるから、ちょっと計算してみてもらっていいですか?私の専門は数学ですから、数学の問題にします。といっても、簡単ですから安心してください。そうですねぇ、何が良いかなぁ。そうだ。では、dx / sin xを不定積分してください。とっても簡単でしょ?面倒だから3人協力でいいよ」
俺は背筋が凍った。これはランダウが自動車事故で意識を取り戻してすぐに、自分の息子に出した問題だ。結末が読めてしまう。大学院入試以来、こういう緊張感があっただろうか?理論研の大学院生だったら、もしかしたらこの類いの緊張感は日常的にあるのかもしれない。でも、この簡単な問題でこのシチュエーション、まさか高校生ができる問題が自分にできないかもしれないことを認められない。他の誰か、できないのか?きっとできないだろう。吉岡は物理をやりはじめたばかり。斉藤さんの専門はおそらく化学だ。あたふたしている俺を見かねてか、冷酷に野崎は言葉をかける。
「どうしたんですか?早く立ってホワイトボードまでいって、書いてください。日本の理系大学院生なら誰でもできるでしょう?」
無理だ。たしかtan (x/2) = tとおけば、あらゆる三角関数で表された関数を積分できたはずだが、sinがどうなるかcosがどうなるか、dt/dxがどうなるか、忘れてしまっている。
「はい、時間切れ。私のわりに、今日は結構待ったよ?こんなの、分母と分子にsin xかけて、部分分数分解するだけでしょ」
俺は物理学科出身なのに、こんな積分ももうできなくなっているのか。ぐうの音もでない。だが、言い返さないといられない俺は、とにかく言葉を探してみる。
「受験の頃はできましたよ。それに、こんなテクニカルな積分、僕の分野ではできなくても問題ないです」
「戸山くん。君はさっき、誰も未だわかっていないことを自分なりに邁進しようとしている、と言いましたよね?誰も知らないことをやるんだから、人類がマスターしてる基本的な技能はある程度はすべからくできなくちゃ、それが達成される確率は極端に下がることはわかるよね?それもさ、私は何も大学専門課程の内容を訊いたわけじゃないよ?高校数学の内容だよ?」
わかっているさ。でも、そういう環境じゃないんだ、大学院って場所は。
「こんな問題もできなくて、どうするんだ、君たちは」
ほら。やっぱり、ランダウの息子と同様に、こうやって言われる。野崎はまだ言葉を止めない。
「特に戸山くん。表情から察するに、君はこの問題がランダウの出した問題だって知ってたよね?歴史的な事実だけを表面的にお話だけ知っていて、肝心の中身を自分が本当にできるかどうかチェックしていない。お話だけ沢山訊いて、自分で理解した気になって、自分は知っているから!と、薄っぺらい知識の多さを理由に、自分以外のすべての人間を心の底でバカにし続けている。その態度は、dx / sin xの積分ができないこと以上に、研究者を志すのなら、致命的なんじゃないか?」
「今の時代に、そんな単純な積分、検索すればいくらでも出てきますよ!」
俺は言葉を振り絞った。そうだ!俺たちは検索しなかっただけだ。
「じゃぁ、検索すれば良かったんじゃないですか?スマートフォン持っているんでしょ?」
「それをしていいか、僕たちはわかりませんでした」
「じゃあ、私に確認すれば良かったでしょう?その反論はおかしいです。おそらく君は、実際にとにかく答えを引きずり出してきてやるという気持ちよりも、こんな問題くらいで検索してしまうのは恥ずかしいという気持ちのほうが、勝ってしまったのでしょう。違いますか?」
確かにその通りだ。自分のちっぽけなプライドが許さなかっただけだ。検索してしまえば良かった。そうすれば少なくとも積和の公式から求められた。
「でもまぁ、これが実際にできなかったのは、あなた達の責任ではないんですけどね。なるほど、適度に研究業界に怒りがあり、適度に無能。私が指示を出しやすそうです。わかりました、とりあえず、こちらとしては、皆さんは合格です」
え?これだけ恥をさらされて、合格は合格なのかよ。おい。よくわからないぞ、説明しろ。っと思っていると、野崎が予想外の言動にでた。
「先ほども言った通り、研究費は無制限に出ますし、年2000万円の支給はお約束します。私からテーマを設けて、皆さんには4月から私が指示する共同研究先で研究していただきます。皆さんは全員そのまま今の研究室に所属する予定なわけですが、私が新たに与えるテーマを博士課程のテーマとしても良いですし、今の指導教員と話し合ってテーマを複数持つことも良いでしょう。ただし、このRC制度を通じて皆さんが思考することは殆どありません。私が指示を出すことが多くなってしまうでしょうから。それでも良いのなら、ここに1000万円が入ったスーツケースが3つありますので、1人1つ受け取ってください。もう1000万円に関しましては、出来高払いになります」
なんだと?今日合否が出て、しかもお金はキャッシュなのか!!なんてイレギュラーなやり方なんだ。ただビックリしていると、斉藤さんが立ち上がった。
「私、帰ります。研究ができないなら意味が無いですから。お金で揺らぐような野蛮な研究者になりたくないですし」
そう言い残すと、斉藤さんは部屋から出て行った。あっという間だった。すると野崎が立ち上がり、正面を見つめて言葉をかけてきた。
「さて、戸山さんと吉岡さんはどうされますか?」
俺は悩んだ。話の筋は大方通っているし、怪しくはない。野崎はムカつくが、それなりに経験もあるのだろうし、賢さを漂わせている。野崎は確かバークレー工科大学出身だったはずだ。こいつの思考力を間近で見られるのは貴重な経験だろう。それに、おそらく金持ちであろう斉藤さんが、「金で揺らぐような野蛮な」と言ったのが気になる。それは金持ちの意見だ。金が無い一般人である俺には、金は重要だ。と思っていると、吉岡が突然声をあげた。
「僕、やります」
「ありがとう。よろしくね。で、戸山さんはどうしますか?」
「わかりました、僕もやります」
「それでは決定ですね。わかりました、ではスーツケースをお持ちください。それから、これが交通費です。斉藤さんにも渡さなくちゃいけないな。いいですか、スーツケースのなかは大金ですから、まずは必ず家に直行してください。とりあえず家に持って帰って、それから銀行に預けるなり、ちょっとずつ財布に入れて使うなりしてください。では、お気をつけて、各自、お家まで帰ってくださいね。あ、それと、今日はあくまで内定ということで。正式には3月にまた集まっていただくと思います。それまでこの件はSNSではもちろんのこと、友人や、なるべくならご家族にも内密に。では」
野崎はそう言って、自ら部屋を出た。俺と吉岡もビルから出て、大崎駅へ向かった。
吉岡は無口だ。一緒に歩いているのに殆ど何も喋らなかった。せいぜい、都王大と帝工大の立地条件の話とか、そんなもんだった。吉岡はそのまま目黒まで歩くらしい。大崎駅まで行く途中で別れた。しかし変な話だった。変なヤツが、変な提案をして、恥をかかされて、いきなり現金を渡された。現金だ!今、俺は1000万円手にしている。やった!これは学推に落ちたことなんて、比にならないくらい嬉しいことだ。空も青く感じる。晴れやかだ。早く帰ろう。早く帰って、このことをとりあえず彼女の香奈に話してやろう。これで俺が将来性は抜群であることを認識させられるだろう。村川にも話そう。これで俺と村川は対等さを保てるかもしれない。
しかし良いことは長くは続かなかった。後ろから何者かにいきなり肩を叩かれたと思ったら、思いっきり倒されてしまった。なんだ?俺は一瞬何が起きたのか分からなかった。
「おい、そのスーツケース、よこせよ」
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2. 野崎の目的/『研究コントローラー』につづく
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2016年1月9日(土)
「これマジか?!おい戸山、これ見てみろよ。お前にこれ良いんじゃね?ほら、年収2000万円ってやばくね?」
村川のこの一言がことのはじまりだった。慣れないスーツを着ながら山手線で去年の10月のことを俺は一人思い出していた。
あのとき、同じ研究科内で唯一の友達である村川晋也と二人で飲んでいると、彼は自分のスマートフォンを俺に見せつけながら、いつものノリの良さで話しをふってきた。俺ら二人は都王大学大学院修士課程2年に在籍している大学院生だ。俺は生物物理学の研究室に在籍していて、彼は素粒子の分野を研究している。俺と村川は、今はほぼ同じ状況だが、来年度からお互いの立場はまったく異なってしまう。村川は来年度から大手企業で技術営業職に就く予定だが、俺は博士課程進学予定でこれからまだ3年間も不安定な学生生活が続くことが決まっている。天下のナンバーワン国立大学、都王大学の大学院生なんだから安泰だとか世間から思われているようだが、実際はそんなことはない。同年代の殆どが働きだしているのに、大学院で博士課程まで進んでしまう者はストレートの大卒よりも5年も長く社会に出ずに学生のまま。そもそも俺は学部は地方公立大学出身だし、世間で思われているよりも遥かにリスクが高い。しかも、博士号がストレートで取れるとも限らない。さらに、博士課程修了後の就職先は全然ないし、就職先のほとんどが有期雇用のアカデミックポストだ。
そんな博士課程という名の、ある種の絶望的なモラトリアム期間に突入していく感覚を少しだけ払拭してくれるのが、学術推進会の特別研究員だ。通称、学推。有能な博士課程の学生に博士課程3年間の間に月20万円支給してくれる素晴らしい制度が学推だ。修士課程2年の5月に研究計画書やこれまでの研究内容をまとめた書類を提出して審査され10月に結果が出るのだが、残念ながら俺は落ちてしまった。そういえばあの時は、そんな俺を慰めてくれようとして、村川が飲んでくれてたんだっけ。
村川が見せてくれたのはただの広告だった。この手の募集のわりには派手な広告だ。SNSで出回っている「学推に落ちたヤツ必見!年収2000万!」という文章。そのウェブサイトをクリックすると
『RC研究振興補助制度。来年度博士課程に進学予定の現在修士課程2年に在学している優秀な理系大学院生に平成28年度より最大で3年間、年額2000万円支給します。研究費も支給します。定員は若干名。希望者はCurriculum VitaeをこちらのE-mailアドレスまで提出してください。Curriculum Vitaeのフォーマットはこちら。〆切は2015.11.30.まで』
文字にしてこれだけの内容。あとは真ん中にビーカーとか数式とかサイエンスっぽい広告があるだけだ。全体にポップな広告で、はっきり言って怪しい。これなんなんだろう?来年度から就職予定で本来関係ないはずの村川に尋ねてみた。
「これ、どこが主宰しているんだ?」
「え?そんなの学推かJTSか、わからんけど。RCって書いてあるけど、これじゃね?」
「なんの略だろう?リサーチコマンダー?」
「ちげーよ、Resistor–Capacitorだろ」
「もっとちげーだろ笑」
あぁ、話が逸れてしまった。こういうところが村川の良いところであり悪いところだ。ノリが良い分すぐに関係のない方向に行ってしまう。仕方ないので少し自分で考えていると、村川が空気を察して若干の真剣な表情をしながら語りだした。
「でもさ、お前が落ちた学推って月20万だろ。ってことは年240万円にしかならない。それに比べてこれは年2000万円。超イイじゃん。通れば普通に勝ち組じゃん。出してみろよ」
「確かに。だけど怪しいなぁ」
「いや、お前、さっき学推あんなに否定してたんじゃん。あんなの、研究室のPI(Principal Investigator; 研究室のトップの先生のこと)が誰かで選んでるとか、出身大学がどこかで選んでるとか。でも、これは、」
「ちげーのかよ?」
「そりゃ知らねーけど。待てよ。ほら、フォーマットダウンロードしてやるから」
スマホでpdfを読むのは本当に見にくい。読みにくいpdfビューワーでゆっくり拡大しながら見てみると、A4でたった2枚。業績項目を書くところも無ければ、出身大学を書く欄もない。学推では指導教員の評価書が必要だが、これにはそれもない。というか自分の指導教員が誰かすら書く項目が無い。さすがに住所や所属している大学院と研究科を書く欄はあり、修士論文の(予定している)タイトルを書く項目はあったが、あまりにも研究に関することが少なくないか?逆に学推には無かった項目で、このフォーマットにあった項目で気になったのはHobby or Special Skill。
「これって、"趣味や特技"って意味で良いんだよな?」
「たぶん。お前ならプログラミングって書けばいいんじゃない?」
「俺の研究に関係あるかなぁ」
「あるある。あと、合気道も書いとけ」
「いや、それはあまりにも研究に関係なさすぎるんじゃ」
と言ってはみたが、体力があって沢山実験するぜ!ってアピールするために、大学時代ずっとやっていた合気道は確かに妥当な気もしてきた。完全に酔っている。それにしても、英語で書くのは少々面倒くさいが、あまりにも応募書類が簡単すぎやしないか。だが、そんなこと、酔っていたし、学推にムカついていたし、どうでもいいやっと思っていた。俺はえいや!と書いて、それを募集の公告に書いてあったE-mailアドレスに投げた。翌日、自分の応募書類を見直してみるとほぼ完璧ではあったが、完全に酔った勢いだったので、名前だけ「戸山渉」って日本語で書いてしまったのが心残りだ。だがどうせ怪しいし、どっちにしてもあまり期待していなかった。
12月、俺はこの出来事をすっかり忘れていて修士論文を書き上げるのに必死だった。そんな矢先、12/25のクリスマスにメールが入った。件名は「RC研究振興補助制度の結果」と書いてある。俺は一応おそるおそるメールを開いた。本文は短かった。
「貴殿はRC研究振興補助制度の一次選考を通過いたしました。二次審査を行いますので、きたる平成28年1月9日13時、品川区大崎6-10-2の3階に来てください。二次審査は面接です。持ち物は特に不要です。厳密に審査する関係から、この件については他言しないことを厳守してください。交通費は当日支給します。以上」
いったいどれくらいの人が一次通過しているのだろうか?応募した直後、「RC研究振興補助制度」で検索してみたが、何もでなかった。SNSでも「これは釣りだ」という流れだったし、11月に入ってすぐ、まだ〆切の期日を過ぎていないにも拘らず、募集のウェブページも消されていた。だから、俺は二次審査に行くかどうか決めかねていた。修士論文で忙しいし、この怪しい感じはなんとなくイヤな予感がする。正月休みが終わってすぐ、俺は彼女の綾瀬香奈を自分の家に呼び、相談することにした。彼女とは2年前から付き合っている。俺より1つ年上で美大出身。現在はデザイン会社に勤めている。はっきり言って何も考えていないヤツだが、それなりに可愛いし、極たまに秒速で的を射たコメントをする。念のためにとパソコンに保存しておいた応募内容を見せながら、彼女に話しかけると香奈は、
「うーん、確かに怪しいけど、修論ってそんなに大変なの?」
と言ってきた。
「そりゃもう。こんなに文章書くのは初めてだし。あー、ダメもとの割に、なんか知らんけど通っちゃったからなぁ」
「でもさぁ、これって、ただ行くだけでしょ?で、どーせダメもとだったんでしょ?土曜日って、どーせ、渉、寝てるだけじゃん」
「そうだけど、1/9は修論提出間際だから、なんとなく」
「ふーん、まぁ私、理系じゃないからよくわかんないけど。もし2000万円ゲットできたら、なんか高いもの奢ってね」
これだから頭の悪い女は嫌なのだ。2000万円ゲット、ってそういう感覚しか無い。しかも、「美味しいもの奢ってね」じゃなくて「高いもの奢ってね」ってなんだよ。お前、芸術系だろ。もっと自分の価値観に自信を持てよ!と心の中で彼女へのやり取りの不満を呑み込んでいると、ふいに彼女が真剣な表情でこう言ってきた。
「あとさぁ、最初のこの募集の背景にある絵。これって、そんなに、ぱぱっと作った感じじゃないと思うよ?」
そうなのか?さすが芸術系、香奈。ならまぁ行く価値はあるか。
「わかった、ありがとう。微妙だけど、行くだけ行ってみるわ。gogle mapで調べてみたら、大崎駅から徒歩5分くらいで、近いし。絶対になんか無理そうだったり、怪しかったりしたら、途中で帰ってくりゃいいし」
やはり彼女は何も考えていないように見せかけて、洞察力というか判断力というか、なんというか、そういう類いの才能がある。これからもよろしくお願いしまーす。なんて、調子良すぎるか?
そんなことを思い出しながら、いよいよ大崎駅に着いた。メールに書いてあった住所に到着すると、そこはかなり古びたビルだった。土曜日ということもあってか大崎駅周辺は閑散としており、都内とは思えないほど周囲に人がいなかったが、間違いなく面接会場はここだ。3階まで階段で登ると、「RC制度面接会場」と書かれた部屋の前まで着いた。明るい日差しが差し込むが、全体に暗いビルの中はかなり冷えこんでいる。そういえば就職活動ではコートは脱いでからビルに入るんだっけ?ま、いいか。誰も見ていないだろう。12時45分。13時まで15分早いがノックして部屋に入ってみるか。怪しかったら帰らなくちゃいけないし。俺は思い切って扉を叩いた
「失礼します!」
ドアを開けるとそこには、一人の男が座っていた。年齢は30代?いや20代にも見えるほど若い。座っているがかなり長身なのがわかる。しかし気怠そうな雰囲気で、こちらをまったく見ない。終止、身につけている腕時計のベルトのあたりをいじってる。もしかして俺は部屋を間違えたか?
「あ、早かったですね、戸山渉さん。まぁ座ってください。他の2人が来たら始めましょう」
部屋はここで良いみたいだ。俺は左端の席についた。あれ?応募書類には写真を貼るところはなかったはずだぞ?それにあと2人しか候補者がいないのか。っていうか、よく見るとコイツ、どこかで見たことある顔だ。だから、俺のことを知っているのか・・・?
「失礼します!」
突然扉が開いた。ドスが効いた声。先ほどの俺の「失礼します!」もこんな感じだったんだろうか。いや、俺はもう少し遠慮がちだったはずだ。入ってきた男は、肩幅がでかくて、筋肉質な色黒。はっきり言って恐ろしい風貌。絶対にコイツを怒らせてはいけない。まぁ背が低いのがせめてもの救いだ。
「帝都工業大学の吉岡剛志さんですね。どうぞ、座ってください。あと1人か。これなら時間前に始められそうだ」
吉岡と呼ばれた男は真ん中の席についた。落ち着いたところで沈黙が流れる。部屋は高校とかで使う教室くらいの大きさ。太陽の光がホワイトボードに反射して眩しい。しかしそれ以外は少し暗い部屋だ。電気は着いているが、光が弱い。そのせいか、面接官の男がよりいっそう気怠そうに見える。
「失礼します、日本茶大の斉藤結衣佳です」
女性の声が響いた。意を決して扉を叩いたが、途中で恥ずかしくなり、語尾の音が擦れてしまった印象だ。いかにも弱々しい世間知らずのお嬢様って感じの女性がそこには立っていた。よくこんなお嬢がこの古いビルに1人で入ってきたな。ノーメイク。高級そうなコートを手に持ち、これまた高級感があるスーツを着ている。顔はかなり可愛い部類なのに、オシャレにいっさい気を使わないであろう日常が、その所作からスーツ姿でもわかってしまう。雰囲気美人という言葉があるが、その真逆。・・・雰囲気ブス。いや、そういう言葉はよくない。
「皆さん、そろいましたね。斉藤さん、どうぞ座ってください」
正面の面接官が喋りだした。俺は次に続く展開がまったく読めず、彼の言葉を待った。
「さて、皆さんのなかで私をご存知の方はいらっしゃいますか?」
「はい!」
「はい、斉藤さん。どうぞ、仰ってください。私は誰でしょう?」
「貴方は研究コンサルタントで有名な野崎正洋先生です」
「その通りです。斉藤さんには10ポイントだな」
面接ということを忘れていた。コイツのことを知らないと落とされるかもしれない。一瞬そんなことを思って、我に返った俺は「そんなわけあるか!何だコイツ、遊んでいるのか」と思った。このやり取りをしている間も、野崎は誰とも目を合わせず、腕時計のベルトばかりをいじっている。それにしても、そうか、コイツは野崎とかいう研究評論家か。研究不正とかあったときに、テレビでコイツがコメントしているのを見る。本職は研究コンサルタント。研究コンサルタントとして、様々な研究室をそれなりに立て直してきた逸材だ。彼が手がけた研究室は必ずしも論文が量産されるようになるわけじゃないが、質の高い研究に従事するようになると言われている。確か野崎のもともとの専門は応用数学で、大学院生の頃から頭がものすごく良かったが、あまりに頭が良すぎて博士号をとるのがばかばかしくなってしまった、とどこかに書いてあった。テレビのときはもっと堂々としているが、実際に会うとこんなにも弱々しいヤツなのか。そんな野崎がまた予想外のことを話し始めた。
「さて、私が誰かわかったところで、皆さんから何か質問はありますか?」
面接にも拘らず、最初から候補者に「質問はありますか?」と訊く面接官はまずいないだろう。すると、吉岡がゴツい右手を高らかに挙げた。
「えーっと、途中で募集をやめたのはなぜですか?」
「早い者勝ちにしたかったからです」
野崎はあっさり答えた。吉岡は不満そうだ。「それはなぜ?」と訊きたかったが、それより重要なことを俺は訊いてみることにした。
「候補者はこの3名だけですか?」
「そうです。そして、あなた達でほぼ決定です。よほどのことがなければね」
またも野崎はあっさり答えた。この面接の雰囲気でよほどのこととはどういう事態が想定されるのだろう?
「他に何か質問はあります?そんなもんですかね」
「まだあります!」
吉岡が野崎の質問コーナーの収束に待ったをかけた。
「そもそも、資金はどこからでているのですか?面接官は野崎先生、貴方だけなのでしょうか?」
「資金は私の依頼人から出ています。私の依頼人は、是非この資金で、非常に価値のある、この研究目的を達成してくれ、と仰っており、私に一任されました。ですから、面接官および審査官は私だけです。どうぞご心配なく」
「ちょっと待ってください。研究目的がすでにあるってことは、遂行すべき研究内容は決まっているんですか?」
「そうです。研究テーマはこちらから強制的に与えます。そもそも、どこぞの審査でもよく行われているように、あなた方にこちらが求めているモノを予測してもらって、プレゼンという大義名分のもと、あなた方がその予測に対してあたかも本当に興味を持っているかのような演技をわざわざしてもらって、その予測と演技を観察することで、私ども年上の人間があなた方の上位互換になれているかどうかを確認する、なんて審査方法、まどろっこしいし、時間の無駄でしょう?だいいち、誰が、学推も取れない、論文も一本も書いてない、博士課程進学予定者と名前がついている、ただの社会不適合者たちが提案する研究内容に、無制限の研究費を渡すと思うんですか?」
「え?研究費は無制限なんですか?」
途中までかなりムカついて訊いていたが、最後の言葉が意外すぎて俺は思わず声をだしてしまった。
「あれ?募集に書きませんでしたっけ?そうか。ポケットマネーの額は書いたけど、研究費は書かなかったのか。まぁ私を通さなくちゃいけませんが、事実上無制限ですよ」
そんなプロジェクト、他に聞いたこと無い。どんなに大御所の教授でも無制限と言うことは無いはずだ。すると、しばらく黙っていた斉藤が話し始めた。
「私、確かに自分には能力が足りないとは思いますけど、自分で主体的に研究できないなら、この話からは降ります。そもそも野崎先生は博士号を持っていないじゃないですか?」
「勇み足は危険ですよ。最後まで話をしましょうよ」
「でも!」
「まぁまぁ、とりあえず待ってくださいよ。ところで、あなた方の研究の目的はなんですか?戸山さんから訊いてみようかな」
いきなり自分に話をふられたので、びくっとしながら俺は答えた。
「えーっと、大腸菌の分裂に関するタンパク質でMinファミリーと呼ばれる一連のタンパク質があるんですけど、それらの遺伝子の欠損株で・・・」
「待って」
「はい?」
「細かいことはどうでもいい。貴方の研究テーマに私はいっさい興味ないから。意味も無いと思うし。そうじゃなくって、どうして博士まで行って研究したいの?ってことを普通に教えてください」
研究の目的、と言った場合、研究内容の詳しい説明をするのが普通だと思うが、本格的に、なんなんだ?こいつ。待て待て、落ち着け、俺。こいつは煽っているだけだ。これはあくまで面接。怒ってはいけない。
「わかりました。僕のモチベーションをお話しさせていただきます。僕の所属している渡辺研究室では、古典的な分子生物学の手法だけでなく、生物物理学的な視点で生命を観察してタンパク質の性質を明らかにすることが、僕にとって非常に斬新で・・・」
「ダウト!」
今までそっぽ向いて話していた野崎が、急にこちらを見つめ、人差し指で俺を指しながらそう言ってきた。他の2人も驚いている様子だ。さらに、口調をがらりと変えて野崎は続けた。
「私が突然予想外のことを喋りだして、答えなくてはいけなくなってから約1.5秒間。右側をチラ見して私の足のあたりを見ながら話し始めた。君は嘘をついている可能性が高い」
野崎の言う通り、生物物理学的な視点が俺にとって斬新だ、なんて確かに嘘だ。だが、そういう場だろ?興味あるフリをする場だろ?それとも、もしかして、取り繕う場ではないのか?野崎はまた自分の腕時計のベルトのあたりをいじりはじめた。
「私が訊いているのは、君の本当の進学理由や進学目的だ。博士号取得者の8%は死亡または行方不明、という有名な文章もネットに出回っている。それなのに君は博士課程に行こうとしているんだろう?それを踏まえた上で、もう一度答えてもらおう」
こうなったら一か八か。
「そうですね。まぁなんというか。環境ですかね。うち、姉も博士課程に在籍していまして・・・」
「なるほど。わかりました。最初からそうやって答えてくれれば良いんですよ。私は貴方の能力や貴方が興味を持っていると言っていることに対して、まったく関心は無いんですから。次は吉岡くんですね。貴方は酵母を使って研究してるんですね。まぁ当然、そんなこともどうでもいいですが」
おい、野崎、待て。俺はまだ答え終わっていないぞ?それだけで何がわかったというのだ?俺の気持ちを無視して吉岡は答えた。
「僕は死ぬのが怖いんです。だから生命の研究を選びました」
「おお。まともな理由だねぇ」
「死ぬのが怖くて仕方ない。だから身体を鍛えることと生命の神秘を探究することの2つを選んできました。でも生物系の研究って、タンパク質の性質を解明するだけで、とてもじゃないけど生命の神秘までたどり着く気はしません。そう思って最近は物理を少しずつ勉強していますが・・・」
この筋肉質の男が、死ぬのが怖いだと?予想に反してまっすぐなモチベーションで、俺はちょっとビックリした。
「オーケー。わかった。まぁ、斉藤さんは、別に答えなくていいや」
「な、なんでですか?!」
「君の研究テーマはゲルの有機合成か。新しいゲルを作ることに理学的な意味なんてないでしょうし。どーせ、両親ともに博士号持っててアカポスだから、自分も、ってだけですよね?」
斉藤は何も言わなかった。俺は流石に苛立ちが抑えきれなくなって野崎に言い返した。
「野崎さん、いいかげんにしてください!俺たちは選ばれているはずなのに、なんでそんなに他人の研究を『興味がない、価値がない』って言いまくるんですか?僕らは僕らなりに、誰もまだ知らないことに対して挑戦して邁進しようとしているんです!」
「じゃぁ」と野崎が切り出し、
「少しは能力も試されてみる?」
「望むところです」
「そこにさ、ホワイトボードがあるから、ちょっと計算してみてもらっていいですか?私の専門は数学ですから、数学の問題にします。といっても、簡単ですから安心してください。そうですねぇ、何が良いかなぁ。そうだ。では、dx / sin xを不定積分してください。とっても簡単でしょ?面倒だから3人協力でいいよ」
俺は背筋が凍った。これはランダウが自動車事故で意識を取り戻してすぐに、自分の息子に出した問題だ。結末が読めてしまう。大学院入試以来、こういう緊張感があっただろうか?理論研の大学院生だったら、もしかしたらこの類いの緊張感は日常的にあるのかもしれない。でも、この簡単な問題でこのシチュエーション、まさか高校生ができる問題が自分にできないかもしれないことを認められない。他の誰か、できないのか?きっとできないだろう。吉岡は物理をやりはじめたばかり。斉藤さんの専門はおそらく化学だ。あたふたしている俺を見かねてか、冷酷に野崎は言葉をかける。
「どうしたんですか?早く立ってホワイトボードまでいって、書いてください。日本の理系大学院生なら誰でもできるでしょう?」
無理だ。たしかtan (x/2) = tとおけば、あらゆる三角関数で表された関数を積分できたはずだが、sinがどうなるかcosがどうなるか、dt/dxがどうなるか、忘れてしまっている。
「はい、時間切れ。私のわりに、今日は結構待ったよ?こんなの、分母と分子にsin xかけて、部分分数分解するだけでしょ」
俺は物理学科出身なのに、こんな積分ももうできなくなっているのか。ぐうの音もでない。だが、言い返さないといられない俺は、とにかく言葉を探してみる。
「受験の頃はできましたよ。それに、こんなテクニカルな積分、僕の分野ではできなくても問題ないです」
「戸山くん。君はさっき、誰も未だわかっていないことを自分なりに邁進しようとしている、と言いましたよね?誰も知らないことをやるんだから、人類がマスターしてる基本的な技能はある程度はすべからくできなくちゃ、それが達成される確率は極端に下がることはわかるよね?それもさ、私は何も大学専門課程の内容を訊いたわけじゃないよ?高校数学の内容だよ?」
わかっているさ。でも、そういう環境じゃないんだ、大学院って場所は。
「こんな問題もできなくて、どうするんだ、君たちは」
ほら。やっぱり、ランダウの息子と同様に、こうやって言われる。野崎はまだ言葉を止めない。
「特に戸山くん。表情から察するに、君はこの問題がランダウの出した問題だって知ってたよね?歴史的な事実だけを表面的にお話だけ知っていて、肝心の中身を自分が本当にできるかどうかチェックしていない。お話だけ沢山訊いて、自分で理解した気になって、自分は知っているから!と、薄っぺらい知識の多さを理由に、自分以外のすべての人間を心の底でバカにし続けている。その態度は、dx / sin xの積分ができないこと以上に、研究者を志すのなら、致命的なんじゃないか?」
「今の時代に、そんな単純な積分、検索すればいくらでも出てきますよ!」
俺は言葉を振り絞った。そうだ!俺たちは検索しなかっただけだ。
「じゃぁ、検索すれば良かったんじゃないですか?スマートフォン持っているんでしょ?」
「それをしていいか、僕たちはわかりませんでした」
「じゃあ、私に確認すれば良かったでしょう?その反論はおかしいです。おそらく君は、実際にとにかく答えを引きずり出してきてやるという気持ちよりも、こんな問題くらいで検索してしまうのは恥ずかしいという気持ちのほうが、勝ってしまったのでしょう。違いますか?」
確かにその通りだ。自分のちっぽけなプライドが許さなかっただけだ。検索してしまえば良かった。そうすれば少なくとも積和の公式から求められた。
「でもまぁ、これが実際にできなかったのは、あなた達の責任ではないんですけどね。なるほど、適度に研究業界に怒りがあり、適度に無能。私が指示を出しやすそうです。わかりました、とりあえず、こちらとしては、皆さんは合格です」
え?これだけ恥をさらされて、合格は合格なのかよ。おい。よくわからないぞ、説明しろ。っと思っていると、野崎が予想外の言動にでた。
「先ほども言った通り、研究費は無制限に出ますし、年2000万円の支給はお約束します。私からテーマを設けて、皆さんには4月から私が指示する共同研究先で研究していただきます。皆さんは全員そのまま今の研究室に所属する予定なわけですが、私が新たに与えるテーマを博士課程のテーマとしても良いですし、今の指導教員と話し合ってテーマを複数持つことも良いでしょう。ただし、このRC制度を通じて皆さんが思考することは殆どありません。私が指示を出すことが多くなってしまうでしょうから。それでも良いのなら、ここに1000万円が入ったスーツケースが3つありますので、1人1つ受け取ってください。もう1000万円に関しましては、出来高払いになります」
なんだと?今日合否が出て、しかもお金はキャッシュなのか!!なんてイレギュラーなやり方なんだ。ただビックリしていると、斉藤さんが立ち上がった。
「私、帰ります。研究ができないなら意味が無いですから。お金で揺らぐような野蛮な研究者になりたくないですし」
そう言い残すと、斉藤さんは部屋から出て行った。あっという間だった。すると野崎が立ち上がり、正面を見つめて言葉をかけてきた。
「さて、戸山さんと吉岡さんはどうされますか?」
俺は悩んだ。話の筋は大方通っているし、怪しくはない。野崎はムカつくが、それなりに経験もあるのだろうし、賢さを漂わせている。野崎は確かバークレー工科大学出身だったはずだ。こいつの思考力を間近で見られるのは貴重な経験だろう。それに、おそらく金持ちであろう斉藤さんが、「金で揺らぐような野蛮な」と言ったのが気になる。それは金持ちの意見だ。金が無い一般人である俺には、金は重要だ。と思っていると、吉岡が突然声をあげた。
「僕、やります」
「ありがとう。よろしくね。で、戸山さんはどうしますか?」
「わかりました、僕もやります」
「それでは決定ですね。わかりました、ではスーツケースをお持ちください。それから、これが交通費です。斉藤さんにも渡さなくちゃいけないな。いいですか、スーツケースのなかは大金ですから、まずは必ず家に直行してください。とりあえず家に持って帰って、それから銀行に預けるなり、ちょっとずつ財布に入れて使うなりしてください。では、お気をつけて、各自、お家まで帰ってくださいね。あ、それと、今日はあくまで内定ということで。正式には3月にまた集まっていただくと思います。それまでこの件はSNSではもちろんのこと、友人や、なるべくならご家族にも内密に。では」
野崎はそう言って、自ら部屋を出た。俺と吉岡もビルから出て、大崎駅へ向かった。
吉岡は無口だ。一緒に歩いているのに殆ど何も喋らなかった。せいぜい、都王大と帝工大の立地条件の話とか、そんなもんだった。吉岡はそのまま目黒まで歩くらしい。大崎駅まで行く途中で別れた。しかし変な話だった。変なヤツが、変な提案をして、恥をかかされて、いきなり現金を渡された。現金だ!今、俺は1000万円手にしている。やった!これは学推に落ちたことなんて、比にならないくらい嬉しいことだ。空も青く感じる。晴れやかだ。早く帰ろう。早く帰って、このことをとりあえず彼女の香奈に話してやろう。これで俺が将来性は抜群であることを認識させられるだろう。村川にも話そう。これで俺と村川は対等さを保てるかもしれない。
しかし良いことは長くは続かなかった。後ろから何者かにいきなり肩を叩かれたと思ったら、思いっきり倒されてしまった。なんだ?俺は一瞬何が起きたのか分からなかった。
「おい、そのスーツケース、よこせよ」
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2. 野崎の目的/『研究コントローラー』につづく