桜井昌司『獄外記』

布川事件というえん罪を背負って44年。その異常な体験をしたからこそ、感じられるもの、判るものがあるようです。

何も判ってない

2014-06-15 | Weblog
日弁連には日弁連新聞があって、その紙面に「ひまわり」と言うコラムがある。ナンバー485号にある「ひまわり」を読んで、その見解の未熟に呆れた。
法制審議会の試案に付いて、一応は「可視化が限定的なのに通信傍受の対象事件が拡大するのは問題だ」と書く。当たり前だ。冤罪を作っている認識を持たない警察が自由に盗聴出来るようになったらば、どんなことをするか、少しでも想像力があれば判るだろう。罪の意識もなく自分たちの好き勝手に盗聴をするだろう。冤罪作りの敵、弁護士は、まず第一の盗聴の標的だよね。
しかし、ひまわり氏は常識を書いた後、「例外なしの全事件対象を貫き譲歩すべきでないのも筋だが、展望もなく原則を貫いた結果何も得られなければ本末転倒である」と書く。
はあぁ?
この人、本末転倒の意味を知っているのだろうか。
なぜ法制審議会が設置され、新しい時代の法律を作ろうとなったのか、その基本問題こそ、「本」ではないのか。ならば、全事件の可視化こそが、なすべき根本であることは、少しでも良識があれば理解出来るだろうに、このひまわり氏は、最たる「末」の盗聴自由化を許して本末転倒などと書くとは、呆れ果てるしかない。本末転倒は、ひまわり氏自身ではないのか。
それに「展望もなく原則を貫いた結果何も得られなければ」とは、一体、何んなのだ!
日弁連へ共に要請に行った冤罪仲間の矢田部さんは「警察や検察と日弁連が司法取引をしているのではないか」と、日弁連会長に語ったが、「何も得られなければ」とは、可視化法律が作れずに終わるとでも言いたいのだろうか。もし、そうだとしたらば、その情勢判断能力の無さは絶望的だ。ひまわり氏は法制審議会の内部状況を知っているだろうが、警察・検察・御用学者たちに支配され、最終的には、彼らの思惑で決着されるだろう。日弁連が、何を主張しようとだ。
新時代の法律を作るとして設置された法制審議会が、日弁連が反対したからと、では法律を作らないで流会させる得ると思っているのならば、そこも情勢判断能力の不足だろう。
ひまわり氏に言いたいが、展望を見い出し得ないことも絶望的だ。国民は、全事件の可視化こそを求めている。その国民の意識を認識出来たならば、必ずや全事件の可視化は実現され得ると確信も出来るだろうに、「最終的には政治的決断が必要だと思う」と書いて、恥を知らずに道理と真理に背き、国民の自由を警察の売り渡す政治的取引をせよ、と言う。
何と言う見識の無さだろうか。これが日弁連新聞では、警察や検察に舐められるよなぁ。

市民集会

2014-06-15 | Weblog


昨日は日比谷図書館の地下舞台ステージを開場に、全面可視化と全面証拠開示を求める集会が開かれた。
1部が、法制審議会に委員として参加している周防監督と指宿信教授の対談。
指宿先生が、周防監督に法制審議会の中身を質問するような中身だった。
1昨日、日弁連に「不充分な法案に賛成しないで」と要請に行っただけに、周防監督の話は、日弁連執行部の情けなさを思わされた。裁判村の感覚では、警察や検察の主張に屈する中身でも「前進」と感じるのだろうが、我々市民感覚では、今まで以上に「遣りたい放題の冤罪作りが行われる」としか思えない。
周防監督は、警察や検察、それを支える井上・坂巻などの御用学者に圧倒される法制審議会の実態を、色々と話してくれた。
市民感覚の全面可視化と証拠開示が実現するまで、まだまだ頑張らなければならないようだ。
2部は、俺の歌。先日のカラオケと生オケが影響が残り、全くお粗末だったが、それでも「泣いた、泣けた」と言ってくださった方も何人かいて、俺は俺なりに唄えば良いのだと、少し自信にはなった。
3部は、袴田弁護団報告と袴田秀子さんに話。
参加者は百名程度だった。