スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

女流王位戦&採用する解釈

2020-06-10 19:13:21 | 将棋
 5日に指された第31期女流王位戦五番勝負第一局。対戦成績は里見香奈女流王位が15勝,加藤桃子女流三段が6勝。
 振駒で里見王位の先手となり5筋位取り中飛車。後手の加藤三段は居飛車穴熊に。後手の8筋突き捨てで得た歩を生かして先手がすぐに端攻めに出る展開。さすがに無理な攻めなのではないかと思ったのですが,そうでもありませんでした。
                                        
 先手が歩を垂らした局面。後手はこれを放置して攻め合いにいきました。その判断は間違っていなかったのですが,手順に瑕疵があったようです。
 まず☖4六歩と打ち☗3七金と寄らせます。これは先手玉を狭くするので有効な一手。問題は次に☖3三桂と跳ねた手。これも後手玉を広くしているのですが,あっさり☗同桂成☖同銀左と交換されて☗2六桂と香取りに打たれました。
                                        
 これで香車が助からない形。先手玉を狭くした後手としては,端から逆襲したいのですが,香車を取られるとそれが難しくなります。なので桂馬は交換せず,すぐに☖1六歩から攻め合いにいくべきだったということになるでしょう。第2図以下は後手が盛り返すことができなかったように思います。
 里見王位が先勝。第二局は9日に指されました。

 スピノザが示す円の定義Definitioによって人間の知性intellectusが認識するcognoscere円が,円の真の観念idea veraであるとする場合に注意しておかなければならないのは次の点になります。
 何度もいっているように,この円の定義に示される形で,神Deusの延長の属性Extensionis attributumの中に包容される限りでの円が発生するとは限りません。ここではそのようには発生しない場合のことを検討しています。したがって,この円の真の観念は,円の発生についてはそれを正確に表現しているわけではないことになります。ところが第一部公理六は,真の観念が観念されたものideatumと一致するといっています。したがって,もしある観念がその観念の対象ideatumの発生についてはそれを正しく表現していないとしても,その観念は観念の対象と一致している場合があり得るということを肯定しなければなりません。いい換えれば第一部公理六で一致するといわれているときの一致は,発生の一致を含まないと解する必要があります。もしも第二部定理七に照合させる形で第一部公理六を解釈すると,それは発生を正しく表現するexprimereことを含まないということはできません。つまり,第一部公理六を理解するために,第二部定理七を援用することはできないということになるのです。
 円の定義によって認識される円の観念が,真の観念であるということもできるし,それは円の真の観念ではなく,理性の有entia rationisにすぎないということもできることは分かりました。そしてどちらの解釈にも正当性があり,また弱点もあるということも分かりました。僕はどちらの解釈も論理的に正当性を有すると思いますので,どちらの解釈を採用するべきであるのかということについては結論は出しません。どのように解するのかということは各々の解釈者の判断に委ねます。ただ僕の見解opinioとその理由についてはここで示しておきます。
 まず結論からいうと,僕は円の定義によって認識されるのは円の真の観念であるという解釈を採用します。これは,スピノザの哲学において,ある事柄が真理veritasであるということを決定する要素は何であるのかということと関連します。これも何度かいったことがありますが,僕は事物の真理というのは認識されるものであるという立場なのです。
コメント
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