たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

平等と不平等

2013-11-07 02:06:14 | Weblog
 世界中の誰もが選択肢を共通に持っている状態が一番の理想だ。
 それは、あることを望み、そこに対して直向きに努力してさえ行けば、必ず得られるという意味である。こういうことこそが、平等だと思う。

 でも、それまでの履歴を一切考慮せずに、いきなりそこから平等、ってしてしまうことの不平等さを、平等だと定義している、間違ったケースを社会ではよくみかける。
 例えば、理系と文系は対等ではないと俺は思うし、理系のなかの各分野についても対等ではないと思う。それなのに、無理矢理に分野を平等化して、すべてを平均場に落としてしまうことは、全体の士気を落とすことになる。理系は文系よりも給与を貰うべきだと思うし、物理系の研究の科研費配分やNatureとScienceの採択はもっと多くすべきだ。ファクターがあるからって対等にしてしまえば、確かに対等にはなるが、平等ではない。
 そんなんだから、みんなラクなほうへ行こうとするし、ラクなほうへ行くことが賢いことのように促されるのだ。

 一般に、ネットワークのなかでは、要素数が少なければ競争が激しくなり、多ければ順番が大事になる。
 だいたいは多いときで平等か不平等かを考えればいいわけだけど、果たして、順番を大切にする、よーわ年功序列、って平等かな?そして、そのネットワークに入らない、つまり上の言うことを絶対視しないんだったら、完全に自分の力でどうにかしてね、ってやるのは、本当に平等??

 当然、今のこの世界は平等ではない。
 俺がアフリカ生まれであれば、今、こうやってこんな風に思考力を巡らせられているかどうか、わからない。こうなりたいと思ったとしても、大学に通うことだって(俺の持っている遺伝子としての実力じゃ)困難だと思う。

 平等か不平等かを考えるときに、大事なのは未来への選択肢であって、それが均等になっているなら平等であり、上から即物的な何かをただ均一に与えることを平等とは呼ばない、むしろそれは不平等なのだ。
 平等という名の不平等の正体は、ここにある。時間依存性をしっかり考えながら解釈すべきだよね。

 最後にひっくり返しておくけど、、社会は、不平等であるからこそ、そこに一個体としての意志が働き、生命として機能する。
 不平等だからこそ、人は頑張るし、他人に対して優しくなれるし、信頼関係も生まれる。

 まぁ、だからって、それを自分の都合のいいように大義名分化してはいけないけど、完全に平衡状態である平等から動的な振る舞いが創発されるわけがないよね?
 人生は魂を鍛える場であると定義するなら、不平等で当然なのだ。ありがたや、不平等。

 だから、極限まで、みんなで楽しもうとしたり、誰かを褒めたり、大切な人を喜ばせたりする価値がある。
 どんなに機械的な振る舞いでも、諦めきってるような不貞腐れてる態度をとっても、それこそ平等のなかに照れ隠しを落とし込んでも、褒めてあげたら、一瞬喜んだ顔をするし、喜ばせてあげれば、必ず煌めく表情が現れる。

 その一瞬だけで、俺は多少損をしても、徳高く生きていこうという気持ちになる。
 平等という虚像を描きながら、不平等を生きよう。誰かを、ありがたい不平等という実空間から理想的な平等という虚空間に引っ張って上げる行為をすればするほど、心は鍛えられるし、一緒に楽しくなれるのだから。
コメント
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