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スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

秩序と連結の同一性&空虚

2019-03-29 19:33:57 | 哲学
 第二部定理七備考におけるスピノザの主張は,大胆な主張であると僕はいいました。これは人間にとっては確かめる術がないとスピノザ自身が認めるであろう主張だからです。ですが,なぜスピノザがこのようなことをいい得たのかということは考えておかなくてはなりません。そこでこのことを成立させる論理構成はいかなるものになるのかを考察してみます。
                                    
 第二部定理七系は,神の本性Dei naturaから形相的にformaliter生じるすべてのことが,神の観念Dei ideaから同一の秩序と同一の連結idem ordo, eademque connexioで客観的にobjective生じるといっています。第一部定理一五により,あるものはすべて神のうちにあるQuicquid est, in Deo estのですから,自然のうちに存在する形相的有esse formaleの十全な観念idea adaequataが,神の観念からは生じることになります。第二部定理五により,観念の形相的有の原因causaは思惟の属性Cogitationis attributumなので,これは思惟の属性を原因として,すべての形相的有の観念が発生するといっているのと同じです。
 次に,第一部定義六により,神の本性essentiamを構成する属性は無限に多くinfinitisあります。それら無限に多くの属性について,第二部定理七系およびここまでに僕がいったことが妥当しなければなりません。つまり,あらゆる物体corpusの十全な観念が神の思惟の属性から発生するというだけでは不十分なのであり,あらゆる属性の様態modusの観念が思惟の属性を原因として生じなければならないのです。
 このとき,思惟の属性の連結と秩序というのは決まった連結と秩序です。これはそれ自体で明らかでしょう。しかるに第二部定理七により,観念の連結と秩序は観念されたものideatumの連結と秩序に同一です。よって,観念の連結と秩序が同一であるなら,何であれ観念されたものの秩序と連結は同一でなければなりません。いい換えれば,観念されたものがどの属性の様態であったとしても,同一の連結と秩序でなければなりません。したがって思惟の属性の連結と秩序が決まった連結と秩序である限り,観念対象となるすべての属性の秩序と連結が,思惟の属性の秩序と連結と同一である,要するにすべての属性において連結と秩序は同一になるのです。
 僕には第二部定理七備考を正当化する論理構成は,これ以外には考えられません。

 数学も含めた自然科学の背後に方法論と形而上学が存在していて,哲学がそれを正当化したりしなかったりするということで,僕がどのようなことをいいたかったかはこれでご理解いただけたものと思います。そこで論考の対象を集合論といわれている数学の一理論に戻しましょう。僕はこの理論をスピノザの哲学は正当化しない,むしろ積極的に学問として不当なものであるとみなすであろうと考えます。
 その理由の第一は,上野によれば集合論が空虚の存在を認めるという点にあります。これはスピノザの哲学にあっては許容できない考え方です。このことはかつてゼノンの逆説について考察したときにいったことと関係します。単純にいってしまえば,スピノザは「アトム」すなわちそれ以上は細分化することができない個物res singularisというものを認めません。この「アトム」を認めないということと,空虚を存在として認めないということは,実は同じことです。なぜなら,「アトム」を認めるなら空虚が存在することになり,スピノザが「アトム」を認めないのは,空虚を実在的なものとして認めない,いい換えれば空虚は有esseであるか無であるかといえば無であるということから発しているからです。たとえば旧版の110ページの終りの方,新版では132ページの最後に掲載されている第二部自然学①公理一は,運動しているものは静止していないということを明らかに意味します。運動しているか静止しているかのどちらかであるということは,必ず運動しているか静止しているか,いい換えれば運動していなければ静止しているし,静止していなければ運動しているということを意味していると同時に,運動しつつ静止しているということはないということも意味するからです。
 よってスピノザの哲学における運動motusは,静止状態の集積ではありません。運動が静止quiesの集積だとすると,ある静止とその次の静止との間に必ず空虚が発生してしまうからです。この空虚を非実在的であるとするためには,運動を静止の集積とみなさないことが必要なのです。だから,スピノザの哲学は集合論を正当化しません。逆にいえば正当化するのは,運動を静止の集積とみなす哲学なのです。
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