2年ぶりの実施となる前橋記念の決勝。並びは木暮-小林の群馬,松坂洋平-松坂英司-望月の南関東,竹内-浅井の中部,川村-松岡の近畿。
松坂洋平がスタートを取って前受け。4番手に竹内,6番手に木暮,8番手に川村の周回に。残り3周のホームから川村が上昇。前までは上がらず竹内を牽制しながらバックに。そこから松坂洋平を叩き,続いた木暮が3番手,引いた松坂洋平が5番手に。このホームの出口から竹内が発進。打鐘で川村を叩くことに成功。ホームでは川村を捨てて松岡が浅井の後ろに。バックで松岡が自力を出しましたが,まったく前にいけず,内を突いた木暮が浅井の後ろに。浅井は後ろを気にしていたものの,仕事をするような場面はなく,直線で竹内を捕えて優勝。最終コーナーで木暮のさらに内を回り,直線で竹内と浅井の中を割ろうとした小林が4分の3車輪差で2着。浅井の外に進路を取った木暮が半車輪差で3着。
優勝した三重の浅井康太選手は5月末から6月にかけての武雄記念以来の記念競輪制覇で通算14勝目。前橋記念は一昨年も優勝していて,2年ぶりですが昨年は開催がなかったので連覇。ここは力が上位で,前を回る竹内も調子がよさそうでしたから,かなり有利であろうと思われました。竹内のスピードのよさは,浅井のすぐ後ろから捲ろうとした松岡が浅井の横にさえ追い付けなかったことからも明らか。展開も有利になったので,記念競輪の決勝としてはわりと楽に勝てた部類のレースではなかったかと思います。
スピノザとファン・デン・エンデンは,思想面から,会ってある程度の話をすれば,意気投合できる関係であったと僕は思います。スピノザが1952年に開校したエンデンの学校で,最初から生徒としてだけでなく,助手としても活動していたのだとしたら,少なくともそれ以前に,スピノザとエンデンは知り合いで,互いに互いがどういう人物であるかを把握していたと考えておくのが妥当でしょう。
まだ20歳になる前,すなわち1952年より前にスピノザがデカルトの著作に引き入れてくれた人と出会ったとファン・ローンが書くとき,エンデンのことを想定しているかもしれないし,そうではないかもしれません。しかし1952年より前に,スピノザとエンデンの間に一定の関係があったことを可能とする根拠にはなり得ます。というのも,遅くとも1949年までにスピノザが商人仲間と出会っていたと仮定すれば,かれらを通してエンデンと知り合いになる可能性はあるからです。いい換えれば,デカルトにスピノザを引き入れた人物がエンデンではないとしても,その人物を介すれば,スピノザとエンデンが出会う可能性はあるからです。
なので僕は,ジャン・ルイの手紙が書かれたと想定される1950年の時点で,スピノザとエンデンは知り合いだった可能性も排除はしません。そして遅くとも1952年までには,ふたりが知り合いだったことは確実と判断しておきます。
したがって,もしもスピノザが開校と同時にエンデンの学校に通っていたなら,エンデンからスピノザに対して直接的な誘いがあったのだと僕は判断します。そしてその時点ですでにスピノザはラテン語に精通していたというのが僕の判断でもあります。この場合には,そのことはおそらくエンデンも知った上でのことだったと判断しなければなりません。そうでないと著しい不合理が発生してしまうからです。だとしたらエンデンは,自ら直接的にスピノザを誘った動機として,単なる生徒としてではなく,最初から助手として手伝わせる心積もりがあったのではないかと思います。こうした理由から,スピノザは長きにわたって学び続けたのではないでしょうか。
松坂洋平がスタートを取って前受け。4番手に竹内,6番手に木暮,8番手に川村の周回に。残り3周のホームから川村が上昇。前までは上がらず竹内を牽制しながらバックに。そこから松坂洋平を叩き,続いた木暮が3番手,引いた松坂洋平が5番手に。このホームの出口から竹内が発進。打鐘で川村を叩くことに成功。ホームでは川村を捨てて松岡が浅井の後ろに。バックで松岡が自力を出しましたが,まったく前にいけず,内を突いた木暮が浅井の後ろに。浅井は後ろを気にしていたものの,仕事をするような場面はなく,直線で竹内を捕えて優勝。最終コーナーで木暮のさらに内を回り,直線で竹内と浅井の中を割ろうとした小林が4分の3車輪差で2着。浅井の外に進路を取った木暮が半車輪差で3着。
優勝した三重の浅井康太選手は5月末から6月にかけての武雄記念以来の記念競輪制覇で通算14勝目。前橋記念は一昨年も優勝していて,2年ぶりですが昨年は開催がなかったので連覇。ここは力が上位で,前を回る竹内も調子がよさそうでしたから,かなり有利であろうと思われました。竹内のスピードのよさは,浅井のすぐ後ろから捲ろうとした松岡が浅井の横にさえ追い付けなかったことからも明らか。展開も有利になったので,記念競輪の決勝としてはわりと楽に勝てた部類のレースではなかったかと思います。
スピノザとファン・デン・エンデンは,思想面から,会ってある程度の話をすれば,意気投合できる関係であったと僕は思います。スピノザが1952年に開校したエンデンの学校で,最初から生徒としてだけでなく,助手としても活動していたのだとしたら,少なくともそれ以前に,スピノザとエンデンは知り合いで,互いに互いがどういう人物であるかを把握していたと考えておくのが妥当でしょう。
まだ20歳になる前,すなわち1952年より前にスピノザがデカルトの著作に引き入れてくれた人と出会ったとファン・ローンが書くとき,エンデンのことを想定しているかもしれないし,そうではないかもしれません。しかし1952年より前に,スピノザとエンデンの間に一定の関係があったことを可能とする根拠にはなり得ます。というのも,遅くとも1949年までにスピノザが商人仲間と出会っていたと仮定すれば,かれらを通してエンデンと知り合いになる可能性はあるからです。いい換えれば,デカルトにスピノザを引き入れた人物がエンデンではないとしても,その人物を介すれば,スピノザとエンデンが出会う可能性はあるからです。
なので僕は,ジャン・ルイの手紙が書かれたと想定される1950年の時点で,スピノザとエンデンは知り合いだった可能性も排除はしません。そして遅くとも1952年までには,ふたりが知り合いだったことは確実と判断しておきます。
したがって,もしもスピノザが開校と同時にエンデンの学校に通っていたなら,エンデンからスピノザに対して直接的な誘いがあったのだと僕は判断します。そしてその時点ですでにスピノザはラテン語に精通していたというのが僕の判断でもあります。この場合には,そのことはおそらくエンデンも知った上でのことだったと判断しなければなりません。そうでないと著しい不合理が発生してしまうからです。だとしたらエンデンは,自ら直接的にスピノザを誘った動機として,単なる生徒としてではなく,最初から助手として手伝わせる心積もりがあったのではないかと思います。こうした理由から,スピノザは長きにわたって学び続けたのではないでしょうか。
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