たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

フィクション性の高いリアルな言葉

2017-01-07 04:32:21 | Weblog
 100万アクセス達成!本当に皆さん、有り難う御座います。

 これまで沢山文章を書いてきて、沢山の人に読まれて、本当に嬉しい限りです。開設当初から読んでくださっている方も、最近読むようになった方も、本当に有り難う御座います。それから、YouTubeチャンネルでの協力・コラボしてくれた方や、影でこのページを支えてくださってる方も、最近はいらっしゃいます。そんな協力者の方々にも、御礼申し上げます。また、一緒になんかやろう!

 いやー、もともと俺、本当に文章書くの嫌いで、マジでこんなに日課のように書ける日が来るとは、このページを始める前は思ってもみませんでした。もーね、最近は、書きたいことがめちゃくちゃ多くて、実際に書くのが追いついていなくて、どうやって具現化しよう?って状態なんですが、そんなんもこれだけ長く続けていないと思えないことかなぁとも思います。
 しかもここ最近は、研究関連の人たちが中心にこのページを観てくれていますので(いや、、たぶん笑)、そんな現状も有り難いと思っています。

 まぁ、アクセス数なんて、まったくアテにならない数字ではありますが、もともと俺は言葉や数字に騙されるタイプの人間なので、素直に嬉しく思っておりますよ、ほんと。

 これからも、どうぞ、よろしくお願いします。っと、言うわけで、、、今日の文章は以下からスタートです笑


 何事も目標を立てた方が通り道がすっきりして、そこに辿り着くための最短ルートを通りやすくなる。そして、その目標のさらに先に自分なりのフィクションを描いてしまうことで自分を奮い立たせると、より効果的なのだ。

 この世には、多くの人たちが形成するフィクションの総和として君臨する言葉がいくつかある。手にすればそれだけで周囲の人間の殆どが態度を変えるような言葉だ。
 そんな言葉を所有して、普段普通に生活していると、別に大したことは無いと思い込んでしまうが、多くの人にとってのフィクションをリアルに得ていることは、世界を一変させるほどの大きなことなのだ。

 驚異的なフィクション性をリアリティのある言葉として得ることができてしまった"限られた人間"は、その世界でのガチの実力を高める他に道はない。たいていの"限られた人間"は、大衆に対してそのフィクションから目を醒まさせないように薄っぺらい壁を作ってしまうが、その短絡的な優しさはむしろ不幸を助長すると思う。そうではなく、その言葉を得るに値するだけの圧倒的な実力を見せなければ、自分にとって大切な誰かの成長の機会を逃してしまうじゃないか。
 だから、そんな言葉を一度得てしまった限り、実力を向上させないで成り上がろうとすることは、はっきりと罪だ。

 得た言葉を利用して何をしようか?と考えるのではなく、もっともっと、その言葉を彷彿とする集団をより良くするためには自分には何ができるか?と考えなくてはいけない。
 確かに、世界の流れは、「とりあえず自分だけ良ければそれで良い」であることは間違いない。だが、それは、長い目で見たときに長続きしないし、どんな状勢であれクズだし、そういう人たちの自分勝手さによって、大衆のフィクション性は現実のそれとどんどん乖離していき、ついには輝きを失うだろう。自分一人くらい?いつまでそうやって責任逃れをするつもりだい?

 だけども、そうやって価値観が変わっていくのはいいことなのかもしれない。正しい流れなのかもしれない、とも思う。
 混乱期には、実力が必要になる。"限られた人間"としての権威によって自分の妄想に気がつけていない状態が長く続くよりも、とっておきの言葉を得られないで、間違ったフィクションを見続けている方が、どう考えても実力はつく。

 ならば、、俺は、どんなに落ちぶれても、一生つきまとってしまう、この言葉とどう付き合っていけば良いか?
 ここをきちんと考えることが、今後の課題になってくるだろうと思う。ただし、間違っても、くだらない自分の虚栄心を守るために何かを誤魔化そうとしたり、短絡的な自分の利益のために使おうとは思ってはいけないことは、すでにわかっている。

 そう、問題は、一対多ではなくて、サシだ。