人が創る社会のなかで、自然現象を理解するために現象そのものを鑑賞したいのなら、まず最初に、色がついたサングラスをかけなければならない。
日本では、早い人で高校2年生、遅い人で大学2年生で、最初にかけるメガネを決める。色は4種類。青、赤、黄色、緑で、それぞれに特色がある。一色のサングラスを一生かけ続ける人もいれば、俺のように途中でかけなおしてみたりして、結果的に、青、赤、緑の3種類のサングラスをかけることができる人もいる。
青いサングラスは、最も基本的かつ精緻な理屈の立ち位置を利用して、非常によく知られた「お堅い」自然現象を観ることに適している。その分、誰もが根源的に疑問を抱くような興味の対象を選ぶことはできない。
赤いサングラスは、最も関連要素が多い状態を保ちながら自然現象を観ることができる。しかしその分、何を観るべきなのかがいつまでも定まらないという特徴も併せ持つ。
黄色と緑のサングラスは、多くの人が最も関心を寄せている興味を観ることに適している。だが、このサングラスには武器と呼べるものが他のサングラスに比べて極端に少なく、ただ観て終わり、っとなってしまいがちだ。
どれを選ぶのか、高校生の段階で決めるのはちょっと早いけど、そういうことを強要されているのが日本の社会だ。
そして、多くの研究者は、自分と同じ色のサングラスをかけている研究者としか、本当の意味でのディスカッションをしない。これこそが研究の世界で最大のウィークポイントで、他の色のサングラスをかけている人に対しては、それぞれ論でまとめたり、習慣(青ではよく…、緑の世界ではー)で誤魔化したりしてしまう。
ちょっとだけでも、他の色のサングラスを自らかけてみようとすらしない。青の世界はどうなってるんだろう?、赤いメガネで観るとこう観えるのか!っというような喜びを知ろうとしないで、怖がってばかり。
サングラスを外すことは、そんなに怖いことじゃないのにね。
観る対象は当然だがあらゆる自然現象そのものなわけで、確実にそのサングラスで観える自然現象を、すべて観ようとしてしまうのはとても大事なことだ。特に、複雑であらゆる論理体系の例外として扱われるような自然現象の理解に対しては、なるべく多くの種類のサングラスで、多くのモノを観た人が、劇的に進捗させうる。
その瞬間にはきっと、どのサングラスもかけるべきではない。色眼鏡で観ず、ありのままをありのままに理解しようとすることが大事で、それが大切だと思っていない人がとても多い。
ただの習慣で、出すべき数値やデータを決めてはいけないし、実験の計画を立ててはいけない。ある目標に向かって、要所要所で、かけるべきサングラスをかけて確認し、絶対的な論理性の中から、自然現象に宿っているものをいちいち考究しながら抽出する作業、それこそが、いや、それだけが、研究という行為(のはず)だ。
しかし、研究の妨げになるのは、いつも、サングラスの種類であり、かけたことすらないサングラスを全否定したり、自分がずっとつけてきたサングラスに愛着を持ち過ぎているせいできちんとしたディスカッションができないような、人と人との柵だ。
敵は自然現象だ!誰かではない!!これらをぶつけ合わせるならまだしも、そんなくだらないことを心に宿しながらそのまま表面上だけで無理矢理に進捗させようとするから、無駄な作業が増えて、データ量だけは多くなって、時間が無くなり、俺に実を伴う論理性で敵わないんだよ(笑)。
一般に、何かを確認するときには、いったん色眼鏡をかけて、確認してみると上手く行ったりする。
だが、研究という、明らかになっていないことを明らかにしようとする行為では、あらゆる色眼鏡をかけて観ようとすることが大事だし、多くの時間では、ありのままをありのままに観ようとすることが大切だと思う。
それは、誰かや自分の気持ちを推し量る上でも、同様だと思うのだ。またここに帰着される、「決めつけないで!」
多角的に解釈していきながらも、基本的には、まっすぐ、ありのままの気持ちや現象をありのまま見つめる。
そんな慧眼さを発揮させないと、この願いは叶わないのだ。
日本では、早い人で高校2年生、遅い人で大学2年生で、最初にかけるメガネを決める。色は4種類。青、赤、黄色、緑で、それぞれに特色がある。一色のサングラスを一生かけ続ける人もいれば、俺のように途中でかけなおしてみたりして、結果的に、青、赤、緑の3種類のサングラスをかけることができる人もいる。
青いサングラスは、最も基本的かつ精緻な理屈の立ち位置を利用して、非常によく知られた「お堅い」自然現象を観ることに適している。その分、誰もが根源的に疑問を抱くような興味の対象を選ぶことはできない。
赤いサングラスは、最も関連要素が多い状態を保ちながら自然現象を観ることができる。しかしその分、何を観るべきなのかがいつまでも定まらないという特徴も併せ持つ。
黄色と緑のサングラスは、多くの人が最も関心を寄せている興味を観ることに適している。だが、このサングラスには武器と呼べるものが他のサングラスに比べて極端に少なく、ただ観て終わり、っとなってしまいがちだ。
どれを選ぶのか、高校生の段階で決めるのはちょっと早いけど、そういうことを強要されているのが日本の社会だ。
そして、多くの研究者は、自分と同じ色のサングラスをかけている研究者としか、本当の意味でのディスカッションをしない。これこそが研究の世界で最大のウィークポイントで、他の色のサングラスをかけている人に対しては、それぞれ論でまとめたり、習慣(青ではよく…、緑の世界ではー)で誤魔化したりしてしまう。
ちょっとだけでも、他の色のサングラスを自らかけてみようとすらしない。青の世界はどうなってるんだろう?、赤いメガネで観るとこう観えるのか!っというような喜びを知ろうとしないで、怖がってばかり。
サングラスを外すことは、そんなに怖いことじゃないのにね。
観る対象は当然だがあらゆる自然現象そのものなわけで、確実にそのサングラスで観える自然現象を、すべて観ようとしてしまうのはとても大事なことだ。特に、複雑であらゆる論理体系の例外として扱われるような自然現象の理解に対しては、なるべく多くの種類のサングラスで、多くのモノを観た人が、劇的に進捗させうる。
その瞬間にはきっと、どのサングラスもかけるべきではない。色眼鏡で観ず、ありのままをありのままに理解しようとすることが大事で、それが大切だと思っていない人がとても多い。
ただの習慣で、出すべき数値やデータを決めてはいけないし、実験の計画を立ててはいけない。ある目標に向かって、要所要所で、かけるべきサングラスをかけて確認し、絶対的な論理性の中から、自然現象に宿っているものをいちいち考究しながら抽出する作業、それこそが、いや、それだけが、研究という行為(のはず)だ。
しかし、研究の妨げになるのは、いつも、サングラスの種類であり、かけたことすらないサングラスを全否定したり、自分がずっとつけてきたサングラスに愛着を持ち過ぎているせいできちんとしたディスカッションができないような、人と人との柵だ。
敵は自然現象だ!誰かではない!!これらをぶつけ合わせるならまだしも、そんなくだらないことを心に宿しながらそのまま表面上だけで無理矢理に進捗させようとするから、無駄な作業が増えて、データ量だけは多くなって、時間が無くなり、俺に実を伴う論理性で敵わないんだよ(笑)。
一般に、何かを確認するときには、いったん色眼鏡をかけて、確認してみると上手く行ったりする。
だが、研究という、明らかになっていないことを明らかにしようとする行為では、あらゆる色眼鏡をかけて観ようとすることが大事だし、多くの時間では、ありのままをありのままに観ようとすることが大切だと思う。
それは、誰かや自分の気持ちを推し量る上でも、同様だと思うのだ。またここに帰着される、「決めつけないで!」
多角的に解釈していきながらも、基本的には、まっすぐ、ありのままの気持ちや現象をありのまま見つめる。
そんな慧眼さを発揮させないと、この願いは叶わないのだ。