スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

おのれ自身を愛せ&助手

2015-07-11 19:28:42 | 歌・小説
 ニーチェは『偶像の黄昏』の断章の中で「汝自身を助けよ」と書きました。これは新約聖書のマルコ福音書の第12章31節で,イエスが最も大切な掟としてあげたふたつのうちのひとつ,「隣人を自分のように愛しなさい」というのをいい換えたものでした。これと同じようないい換えが,ドストエフスキーの小説の登場人物からも発せられています。『虐げられた人びと』のワルコフスキー公爵です。
                         
 『虐げられた人びと』の小説の構造は,作家のイワン・ペトローヴィチが,おそらくは死の直前に,自身の身の回りに起こったかつての出来事を再構成して執筆するという形になっています。その第三部第十章ではイワンとワルコフスキーが酒を伴った食事をしながら一対一で話をします。かなり会話の分量が多い場面です。その中でワルコフスキーが「おのれ自身を愛せよ」と言い,それが自分が認める唯一の原則であると続けます。僕が読んだのは新潮文庫版で,訳者は小笠原豊樹です。
 もちろんワルコフスキーはイエスのことばを知っていて,それをいい換えたわけです。しかしニーチェのいい換えとは意味合いには差があるといわなければなりません。ニーチェのいい換えには,たとえば第四部定理五二でスピノザが自己満足ないしは自己愛を肯定しているのと同じように,肯定的な意味が,あるいはそれだけが含まれています。しかし『虐げられた人びと』の全体のテクストの中では,ワルコフスキーのこのことばは肯定的には解釈できないようになっているからです。
 詳しい書評はいずれ書きますが,『虐げられた人びと』は人物像が単調です。ワルコフスキーは金権主義者であり,金のためには非人道的なことでも平気で犯す悪人でしかありません。そういう悪人から発せられたことばなので,テクスト全体の中では否定的にしか解釈できません。
 これは小説の構造と関係しています。要するにイワンは,ワルコフスキーという金権主義者を告発したいがために,死の瀬戸際で『虐げられた人びと』を書いたと解するのが妥当であるからです。

 1954年にローンとエンデンが初めて会ったとき,ファン・デン・エンデンはスピノザのことを自分の生徒と言っていました。ファン・ローンはそれ以前に,スピノザからエンデンが有能な人物であると聞かされていました。だからエンデンの開校が1952年であったとして,スピノザは同時にか,あるいは直後に,また遅くとも1953年にはエンデンからラテン語を習い始めていたのだと僕は判断します。ここでは開校と同じ年の1952年としてみましょう。その時点でスピノザは20歳です。僕が判断するように,学校の生徒の多くが10代であったとすれば,スピノザは年長者であったでしょう。また,ケルクリングが学び始めた1657年にはスピノザは25歳になっています。このときにはおそらくエンデンの生徒の中では最年長であったろうと思うのです。
 『ある哲学者の人生』では,こうしたことを考慮に入れれば,スピノザは単にここでラテン語を学んでいたというだけでなく,間違いなくエンデンがほかの生徒を教えるのを手伝っていたとしています。ナドラーはその根拠として,『スピノザの生涯と精神』に収録されている,シュトレの「オランダ旅行記」をあげているのですが,僕にはどの部分であるか見当がつきません。ただ,ナドラーが間違いなくそうであるといっているのですから,かなりの確信があるのだと思います。
 僕も同じように判断します。1652年の時点ではスピノザはすでにラテン語に習熟していたというのが僕の判断です。それなのになぜエンデンの学校に入ったのか,また,そこで長きにわたって学び続けたのかという疑問は,デカルトに対する関心によって説明するよりも,むしろスピノザがエンデンの助手的存在であったと説明した方が適当と僕には思えるのです。確かにデカルトへの関心を満たすためには,だれよりもエンデンから習うのが有利であったでしょう。でも,ラテン語の需要がどういうところにあったのかを考慮に入れれば,エンデンが行う授業のすべてが,スピノザのその関心を満たし得るとは僕には思えないのです。ならば,助手的存在でもあったと判断する方が,合理的ではないでしょうか。

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