たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

夢と現実

2013-10-10 00:51:27 | Weblog
 突然やってくる悲しさは、自分が本当の能力を上げたせいで、前にあった何かを感じてしまうことから始まっていく。
 精神的なことと理想的なことしか正解が観えていなくて、具体的に何をしてあげたら良かったか、、わからなかったのだ。そんな無能な俺をどうか許してほしい。

 絶対的な能力さえあれば、どうにかできたことなのだと思う。できることなのだと思う。時間を超え、空間さえも超え、誰かに言われたことではなく、自分で主体的にどうにかしている人は、世界中にいっぱいいる。期待させるのがイヤ、って伝えていた裏側に、中途半端な拙い俺の能力のせいで、何かを期待させ続けていたことが潜んでいたのかもしれない。
 俺自身が、より良くなったり、より良い環境に行ったり、変えたり、輝かしい言葉を手にすればするほど、確かな幸せを感じる一方で、履歴や誰かを想うと切なくなる。自分は不当にこれらを得ているような気がするし、何よりも、あの頃の正解を俺が俺に魅せてしまうからだ。

 そこまで思考したときに、俺じゃなくても他の誰かがきっと!、っと何かのストーリーではよく想いがちだけど、それすらも叶わないかもしれないと掃き出される自分の思考力がウザくて、できることが見つからない無理ゲーであることを示してしまっている。
 せめて、っと想うくらいなら、さっさと言葉にしてしまえばイイのに。良かったのに。

 ホンモノを求め過ぎて、自分の気持ちが信じられなくて、踏み出せなかった一歩は、常に傷つけてしまっていた。
 俺と一緒にいると、任意の誰かが、常に(心の)どこかで辛くなってしまうのなら、それは誤魔化しが自然と露呈化していく過程であって、それが高頻度で起こる事象であるならば、何とダメな社会なんだろう、って無駄に一般化して遊んだりして時間を潰している。

 何が足りないのかはわかっている。
 それは、具現化する力でも、要領よく上手に誤魔化す力でも、手っ取り早いところで諦めて言葉にしてしまうような妥協する力でもなくて、単純に、本当の能力、もっと言えば、理想を明確にイメージできていないことに起因している。夢を現実に変えるには、夢の精緻なイメージが重要になるのだから。

 だから、手持ちのカードは少ないけれど、何かしら少しでもできることがあるんだとしたら、そこに全力で理論化していくことで、より良くしていけたら、一番守りたい心を少しでも拾ってあげられたら、と誓っていくしかない。
コメント
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