スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

ボイルの介在&バディウとスピノザの一致

2020-05-22 19:09:39 | 哲学
 スピノザ―ナ15号の平尾の論文の中で指摘されている,スピノザとオルデンブルクとの文通には,ロバート・ボイルRobert Boyleが介在していた,化学の論争だけでなく,哲学や神学が話題になっているときにもボイルが介在していたということは,確定的なこととしていえるわけではありません。ただ,僕はその可能性は否定できないと思いますので,僕がそう思う理由を説明しておきます。
                                        
 まず第一に,ボイルは化学者であったわけですが,だからといって哲学や神学に造詣がなかったとはいえません。むしろこの時代の化学者であれば,そうした事柄に対しても関心を払っていたとみる方が普通です。たとえばフッデJohann Huddeは政治家でありまた光学者であったわけですが,スピノザの哲学に対して有益ないくつかの質問を書簡を通してしています。また,ホイヘンスChristiaan Huygensも科学者でしょうが,『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』を読み,それを高く評価しています。逆にデカルトRené DescartesやライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizは哲学者といえますが,数学でも業績を残しています。つまりこの時代はスペシャリストよりはゼネラリストが多かったわけで,ロバート・ボイルもそうであった可能性が高いでしょう。ですからボイルが神学や哲学についてスピノザと議論をしても,不思議であるとはいえません。
 スピノザとオルデンブルクHeinrich Ordenburgとの文通は一時的に中断されています。再開の契機はチルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausの仲介でした。書簡六十三シュラーGeorg Hermann Schullerの報告によれば,そのときにチルンハウスはオルデンブルクとだけ面会したのではなく,ボイルとも面会しています。そしてふたりのスピノザに対する誤解を取り除いたとあります。それでふたりは『神学・政治論』を高く評価するようになったとされていて,高く評価したのが事実とは思えませんが,少なくともボイルがそれを読んでいたことは確かでしょう。そして文通の再開にあたって,ただオルデンブルクの誤解を解くだけでなく,ボイルの誤解も解く必要があったのも間違いありません。この事実は,スピノザとオルデンブルクとの文通にボイルが常に介在していたことを裏付ける強力な理由になり得るでしょう。

 バディウAlain Badiouが数学は公理論でなければならないということを主張するとき,その公理論を幾何学的方法と同一のものとして把握していいのどうかは分かりません。ただ少なくともバディウが公理論でなければならないといっている数学を,幾何学的方法として記述することができない数学と考えることはできないでしょう。なので,それが幾何学的方法であるか否かよりも,それが公理論でなければならないとバディウが主張していることの方を,重視していいと僕は思います。
 上野がいうには,ホッブズThomas Hobbesは論理すなわち計算であるといっていて,計算することが可能であるということが論理学であると認識していました。そのために命題計算をすることが可能な基本単位というものを探索していたわけです。ライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizにも似たようなことがあるといっていて,両者の共通性として上野は分析をあげていたわけです。そしてこの方法というのは公理論的方法であるとはいえません。ですから,バディウが数学は公理論でなければならないといっていることを真に受けるなら,バディウはホッブズやライプニッツの方法に関しては数学であるとは認められないといわなければなりません。実際にはスピノザが分析的方法による数学も数学であると認めるのと同じように,バディウもそれを数学であると認めるような気は僕はします。ただバディウの主張そのものについては僕にはよく分からないので,スピノザのように認めると断定的な結論を出すことは控えておきます。
 これでみれば分かるように,単に数学,バディウがいうような数学は存在論であるというテーゼを無視した場合の数学だけを中心に据えて考えるのであれば,バディウはホッブズやライプニッツよりは,スピノザと一致するのです。それが幾何学的方法であるかどうかということを別とすれば,数学が公理論的なものであるという認識cognitioではバディウはスピノザと一致しているのであって,ライプニッツやホッブズとは見解opinioを異にしていることになるからです。そしてこのことは,当然ながらスピノザの側からみた場合にも成立します。スピノザの考え方に近いのは,ホッブズやライプニッツよりはバディウなのです。
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