たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

遥か

2009-02-23 02:16:57 | Weblog
 物理学などの理系科目(=自然科学)が、個人レベルで、生活に直結して役に立つことが、決してないことは周知の事実である(一応注意を払っておくが数学も同様である)。では、なぜ、ほとんどすべての日本人がそれらの基礎を勉学しなければならないのか?(テストのため…など個々の話ではなく、制度としてどうしてなのだろう?)
 1つには専門家養成のため広く一般に自然科学の簡単なものはすべての人が仕方なく行わなければいけないということもあるが、それだけにしては自然科学なんて難しく面倒な代物なのではないだろうか??

 話を少し変える。

 勘違いしている輩が、専門家(自然科学の、教育の、どちらも)と呼ばれる人達の中にすら、沢山いるので、多少の不安を抱えながら、ここでいつも以上に高圧的に言及しておくが、「自然科学の実力は、解いた問題数に比例して伸びていくわけではない」(もちろん、俺が間違っている可能性は多分にある。しかし、ここまで学んできて、今、心から言えるよ、という思考でいっぱいなのだから、仕方ない)(理系として、比例という言葉はおかしいだろっという突っ込みは大変正しい。「自然科学の実力は、解いた問題数を変数とする一価性の単調増加関数ではない」という表現がより適切だが、言葉の綾というやつだろう)。
 確かに、ある一定以上の問題数をこなす必要はある。しかし、それ以上に重要なのは、「1問から、いかに沢山のことを学ぶか?」ではないだろうか。
 もちろん、このような重要な公式が存在している、こういう現象は知識として知らなければならない、というような基礎的な事項も学ぶべきであるが、なぜここでこれを発想するのか?、ということは非常に重要であるし(何にとって?かは、各々考えて欲しい)、この問題が、学問にとって、自分にとって、試験対策において、良い問題かくだらない問題かを考えることも非常に重要である。

 それらの思考は、必ず、役に立つ。必ず。
 俺は、多くの日本人にこれらの思考をさせることが、自然科学を学ばなければいけない制度の存在理由のほとんどを占めているように思える。

 こういうことを言うと、勉強なんてまったくしないヤツがわかったような口をきいて、「ただ問題数こなしても、ダメなんだぜ?」とかなんとか言いそうだから注意しておくが、俺はそれこそ、ただ闇雲に問題数をこなせば良いなんてことよりも、遥かに厳しい事を説いている。楽をして、何かを得ようとしているわけではないし、残念なことに、そんな裏ワザも無い。

 そんなわけで、自然科学は、経験だけ積めばそれで良いわけではないということをよく教えてくれるだけでなく、扱っている問題の疑問点への焦点あわせをまさに自然科学を行っているときと同様に行うという、一つのシステムを形成させることができるので、大いに役に立つ(っま、このシステムのみに溺れてしまっては、つまらない人間と言わざるを得ないが)。
 経験を重視するんじゃなくって、どれほどそれについて思考し、なぜ?をつきつめ、最後にきちんと反省するという作業が、きっと一番大事なんだと思う。

 それを無意識的にできるようになってきたけど、遠い遠い遥かな場所へ、夢から醒めない翼で飛んでいくために、それを絶対に忘れないでいたい。

 (かなり前の俺のカラオケの十八番。スピッツの「遥か」。カラオケに行くと、これを必ず歌う、という日々もあったんですが、今は全然です。なんか、今日、急に、この曲を思い出したので、記事にしてみました。
 youtubeでPV見てみたんですが…、意味わかんないPV(笑)。わらしべ長者??
 スピッツは、彼らだけが作りだしている独特な世界観が好きなんですが、最近、曲出しているのかなー。)
コメント
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