クラッシュギャルズをプロデュースしていたのは,長与千種とフロントのロッシー・小川であったとライオネス・飛鳥は語っています。小川はプロレスラーではない人物の中ではひとりだけ,『1993年の女子プロレス』のインタビューを受けています。
小川は1978年に全日本女子プロレスに入社していますので,ビューティペアの時代から全日本女子プロレスのフロントの一員でした。そしてビューティペア以前と以後では大きな変化があったといっています。プロレスそのものに変化があったわけではないけれど,主流が日本人対決になった点がそれです。男子のプロレスで日本人対決が主流になったのは,長州力が維新軍を結成してからです。もちろんそれまでも日本人対決はありましたが,それは散発的なものであり,主流とはいえません。日本人対決を主流としたという点では,全日本女子プロレスは日本のプロレス業界全体を先取りしていたといえるのかもしれません。
小川が全日本女子プロレスで最も仕事を任されたのは,対抗戦の時代だったそうです。『1993年の女子プロレス』とは,女子プロレスが対抗戦で最も盛り上がった時代のことを意味します。その時代は全日本女子プロレスのマッチメークのほとんどは小川が決めていたということですから,その盛り上がりに一役買っていたことは間違いありませんし,小川が存在していなければあの盛り上がりはなかったのかもしれません。
この対抗戦の時代に,他団体で評価していた選手として3人の名前をあげています。LLPWのイーグル・沢井と紅夜叉,そしてJWPの福岡晶です。ただし福岡は原石として評価していたといっていますので、将来のスターとして評価したという意味だと思われます。沢井とか紅夜叉というのは,失礼ないい方かもしれませんが,団体のトップになるというタイプの選手というよりは,脇役としていい仕事をするタイプの選手であったように僕には思えます。それだけに小川がこのふたりを評価しているのは意外でした。
『主体の論理・概念の倫理』の三者鼎談の中で,上野修から以下のような発言がありました。ただしこれはバディウAlain Badiouに対する言及とは無関係の箇所で,実在論の可能性について議論している箇所です。
スピノザは第一部定理一三系において,物体的実体substantia corporeaは分割され得ないということを主張しています。ここではこの考察を分かりやすくするため,スピノザは分割することができない量というものが存在すると主張したと解しておきます。物体は何らかの量によって規定することが可能な筈ですから,こうした解釈は誤っているということにはならないでしょう。いい換えればスピノザは,量というものを絶対的なものとしてみていたということになります。僕たちは量というのを知覚するpercipere場合には,必ず有限なfinitumものとして知覚することになるので,これは上野のことばを借りていえば,スピノザは量を形而上学的なものとして把握していたということになります。スピノザが数学ということで相手にしようとしているのは,このような意味での量であると考えても差し支えありません。
このように量を把握することは,実在論としてある特殊な意味を有することになります。もし何かあるものが実在しているということを主張しようとするならば,それをカテゴライズするために何らかの一般的概念あるいは普遍的概念notiones universalesが必要とされます。たとえば人間が実在すると主張するならば人間という普遍概念が必要ですし,馬が実在するといいたいのであれば馬という一般的概念が必要とされるのですから,このことはそれ自体で明白であるといっていいでしょう。ところがスピノザは,初めに形而上学的な絶対的な量というのを規定することによって,そうした普遍的概念あるいは一般的概念を必要とせずに,実在論を展開することができます。いい換えれば人間であろうと馬であろうと,もちろんほかに実在するどんなものであろうと,絶対的な量を直接的な原因causaとする因果論によって,個別に量化してしまうのです。たとえば運動motusと静止quiesの割合ratioとしてスピノザがある個別の物体を示そうとするとき,そこで実際に行われているのはそのような作業であると解釈することができるでしょう。
小川は1978年に全日本女子プロレスに入社していますので,ビューティペアの時代から全日本女子プロレスのフロントの一員でした。そしてビューティペア以前と以後では大きな変化があったといっています。プロレスそのものに変化があったわけではないけれど,主流が日本人対決になった点がそれです。男子のプロレスで日本人対決が主流になったのは,長州力が維新軍を結成してからです。もちろんそれまでも日本人対決はありましたが,それは散発的なものであり,主流とはいえません。日本人対決を主流としたという点では,全日本女子プロレスは日本のプロレス業界全体を先取りしていたといえるのかもしれません。
小川が全日本女子プロレスで最も仕事を任されたのは,対抗戦の時代だったそうです。『1993年の女子プロレス』とは,女子プロレスが対抗戦で最も盛り上がった時代のことを意味します。その時代は全日本女子プロレスのマッチメークのほとんどは小川が決めていたということですから,その盛り上がりに一役買っていたことは間違いありませんし,小川が存在していなければあの盛り上がりはなかったのかもしれません。
この対抗戦の時代に,他団体で評価していた選手として3人の名前をあげています。LLPWのイーグル・沢井と紅夜叉,そしてJWPの福岡晶です。ただし福岡は原石として評価していたといっていますので、将来のスターとして評価したという意味だと思われます。沢井とか紅夜叉というのは,失礼ないい方かもしれませんが,団体のトップになるというタイプの選手というよりは,脇役としていい仕事をするタイプの選手であったように僕には思えます。それだけに小川がこのふたりを評価しているのは意外でした。
『主体の論理・概念の倫理』の三者鼎談の中で,上野修から以下のような発言がありました。ただしこれはバディウAlain Badiouに対する言及とは無関係の箇所で,実在論の可能性について議論している箇所です。
スピノザは第一部定理一三系において,物体的実体substantia corporeaは分割され得ないということを主張しています。ここではこの考察を分かりやすくするため,スピノザは分割することができない量というものが存在すると主張したと解しておきます。物体は何らかの量によって規定することが可能な筈ですから,こうした解釈は誤っているということにはならないでしょう。いい換えればスピノザは,量というものを絶対的なものとしてみていたということになります。僕たちは量というのを知覚するpercipere場合には,必ず有限なfinitumものとして知覚することになるので,これは上野のことばを借りていえば,スピノザは量を形而上学的なものとして把握していたということになります。スピノザが数学ということで相手にしようとしているのは,このような意味での量であると考えても差し支えありません。
このように量を把握することは,実在論としてある特殊な意味を有することになります。もし何かあるものが実在しているということを主張しようとするならば,それをカテゴライズするために何らかの一般的概念あるいは普遍的概念notiones universalesが必要とされます。たとえば人間が実在すると主張するならば人間という普遍概念が必要ですし,馬が実在するといいたいのであれば馬という一般的概念が必要とされるのですから,このことはそれ自体で明白であるといっていいでしょう。ところがスピノザは,初めに形而上学的な絶対的な量というのを規定することによって,そうした普遍的概念あるいは一般的概念を必要とせずに,実在論を展開することができます。いい換えれば人間であろうと馬であろうと,もちろんほかに実在するどんなものであろうと,絶対的な量を直接的な原因causaとする因果論によって,個別に量化してしまうのです。たとえば運動motusと静止quiesの割合ratioとしてスピノザがある個別の物体を示そうとするとき,そこで実際に行われているのはそのような作業であると解釈することができるでしょう。