石原がいっているように,先生と奥さんとの間に性的交渉がなかったのかということを考えていくために,僕はひとつだけ前提しておきたいことがあります。それは,先生にも奥さんにも性的欲望というのはあったのであって,先生は奥さんをその欲望の対象としてみていたし,奥さんもまた先生を欲望の対象としてみていたということです。つまり先生は奥さんに性的魅力,人間的魅力とは異なった意味での性的魅力を感じていたし,奥さんも先生に対して性的魅力を感じていたのだと僕は解します。
僕のこの解釈の根拠は,上の十で先生が私に対して言ったことばの中にあります。そこで先生は,妻以外の女はほとんど女として私に訴えないと言い,さらに妻は自分を天下にただひとりしかいない男だと思ってくれているという主旨のことを続けます。ここでは男であることまた女であることが重要ですから,これが単に各々の人間的魅力について語ったわけではなく,性的魅力を語っているのだと僕は解します。要するにこの先生のことばを,先生は奥さんにしか性的魅力を感じないし,奥さんが性的魅力を感じているのは先生だけであるというように解するということです。
自分は妻に性的魅力を感じているという先生の発言が虚構であるとは思えません。そのような虚言を先生が私に対して言う理由も必要性もないからです。一方,これは先生の発言ですから,奥さんについて確たることがいえないのは事実です。少なくとも,奥さんが性的魅力を感じているのは自分だけであるということについて先生がある確信をもっているのは事実ですが,その確信の正しさを裏付ける要素があるわけではありません。ただ,先生がそのような確信をもっているのは事実で,確信をもっているのならもっているだけの理由が先生のうちにはあるのでしょう。上は私の手記ですから,私が不在で先生と奥さんだけの間で生じていることは何も書かれていません。おそらくその書かれていないことのうちに,先生にそう確信させる何かがあったのです。なので僕は,奥さんが先生に対して性的魅力を感じていたということは,ただ先生がそのように思い込んでいたというわけではなくて,事実としてそうであったと解します。
憐憫commiseratioが有用であるといわれるときの有用の意味は,不安metusが有用であるといわれるときの有用の意味と異なります。不安は害悪より利益を多く齎すから有用であると僕はいっているのであって,それは逆にいえば,不安は利益を多く齎すけれど害悪を齎す場合もあるということでもあります。これに対していえば,憐憫は害悪を齎すことはないのであって,利益だけを齎すのです。このことは第四部定理五〇備考から明白です。ここには理性ratioに従えば人間は他人を援助するのであって,憐憫という感情affectusによっても人間は他人を援助するということが明らかに含まれているからです。したがって憐憫という感情は,理性に従っている人間と同じように振る舞うようにその人間に対して作用する感情であることになります。なので,憐憫は悲しみtristitiaの一種ではあるけれど,愛amorが一般的に合倫理的な感情であるといわれるのと同じように,憐憫は一般的に合倫理的な感情であるといって構わないということになります。ただそこに差異を見出すとすれば,憐憫は悲しみであるがゆえに,第四部定理五〇にあるように,理性に従っている限りではそれ自体では悪malumであり,無用であるのに対し,愛は喜びlaetitiaなので,理性に従っているからといってそれ自体で悪とはいえませんし,むしろそれ自体でみれば善bonumといわれなければならず,よって無用であるとはいえないという点です。
このように,たとえ悲しみであっても,合倫理的な感情もあるのです。いい換えれば第三部定理五九にあるように,能動actioであることができないのだけれども合倫理的な感情というのもあるのです。一方この定理Propositioは,喜びと欲望cupiditasは能動であり得るといっているのですが,だからといってどのような喜びも能動であり得るということを意味しているのではありません。たとえば第三部諸感情の定義一二の希望spesは,喜びの一種ではあるのですが,この定義Definitioからして疑っている物の観念ideaがなければあることができません。つまり何らかの混乱した観念idea inadaequataがある人間の精神mens humanaのうちにあるときにのみ,その人間は希望を感じるということになります。よって現実的に存在するある人間が希望を感じているときには,その人間は働きを受けていることになります。
僕のこの解釈の根拠は,上の十で先生が私に対して言ったことばの中にあります。そこで先生は,妻以外の女はほとんど女として私に訴えないと言い,さらに妻は自分を天下にただひとりしかいない男だと思ってくれているという主旨のことを続けます。ここでは男であることまた女であることが重要ですから,これが単に各々の人間的魅力について語ったわけではなく,性的魅力を語っているのだと僕は解します。要するにこの先生のことばを,先生は奥さんにしか性的魅力を感じないし,奥さんが性的魅力を感じているのは先生だけであるというように解するということです。
自分は妻に性的魅力を感じているという先生の発言が虚構であるとは思えません。そのような虚言を先生が私に対して言う理由も必要性もないからです。一方,これは先生の発言ですから,奥さんについて確たることがいえないのは事実です。少なくとも,奥さんが性的魅力を感じているのは自分だけであるということについて先生がある確信をもっているのは事実ですが,その確信の正しさを裏付ける要素があるわけではありません。ただ,先生がそのような確信をもっているのは事実で,確信をもっているのならもっているだけの理由が先生のうちにはあるのでしょう。上は私の手記ですから,私が不在で先生と奥さんだけの間で生じていることは何も書かれていません。おそらくその書かれていないことのうちに,先生にそう確信させる何かがあったのです。なので僕は,奥さんが先生に対して性的魅力を感じていたということは,ただ先生がそのように思い込んでいたというわけではなくて,事実としてそうであったと解します。
憐憫commiseratioが有用であるといわれるときの有用の意味は,不安metusが有用であるといわれるときの有用の意味と異なります。不安は害悪より利益を多く齎すから有用であると僕はいっているのであって,それは逆にいえば,不安は利益を多く齎すけれど害悪を齎す場合もあるということでもあります。これに対していえば,憐憫は害悪を齎すことはないのであって,利益だけを齎すのです。このことは第四部定理五〇備考から明白です。ここには理性ratioに従えば人間は他人を援助するのであって,憐憫という感情affectusによっても人間は他人を援助するということが明らかに含まれているからです。したがって憐憫という感情は,理性に従っている人間と同じように振る舞うようにその人間に対して作用する感情であることになります。なので,憐憫は悲しみtristitiaの一種ではあるけれど,愛amorが一般的に合倫理的な感情であるといわれるのと同じように,憐憫は一般的に合倫理的な感情であるといって構わないということになります。ただそこに差異を見出すとすれば,憐憫は悲しみであるがゆえに,第四部定理五〇にあるように,理性に従っている限りではそれ自体では悪malumであり,無用であるのに対し,愛は喜びlaetitiaなので,理性に従っているからといってそれ自体で悪とはいえませんし,むしろそれ自体でみれば善bonumといわれなければならず,よって無用であるとはいえないという点です。
このように,たとえ悲しみであっても,合倫理的な感情もあるのです。いい換えれば第三部定理五九にあるように,能動actioであることができないのだけれども合倫理的な感情というのもあるのです。一方この定理Propositioは,喜びと欲望cupiditasは能動であり得るといっているのですが,だからといってどのような喜びも能動であり得るということを意味しているのではありません。たとえば第三部諸感情の定義一二の希望spesは,喜びの一種ではあるのですが,この定義Definitioからして疑っている物の観念ideaがなければあることができません。つまり何らかの混乱した観念idea inadaequataがある人間の精神mens humanaのうちにあるときにのみ,その人間は希望を感じるということになります。よって現実的に存在するある人間が希望を感じているときには,その人間は働きを受けていることになります。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます