たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

正しさなんてどうでもいい

2011-04-19 00:44:45 | Weblog
 明日(日付は今日ですが)、約1年半ぶりに、教職科目が復活する。
 学部の頃、あんなにイヤで、最低でも4回は本気でやめようと思った教員免許取得ですが、なんとなく、明日は楽しみ。高校の数学・理科の2科目はすでに持ってるので、教職でこれから得るであろう「言葉」は、たぶんあと2つ。1つは昇格、もう1つは付属品かな。

 「この不安定な世の中、教職を担保として考えようというのは、わかります。ですが、皆さん。皆さんも学校教育を長く経験されたなかでわかるでしょうが、どーしようもなくダメな先生ってのは、いたはずです。そして、実際に、その被害を受けている生徒がいて、なかなか見つけにくい、ダメな先生というのはいるんです。そんな先生の被害にあってしまう生徒を作らないためにも、教職をとるからには、担保として考えている人も、教員になりたい人と同様に、教職、そして学業に対して、本気であってください。1%でも教員になる可能性があるなら。」

 という最初の言葉を、あれからここまで5年間は達成したつもりだ。俺の場合は本当に1%以下だけどね。
 周りに流されて、誰かに合わせて取っていた教職が、こんなにも自分のモノになっていることに気が付いたのは、ごく最近のこと。
 あの薄っぺらい世界に週一回でも戻っていくのかと思うと、イラつくはずなのに、わくわくしてる自分がいたりする。

 辞めたかった要因として、『負担が大きすぎるから』ってのも確かに大きかったけど、『薄っぺらいから』ってのも結構あった。
 でも、今は、最後まで、ケジメがつくところまで、教職を取っていて良かったと思っている。一番の収益は「ニセモノは正しさで満ちている」ことをきちんと学ぶことができたことだ。

 当然、逆のことも言えて、理屈が通っていなくてもホンモノは存在する、ってことも、ちゃんと実体験できた。
 相手が支離滅裂なことを言った時に、ただ単純にその間違いを指摘するような、エセ賢いヤローにならずに済んでいるのは、教職のおかげかもしれない。
 今、俺の周囲には、賢い人しか残っていない。彼ら彼女らなら、自分が支離滅裂なことを言ってしまったら、それに気が付いてないわけがない。だから、所詮第三者である俺が、ただの理詰めで問題点を指摘しても、無意味なのだ。

 「No problem can be solved from the same level of consciousness that created it. 」
 問題に気が付くことと、その問題を解決することは、同じレベルで扱うことはできない。原因はそんなバカなことを言わせるような感情が存在していること。
 解決するためには、とりあえず理詰めを無視して、その奥の感情だけを汲もうしないといけない。この慧眼さが、これからもっともっと必要とされていくはずだ。

 っと、これほどの問題提議をしてくれなくても、きっと明日から、取り残してきた「言葉」の中から、まだまだ得られるモノがあるはずだと、思っている。
 今後、いっさい使うつもりが無い「言葉」だけどね。

 っま、私学教員適性検査くらいなら、記念受験してみてもいいけどさぁ(笑)。
コメント
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