③で,ギターをやめた,つまりプロのミュージシャンになることを諦めたと伝えたおまえと,それを伝えられた歌い手との間には沈黙が流れます。とくに歌い手の方にとって,それは衝撃的な告白だったと思われるのです。というのも,お前と歌い手は,以前は同じように音楽に夢中になっていました。①でいったように,歌い手の方は現在は別の仕事をしています。それは,もしかしたらお前と同じように夢を追っていたのを諦めた末の結果だったかもしれません。そしてもしもそうであったなら,歌い手は自分の夢をおまえに託していたかもしれないからです。
そして歌い手はお前の部屋を見回します。
部屋の隅には 黒い革靴がひとつ
くたびれて お先にと休んでる
お湯のやかんが わめきたてるのを ああと気がついて
おまえは 笑ったような 顔になる
靴は当然おまえの靴です。くたびれて,という表現から,もうずいぶんと使われていること,もしかしたらさっきまで使われていたかもしれないことが分かります。そしてそのとき,②で沸かし始めたお湯が沸き,やかんから音が鳴りました。おそらくおまえは火を消しにいったことでしょう。歌い手はさらに部屋を見渡します。
なにげなく タンスに たてかけた ギターを
あたしはふと見つめて 思わず思わず 目をそむける
あの頃の おまえのギターは いつでも
こんなに磨いては なかったよね
この楽曲の中で僕が最も好きな部分がここです。昔は磨くことも忘れてただ弾くばかりだったギターが,今では大切に磨かれてタンスに立てかけてあるのです。おまえがギターをやめたときの心境が,あるいはそれを歌い手に告白したきりガス台の火を見つめ続けたおまえの心境が,ここには凝縮されているように感じられます。
近藤はこのようにバディウAlain Badiouの主張の概略を示した上で,現時点でその唯一の正当な理論的なライバルはスピノザの『エチカ』であるといっています。本当に『エチカ』がバディウの理論構成に対する唯一のライバルであると断定してよいのかは僕には分かりません。ただ,バディウに対して『エチカ』が論理的なライバルであるという点だけをここでは重視します。そしてバディウは『エチカ』が自身に対する理論的なライバルであることを自覚していたから,いくつかの著作でスピノザの存在論を批判しているのだと近藤はつけ加えています。バディウがどのようにスピノザを批判しているのかは分かりませんが,批判しているということ自体は確かなことでしょう。そしてバディウがスピノザの存在論を批判するとき,その中心となっているのは幾何学的方法であるとされています。
ここまでの事情を綜合した上で,『主体の論理・概念の倫理』を考察したときの補足を開始します。
まず,バディウは集合論を数学だと思っているので,スピノザの公理論は分からないというとき,バディウは公理論を数学とは認めないという意味ではなかったことになります。これはバディウが数学は存在論であるというときの数学が,公理論的集合論でなければならないといっていることから明白です。当時の考察においては僕はあたかも公理論と集合論が数学的論理として対立するものであるという解釈をして,それがなぜ対立するのかを謎と感じていたのですが,実際にはそういう対立はなかったことになります。いい換えれば,集合論を公理論的に示すことは可能であると解することができるということになります。
では鼎談の中でバディウは公理論は分からないと近藤が言ったとき,その主旨がどこにあったのかといえば,それはスピノザの幾何学的方法を理解することができなかったという点にあったのでしょう。もう少し正確にいうと,それを理解することができなかったというよりは,それに同意することができなかったと解しておく方がいいかもしれません。そしてなぜ幾何学的方法に同意できなかったのかといえば,数学すなわち存在論という観点に理由があったのです。
そして歌い手はお前の部屋を見回します。
部屋の隅には 黒い革靴がひとつ
くたびれて お先にと休んでる
お湯のやかんが わめきたてるのを ああと気がついて
おまえは 笑ったような 顔になる
靴は当然おまえの靴です。くたびれて,という表現から,もうずいぶんと使われていること,もしかしたらさっきまで使われていたかもしれないことが分かります。そしてそのとき,②で沸かし始めたお湯が沸き,やかんから音が鳴りました。おそらくおまえは火を消しにいったことでしょう。歌い手はさらに部屋を見渡します。
なにげなく タンスに たてかけた ギターを
あたしはふと見つめて 思わず思わず 目をそむける
あの頃の おまえのギターは いつでも
こんなに磨いては なかったよね
この楽曲の中で僕が最も好きな部分がここです。昔は磨くことも忘れてただ弾くばかりだったギターが,今では大切に磨かれてタンスに立てかけてあるのです。おまえがギターをやめたときの心境が,あるいはそれを歌い手に告白したきりガス台の火を見つめ続けたおまえの心境が,ここには凝縮されているように感じられます。
近藤はこのようにバディウAlain Badiouの主張の概略を示した上で,現時点でその唯一の正当な理論的なライバルはスピノザの『エチカ』であるといっています。本当に『エチカ』がバディウの理論構成に対する唯一のライバルであると断定してよいのかは僕には分かりません。ただ,バディウに対して『エチカ』が論理的なライバルであるという点だけをここでは重視します。そしてバディウは『エチカ』が自身に対する理論的なライバルであることを自覚していたから,いくつかの著作でスピノザの存在論を批判しているのだと近藤はつけ加えています。バディウがどのようにスピノザを批判しているのかは分かりませんが,批判しているということ自体は確かなことでしょう。そしてバディウがスピノザの存在論を批判するとき,その中心となっているのは幾何学的方法であるとされています。
ここまでの事情を綜合した上で,『主体の論理・概念の倫理』を考察したときの補足を開始します。
まず,バディウは集合論を数学だと思っているので,スピノザの公理論は分からないというとき,バディウは公理論を数学とは認めないという意味ではなかったことになります。これはバディウが数学は存在論であるというときの数学が,公理論的集合論でなければならないといっていることから明白です。当時の考察においては僕はあたかも公理論と集合論が数学的論理として対立するものであるという解釈をして,それがなぜ対立するのかを謎と感じていたのですが,実際にはそういう対立はなかったことになります。いい換えれば,集合論を公理論的に示すことは可能であると解することができるということになります。
では鼎談の中でバディウは公理論は分からないと近藤が言ったとき,その主旨がどこにあったのかといえば,それはスピノザの幾何学的方法を理解することができなかったという点にあったのでしょう。もう少し正確にいうと,それを理解することができなかったというよりは,それに同意することができなかったと解しておく方がいいかもしれません。そしてなぜ幾何学的方法に同意できなかったのかといえば,数学すなわち存在論という観点に理由があったのです。