スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

ヒューリック杯清麗戦&学知の対象

2020-06-15 19:15:47 | 将棋
 12日に指された第2期清麗戦挑戦者決定戦。対戦成績は上田初美女流四段が2勝,伊藤沙恵女流三段が8勝。これはNHK杯の予選を含んだものです。
 振駒で伊藤三段の先手。伊藤三段は対抗形を嫌う傾向があり,戦型は上田四段次第ではないかと思っていましたが,上田四段が居飛車を選択したため相居飛車戦になりました。
                                     
 後手が7筋の歩を交換した局面。すでに後手の模様がよさそうに思えます。先手は角を何とかする必要があるので,ここで☗6五歩☖同歩☗4五歩と動いていきましたが,もしかしたらやりすぎであったかもしれません。普通に☗7六歩と我慢して息長く指すのも一案ではあったでしょう。後手は☖7四飛と引き,先手はそこで☗7六歩と打ちました。
 ここから☖7三桂☗4八飛☖8六歩☗同歩☖8五歩☗4四歩☖8六歩と,どちらも引かない攻め合いに。ここはさすがに☗8八歩と受けざるを得ませんでした。
 次の☖3三角は僕には意外な一手だったのですが,2二で角の交換になるより3三でなった方がよいという判断だったのでしょう。先手が☗3六歩と突いたところで☖4三歩と打ちました。
 先手はここで一旦☗6四歩☖同飛としてから☗4三歩成としたのですが,これはおそらく判断ミスで,単に☗4三歩成が優りました。というのも☖4三同金☗3三角成☖同桂☗8二角と打ち込んだとき,☖6六歩☗同金☖同飛☗同銀☖3九角が成立することになってしまったからです。
                                     
 後手玉は飛車に強い形をしていますから,ここでははっきりと後手が優勢でしょう。
 上田四段が勝って挑戦者に。清麗戦の五番勝負には初出場。第一局は来月4日です。

 僕の見解opinioでは,円の定義Definitioによって概念される円の観念ideaは,円の十全な観念idea adaequataであり真の観念idea veraです。したがってそれは実在的有entia realiaです。よって,スピノザは,少なくとも円が数学の対象となる場合は,実在的有がその対象になっていると考えていると僕は思います。ただこれは僕の見解であって,このことに固執するものではありません。
 もしも僕の見解が誤りで,これは円の真の観念ではないとするなら,すでにいったようにそれは理性の有entia rationisとしての円であると解するべきでしょう。理性の有は実在的有ではありませんから,その場合はスピノザは実在的有ではないものが数学の対象となることを認めていることになります。円が数学の対象にならないということはあり得ないので,これは理性の有が数学という学知scientiaの対象となることを認めるというのと同じです。したがってこの場合は,空もまた理性の有としてみられる限り,スピノザはそれを数学という学知の対象となり得ることを認めるでしょう。というか,これを認めないという理由がないように思えます。したがってバディウAlain Badiouがいう公理論的集合論,あるいはカントールGeorg Ferdinand Ludwig Philipp Cantorの数学を,学知としての数学と認めるといわなければならないでしょう。
 一方,僕の見解が正しいとした場合でも,だからスピノザは公理論的集合論やカントールの数学を,学知として認めないという結論には直結しません。というのも,円なり球なりが実在的有であって,それが数学という学知の対象となっているのだとしても,だからといって一般に実在的有だけが数学の対象になるとスピノザは考えているということはできないからです。ですからこの場合にも,スピノザは公理論的集合論なりカントールの数学なりを,学知としての数学として認める可能性は残されていることになります。少なくともスピノザは,現実的に存在するものという意味でいうなら,それが数学という学知の対象ではない,そうしたものを学知としての数学は対象としなくても構わないとは考えているわけなので,空のように,単に現実的に存在しないだけでなく,神Deusの属性attributumに包容されている限りでも存在しないものも,数学の対象となり得るという可能性はあるでしょう。
コメント
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