たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

現在の教育の問題点について

2009-02-09 01:43:14 | Weblog
 ずーっと前に、言ってた、「教育の問題点について」です。8000字以上のレポートって、案外きついですね。これは完全に大学にそのまま出す想定で書いた「レポート」なので、こんな内容でも、本音15歩手前くらいですが、どうぞよかったら、がんばって読んでみてください。えーっと、約束してた彼以外は、こんな記事なんて読まなくても文句は言いません。

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 現在の教育の問題点について、主に中学高校について、論述していく。

 まず、日本の教育のスタンスとして問題点がすぐに思いつくのは、色々なことに対して「横並びであることが素晴らしい」という発想であると思う。制服、校則、授業など、色々なものを横並びにし、個性を出しにくくしている。

 中学生並みに幼い意見だと思考されることを覚悟して書くが、髪が長かったり、染めていたり、そのようなことを指摘し、注意するのに、いったいどれほどの意味があるのだろうか。これらについて、何も考えず、「髪が黒くて、染めてなくて、ってのは常識でしょ?」っと指導する教員が、「これからは国際的にならなければいけない」などと言ったりする。矛盾も矛盾である。自分の周りの容姿を認め尊重できないような人間が、本当に世界の人々とも尊重しあえるのだろうか。世界には、髪の毛の色なんてバラバラだし、極論を言えば、裸族だっている。
 大切なのは、まず、バラバラである事を認め合うことではないだろうか。そこの土台がないと、誰とも本質的に語れあえないし、誰とも本質的に干渉しあえない。
 ただ、多様性に富んだ人間集団が怖いのは、人間の本能として仕方が無いのかもしれない。普通に考えて、例えば、30人がみんなで同じモノを食べている中、1人だけ宗教的な理由か何かで「いや、俺はそれは食わねぇ」なんて言ったら、当然誰かはムカっとするだろうし、場は白ける。横並びでいたいのは仕方ない。事実、私も自分と違う人は単純に怖いし、自分が他の人と違う部分というのは強く意識する。
 しかし、それを助長し、しかも正しい事であると、多くの人に植え付けているのは、紛れも無い学校教育そのものである。

 それ以前に、くだらないことが校則化されていて、まるで「先生は偉い人」「生徒は先生に従順になるべき」と言わんばかりの校則も存在する。例えば、私の中学では、ケータイを持ってくるのは禁止であった。MDやCDなども禁止であった。いったい何が目的なのだろうか。正直、いまだにわからない。
 本当に生徒の事を思うのであれば、本当に生徒の安全を考えるのであれば、むしろケータイなどは持たすべきではないか。学校教育というところが社会を知る準備の場所であるのだとしたら、これからさらに重要になっていくケータイについて、その使い方やモラルを教えていくような教育をしなければならないはずである。
 いや、もしかしたら、この例はこれはこれで不条理という社会の図式を私にレクチャーしてくれたのかもしれない。ここまで書いてきて初めて極めて当たり前な本質を1つだけついておくが、教育の問題点を語ることは、同時にこの日本社会の問題点を語ることと切り離せないのである。

 横並びであることは、安心する。そして、この横並びに関係している学校教育のレールに乗っかるということは、非常に安定し、自信にさえ繋がることはあるであろう。しかし、必ず誰しもいつかはレールを自分で敷かなければならないシーンもあるだろうし、レールでないところを走っていかなければならないようなこの社会である。
 学校教育というところは「『レールから落ちたら、お前等はダメになるぞ』っとは教えてくれるが、レールに乗っかり過ぎて降りられなくなってしまうことのほうがよっぽど怖いということは教えてくれない」ところなのである。

 「レールに乗っかり過ぎて降りられなくなってしまう怖さ」とはどんなものであるのか。ここから少し、ゆっくりそれについて語っていこうと思う。

 具体例から。私は、中学の頃、成績はまぁまぁ良いほうだった。中学や高校の成績は何が一番の指標になっているかといえば、中間、期末などの、定期考査である。
 どのような勉強法をとっていたかといえば、試験前に暗記事項をいっきに詰め込むという勉強法だ。ただ、私の場合、例外が2つだけあって、英語と数学については、試験前に特別何かやらなければならないというわけではなく、普段の感じで、学年で一桁台の順位がついていた。数学は自分でどんどん先に進んで問題演習していって、高3までまともに授業を聞いたことがなかったが、ずっと成績は良かった。英語は、ちょっと習っていたのもあったし、自分でよく勉強していたのもあって、中学時代は成績が良かった。あとの科目は、全然理解せず、板書を丸写しして、試験直前対策で乗り切っていた。
 かなり多くの所謂、普通の元優等生諸君には理解してもらえると思うが、このような勉強法であると、試験後1週間もすれば、年号や化学式や重要人物や公式、そのtechnical termの何から何まで忘れてしまう。こんなんでも総合成績、学年で2位とかついたことがあるんだから、自分自身でも驚きである。
 当時よく冗談にしていた例えとして、私はこの直前丸暗記対策に「ヘモグロビン勉強法」などとつけた記憶がある。ヘモグロビンは酸素運搬体である、言いかえればヘモグロビンはO2(酸素)をくっつきやすく離しやすい、直前に丸暗記する勉強法も記憶をくっつけやすく離しやすいからである。

 もう、この時点で、問題点がある。それは、学問の目的というのは、色々なモノに対して「なぜそうなっているのか?」を考えることなのであるのに、これでは試験のための学習になってしまっている。言葉を変えるなら、「ゴールはモノを覚えるということなのに、試験前にただ丸暗記していることが評価になってしまっている」。
 そう、私は、「学問をする」ということは「『なぜ?』と思う」ことの必要条件であると考えている。しかも、それは、ほぼ必要十分条件(同値、つまり同じこと)であると思うし、学問のコアを占めているものは「なぜ?」であると思う。 
 
 例を英語にとってみれば、私の言ってることが、簡単に掴めるかもしれない。

 英文法を利用して英文を眺めている時は、「なぜ?」と思うことも多く、本来の感覚に近い。
 この文章は、第三文型であるから、このように訳す。なぜ三文型かというと、動詞が他動詞であるし、この動詞は三文型を作る語法を取ることができるから。この動詞は四文型も取れるような語法があるのに、なぜこの文章は三文型と断定できるかと言うと、その目的語以下に、他に目的語を取れるような品詞や節が存在しないから。目的語を取れるのは、名詞、代名詞、名詞節など。
 これは、学問学問しい、本来の姿であるかもしれない。

 だが、英語というのは、それだけではない。いや、それだけでは、使えないし、入試科目として英語を見たとしても、足り無すぎるっと、きちんと言っておこう。
 地道に単語を覚えなきゃいけないし、文章をある程度スラスラ読めるようになるにはそれなりの慣れも必要だし、喋りたいのであるのなら、どんどん知っているモノを使って英会話していかなければならない。

 要は、英語を「英語学」としてみたとしたら、やらなければならないのは、基本的に文法と各語法の理解のみである。基本的に、調べればすぐわかるというものを行っているときは、本来、学問をしているとは言わない。
 だが、喋りたい、定期テストや受験できちんと得点したいと願う時、学問に「暗記」や「慣れ」が介入してくるのだ。

 他の科目でも同様であるが、「暗記」や「慣れ」というのは、なかなか苦痛を伴うものである。殆どの教育機関では、「暗記」や「慣れ」の作業を勉強と定義し、それをすることが最もよく勉強しているかのような錯覚を伴うような方針をとるが、実はそうではない。勉強する事というのは、むしろ、「『なぜ、そうなるのか??』を考えること」であって、必要がないのならば、紙などに書いていくという作業も必要ない。
 この「なぜ?」に学問そのものの価値をもが集約されており、「なぜ?」を感じることと、「なぜ?」の解決の糸口を見つけ出すことが、学問を楽しんでいるということに他ならない。

 当時、もちろん、ここまで思考してたわけではないが、周りから「スゴイね」だとか「頭イイんだね」だとか言われるたびに、自分ではまったく自分がスゴイとは思えなかったし、むしろ俺は成績良くなかったらどうなってしまうんだろう…と不安な気持ちばかり抱いていたような気がする。

 この問題点を確認してから、もっと大きな問題点へ向かおう。

 私自身の話は、ここからは一般的でなくなってしまう。私立中学から公立高校に進学したため中学の成績などは、関係なかったからだ。だから、止めておこう。
 内申点によって高校を決めることは至極普通であると思うので、それによって、それなりの高校に入ったとしよう。私はもう高校からは続けなかったが、いや、というより内容が難しくなったのも手伝って続けられなかったが、このヘモグロビン勉強法を続けていって有効だったとしよう。覚えては忘れ、覚えては忘れの繰り返し。成績はトップクラス。それをもってして、指定校推薦を利用して大学へ入る者もいる。
 少し欲がでる者、金銭的に余裕がなくて国立大学を狙う者、成績が悪くて指定校など取れなかった者などは、大概、一般入試で大学へ入ることになる。

 推薦入試で大学へ入学する者のほうが一般入試で同じ大学へ入学する者より、大抵、学力面で一歩隔たりがあるなどの、くだらない問題点を挙げるつもりはない。
 それは、誰でも1度は考えるだろうし、確かに私も問題であると思うが、そんなことよりも遥かに問題な事がある。(私は、推薦入試で入学した者が一般入試で入学した者より、本質的によくない、などとは言っていない。本質的に悪いのは、推薦という制度そのものであり、その制度の存在を知った者であり賢さを持った者なら、それを選ぶことは、至極当然なことである。)

 一般入試は、今までの勉強の総決算といって良いだろう。
 今までヘモグロビン勉強法で誤魔化しつづけてきたところをある程度、修正しなければならない。頑張って頑張って勉強して、この時期に初めて「勉強は思考そのものである」ということを学んだり、「暗記と理解」の境界線の引き方を学んだりするのだろう。
 色々なモノを犠牲にして、勉強する者も多い。受験に関係ない科目は勉強しないとか、遊ばないとか。私は、日々感じることだが、難関大の学生であればあるほど、普通の事を知らない人が多くなる(他人様のことは全然言えないほど、私も一般知識がないですが)。特に感じるのは、あまりに普通に人と話をすることができないなっと思ったりする(いえ、ですから、人のことは言えないんですよ(笑))。この原因は、単純に、勉強は基本的には1人でするものだから、人と話をする時間が著しく減ってしまっているのかもしれない。(もちろん、私自身そうであるが、勉強は誰かとすると、効率が上がると思う。だが、理解や解析には沈黙が必要であり、そういった意味では、きちんと力量がある者同士でないと不可能だ、っというところで、人と話をするのが不得意な者が増えるのであろう。)
 勉強に楽しさを見いだせなくても、それでもまだまだ勉強して、必死で頑張って勉強して、そして見事、大学に合格したとしよう(必ずしも第一志望の大学でなくても構わない)。

 大学に入ると、世界は一変する。大学は、本来、知を獲得し、開拓する場である。極上の理想論を言えばの話だが。
 大学の授業というものは、ただ漠然と出席しているだけでは、知の獲得はできない。しかし、その知の獲得の証であるはずの単位は予想以上によくとれてしまう。これまでのヘモグロビン勉強法に加え、全国大会である学問の本質をもつきかけている大学入試を突破してきた連中が大学の定期試験を受ければ、簡単なのは当然の結果である。それに、大学の成績というものは、これまでの成績とは比較にならないくらいどうでもよいものである。文科系理科系問わず、大抵、どうでもよくなってしまう。
 そして、どこからともなく、今までとはまったく違う言葉が飛び交うのである。

 「これからはコミュニケーション能力が重要です」「難関大卒でも、ぜんぜん仕事ができないなんて、いったい君は何をしてきたんだ?」

 ここが、レール上で言えば、1番オカシイ点であると思う。

 18歳まで、学問を勉強することによって、評価されてきた。それが正しい事であるとずっと言われつづけてきたのだ。これまで積み上げてきたもの、これまで頑張ってきたもの、それを全部チャラにさせられて、これらの抽象的な、まったくもって関係ないもので最後評価されてしまうのが、とてもオカシイと感じる。

 諸外国、特に先進国で、学校というところは、仕事に必要なスキルをつけることを目的としている。学校にいる間に、仕事に必要な様々なことを学習して、それを活かして、自分の力で社会人として仕事をしていくというスタイルが普通である。
 しかし、日本はどうであるかというと、学校で、いや学校教育というレールの上で、無意味な学問を散々させられて、それによって評価されつづけてきて、さらに生活態度までご丁寧に指導させられて、結果的に、仕事が何もできない状態で、社会人となるというスタイルなのである。
 これによって、多くの日本人は、真剣に、こう考える。「勉強ができても仕方ない」

 大抵、世界の子供たちに、「何で学校行くのか?」っと聞くと「勉強するため」と答えるという。ところが日本は、「友達に会うため」っと言ったり、大学行く理由を聞くと、「行かない理由がないから」などと答えたりする。これを考えても、日本がどれほど、学校という場所を生活の中心にしすぎていて、人生というものを何かの定式化しないといられないとわかるだろう。
 「新規学卒一括採用」。これが日本固有の非常に特殊な制度である。一回、非正社員になると正社員になるのが大変であり、転職ばかりしているとダメな人間だと思われたりするのは、この制度があるためである。
 この制度は、とても日本人らしい制度である。レール、集団、枠…。それらすべてを物語っている。一つ集団を決めてしまえば、あとはそこに居座り続けるだけという楽ちんさ、安定さ、本当は心がつながってないからこそ図る仲間化も、すべて。

 この仮想的な仲間化(学校生活でいうなら、学級やクラスや部活動で行われる「特別活動」の一部を言ってしまうのかもしれないが…。そうであると言いたくない気持ちがある。……、むしろ、「飲み会」などに近い。)は素晴らしいのかもしれない。なぜなら、本当の心を見せる苦労をしなくても、誰かと繋がっていられる…、いや繋がっていると幻想を抱けるから。しかも、仲間化をして、みんなで演技しつづけることによって、本当にホンモノの仲間になることだってあるんだから(そのような経験は確かに多いが、いったん集団が時間によって崩されると、長続きはしない。一般企業に入れば、期間がとても長いから、長く続くと感じるのだろうか…?)。
 しかし、問題点も沢山ある。
 演技し続けられない者、もしくは何らかのルックス的なことなどの事情で最初から枠外だと扱われてしまう者は、非演技者であると、非協力者であると、いじめられる可能性がある。
 それだけではない。学校、社会と場所を問わず、演じたくない人間は、本音を出す場で、演技に疲れたという顔をするだろう。

 どんな人間にとっても最悪な出来事の一つは、「頑張っても報われない」。
 「どーせ、頑張って、勉強したって、あんな風になるのか…。毎日帰ってきて、あんな顔するのか。いや、うちのお父さんは、東大出身じゃないからかなぁ。東大だったら違う??でも、俺、そこまで勉強できる気もしないしな…。」
 日本のレール制度は、「勉強しろっと言っている一方で、勉強すると無駄であると示唆するような」制度なのである。この矛盾に気が付くとき、喪失感でいっぱいになるし、楽しさなんて何もないような気持ちさえする。だって、いつも一緒にいる連中すら、本質ではなく、演技による楽しさなのだから。
 これは、きれいにレールに乗っかっていすぎた人間の心情を想定したものであり、たいていの人間はどっかしらで反抗したりするだろうから、そうはならないだろう。たいていの人間は、本当に心許せる人が一人くらいはいるだろうし、本当に楽しい瞬間はお酒無しの状態であることを知っているし、楽しさ≠大騒ぎであることをよく知っている、ましてや肉体関係などではないことは重々承知しているだろう。(では、読者の本当に楽しい瞬間はなんですか??え?無い??大丈夫、無くても心配しないで。今から探せばイイだけだから。)
 だが、不幸なことに、反発しすぎれば、社会への反発的な事そのものが楽しいことであると錯覚してしまう。
反発しなさすぎて、レールに乗っかりつづければ、つまらなさをひたすらのばしていくだけ。

 要するに、適度に社会や学校生活に反発すればいい??いえいえ、現状ではそうかもしれませんが、「制度」として、それにすがっていきさえすれば、充実した、有意義な、努力が報われるような生活であるように、しなきゃいけなのじゃないだろうか?
 そんなものを「制度」と呼ぶのか疑問だし、そのようになったときに、人と違うことで快感を感じる部分があるような私みたいな変態はちょっと困ったりするが。
 究極を言えば、制度そのものが多様性を壊し、多様性がないことがつまらないことになり、多様性をなくすために仲間化をしつまらないのだから、制度を作ろうとしているところが、もう問題点なのかもしれない。

 そこまで言ってしまうなら、「教育」というものそのものも、どうなのだろう?ということも書いておく。
 考えてみてほしい、例え年長者であっても親以外の人間が「人が人に、これはためになることだよっ、これは絶対に君にとって将来必要だよ、っと指導することは、おこがましいもしくはウザがられることじゃないだろうか」ということを。もちろん、それは違うだろう。だけど、人間を対等にみるべきと読者が考えるならやっぱり間違っているし、少なくとも、こんなにも純粋な普通に感じるおこがましさの想いと「任意の人たちの将来を、どうにか一定以上の能力を持ったものにしたい」という教育的考えとが、もう少し対等で良いと思う。頭で考える部分が強すぎて、心で思う部分をまったく考慮しないというのは、立派な問題である。その想いのカケラだけでも持った教員が、私の周りにもう少しでもいたなら、私はこれを問題視したりはしない。

 すべての人間が「ただ生きていく」ようにするためだけなら、学校は仕事に必要な能力を与える場所であるだけでよい。その他の活動は、すべて地域社会に譲るべき、任せるべきだろう。
 学問を楽しむだけが目的なら、入試制度を即刻止め、学問を教える授業聞きたい人は、夜中からテントを張って聞きたい授業の教室の前に並べば良いだろう。

 だが、学問の楽しさを教え、自己解決能力を伸ばし、生きる力を育み、人として生きる有意義さや楽しさまで感じさせなければならないのであるのなら、それはとても難しい。学校教育は、目的を担い過ぎたと言わざるおえないだろう。
 もう少し、荷を下ろし、他の分野に目的を託すことが必要なのではないだろうか。っと、教職科目をとっていて、学校教育を受けていて、よく感じるのである。(8035字)

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 はぁ、再利用気づきました??(笑)さて…、アップするだけで、ちょっと疲れたなぁ。あ、いつもの記事も多少そうですが、特にこれはタテマエであること、本音はこれじゃないことを、忘れないでね。
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