たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

8. 放任と管理/『研究コントローラー』

2016-08-31 12:03:26 | ネット小説『研究コントローラー』
 以下はフィクションです。実在の人物や団体などとはいっさい関係ありませんし、サイエンティフィックな内容についても実際には正しいことではないことも含まれます。

前のお話 7. 桜タワー/『研究コントローラー』

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2016年8月31日(水)

 「では、皆さん、普段掃除しているように、掃除してみてください」
 研究コンサルタントの野崎正洋先生が水島研究室のメンバーにむけてそう言うと、少しだけ私に視線を向けた。少し広い実験室に緊張感が走る。有機合成や物性物理などの実験室と異なり、全体に白を感じさせる実験室。高級感という意味では医学部は随一かもしれない。水島研のメンバーたちはどうしたら良いものか?という表情をしながらも、そそくさと各人の担当についた。十分にキレイな部屋に感じたが、野崎先生の視察中の指示には必ず意図がある。
 「この研究室はどうかな?山下くん」
 私は野崎先生に愛想笑いだけを返しながら、視線を床に移した。野崎先生はそんなことを気に留める様子も無く、仁王立ちしている水島教授に微笑を向けながら言葉をかけた。
 「水島先生は、普段、どこを掃除されるのですか?」
 いかにも真面目そうな女子学生が一人、「何を訊いてるんだ、コイツは?」と言わんばかりの表情で振り向いた。水島教授は驚いたように野崎先生を見つめ、少々怒ったように返した。
 「私は教授ですよ?」
 野崎先生は平然としながら、さらりと返した。
 「貴方はこの研究室の責任者のポジションですよね?ここは貴方に分け与えられている部屋ですけど、貴方自身が掃除をしないわけですか?」
 水島教授は、生まれて初めて見た生き物に対面したかのような目で、野崎先生を見つめた。
 「野崎さん。貴方はもう少し大学の事を勉強した方がいいかもしれませんね。普通、大学の教授は論文指導や授業などで忙しくてそんなことはできませんし、貴方の言い方は、教授である私に対して失礼です。そんなことを言う人は、私の長い研究人生のなかで、初めてですよ」
 「なるほど。これは依頼者である澤田教授に報告しなくちゃいけないかもしれないなぁ。それに利害関係がない私のような相手に、教授である私に対して、なんて、権威主義が身体に染み付いているみたいだ」
 水島教授は苦虫を噛み潰したような顔をしながら、それ以上何も言う事もなく、その場を離れ、居室に戻った。

 京阪大学医学部基礎系生体機能学教室の澤田教授の研究室は、RC研究生の一人、斉藤結衣佳が潜入している教室である。斉藤結衣佳は斉藤自動車のお嬢様で、3人のうち唯一自らRC研究生へ志願した勇敢な女の子。彼女からの情報によって、同じ医学部基礎系のゲノム情報学プロジェクトの水島研究室が怪しいということになった。なんでも、水島研はここ1年ほど、やたら失踪の多い研究室として医学部内で認識されており、彼女の友人で被害者候補の一人も、この研究室の一部の実験装置を使用していたらしい。研究コントローラーと名乗る一連の大学院生・若手失踪事件の重要参考人と思われる人物から野崎先生が受け取った手紙に添付されていた被害者リストと照合してみると、被害者候補のうち7人もこの研究室に何らかのカタチで関わっていたことが明らかになった。そして、野崎先生が自ら水島研究室を調べることとなり、澤田教授を通して、研究コンサルタントとしてこの水島研に調査にやってきたのだ。
 それにしても、野崎先生の言い方・考え方は、水島教授のような権威主義者には容認できないであろう。私が昨年度まで所属していた東都科学大の有機合成教室であった村松研でも受け入れられないだろうに、それ以上に権威色が強い医学部でも態度を変えないなんて、この人はいったいどういう育ち方をしてきたのだろう?まぁ、その村松研も野崎先生の力によって解体させられたわけだが、いま思えば権威主義に迎合する姿など、私が野崎先生と出会ってから一度も見た事が無かった。

 「うーん、どうも水島研では、掃除したという既成事実をつくるためだけに掃除をしているように感じる」
 水島研のメンバーが最終的にゴミを一カ所に集め、ゴミ袋を捨てに行くために集まったところを見計らって、野崎先生が語り始めた。リーダー格の、おそらく博士課程の学生だろう、自信に満ちあふれた様子で野崎先生を見つめている。メガネに軽く手をかけながら、野崎先生に対して今にも何かを語る素振りを見せた。野崎先生を見つめてはいるが、どこを見ているのかわからないような視線をしている。こういうタイプは、実は自分固有の価値観がない。理系の男の子に多いタイプだが、私はこういうタイプが苦手だ。いわゆるガリ勉系。推薦入試で大学に入学した私のようなタイプを心から莫迦にしながら、私のルックスだけについては価値があると思っているから、余計に厄介だ。
 「仰っている意味がわかりませんね。そもそも、野崎先生は医学部の研究室について、どれくらいあかるいのですか?」
 ガリ勉くんは野崎先生に挑むように言った。野崎先生の回答を楽しみにしているような素振りもあるが、基本的には、医学部出身以外の人間が医学系の研究室に口を挟むな、と言っているようにも聴こえる。
 「私に意見するとは、君は見込みのある研究医になりそうだね。私がコンサルタントとして適任かどうかに答える前に、将来有望な研究医様に1つ質問がある。医学系の研究室において、掃除の目的とは何かな?」
 見事だ。おそらく野崎先生は、何百人もこういうタイプを見てきているのだろう。相手の質問に答えず、その質問を褒めた上で、質問で返した。将来的に臨床医になり、泊をつけるために博士号を得ようとしているかもしれないのに、その可能性も思い切って除外している。事前調査でもしているのだろうか?とにかく、崩し方としては上出来だ。
 「そんなこと・・・、医学部に限った事じゃないとは思いますが、ホコリやゴミを集めることです」
 さらりと答えたガリ勉くんに対して、野崎先生は勝ち誇った表情をした。そして、ガリ勉くんに指をむけながら、さらりと言った。
 「ほら。君は、掃除をしたという結果として、ホコリを求めている」
 野崎先生の演説に慣れている私には、想像がつく。ここから相手に喋らせないのだろう。
 「まるで、ホコリさえ大量に取ってくれば、掃除をしたのだからそれで良いだろう、と言わんばかりだ。だから、よくよくラボの細かい随所を見てみなさい。例えば、あのPCRが置いてある棚の上のところ。ほら、この裏側、こんなにホコリが貯まっている。掃除が単なる習慣化になってしまっている証拠だ。こういうところを掃除せずに、君たちはPCRをかけているのかい?こういう細かいところを見過ごして、同じところを掃除しまくっても意味が無いのは明らかだろ?」
 ガリ勉くんは言い返すタイミングを伺っている。だが、野崎先生の研究医様に対する進言は止まる気配をみせない。
 「実験系のラボにおける掃除の目的・・・、それは、クリーンな環境を保ち、実験以外に不必要な無駄を排除すること。ホコリを集めることが目的では決してない。この2つの言葉の違いは僅かであるが、決定的に違う、確かな差だ。掃除は現実を見ることが得意でなくては、無意味な行為になりがちなんだよ。そんな基本的なことすらわかっていない君に、私がコンサルタントとして適任かどうかを示す必要はない。それに今回の水島研究室の視察は、医学部長である澤田教授が名指しで私に依頼してくださっているのだ。学生の君にはそんなことを言う権利さえない」
 野崎先生から調査をしたいと言い出したのに、よくもまぁ、いけしゃあしゃあと澤田教授の依頼だと言える。まぁ確かに、表向きは野崎先生の言う通りだから仕方ないのだが。野崎先生は、そう言い残すと、ガリ勉くんの反論を一切待たずに、突然に実験室の外へ出た。広い廊下だ。医学部の研究棟は、他の学部に比べて全体的に広い気がする。野崎先生はいつになく真剣な表情をしている。先ほどまでのおちゃらけた様子は皆無だ。
 「山下くん。私が、あの歯向かってきた彼と話しているときに、視線をフローサイトメーターのほうへ向けた人間はいたか?」
 私は思いがけない野崎先生の質問にビックリした。
 「フローサイトメーターですか?」
 「あぁ、そうか、山下くんは、有機合成が専門だったね。フローサイトメーターは、ラボの出入り口側の左奥にあった、黒い四角い箱みたいな機械だよ。大きなパソコンが一緒においてあった。どちらもSomyの製品だったかな」
 私は野崎先生が言っている機器を思い出しながら、水島研究室の全メンバー8名を思い出していった。
 「いえ、誰一人、そんな素振りはなかったと思いますが・・・、正確には後で確認してください。野崎先生の指示通り、スマートグラスの録画モードはずっとオンですし、だいたいのラボメンバーは撮影できていると思いますから」
 「了解。すると、あの彼と少し話す必要があるな」
 そう言うと、野崎先生は実験室に戻っていった。部屋に戻るなり、先ほどのガリ勉くんが野崎先生に反論してきたようだ。残念ながら、遅れて入った私には聴こえなかったが。
 「ところで、あのSomyのフローサイトメーターだけど、主に誰が使ってるのかな?」
 野崎先生がそう質問すると、ガリ勉くんが得意げに答えた。
 「あぁ、あれは、今、あんまり誰も使ってないですよ。去年は何名か使っていたんですが。なんならログをチェックしますか?」
 野崎先生は頷き、彼をフローサイトメーターのところまで足を運ばせた。他のメンバーは、皆、ゴミ捨てに行ったのだろうか。そう思って周囲を見渡すと、すでに自分の実験台で自分の仕事を始めている者もいた。
 「誰も使ってないわりに、この周辺は細部までやけにキレイだ。この、斉藤って人は誰だい?」
 「その人は、野崎先生の依頼人である澤田先生のところで研究されている人ですよ。あ、でも、正式には澤田研の人じゃなかったと思いますが」
 「この人の他に、最近、この機器を使ったであろう人は誰かいるかい?」
 野崎先生は口調ががらりと変わっている。今は完全に優しいお兄さんモードだ。ガリ勉くんにとって、このギャップは、先ほど恥をかかされたのも忘れるほどなのだろう。
 「実はこのフローサイトメーター、しょっちゅう誤作動するんで有名で、よく業者の人が、ここに来ますよ。といっても、最後に来たのは7月の終わり頃で、お盆前だったかと思いますが」
 「なるほど。その業者の人はいつから担当している?」
 「えっと、去年の1月くらいかな。この装置は2013年くらいからあるんですが。前は誤作動なんて一度も無かったんですが、この1年間くらいはやたらに多いですね」
 「わかった、ありがとう」
 そう言うと、野崎先生は水島研究室を出て行く素振りをした。おっと、と短く言いながら、野崎先生は水島研の全員に聴こえるように次のように言った。
 「皆さん、耳だけこちらに意識を傾けてください。作業を続けたままで結構ですので。まずは掃除を徹底すること。論文を書く前に、もっともっと基本的な事からきちんとしましょう。掃除は現実を見る作業。現実に存在しているホコリから決して目を逸らさないこと。ほら、このドアも、全然掃除していない。いくらラボの中を掃除しても、入り口にこんなにホコリがあったら同じこと。というわけで、掃除が完璧にできるようになったら、またアドバイスに・・・、来ることがあるかもしれないね」
 そう言いながら、研究室を後にして、階段を降りていく。私はそんな野崎先生の後ろに付いていきながら、念のため、意見を言った。
 「あのぅ、視察が終わったこと、水島先生か澤田先生に話さなくて良いんですか?」
 野崎先生はめんどくさそうに、私に言った。
 「心配ない。あとでメールしておく。それよりも結衣佳くんと一刻も早く話さなくては」
 “メール”と言われて、私はパラレルスマホではない、プライベート用のスマホを確認したくなった。彼から連絡が入っているかもしれない。私のせいで、祥太くんがいなくなり、直樹もいなくなってしまった。そんな憔悴しきった私を・・・、理系のなかの鬱屈とした環境に傷ついていた私の心を慰めてくれた彼に、今すぐにでも会いたい。そんな気持ちを抑えながら、私は野崎先生のあとをついていった。

 15時過ぎ。二条の近くの喫茶店に入った、私と野崎先生は、そろそろRC研究生の斉藤結衣佳さんが来るはずだと思いながら待っていた。私と斉藤結衣佳さんは初対面になる。北東大学に潜入している吉岡くんとは先週に同じような仙台市内の喫茶店で会ったが、無口な体育会系で、私としては接しやすい印象を抱いた。彼に新しいパラレルスマホを渡すのが本来の目的だったが、研究室の現状も少し聴けた。彼の潜入しているラボは山井研究室といって、かなりの放任主義らしい。そのせいか、普段からほとんど研究室に人がいないらしいのだ。今回の水島研究室はその逆だ。一挙手一投足を管理されている研究室メンバーが粛々と仕事に取り組んでいる様子だった。
 野崎先生のわりには珍しく、この喫茶店は完全に個室の店ではない。窓際の日当りの悪い席で、お客さんの入りはまばらだし、普通の喫茶店よりは1つ1つのボックス席が閉鎖的ではあるから話をするのに問題は無いとは思うけど・・・、野崎先生は京都周辺の土地に詳しくないのだろうか?それともそもそもそんな店はこの辺にはあまりないのか?
 「あ、野崎せんせーい、こんにちわー」
 後ろから声がした。振り向くと、斉藤結衣佳さんらしき人物が私のことを見ながら野崎に挨拶をした。清楚っぽい服装をしながらも、莫迦っぽい印象を与える童顔な顔。のわりに少しダラしない身体のラインが目立つ。目鼻立ちがくっきりしているわりには、しっかりナチュラルメイクをしている。右手の薬指だけ、ネイルアートをしている。自分でやったのだろうか?サロンに行ったのか?この雰囲気で、本当に医学部に潜入している大学院生なのか?丸の内のOLの平均点よりやや下位といった印象だ。
 「この人はどなたですか?」
 彼女は私の側に座りながら、そう言った。野崎先生が「ほら、前に連絡しただろ?山下美弥子さんだよ、私の雑用を引き受けてくれている」と言うと、「あぁ」と短い声をあげながら、「こんにちわ」と言ってきた。私も「こんにちわ」と返しながら、あー、こういう女、嫌い!と思った。
 「結衣佳くん、さっそくだが、少し聴きたい事がある」
 斉藤結衣佳は野崎先生を見つめ始めた。
 「なんですかぁ?」
 私がいるにも関わらず、野崎先生に対して、語尾をのばすような、この態度だ。私がいなければ、野崎先生に対して敬語も使わないに違いない。
 「水島研のFCM(フローサイトメーター)、最近使っているのは君だけか?」
 斉藤結衣佳は右手人差し指で唇とほっぺたの間を抑えながら、考えている素振りを見せた。
 「そうですね。私も最近使い始めたのでなんとも言えませんが、はい。私の独占状態です」
 「業者の人がよく点検に来るらしいんだが、話した事はあるか?」
 野崎先生がそう言うと、斉藤結衣佳は私のほうを少し見ながら、答えた。
 「いいえ。見た事も無いです。あの装置、そんなに大事なんですか?」
 野崎先生は真剣な表情で言葉を選びながら答えた。
 「あぁ、水島研関連の被害者候補7名全員が、あのFCMを何らかのカタチで使っていた」
 私は驚きながら野崎先生を見つめた。
 「結衣佳くん。本当に気をつけなくてはならないが、FCMを使えている現状はラッキーだ。私がそのように研究テーマを選んだつもりはないからね」
 「人工的に作成した非線形的に振る舞う油滴からマウスまで、運動形態を解析していくなかで、スケールフリーな生命らしい特徴を見出すのが私のテーマではあったのですが、遺伝子改変したある種の細胞が、同じ株のはずなのに個体差として振る舞いが異なるところがありまして。蛍光顕微鏡の観察で、リポフェクションが上手くいっていないものが入ってしまったことは明らかになったのですが、それがだいたいどのくらいの割合か知りたかったので、FCMを使ったのですが・・・」
 「その失敗は、RCとしては、大成功と言える。引き続きFCMを使えるように研究テーマを誘導していくようにしよう、まぁ、誰かに殺されかねないが」
 私は斉藤結衣佳のこの発言を訊いて、はじめて、この人、理系なんだ、っと感じ取った。
 「おそらく、その業者の人というのが怪しい。水島研内に怪しい人間がいないとすると、部外者として最も怪しいのは、業者の人になる。あのFCMだけやけに掃除が行き届いていた。その業者の人が掃除をしている可能性が高い。何かの痕跡を残さないためなのか、本能的に自分の痕跡を残したくないだけなのかわからないけどね。それに、水島研関連で、はじめて失踪があったのが2015年2月。その人が担当についてから、一ヶ月だ。だから十分に気をつけては欲しいが、FCMは使い続けてほしい。その業者の人と探れるようになるまでね」
 業者の人が、失踪になんらか関わっている?どうやって?まぁ、私たちが考えていてもあまり有意義にはならない。野崎先生の指示に従っていればいいのだ。
 「わかりました。いざとなったら逃げるから大丈夫でーす。ねーねー、それより、野崎せんせー、私、ケーキ食べたい。いいでしょ?」
 真面目に犯行内容を考えそうになっていた私を差し置いて、斉藤結衣佳は何も考えていなかった。野崎先生の了解を得ると、斉藤結衣佳は店員を呼んだ。
 「このチョコレートケーキで」
 生クリームがとなりについていて、とても美味しそうだ。「山下くんは?」と野崎先生から促されたが、お昼は天ぷらそばを食べたせいで、まだ、お腹がいっぱいになっている私は断った。
 「吉岡くんが潜入している放任主義の山井研とは対称的に、水島研はかなりの管理主義だったんじゃないですかぁ?まぁ、澤田研も管理主義ですけど、あそこまでじゃないので」
 斉藤結衣佳がそう言うと、野崎先生は身体を背もたれにあずけながら、リラックスした様子で答えた。
 「対称的ではないけど、まぁ、そうだね」
 私は驚きながら、野崎先生に質問した。
 「対称的じゃないって、どういうことですか?放任主義と管理主義。対称的じゃないですか」
 私が所属していた村松研は、今日視察した水島研以上に管理主義だっただろう。なんと言っても、助教の先生がお昼ごはんの時間をストップウォッチで計っているのだから。だから、この野崎先生の微妙な一言がどうにも気になったのだ。私がそう言ったところで、斉藤結衣佳が頼んだケーキが運ばれてきた。オーダーしてから本当にすぐに運ばれてきたなぁと思う。最近のレストランや喫茶店は本当に便利だ。私も斉藤結衣佳も野崎先生の答えを待っている。店員が完全に下がったところで、やっと野崎先生が語りだした。
 「山井研究室は、山井教授がなーんにも指導していない放任主義。ありゃ、多くの修士課程の学生が、ほんのちょこっと進捗した成果を、無理矢理に修士論文にまとめているパターンだ。まぁ、さすがに博士はそうはいかないだろうから、博士課程での留年が多いわけだ。一方の水島研究室は学生に対して、実験のたびに教授の指示が入る。もっとも水島研の連中は、自分たちが指示に従って作業しているだけだということにさえ気がついていないのだろうし、だから実験研究の基本である掃除すら自分で思考しようとしていない。彼らが当たり前になっている研究進捗のやり方こそが、そもそもの水島教授の指示だからだ」
 放任主義の山井研と管理主義の水島研。この両者は、やはり対称的だと思える。
 「放任と管理、この2つはまったく異なる原理に一見すると見える。だが、その本質は、いかに教育をさぼって、研究進捗をそれなりにでっちあげ、業績をあげるか?、という点に集約される点で、同一だ。誤魔化し方が異なっているだけ。山井教授は、あれで多くの学会実行委員のオサを務めていらっしゃる。確か去年までは学科長だったし、今年は入学試験実行委員のオサだったはずだ。論文業績が少ないぶんを外の仕事でカバーして、体面を守っているつもりなのだろう。研究室内部をおろそかにしてしまっているにも拘らず、外の仕事をやけに引き受けてくるのが放任主義の研究室のPIの特徴だ。そして、水島教授は、正式にはすでに定年を迎えた後の特任教授で、他人に対してスケジュール管理的な側面を出しながらも、昨年度、勤務時間中に国会前でデモ行為を行ったりしている。そんな自由奔放なことをするくらいなら、若い世代にポストを空ければ良いのに。あの世代は全共闘の影響もあって、やたらに反権力主義で個人の自由を主張する。つまり、放任と管理は、どちらも、俺は偉いんだ!、という勝手な気持ちをどう表現するか?というだけの差しかないんだ。発現の仕方が違うだけなんだよ。この勝手に振り回される側としては、両者はそんなに変わらない」
 なるほど。要するに、自分勝手な教員について「自分に管理的、他人に放任的」「自分に放任的、他人に管理的」と2種類いるのは確かだが、学生などの弱い立場が被害を被る瞬間は、そんなに変わらないということか。まぁ、確かに。放任主義の研究室では、「君が勝手に自由にやってたんだろ?」と言われて変な評価をされそうだし、それで何年も留年させられることの大義名分にされそうではある。管理主義の研究室でも、ほんの一回の自由度を逆手にとられて「私が指示したのに、それを無視して、君がこれをやったのだろう?」と言われて、同じようになりそうである。野崎先生は、自分の言葉を聞いている素振りを魅せながらも、黙々とケーキを食べている斉藤結衣佳のほうを向いた。
 「それ、美味しい?」
 斉藤結衣佳は驚いたように野崎を見つめながら、ゆっくりと答えた。
 「はい、甘くて、とっても美味しいですけど」
 そう言うと、野崎先生はあきれた表情を見せて、また語りだした。
 「まったく、最近のお嬢様は、これだから困る。そんなものが美味しいわけがないだろう」
 この発言は流石に斉藤結衣佳も気に入らなかったようで、ムっとした表情を魅せた。
 「私が美味しいって思っているのだから、それでいいじゃないですか?」
 それは確かにその通りだ。味覚のセンスまで、野崎先生にどうこう言われる筋合いはない。
 「じゃあ、結衣佳くん、生クリームとホイップクリームの違いは何かな?」
 「え?」
 「生クリームが動物性。ホイップクリームが植物性。本来、そういうチョコレートケーキについてくるのは生クリームなんだけど、そのクリームは明らかにホイップクリームだ。ホイップクリームそのものが悪いわけではないが、そのクリームにはショートニングが入りまくっていて、無理に甘くしている。長期保存できる用に添加物も入っている。そのなかには発がん性物質として名高いトランス脂肪酸も多く含まれているだろう」
 斉藤結衣佳は食べる手を止めて、野崎先生をじっと見ている。
 「ケーキに生クリームが付いてくるのは、本来、ケーキの甘さを口の中で抑えるため。甘さを促進させるためではない。最近、どのクリームをみても病的に白くて、私はそういうものを食べる気がしない。生クリームは、卵白のせいで少し黄色がかり、牛乳の味が全面にするのが普通。まぁ、保存が利かないから、最近じゃあ、少しお金を出す必要がある店でしか食えないが、結衣佳くんはお嬢様だろ。なぜ、そのアドバンテージを活かしていない?」
 斉藤結衣佳は野崎に反論した。まだまだ余裕がある表情だ。
 「そんな事言ってたら、野崎先生、なんにも食べられなくなっちゃいますよ!」
 「現代日本人はそもそもが食べ過ぎなのだ。単に満腹感を得るためではなく、身体に必要な栄養源を接種するのが食事の本来の目的だ。さっきの掃除の目的のロジックと同じだね」
 そう言うと一瞬私のほうを向いて、言葉を止めた。そして、すぐに言葉を続けた。
 「だから、自分の味覚として旨い!と感じるモノと身体が欲しているモノとを、リンクさせなくてはいけない。これが子供がしなくてはならない唯一のことだ。確かに経済格差が広がる現代、旨いモノを旨い!と感じられる味覚をすべての人が持つ事は難しい。だが、結衣佳くん、君は明らかなお嬢様だ。お嬢様で味覚が正しく成長していないのは致命的だと言わざるを得ない」
 「なによ!別にいいじゃない!!おやつのケーキくらい、何を食べても!」
 「あ、いや、私が言いたいのはそういうことではなくて、このように、世の中には、すでに、当たり前だと思っていることのなかに、誤魔化していることが沢山含まれているということ。当人が気がつかないうちに、誤魔化しに利用されていることが沢山ある。だって、君は、この誤魔化しを、美味しいと感じてしまっているんだよ?だから味覚もその1つだし、放任や管理が行き過ぎている研究室に所属している学生も同じことだ。彼ら彼女らは、自分たちが被害にあっていることにすら気がついていない点で、厄介なんだ。掃除をやらされて、研究内容や将来に至るまで自然と管理されているのに、研究はそういうもの、人生はそういうものだと思っている。放任だから、まともな指導を受けておらず、留年を繰り返しているのに、自分の能力が低いから仕方ないと思っている。それは、まるで、このホイップクリームが美味しいって思ってしまうことのようだなぁ、と思って」
 斉藤結衣佳は明らかに拗ねている。彼女の反応に対して、珍しく焦って冗談にしようと言葉を続けている野崎先生を見て、私は少し野崎先生が嫌いになった。私は飽き飽きして、プライベートのスマホを見た。すると、彼から連絡が入っていた。私は二人の目を盗んで、スマホを操作し始めた。
 ―そっちはどう?何か変わった事はあった?
 当初、たわいもないことを連絡できる関係に私は満足していた。先々週から付き合いはじめた私たちは、それだけでは満足できなくなっていた。祥太くんは真面目で優しいけど、死ぬ死ぬ詐欺をしてくるほどに男らしくない。直樹は男らしくてかっこ良かったけど、浮気性でチャラくて優しくなかった。でも、彼は、両方の良いところを持っている。真面目で、誠実で、優しくて、男らしくて、強い。そんな彼のところに早く帰りたいと切に思った。

 山岡研究室に行かなくなってから、もう2ヶ月か。あれから、もともとの所属である都王大の渡辺研究室に少し顔を出したり、彼女の香奈と会ったり、村川と飲みに行ったりしたが、基本的にはこの桜タワー北棟の33階にいる。野崎は「戸山くんにはこのスペースだと広すぎるかな?」などと言っていた。野崎には悪いが、この部屋を最初に見た時、桜タワーのわりには狭いなと思った。しかし、いまは、この部屋が何故か広く感じる。この2ヶ月、俺はすっかり変わってしまったかもしれない。物思いにふけりながら、野崎が作ったRC式モールス信号のテキストを開いて、ネットサーフィンをしていた。どうしても、スマホに手が伸びる。パラレルスマホではなく、プライベート用のスマホだ。別にGPSを利用したゲームをやりたいわけじゃない。位置情報がまるわかりだと野崎にキツく止められていて、なかなかのストレスではあるが。
 香奈や村川はかなり汎用性の高いSMSを使っているが、”彼女”との連絡はそうはいかない。マイナーなSMSアプリを使わざるを得なかった。野崎にバレたら一大事。アプリを開くと、なんとその”彼女”から返信が入っていた。「みゃーこ」と表示が出てきて、彼女の顔を思い浮かべる。
 ―ううん。特にはないかな。野崎先生は相変わらずだけどね。早くワタルに会いたいよ〜
 俺は自分の口角が上がるのを感じながら、どんな返信をしようか少し考えた。早く帰ってこい、と送ろう。だって、一度に二人の女と付き合うコツ、それは、放任と管理をそれぞれに使い分けることだからだ。香奈とはこの2ヶ月、1週間に一度くらいしか連絡をとっていないが、会えば仲良くしていた。美弥子は先々週に付き合い始めたばかりで、お互いの部屋を行き来しまくってるわけではないが、それまでも頻繁に連絡を取っている。そして、今のところ、すべてがうまくいっている。
 どうして、こうなってしまったのだろう?香奈を裏切るつもりはなかった。だけど、あのとき、美弥子が村松研での苦難を話してくれたとき、どうしても抱き合わなくてはいけないような空気を察してしまった。彼女はズルい。受け入れ準備オーケーですという表情の作り方が天才的だったのだ。いや、よくよく考えると、抱き寄せるまでで止めておけば良かったかもしれない。そのあとに、手を繋ぎながらキスしたのが問題だったのだ。後悔はそれなりにあるけど・・・、でも、今はそれでイイと思っている。香奈と美弥子、どちらも幸せにしたい、と真剣に思ってしまっている。この状態って、良くないよなぁ。そんなことを思いながら俺は美弥子に返信した。
 「野崎先生のおもり、お疲れ。俺も早く会いたい。早く帰ってこいよ」
 そう送ると、すぐに返信があった。
 ―さっき野崎先生に言われたんだけど、しばらくこっちにいることになりそう。どうしよう?
 “しばらく”ってどのくらいだろう?1ヶ月以上なら、放任と管理を逆にするか。俺はそう思いながら、”しばらく”の真意を美弥子に訊こうと思った。

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9. 社会統計力学と機械学習/『研究コントローラー』に続く

 事前に読んで添削してくれた方、有り難う御座いました。
 さて、やっと3月分のときの内容が回収できたなぁと。こっから、あと4回で終わらせられるか(笑)
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